奈良教育大学学術リポジトリNEAR
墨家の思想と其の平和連動
著者 蔦川 芳久
雑誌名 奈良学芸大学紀要
巻 1
号 1
ページ 50‑57
発行年 1951‑03‑01
URL http://hdl.handle.net/10105/5229
−50−
墨家の思想ヱ其の平和連動
蔦 川
(序)
古代の中国の思想文化の華を焼かせたのは戦国時代 で中国思想史上最買要の時代である。この時代最も顧 栄したのが孔子を組とする儒家と墨子の学涙であっ
た0(警豊子譜票譜と諸芸品濃莞㌫聖慧品豊警
告ア)此は韓非子に「世之恕学際鮎」(麒学勘と 云い、自民春秋に「孔塾之後学額栄於天下者衆夷。
書芸讐慧盈芸箭慧票禁芸票
る。
春秋の末より戦国に及んでは周の王権全く地に堕ち 社会は限りない斗智破壊無秩序に磨って入った。この 人間の破滅を救わんとして儒家は人間の徳性に基いて 人心を正し社会を秩序ある平和に導こうと活動し、そ れにあき足らずして天に基いて東愛非攻動労節約を旗 臓として証会平和遊動に技頗する轟家が盛行したので あるが、「孔席不暇煤、慕突不得斡」といわれ社会生 活上偉大なる意義と影響を興えている所以に恩を致さ なければならない。そもそも中国先秦の思想家は自ら の学閥思想を軍に概念の学として組成したものではな くlその時代思潮や社会の状勢によって起っている。従 ってその学問思想に於ても初から知識や概念を開題と しているのではなく、その豪には必ず時勢を慨嘆し之 を救濱せんとする意菊の潜在するを見るのである。中 国の学閥思想を研究する者はこの点にi架く留意するこ となくして、たど西洋の学問思想を尺箆として之を説 明し\その中それと頬似する思想を発見してヽはじめて 中国の思想に些かの慎値ありとするが如き態度でほそ の撃間思想の眞意義を察知体得することは出来ない。
まことに孔子も豊子も其の遠大なる赦去平和の理想 と確乎たる信念と、その信念に基づいて理想を実現せ んとする情意の純常にして努力の熱烈で而も不磨不屈 であったことは驚嘆すべきものである。そして墨子は 孔子に於けるよりも一層その徹底せる宗教的信念によ って道茸的社会への理想を端的に実現せんとし、その 兼愛の精神と社会革新の思想とはよく時弊に適中して 天下の人心に痛切なる影響を輿えた。然るに後世儒家 の繁栄に反して墨家は漠代に入って嚢亡したことは諸
芳 久
種の理由もあろうが憾むべきことである。たゞかろう じて馬子五十三篤が侍えられ、清代に入って考証家の 経書研究の余決をうけて諸子の薯も研究されることと
なり(禦怨讐謡禦漕)豊子の書も畢玩や孫論
議等によって訓諮上の成果が収められ、西洋近代の思 想の中国への移入によって墓家の思想にもそれと毅触 類似の点ありとして嘗て戦国時代の達家の活動とは別 の意味によって漸く学者の用心を輿起し、西洋にも知 られるようになったのでほあるが、故に文化的に中国 と絶絡している我国知識人には豊子の名すら忘れられ ているのは遺憾である。
今世界を挙げて平和を欣求し、或陸の平和運動固体 ほ印度のガゾヂーの非暴力主義を再吟味せりとか開 く折、更に歩を進めて同じ晴蹄的棍軌こ立てる中国古 代の平和連動家の墨家の思想及び人物を鑑求すること は現代の学問思想が全く抽象的数理的になっている時 亦新なる感激を以て我々の人格と生活に直接に響く生
きた思索と行動との力を興えることであろう。
違家の租墨雷の停記についてはこゝでは詳鴻する紙 面をもたな)、わで省暑するが、史記にもその侍を立 てず僅かに孟苛列侍の後に 豊墨慧采之大夫。喜守 染鑓節用。或日並孔子時、或已在其後。,,とあるのみ で、その停記は頻る不的なのである。今孫論譲の請 党等を参考すると、督国の人で、孔子の没後約十年紀 元前470年頃に生れ、380年頃まで生存したようで、
従って孔子と孟子との中間の人であるといえよう。
その¥系につV、ては儒家との関係あることが想像さ れる。呂氏春秋に 魯意公使等議請郊廟之菰於天 子0桓公使史角錐。烹公止之。其後産督、墨子学窓。,,
(当染篇)とあり、漠志には 墨家着流、蓋田渚廟之 守・‥…。,,といっているが、胡過のパ諸子不出於王官 論 には蹟席の附会揺測の辞にすぎなレ、と弁じて いる。堆南子にり墨子茸儒者之業、受孔子之術。以 悠其菰煩顔面不快、厚葬車財而貧民、久限傷生面軍 事。散骨周遺用夏政。 (避暑訓)とあるが、これは恐 らく秦藻に入って儒量の思想の類似性の著しくなっ たことより云われたものと考へられ、孔子の術を受 けたという確云正はない0 こゝに夏政を用うとあるの は夏の謁王の素朴力行主義を奉じたというので、列 子や荘子にも見えるが、もとより籾似点はあるがヽ これも恐らく墨家の節用動労主義から出た誼である
つ0
又、墨子が殻の後である宋国の大夫をしたことは、
奈良学賓大学紀要 妨1魯 箪1号・1951年(昭和26年)3月1日
罷家 の思想 と 其の平和蓮動
散人の性格の影響も考えられるが、粒子の学系は軍 に一郎一浪の侍を得たものでなく儒教的思想に培わ れ女に衆説を参じてこれを改造し、時代の弊を察し て救世済民の斯沢を開いたものと調えよう。
従って量家の学は儒家よりも更に博学多方で世を救 う術に周(、中晩思想家には稀なる算数物理といっ た科学的思想や論理学的思想より兵技巧にも亘って
