「山月記」論考 梶田
(17)
うかのような学校生活︒しかしそれは成績という競争の勝利によって手に
入れたものであって自尊心は手に入れても満ち足りた安息ではなかった︒
妻子への愛情がありながら︑彼が作り上げた家族というものへの嫌悪感
から妻を傷つけてしまう自責の念︒父や伯父達の中にある︑﹁漢学﹂︒自
分の申の﹁漢学﹂︒屈折した父や伯父達への思いは﹁山月記﹂を書くこと
で解放される︒しかしこうした思いを告白するのではなく︑中国古典の世
界に形象させたところに﹁山月記﹂の見事さがあるのである︒
再度﹁山月記﹂についての考察をまとめて論を終える︒
︵一︶李徴の悲劇は特別な詩人の悲劇ではなく︑詩人志望の普通の人
間の悲劇であり︑そこに感動の理由がある︒
︵二︶﹁山月記﹂は﹁二男歎異﹂のような申国古典を借り物にして作
者自身を語らせる作品から︑中国古典の世界の素晴らしさ︑面
白さを描いた﹁李陵﹂﹁名人伝﹂のような作品を書く契機とな
つた作晶である︒
︵三︶﹁山月記﹂を書くことによって中島敦自身の﹁漢学﹂を見直す
ことになった︒
︵四︶中島敦は文学の虜となって身を滅ぼす李徴を自己のある部分を
誇張し相対化しているが︑哀音にに関しては現実離れした人物
としてしか形象化できていない︒﹁李陵﹂では︑司馬遷︑李陵︑
蘇武の人物が見事に形象化されている︒
︵五︶中島敦の作家としての可能性は広範囲に渡り﹁山月記﹂はその
一部に過ぎない︒
注1光と風と夢﹂は原題は﹁ツシタラの死﹂であったが︑﹁文学界﹂編集部は太
平洋戦争下で﹁死﹂というのは縁起が悪いので改題を要求しこの題となった︒
注2氷上英広 新潮文庫﹁光と風と夢・李陵﹂解説 昭和二十六年十月
注3三十三歳の生涯を終えたこの作家の才能︑そしてその人間性を惜しみ︑さら
に﹃書き度い︑書き度い﹄と言いながら此の世を去ったその無念さを思いな
がら︑残されたものを虚心に検討する必要があるだろう︒︵昭和五十六年刊
﹁写真資料中島敦﹂ 解説﹃ツシタラの死﹄﹃光と風の夢﹄河上徹太郎︶ 注4﹁山月記﹂の叫びP196 参考文献 筑摩書房
筑摩書房筑摩書房筑摩書房筑摩書房講談社中央公論社
角川文庫新潮文庫
旺文社文庫新潮文庫
六興出版中国古典研究 文治堂書店
角川文庫勤草書房
明治書院筑摩叢書東京法令出版
至文堂至文堂中島敦全集1巻 二〇〇一年一〇月一〇目初版 中島敦全集2巻 二〇〇一年一〇月︸○目初版 中島敦全集3巻二〇〇一年一〇月一〇日初版 中島敦全集別巻 二〇〇一年一〇月一〇日初版 現代文学大系三五梶井基次郎・堀辰雄・中島敦集昭和三九年 日本現代文学全集八二梶井基次郎・田畑修一郎・中島敦集昭和三十九年 日本の文学三六滝井孝作・梶井基次郎・中島敦集昭和四一年 李陵・弟子・名人伝中島敦昭和59年 李陵山月記昭和四四年 山月記中島敦昭和四二年 光と風と夢昭和二六年 山月記の叫び進藤純孝平成四年初版 中島敦とその家学村山吉広 昭和五二年四月 中島敦全集−巻山口比量付録 昭和三四年 昭和文学盛衰記高見順昭和四四年 増補戦時戦後の先行者たち本多秋五昭和四六年 研究資料現代日本文学②小説戯曲H昭和五五年 昭和文学史 平野謙 昭和38年12月25日発行 月刊国語教育19829月号 国文学昭和三五年一月号〜四月号 国文学昭和四三年七月号
一72一
(2002) (16)
津山高専紀要第44号
時に︑残月︑光冷やかに︑白露は地に聴く︑樹間を渡る冷風は既に
暁の近きを告げてみた︒人々は最早︑事の奇異を忘れ︑粛然として︑
この詩人の薄倖を嘆じた︒李徴の聲は再び績ける︒︵注−︶
中国古典の世界の魅力を発見した中島敦は当然﹁人虎石﹂のような幼稚
な世界でない︑豊かな世界を書き続けることになるが︑その彼に突然の死
というゴールが待っていだ︒
注1筑摩書房中島敦全集1巻P27
四. 結び 中島敦の死後と﹁山月記﹂
﹁文学界﹂の二月号に続いて︑五月号に﹁ツシタラの死﹂が﹁光と風と
夢﹂と改題され掲載される︒︵注−vこの作品は中島敦の最長編小説で︑多
くの人々の注目する所となり︑この年の上半期の芥川賞の有力候補となっ
た︒しかし受賞は逃す︒南島パラオにいた中島敦は︑昭和十七年三月十七
日︑出張のため一時帰国するが︑厳しい寒さのため肺炎になり︑健康を回
復したのは六月になってからだった︒こういう事情で日本に滞在していた
敦は︑自分の作晶への反響を直接知ることが出来た︒その結果︑作家一本
でやることを決意︑南洋庁を八月末に退職する︒ただ当時﹁光と風と夢﹂
の評価は反響に比べそれほど芳しいものではなかった︒
文学作品としては不思議なジャンルに属するものだ︒近代の著名な
文学者の伝記としては︑主観的な造型が強すぎ︑資料的にも厳正でな
く︑さればとて創作として見るには︑スティヴンソンの手紙や記録に
あまりに毒心しすぎている︒︵注2︶
このように厳しいが︑しかし注目度は抜群であった︒こうした慌ただし
さの中︑六月には﹁弟子﹂﹁思歌出世﹂を書き上げ︑七月十五日には初の 創作集﹁光と風と夢﹂を筑摩書房から刊行する︒収録作品は﹁古諦﹂︵狐 慧︑木乃伊︑山月記︑文字禍︶﹁斗南先生﹂﹁虎狩﹂﹁光と風と夢﹂である︒ 十月には﹁李陵﹂が書き上げられ︑十一月十五日には﹁今日の問題社﹂か ら二冊目の本﹁南島謳﹂を刊行する︒収録作品は﹁南島諦﹂︵幸福︑夫婦︑ 鶏︶﹁環礁﹂︑﹁悟浄出世﹂﹁悟浄歎異﹂﹁古俗﹂︵盈虚︑牛人︶﹁過去帳﹂︵﹁カ メレオン日記﹂︑﹁狼疾﹂︶である︒﹁文庫﹂︵三笠書房刊︶十二月号に﹁名 人伝﹂を発表︒この忙しさの中十一月中旬に入院し︑十二月四日に死去し てしまう︒翌年遺作として中央公論二月号に﹁弟子﹂が掲載され︑﹁文学 界﹂七月号に﹁李陵﹂が︑掲載される︒中島敦が作家として注目されたの は↓年足らずであった︒こうした劇的な展開のため人々の注目を受けた︒ ︵注3︶ 中島敦の死の六年後︑昭和二十三年から翌年にかけて全三巻の全集が筑 摩書房から刊行され︑昭和二十四年には第三回毎日出版文化賞を受賞する︒ 彼は再び有名作家になるが︑﹁山月記﹂まだ注目されない小舞のままであ
