• 検索結果がありません。

ジヤン・ラシーヌの悲劇の動きについて

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ジヤン・ラシーヌの悲劇の動きについて"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

奈良教育大学学術リポジトリNEAR

ジヤン・ラシーヌの悲劇の動きについて

著者 田中 敬次郎

雑誌名 奈良学芸大学紀要

巻 3

号 3

ページ 33‑44

発行年 1954‑03‑25

URL http://hdl.handle.net/10105/5095

(2)

ジャン・ラシーヌの悲劇の動きについて

田 中 敬 次 郎

ラシーヌは「ベレニス」の序で「さらに私の気にいつたことは、私がこの題材が極めて単純であるの を見出したことである。私は久しい以前から、古代人にかくも好まれた単純な動きで悲劇をつくりうる かどうかを試みてみたいとおもっていた。之こそ古代人がわれわれに残した、もっとも根本的な教訓の 一つであり、オラスが『汝のつくるものはつねに単純にして−であれ』といっているからである」と述 べている。しかし、この単純さはなにも「べレニス」にはじまったことではない。かれの作品の動きは すべて単純であり、その扱う題材は何よりも億す、単純な動きによってかれの気にいったのである。と ころで、かれの芸術の全部を象ちようしているとさえおもわれるこの単純さは何を意味するのであろう か。

催す、この「動きの単純さ」は一つの作品に二つ以上の動きがないことに存する。これはフランス古 典悲劇が「動きの単一」を守らねばならぬことからの当然の帰結ともいいうるのであるが、アリストテ レースの詩学にみられるこの法則について、フランス人は一つの悲劇がわれわれの心に起す興味が単一 である時にのみ、いいかえれば、悲劇の動きがいかに進展し、いかに解放されるか、それによって起さ れる好奇心が単一である時にのみ、その悲劇が「動きの単一」の法則を守っていると考えた。悲劇に 二つの、臭った動きがあれば一つの動きの柊で一つの好奇心がみたされ、いま一つの動きによって別 の、新しい好奇心がひき患こされる。したがって、二つの好奇心が生れ、フランス人からみては「動き の単一」は守られていないことになるのである。そこで一つの悲劇にこっ以上の、ちがった動きを許さ ないのであって、ラシーヌがロトルーの「アンティゴーヌ」を許して「テバイード」の序で「この題材は かつて『アンティゴーヌ』の名でロトルーがとりあつかった。しかしかれは第二幕の初で二人の兄弟を死 なせている。残りはいはば全然、別な悲劇の発端となり、われわれは仝然あたらしい興味の中に入る。

かれは一つの作品に二つの、ちがった動きを結びつけている。その一つはウーリピードの『フ二二シエ ンヌ』の材となり、他はソフォクルの「アンティゴーヌ」の材となっている。和はこの動きの重複がかれ の作品を害っているのを知った」と述べているのもこうした立場にあるからなのである。ラシーヌはそ の各々が発端と結末とをもつ、二つ以上の動きを一つの作品の中にあみこむようなことはしないで、純 粋に一つアノ好奇心をわれわれの心に生み、満たす、完全に一つの動きを一つの作品にえがいている。

この点で、かれの悲劇は単一の法則に縛られないで、人生の全貌を、一人物、一時代の歴史の全体 を、即ち、生きた現実をその無限の豊さ、複雑さ、変化において把え、描くのが目的であり、その事 件、その感情が広く歴史の全貌をうつLだし、深く人生をえがきだしさえすれば、よしそれが劇の動き と無関係であって、それに何の作用を与えぬものであっても之を挿入し、そこでは一つの動きがはじま り、進展するが、中断され、叉、別の動きがはじまり、進展し、中癖されるというように、多くの、ち がった動きがあるrl)シェクスピアの悲劇は勿論のこと、かれの範となり、単純といわれるギリシア悲劇 にもまして単純となってくるのである。

ギリシア悲劇にあってその詩碑は美であり、それは線の均斉であり、全体の明朗であった。したがっ て複雑よりも単純であった。その悲劇の動きも単一であり、単純である場合が多い。しかし他方、それ によってかれらの美への欲求がみたされれば、かれらはフランス人のように好奇心をみたすために劇を みるのではないので、よし、それを挿入することによってその作品がわれわれの心に起す好奇心が一つ でなくなり、「動きの単一」が破られようとも意に介しなかった。その銃述が均斉がとれ、崇高で、た

dJ−I−I

(3)

ぐいない美しさや、壮麗雄太なオメーロス風の比喩にみちているとか、その感情がたかまって狂乱、愁 訴、坤吟、希望の叫び、特利の歌、喪の嘆きとなっても佃、その表現が語調と美しさにみちていると かいったように、美しく事実が述べられ、美しく感情がえがかれてさえあれば、之を挿入したのであっ た(2)。

しかし、ラシーヌは、それがいかに人生を深くえがき、歴史をひろくのべようと、叉、いかに叙事的 な、抒情的な美しさにみちていようと、それを挿入することによってわれわれの興味がその方にひきつ けられ、われわれの心に別鯨の好奇心がよび起されて、動きが重複し、「動きの単一」が破られるお与れ のあるものは額平、之を除外した。単一の動きをとり、その中に含まれているいくつかの力を示し、こ れらを互いに作用、反作用させ、その打撃と反撃とを結びつけ、原因からそれにふさわしい結果へと、

よく結ばれた前提と結論とをみちびを、最初の与件に含まれ、結末とよばれる、最後の結果へと到垂さ せたのである。即ち、発端にその原因を、結末にその結果をもたないものは何も入れないで、発端を結 末に連鎖のように結びつけたのであった。事件にしても感情にしても動きに無蘭係なものは結末にその 影をようをもたない、いはば結論のない前提にすぎないだけにこれを除いて、純粋に一一つの好奇心をひ き患こす、完全に単一な動きをえがいたのであった。かくしてかれの悲劇はシ1クスピアの悲劇は勿論 のこと、ギリシア悲劇にもまして単純な動きをもつようになったのである。

だがここでいま一一人のフランス古典悲劇作家コルネイユを考えねばならない♪かれによれば己つの悲 劇にはただ一つの動きしかなければならぬのではなく、作家が主題としてえらぶ動きは初めと中と終り とを持ち、この三つの部分は互いに連関する。さらにこの三つの部分の各々も初め、中、終りを持ちう る。叉、悲劇は一一つの完全な動きを持たねばならないが\この完全な動きはいくつかの不完全な動きを 持っていて、これらが悲劇をみる人を快い不安にあとしいれ、最後にそれを落つかせるようにするもの でなければならぬとした。つまり、いくつかの動きを持つのであるが、それらが同一の目的に向い、党 にある動きから次にくる動きが自然に、真実らしくみちびきださるれば「動きの単一」は守られていると