いる○
墨子の晋は決志に 量子七十一第 とあり隋志以下 山墨子十五巷 とある。現在本は十五魯五」一三筒で、
これについての考要もこゝには省容する。墨子に関 する倖詮や評論を韓国より秦頂の古典語によって考 えるに、孟子荘子苛子韓非子より呂氏春秋史記推南 子等に移って墨家についての観察が変化しその思想 の特色とするところに変遷があることは見うけられ る。これを現存墨子の謡籍について見るに数手動て分 って考えられる。これは戦国より秦を照てその各時 代の塾家のもった特色によったものが収録されたも のと考えられ、現存苑子の青も同より一入の手で一 時に成ったものではないが,要はすべてを合して義 家の思想を窺い得るものと謂えよう。なおこの書は 論孟の如き語録式のものではなく、比較的に論理的 にまとめられ、この点苛子荘子などと似ている。
(1)
尋問篤に「凡入国必択務而往事罵。国家嘗乱別語之
° t ° t ° . ▼ °
錦軍備同。国家費貝曙之節田節葬。国家蕎膏湛摘別語
▼ ° ° ° e ° e °
之非欒非命。国家群僻無礼別語之専天事鬼。国家務奪
° ▼ ° °
侵凌別語之乗愛非攻」とあるが、これは累家の思想書 張の項目を掲げたものと見ることが出来る。政:に依っ ても軍に知勲を論じた概念的学理といったものでなく 実践的なものであったことがわかる。
墨家の思想及び其の行卦の撮庭を霹すものはやはり 中国古衆の天に対する信仰であるが、(呂讐詑警慧呈 天には種々の意表があって、蒼天というように形体を 以ていう場合、叉天の欄間というように主宰を以てい う場合、又宮貴在天というように運命的にいう天もあ り、叉性とうそ道というように哲学的にいうヲミもあるが
葺宗吾禁三㌍)器家の天は万物を創造しき睾する 一沖であって、環も民の社会もこれなくしては生きる ことの出爽ない唯一・着である。天は愛であり正章であ って、この天を万尋の懸軍としてその意を奉じて人間 赦会も愛と正苛との統治でなければなら取と誘く。
(孟謂禁鐙天主の天を以て叫切の掻酎聖賢とす ることが畏家の思想の棍概であり特色である。
世の乱は天意が不明確になっていることより起る。
「今天下之君子之書不可勝穀。言語不可丑計。上記諸俣、
下設列士、其於仁幕別相遠也。何以知之。自我得天下 之鴫、腰之0」(至当とりのは・当時正義を諭く 者は何等準拠する萌なくたど各人問の私意にのみ従っ
ている男天下の正義が乱れているのである。本来「天 下有登別生、無登別死。有登別富、無萎別条も膏叢則
_51−
治、無苛邦乱0」(至志)で、その薫は天より出ずるもの で、従って天下の蓋を矯さんと欲する者ほこの天意を 明確にして天の意に順わなければならない。そして
「我育天志、撃若輸入之常軌匠人之膏凱(至志)とい って古聖王の栗橋や実際の体験を引いてこの意義を強 調して天志を奉ずることをその教義の基準としたので
ある。
こゝに宗家の宗教的信念が現くうかどわれるのであ るが、現家は更にその天意を具体的に表示するものを 認めて鬼神と称して厚く之を信じた○塁家は兼愛の実 行には宗教的信仰抱懐の必要あり、人間に一種の行席 上の制裁力がなければ感を雷L遂げることとなるとし て紹珊勺更密着として之を信じ、その明鬼欝にはこの 鬼神の存在とその構成について瓢、ている欄怒きき を云うが、孔子は鬼神を敬して之を遠ぎくといい、
孟子もそれを絶対に信ずるというまでではなかった ぞこで重家は・・上啓天、中車鬼神、下愛人。,・(至志)
うこととなる。
とし
宗家の思想の特色を究明する矧こは儒家との関係が 極めて或要である。中国古代より天を人格として天命 を砲トによって窺うことが行われて爽たのであるが、
(欝雲禦禦警)人知の准むに従って天の累即人
間に具備していると考えられ、天の人格性は攻第に沸 拭され、孔子は既に天の忠とする所は人間が自己を内 省して察知し得られる至上命令そのもので、それに董
いて具体的萎雛力凱たのである0(看貫竃票差 韻事禦崇盟:)そして更にその道徳の艶範を
礼に求めた。ところが何の思想でもその本来の生命に 於てのみ准むものでないように儒家もやがてその至上 命令の原理を退却して外商的道徳煩項な形式的礼節の 容票の町に登勒して生きた人間の指導力を失って了っ
た0(蒜昌去笠㌘宗蒜豊霞蒜も警詣鮎讐簑
熊恥、雨嗜飲食、必日君子同不用力。晃子滞氏之陣儒 一也。(非十二子)といって、萩の形式のみに拘泥し、そ
の理屈のみを論じて雫人生の指導力のなかった孔門末 流の軒を詐しているによっても想像される。そして一 方周はサイヒの閥ともいわれるが職務は前代の殿族とは 興って政府的能部に防れた民族で、政治的工作によっ てその電化は粉飾きれたと見られる点がある。従って 虎文碍我が勝って竪朴の風が乏しくなるのは当然で孔
詣蒜冒雲霊こつこうした時勢の風潮を帥あたり
知悉した賽子はこのまゝでは儒家の能会救済の理想も 笑は自己情偶的欲撃、虚栄帰寮の道徳と堕して、結局 は樺力買酔四顧の奴蝉となり了るに過ぎない0これは 儒家が人間の徳性のみを軍く考えて、その基づく天の 人格性を軽戒することによるものとして天の人格性を 再確認したものと私は考える。そしてこれを明曙にす
る膚鬼画論が出爽たと謂える。(詣蒜諸謂璃
