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日本古典文藝ε北方的性格

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(1)

日本古典文藝ε北方的性格

      北方的なものへの思慕と﹁さび﹂ の傳統

北 方 的 性 格

39 一

一  ところで︑かういふ四季の循環的推移を︑軍に推移しつつあるといふだけの事實として眺める纂を止め︑ひとたび る事にまりても︑あきらかにうかがはれる︒ として︑ ﹁古今和歌集﹂以下の勅撰和歌集・公私の撰集・歌合等に至るまで︑四季の推移が非厳に重婁祠せられてる 春相聞r夏雑歌・夏相聞・秋雑歌・秋相聞・多難歌・冬相聞といふ四季による繋然とした分類が見られるのをはじめ れた推移によって性格づけられ︑それが作品と即慮してみる事は︑例へば︑ 蝋︑萬葉集﹂霧八・照応において春難歌・ る事もしばしば論かれてるるとぽりである︒特に四季の攣化に就いて見る時には︑藩翰の愚答部が︑四季の調和のと じてみる︒かういふ風土の中に生れ乏くまれた日本交藝が︑深く風土に規定せられて︑猫自の世界を形成して來てる 在してみるのであって︑その土地の起伏と山水の配合と動植物の多様と四季の攣化とは日本猫自の風土的特殊性を生  日本は︑周知のとほり︑東亜季節風帯に鳩し︑暖流と寒流とがこれを團寄して流れる︑氣候の溜暖な國土として存

四季それぞれの性格の比重とでもいふべきものを想定して眺めなほして見る時︑四季は︑水亭的に循環する圓をなし

     日本古典丈藝と北方的性格

(2)

一一 S0一

      日本盲典交藝と北方的性格

つつ推移してみるのではなくして︑冬季を下方に夏季を上方にそれぞれ位置せしめて循環する圓をなしつつ推移して

ゐゐ︑といふべきむめである事が考へられるであらう︒和辻哲郎博士は﹁風土﹂において︑日本の風土は︑モン天一 .ン的風土域に含め得られ︑特に︻︑大雨﹂と﹁大雪﹂との二重の現象を持ち︑ ﹁︐熱帯的・寒帯的の二重性格隔によって

性格づけちれる最も特殊な風土であるとしてゐられる︒私共の通常の言葉に置き換へて瞬く大まかに理解すれば︑そ

の熟帯的性格を南方的性格と坪び寒帯的性格を北方的性格と呼ぶ事が出遜るのであるが︑さういふ ︑熱帯的・寒帯的し

風土を持つ日本においては︑夏季と冬季とを蛸脚とする南方的なものと北方的なものとの夕立と交錯と滲透との作用

を内包した攣化極まりない循環を繰り返し︑しかも北方的なものが︑甲常にあらたな上昇の起黙をなし︑やがでまた︑        へ 下降の里親をなすといふ位置にあってそれを行ってみるといふ事が出馬るの縛はないかと考へられるのである︒そし

て︑さう考へられる事によつて︑必然的に︑日本民族の﹁生﹂は︑その根源的なものが︑常に︑北方的なものによつ

て最もきびしく目畳めしめられざるを得ないといふ事も考へられて曇るであらう︒ここに︑7田本文藝の傳統を把握す

る一つの賢き端緒を見いだす事が出塁るのではあるまいかと思ふ︑ゲーテは︑その 伊太利紀行しの中に︑千古を

通じて憂らない自然ゐ影響はあらゆる黙で難敬すべき北方入の性格を規定tてるる︑と払ふ事を語って︑きびしい北

方的風土に規定せちれる北方人の誠實な生き方を指摘してみる︒しかし︑臼本文藝におい℃︑かういふ北方的なもの

ほどのやうな性格の.ものとしてあらはれてみるのであらうか︒

       ×      ×      ×

 日本文藝は隔 ﹁︐萬葉集﹂において︑まつ︑いはゆる﹁直接表現︸による醇乎たる世界を完成した︒それは︑南方的

なものと北方的なものとが︑何よりも﹁温和﹂において︑比重の調和が保たれてみる﹁大和﹂を申心と七た丈藝圏に威

棄したものであるが︑星の直接表現﹂羅夕曇﹂に基づいた驚であっただけに︑北方的奮のが星L窺定

(3)

一41一

してみる力のあらはれも亦直接的であった︒

  藻漫ゆく鴨の羽がひに霜ふりて寒き夕べは大和し思ほゆ︵雀一︑志貴皇子︶

         た       あぎ   たづなら   族人の宿りせむ野に霜降らば吾が子朋ぐくめ天の鶴群︵巷九︑潰唐使の母︶

     いあト       こ  よパリ   霰ふり甚も風吹き寒き夜や旗野に今夜吾がひとり寡む︵巷十︑作者未詳︶

 いつれも北方的季霊感のヒに深く立つた歌境を形成してみる︒この季節感が最もなまなましくあらはれてみるのは

山上憶良の作﹁貧窮問答の歌﹂の類であらうか︒すなはち︑億良は︑

   まじ        よ      まじハ       よ    すべ      かたしほや       かすけ ぎけ   風雑り 雨降る夜の 雨譲り 雪降る夜は 術もなく 塞くしあれば 堅鞭を 取りつづしろひ 糟湯酒 うち

  すす       しほ       ひけ      あれ  お      ほこ   暖ろひて 暖ぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 顎かき撫でて 吾を除きて 入は在らじと 誇ろへど.寒

        あさふすま     かかふ   ねのがたぎた      き そ       よ   くしあれば 麻余 引き被り 布肩衣 有りのごとごと 服襲へども 継ぎ夜すらを われよりも 貧しき入の        あ こ   父母は 飢ゑ寒からむ 妻子ども億︒乞ひて泣くらむ この時は 如何にしつつか 汝が⁝世は渡る︵巻五︶

と詠じてみるのである︒        が  右に掲げた諸作によつてもあきらかにうかがひ得られるやうに︑北方的なものは︑たしかに︑暗くて嚴しいものを

その風土的性格の中に藏してみる︒それは︑人間の生を深淵に臨ましめる事によって︑眞實に深く目畳めしめると共

に︑強い誠實さを鍛へ上げて行く作用を持ってるる︒しかも︑それが︑やがて︑眞にはげしい生の奔騰や眞に高くほ

がらかな魂の飛翔といったやうな歌境をも生み出して行くといふ事になるのであらう︒

  いは       おろみ      わらび   石ばしる垂水の上のさ蕨の慕え出つる春になりにけるかも︵総八︑志貴皇子︶        あめ   春過ぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香甲山︵毬一︑持統天皇︶

 かういふ作品の迫力も︑北方的性格の持つ暗.さやきびしさを媒介する事によって︑はじめて全き理解が得られるの

     目本古典丈藝と北方的性格

ゴ孝

(4)

一42_       日本古典丈藝と北方的性格

ではあるまい.か︒

 山部赤人が吉野で詠じた作︑        ひきぎ   ぬばたまの夜のふけぬれば久木生ふる清き河原に千鳥しば鳴く︵毬六︶ 慮︑藩浮の奮起喜る歌の棚致遭難馬込選奪ら鱈勇もので聡が︑この警急は︑や麿︑北方

的なものの深く滲透してみるところがら獲せられて法るものに外ならない︒叉︑       わ   今朝の朝げ雁が音聞きつ春翫山もみちにけらしわが心痛し︵巻八︑穗積皇子︶

  夕月夜心も萎ぬに白露の置くこの庭にごほろぎ鳴くも︵霧八︑湯原王︶    ・         脇

のごときが示してみるものは︑夏から秋への⁝一やがて冬への一遥軍なる水李面的推移の線の上に位置してみるもの

では決して無く︑毒きらかに︑.傾斜線も七くは下降線の上蕉位置してみる習知ひ得られるものであジ︐菱こにしみじ

みとしみとほる感情が具艦化せられてみるのである.