した。これは「動きの単一」即ち好奇心か単一→とみなしたのであり、正しい意見であった。よし動きの 教は多くともその間に厳密な因果習係があるのであるから、好奇心は適統して中断されることがない。

一つの好奇心しかわれわれの心にはひき患こされす、その作品には事実上一つの動きしかないことにな るからである。

この点ではコルネイユの悲劇も単一の動きをもっていて、ラシーヌの悲劇がよ▼り単純であるとはいい えないのであるが、之とちがった点でコルネイユの悲劇では「動きの単一」が破られ、複雑となってい る場合がある。

国権の中央集中が完成しつつあったコルネイユの時代には政治論議が一櫨の流行であった。コルネイ ユもその悲劇に多くの政治論議をとりいれた。又、他方、かれは悲劇には人間の偉大さ、雄々しさを示 して、人の心をゆり動かす、異常な、有名な、誠実な題材をえらばねぽならぬとした。これが原因し て、かれは野心とか、按讐とかいった、一国の興廃に関した、政治とつながりをもった感情をえがい た。

しかし、時代、国、地位、階級の別をとわす、万人に楽しさと快さとを与え、したがって当然かれの 世代にも好まれた恋愛感情はどうしたのであろうか。コルネイユは人間のもつ偉大さ、雄々しさを悲劇 には描かねばならぬとしたから、恋愛のような悶乱と弱さにみちた感情は飾りとはなりえても主体とは

ゾエモノ

なりえないとした。これを副物あつかいにしたのであった。しかしこれはかれの大きな誤であった。パ スカルが「野心は恋愛を伴いうるが、恋愛は瞬時にして主位を占める。恋愛は伴侶をゆるさない、一人 であろうとする暴君であり、他のすべての感情は屈して恋愛に服しなければならぬからである」といっ ているように、劇において恋愛を描けば、之を主体とするか、さもなければ除外してしまわなければな

34

(4)

らぬのである。決して副物の地位におくべきではないのである。のみならず、恋愛のもつ魅力は極めて 大きい。その名を耳にするや、われわれの注意は全部その方にひきつけられてしまう。それ故に、コル ネイユのように政冶の下に恋愛をおく時は、われわれの好奇心は或は政治に、或は恋愛にひきつけら れ、二つの好奇心がひきおこされ、動きが二重となってくるのである。

が、恋愛情熱の詩人とかれにつけられた名の示㌻ように、その作品に患いて勿論、野心とかその他の 感常を措きもするが、恋愛を第一一位において描いたラシーヌの悲劇にあってはこの意嘆による動きの重 複もみられない。かれの悲劇はただ一一つ、恋愛情熱への好奇心だけをわれわれの心にひき患こし、その 動きは純粋に単一一である。

しかし、ラシーヌの悲劇か動きの単純さの意味はこれだけではない。

元来、フランス民族は理性、それも実践的理性、即ち、良識の民族である。その民族精神がもっとも よくあらわれた古典的酎己である十七世紀が理性、良識の世紀であったことには何の不思議もない。こ の世紀に生れ、良識から遠ざかってはいけないことを力説し、理性にかなったことだけが自然であり、

兵であるといい、もっぱら自然の研究に心をいたすべきであり、何物も虞より美しいものはなく、兵の みが愛らしいとしたポアローを友にもったラシーヌがその悲劇において、理性を、良識を、自然を、兵 実をたつとんだことは当然であった。さればこそ「悲劇に患いて心をうつものは真実らしさを患いてな い」と云っているのであって、この兵実らしさの名において、かれが貴初の作品から食後の作品まで守 ったのが動きの単純さの第二の条件である、事件の少いことである。周知のように、フランス古典悲刺 の時は一一日のひろがりに,場所は一一ヶ所に限られている。この一一日のうちに、一一つの処に数過を要しても 起りそうにない程の、多くの処の要る、おびただしい事件の起ることが果して兵実らしいことであろう か。当代の人々はラシーヌについて「かれの悲釦には事件がない。コルネイユの悲刺の一一場にはラシーヌ の一一一つの作品によりも多くの事件がある」といい・叉・ラシ「ヌ自身が告白しているように・かれに与 えられたもっとも ̄大きな非雑はかれの海相が余りにも単純で笑がないことであったJ Lかし、このよう な非戒を滞足させるためには一日のうちに、一つの処に起り得る、極めて少い事件の代りに、一一ケ月か かつてしか起りえぬほどの、多くの処のいる、おびただしい事件で悲劇をみたさなければならない。か くては、何ものにもまして尊ばなければならぬ良識にそむき、自然らしさから遠ざかって、真実らしさ を失わねばならない。これはラシーヌが何を犠牲にしてもなしえないことであった。そして「−→部の人 はこの単純さは創造能力がかけているしるLであると思うであろう」が、事実は反対であり、「かかる 多教の事件こそ、動きの、首純な劇によって五幕の間、観客をひきとめておくだけの天才のゆたかさ、天 才の力にかけた作豪が常に逃げかくれる連環所である」と断じて、有名な、「創作はすべて無から何も のかをつくりだすことにある」との理論をかかげ、雅史をひもといて、拝名な、人の心をうつ一つの事 実を、この事実にあってもその危機だけをとって、これで一つの作品を構成したのであった。

この点でラシーヌの悲親はそれを完全無決の、均斉のとれた、美しい全体とするために叙事詩、抒情 詩の美しさで飾りはしたが、簡単な事件を、最大限、事件の短い通りを、即ち、歴史から一挿話を、挿 話にあってもその危機をとったギリシア悲縮まともかくとして、たとえ、一目の払ろがわ、一つの処に その動きを制限しなければならぬ拘束をもたぬとはいい乍ら、歴史から相をとっても−人物の歴史を、

一時代の精神を明晰、息実に、判然、生彩と白目下にえがき出すために、多くの事件を槙重ね、多くの行 動が諭埋的な連関なしに展開され、むらがる出来事がその劇の唯一のユニティである署名な一人物の名

だけで結びつけられ、それ自体、−一つの歴史といいうるシェクスビアの悲劇と完全な対敵点にあるばか りではない。同じく、一日のひろがり、一つの処に悲劇の動きを制限する拘束をもち,同じく、町史から

−一つツ〕事実、け一つか危機をとって、之で一一一つの作品を構成しなければならなかったっルネイユとも正反

の立場にあるのである。

(5)