ー52−
蔦 川 芳 久
㍑給昔漂鵠岩と)障って思想史的には
塁家は逆に天の人格性を濃厚に存し、そこに宗教的で あるとともに迷信的色彩もある所以である。
さて果家は既に天を以て最高標準とすることより自 らの政治組織社会の構造を倍同ということによって考 えたのである。先ず感史的発展の必然として社会の起 源放びその政治組紛こついて次の如く説いている。
古老民胎生未官刑政之時、蓋其語、人異義。是以一 人則一義\二人則二義ヽ十人則十菱。英人玉来、其所 謂羞衷亦正衆。是以人是異義以非人之登。故交栂非 也。是以…天下之乱若鳥獣然。失明摩天下之所以乱 嘉、生於無政長。是故選天下之営可者、立以翁天子
。天子立以其力席末足、文選訳天下之髭可者、置立 之以馬三会。…叉選択某国之堅可者、置立之以偶正 長。正長匪已具、天子発政於天下之百姓、吉日、聞 睾而不善、皆以昏其上。上之所是、必皆是之、折井 必皆非之。上官過則凝諌之、下有登別傍浩之。上岡 而不下比者、軋ヒ之所貿而下之所替也0(竺同)
即ち群居生活を和一あらしめる馬に天下の賢艮聖期弁 護の人を選んで天子とし、更に下讃二組紗こ至るまで之 を公選するというよりみれば、国家は民意によって公 橙せられるという考で、これは中国古代には他に見え ない詮である。さて実際政治によって天下が統一され る虜には人々は一二人一重の勝手なき張を立てては治ま らない。天下に於て藁を一致しなければならない。その 環には人民はその正長の一義に、各正長はその国君の 一乗に一致すべく、蕊では天子に上岡して蓑を一にし、
下比(撃詣恥ないところに政治の理想を置いた0 政治には治者と根治者とがあって、爵斜は階級を否 定するものではないが、天子国君職長里長踪民とい ったそれ等の階級は物質的に差違ある祀会債活の平面 的差別ではなく道徳的に祀食生活の発展する立体的閑 雷品莞法霊)そして天子は自己の純で勝手な茸を立 てるのでほない0「天子叉総天下之茸、以錦岡於天。」
(雫何)といって、その上同の極は天子より更に之を追 越した絶対者たる天に置いた。即ち天を統一の原理と して各階級は統一されてゆくべきものであるという一 種の宗教的社会である。これが飼同一茸であって「向 同爵政之本而治琴也」(雪国)といっている。これは周 の天下が崩壊して天下の統一なきこと久しく、乗愛の 理想を実現して天下を蹄−する男にけ天を統一原哩と した社会革新でなければなら鞄との信念をもつに至っ たものと考えられる。
さて墨家のき張する華は天より出ずるものであって 衆感の輿論ではない。躍って天子より下正長たる者は 天意を政治に反映する社会的艮心の具現者として背4 を求めたのである。これ筒賢論のある所以である。賢 者を酌で之を挙用し能者を使うことは苛政(孟禁的)
の撮客間題である。これは当時東成壁侍に偏党した実 証楷顔が威樺を聾断し、餐盛況殺しで賞罰是非の顧倒 した戦国の社会に於で切実な現実的醇求であって塁家 は従来の芙舵階級の形成せられる根本的要素を打破せ んとしたものである。従って「不覚父兄、不偏貴富、
不聾顔色0礪蟹)文「官無常乱民無棚。有能則挙 之・無能則下・挙全豪親風」(空当で、義に即する 者を挙用すれば衆賢は並び進んで茸政がもたらされる
とした0(賢禦ぎ管莞瑠芸莞票禦警告主語票
たことではあるが墨射まその相同主義よりして掛に指 導額は天意〜ノ具現者でなければなら粒として重んじた 芸苫)又その実行主要より「遥遠潮郊外之臣・門庭庶
子・国中之衆・四批臥開之皆鯛苓0」(讐)と
いうように人民に希望向上を持たしめたのである。
さて墨家の福岡の社会は殆ど宗教的社会であるとも 請える。人間を天の天配下に置く一種の思想統一、全 体主萎的で個人的要求ほ顧みられないように思われる 所がある。然し人間は天と→つになる絶対範にまで高 めるべきものという哩想に立てば決して個人を無視す るものでなく個人部絶対の自主自由の境地がある。た どその境地は容易に鵬出来ないのである掘篭義 も法律も一体たるべきものであったのが、人文の発達 とともに三者に分化したもので、三着とも4、炎の迷妄 を打破して自律無碍の眞衆を確立せんとする 実践法を本質とするものであると考える。 従って 天を以て自己と世界との支配者と改める貴家の思想は 宗教的で(姦鵠票差吾宗)理想的であることは当然
で(票讐謂冒譜霊慧禁甑撃豊譜詣雲
芸吾ふ遽妄語羞霊警冒場)それを現財位で評す
ると無∈哩な所があり実現不能とせられることも肯ける であろう。
墨家はこの薗同の社会を当時に実現することが出来 なかったが、彼等自らは一つの国体を組織してそれを 実現していたようである。即ち苑子天下給に「以瓦子 馬聖人、昏隈霧之戸、巽指満貫愛せ,至今不決。」とあ り叉肥鮒に見える鉦子孟臥昭子(義徳)臓
(宗私)の記事によると鉦子がその国体の最高統率者で 圃員は皆これに鮨同して信念と実践と勇嘉を霧んじた
ことがうかどえる。(
梁啓超や胡過は苺家の固体と銀 子とは一種の教会政体でキリス
崇霊崇㌫孟慧摺霊晶品浣㌫)
(2)
天意に鐙ってゆくには天の欲する所は之を碍L、天
の欲せざる所は之を止めなければならない。「天欲苛
両駅費0」(欝)で「天下育選別治、無薫別乱0」(芸
下)のである。その天の欲する蓑は天下の人を東愛す