った︒それが高等学校の国語教科書に﹁山月記﹂が載せられ︑全国の高校
生に教室で読まれることで︑﹁山月記﹂は最も有名な短編小説の一つとな
った︒こうした事情を進藤氏は次のように書いている︒
そうして半世紀︒︵筆者注 中島敦の没後︶今では高校教科書の大
半に﹃山月記﹄が掲載され︑高く純な文学とはこういうものとでも納
得するのか︑印象に残った小説とか︑感銘を受けた作者とかと︑もっ
ともらしい問い方をされると︑異口同音に﹃山月記﹄を挙げる様とも
なりました︒︵注4︶
﹁山月記﹂は中島敦の死後︑優れた短編小説として高い評価を得るよう
になった︒﹁山月記﹂は四百字原稿用紙で十六枚ぐらいの本当の小品であ
る︒しかし小品でありながら︑中島敦という作家の全てと︑中国古典の世
界との融合による深さは他に例がない︒恵まれない家庭での孤独な子供時
代︒当然他人との人間関係の落首は幼い子供のこころを押しつぶすに十分
であろう︒李徴の性情の悲劇は中島敦の日常であった︒こうした孤独を救
「山月記」論考 梶田
(15)
平凡な悩める青年像であるのに対し︑哀惨像は単純な普通人の代表ではな
い︒哀惨は李徴の否定した立身出世コースに乗り︑監察御使となって虎の
李徴と再会する︒中島敦の京城中学や︑第=下等学校の同級生で順調に出
世コ⁝スを歩んでいる人物と同じと考えればよい︒李徴にとって羨むべき
存在というより自分と異質な人間である︒しかし単純な結果論では李徴が
人生の失敗者であり哀惨が人生の成功者になる︒
哀惨は現世の成功者であると同時に︑落剥した友人に変わらぬ友情を示
す︑人間性豊か人物として描かれる︒主人公李徴が傷つきやすいこころを
持ち︑自分だけでなく家族や他人をも傷つけてしまう人間であるのに対し︑
哀惨は円満な性格で誰にも愛され︑誰ともこころを通じ合わせることがで
きる︒人生が哀惨のように生きやすいものであれば誰も苦労しないだろう︒
平凡なる偉大者というべき哀惨は詩作の批評でも鋭いところを見せる︒
哀惨は部下に命じ︑筆を執って畠中の聲に随って書きとらせた︒李
徴の聲は叢の中から朗々と響いた︒長短凡そ三十篇︑格調高雅︑意趣
卓逸︑ 一讃して作者の非凡を思はせるものばかりである︒しかし︑衰
惨は感嘆しながらも漠然と次の様に感じてみた︒成程︑作者の素質が
第一流に属するものであることは疑ひない︒しかし︑この儘では︑第
一流の作品となるのには︑何虞か︵非常に微妙な貼に於て︶敏けると
ころがあるのではないか︑と︒︵注−V
人間時代の作品を朗々と響かせ︑気負い立つ虎の李徴に対し暗い表情で
この才能ある友人の致命的弱点を見抜く︒中砂はただの出世コースに乗っ
ている男ではない︒哀惨の現実離れした超人ぶりは﹁近代小説﹂としては︑
傷である︒哀惨のように現実の社会で出世競争に勝ち続け︑権力を獲得し︑
なお人間性を喪失せず生きられる︒これでは大衆小説のヒーローでしかな
い︒哀惨を肯定すれば︑誰もエリートコースから脱落した芸術家に共感な
ど寄せばしないであろう︒現実には無力な芸術家や詩人は︑現実での成功
者や権力者の非人間性を映し出す鏡のような存在なのだ︒ところが詩人や
芸術家の対極にあって︑現実の成功者である哀惨は﹁神﹂ような現実離れ した人物として登場する︒ただの人食い虎として死ぬ運命にあった李徴を 救い︑李徴の家族まで救う︒虎に変身する詩人志望の李徴が︑意外と凡人 であり︑それが感動と共感を与えるのに対し︑順調に人生を生き︑現実的 な世界の代表のような蓑惨が現実離れした存在であることによって︑この 小説が支えられているのは皮肉である︒ 注1筑摩書房中島敦全集1巻P26
︵4︶ ﹁山月記﹂の独自性
﹁山月記﹂は中国古典の世界を題材にしても︑他の作品とは違う︒中島
敦は亡くなった昭和十七年︑猛烈な勢いで中国古典の世界を書き続ける︒
まるで亡くした大切な物を取り戻すように︒六月初は﹁弟子﹂︑十月には ﹁李陵﹂が書かれている︒﹁山月記﹂によって自分の書くべき方向がよう
やく見つかったからだ︒﹁山月記﹂は書き始められたときは︑﹁悟浄歎異﹂
の延長上の︑中国古典をだしに使った︑現代的な思考を展開する作品とな
るはずであった︒しかし素材の﹁暴虎伝﹂はそのままでは︑使い物になら
ないお話に過ぎない︒登場人物や設定に作者の創造を加えていけば︑中国
古典の世界は壊れてしまう︒﹁悟浄歎異﹂のように書けば︑誰でも知って
いる﹁悟浄﹂が自由に語るような面白い作品になるのだろうか︒﹁人虎伝﹂
の李徴では単なる荒唐無稽な変身諦に終わる︒それほど﹁人虎伝﹂は底の
浅い柔な世界といえる︒彼の﹁古課﹂の他の作晶のように場所も時代も曖
昧な寓話小説にしてしまえば首題ないが︑そうするには彼の﹁漢学﹂は黙
っていない︒ここから中島敦の﹁暴虎伝﹂壊しと︑中国古典の世界の再構
築が始まる︒
李徴は平凡なある意味近代的な︑それでいて唐代にもいそうな青年像に
なった︒中国古典の世界から現在に貫徹する人間像が作られたのだ︒エリ
ートコースや幸せな家庭がありながらその場所に安住できない人間︒虎に
なっても悔やみ続ける人間︒まさしく現代の人間だ︒その一方李徴と哀惨
が語り合い︑涙する世界はまさしく中国古典の世界となっている︒次の文
はその典型といえる︒
一74一
(2002)
(14)津山高専紀要第44号
﹁臆病な自尊心﹂は人間一般の悲劇であり︑芸術家のように︑個性を誇り︑
才能を誇る特別な人間の悲劇ではないことになる︒つまり詩人志望でなく
ても︑玉戸のような性格の人物でなくても直面する問題といえるである︒
李徴は自己の変身を何の理由もなく突然襲いかかる運命の悪意といった
一般的なとらえかたを自ら否定して︑﹁人虎伝﹂と同じ因果応報で説明し
ようとする︒己の中に虎となるべきものがあったのだと︒哀惨との対話に
よる自己省察の結果である︒﹁人虎冠﹂と同じ因果説でも︑こちらはかな
り現代的な解釈に立って書かれている︒﹁人虎伝﹂のような人殺しという