 以上の叙述は︑北方的なものをあまりに軍純化し過ぎたであらうか︒﹁萬葉︑しの詩人黒め立つ℃みた風土域は筑紫

に至り東國に及ぶびうがゆを実りて居り︑そこにあらはれる北方的現象も決して軍純なものではない筈である︒.大俘

義は︑橋守として誓言に詠じ言作に註し︑﹁幣の風土︑燈橘のあること希なり︒﹂黍鷲断獲鞍と

記して︑風土の相違に上れてみる︒しかし︑北方的性絡を上述のやうに把握する事によって︑﹁萬葉﹂の世界の眞實        と厚みと多様とは︑はじめてその深い因由をあぎらかにして薫るのではあるまいか︒しかも︑この事は︑ 触︐萬葉・﹄以       へ 後の日本文藝︐の展開を考察しょうとする者にとって︑まことに曙示的である︒       ゆ  さうい.ふ﹁萬葉﹂の世界で︑北方的なものが最も崇高な美にお︐いて把握せられてるたものは︑策路の富士の山を詠.

       が      も じた山部赤入の歌であらうか︒すなはち︑悲三にある次の名歌がそれである︒

(5)

一43一

    不鑑山を望める歌唱首井に短歌

  あめつち       かな       ふ ドレ ヨ たかや   天地の 分れし時ゆ 榊さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影

  も隙ろひ 照る月の 光も見えす 白雲も い行き着り 時じくそ 雪は降りける 語り櫃ぎ 言ひ糠ぎ行かむ

  ふ じ   たかれ   不鑑の高嶺は.

    反歌

  た のマほり   田見の浦ゆうち患でて見れば眞臼にぞ不霊の高嶺に雪はふりける

 富士は﹁︑蒔じく﹂雪の降る山−⁝一北方的なものが恒常の姿において保たれてみる山であり︑しかも︑犯もがたい崇        へ 高さにおいて立つ山であり︑永遠の﹁榊さび﹂の山であるとして把握せられ℃みるのであって︑それが作者の透徹し

た藝術的態度によρて︑希有な端嚴の美としての詩境を生み出してみる︒これはまさに﹁︐さび﹂の原型といふべき竜

のであらう︒しかし︑この哨さび﹂は︑富士自膿の示す量性と北方性とが作者の北方的崇高美への思慕といみじくも

感合して︑端嚴そのものといふべき詩境に結晶したものといはなければならない︒しかるに︑注目せらるべきは︑赤

入が見いだしたこの北方的崇高美は︑軍に赤人だけのものではなかったどいふ事である︒

 ﹁︐萬葉集﹂巻三に赤人の作と同様に富士の山を詠じた高橋錨麻呂の佳品がある事は周知のとほ抄である︒.しかし︑

巻十七に次のやうな作の見いだされる事も重覗せられてよいであらう︒すなはち︑大江家持が︑越路の立山を︑北方

的崇高美において把握して詠じた﹁立山の賦一首井に短歌︸がそれである︒

       ひか    か      こし  なか  くねち      しじ       きは  か        すめがみ   天ざかる 鄙に名懸かす︐越の中 國内ことこと 山はしも 繁にあれども 川はしも 多に逝けども 皇榊の

  うしは   いま    にひかは        ここなつ         し       か お か ひ   ら      あさよひ   主宰き坐す 薪河の その立山に 常夏に 雪降り響きて 帯ばせる 可多加比河の 清き瀬に 朝夕ごとに

      がよ         ゆこしのは     よそ      ようろよ      いま   立つ霧の 思ひ過ぎめや 在り通ひ いや毎年に 外のみも ふりさけ見つつ 萬代の 語らひ草と 未だ見ぬ

     海本古典交藝と北方的性格

(6)

一44一

臼本吉典女藝と北方朗性格

      ゆこも   人にも萱げむ晋のみも名のみも聞きて羨し蕊るがね       ミこ鋭つ       か℃   立山に降り置ける雪を常夏に見れども飼かす榊からならし

  か お か ひ      リ      ジよ   可多加比の河の瀬清く行く水の絶ゆることなく在り通ぴ見む

 同じ巻十七には︑この家持の作に和した大俘池主の類歌もある︒そして︑この家持の作にしても︑倉主の作にして

・港︑赤人の作や轟麻呂の作から影響せられた跡が歴然とレてるるのである︒しかし︑右のやうな作が富士の山の詠と

共に同じ﹁萬葉﹂の糧界に見いだし得られるといふ愚輩は︑軍なる模倣の問題を越えて︑民族の美心に深く鱗れる永

遠な惹ものの性格を暗示してみるのではあるまいか︒ここに﹁さび﹂の傳統が生れてゆく深い根源が見られるかふ思

はれる︒  墾安時代に入って交化の中風は李安京に移行した︒それは︑丈短における風土域がその中心を大和から山城に移行

せしめたといふ事に外ならない︒しかるに︑深く注目せらるべぎは︑それが︑文藝における北方的なものの比重をい・

ちじるしく減じてしまふ結果になったといふ事である︒賀茂眞淵は︑ ︻︑萬葉集︸の歌風を﹁ますらをぶり﹂もしくは

ますらをの葉2である右︑否今和歌釜の歌風を晃をやめぶ﹄もしくは﹁女ぶ2であるとして恕騨

型心知特に︑曇含風に磐ては︑亟餐に﹁享歌集の頃と成皇は︑男も女山に詠みしかば︑礎癩︑

 の分ち無く成りぬ﹂と述べてみる︒.叉︑一回戦︑ ﹁古今﹂風は一理智的︺もしくは﹁機智的﹂であるとして性格づけ

られてみる事をここに想起する嬰があるであらう︒これらは︑すべて︑﹁魂の故郷﹂を求め﹁人牲の奥底﹂に蹄らう

とする﹁永遠への思慕﹂を持ちつつも︑なほかつ︑.意志の薄弱・思索の峡除・沈潜の不足のごとぎに伸なふ弛緩・低

徊重樂・嚢等の野饗包み︑﹁やしきはかな蓋を愚答もののあはれ﹂麟縣難場の世界の中のもの

 に外ならなかった そしてハ ﹁古今し一の母界がこのやうに性格づけられ乃といふ事は︑風土・に規定せられた生がその

(7)

一45一・

根源からいきいきと具艦化せられ℃みる燈界ではなくなってみたといふ事なのである︒

 今︑ここに︻︑古今L歌人の北方的美感をうかがふ手がかりとして︑冬の部の作品を取9上げて見よう︒

  山里は冬ぞ寂しさまさりける人めも草もかれ漁と思へば︵巷六︑源宗干︶

  み吉野の山の白雲つもるらしふる塁寒くなりまさるなり︵乱撃︑坂上乱髪︶.

 ﹁古今和歌集﹂の冬の発すべてで二十九首の歌の中から︑一古今和歌集嗣.の成立した時代の作者の作で︑冬の季節

感が比較的素直に詠じ出だされてみるものを拾ひ上げて見るとしても︑やうやく右の歌のごときが見當るに過ぎない

 ・夕されば衣手寒しみよしのの吉野の山にみ雪降るらしβ巷六︑以下同︶

  降る雪はかつぞ消ぬらしあしびきの山の瀧つ瀬音まさるなり

  この川にもみちば回る奥山の雲げの水ぞ今まさるらし

  ふる里は吉野の山し近ければ一日もみ雪降らぬ日はなし

  わが宿は雪降りしきて道もなし踊み分けて訪ふ志しなければ

 右の諸訳はいつれも﹁諌人知らす﹂の作である︒これらの作の持つ北方的季節感も︑﹁もののあはれ﹂と﹁優雅﹂

とを性格とする調和的世界の中に立つ℃北方的なものを取りあげたのに外ならないといふのが最も適切であらう︒か

うして︑その含む作品の憂欝と厚みと多様とにおいて︑﹁古今﹂の世界は﹁萬葉﹂の世界に遠く及ばないものとなら

ざるを得なかったのであった︒

 しかし︑かういふ世界を再び風土との深い關聯の上に取り戻して行ったのは︑詩人による北方への行脚の傳統と北

方的文藝理念の磯見・深化の過程とであったと思ふ︒それは︑ ﹁もののあはれ﹂の中に起黙を持つた傳統の上に見い

だされて行った世界であったから︑勿論︑﹁萬葉﹂に復遍した世界ではなかった︒しかし︑それにもかかはらす︑そ

     冒本古典丈藝と北方的性格

(8)