墨末の思想 と 其の平和連動
ることである0(禁票禦悪書愛)凱現実の能
会にはまだこの愛の光被が足らず、天下の指導葛はこ れが治邁平和の大本であることを知らない。天志に熟 き信念をもった墨家は融二会救済の聖業にこの兼愛交利 の旗職を立てたもので、この兼愛が翠家の思想の眞随 であり、また実際運動の急務であった。
乗愛筒の讃く所に由れば、社会を治める索は必ず鍍 金の素乱する原因を察しなければならない。それは「起 不相愛」ので、天下の者が天志に背反して人間相互に 愛を欠くからであると断定し、客紹的に実証的に乗愛 でなければ社会人心を救潰し得られぬと説いている0
「若使天下兼愛、国異国不相攻、家輿家不相乱、盗賊 無常、君臣父子皆孝慈。著此則天下拾」(薔愛)といっ て天下を治めるを革と席す者は東愛を勧めざるを得な いと論じ、兼愛は「聖王之法・天下之拾遺0璃愛)で あり「聖王之意而万民之大判也0」(雫愛)と述べている0 そしてその理想は「硯人之室著其室誰窺。龍人之身著 冥身許城。故盗載亡有、猶有大夫之相乱家、諸侯之相 故国者乎。増愛)憫人之国苦祓其乱覿人之家若親 其家、成人之身若祓其身。是故諸侯相愛則不野戦。…」
(吾愛)であって一種の世界主義とでもいうべきもので あった。そして「天下之人相愛、現不執事。衆不劫寡。
富不侮貧。貴不敦鳶。詐不欺慮。凡天下耐寒怨恨、可 使母造者、以相愛生也0礪愛)と述べ鉦会の平和確立 の膚には先ずこの愛を人間に誘かなければならなかっ た。そしてその愛は儒家の如く遠近親疎による差等愛 より設くのではなく、墨家は天志に基づく宗教的無差 別牢等愛である0これを乗愛と謂い儒家の如き差等愛 を別愛といっている。島家の愛はキリストの博愛件数 の四海同胞の愛と同一のもので、それは必ずや宗教的 信念と情熱と勇気あって実行されるものである。
人類の平和はた叫目愛することによってのみ永遠に 保たれる。然し人間の生存競撃と自我中心の本能とは その実現を容易ならしめない。こゝに墓家は兼愛は同 時に交利であると説く。愛人老人亦従而愛之、利人老 人亦従而利之…」(禁愛)といって兼愛と交判は相表裏 して墨家の道徳思想の中接をなしたのである。儒家で は本来利に就いて語らず、更に章と利とは良端に相容 れないもの(漂詣警く)であるが・墨家では「薫剰也」
(警)としで認めて−となし、道徳と実利とは相削る ものでなく、そして刊不利は善不善の標準となるもの として利は考と同じ道徳的意覇を有していた。認子の 帥こも「乗相愛、変相判。」(欝、警)「乗而愛之・従而 利之0鼎賢)とりように愛と刊とを並挙している0 儒家に於てほ野幌を軍んずるのであるが、峯家では動 織を正すとともにその結果にも鼠魚を置いた実利主義
−53−
で交利即功利の凱い所が認められる所以である。(£
警霊長慧芸語欝謂㌫悪習完音し㌔霊芸讐ノ然
しその功利主翼も既に深甚な理性的反省によって宗教 的に高められ淳化されて、決して個人的要求による私 利というのではなく、利他の利に高められ国家百姓万 民の利であった。そして東壁交判の社会ゐ実現は困難 なことではなく、これが出水ないのは馬政教が怠慢で 之を政策に採用せず知識階勅が身に実行しないからで あるとしている。
これはその当時天下甚だ混乱し諸俣相攻伐して人間 相互の愛判の念地を掃った世腰に際し儒家は徒粟の家 族二主茸に発する道徳を基礎として差等愛(農芸の)によ
っていたのであるが、墨家は深く当時の鉦会的疾患を 洞察して、それでは不徹底なりとして、儒家の別愛を 社会的に改浩して兼愛への能会的通観を高唱したもの と考えられる。これは乗愛の教義の鍍金的意革の大い に存する所で、従って亦戦国時代の思想j糾まもとより 斎七会に影響する所大であった。
さて兼愛交刊の京土会を念願する者にとって漠も大害 職をなす所のものは即ち交戦自利であって、当時諸侯 の徒らに政戦を事とせるをみた葦家は戦執ま「…上、不 中天之利夷。…中\不中鬼之利美。…下\下中人之利案。」
(苦攻声して人間址会を構成する国家間に故事の存在 を是認することは出爽ない。塁家は猿も力を非攻平和 の遊戯に向けたのである。
量家は非攻の歓談をなすにあって、先ず個人より国 家に至るまで道徳的原則を一つにすることが社会午和 の要諦であるとした。それは非攻上篤に誘く所で、人 の国威に入って桃李を窮み、文人の犬振牛烏を撰み、
又人を殺傷するというような罪は世間の識者は不義と L罪窓とするのに、他国を侵略するような大不義にな ると却ってこれを肯定讃美するのは世の識者の蓑の観 念が乱れている馬である。不変の道義的原則を個人的 範囲にのみ限り諸国の権力者の行璃即ち戦等侵略には 適用されないのは何という矛盾であろうと設き、これ は軍に道徳的立場からでなく経済的方面よりも戦翠は 民間の産業を疲弊させ民生を危くし莫大な財貨を滑耗 し、人畜の死傷の惨状等寸こつき詳論している。当時の 諸侯の侵攻は富国策として土地の拡張をもとめたので あるが、土地よりも人間の経済的低値を耳Lとした墨 家は諸侯の富国策として現在膏余っている土地獲得の 馬に不足している人間を損傷する戟撃に対してあらゆ る点より戦撃の互害であることを遥べて眞の天下の平 和万民の有島利を保つ席戦等を排斥している。