その悲劇にあいて人間のもつ偉大さ、雄々しさを示そうとし、叉それらは人間の意志にあるとしたコ ルネイユが好んで選んだ主題は意志の発揚であった。人間の意志は障害にうちかつことによって発揚さ れる。その障害がこえがたいものであればあるだけ、意志の発揚は益々かがやかしいものとなる。かくし てコルネユイの悲劇にあって、その人物は等しく正当であり、崇高であり、義務的でさえあるが、両 立しえない二つの激情にはさまれ、この難局を克服して、その意志を発揚し、一種の神々しさにまで達 しようとする、。このような場合にはかれの悲劇は少しの事件しか必要としないのであるが、多くの場 合、かれは人物の意志に患どろく程に多くの、異常な、意外な、時として主題が不可解となるほどに錯 雑した事件を対抗させ、この事件をきりぬけることによって人物の意志を発揚させたのであった。しか も、意志の発揚はこれを多くの人に、即ち、全世界と遠い将来に輝かさなければならない。そのため、

かれの悲劇の事件は普通−一般の家庭ではなく、王侯貴族の間にねこることになる(3)。のみならす、王 侯貴族の閲に起る事件にあっても恋人を得るか失うかといったような私事よりも、戦争とか侵略とか革 命とかいつた、一国の利害存亡に関係した公事をえらんだ。そのため、さらぬだに錯雑した事件、複雑 な高藤、意外な急転にみちたコルネイユの悲劇の動きはこんがらがって、ラシーヌが暗に雑じているよ うに一日のうちに、一つの処に、教ヶ月の歳月と多くの句を要しても起りそうにない程の患びただしい 事件がそこに見られるのである。これは喪実らしさ、自然らしさに反し、理性、良識がゆるさない。し かも、ポール・Pワイヤルにジャンセニスムの教をうけ、人間の雄々しさ、すべてのものに対する意志 の勝利をえがくのではなく、聖寵のえられぬ心における意志のみぢめな敗北を、情熱のあくなき侵略を えがいたラシーヌの悲劇にあっては、意志を発揚させ、それをさらに光輝あらしめるためにこそ必要で あるであろう事件や高藤や急転や、戦争とか侵略とか革命とかが不心要なばかりではない。事件そのも のすら不必要だったのである。

(註)(1)例えば「ロミオとジユ1「エトの悲劇jである。シェクスピアはここで両家の不和に仲をさかれる二人の悲 恋をえがこうとしているのではない。これを一挿話として十四世紀のイタリアを、又、その頃の恋するイタリアの 青年男女一般をえがこうとしたのである。さればこそこの悲劇には血なまぐさい内乱の街ヴェローナの衛上での撃 や軍踏会での挑戦や荷頭での決闘や納骨堂での殺人が措かれるのであり、疫病や托鉢倍や仮死にいざなうねむり垂 や毒嚢やらが現われるのである0又、ロミオはジユリェトを愛する前をこローザラインを恋するのであり、友人たち

と欒しげに讃適にふけっているかとみればその一瞬後には剣をとって磨りあい殺しあうのである。

田)例えば「ァソティゴネ←」における番兵の此軌ことんだ物語であり、クレオrンの長々しい政治談罰であ り、アンティゴネrとイズメネーとの対話であり、神秘的な雰囲気をかもしだすティレシアスの言辞である。叉、劇 の進辰につれて、或はよみがえった平和に陶酔し、或は人間の偉大さと同時にその限りあることをうたい、或はオ イヂィ ブース一家の宿命をなげき、或は恋の宿命的な力を悲しみ、或は宿命の不幸な犠牲の数々を語る合唱の部分 である。

(3)フランス古典悲劇がその人物に王侯貴族をえらんでいるのはギリシア悲劇を摸撤して古代の農事詩にその 材をとっているので,ある意珠で当然のことなのである。ラシーヌもその悲劇においては王侯貴族を人物にしている がその動執まやや異る。ラシ←ヌは悲劇がみる人の心に憐憫の情と恐怖の念とをおこさせることを望んだのである が、この場合には上関の人物をえら丁だすにしくはない0運命の蓮鳶から保護されているように思われるかれらの 地位がこの失墜を一暦、意外な、おそろしいものとし、ラシーヌが悲劇の快感とした「崇高な悲哀」をおこさせる に適しているからである。また、悲劇がラシーヌのそれのように恋愛情熱の描写を主材にしている場合には王朕貴 族がその人物としてさらにふさわしいものとなってくる。かれらほその閑暇やぎ上樺のおかげで恋愛経境を一そ

う、おしすすめることが出釆るからである。

×    ×    ×

このように事件の少い、否、事件のない、単純な、ラシーヌの悲劇は果して劇なのであろうか。かれ は劇作家である以上に詩人であり、その作品は別である前に詩なのではあるまいか。否、かれは何より

34j

(6)

も偉大な劇作家であり、その作品は立派な劇、それも、もっとも劇的な悲劇なのである。それはかれの 作品が劇にかくべからざる動き、即ち、抗争をもっているからである。かれの悲劇に事件がない以上、

そこに外部的な動き、抗争がみられないのは当然であるが、人物の心の中にそれがみられるのである。し

かも、この心の中の動きによって、事件がなく、外部的にみてあれ程に単純であり、実がないとまでいわ れたラシーヌの悲劇が著しくゆたかな・ものとなってくる。ある意味でおどろくばかりの橡難さをもって

くるのである。

ラシーヌも挿話、伝説、歴史から作品の材をとった。しかしこれらは作品の発端と結末となる事実、

人物の名とその主な性質、この人物に付随した事件、風俗、・習慣の特徴を与えるにすぎない。これらを いかに忠実に再生してもそれで劇がつくれたとはいえないのである。劇作家はこうしたものの内にあ

る、普通人の把えがたいもの、逃しやすいもの、識別しがたいもの、即ち、人を、その心を、その情 熱をえがかなければならないのである。かくてラシーヌも古来、劇の材料となり、ギリシアの悲劇作家 やシェクスピアやコルネイユがそれについて心憎い程の深い描写を与えている人を、その心を自らの悲 劇の材としたのであった。そして、ラシーヌが良識と自然らしさと頁実らしさとの鏡にうつしだした人 間の心はどのようなものであったろうか。ラシーヌはそこに二重性を見出した。人は完全に善でもな

く、叉、完全に悪でもない。完璧で非のうちどころのない、.絶対に誤たぬ、不按の艮徳をもってもいな いが、叉、極悪で、下劣非道の悪徳をもってもいない。人の心には同時に艮徳と鼠点とがある。しかも

この両者は互いに背反するものであるだけにその間には不餌に新たな、はげしい抗争がくりかえされ る。しかも、艮徳はどのような障害をも一撃で打破るほどにさして強いものでもなく、叉、鼠点も艮徳

の前に−たまりもなく膝を属する掛こさして弱いものでもない。却って艮徳にみじめな敗北を喫せしめ る程の強さをもっている。かくてこの両者は相会しては衝突し、はげしい、執拗な、血みどろの闘いを 続けて、休らいを知らない。人が或は意志に・或は野性に、或は恋愛に、或は野心に、或は嫉妬心に抗