特異な理由ではなく︑我々現代の人間にとって誰にもある切実な﹁臆病な
自尊心﹂という﹁自我﹂の立場で書かれている︒
人間は自己の欲望に忠実には生きられればこれほど幸せなことはない︒
理想と現実の距離が短いほど結構なことである︒現実はそうはいかない︒
挫折を重ねながら︑他人や社会と折り合いを付けながら生きていく︒それ
はもろい危険なバランスであることを誰もが知っている︒自己を主張し自
信があれば︑自尊心の塊となり傲慢となる︒そして他人を圧殺することに
なる︒自己を殺し︑自分の無力さを知るとき臆病になる︒これは全ての人
間に共通することで︑それは確かに李徴が思うように︑各人の心の中にあ
る猛獣といって差し支えない︒人は虎に変身することはなくても己の中に
ある性情との葛藤を経験しているからだ︒
﹁人間であった時︑己は努めて人との交を避けた︒﹂と虎の李徴は言う︒
詩人として生きるなら孤独に生きることは当然のことで何の問題もない︒
ただこれが当時の文壇との付き合いがなかった中島敦の事を意味するなら
事は別である︒もし彼が他の作家志望者のように︑文壇との付き合いがあ
れば︑﹁山月記﹂も﹁光と風と夢﹂も︑生まれなかったであろう︒これら
の作品は中島敦の孤独な営為が作り出したものであるからだ︒
事実は︑才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と︑
苦を厭ふ怠惰とが己の凡てだったのだ︒︵注4︶
刻
虎の李徴は己の努力不足を嘆くが︑努力で優れた作品が生まれるなら︑ これほどたやすいことはない︒芸術の創造が芸術家の才能だけでなく︑努 力だけでもないことが︑芸術活動の難しさである︒また優れた作品が作ら れても︑時代や社会に迎えられるかどうか分からない︒こうした李徴の言 葉や思考は詩人としては十分ではない︒
本當は︑先づ︑此の事の方を先にお願ひすべきだったのだ︑己が人
問だったなら︒飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも︑己の乏しい詩
業の方を氣にかけてみる様な男だから︑こんな獣に身を堕すのだ︒
︵注5V
﹁人奥伝﹂では李徴は妻子の生活を哀惨に頼んでから︑詩の伝録を頼む︒
これが︑﹁山月記﹂は逆になっている︒家族の生活より己の詩業を大切に
する︒これを虎になった三番目の理由とする︒これも因果説である︒前の
因果説は﹁臆病な自尊心﹂という人間の弱さから生じたものとしているが︑
ここでの因果説は家族の生活より詩を大切にする李徴の非人間性の結果と
する︒しかし自己の詩業を︑妻子の生活より先に考えることは詩人であれ
ば自然なことである︒決してこのことが非人問的で虎になるなど考えられ
ない︒それなら芸術に生きるものは全て虎にならねばならなくなる︒虎に
変身した李徴は次々と己の心の中を哀惨に明かしていく︒しかしその人間
像は優れた詩人というより︑単なる悩める若者像以上でしかない︒それが
多くの人に感動を与える所以であろう︒
注1筑摩書房中島敦全集ユ巻P24 注2筑摩書房中島敦全集1巻P25 注3筑摩書房中島敦全集1巻P27 注4筑摩書房中島敦全集1巻P27
注5筑摩書房中島敦全集別巻P29
︵3︶衰惨の人間像
﹁山月記﹂の繕事が虎に変身する個性的な詩人というより︑ ありふれた
「山月記」論考 梶田
(13)
詩人を目指した多くの若者が詩人として自信の持てる作品を生みだし得
ず︑また作り得たと思っても︑正当な評価を受けることなく挫折を余儀な
くされる︒詩を創造する活動と︑日々人間として生きていく生活の問題も
ある︒たとえ詩人としての高い評価を受けても︑﹁哀しい玩具﹂でしかな
く︑なんらの生活基盤が保証されない︒またこの道筋をたどれば︑詩人と
なれるというわけではない︒どんなに勤勉な努力を続けても︑評価される
とは限らない︒才能の問題︒作品を受け入れる時代と社会の問題︒これら
は芸術や文学を志望する青年を苦しめる点である︒才能だけではない︒努
力だけではないのだ︒
﹁詩家としての名を死後百年に遺そうとする﹂という考え方は︑ある意
味幼稚な考えで現代的なものではない︒﹁詩家としての評価﹂とは自分と
無縁な他人の世界のことである︒﹁自己﹂の厳しい目を経たものであれば︑
他人の評価など結果論に過ぎない︒それからすると李徴の目指したものは︑
通俗的な芸術家像である︒現代では通用しなくても唐代の詩人志望の動機
としては︑十分である︒則ち中島敦は早急に﹁人血伝﹂の世界に現代的な
ものを持ち込もうとしていないのだ︒
﹁面骨伝﹂は李徴の虎への変身を怪異とし︑彼の放火殺入への応報とす
る︒これに対し﹁山月記は﹂この超自然の怪異を素直に受け止め︑虎への
変身を李徴がどう受け止めたかという書き方になっている︒
全くどんな事起り得るのだと思うて︑深く櫻れた︒しかし︑何故こ
んな事になったのだらう︒分からぬ︒全く何事も我々には判らぬ︒理
由も分からず押し付けられたものを大人しく受け取って︑理由も分ら
ず生きて行くのが︑我々生きものさだめだ︒ ︵注−︶
この気持ちは誰にもわからない︑と︒触点は自分が虎になったことを人
間・生き物の不条理さ︑生き物の被る﹁宿命﹂﹁運命﹂としてとらえる︒
F.カフカの﹁変身﹂は主人公の巨大な毒虫への変身を︑突然主人公に襲
いかかる悪夢のような仕打ちととらえる︒遺習の虎への変身も誰かの上に
落ちてくる様々な不幸のひとつである︒そこには因果はない︒ある意味幼 い敦が眩き続けた自分の存在への怒りと悲しみが込められているのだろ う︒﹁どうして母がいないのだ﹂﹁父はどうして遠い所にいるのだ﹂﹁一番 嫌いな人物がどうして新しい母なのだ﹂︒しかしこうした現代的な解釈を 唐代の詩人に述べさせるのは不自然である︒﹁山月記﹂では虎に変身させ られた李徴の嘆きと悲しみだけを描く︒﹁一燈︑獣でも人間でも︑もとは 何か他のものだったんだらう︒﹂︵注2︶という輪廻思想で解釈は終らせてい