46 一

一 れが﹁︑萬葉﹂の富士の山の詠に呼鷹するやうな北方品等高美であった事は興味深いものがある︒     が       あ      疑本古典丈藝と北方的性格

闘脚 @北方への行脚の傳統︐

 矯本り地形と交響傳播の蓬路とは︑大和や山城に謝して︑より一層北方的なものを東國から奥羽への方向において

見いださしめるが︑軍安時代において︑和歌と小言との展開に甥七て甚だ点きい影響を與へた﹁伊勢物語﹂が︑初段

の物語の申にまつ﹁みちのく    しのぶずり・       むかこびビ陸輿︸の㌫信夫摺Lを取レ入れて﹁.普入﹂の﹁風雅﹂の幽界を語り・七段目から景にありわび 輪て囎挿いきける﹂男や﹁聰が方に行煽て住み所もとむしる93や﹁武姦直までまどひ舞き﹂けみ男や﹁磯翼瞬にすすう

に行き至りにけ﹂る男の物語を次々に語ってみる事は︑以後の北方ぺの思慕をいちはやく性格づけてるる︒それは︑

 ﹁︑風雅︺に生きる者の思慕としてであるに外ならなかったが︑同時に北方的素朴さをつらぬく忌詞なものへの思慕と

してであった事も察するに難くない︒

  みちのく   三三σしのぶもちすり誰ゆゑにみだれそめにしわれならなくに         ︑ .心嚢も︑.霧難語﹂の初段に引かれてゐ謹の音黒黒専意鱗麟黙遡鰹㈱が.聯のしの響享

り﹂によって﹁眞贋のみだれ心﹂を詠じたものである事に注目せしめ窃れるが︑更に︑ ﹁萬葉集しに

  あ き か        ら      も   安積香山影さへ見ゆる山の井の遍き心をわが思はなくに︵巻十六︶  ・  ︑

と見える一﹁大和物語りには下句を﹁淺く億んを思ふものかは﹂として傳へてるる一⁝﹁前㊨采女扁の歌のごとき .が︑門萬葉集﹂にはこの作者は﹁風流の娘子﹂であると延せられ︑﹁古今和歌集﹂の橡麺にはこの歌が難波津の歌と

共に﹁︑歌の父母﹂として奪照せられてるた事の語られてみる魁のであるなども.上蓮の事を察せしめるに充分であら

う︒       .

(9)

一47一 羅蒋・蓬間︒暴達蓮華奪返毒︒切物輩柴強直︒摂生髪毒︒轡離歌鉾定置寧槻弗ぞ 傳食穐みる事は︑眞儒の問題を越皇︑︑意味深意はれる︒すなはち︑・峯談﹂雀二に暴講臣盗三篠后︵稿y︒ に外ならなかった︒ ﹇︑古事談﹂に﹁︐伊勢物語﹂によって有名な在原孤島の東國への下向が歌枕を見るためであったと を黙じ℃みる︒しかし︑それは︑第一に︑風雅に生きる人々によって北方的歌枕への思慕の傳統が開かれて行く契機  かうして︐﹁みちのくに﹂は︑ ﹁︑伊勢物語﹂あた9を主たる契機として︑北方的なものへの思慕に勤して一つの灯

あるのである︒        ゆヨ  ところで︑支軸人による北方への思慕の傳統は︑能因法師から西行法師に結ばれる行脚の系譜によって︑ゆるぎが

たいものが築かれたといつ℃よいであらう︒       ・

 西行法師は﹇︑山家集=斡次の歌を遺してみる︒

    みちのくにへ修行してまかPけるに︑白川の關にとまりて︑所がらにや常よ9も月面白く哀れにて︑能因が

    秋風ぞふくと申しけむ折いつなりけむと思ひ出でられて︑名残おほくおぼえければ︑・閣屋の柱に書きつけけ

    る      ︑

  白河の關屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり

 この一首は︑ 一薪拾遺和歌集 の雀九綺族歌の部に︑ ﹁東の方へ修行し侍りけるに︑白河關にて︑月のあかかりけ

れば︑柱に書き付けける﹂といふ詞書が附せられて入卜せしめられてるるものである︒

 西行法師が︑﹁︐後拾遺和歌集﹂巻九霧三聖の部に入黙せしめられてるる能因法師の作︑

    みちのくににまかり下りけるに白川の關にてよみ侍りける

  都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白川の關

     ほ本古典交藝と北方的性格      

(10)

一48一 たしかに深いのである︒.   恕 西行法師が能因法師の奥羽行脚の精魂をいかに重ぐ背負ってみたかをうかがふ事が出來る︒そして︑この事の意味は によって︑右の一首を成したものである事は言を侯たないのであるが︑ ﹁山家集﹂の詞書と歌とを合はせ味はふと︑      縫本古典丈藝と北方的性格

 右の能風法師の歌に就いて︑控屑輔の7袋草紙﹂巻三に︑

  能同上ニハ不レ下踊躍奥州一︒爲レ詠 一塁歌一︒霧二籠居シテ下二向奥州ノ之由ヲ風聞云々︒二度下向之由アリ︒於二一︑

  度一者實鰍︒  .       ︐     .

 とあったり︑ ︷︑十訓抄﹂第十に︑ ﹁都にありながら︑此の歌を出ださん︑無念と思ひて︑人にも知られす︑ひさし

﹁くこもりみて︑色をくろべ日にあぶりなして後︑みちのくの方へ︑修行σついでによみたPとそ披露しける甑﹂ 韻書羅蓑綾とあっ㌃する傅へは︑從來︑右の歌を馨者の罪な讐を阻ん棊たが︑︑響護の罷因

法師集L議刻せられた馨に︑志田霧羅漢って︑籠居読の誤りである禦指摘せら発︒灘鰐雛學細志

田博士は︑又︑︷その際︑﹁芭蕉が﹁奥の細道﹂の難族行を決行した心の一隅には.︑自分の先行者と思ひなされる西行

や能因の足跡を踏みたいといふ願ひも潜んでみた事が考へられる︒それは﹁奥の細道﹂に幾たびか西行や輪膨因を引合

に出してみる事からも想像ざれる所である︒﹂として︑客人の頻︐裳の記しに﹁こ㌧に芭蕉老入は霞と㌧もにむさし野を

出︑能因・西行の跡をしたひしとある部分をも引用してゐられるし︑特に︑福因と芭蕉との關係に就いては︑ 芭蕉

の能因の歌に封ずる知識及び遠因に謝する崇敬の根元は恐らく直接或は闇接に﹁後拾遺集篇その他のものにあって﹁

能因法師集じとば交渉のないものではあらうが云々﹂と愚言及してゐられる︒しかし︑ζの問題に越畑て﹁私のこの

ささやかな論考は︑芭蕉をもつと深い必然的な流れの上に立たしめて見ようといふ意翻を持ってるるのである︒

 さて︑ ﹁山家集﹂の詞書と歌とを味はつて見るとあ昌きらかであるやうに︑濡輔の﹁︑袋草紙﹂にすでに能因法師の籠

(11)

49一

居丈が揚げられてむた程であったのだから︑西行法師にしても恐らくさういふ傳へのある主位は承知してみたであら

うと想像⁝せられるに恩かかはらす︑帰因法師の白河の關の歌に封ずる西行法師の⁝鑑賞態度には︑さういふ疑念が抱か

れてみたとは考へられない︒むしろ︑まっかうから能因法師の風雅心に燭れつつ自らの哀れを深くしてみる︒いひ換

へれば︑西行法師には些細法師の族の風雅を身を以て自らの世界に承け入れつつ新たな麺麻たらしめようとしてみる

態度がうかがはれるのである︒しかし︑西行法師の鑑賞態度をさういふ風になさしめる根源が能因法師の歌自膿の中

に宿ってみたといってよい︒

 能因法師の﹁都をば﹂の歌は︑軍純であって︑なく塾ってみるが人間の裏付けを深く持つた厚みといったやうなも

のは無い︒そごに籠居論のごときが生じて診る一つの根擦があるかと思ふ︒しかるに︑この歌にあっては︑風雅心に        たけたか 支へられた自然の推移感が︑.長高くなごやかなしらべの中に︑さびさびとした︑奥行のある歌境を町域し︑そこに一

幕端嚴とでもいふべきものを宿してみる︒それは︑ ﹁白河の關﹂といふ歌枕に就︑いて詠ぜられた題詠的な性格を持?