しようと、それは自分自身に、自己の精神や肉に抗しているのである。自らの心が分れてその心と争 い、自らの魂が割れてその魂に刃向っているのである。世にこれほど、われわれの心を動かす、残酷な 抗争はみられない。ユ

ただ、ラシーヌは単一の法則を守らねばならなかった為に人の心の金線を示すことは出来なかった。

芽生え、発展し、変化する情熱はえがきえなかった。動きの要求する範囲をこえ、動きに直接に関係の ないものは斥けて、心の一面を示しただけであった(l)。発端からつくられ、結末までそのままの、劇の 進行中にいろいろの障害にあって、あるものは越え、あるものには阻められ、最後の障碧の前にあるいは 屈し、あるいは勝利をうる活動的な力ではあるが、大きな変化のない情熱をえがくにとどめねぼならな かったJそのために、このような拘束をもたず、人間という混沌を、神秘な茂みをもった森や、波む下 にまた渡がうねり、潮がぶつかって深底にくだけ、泡立ち狂う海にもたとうべき人の心の解きえぬもつ れをえがきえたシェクスピアには及ないが、かれが範としたギリシア悲劇、かれの党輩、コルネイユの 悲劇にくらべて、かれの悲劇が著しい豊さ、複雑さをもってくるのである。

ギリシア悲劇はさきにのべたように美を詩碑としていた。そしてこれは練の均斉、全体の調和であっ て、混乱や錯肝Pはなかった。しかし、悲劇がえがかねばならぬ人間、そ公心はむしろ混乱であり、錯 雑である。そこでギリシアの悲劇作家は人の心や姿のおごそかな、落付いた均斉、気高い、清明な調 和、つ変り、人のもつ美しさが害われぬ限りはえがいた(2)。かれらは人の心の中の二つのものの混清 や抗争をえがきはしなかった。美は況渚や抗争の中にない以上、こうしたものを描くことは人のもつ美 を襲うからである。人の心の中にある二つもののうち、より美しくないものを捨てて、残る純美なるも のを調和ある、崇高な筆致でえがいた。かくしてギリシア悲劇の人物は弱点をもたぬ完全な艮徳である か、一歩をゆすって、人間の自然、真実を重んじて、心の中に良徳と弱点とをみとめても之は一人物に

37

(7)

同時にあるのではない。継親吊にあるか、さもなくて同時に良徳と弱点とがえがかれる場合にはこの二 つは分けられて一つの心は艮旭をもち、そこにあるべき弱点はいま一つの心に移されている(31。接着す る二つのものの混清、抗争がみられないだけに、ギリシア悲劇の内面的な動きは−直線的で、複撒さに かけているといえよう。

この伝統はラシーヌではなく、却ってコルネイユにみられる。外部的にはかくも複雑だったかれの悲 劇が内面的には極めて単純となってくる。人間の偉大さ、否、すべてが意志にあり、人間は意志を持っ

ておればこそ犬確でないのであり、意志あればこそその人が凡人でないとしたコルネイユの悲劇にあっ てその人物は自己及び匪界を支配し、自らのなすべきことを知り、なさんとおもうこせをなす人物であ る。運命の打撃をうけても倒されず、宿命にも敢然とたち向う。自己以外に助けを求める必要はなく、

神々の名を口にしてもそこに救いをもとめるのではなく、このような至高の世界にこそ自己の友があ り、自己が天と隣していることを示すためなのである。それほどにその意志は尊大であり、確固不動で あった。勿論、この意志は情熱のような障害にあいはするが、それはこの意志を発揚させ、意志の力を 増し、その確立の機会を多くするものにすぎない。抗争は瞬時にして終り、意志は輝かしく発揚される。

そこには疇いも、惑いもない。一直線に意志の命じるところに進むのである。その不動の意志は弱点の 存在をゆるさない。人物の心に良徳と弱点との抗争がみられない以上、この面からみる限り、コルネイ

ユの悲劇は単純であるといわねばならない。

(註)(1)芽生え、発展し、変化する情熱をえがき、人物の心の色々の画を示せば、その都度、一つの好奇心が沿え て、別間の好奇心が生れ、フランス人からみてr動きの単一」の法則が放られることになる。又、そのようなこと が一日のうちおころのは自然らしくなく、頃寒らしくない。人物を第F一幕では幼見、第五幕では老翁にすることが 必要となるがこれはr時j、したがってr処」の畢一の法則を破ることになるからである。

r2)アンティゴネrは兄妹愛の権化ともいうべき女性である。しかしこの兄妹変もかの女の高潔な態度、おち ついた身擬、力強い、しかし静かな言葉を乱さない限りにおいて措かれている。兄の屍が露出されているのをみた 時の激しい苦悩「巣にもどって、排がいなくなっているのをみた時の、狂乱した鳥のように鎗い悲しみの叫びをあ

げJ、「坤き、泣き、この胃演を加えた者に呪いをはきかけるjかの女は物票で元されているにすぎない。

(3ノ ーアンティ ゴネーの心の中にある生への執着昔兄への愛と同時には京されない。兄への義教を果して、い はば紳経の興撃がおさまつC、花の盛りにつみとられる青春を嘆きつつ、結婚のたのしみも母となる喜びもしらず に処女のまゝ死ぬことや,呪われた自分の一族にのしかかる宿命を悲しみながら、ギリシアの障しい太陽に別れの言 葉をなげかけて、愁嘆にふけりつつ、合唱隊の前を通ってゆくときに云されるだけである。

ユーレクトラはすレステースの死が停えられた時、独力でク1リJLタイメーストラとアイギストスとに父アガメム ノーンの仇を報じようとする女丈夫である。その心(lこ当然あるべき女らしい弱さは妹クリ二Lソテミスの心の中に移 しうえられている。

×   ×   ×   ×

ラシーヌは人のこの複雉な心をうどかす色々の激情を等しく完金に、鋭く、発く描いているが、中で もつともすぐれた描写をしているのは恋愛情熱である。悲劇はその人物、われわれにたえがたいような 行為をする人物にもわれわれが共感をおぼえ、その当然の不幸・苦間・悔懐にも心を動かされ・結末が

われわれの心に憐憫と恐怖とをひき患こして、われわれの感受性をしげきし、感動の涙、苦いものでは なく、一種の快さとさえいいうる項を流させるようにしなければならぬ。そのためには悲観の人物がわ れわれと同じように良徳と同時に弱点をもった、普通一般の人間であることが耳要である0その行為●