然し実際に諸国の権力者は一方には法を以て民の個
人的罪憩を抑圧して他方に国際的には自利の賃非人道
的野望を達しうせんとして政戦を事としている現実は
−54− 嘉 川 芳 久
たゞ何等の粟力もなくして戦撃を否定し無抵抗主葦を となえ平和の理念を考え諾臥、たゞけでは現実の社会を 如何ともすることは出来ない。それは奴隷的平和思想 にすぎない。( ガンヂ←の無揖抗主義の精潮はこんなも のとは全く興っている坪を吟味しなけれ
禁豊)それにはどうしても兼愛を閑した者が奮 起して酷会民衆を道徳的に覚醒せしむるとともに契際 その侵略主導者に侵略暴力を行う能わざらしめる濱、
自ら深く兼愛を体祝して生命力に洛れた犯すべからざ る人格的構成を保持しなければならぬ。自ら活力あっ て始めて暴力の罪悪を誘くことが出来る。そこで賽家 は熱烈に午和を停邁するとともに一両造茸的軍備の霧 戦術や兵掛こ関する技術も研究し弟子にも武士道的訓 練を興えたようである。これは現存墨子に備城門以下 の兵技巧に関する講鷺のあることによっても、うかゞ
° ●
われる。怜畢家は戦撃に攻と誅とを区別し、侵略(攻)は 極力否定排斥するが侵略を制裁(誅)する馬自衛上武力 的積極手段によって実際上その侵略を解治せしめ教等 無き鮭会の出現を期待したもので、観念的樺対戦等否 定論者や畢なる自衛軍備論者でなかったことを注目す れば世の平和論者の反省すべき点が多々あると思う。
(3)
さて他国を侵略することなくして国家を富裕にし国 民の生活を安定せしめる席には無用の滑車を禁じ生産 を鴫せしめなければならない。そこで翠家では節用 と勤労とに力を用い、「去無用之費、聖王之造、天下 之大利也0」(空当と唱えている0夢家は先ず衣食住よ
り節用を詮いて、すべて契用の範囲にとどむべきで、
「凡足以奉拾民那抑止。諸加費不加チ民謡者聖王報償」
(欝)といって更に無用の費を去れば攻凱て外国の 土地を瞑らなくしてその国用を倍加することが出来る
といって梅力節用を嘆励したのである。
そして当時交通や都市の発達に伴い商工環も起り貨 幣の威力も漸く加わって商人富豪階額を生じ富の偏在 を楽し、物質上の文化は向上したがその富は社会各層 に公平に分たれて文化を享受したのではなく、豪族や 商人によって邑蔓節され貧富の懸隔は著しくなり彼等王 公大人の奪拶浪費は更にその左右の者までその風を競 い習ってその儀全体の生活の安定を脅かす状態であっ た。この社会的矛盾に注目した環家は人道上民衆の 邪l金と富国の手段として是非李惨を禁ずべLと常にそ れ等富豪階級の督珍の罪悪を痛論してその反省を促し た。この点近代の社会主苛的傾向の著しい所があった
といえよう0(警ふ宗管謂豊雲志望ご)そしてこ
の節用論は断罪非梁へ展開していった。
実際古より中国の社会に於ける厚苛久重の礼は極端 であった。孔子も既に「礼輿其奮也単級。喪輿其易也寧
戚0腰蒜)と戒めているが、孔子よりして後はこの形 式的儀礼は更に著しくなっていたことは想像に余るこ
とで、巽に富豪階級の有余った貨財を給費する部門の 一つになっていたと考えられる。その節葬篤は厚葬久 喪こそは無益な財貨の滑費であり、生産の障害であっ て「以厚葬久重者膚政\国家必資\人民必寡、刑攻必乱」
と論じて天意に反するものとし、佃この礼は実際遺徳 的要求から出ているものでなくして全く一の因習に過 ぎないことを述べているが、墨家の節葬諭は時弊に反 省を輿えるに足るものであった。
非碧は音柴の排斥である。塁家は決して音架がわか らなかったのではないが、晋栗を詭ずるに針金的生活 上の物質的効用にのみ鼠点を置いた。現在民衆に三つ の大害がある。それは「執着不轄食、峯者不得衣、労 著不得息。」で、晋柴はその何れにも役立つものでなく
却って沓珍を助長し人心を額廃に導き生靖を怠惰なら しめる大害があると論じている。儒家は礼磐を以て治 むという政治理想よりして音楽を昏罪するのである。
畏家は当時の音楽は虹に貴族富豪の侠蓬の眉の専有物 となり、欒器の製作や欒人に対する五大の費用は民衆 の衣食の財を魅奪して負担せしめ、且つその欒揉推奨 を乱した淫柴でそれが民間にも侍播される状態で、天 下の刊を興さんとした社会思想家の畏家として見逃す ことの出来加、問題であったことは確である0(妄品宗
鑑票芝票誇警票錆警)然し音梁を無視
することは人間のうるおいを失うもので、筍子の攻撃 は勿論、隆子天下篤もこの点惜しむべきものとしてい る。
さて節用は経済の治極両であるが、翠家はその著し い特色として生産増大の盾勤労主導を強調した。課家 は安逸な生活を削排礼た。人間には分事(鑑讐 孟宗雷雲)があって、各自の分串によって常に肉体 的に精神的に勤労しなければならぬ。安逸は必然に心 身を弛覆し情意の健斗力を萎縮して知らず諮らずの中 に不睾不菜を生ずるものとしてその累朴勤労主責は亦 極端であった。羅子天下執こ墨子の徒は「俳無帽、醇 無毛。」といい「便後世之畢老多以嚢褐矯衣、以桟橋雷 服、日好不休以自若礪極。日不能如比、非南之道也不 足謂環。」といっていることによって窺える0そしてこ
ゝに南の道といゝ叉港南子要略訓にも「背周活用夏 政。」とあるが畢家の学系を夏の覇の勤労主華を奉じ周 の文化主費に反して夏の累朴主菜によったというのは この節陽力行簡易主聾より請われるようになったこと