た歌境であり.普遍的風雅心の其事化せられ%歌境であるといひ得られるものであるには相違ないが︑都の噸.霞﹄か

ら關の一︐秋風﹂への季節的推移は︑關を越えたかなたべの!:より一暦北方的なものへの奥行を曙示してみるところ

があり︑そこに︑風雅に生きる交真人に甥して︹みちのくにへへの族心を動かさしめすには措かない力を宿してみる       呼 といふ事になるのであらうか︒

 ここで︑芭蕉の﹁奥の細道﹂を取り上げて見ると︑西行法師の位置は一夜あきらかになるかと思ふ︒すなはち︑芭

蕉… ヘ白河の關を越えて次の文を遺したのである︒         〆       ︐

  ヒねレのりぴるぜヒ   心許なき戸数重なるま㌧に︑白河の關にか確りて族心定まりぬ︒いかで都へと便り求めしもことわりなり︒中に

       り      おもかけ   も此の關は三門の﹄にして︑風騒の人心をと穿む︒秋風を耳に淺し紅 葉を悌にして︑青葉の梢猫あはれなり︒卯

     萄本古典丈藝と北方的性格

(12)

       鷲本嘉麦藝と聡方的性格︑

    の花の白妙に茨σ花の嘆きそひて︑雪にもこ謙る心地ぞする・古人冠を正も衣装を改めし事など・︐涛輔の筆にも︐

鐙 と璽め置かれし参︑︒.︐ }。 @       曳   ・    ︐   桝

一     卵の花をかぎしに關の晴れ鵡膚かな  ︸曾良         へ    芭蕉は︑この文を成すに當って︑白河の關を詠じた書入の歌を縦検に用ひた.       づ    心許なき羅鰍重なるま曳にーー︐︑績後山逡和歌集﹂三七物名に﹁小忌衣しを詠じた津守毒素σ作・﹁都出でて撮数思        ち   へば道とほみころも肯ける白河の等しがあ鋤︑なほ﹁綾拾遺和歌集﹂.毬九智慮歌に認じ作者の作﹁白河の關までゆか

  ぬ東路回数経ぬれば秋風ぞ吹く﹂寮あ爺これちによったも象︒︑        へ     ね い      ヒヒ   ・いかで都へと一編く知られて盛る通義﹁拾遺和歌藥﹂︑馨六二歌に﹁みちの國の梅壷の瀾越え侍りける回し・と詞書

 窪めある亭象盛の作﹁便夢みらばいかで都へ告げやらむけふ白河の關は越えぬと﹂たよつ勉もの耐あ.る專があきらかで.

 軸ある一一

  丁風騒の入構をま雪むトー︑古來の風雅人を特定の雄といふ事なく指馬たものには下墨眠いが︑直接には㌦先回観た﹁

  出家集﹂の酉行法師の作﹁白河の直屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり﹂によつたものといってよいであぢう︒

   秋風を耳に幽しーー良河の關に就いて秋風を詠じた歌は勅選舞激集の中に他にも見いだし得薫れるがへここ億欝然

  三三法師の︐.﹁都をば霞とともに立ちしか翌秋風曜が吹く白川の欄﹂によ.つたものとすべ誉であみ︒.ジ  覧

  紅葉を侮にして︑青葉の梢一〜﹁千載魂歌集﹂玉壷貴下に﹁嘉懸二年法中寺巌の濃鼠の歌舎忙曲路落葉といへる心.

      へ  て   をよみ管ける﹂と詞書めある礎三位頼政の作蔀にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白川の魍壕つ奪︑       へ      もみちぱ ド   のである事はあきらかであるが︑同じ集にごれと並べで入集せしめられてるる左大舞親︷示の作︷︑紅葉のみな紅に散動

         ぞ       ぴ   しけば名のみなりげり白川の關しによってみる事も當思考へちれる︒

(13)

ゴざ

一51一

 卯の花の白妙に涯一−﹁千載和歌集﹂巻三夏歌に﹇︑白河院∵鳥羽殿におはしましける時をのこども歌合し侍りけるに卯

花をよめるしと詞書のある藤原季逓の作⁝︐見ですぐる入しなければ卯の花のさける垣ねや白川の關﹁一によつてみると

考ぺてよいであらう

 雪にもこゆる!︻︑新拾遺和歌集﹂雀九霧族霊にコ二品元年八月十五購夜内裏の歌合に十月﹂と詞書のある丹波濾

守の作﹁今香こそ月に越えぬれ秋風の音にのみ聞く白川の關﹂及び﹁落後拾遺和歌集︒雀詳審族歌に︑百首の歌奉り

し時︑族﹂と詞書のある左大臣の作﹁都をば花を見捨てて出でしかど月にぞ越ゆる白川の關﹁のごときが注目せられ

るが︑志購義秀博士が﹁新註奥の細道評澤﹂に指摘せられたやうに後の歌の需用と見るべきであらうか︒

 , テ入冠を正し−ーー﹁︑袋草紙﹂巻三に﹁竹田大夫國行ト高望陸奥に下向卑属︑白鞘關スグル日ハ︑殊装束ヒキツク・

ヒムカフト云々︒入問云︒何等故哉︒答云︒古脚部入道ノ秋風ゾフク白河ノ開卜讃レタル所ヲバ︑イカデカケナリニ

テハ過云々︒殊勝事簸︒﹂とあるのによつたのである︒しかし︑傳への内容は多少工程るがこの國行の話は﹁俊覆口傳﹂

にも⁝禺てるるのであって︑特に.それが︻︑篤学法師は歌をもうがひしてこそ獅すさびけれ︒草紙などをも手をあらひ

てぞとりひろげける︒﹂とある能筆法師の潔癖性が語られた部分に見える事︑叉︑その結論として﹁墨差をこのまん人

は世のすゑな夢ともかしこまるべき事也︒﹂と語られてみる事のごときが注閉せられる︒かういふ傳へが早くから歌入       へ の心を引くものどなってみたといふ事は︑能因法師の奥粥行脚がすでた西行法師の時代以前から嚴粛な風雅の行脚と

して導入の心に宿されてみたといふ事に外ならない︒それが﹁袋草紙しを通じて芭蕉にも響いてみると見てよい︒

 以.上の通りである︒今︑煩はしさを厭はす︑從覆すでに常識となってみるものまでもことさらに取り上げたのは︑

芭蕉の﹁奥の細道﹂が古人の風雅の世界をいかに重く背負ってみるか︑そして︑それにもかかはらす︑それがいかに

新鮮な結晶の美をなしてみるかを見たかったからである︒

     目本古典丈藝と北方的性格

(14)

_5努__

      資本古典丈藝と北方的性格

 しかし︑ここまで來てもう蔑舅の細道﹂の交を熱劃して見ると︑その結晶⁝の美を遷してみるもの塾︑山家讐

の﹁白河め﹂の歌とその詞書之を続二し℃みるもめといかに深く呼奏してみるかを爽見する. ﹁︑奥の細道﹂には︑.一

種の﹁つづ託の興しとでもいふべき美があるが︑同時に︑風雅において雪景を求めてみる人間からはじめて饗して來      が      サ る重さがある︒心の深奥の世界から傳はつて湿る冷徹なあるものがある︒それは深くあはれに立ちつつしかもいはば