その不幸・その苦悩・その悔懐がわれわれ自身の、われわれのよく知っているものでなければならな い。その激情もわれわれのと大差がなく、ただ強さに患いてことなっているにすぎないもの、われわれ の心の中からひきだされ、それをもつことが不可能ではないもの、理解するのに努力がいらず、その進 展を楽しみと同時に小はば一睡の恥らいを以てついてゆきうるものでなければならない0かくしてラシ

38

(8)

ーヌは余りにも洗粧された、繊妙、繊細な感情も、偉大で、崇高で、雄々しくはあるが、それには到 達しえない超人的な激情も、一国、一時代に個有な、特殊な情熱をもえがかなかった。誰にも可能な、

われわれの絵てが心を動かされ、時と処と、地位と境遇とを問わず、最も普遍的な情熱である恋愛をえ がいたのであった。

叉、人の心の中のすべての激情が劇的であるとは限らない。劇に通したものもあれば、適し ないもの もある。ところでラシーヌの悲劇は人の心の中の相反する二つのものの抗争である。激情もこれと争う 他の激情との討係においてのみ、かれの悲劇に入りえた。このようなかれの悲劇にもつとも適している のが恋愛情熱である。恋愛こそは鋭い危機であり、愛する者の心の内部は静止することをしらぬ不断の 動きであるからである。恋愛こそはあらゆる抗争の中で、もっとも内的な、血みどろの、執拗な争であ

り「恋には平和が可能でないから」である。

この恋愛情熱の描写によってかれの悲劇が患どろく程の複雑さをもち、ギリシア悲紬こ比べても、シ エクスピアの悲劇に比べても、また、コルネイユの悲劇にくらべても永日の姿を保つようになったので ある。−

ギリシア悲別にかレ、て恋愛はどのように描かれたであろうか。美を詩碑としたギリシア悲劇も恋愛が 紳枠であり、よしんば強くとも人の心のおごそかな、おちついた調和、気高い、清らかな明朗さを、即

ち美をきづつけぬ限りは描きうる筈であった。しかし、悲劇に描かれる程の恋愛は心に沸きたち、人の 顔に、姿に、言葉に混乱をなげかけ、激しい、狂乱的な、肉の反抗を示し、錯乱、困惑となって美を破

るものである。叉、恋愛が純粋ではなく、より輝くばかりに美しい感情と人の心に拉んでいる場合には 恋愛は不純、複雑な混合物か、抗争の困となる。ともに理想的な美しさは害われざるを得ない。恋愛が 意志や理性や兼務や名誉心と並んで人の心にある場合には、その遊び存することによって現実性は愛し はするであろうが、複雑となって美的単一は破られる。この二つのもののうち、より理想的な美しさを 持った意志とか、弾性とか、名誉心とか、義務の方をとったのであった。又、恋愛が人の心で抗争の原 因となるときにも、抗争は美でなレ、以上、ギリシアの悲劇作家はこうした恋愛をも描かなかった。

アンティ ゴネーはハイモンを愛している。しかし、かの女の心には兄への愛という、理想的な美しさ に輝く瀕情がある。この恋愛を第一両に浮きあがらせぼ、これはかの女の心の中で抗争の園となるか、

或は、かの女の心を複雑ならしめるものとなる。ともに、美を害うことになる。かくしてその恋はほとん ど消されて、第二両に半彩にぼかして描かれているだけである。「許婚者もなく、結婚もせす、妻や母 としての喜びも知らす、一人で、友もなく、生きながら死者の洞穴におりてゆく」のを泣く、その淑や かな悲しみに、叉、かの女が死ねばハイモンはすぐに他の女と結婚するであろうというクレオーンに対

して、ノ、イモンを一輝だに疑わず「ああ、ハイモン、患父上の何という軽侮でしよう」という、情熱の 至高の叫びにみられるだけで、あとは兄妹愛という、より美しい激情を崇高な筆致で括いているのであ る。ギリシア悲劇作家はアフロディテーは不敗の女神であり、神も人も動物もこの女神の掟を免れえな いことは知ってはいたがその作品には爆発する、発作的な、強レ凄ミ愛も描かす、他の激情と並んで、之 と争う複雉さをもった恋愛も描かなかった。

キリスト教は肉を呪唱し、女を誘惑者、悪魔の艮とし、恋愛の侍に罪をおいた。このことによって却 ってそれだけ女は強い欲望と熱愛の対象となり、恋は一層に人の心をそそのかす魅力あるものとなっ た。かくてギリシア悲劇にあまり描かれなかった恋愛が劇によりしばしばとりあげられる感情となっ た。そしてこの恋愛情熱はシェクスピアにおいてもっとも強烈な描写をえた。

シェクスピアのえがいた恋愛はもっとも狂乱的な、もっとも本能的な、もっとも解放されたものであ った。その人にとりついて、その能力の平衡を央わしめるものである。二人が愛しあう瞬間から恋は専 制君主のようにかれらを支乾す予。二人は丁度、何かの物質的障害をこえるかのように義務や名巻をふ

39

(9)

みこえ、はげしい盲目的な動きにかりたてられて、呼びあう声のみを開き、抱きあう腕のみを見る。その 心は沸きたち、狂う血潮であり、赦して火花となって飛ぶ欲望である。専一的、排他的で、すべてをや きつくし、その周料て遺徳の世界も物質の世界も消えうさせてしまう。

ジュリチトは乳母の話す幻想にとりつかれ、幽霊やまぐだら華の声を信じている程、空癖な頭脚をも った、まだ子供といってよい乙女である。その夢の不要なおののき吉二おさえるものは何もなかったこの 乙女の昌に燃える眼業がぶつかり、やけつく唇がふれた瞬間からこの夢は狂わしい欲情となってくる。

ねむられぬままにかの女はそのいとしい秘密を夏の夜のやわらかい月光に、ものうい額風にうちあける のである。しかも自分が愛されていると知った時に何とはげしい恋をすることか。この恋は何ものにも 妨げられない。あらん限りの激しさをもって爆発する。ロミオがティノてルトを殺した。ティバルトはか の女の従兄である。一言の非難がその口からもれはするがそれも道上といっていい程にはげしい恋の爆 発をよぶ口火にすぎない。恋はいかに神聖であろうと他のすべての感情を抹消し、恋人さえ残ってあれ ば父も母も、否、両親とも死ぬことすら望むのである。

「乳母」患従兄さまを殺した人のことをよくおっしゃるんですの?