る︒また﹁山月記﹂の人間の虎への変身は﹁人言伝﹂と違って︑ある時間は 人間の﹁こころ﹂︑ある時間は虎の﹁こころ﹂に移り変わることによって︑ 李徴の悲劇性を高めている︒これは︑﹁光と風と夢﹂で研究ずみの︑ステ イヴンソンの﹁ジキル博士とハイド氏﹂から取られたものであろう︒こう した部分が﹁暴虎伝﹂に加えられた中島敦のブイクションであり︑﹁人虎 伝﹂の現代化である︒これに対し﹁人島伝﹂では虎のこころは﹁酔った﹂ とき︑人間のこころは﹁呑むる﹂ときと表現しているだけである︒古典を 素材として︑作品を書くとき︑現代的な解釈を加えたくなるのは自然なこ とである︒現代の人間が古典を素材として選んだときに︑古典の中に必ず 現代性を発見しているはずであるからだ︒中島敦はそれを自制しながら︑ 中国古典の世界を壊さないよう巧みに現代性を﹁山月記﹂に入れて行く︒
しかし︑それは臆病な自尊心とでもいふべきものであった︒⁝
人間は誰でも猛獣使いであり︑その猛獣に曇るのが︑各人の性情だと
いふ︒︵注3︶
李徴は﹁臆病なる自尊心﹂という性格をうまく制することができなかっ
た︒そしてその性格はその性格の持ち主を滅ぼしてしまう猛獣であるとい
う︒そしてこれが李徴を虎に変身させた︒この部分は山月記の読者に共感
と恐怖を与え李徴の運命への同情を引き出す有名な部分である︒ところで
この石塁の悲劇は全ての人間にあてはまることで︑彼だけの固有の問題で
はない︒確かに李徴は誇張された性格として描かれているが︑こうした性
格の悲劇が誰の中にもあるからこそ﹁山月記﹂という作品が読まれるのだ︒
一76一
(2002)
(12)津山高専紀要第44号
書餉の後︑師父が道傍の松の樹の下で暫く憩うておられる問︑悟空
は八戒を近くの原っぱに連れ出して︑攣身の術の練習をさせていた︒
︵注6︶
階西の李徴は博學才穎︑天寳の末年︑若くして名を虎榜に連ね︑つ
いで江南尉に直せられたが︑性猫介︑自ら否むところ頗る厚く︑賎吏
に甘んずるを潔しとしなかった︒いくばくもなく官を退いた後は︑故
山︑纏略に蹄臥し︑人との交を絶って︑ひたすら詩作に耽った︒下車
となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは︑詩家としての名を
死後百年に遺さうとしたのである︒︵注7>
朧西の李徴は皇族の子なり︒験略に家す︒徴︑少くして博学︑善く
文を属す︒弱冠にして州府貢に従こう︒時に名士と号す︒天宝十五暮
春︑尚書右丞楊某の榜下に進士に第に登る︒後数年︑調選されて尉に
江南に補せらる︒徴性き疎逸︑才を侍んで臆断︒跡を卑僚として屈す
ること能はず︒嘗に欝欝として楽しまず︒同舎の会︑既に甜なる毎に
顧みて其の群官に謂いて曰わく︑﹁生れ乃ち君等と伍と為らん邪﹂と︒
其の僚友成な之に目を側つ︒秩を謝するに及び則ち退き帰って間適し︑
人と通ぜざる者近ど歳余なり︒︵注8︶
﹁悟浄歎異﹂の書き出しは︑おなじみの﹁西遊記﹂にふさわしい軽やか
な書き出しである︒中国古典の世界で遊んでいる書き方である︒これに対
し﹁山月記﹂は﹁白虎伝﹂の世界を巧みにたどりながら︑独自の世界へ移
っていく︒﹁山月記﹂は﹁人心伝﹂を素材として利用しようとして︑﹁人
主伝﹂以上の中国古典の世界を作り上げることに成功した︒こうした﹁山
月記﹂の世界はいまだかつて作られたことのない古典と現代の融合を実現
した︒
注1筑摩書房中島敦全集3巻P206ノート第九 創作ソート第九
﹁人間は誰もが猛獣使いで︑それぞれ自分の性情が︑その猛獣にあたる
んだそうだが︑全く︑ボクの場合︑自尊心というやつが︑猛獣でしたよ︒ ねえ︒全く︑自尊心と︑それから︒もう一つ︑差恥心︑こいつが曲者でね︒ 大人しそうで決して︑そうでない︒ハイエナかジャカアルみたいな奴でね︒ラ イオンにいつもジャカアル︑がついているように︑自尊心にいつもこの董恥心 がくっついているんだ︒﹂ 注2筑摩書房中島敦全集別巻P503昭和十四年年譜 注3筑摩書房中島敦全集−巻P343 ﹁悟浄歎異﹂ 注4角川文庫噛撃手・弟子・名人伝﹂解説 武田泰淳﹁中島敦の直面﹂昭和五十九年六月 注5右同 注6筑摩書房中島敦全集1巻P339 注7筑摩書房中島敦全集1巻P22﹁山月記﹂ 注8角川文庫﹁李陵・弟子・名人伝﹂参考文﹁人虎伝﹂差歯祓編﹁旧小説﹂
︵2︶李徴の人間像
﹁人虎伝﹂というただのお話を︑優れた作品世界に作り得たのは︑李徴
という人間像の力である︒中島敦の﹁山月記﹂の主人公李徴は若くして科
挙に合格するが︑﹁江南尉﹂というエリートコースを捨て︑詩家としての
名を死後百年に遺そうとする︒これに対し﹁山月記﹂の原典である﹁人証
伝﹂の李徴は︑傲慢な性格のために︑同僚とうまくいかず︑職を捨てる︒
李徴の性格を秀才の自信家としている点は同じであるが︑﹁人虎伝﹂に﹁詩
家としての名を死後百年に遺そう﹂という話はない︒だから﹁山月記﹂は
﹁人虎伝﹂とかなり違った話として展開する︒﹁山月記﹂では李徴は﹁詩
家﹂になることに挫折︑妻子の衣食のために再度官吏となるが︑その屈辱
に耐えられず発狂し︑行方不明となる︒ところが﹁人心伝﹂では李徴は退
職後︑生活のため東の地方へ行くが︑多くの人に歓待され︑贈り物を受け
贅沢な暮らしを送る︒こうした生活を送るうちに李徴は﹁心﹂を病み︑突
然姿を消す︒﹁人虎伝﹂では李徴は仕事を辞めても何不自由ない生活を送
るわがままな人物として描かれ︑そうした人物の奇怪な因果応報諦となっ
ている︒ 詩という不確かなものに︑取り懸かれその人生を破綻させる話は多い︒
「山月記」論考 梶田
(ll)
して語り続ける現代の世界なのである︒ある意味中島敦の習作時代にあっ
た異国趣味の延長ともいえる作品である︒違う点は中島敦は﹁西遊記﹂の
世界を実に楽しげに自信たっぷりに書いている︒そうした点では﹁悟浄歎
異﹂は中島敦の﹁中国古典﹂への第一歩である︒﹁山月記﹂は﹁悟三歎異﹂
からの第二歩であるが︑この第二歩は飛躍的な二歩であった︒それもあら