 へ  も  ヘ  ヘ  へ  も  も  も −さびさびとした柔なのである︒そして︑それこ.そは芭蕉自らのものであり︑同時に西行法師と深く呼憲してみるも騒

に外ならない︒しかるに︑さういふ西行法師の世界が能因法師と深く呼製してみるものであった事はすでに槻だ通り

である︒ここに︑風雅の翫界において能因法師と西行法師と芭蕉とを結ぶ傳統の﹁線をあきらかに認める事が出來み

のである︒といふ事は︑芭蕉⁝の風雅心を深く衝き動かすだけの傳統が︐能因法師から西行法師に鞘ばれる行⁝脚の系譜

に器いて築かれてみたといふ事に外ならない︒       な  しかし︐この事は又︐白河の關が風雅の翼果において一つの重要な位置を獲得したといふ事でもあったのは興味深

い︒それはどのやうな意味においてであ◇たか︒      ・

    あづまに下りて侍りける時族の歌あまたよみ侍りけるに  從二位行能

  同じくぼ越えてや見まし白河の關のあなたの朧がまの浦    .      一

 これは﹃︑績古今租歌集﹂の蓉十割族歌の中に入長せしめられてるる歌である︒今や︑この歌の意味は輕謁しく見過

ごしがたいものになったと思ふ︒風雅人に﹁みちの器く﹂への思慕が見いだされたのは﹁伊勢物語しあたりからであ

っだが.それがゆるぎかたい傳統となったといふ事は︑正しく︑﹁︑あづま﹂から﹁みちのおく﹂への交通の關門乏し        無 ての﹁白河の關﹁が風雅に避ける關門として定位せられるに至ったといふ事に外ならなかったわけであるゆ右の﹁同

じくば﹂の歌はあきらかにそれを代辮⁝してみるといってよいのである︒

(15)

   しかし︑ ハみちのおく﹂へのかういふ行脚の傳統が築かれてみた聞に︑ ﹁みちのおく﹂の世界はいかなる性格の世   ゆ   界として風雅人にはたらきかけつつあったのであらうか︒       ︐

   今︑西行法師に考察の基黙を置いて︑それを考へるとすれば︑藤原身方の問題が耳翼を與へてくれるやうに思はれ

  る︒    西行法師は﹁山家集﹂に次の歌を遺してみる︒

      みちの國にまか9たりけるに︑野中に常よりもとおぼしき塚の見えけるを︑人にとひければ︑中將の御墓と

      申すはこれがことなりと申しければ︑巾將とは誰が事ぞと叉問ぴければ︑二方の御事なりと申しける︒いと

      悲しがりけり︒さらぬだに物哀れにおぼえけるに︑霜枯︐の薄ほのぼの見え渡りて︑後にかたらむ詞なきやう

      におぼえて       ミおご     朽ちもせぬその名ばかりを留めおきて枯野の薄かたみにぞ見る

   この.一首は﹁新古今和歌集しの黒八哀傷歌の部に入聾せしめられてるるのである︒

   藤原實方は︑一條天皇時代の入物で︑歌人としていかに非凡であり又その作がいかに尊重せられたかは︑﹁拾遺和

  歌集﹂をはじめ以後の勅撰和歌集に入講せしめられた数多くの歌が物語ってみる︒講話集では﹁今昔物語﹂のごとき

  に早くも﹁藤原實方朝臣於二陸奥國一面二和歌一語﹂といふ物語を掲げ﹁此中將ハ脇ク瓢歌ヲ護ム方ナム極ダリケル︒に

  建軍をも語ってみる︒しかるに︑この職方が陸奥守に任ぜられたのに就いては次のやうな傳へがある︒㌧彼は︑ 一條天 ・ふ蒔代に・殿上轟いて藤原蔑と︒論t・難の曇り・蔑の冠叢って小庭に投げ棄てて退散するとい叢件

  をひき起した︒それが天皇のお怒りに鰯れて左近衛中墨を罷めさせられた︒しかし︑彼の歌才が惜しまれた結果は︑ 53

  ﹁歌枕見てまみれ﹂といふので陸奥守に任ぜられる事となった︒かういふ維緯で﹁みちの國﹂に下り︑途に任地にあ

       日本吉典文藝と北方的性格

(16)

一一 T感・一

      臼本古典交藝と北方的性格

 つて死去し痩︒かういふのである︒この傳へは.早安期に野立したものでは先の﹁今曹物語しにも賜れぢれてるない

し︑和歌關係の諸書にも見いだされてみない︒が︑鎌倉期に入ると﹁古畢饗し㎜︑撰集抄し﹁源拳盛嚢記し﹁十訓抄し

のごときに髪︑更に倭そのまま篠鹸良ρ﹁東灘随幾等にも引轟がれて記されてみるのである︒右の諸書の 婁は﹁轟毯の成立が調号︑︑懇から建保究けて輪㌫雑該頸噸ゴ軍影響あ聞の成立である

黒雲られてるるが︑それは西行野壷し斐塗ハ箕饗兀年︶験聡︒︒笹な下る事二+緻年である.さう        ダ して見ると︑圏割に慰する﹃︑古事談﹂以下の傳へは︑西行等にも無論有名な事であった筈である.そこで︑今︑﹃古︷

事談﹂第この記事を掲げて見ると次の通りなのである︒          ﹁一條縦様時︒實方與二行威﹁於黛殿上﹁口論之聞コ追認取嵩行成之冠⁝投二棄小庭 退散云々︒行域無⁝ 謬氣⁝. 翻喚⁝ 

  主殿司見取一一寄冠一︒撰レ砂藩薪之云︒左道⁝㎝イマスル外達哉云々︒主上自⁝㈲小蔀⁝御覧ジテ︒行成ハ召仕ッベキ者也

  

蘒hテ被補二饗塑.好灘璽溺婁ヲ譲贅テ写レトテ離任一陸奥守 歴.於存國弩弓︒

 實方の行爲は導因の静穏な態度と謝照的に語られてみる︒事蟹.實方には激し易いところがあったのであらう︒そ

れは︑しかし︑そのまま彼の眞實に生凌る入間のあらはれに外ならなかったらしいのである︒そ之に實方の悲劇的境

涯が待ち受けてみたといふ事になるの一であらうσ      ・  .        

  うたたねのこの世の夢のはかなきに畳めぬやがての命ともがな        ゲ  これは﹁子におくれて侍ウける頃夢に見てよみ侍りける﹂といふ詞書が添へられて栖︐後拾遺和歌集﹂の雀十哀傷の

部に見えるものであるが︑.この判首に籠る眞實の悲しびは︑ ﹁今昔物語﹂の著者も注目七てるるやうに︑たしかに實

方の人間から流露してみるものなのである︒彼が陸奥守になって.下って後に︑都の親しい入選と交はした歌で㍉勅撰        れ ﹁和歌集に入漁せしめちれてるるものを拾って見ても︑さういふ彼の人聞があきらかに5かがはれる︒

(17)

55 一

歌㏄祝の探索ど結合した世界は︑何入をもあはれ深く動かさすには措かないものを持って居り︑これが西行法p師の奥羽 一       溜 リ︒﹂と語ってみるが︑以上のやうに親て早ると︑撃方といふ入物の人掬網誠實と歌人的力量と悲劇的終局とが北方的  ﹁ムフ出臼物語﹂には﹁︑.年歯く守二成テ︑戸口國工下ナ三年ト云二曲墨画ク靴Xニケレバ醜轟星レナル難癖鼠一二尤二限り掃シテ止ニケ        バカナ       ナク       ヤミ る◎  右に掲げた諸歌のごときを槻ると︐實方が友交關係に耀いても誠實な生を方をした入物であった事を知る事が出來・   何事も語らひてこそ過ごしつれいかにせよとて入の行くらむ︵﹁−気後拾遺﹂聡警離別︶     實方朝臣みちの國へ下9侍りける時給はせける         花山院御製   とどまらむ事は心に叶へどもいかにかせまし秋の誘ふを︵同右︶     かへし    9       藤原三方朝臣   別れ路はいつもなげきの絶えせ漁にいとど悲しき秋の夕暮︵﹁新古今田聡九離別︶     實方の朝臣みちの國へ下ク侍りけるに饒すとてよみ侍りける  中納言壇家   やすらはで思ひ立ちにし東路にあ9けるものかはらからの關︵﹁後拾遺㍑聡+九雑五︶     みちのくにに侍∵9けるに申將宣方の朝臣の許につかはしける  藤原實方朝臣   言傳てむみやこの方へ行く月に木の下暗く今ぞまどふと︵﹁新千載⁝恩威離別︶     返事に        ︐    η         藤原實方朝臣     陸奥に下り侍りける時.前大納言公任の許よりしたぐら遣はすとて︑都の月を懸ひざらめやはと箆へりける   東路の木の下曙くな9ゆけば都の月を簸ひざらめやは︵﹁拾遺﹂巻六賎し     實方朝臣みちのくにへ下り侍.りけるに︑したぐら遣はすとて  右衛門督公任