「ジュリ」私の夫である人のことを悪くいっていいの? ああ、お気の寿な私の夫!あなたの妻とな って三時間の私が、切りさいなんだあなたのお名前をどういう苗で滑らかにしたらいいでせう了 で も、何のために、悪漢、お前は私の従兄を殺したの? でも、そうしなかったら、あの悪者の従兄が私 の夫を殺すところだった。患惰り、愚な涙よ、お前のもとの泉へお帰り。お前が捧げるべき滴は当然、

悲しみのものなのに、お前融軋垂って喜びにそれを捧げている。ティバルトさんが殺すところだった私 の夫は生きていて、私の夫を.殺すところだったティバルトさんが死んだのじゃないの。これはみんな慰 めなのに、何のために私は泣くのかしら。ティバルトさんの死よりももつと悪い言寒があって、それが 私を殺したんだわ。私はそれを忘れたい。だのに、ああそれは私の記脚さ迫ってくる、忌まわしい犯罪 行為が罪人の心に迫ってくるように。「ティバルトさまは患なくなりになり、そして、ロミオさまは

・−追放!」その「追放」その−「追放」の一語が、ティバルトさんを一万人役したと同じだ。ティ

三ガ

ノヾルトさんの死は、ただそれだけでも十分な悲痛だ。それとも、もし、苦い悲痛が道連れを薯び、是非 とも他の悲しみと一緒になりたいというのなら、「ティノヾルトさまが患なくなりになりました」といっ たあとで、なぜ、ば.あやは、それにつづけて、お父様もとか、お母様もとか、いやそれどころか、お二 人傾もとかいわなかったのでしよう。そう言っても、ただ、普通の欺きを誘うだけなのに。

〔「ロミオとジユリェトの悲劇」第三幕第三場。  本多顕彰訳、岩波文庫版〕・

このような何物にも妨げられない、すべてをおしのけて一途に進む、噴火山式の恋はなるほど強烈で はあるが、他臥之に刃向う意志も理性も養務も名誉もなく、人物ゐ心に抗争がみられぬだけに複都さ にかけている・といわれよう。

シェクスピアのえがいたこの恋愛と正反対なのがコルネイユの悲劇にみられる恋愛である。かれは悲 劇において人の偉大さ、崇高さを示そうとし、美しい、偉大な、みる人の心をゆりうどかす題材をえら んだ。その人物は艮徳を全世界に輝かせ、功績を遠い将来に伝え、意志を発揚させて之を全世界に誇ら かにみせぴらかす。かれらはその栄光を家庭の狭い範囲にかぎることがない。家族的な、内輪な利 害、単に恋人をうろか、共うかが問題であるような激情はかれらの心を占めるに足りない。歴史に記さ れ、有名な俳優と舞台とをもち、一国を建て、或は亡ぼすような、公的な利害を伴って、生死が問題と なるような激情にしてはじめてその心を占めるに足りるのであった。野心と恋愛との何れを描くべきか にコルネイユはためらわない。野心こそ悲劇にえがくにふさわしい偉大さをもつのであった。「 悲劇の 品位は何か、国家の大きな利害とか、恋愛よりも崇高で、男らしい敵情、例えば野心とか復讐とかを要

40

(10)

求する」といっている。さればといってかれが悲劇に恋愛をえがかなかったのではない。恋愛はしかく 人に快さと楽しさとを与えるものであるから、かれはその悲劇で恋愛にかなりの地位を与えている。

否、恋愛が除かれることがもっとも自然らしく恵もわれるような題材にさえも恋愛が姿をあらわしてい る。「偉大なコルネイユ」「ェロイヌ∴Aと崇高で男らしい激情」の詩人が恋愛の描写をせぬこととてはな い。がヽかれが悲劇でどの範柚こ恋愛をみとめ・それにどのような地位を与えているかを知る必要があ る。之はかれがサンテヴルモンに与えた手紙に「私はいままで、恋愛は悲劇で主導的となるには余りに も弱点にみちた激情であるとおもっていた。私は恋愛がそこで主体とならすに装飾として役立つことむ 好む」とかいているのによっても明白である。かれは一国の利害、生命の得失に関した崇高な、雄々し い激情、例えば野心とか復讐とか愛国心とか寛容とか信仰心とかを第一位において恋愛は第二位に甘ん じさせた。これだけでもかれの描く恋愛が人の心をくいやぶり、溢れ、みなぎる情熱であったシェクス ピアのそれと全然、両日をことにしていることが分るであろう。しかし、ともかくもかれは偉大な心に も恋愛が入りうると考えた。が、このためには恋愛は上にのべたような崇高な、雄々Lレ、激情と両立し うるものでなければならない。かくて、かれの描く恋愛は混乱と弱さとにみち、勇気をにぶらせ、雄々 しさと両立せず、愛の対象についてわれわれを膏目にする恋愛とは趣を異にしてくる。そこでは智力が 完全な透徹さをもって働いてくる。親愛の要素が順序よく分けられ、その一つ一つが完全に秩序だてて 調べられる。そこには混乱も気まぐれな動きも見られない。コルネイユの悲劇の人物は愛し、必要とあ れば恋人のために死すら辞せぬにしても、かれらは愛せざるをえないことを証明し、恋人のためには死 をも辞さぬわけにはゆかぬことを証拠をあげて説明する甲である。その恋は智力と意志の世界に源をも つ、意識的な恋である。理性と矛盾しない、理性と一体をなす恋である。はっきりと目をみ払らいて、

愛の対.象の性質を正確にみうる、智的な恋である。智的であり、理性的であり、頭脳的であるだけにこ の恋は歎賞に佃するものに結びつく。女を対象にすればこの女はあらゆる完全さを、即ち、若さと美し さと智力と艮徳と偉大な魂とを兼備したシメーヌでなければならない。しかしこれは稀な例外である。

女はこのようには作られてはいない。 女は男の生活を魅力あらしめるものであって、それを崇高にする ものではない。むしろカミーユのような誘惑者である。かくて、雄々しくてしかも優しく、人間らしい 情熱をもっていてその心に混惑がありながらも埋性を失わない、愛らしいと同時に誘うべきポーリーヌ 車)ような女があってもポリウクトの愛はこの女にとどまりはしない。さらに讃うべきものをちらと見さ えすれば、よしこれが幻にすぎなかろうとひたむきにその方に走ってゆく。コルネイユの人物は歎賞に 価するものにかつえ、完全なものにうえで、さらに美しいものを求めるのにうむことがない。その人物 にとってもつとも完全であり、もっとも美しく、もっとも讃歌に価することは何であろうか0それは雄 雄しい、自由な、力強い意志を発揚させて、自己に、叉、他人に絶対、至高の主権を確保して「予は世 界と同じく予の支配者だ」と叫ぶことに他ならない。

甘す、自己に対する意志の支配を確立しなければならない。自己の情熱こ勝利をえなければならな い。ここに当然、意志と情熱との争が生れるのであるが、コルネイユのえがくような理智的な、頭脳的 な、冷い、影のような恋愛は意志の前に最初にひざまずく臣下にすぎない。コルネイユの悲劇にあって 恋愛は好んで意志にささげられる犠牲、それにうちかち、それをこえて人物の意志の至高、偉大な精力 が発揚される障害、一種の踏段にすぎない。