かじめ意図したものと違っての飛躍と思われる︒﹁山月記﹂は初めは﹁人
虎伝﹂を単なる下敷きにした世界であった︒結果として完成された世界は
﹁人虎伝﹂以上の中国古典の世界となり︑﹁悟浄歎異﹂とは遙か彼方に到
達したのである︒中島敦は﹁漢学﹂の世界の核心に到達してしまったよう
に思われる︒
不審に思われるだろうが﹁山月記﹂は﹁中国古典﹂を背景にしていても︑
メインにして書かれた作品ではない︒なぜなら﹁山月記﹂の典拠となった ﹁人面伝﹂は中心に据える程優れた作品ではなかった︒中島敦が﹁人虎伝﹂
から受け取るものはなかった︒ただ利用すればよかった︒だから彼は他の
﹁古謂﹂の小品のように﹁人虎伝﹂の外形を借りた︒その借り物の﹁人虎
伝﹂の外形に極めて切実な課題を詰め込んだのが﹁山月記﹂なのである︒
芥川龍之介は﹁今昔物語﹂を︑素材に﹁羅生門﹂を書いた︒これには︑
その当時の﹁今昔物語﹂再評価という気運があった︒ある意味﹁今昔物語﹂
には近代小説にはないたくましい人間像があり︑人間観があった︒芥川の
﹁羅生門﹂はその力に支えられて成立している世界といえる︒芥川龍之介
の﹁羅生門﹂には︑﹁今昔物語﹂の作者とのせめぎ合いがある︒芥川の﹁羅
生門﹂と無関係に︑﹁今昔物語﹂の﹁羅生門の世界﹂は自立しているとい
える︒こうした﹃今昔物語﹂を素材に︑芥川龍之介は現代を語ったのだ︒
﹁人虎伝﹂は違う︒どこをどうとってもただのお話である︒中島敦が﹁人
虎伝﹂から借りているところは何もない︒あるとすれば︑時代︑舞台︑登
場人物︑人間が虎に変身したところだ︒それでは全てではないかと言われ
るだろうが︑中で演じられるのは全く別の世界である︒
ただここに武田泰淳の﹁山月記﹂評がある︒
﹁山月記﹂も﹁古俗﹂もそれぞれりっぱな短編的構成を持っている︒ いわゆる創作︑虚構にたくみな芥川的な外貌を持ってはいる︒ しかしこれはけっしてフィクションではない︒とりわけ作者中島に とっては︑フィクションではない︒中国の古典を忠実に︑かつ謙虚に︑ 自分の心を打つ記録として受け取っている以上︑そこには彼の虚構を たくましくする創造的工作は︑きわめてわずかしか働いてはいないの だ︒しかもこの点にこそ︑中島の全作品をつらぬくひとつの態度︑彼 自身が﹁病気﹂と呼んだ︑あの傾向が示されている︒︵注4︶
武田によれば﹁山月記﹂は︑平生亮の伝奇を﹁ほとんど全文に摂取して︑
一点の濁り︑乱れない短編となしている︒﹂︵注5>というように中島敦の
﹁山月記﹂を︑古典に忠実な再現と述べているが︑ある面鋭く真実を貫い
た部分と︑全く見当違いの部分がある︒中島敦は﹁暴虎伝﹂の中に己を書
き込んだ︒本来なら唐画の李徴や衷滲に現代の人間を詰め込めば︑ある種
違和感が生じるのが当然であろう︒古典のリサイクルだ︒しかし中島敦の ﹁漢学﹂が﹁山月記﹂においては現代と古典の違和感を消滅させた︒芥川
は﹁羅生門﹂の﹁下人﹂に現代性を与えようと躍起になる︒下人に﹁にき
び﹂を付けたり︑﹁悩める﹂下人像を作り︑単なる昔話でないことを強調
する︒これに対し中島敦は﹁古記﹂として﹁山月記﹂.を書いている︒現代
性などかけらもない︒﹁山月記﹂の李徴も哀惨も唐代の人間そのものだ︒
中島敦の分身が﹁山月記﹂では唐代を生きているのだ︒そしてそこに切れ
目や継ぎ目はない︒これを可能にしたのは︑中島敦の﹁漢学﹂である︒
その後書かれる﹁山月記﹂以外の中国古典を材料にした小説は︑武田の
言う通り中島敦のフィクションや己を加える必要はなかった︒中島敦が子
供の頃から愛した自分の世界の忠実な再現だからである︒﹁山月記﹂を書
くことで﹁漢学﹂の世界に彼の居場所を見つけたのである︒中島敦は今を
生きる人間を中国古典の中に発見することができた︒だから﹁李陵﹂︑﹁弟
子﹂︑﹁名人伝﹂は武田泰淳の言う通りの作品といえる︒ただ﹁山月記﹂
は違う︒﹁悟浄歎異﹂と︑﹁山月記﹂と﹁人意伝﹂書き出しの部分を比べ
てみればそれはわかる︒
一78一
(2002)
(10)津山高専紀要『』第44号
このような評価は見当違いであろう︒戦争の体制に巻き込まれなかったの
は偶然に過ぎず︑こうした時代にどんな作品を作り得たかということが重
要である︒中島敦は戦時下の孤立感孤独感から﹁山月記﹂を書いた︒父中
人への手紙にある︑書きためた作品のひとつが﹁山月記﹂である可能性が
強い︒
中島敦は太平洋戦争が始まった年︑横浜女学校を休職した後︑退職し︑
六月末に南洋庁国語教科書編集書記の職を得て︑パラオ島に単身赴任する︒
このパラオ島赴任中十二月八日真珠湾の攻撃が始まり︑太平洋戦争突入と
なる︒翌年昭和十七年三月に帰国後︑七月に南洋庁に辞職提出し作家とし
て立つ決意を固めたという︒誰もが戦争に直面し死を思っているとき︑作
家としての生活を開始したのである︒そして喘息が悪化して亡くなる十二
月四日までの短期間に︑彼の代表作である︑﹁名人伝﹂﹁弟子﹂﹁李陵扁が
書き続けられた︒その慌ただしさは死後発表の﹁李陵﹂には︑題がなく便
宜的に付けられた仮の題であることからも知られるところである︒
注1 山口比婆﹁十二月六日まで﹂文治堂版中島敦全集1付録
注2近代日本文学辞典久松潜一︑吉田精一編 東京堂 P523 注3筑摩書房中島敦全集3巻P551
︵昭和十六年二月二十六日︑父宛書簡より︶
注4﹁純血無頼派の生きた時代 織田作之助・太宰治を中心に﹂ 青山光二双葉社 P70 注5近代日本文学辞典P523
三.山月記の考察
︵1︶﹁山月記﹂と中国古典
﹁山月記﹂は︑中島敦が中国古典を題材に書き︑初めて注目された小説
である︒漢学者の家に生まれ﹁李陵﹂や﹁名人伝﹂を書いた作家としたは
意外に思われるが︑彼が﹁山月記﹂を書くまでをたどってみると︑中国古
典の世界を背景にした作品は﹁西遊記﹂を題材にした﹁悟家島異﹂だけで