     翼本古典交藝と北方的旧格

(18)

一56 一

     冒本古典文藝と北方的性格

行脚の精神に深く響いてみたであらうと想像する事は決して不自然ではないであらう︒西行法師は實方の墓を見ての

あはれを詠じ遺したが︑後年の紀行に棄て見ると︑道興准后の交明+八年黒馬類鷺の族の記遍羅記淀

垂蕉の元緑二嘉言編雑卸の叢記翼編道匠善方の藩立ち寄ってみる記事が見え︑婁の悲劇的風

雅は中世から芭蕉にかけての風雅入の心に深いあはれとして宿って來た事を物語ってみる︒軍に歌枕の探索といふ黙

のみから見ると︑一般的には︑西行法師の歌枕探索の行脚における︑通りすがりのあはれであったとも解し得るであ

らうが︑しかし︑今や︑さうして見過ごすには實方といふ入聞の存在のし方があまりに重かったやうに思はれる︒用そ

れが西行法師を深く動かして歌を遺さしめたといふ黙からいっても︑その西行法師の歌が中世から芭蕉に至る文藝に

極めて大きい影響力のあった﹁新古今和歌集﹂に入嫁せしめられてるるといふ黙からいっても︑ ﹁古事談﹂以下中世

め諸書における傳へぶりからいっても︑蘇方の世界は︑中世の﹁みちのおく﹂への行脚の精榊をして︑入間あ深層の

惑哀に立たし一めゐ一つの有かな契機をな←てるたと考へる事が出來るかと思ふ︒芭蕉は﹁奥の細道﹂に︑﹁古入も多く

族に死せるあ9︒﹂と書いたが︑實方もその古入の一入であったのでは︑あるまいか︒しかし︑以上めやうに考へられる

根擦は︑實は︑南方の存在のし方が蒔くきびしくびき起さしぬて蒙る眞實の悲哀が︑北方の世界に直接しもしくはそ

の中にあって生活する人閥の悲哀に深ぐ結びつくものに外ならないといふ事である︒ ∵胃今和歌集﹂の巻心離別歌の      ド ま       ビ 申に︑三野のちふるが陸奥のすけにまかりけ空母のよめ至と詞書のある作︑

  たらちねの親の守Pとあひ添ふる心ばかりぼ關なとどめそ

があり︑﹁新拾遺和歌集﹂の雀錆止謡歌σ中には︑﹁道因法師みちの國にまかり下りける時︑別れ惜しみて人々歌詠

み侍りけるに﹂と詞書のある俊恵法師の作︑

  これを見よ懸しかるべき行末をかねて思ふに︑濡るる挟ぞ

(19)

_57_

があ6︒これらはいつれも︷︑みちのおくしに行く人を挙る歌であるが︑これらの心を北方的なものから離れて充分に

解する事は不可能であらう︒ともあれ︑すでに﹁伊勢物語﹂に見いだし得られた﹁北方的素朴さをつらぬく填實な竜

の﹂を︑腰帯の悲哀が一層重くまたあはれ深いものにしてるたといふ事が出來るであらうし︑北方への風雅の行脚が

もはや決して輩なる風雅としての歌枕の探索ではなく︑同時に眞實なものへの思慕のあらはれに外ならなくなってみ

たといふ事が出來るであらう︒

 日本文夢解は︑中世に入るとおびただしい紀行を生竜が︑なかんづく東國への紀行の多い事が注目せられる︒それ

らは一面において無論束國と都との交通が頻繁になった事實と呼碧してるるものであるには相違ないが︑しかし︑そ

こに︑能因法師と西行法師と芭蕉とを結ぶ傳統の一線の申に置かるべきものが少からず見いだされる事は見のがしが

たい︒ここに︑白河の蘭から﹁みちのおく﹂への︑もしくは︑それに準ずる紀行のみを籔へて見ても︑︷示久の﹁都の

つと﹂愚妻・六急縫⊇㍉許斐騨に瀟灘監騒纒よ響に書かれてみるのをはじめとと﹂︑鷹仁二年 縫雍M籠に宗勢百河紀行﹂︑丈明+八年離業叫類讐に欝ハ准第遍並置置︑永正六年雑毒継

蕊℃に宗長の棄路窪強ちごときが書かれてみる妻指摘禽事が出來る︒特に︑芭蕉が縷した風雅人では︑

心敬が鷹仁の齪を避けて東瓦に流離の生活を逸り︑またその際に白河の關を見ての獲句を﹁芝草﹂その他に遺しても

みるし︑宗舐のごときは︑・宗長の﹁宗厭絡焉記﹂に書かれてみるやうに.白河の關ぺの族をしたのみでなく︑越後に

過ごした事もあρ︑途に箱根で生涯の果てを迎へてもみるが︑更に︑心敬から直接教へを受けた猪苗代象載も︑白河

方面で草庵生活を螢んでみた事が︑同じく﹁宗砥経鳶記﹂によつて知り得られるのである︒心敬の﹁芝草﹂には︑       ガ   秋風にかへらば雪のみやこかな

の向に就いて︑﹁白河の關にての獲句なれば也︒﹂と註し﹁能因法師が古ごとを引きかへたる也︒﹂とも註してみるし︑

     日本古典交藝と北方的性格︐

(20)

一58一 哀侍りけん︒﹂と想像したと書いて︑ 侍るに云々﹂と暖いた後に關の﹁二所明棘のかみさびたるし聖域に至って﹁譲盛能因ここにのぞみて︑いかばかりの        ゆ ︑宗砥の﹁白河紀行﹂には︑ ﹁白川の關にいたれる道のほム・谷の小河︑峯の松かぜなど・何となく常よグは哀ふかく       旨本古典交藝と北方的性格

  都出でし霞も風もけふみれば跡無き室の夢に時雨れて

  行末の名をばπのます心をや三々にとど葡ん白川の關

の二首の和歌を遣してみるし︑ コ示紙終焉記し・には︑ ﹁このごろ鍍載は︑白河のせぎあたり岩城とやらんいふ所に.

草庵をむすびて云々﹂と書いてみる︒ ﹁みちのおく﹂への行脚は︑︒かういふ縛代を灘て︑芭蕉の﹁奥の細道﹂にその

窮極の結實を見せる事となる︒それは︐輩に熱闘法師から西行法師へ︑そして芭蕉へといふ飛石傳ひの継統ではな︽

して︑それを中軸とした文藝傳統の深い流れの上に立つ必然必至の結實と見るべきものであったと断ずる事が韻回る

秀のなのである︒        ル   月日は百代の過客黙して︑行きかふ年も叉族人なり︒舟の上に生涯をうかべ︑鷺の欝とらへて老いを迎ふる者は︑

  H損族にして族を栖みかとす︒古人も多く族に死せるあり︒予もいつれの年よ凱か︑片雲の風にさそはれて漂泊

 ・の思ぴやます︒海上にさすちへ︑去年の秋江上の破屋に蜘蛛の古⁝巣をはらひてや嵐年も暮れ.春立てる霞の室に

  白川の關こえんと︑そ貸ろ榊の物につきて心をくるはせ︑道組榊のまねきにあひて取るもの手につかす︑云々︒

 以上めやうに北方への行脚の傳統を辿つご來た上で︑蒔﹁奥の細道﹂胃頭の右の丈に眼をそそぐ時.こζからは︑.芭

蕉のもの狂ほしい程に高まった﹁漂泊の思ひ﹂のあった事を感ぜしめられる内と同時に︑詩人達の北方的なもの入の思

慕の傳統そのものが︑恐るべき迫力をもつ℃.芭蕉の思ひを︑その深奥所から爾き動かしてゐ為事を感ぜしめ診れる︒

 芭蕉の世界が行脚と共に深められたものであった事は多言を要しないであらうゆしかし︑芭蕉のさういふ世界旺が

(21)