と考えられる。(票苧霊‡雷雲 夏政を奉ずるとはいつ を讃美する所は見える
ニ: な)そして現存黒子の非情融こ見えるような儒家
の態渡に反対して契行主義をとったものである。
簑豪の 思想 と 其 の卒和運動 −55一
たせ纂家は積極的生産滑大の経済政策については多 く語っていないが、当時の生産は農業生産がヰなるも のであるので動労を主とし、その生産帝大の膚には人 口と土地との開祖を考えた。然し生産埼加を土地の拡 張に求めることは列国抗雫侵略の動乱を招くもので、
乗愛非戦を唱える豊家には考えられないことであわ、
叉事実上土地の不足が問題ではなく、人間の労働力の 不足が経済問題のヰ点であったので、監家は人口増加 諭を強調した。然しそれは例えば国語地譜に見えるよ
うな戦等を背景として考えられたものではなく、国利 昆稿上より貰硯せられたものであったことを注目すべ
きである0
かくして皐家は動労主義の英行の膚極力宿命論を反 駁否足して非命説を立てた。元来暴家は天忠明鬼の思 想を持ちながら、天は人間の宿命には関係ないものと
し、人間が浅薄な運命観にとらわれて厭世的となり、
怠慢無償の生活を逸ることを痛撃して膏命説を否足し たのである。これは宿命謡を信ずれば人間は自立力行 を葉てて赦会は負乱に障り天下の薫は蓉ることとなる ので勤労画聖を旨とする豊家には宿命は相容れない敵
であったのである0(芸よ蒜晶呈雲思豊詣 l詫言芸慧警)
以上誤家の天を基準として兼愛平和を実現せんが虜 めの政治、祀会、経済の思想を通じて内両的系親を 輿えっゝ墨家の主菜について鴻べたのである。何、
科学、論理の思想も一瞥すべきであるがこゝには紙 面の部合もあり省客する。
(4)
古楽中国の思想家は皆政治と道義と経済との間に密 接な関係を認識していた。その思想は決して一利の知 識や学究の徒の概念的な学理ではなく実際政治に社会 救済に実行せんとしたものである。農家はその何れの 思想主張に於てもその信念と之を実行せんとする勇気 があり、嬰は乗愛苧和に帰するのであった。「政者口 富之、身必行之0」(篇孟)と云い口に言っても身に行わ ないのはその身の乱れている馬で、身が乱れては政治 は出来るものではないと、口舌の瞳侍よりも極力実行 主翼を以て平和連動に熱中した0ここに墨家の人物風 格について顧みなければならない0
公孟篤に君子の風格について儒家と論じているが、
「君子共己以待。画焉剣吉、不問焉刈止。響若鐘.懸。
和則鴨、不細則不鴨。」という儒家の態渡に対し、舞子 は筍も自分の言動が世那救済に関する所ありと信ずる 者は自からの言動に疑惑している滑嵐的態度ではいけ ない。「錐不細、必鴨老也。」と主張している。出処進退 についても墨子の造語は出しゃばり過ぎの労で内に誓 うる所あれば白から人が之に帰すという所謂老子風に
対し墨子は「今夫世乱‥・・‥今求善者寡。不張故人、人 莫之知。‥…・仁義鈎。行記入者、其功睾亦多。何故不 行記入也。」といって殊に乱世に対して聾を讃き義を 唱える矧こは挺身積極でなければなら抱と主張してい る。実際に君子にして豪傑でなければ乱世に平和連動 など出来るものではない。こゝに思想と意嘉、思想と 人物という問題につい大いに沈潜反省すべきものがあ ると考える。
凡そ人の意識に上ること総て思想というならば思想 という言糞は漠然としたものであり、文革に抽象的概 念を悉く忠恕というならば思想の柾頬は無数である。
こゝに問題とする思想はたゞ抽象的概念として弄ばれ る種のものではなく、それがその人の人格を通して信 念となり生活信膝として全生活の上に能軋する力を具 えているものを謡うのである。思想が単に学究の徒の 抽象的概念として弄ばれている闇はそれか如何に高遠 に組曲立てられていても、そしてそれを声高く吹録し ても畢寛書斎裡教壇上から響くにすぎず、決して流叡 する世態上に適璃しないもので、鮭会人心を鼓動する 力をもたない。それが信念となり人格となって生応信 臆として実人生に諮きた力をもって始めて思慮として の実力を発揮し赦会人心に強く鼓動患饗するものとな る。釦ち或る思想はこれを生活信像として実生広美人 生に描かす意気信膝をもつや杏によって思想としての
飴値が判断さるべきものと考える0
世の学者思想家はとかく自からの説に安立すること が出来ないで矛盾惧悩してやまないものが多いか、宗 教的信念に厚い嘉や道義の別に単純性を持った者は何 の拘泥もなく理想を逐うて進み揺る。亀子は庇の如き 人物であった。迫に対する厚い感激とその感政を直ち に行膚に及ぼそうとする純直な人であった。人は先ず 自己及び人生に対して純直であり巌蘭であらねほなら ね。そして実際行馬についても現実をありのまゝに感 は惑とし書は音として善感英醜正邪を自己の所伝にし たがって素直に剤滅するこの心の明るさと張りとを要 する。これこそは人間を鞄態に向わしめる板本力であ る。轟子は信じたことを疑うことなくl鳥さんと欲する ことを実行しかねる人ではなかった。この精細的威力 あってこそ彼等の不和連動は天下の人心を鼓致したの であって、現に墨子の話語中に於てその道に対する至 純な感激と高潔な操守とを随所に見ることか出爽る0