ある︒中島敦は南島パラオに赴任する前︑深田久彌に原稿を託すが︑その原稿 の中でも︑中国古典を題材にしたものは︑﹁山月記﹂だけである︒中島敦 は彼の中にあった﹁漢学﹂の教養を︑自分の小説を書くことに使うつもり はなかったようだ︒高校時代の習作も︑女学校教師時代も彼は﹁漢学﹂の 教養から離れた作品を書き続け︑才能を発揮してきた︒﹁光と風と夢﹂は︑ 中国古典の世界と無関係の作品の中では最高レベルのものである︒この作 晶は中途半端な英国の作家ステイヴンソンの知識では書けない労作であ る.︑彼の努力と︑学習の集大成といえる作品である︒健康に自信のない中 島敦の命がけの努力は認めるが︑誰にも真似のできない︑素晴らしい﹁漢 学﹂の教養があるのにそれをどうして生かさないのだ︒なぜ英国文学であ り︑南島なのか?それほど﹁漢学﹂は無力と思っていたのであろうか︒ ﹁山月記﹂がいつか書かれたかについては定説はない︒横浜高等女学校 の昭和十四年度入学考査問題用紙を裏返しにして綴じ込んだノートの中 に︑﹁山月記﹂の中心的な部分の草稿がメモされていることと︵注−︶︑昭和 十六年六月に南洋庁に赴任する以前に深田久弥に原稿を手渡していること から︑執筆されたのは昭和十四年から十六年六月までの間と言うことにな る︒昭和十四年に﹁悟浄歎異﹂が︑書かれている︒︵注2︶この養君が中国 古典を題材にした最初のものと思われる︒西遊記を下敷きにした作品であ るが︑﹁悟浄﹂は中島敦そのもので︑完全な現代的な世界となっている︒ これは﹁悟浄﹂の語り口からもわかる︒
俺は︑悟空の文盲な事を知ってみる︒會て天上で弼馬温なる馬方の
役に任ぜられながら︑弼馬温の字も知らなければ︑役目の内容も知ら
ないでるた程︑無學なことを良く知ってみる︒しかし︑俺は︑悟空の
︵力と調和された︶智慧と判断の高さとを何ものにも優してたかく買
ふ︒︵注3︶
西遊記の戦闘場面をそのまま引用するなど︑いかにも中国古典の世界を
作り出しているようでも︑すべて背景に過ぎず︑生の中島敦が﹁悟浄﹂と
「山月記」論考 梶田
(9)
わが生命短かしと思ひ町ゆけば物ことごとく美しきかな
︵注1︶四年間でこれだけの変わり様である︒この年永井荷風は﹁渥東奇諦﹂を
四月から六月まで朝日新聞に連載する︒軍国調が高まってきた発表当時︑
重苦しい重圧感のなかで読者に清新な気分を与えた︒︵注2︶横光利一は﹁旅
愁﹂を書き西洋対東洋︑物質対文明という精神の戦争を書いた︒また高村
光太郎はこの年﹁智恵子抄﹂を発表その後︑激烈な戦争詩に突入する︒
中島敦は健康を害し︑この年の二月上田人への手紙で
実は今冬だけが︑特別︑身体の具合がわるいといふ訳ではなく︑多
少の程度の差こそあれ︑三年宮前から︑大体こんな風なひどい状態で
過ごして来てみるのですから︑⁝
とにかく勤めたり休んだりしながら︑ボツボツ自分の仕事をやって行
きませう︑その中に何か書き溜めたものが何とか︑ものになるかも知
れませぬ︒ ︿注3v
と書いているような状態で︑学校へは週二目行くのが精一杯で︑三月末休
職し︑その後復職することはなかった︒賜田人が七十歳越えて︑三十三歳
の敦に代わって同校に勤務するようになった︒学歴もなく中学校漢文教師
を続けた父に対し︑伝説的な秀才としてエリートコース歩んできた一人息
子のこれが現状であった︒太平洋戦争が始まった年の中島敦は最悪の健康
状態であった︒
しかしそれが不幸とは思えないほどの現実が迫っていたのも忘れてはな
らない︒彼と同世代のほとんどが戦争と向き合い戦場での死と︑過酷な軍
隊生活を思っていたからである︒
例えば中島敦と同年生まれの大岡昇平は昭和九年に応召され︑比島ミン
ダナオ島戦線に赴き︑捕虜となるという極限状況を経験し︑戦後﹁俘虜記﹂
﹁野火﹂という作品を書いている︒また中島敦より三才年下の武田泰淳は
東大支那文学科中退後︑昭和十二年に北支に一兵卒として応召される︒こ
の戦争体験は除隊後四年かけて昭和十八年に﹁司馬遷は生き恥をさらした 男である﹂で始まる有名な評伝﹁司馬遷﹂に結実する︒もっと若い世代に は戦争は﹇層切実であった︒中島敦のような喘息持ちでない健康な若者に は戦場での死が自明のこととして待ち受けていた︒
召集令状を受け取ったとき︑ふしぎなくらい私は衝撃を受けなかっ
た︒覚悟ができていたというような威勢のいい話ではない︒むしろ逆
に︑臆病者だからかもしれないのだが︑だいぶ前から私は︑滅亡への
情熱と︑はっきりそうよべるものに取り慧かれていた︒それが︑絶
望的暗い現実のなかで︑実作をよそに文学のことばかり考えている私
の感覚の︑あやまたず帰趨する状況だった︒だから︑死にいちばん近
い位置にあるといえる軍隊への召喚状も︑たぶん︑私をおどろかせる
に足りなかったのだ︒︵注4>
中島敦より上の世代はどうであったのか︒当時の代表的な作家であった
横光利一は︑太平洋戦争が始まる前年の昭和十五年から︑文芸銃後運動に
参加︑中島敦が死亡する一ヶ月前の十一月︑大東亜文学会に出席︑決議文
を起草︑宣言した︒このため戦後昭和二十一年六月﹁新目本文学﹂で戦争
責任者に指名された︒他の多くの作家も︑従軍作家として否応なく戦争に
組み込まれていった︒中島敦がこうした状況に巻き込まれなかったのは︑
彼が無名であったに過ぎず︑作家として戦争に巻き込まれることは免れた
としても︑一国民︑一兵士として戦争と巻き込まれるのは時間の問題であ
った︒ 中島敦が戦争体制に巻き込まれ︑戦争賛美や軍国主義の片棒担ぎをしな
かったからといって︑そのことを過大評価するのは問題である︒
作家活動は極めて短かったが︑第二次大戦下の頽廃を思う時︑文学
の純粋は僅かに彼によって守られたといっても過言ではなく︑それは
一種恐るべき才能であったと共に戦後改めて再評価されている所以で
あろう︒︵注5︶
一80一
(2002) (8)
津山高専紀要第44号
き甲斐の問題﹂︑石川鈴子の﹁無風帯﹂の四編で︑﹁秀才﹂として︑順位
競争に負けたことのなかった敦は以後作品を発表しなくなる︒
敦が懸賞に応募した﹁虎狩﹂は中島敦が小学校︑中学校を過ごした京城
を舞台にした作品である︒主人公の私は内地から龍山の小学校に︑転校し