﹁東國﹂の﹁江戸﹂に三篠が据ゑられつつ深められていったむのであったといふ事︑そして︑そこが叉﹇︑奥の細邉し

の起黙に外ならなかったといふ事は︑今や少からぬ意味を持つ℃來る︒それは︑芭蕉が︑彼自身を︑かつての詩人に

見られなかった程深く北方的人意として形成した場所に外ならなかったからである︒ ﹁幻住庵記﹂の初稿本に書き留        う  ピ う    ノ められてるるところによると︑芭蕉は︑ 一︑善知鳥哺くそとの袖無よりえぞが千しまを見やらんまでと︑しきりに器も

ぴ立しつたが︐同行雨露が﹁多病心もとなしなど袖をひかゆるに﹂心弱って断念したのだといふ︒彼の北方的なもの

への思慕がいかに激しいものであったかがうかがはれるであらう︒

一59_

羅北方的文藝理念の襲見と深化

         丈藝理念としでの北方的なものがはじめて見いだされたのは﹁漸古今﹂時代であった︒和歌史の流れは︑ ﹁萬巽﹂

時代の後に一つの大きい黒白時代を置いて︑全く面貌を新しくした﹁古今﹂時代を患現せしめたが︑それが一途に類

型化の方向を辿って來たにもかかはらす︑同じく﹁古今和歌集﹂を本署として塗くあらたな美の殿堂の築かれるに至

ったのが﹁新享壽代である︒元久二年醇盤七難に生れた勅撰の﹁響今齪集﹂はまさにその最高の韓獄

に外ならない︒ここに︐臼本における詩文藝に新しい墨黒の出鼻轍を見いだしたのである︒しかるに︑・この﹁新古今﹂

時代が最も高潮に濁した建仁期に三型和歌愈といふ珍しい和歌會が催され︑ ﹁やせ﹂﹁涯そみ﹂﹁からび﹂の美が︑

北方的理念として︑はじめて取り上げられてみるのである︒・

藤原定家の萌月記﹂を見ると︑馨二年墨絵二鷺三旦一士百の捨︑その夜六首の叡を三欝に詠じ駐

けて後鳥粥上皇に詠進した油が記されてみる.召されて出席した作者は藤原良繕・慈闘・藤原定家・藤原家隆・寂蓮・

鴨長明の選入で︑鞍懸といふのは︑春夏を﹃︑大ニフトキ歌﹂︑秋冬を﹁からび﹂の歌.繕族を﹁艶躰﹂の歌として詠

     日本古典丈藝と北方的性絡

(22)

一60一 和歌に就いては諸書に見えるのであって︑﹁三膿和歌篇の名を持つ書には﹁ふとく訟ほきに 太有爵詳し︵春夏︶︒ 進せしめられたのである︒ ﹁明目記﹂には︑ ﹁からび﹂に就いては﹁やせすごき由也︒﹂ど註せられてるる︒この三膿      濤本古典文藝と北方的性格      ︐ .

[、 ゥらび砦く細塵︵秋参︶・﹁艶にやさしく幽遊︵懸族︶と脅蝶勝鮨蝋引﹁後言立禦しに

は高言︵春夏︶・疲膿︵秋冬︶・難戦⁝灘︵講⁝族︶とあり︑良器の家集である﹁秋篠月清興﹂には高歌︵蓉夏︶︒痩歌へ秋

冬︶・艶歌︵懸族︶とあり︑家隆の家集である﹁壬三遠﹂には長高様く春夏︶︒有心様︵秋冬︶・幽玄様︵懸族︶とあ

乃が︑特に長明の﹁無名秘抄﹂の記録は繕⁝しくて注目せられる︒﹁無名秘抄しには次のやうに記されてみるのである︒       も  も  も  も  ドも  御所に朝夕侍りし比︑・常にもにす珍しき御言ありき︒六首の歌に︑諾すがたをよみかへて奉れとて︑春夏はふとゲ

  も   ヘ   ヘ   へ   も       も   も   も   ヘ   へ   も   ヘ   へ   も       も   ム   ち   ヤ   ヤ   ゼ   も   も   も   も

  く訟ほぎに︑秋冬ぱほそくからび︑懸族はえんにやさしくつかうまつれ︒もしおもふやうによみおほせすば︑そ.

  のよしをありのま玉に申しあげよ︒歌のさましれるほどを御覧すべきためなりと被レ仰たりしかば︑いみじき大事

  にて︑かたへは蹴退す︒心にくからぬ人をぜ︑叉もとよりめされす︒か﹂れば﹃まさしくその座にまみりつらな           れる入︑殿下︒大倫正御房︒定家嶺家隆・寂蓮予とわっかに六人ぞ侍りし︒愚詠︑ふとくおほきなる歌︒

   雲誘ふ天つ春風かをるなり高まの山の花ざかりかも・

   打ちぼぶき今もなかなん郭公卯の花月夜盛ふけ行く

  ほそくからびたる歌◎     訓    宵のまの月の桂の薄もみち照るとしもなき初秋の塞  

   寂しさは猫淺りけり跡絶ゆる落葉が上の今朝の初霜

  えんにやさしき歌︒

  .忍ばじょしぼりかねつとかたれ人物思ふ袖の朽果てぬまに

      ㌔

(23)

_61一

   族衣たつ曉のわかれよりしをれしはてや宮城野の露

 三面和歌禽がいかに珍しいものであり︑召された歌人達にとってはいかに一大事であったかが︑右の文によっても

あきらかに知り得られる︒ここに取り上げられてみる三雲を注意して見ると︑決して一時の氣まぐれの遊びでは無く        も  へ  も  さ  も  も  も して︑歌境の時代的性格の核心を衝い℃みるものである事があきらかに数る︒艶にやさしき美は︑幽玄美と相通する

ものとして考へられてるたらしいのであるが︑亭安時代をつらぬいて流れて來た傳統的精紳譲へとしての﹁もののあは

れ﹂の上にその極限的な姿において開かれた美でみつで︑ ﹁新古今﹂時代の歌境をも統一してみたものであるに外な        も  も  へ  も らない︒そして︑族と懸との世界がそれを最も深く具膿化し得る世界として考へられてるた豪になる︒叉︑ふとく大

も  へ  も  へ       あ  も  も  も  も  も  も  ヘ  

きなる美は長高美に︑.ほそくからびたる美は有心美に︑それぞれ置き替へられ得る美として考へられてるたらしいの

      も   へ   も   も   へ   ち   ヤ   も であるが︑四季の中︑春夏と秋冬とを早立的季蔀どして把握し︑春夏の季節感をふとく響きなる美に薫じ秋参の季節

  へ  

も  へ   も  へ   も  も   も  へ

感をほそくからびたる美に慮するものとして︑それぞれ配冷したのである︒こけ事は︑文藝にφ48ける季節的性格を本

      も  も  も   も  も  も  ヤ  もロ 來の姿に逡らしめたといぷ事なのであったが︐これこそは︑北方的なものがほそくからびたる−i∴︑明月記﹂によれ

ば﹁やせ﹂﹁からび﹂の一−:譲へといて理念的に見いだされた事を告げる記憶せらるべき事實だと言はなければならな

い︒しかし︑同時に注目せらるべきは︑北方的文藝理念がまつ﹁やせ﹂﹁ほそみ﹂﹁からび﹂・として獲見せられた票

      や  ゼ  ヘ  セ  な  ヘ  ヤ は︑これと勤捌する理念であるふとく大きなる−⁝1﹁壬二集﹂によれば﹁長高﹂の!ーー美に封ルてあくまでそれから

の下降の美としてであり︑みつみつしい上昇力を配しない老境美としてであったといふ事である︒ここに中世におけ

る文藝美が老境美の心界として深化せしめられてゆく第一の出羽黙があったのである︒ 甲案古今∴藝術の美は︑かう

いふ﹁や渉こ﹁濠そみ﹂﹁︑からび﹂の美が︑ ﹁長高﹂の太くおぼらかな美と訓和を保あっつ︑しかも︑艶にやさしき        ゆ 美によって統一せられ浸﹁幽玄﹂の直筆を形成してみたわけであった︒この籍は︑﹁やぜ﹂﹁ほそみし﹁からび﹂に