墨子が管から翻こ遊説に行った時旧友に遇った0そ の友は彼に「今天下莫腐萎。子独自苦而霹萎0子不岩 己。」というに対し墨子は「今有人於比。有子十人0
−人耕而九人処則耕老不可以不益忠実。何故。則食者 衆而耕老雰也。今天下莫膚養。則子細勧我者也。何故
止我0」(毒義)と答えている0(孟晶孟宗竺慧甥宗慧
一一56−
蔦 川 芳 久
愛平和を説くことは徒労に見えたであらう○天下に義 を詑く者がなければいよいよ以て我の運動を附陸激励
よ言と;蒜笠是認雪も芸霊宝㌘)
とかく世の主義運動には、いつの問にか同志の巷が 本来の精神を喪失して当初の感激を治失して婁しい美 名の下に私心を抱いて白から惰り他を欺くようになる ものである0畢子はこの点に反省と自覚を怠らなかっ た。次の物語はまことに感激深いものがある。
子墨子仕入於衝。所仕老至而反。子馬千日、何故反。
対日、興我言而不当。自得女以千金。授我五百益。
故真之也〇千弟子日.授子過千慮刺子真之乎。対日 不義〇千畢千日、然別非馬其不当、賃其寡也。
叉馬子は俊昭主覇者を感化する意図を以て弟子の勝 蹄を舞の項子牛に番えしめた。ところが膀韓は項子牛 より厚帝を受けるまLに項子牛の再々の雪侵略の軍に 従った0草子はこれを開いて弟子の高孫子をやって勝 蹄を辞職させて日った。
我併綽也、粗1済既而正嬰也。今樺也稀厚而請夫子。
夫子三侵魯、而綽三徒。是薮顆於馬前也。宕聞之。
言葉両帝行、是犯明也。締非弗之知也。緑勝義也。
曙関)
之とは反対の物語に、弟子の高石子を衝に淀説せしめ た。街君は之に厚藤を輿え卿位に置いた。高石子は参 内する毎に萎政を提唱したが一言も実行されるものが なかった0そこで彼は去って環子に見え「衛君以夫子 之故、致赫甚厚、設我於卿。石三朝必蓋富。而言無行。
是以去之也。衝君無乃以石席狂乎。」とその不満を 語った0募≒子は「去之荷造、受狂何傷・・・。且雪間之。
儒畢非避賦替。去筍遺、受狂何傷。」といって道に 確心あるならば世の毀替巽肢は論ずるに足らないと訓 えl「石去之、焉敢不通也。昔者夫子有言。日天下無道、
仁士不処居宅。今母君道無。而貪其赫欝副長我席苛隋 人長也。」という高石子の精神と勇気に感激した墨子は 高弟の禽滑連を招いて「姑杜此平。夫倍葦而郷赫者我 常聞之実0倍藤而郷尊者於師子馬見之也0(㌫耕)
といって悦んだ。1蜘こは始めから私心を抱いて主養連 動を試みる者も多いが、この一二の逸話によってもそ の道に対する至純な情意の躍動を見るのである。
かくて囁子及びその弟子は敦も純潔な遺菱的感激に 燃えて人間に人類愛の隋沖を強調し、人間から暴力の 放電を穐減し非道な圧制政治を排して迅苛的政治を実 現すべく諸国の間を奔走して平和運動に亜痺した。孟 子に「墨子乗愛健項故蹄、利天下賃之。」倍む)とい
う言責を味読すれば忠年に過ぐるものがあろう。
当時昏国は常に強国の預の圧迫侵害を怖れていたが 魯君はその救済方法を開いた。墨子は「・・・苦闘主君之
上者魯天草鬼、下着愛剰首姓、厚霧皮幣、卑辞令、薗 編礼四郷諸侯、戦国而以串、預息可救也。非此顧無可 璃者。」といって弱国に対しては大国に対する軍備の みにカを注いでは自滅の外なしとして、彼の確信する 所の道を冨軌、て、内政を整え、蓮華によって救わるべ き事を訓え、後舞が母国を俊喝しようとした時、栄子 はその将項子牛に会見して肴を伐つことは鞘の大過な りとして暴力侵略を行ったものは叉擾管的暴力をうけ て人民は疲労して「大国之攻小国也、是交相蹴也、過 必反於国。」となって大国自身も同じ破滅に了ること を読き更に斉壬に見えてこの旨を誘き「井国産箪城殺 百姓靭帯受其不祥。大王僻仰而思之日、我受其不祥。
(呂蒜魯)と凱再王を反省せしめている。
叉苛陽文君が鄭を攻めんとした時も舞子はこれに説 いてその饉攻を窮めしめたことも見える(芸間ノように 墨家の力によって交戦の禁思したことも屡々あったこ とも想傾される。それ等非戦運動中東も興味ある話は 蛭と朱とが交戦を決した時である。延では公租盤とい う戦術家が雲梯という新兵器を用いて宋に侵入すると いうことを聞いた墨子は白から膏より苦しい族をつづ けて姫に至り、直接公翰盤と楚王とに会見して交渉を 罫ね蓬に公輸盤と模擬で戦術を斗わして之を屈服して
中止せしめた0(孟竃毒禁簑震警管主禦苗譜票計
吾。)これは前逮したように単なる非暴力主義の謳歌潜 では動座暴力主蓑を誠めることは出衆ない。そこには 仁者無敵の充実した活力に待たなければ出来ることで はない0かくて全輪轍は墨子に「膏末唱見之時。我欲 得栗。自我樽見之後、予我宋而不養我不虜0(票開圧述 懐したのに対し、賽子は会輸盤が本当に不養ならば帰 さずということに御すれば「宋を君に予えてもよい。
いや宋だけでない、遍めて善を質してくれるならば天 下を予えでもよい。」といっているのは大国が眞に正 矧こ理解するならば、その力にょ∵つて眞の苧和の建設 者となってもらってよいことを埠喝したものと考えら れる。
墨子の東奔開達した地域は詳細にすることは出来な いが、魯を中心として弊街宋延等の諸国を往来したこ とは現在の文軟によって知られる。畢家の学が儒家の 数と並称され鞍国末には天下の思想界を二分する顧学