て﹁趙大換﹂という少年と友人になる︒
今の今までどんな厚い皮でもたちどころに引き裂くことの出来たそ
の鋭い爪や︑飼猫のそれとまるで同じな白い口髭などに︑そっとさは
ってみたりした︒︵注3︶
強く恐ろしい虎と殺された哀れな弱々しい虎︒﹁虎狩﹂の冒頭では駐在
所に二頭の虎がやってきて︑ふだんは威張っている巡査を脅しつける話が
描かれる︒哀れな虎の最後とは対照的である︒そして恐ろしい虎を倒した
朝鮮人は日本人に理不尽に支配されている︒私と虎狩に出かけた二年後﹁趙
嵩置﹂は私やみんなの前から姿を消す︒そして十五︑六年後東京で私は落
ちぶれくたびれた﹁趙大換﹂に再会するが︑なぞめいたやりとりの間︑私
は﹁趙大番﹂と気づかず︑思い出したとき彼は姿を消している︒
懸賞の選者が植民地の深刻な状況への理解があれば﹁虎狩﹂評価は違っ
ていたであろう︒ただこの時代としては︑無理な注文であるが︒朝鮮を植
民地とすら見ることが出来ず︑日本の一部と思っていた作家達には中島敦
の視点は全く理解できなかったと思われる︒自分の作品は理解されない︒
自分の小説を受け入れる場所もない︒この小説を投稿後︑小説を書いても
発表することはなかった︒熱心な教師として勤めながらラテン語ギリシャ
語の勉強を始め︑そして四年間別暦していたタカ夫人︑長男桓と︑昭和十
年三月から横浜市中区本郷町に親子三人で住むようになる︒新しい生活が
始まったのである︒
注1川端康成﹁独立自命﹂山月記の叫びP106
注2筑摩書房中島敦全集別巻P204岩田一男﹁横浜時代の中島敦﹂
注3筑摩書房中島敦全集1巻P97﹁虎狩﹂ ︵6︶戦争と中島敦
昭和十二年日中戦争が始まった年︑中島敦は二十九歳︒私立横浜女学校
の教師を勤め︑週二十三時間の授業を受け持つほど元気であった︒四年後
に喘息による死が訪れることは思いもよらなかったろう︒
日中戦争は︑昭和二十年の敗戦まで続く︒しかし中島敦の生活からは︑
中国との戦争は何の影も落としていない︒彼にとってそれほど重要な問題
ではないように見える︒彼の戦争への無感覚と鈍さはどう考えても作家ら
しくない︒彼の中の﹁漢学﹂が眠っているように︑中国との戦争は彼の心
に何も落としてないように見える︒かつて朝鮮や満州の植民地支配に敏感
に反応した若者の姿はなかった︒この年に彼が書き上げた﹁狼疾記﹂﹁カ
メレオン日記﹂はひたすら自己の内面の負の部分と向き合っている︒この
年︑中島敦と同年生まれの太宰治は︑周囲の反対を押し切って結婚した小
山初代と心中未遂後離婚している︒日中戦争と心中未遂事件はいかにも太
宰治らしいが︑中島敦の鈍さと違って︑太宰の方が若者らしく時代の動き
に敏感に反応︑混乱を極める作家らしさを示しているような気がする︒そ
れでは昭和十六年太平洋戦争が始まったときはどうだったのであろう︒
横浜高等女学校時代の同僚が︑次のように書いている︒
戦争が烈しくなるにつれて︑敦の健康の凋落が目立って来た︒額に
かぶさる頭髪の下に︑こけた顔が不眠の夜の憔埣を持ち越している︒
Yシャツの襟から︑食みだした白布の湿布が咽喉をしめつけ︑殊更
に快活を粧う言葉の直ぐ後に︑意地悪い咳が襲った﹃エフェドリンを
やると眠れなくなる︒そこで睡眠薬を飲む︒すると︑これが胃に悪い
ので食欲が減退するから体力が衰える︒そして又︑喘息だ︒﹄斯う
云って淋しく嘲う︒⁝次第に注射の量が増えてゆくのに悩んで
か︑漢方薬を飲用し始めた︒彼の机上に︑理科室から運んだ小型の皿
秤りが置かれ︑ハトロン紙に包まれた薬が置かれる︒その薬を皿秤り
にのせて︑じっと量を計って居る彼の姿は痛痛しい眺めであった︒薬
の包紙に彼が書き附けて︑私に見せた歌︒
「山月記」論考 梶田
(7)
ダンスや麻雀に熱中するのもこの頃からである︒敦はもう﹁秀才﹂﹁優等
生﹂の道からは外れていた︒かつて朝鮮の民衆や︑満州国で君臨する目本
人︑酒に酔いつぶれる中国人に注がれていた敦の﹁外﹂への視点は内側に
向けられてしまう︒社会や時代に目を閉じ︑作家としての自分を殺し︑内
なる﹁漢学﹂を眠らせながら︑﹁耽美派﹂の作家たちに考察に集中する︒
この年太宰治が仏文科に弘前高校から入学してくる︒この鋭敏な作家は
高校時代知り合った芸妓と結婚を認められるが︑他の女性と心中未遂︑非
合法の共産党の活動と破滅の中を生きていた︒中島敦のように目を閉じる
か︑太宰のように外部からの嵐をまともに受け止め︑破滅に向かうか︑﹁優
等生﹂としてひたすら体制に順応して生きるか︑どちらにしてももっと大
きな嵐である戦争が間近に迫っていた︒
昭和六年中島敦は︑通っていた麻雀荘に勤めていた橋本タカを知り結婚
を決意するが︑父の反対で同居は卒業後となる︒この結婚問題で中島敦は
世間の波に投げ出されることになる︒東京帝国大学の大学生と︑小学校を
出ただけの女性との結婚問題は︑中島敦の家でも︑妻となる橋本タカの家
でも戸惑いと混乱をもたらした︒結婚を約束した人物があるという橋本タ
カの側の複雑な事情︑両親の大連からの帰国︑こうした雑事を敦は一つず
つねばり強く解決していく︒こうした所は中島敦のある種の強さを示して
いる︒︵注−︶こうしたタカへの誠実さの一方で結婚はしたものの︑妻タカ
を名古屋のタカの姉の家に預けたままであったり︑実家でタカが長男桓を
出産したときも金を送るだけという冷淡な一面もみせる︒別居時代の妻タ
カの手紙は結婚したものの︑自分から遠く離れて暮らす夫への愛と心細さ
に満ちている︒︵注2︶
昭和四年から大恐慌が始まり︑大卒者の就職難が深刻化するなか︑敦は
学生で結婚し将来の展望も開けないままであった︒ついにこの年満州事変
がおきる︒中島敦は卒業論文のため︑鴎外︑子規︑上田敏全集を読む︒翌
年には朝日新聞の入社試験を受けるが身体検査で不合格となる︒卒業論文︑
﹁耽美派の研究﹂を書き上げ提出するが︑こうしたテーマの論文は時局に
沿うものといえず︑大学時代の彼の行動は全て時代や社会に背を向けたも