叉、他人に貴高、絶対の支配権をえなければならない。しかも、偉大さと力強さに酔うコルネイユの 悲劇の人物は一つの心を支配し、一つの魂に善をほどこすのは美しいであろうが、幾百の心を支配し、残 千の心に善をほどこすのには及ぶべくもないと考える。かくてかれの悲劇にあって恋愛はその本当の対 象である一人の心をはなれて、幾百、度千の心を対象とするようになる。一人の女の心をうることが目 的なのではない。これを便宜な−・ヰ段として達せられる幾百、度千の心の支配が真の巨柑勺となってく

41

(11)

る。こうなれば、これは人物がその野心を滞足させ、支配の栄誉をうるための道具にすぎない。その人 物が恋愛をさして「野心よりもなお圧制的な激情」といい、「野心のために恋をするとはなんと残酷な 運命か」とかこっても無駄である。「御身の恋は政略にすぎぬ」こそが真実である。したがって、意志 を発揚させ、野心を満足させ、栄誉に達するために恋をすて、女をゆすることは容々たることである。

まこと「名誉は一つきりであるが、恋人は沢山にある」のであって、その人物が「おもうままに夫や贅 をかえる、偉大な人々のもっている特権」を:非丼してもこれは当らない。その人物はすべて「御身が愛

ンモ

しているのなら、予はもうあの女を愛しはせぬ」、「この嘆息と燃える恵もいの下ざまなとりひきは小さ な心の持主にまかしておこう」こそがその本心を示す言葉なのである。このようにコルネイユがえがい

ウツP

た恋愛は意志や野心や政略の一手段であって、外観は具えてはいるが血も肉もない、空なうつLにすぎ ないといいえよう。

ラシーヌは悲劇に怠ける恋愛の地位についてコルネイユと全然、反対の意見をもった。かれは悲劇に あって恋愛が飾りものとして作品の空隙をみたすに役立つだけのものとは考えなかった。他のすべての 感情をしたがえる独裁者であり、作品の主体となり、核心となるか、さもなければ作品から除外さるべ きものであるとしを。かれのえがく恋愛は必Lもつねに人を狂わせ、自殺や殺人にみちびくものとは限 らないが、深い、誠実な、生気と活力とにみちあふれた恋愛である。人の心をかすめるだけの、軽い、

皮相的な、一時のたわむれにすぎぬ恋ではない。人の心を[与領し、−たび、とらえられれば逃れる自由 のない恋である。それに対して抵抗しても無駄で、力無く、絶望の叫びをあげて、そのおもうままにひ きすられねぽならぬ恋である。まさに、宿命である。「うちかちがたいエロス」である。神々も人間も のがれることの田来ないアフロディテーである。名誉は一つしかないが恋人は多いといってすて去るこ とが出来ないのは勿論、これを分けることすら恐れて、獲物のごとくに独占しようとする。そしてその 人がかれにとってあることをかれも亦その人に対してあることを望むのである。

しかし、かれの悲劇にあっては、かれ以前の劇や小説においてとちがって、恋人は征服しうるものでは ない。動かしえないものである。レ、かに冷たくとも、遂には優しくなるものではない。試鎌の歳月はい かに永かろうと熱情的なかれがその恋人に忠実だったむくいを受ける恋ではない。この恋にあって恋人

の前にかれは無力であり、存在しないのである。その恋は過望する必要のない、甘い、魅力ある恋では ない。かれは恋人から何も望めない。総ての希望は失われている。無は何り役にもたたぬ以上、不 事なかれは何凰なしえない。やさしさも、威嚇も何の効果もない。恋人はかれの姿をみるが目に入らな

い、その声をきくが耳に入らない。恋人自身が恋にとりつかれて、その太陽をもち、その方に向いてい るからである。レ、かなる力も恋人をその恋人からそむけて、かれの方に向けることは出来ない。恋人の 心を占めている、その太陽への恋がかれから必要かくべからざるものを、即ち、その存在をうぼってい

るのである。その肉体も、その心も、否、その全体が恋人の日には存在しない。その恋は深く、諏箕で はあるが、阻められ、退けられ、くだけ散って水泡に帰する恋であるJ

強い、深い、まことの恋がむくいられぬだけに、不事なかれは苦しむ。しかしかれはパスカルのいう 人間のように自己が弱く、みじめであり、苦しむことを自覚している。しかもこの自覚はかれの苦しみ

を和らげはしない。否、恋にあって自らが弱く、みじめであることを自覚するのは却って更に苦しむこ とである。自らの苦しみをしることは一層、身をさすばかりの苦しみである。自覚がますにつれて苦し みもましてくる。自覚の頂点に垂したとき、無力なかれは自らか心の中にえぐられた傷がいかばかり深

く、いやしがたいものであるかを知る。みじめさと無力と苦悩のこの上もなくはげしい自覚にさいなま れれて死の中に無覚と忘却とを求めて自決するのである。

また、恋人が自己の弱さ、みじめさ、くるしみを自覚することは恋愛にとっての鋭い針であるだけ′

匿、この鋭い針に刺されてかれのむくいられぬ、深い、誠の恋はさらにその強さを増す。、コルネイユの

42

(12)

悲劇においてのように自覚が働くけれども、これによって恋が井野的、卿鋸勺、沿いものとなって混乱 や気まぐれな動きをなくするのではない。白魔の一一鹿が情熱の一一進を招いて、無力なことの自覚のため にこの恋は嵐となって狂乱し、錯乱は一段とはげしくなる。か柚は自分が「愛しているのか、また、憎 んでいるのか」すら分らなくなる。そして、荒れ狂う嵐のようなこの恋すら報いられない。依然として 無力で、恋人の心をひきつけえないのを知って、かれの心には愛しながらも兇暴な憎しみがわいてく

る。一瞬前まではこの世でもつともいとしかったものが「見るも怖しい怪物」となってくる。この憎し みはかれをかりたてて、実はもつともしたわしい、もっとも貴いものを刃にかけて役さしめる。まこ と、その恋は−一つのェゴイスムである。恋人が自己以外の者の所有となるのを許さない。自己のものと ならぬ以上、絶対に、何人のものともさせぬた柳に、むしろ之をなきものにしてしまう所有本能の爆発 である。

ラシーヌがえがく、無力のゆえに狂乱や自殺や殺人にみちびく恋は成程、強烈ではある。しかし、こ のような爆発と衝動とをもった、本能的な、恋はすでにシェクスピアがえがいている。それではラシー