となったのは同より墨子一人の努力だけでなく弟子後 学の師道布教の熱烈によったものである。かうした墨 子の平和運馴こ対する懸崖は責苦的感激性に厚い者を 痛く刺戟し、墨子も亦弟子教養に力を重し、その師弟 杓導き相輔けた情誼も亦現代人の想像以上のことであ る。准南子に「草子脂役者百八十人。皆可便赴湯踏火、
死不還乳化之所致也」(慧旗)とあり・叉全輪融こ「臣
葛家の思想 と 其 の:平和澤動 −57−
之弟子禽滑盃等三百八。」とあり−これ等行に勇なるも のにJって四方布教されたのである。そして儒家は主 として王分大人に対して讃いたのに対し、農家は更に 匹夫徒歩の苧環暦にも誘いたことによっても平民的で あったことがわかる。さきに墨家の固体とその領袖の 鉦子について一言したが、錘子は一教の主宰としての
名誉と威肢をもち容易に侍受出来なかったようである が、彼等の固体は愛と意気を以て結び規約を買んじそ の道の矧こは生命を惜しまない犠牲的精細を首したこ とは呂民春秋に見える振子にょっても物語られてい る。そしてこうした菊:風は更に後の墨家の亜流をして 当時の武所圧制に反抗して仁灰に尭らしめ、文仁侠者 も墨家に加わるようになったことも首肯出爽る。
(緒)
孟子は「環眉之言盈郡。・・・」(雫文公)といい「髄諏 楊漂着聖人之徒也。」(瞥公)といって墨家を攻撃して いるが、果家の学は一画儒家の輝を救わんとしたもの で、その非儒の態度はここに儒墨の抗撃を長期に亘ら しめた。かくて戦同末期には儒墨と並称される努力を もった畢家が秦より漢に入って早くも衰亡の蓬にあっ
た(謂警豊吉禁霊)困由については色々考えられ
る。
能会状勢の一変とその思想の極端であったことも確 かであろう。殊にその節用非欒薄葬などは人情に近か らザ荘子天下矧lこ之を許して「歌而非駅、突而非異、
欒而非欒、真東頸乎。其生也勤、貫柁也薄、莫逆大衆、
使人憂倭人悲、冥行軍眉也。落莫不可り焉聖人之這。
反天下之心、天下不堪、賽子経ち虫能任、奈天下何・・・。」と 謂っているのは適評である。苛子も「舞子薇於用、而 和文。礪萩)といってその実用に偏したのを那じて いる。そしてその苦行も亦後世うけ入れられなかった であろう。更に「墨習合滑若之意則是。雲行別非也。
特使後世之翠者必自若、以師無紋鮮無毛相鞋而巳実。
乱之上也、治之下也。」ともいい、苛子も「猥子音見於 弊無見於噂。・・・有再而無暗則政令不払」倍諭)と請っ てその個人の生活を酎みなかったことを軍じている。
然し墨家の衰亡は思想的穴隋より政治的擢『、行政 整理的追放、快濱殺舞の方がより大であったと考えら れる。東の天下統一は法家的思想にによる権力刑濱絶 対主薫によりその言論隻迫は軍に儒家のみならず翠家 も欄の圧迫をうけたことが想像される0(警芸品警霊 淋し、呂氏春秋にり皆仁葛の術を以て天下を教導す,.
という言葉を吟味すると、或は一般祀告では儒環は思 想的に類似のものと考え
られたように思われる。 )次で漢初茸老恩憩の流行に 努を挫かれ更に董仲野の軟策を採用した武帝の儒教一 専主義による国教統一と異学渡の禁止排斥(議と撃
蒜賢夫諸君景票豊警箋警警諾豊の)は蓬に
致命傷というべく翠家は異端として其の文献も永く顧
みられなくなった0(禦蒜宗吾是認禁と慧票完だ
聖霊詣禁完詣竃漂禦君甥獣漂呈)
畏家の思想は同より単純である。即ち一切の粉乳は 相愛せざるより生ずる。一切の斗軍は人間が同隈な自 我ばかりを念として少しも他を顧みない所より起る。
相愛すとは相互に一体となることで、社会の平和を確 保する矧二は人間の愛を拡充するより他はないという のである。今日国際間に於ける複雑矛盾せる現実はこ の単純なる道埋に向って進んでこそ世界の卒和は得ら れる。各国(琵芸大)がその私心を去ってその療樺する 正苛によって他国の衷情を汲んでこそはじめて世界正 茸である。轟家の時代は方に利己暴力侵略主菜全盛の 時であったが然し現実をこのま剖こ放置し渦拭紛乱し た赦会に順應し無関心であることは出爽なかった。墨 子は民衆の病を十分に悉如し時代の苦悶を身に具現し た哲人であった。荘子天下矧こ「雛然墨子眞天下之好 也。将求之不得也絆枯稿不舎也。才士也夫。」とは果家の 眞両日をよく許している。彼等ほこの尊い道徳的感激 性を以て自ら救世済民の理想に碓固不按の信念と純眞 な操守を持ちその信念の前には単純であり勇猛であっ た。孟子の「富貴不能淫l貧燥不能移一成武不能屈。」と いう大丈夫の風格は彼の最も痛烈に反撃を加えた墨家 にその倖風を想見せしめる。その意気あってその敬語 が天下の人心を動かし得たのである。そこで著し孔子 や現子の信念と意菊を憶うことの出来ない者は末だ思 想問題に塀を容れることは出粟ない○思想問題はとか
く軽藩に流れ易く殊にその思想が理論的に概念的にな るほど容疎になり易い。そして流行する思想に愛輯自 在に乗り移ることが出水、いかなる者でも高遠な学議 や思想が語れる他に思想問題の観点があり、指導理論 や精神科学が実は安人生に力を持たない緑遠いものと なるのである。古来東洋では思想よりも人物如何を開 題にしている。思想はその人を待って傾控に値する。
… = ° ° ° °
軍に学説の機械的吟味だけでなく深く人物の根底にふ
… … … t ° ° e ° ° ° t