のといえよう︒彼自身の進路は不明なままであった︒ 注−筑摩書房中島敦全集別巻P499 両親を説得し︑継母にタカの実家の依佐美の橋本家に正式な使者として赴 いてもらうことまですませている︒ 注2筑摩書房中島敦全集別巻P334昭和六年十一月十八日 タカから敦への書簡 ﹁前省略 あのね︑高等商業の学生さんを見るたび誰も誰もあなたの様な 気が励ますの︑今日も あんまりよく似た人が居てびっくりしてしまいまし た︒自分ではっかしくなってしまいました︒何時の間に四時になってしまつ てもう直起きる時間で御ざいます︒﹂
︵5︶教師と創作
昭和人年大学卒業後は︑大学院へ進学︑研究テーマは森鴎外︒また同時
に私立横浜高等女学校の教諭となる︒かつての伝説の﹁秀才﹂の面影はな
く︑多くの知人が彼の境遇に驚く︒父の縁故で勤めた横浜高等女学校の初
任給は六十円で︑就職難の時代では幸運という人もあった︒時代が違うと
はいえ︑敦の九年前︑同じ国文科を卒業した川端康成に︑藤村作教授が関
西大学の仕事を紹介した︒初任給百八十円とは大きな違いであった︒︵注−︶
結婚後も別居を続けていたタカは四月二十八日長男桓を実家で出産︑十
一月タカと桓は上京する︒しかし敦は学校のある横浜︑妻子は大学院のあ
る東京と別居生活を続ける︒しかも妻タカのところにたまにしか来ない生
活が一年八ヵ月も続く︒この頃︑敦の学校の同僚は彼を独身と信じていた
という︒︵注2︶
そして大学院を一年で中退︑妻子を放置し︑時代や戦争などとは無縁な
教師生活を送ることになる︒しかし教師生活に安住することはできなかっ
た︒彼は教師を続けながら︑朝鮮での生活を小説に書く︒大学時代︑同人
雑誌に所属せず︑文学仲間がいなかった敦の小説が世に出る方法はなかっ
た︒彼は小説﹁虎狩﹂を書き﹁中央公論﹂の懸賞に応募する︒残念ながら
結果は屈辱的であった︒敦の応募作﹁虎狩﹂は佳作十編の八番目に選ばれ
る︒当選作は︑丹羽文雄の﹁贅肉﹂︑島木健作の﹁盲目﹂︑平川虎臣の﹁生
一82一
rA/
\)ノ(20e2)
津山高専紀要第44号
値するかどうかを臆病さうに疑って見る︒﹂
三章は仕事にあぶれた二人の苦力の話で︑無銭飲食をして料理番か
ら叩き出された二人は︑久しぶりのアルコールにすっかり酔って︑袋
叩きにされた節々の痛みを除けば︑すべてが満ち足りた感覚で︑路
上で昏々と眠りこけるという締め括りである︒︵注9v
しかし︑中島敦が︑昭和のごく早い時期に︵﹃D市七月叙景︵一︶﹄
昭和四年に第=局等学校の校友会雑誌に発表されている︒︶植民地都
市の状況を︑植民者と被植民者とを共時的な空間において階層として
とらえたことは︑彼の文学および昭和の文学を語る時に︑もっと強調
されてもいい事柄のように思える︒︵注−o︶
川村湊氏が書いているように︑植民地満州の大連の状況を捉えようとす
る視点は︑当時の高校生の習作のレベルを超えたものであり︑当時のプロ
の作家にもなし得なかったことである︒完成すればスケールの大きな小説
になったはずである︒誰にでもわかる︑﹁大連市﹂をわざわざ﹁D市﹂と
したのは︑当時の弾圧を警戒したものではなく︑できれば植民地全般を︑
あるいはこの世にある植民地的な世界を創造しようという意図であり︑﹁D
市七月叙景︵一︶﹂とあるように︵二︶も書かれるはずであった︒才能溢
れる中島敦は何でも文章に出来ると思ったに違いない︒いまだかつて誰も
作り上げたことのない世界が自分には書ける︒こうした彼には古びた﹁漢
学﹂の世界など自分に無縁な︑ただの装飾晶に過ぎなかった︒しかし書き
進める中で︑こうした題材を書くことの難しさも思い知らされことになり︑
︵二︶が書き続けられることはなかった︒この後事に創作の中断期が訪れ
る︒
注1﹁山月記﹂の叫び︵進藤純孝 六輝出版P85︶
注2校友会雑誌︵三百十三号︶注3校友会雑誌︵三百十九号︶
注4校友会雑誌︵三百二十二号︶
注5校友会雑誌︵三百二十五号︶ 注6筑摩書房中島敦全集2巻P44﹁ある生活﹂ ﹁ふと氣がつくと︑風が噴き出した様です︒硝子がたがた音を立て︑カーテ ンの前の瓶にさした造花の影が少七揺れて居ました︒彼は何愚なく︑身を起 こして︑枕頭の牛乳の瓶をとらうとしました︒と其の瞬間です︒急に頭がぐ らぐらし︑目の前が時に白く光り出したかと思ふと︑忽ち︑胸の奥に不快な むずがゆさとなまぐささとを感じて︑どうと倒れながら︑真っ赤な塊を吐き 出しました︒﹂ 注7筑摩書房中島敦全集2巻P52﹁喧嘩﹂ ﹁帰るに違ひないと思って取つといたんだな︒畜生︑負けたんだ︒ 此の考へがすこし彼女を不愉快にした︒が︑今はそんなことを言って居る 場合ではない︒おかねは︑左手に飯を掴んでほほばり︑右手で小平を取って︑ 頭からぽりぽりと回り始めたのであった︒﹂ 注8筑摩書房中島敦全集別巻P208氷上心事﹁中島敦人と作品﹂ =高で︑彼は文芸委員になり︑校友会雑誌にいくつかの小説を書いた︒ その中に﹁巡査の居る風景一九二三年の一つのスケッチ﹂というのがある︒ 私も委員をしていたので記憶しているのだが︑彼はこれを︑﹁蕨・竹・老人﹂ という伊豆の風物を背景にした牧歌的な短編とあわせて発表した︒二つの原 稿を私に見せたとき︑中島は後者を説明して︑﹁之は毒消しだ﹂といった︒前 のものは︑当時日本の支配下にあった韓国人の意識を描いたもので︑中 島が中学時代を過ごした京城が舞台となっている︒ 注9岩波新書 異郷の昭湘文学 P73﹁満州﹂と近代日本の植民地都市の光景 注10 同訓 P78
︵4︶大学時代と結婚
昭和五年中島敦は東京帝国大学国文科に入学する︒彼の中の﹁漢学﹂が
どのような存在であったかは︑国文科を選んだことでもわかる︒芥川龍之
介の英文科に対し︑中島敦は谷崎潤一郎︑川端康成の在学した国文科を選
んだのである︒中島敦が作家志望であったのか研究者志望であったのかこ
の時点では不明である︒この年伯父の斗南中島端が亡くなる︒七十一歳で
あった︒夏期休暇を利用して永井荷風や︑谷崎潤一郎の全作品を読み終え︑
梶田
「山月記」論考
(5)