     日本古典丈藝と北方的性格

(24)

一一 U露一

   胆  舞本古典交藝と北方的性格

よつて見いだされた北方的理念が途に芭蕉の︻︑さび﹂といふ調和の美に到隠してゆく進路を曙示してゐみのである︒ ぎびち霧が辿られ藷︑その用語の影響に蛍ては︑蓼二年掛塑垂讐に行はれ墨田蟻ム・にあら

       タ      げ はれた藤原俊成の判詞にまでさかのぼる事が出量る︒俊成は︑右の歌合において︑ ﹁︑海上眺望﹂ご番左の藤原實定の

乍︑       ∫

に籍して︑ ﹁詞をいたはらすしてまたさびたる姿︑ひとつの躰に侍るめり︒﹂といふ評を輿へたのであった︒ここには︑        ゑ もノヘ ヘ へ   武庫の海をなぎたる朝に見わたせば眉も観れぬあはの島山 4

あきらかに.枯淡幽寂の美としての﹁さび﹂がある︒七かし︑それにもかかはらすへ﹃老境美として璽︐さび﹂の美は︑

﹁やせ﹂︻︑ほそみ﹂﹁からび﹂から出怪してるると見る事によってはじめて傳統美のたしかな跡づけがなし得られる

やうに思はれる︒といふ事絃︑いひ換へれば︑.﹁新古今﹂時代の歌壇を先導し掩俊成の鋭敏な美的感畳が早く魚癖把握

した﹁さび﹂の美の申がら北方的性格がきびしくその姿をあらはしたのが警︒やせ﹂﹁ほそみ一﹁からび﹂であ参悔そ

れが再び芭蕉の﹁さびしに到達してゆくといふ事でもある︒俊成が右の評に驚けて︑ ﹁︑眉もみだれぬあはの島やまと       も   へ いへる︐彼黛色蓮臨蒼海上といぴ︑龍門翠黛層相甥などいへる詩おもひいでられて︑幽玄にこそ見え侍れ.﹂と蓮べて

るる事は.甚だ意味深く思はれる︒ここでは︑ ﹁さび﹂が﹁幽玄しの美の上に把握せられてるたのであって︑この事        ゆ 實は﹁さび﹂が調和の美に外ならなかった事を示してみるからである︒         三膿和歌の後にあらはれて來るもので最も見るべきは心誤P﹁やせ﹂﹁からび﹂﹁ひ充﹂﹁さびし﹁しみこほゆし

﹁ほそみ﹂である︒       ・

︑﹁心敬僧都庭訓﹂に次のやうな言葉が見られる︒

      ゑ  も  も      や  一初心の時かちびたるかたをこのむべからす候︒た賀しくうつくしくすべし︒ささめごとにもいふがごとく.五し

(25)

一63一   ︻︑やせ﹂﹁︑からび扁の詩境は︑年老い︑藝劫の入ったヒ手においておのつから得られるものであって︑初心者の求       ル  ・べし︒   ら諏かたへのみ心をやり︑やせからびたるを見て︑とりつきだちなる物のまなぶは︑憲をのみたるほどの享なる        も  た  ぬ  へ  も   一上手の句を見るが肝要に候.但上手の句を見るにとりて心あるべきことあり︒世にあるほどの事しつくして︑あ   迄もた貸しくすべし︒た史虫といふはうつくしσきりぎりすといふはからびたる也︒これ程のこともかはる也︒       へ  も  へ   るは︑七八の子のぴげのおひたるやうなり︒おのつから年も老いこうも入りて後からびたるはよし︒初心申つ比        ゼ  ヘ  へ   やくのあやめに水をかけたるやうにすべし︒大に見る/\と物になりさうにといふ心なるべし︒こせこせとした

むべきも○ではないといふ︒心敬のかういふ所詮は︑あきらかに倉庫和歌に見られた﹁︑やせし﹁からび﹂を承けたも

 のである︒しかも︑それを老境美として確認し︑更に最上級の藝位との相關にみいて位握づけをなしてみるところに︑

北方的なもの︑に透徹してゆく極めてきびしい能惣度が見られるのである︐心敬は﹁ささめごと﹂の中に次のやうに蓮べ

てるる︒   定家卿の︑稽古の用心をさまん〜に注し給へるに︑先ことせ三とせは︑うつくしくやはらかに︑女房の歌をまな       ヤ  も  な  へ  も  も  へ   びて︑其後一ふしの躰こまやかなる躰などをまなぶべし︒叉かの後たけたかき躰とて︑やせひえたる躰︑有心躰

  とてなさけふかくこもりたる躰を學び︑これをよみつのりて︑強力の磁器挫躰をまなべと也︒

 心敬は︑﹁愚秘抄﹂﹁三五記しといったやうな定家の作として假託せられた儒書の所論をも深く重んじて彼の交藝

獺…

フ血肉としてみるが︑ 一ノ所論返答﹂に古人の秀歌・コ山今﹂﹁新 古今﹂等の集の名歌・・目融償歌・三富和歌等を學べ

とあり︑ ︻︑ささめごとしに﹁明月記﹂に亙れてみる等からしても︑﹁やせひえたる躰﹂といふところはたしかに三騰

ぬ      ノ 和歌の﹁やせ﹂﹁からび﹂が承け縫がれてるるところと見るべきものである︒ところで︑心底においては︑︐﹁やせ﹂

      縫本古跳々交藝と北方的性格

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・一 U4_.

     翼ホ古典丈藝と北方的性格

﹁からび﹂を越えて・﹁ぴえ﹂︐があらはれてみる事が注目せられるの︑である︒

 ﹁心敬僧都庭訓﹂には︑        ば   上手になるさかひに入ふし℃は︑道をまもる心をもち︑初心の時の句をもし︑きとく感量を魁現し︑叉ふかくも

      ドも  も  も  も  ぬ  も  も  へ   淺くも出途にさだまらぬやうにすべし︒かやうの心もち肝要にて候︒飴椿面かげひえやせたることは︐上手のく

  らみにいたり︑おのつからしらるべき物也︒    .  ・   ・

       ヘ  へ  も  る 乏あり︑上手の位に至って得られる絵情面影のひえやせたる美が語られてみる︒      ︑        物  ﹁ささめごと﹂には︑

  むかし︑歌仙に︑甑ある人の︑此道をばいかやうに修行し侍るべきぞとたつね侍れば︑かれの﹄す鼠き有明の月︑

       も   も   ヘ   ヤ   も   も   も       ド   とこたへ侍りしと也︒これはいはぬ所に心をかけ︑ひえさびたる方をさとりしれとな夢︒さかびに入砂はてたる

  好士の風雅は︑此器もかげのみなるべし︒︐

とあり︑﹁ひえ温と﹁さび﹂とが結合した﹁ひえさび﹂たる詩境を以て妙境に入夢切った好士の風雅だとしてみる︒

 かうして﹁︐ひえ﹂は﹁やせ﹂に結合すると共に㎝さび﹂にも結合してみるのである︒しかし︑ ﹁やせ隔﹁からびし

﹁ひえ﹂﹁さび﹂の美が生れる境地に就いて語られてみるととろには注目せらるべき所思が少くない.

 ﹁三三病には︑        ゼ  も  も  も   さかひに入りはてトは.ふけさえたる方︑最奪なるべしと也.        蚕︒ とあり︑同じところが︻︑老のくりこと﹂には︑ \        も  へ  も  へ   さかひに入ゆはて㌧は︑ふけさびたるかた最柔なるべしと也︒

とある︒ここには﹁ふけさえ﹂もしくは﹁︐ふけさびしが見いだされるが︑これらもまさしく北方的なものが老境美と軌

参照

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