ヌの恋愛描写の独自性はどこにあるのであろうか。

それはかれがむしろシェクスピア的とおもわれる恋をえがきながら、他方で、コルネイユのように人 物の心に意志と理性の存在をみとめ、恋愛とこれらとの抗争をえがいたところにある。シェクスピアに あっては恋に刃向うものは何もない。恋は自らの力に酢い、世界の中に自己だけを見た。恋のきまぐれ が世界の法であり、恋は絶対伸であった。名誉も義務も恋の前には存在しなかった。之と正反対にコル ネイユにあっては恋は好んで意志にささげられる犠牲にすぎなかった。争わすして恋は属したのであっ た。これは恋の無力というよりはむしろ恋の無である 。この二人の恋愛描写はどのようにちがうにして

も、そこに何の抗争もみられぬという点では軌を一にするものである。人物の心には動きがないのであ る。ラシーヌはこの両者を兼ねているといいうるのである。

ポール・ロワイヤルにジャンセニスムの教をうけたかれは人間は原罪以来、汚れていると考えた。人 間は自己の力だけで善に遷しうるものではない。キリストが人の子の罪をあがなったけれども人間が救

ケ1 i11

済されるためにはその得られる確実性はないけれども、それに価するように努めねばならぬ聖寵が洗礼 の清めに加わらねばならない。人間はこの世に生れるや、たえす悪の攻撃をうける。人の心に常にめざめ る情熱は人を破滅させようとして悪がとる色々の姿の一つである。したがって聖寵のないかぎり、情 熱は頂点に澤して人を狂乱に、自殺に、はた、あらゆる犯罪へとかりたてる。しかし、人間には同時に 智力と理性と意志とがある。、が、これらは決してコルネイユの考えたように一撃にしてそれを屈せしめ る程に情熱の前に強いものではない。これらだけの力で情熱にうちかちうると信じるのはこの上もな い不幸な幻想にすぎない。情熱にうちかちうるのは聖篭だけであり、理性や意志はしばしば、人をひき する情熱の前にもろくもみじめな敗北を喫する。「まこと、埋性は日毎にかくいうけれども、恋は理性 にしたがって動くものではない」のである。人の心には情熱と同時に理性がある。人の心には情熱だけ があって、人間は自然力のように情熱の衝動に盲目的にしたがう本能的なものとするのも、叉、意志が 企能であっで情熱はその前に争わすして属する、理性的なものとするのも、ともに人間の自然、真実を 示しているものではない。人間は同時に、本能的であり、野性的である。かく考えたラシーヌの悲劇に あらわれる人物の心には情熱とともに輝性がある。情熱は野性と残酷な、はてしない抗争をする。

フェードルは義子イポリツトを恋している。その姿をみては「臥囁らめもし、また、色蒼ざめもし」、

その「度を失うた心の中は播き乱され、眼はもはやものを見ず、言葉も口へは出なくなり」、「総身は凍 るかとおもはれ、また、火のように燃へる」のである。しかし、かの女はこの恋が、否、肉欲の恋はよ こしまなものであること(1)、しかしかの女の恋は呪わしいその血にまじっている宿命であってかの女に は如何ともなしがたいこと、そして、かの女は神を、かの女のこの恋を罰するためにきびしい刑罰を課す

(13)

ることしか考えていない伸を辱しめていることを自党している。さればこそ、イポリツトの名を白にす るだに「慄へ、わななき」、神々に祈り、犠牲をささげるのである。しかし「いやし難い恋にはそれも 何の効目もない、祭壇の上で手は空しく香をたいているばかり、ロには女神の名を念じていても、心で

はイポリツトを崇めて」レ、るのである。「たえすその人の面影を日にうかべ」、否、「向というあさま しさ」その「軌はあの人の父君の顔立のなかにまたあの人をみつけてしまう」のである。この恋をの がれようと世の継母なみにイポリツトを虐め、一一度は追放したものの、また巡りあっては「まだ生々し い恋の傷口はすぐに血を流し」、「それはもう、その脈管の中にかくされている情熱ではない」、餌食に

マサ

くいついたウェヌス女神そのものである。しかしかの女はその「罪の正しき恐怖を胸にいだき、命をに くみ、情熱の煩をおそれ」「わが身をすてて、わが名分を守ろうとおもい、かかるくろい唱を日の目か ら奪患うとした」のである。が、テーゼの死の喝はこのかの女をかりたてて「総身の血が心臓へ逆流す る」のを患ぼえ乍らも「わが身は恋うている」とイポリツトに恋の告白をさせるのである。

恋は満足の彼岸に達しようとする。しかし彼岸は遠く、恋の進路をはばむ波は低くない。レ、らだち、

激し、悲劇的な物狂わしさむねびて恋は進み、退き、うたがい、動揺し、焦り、休らいをしらぬ。満た される淡い希望が見出されたと信じるや、狂わしげに喜びの叫びをあげる。しかし、これも幻にすぎな い。現実は胸を裂くような真実を示す。その誤があきらかとなるや、呆然として心は不安におののき、

恋は自省する。その場に狂わしげに地団太をふみ、達巡し、また、激する。

フェードルはイポリツトがあらゆる女性に不感であると信じていた。しかるに、かれにはアリシーと いう恋人があるのである。「イポリツトは情をしっている。しかもわが身には少しも心を動かさない」

のを知っては「これまでにしらなかった悩み」を患ぼえねばならぬのである。

またかすかな希望の光がさすや、この幻にすぎない望みの方に一目散にはせむかう。このように理性 に抗して、進み、足ぶみし、反転し、後退し、さらにはげしく前進する、丁度、海の潮をおもわせるよ うな、静止のない干満をもった恋、強く、しかも複雑な、はじめてその真相を示された悲劇的な恋、これ がラシーヌのえがいた恋である。そして、これによって外見上、かくも動きの単純であったかれの悲劇が おどろく程の複雑さを患びてきているのである。その作品がもっとも劇的な悲劇となっているのである。

(註)(1)フェードルは我にも非ず不倫な女といわれる。しかし、かの女の恋は不倫ではない。その血はイポ リ下の血管に流れCはいないからである。その恋にしいて異常性をもとあるとすれば中年の女がまだ無垢な、若い青 年に瑚していだく恋であるという点だけである0 しかし不倫ではなくとも、かの女が自分の恋を不倫であると信ずれ ばそれでことたりるのである。心に姦せるものは軌こ姦せるなりであるからである○

44

参照

関連したドキュメント

うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、

を高値で売り抜けたいというAの思惑に合致するものであり、B社にとって

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

(( .  entrenchment のであって、それ自体は質的な手段( )ではない。 カナダ憲法では憲法上の人権を といい、

きも活発になってきております。そういう意味では、このカーボン・プライシングとい

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

【フリーア】 CIPFA の役割の一つは、地方自治体が従うべきガイダンスをつくるというもの になっております。それもあって、我々、

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので