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日本電気における原価管理システム進化の考察 *

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Academic year: 2021

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1. は じ め に

かつて,標準原価計算 は 「原価管理 に もっ とも役立つ原価計算 は何 か と問わ れれば,ただちに標準原価計算 を思 い浮かべ るほ ど,原価管理用の原価計算 と して,高 く評価 され」1)る ものであ った。 だが,戦略的 コス ト マ ネ ジメ ン ト が提唱 される現代 において,その地位 は著 しく低下 している。そ もそ も 「原価 計算 システムに対す る情報 ニーズは,経営環境 や経営戦略の変化 に応 じて絶 え ず変化 ものである。 したが って,ある時代 に特定の 目的のために有用 であ った 原価情報 も経営環境 や経営戦略の変化 に応 じてその有用性 を失 うこ と」2)ち, 考 えてみれば当然 なことである。

経営環境 の変化 な どに適合 させ ようとシステムが変化 してい く様 は,あたか も生物の進化 を見 るようである。進化 してい く中で有用性 を失 った部分 は消 え る一方,進化後 で も前時代 の形質 を留めている箇所 もあ る。現代 の戦略的 コス ト ・マネジメ ン トに含 まれ る手法で も,かつての標準原価計算 に基づ く原価管

*本稿は,一橋大学大学院商学研究科を中核拠点 とした,21世紀COEプログラム 「 識 ・企業 ・イノベーションのダイナミクス」のプロジェク ト21世紀型組織モデル と経常 システム」 (担当リーダー :鹿本敏郎教授)の支援を受けて進められた研究 成果の一部である。同プロジェク トにこの場を借 り,厚 く御礼申し上げたい。また,

日本電気 システム建設㈱の専務取締役を務められた安部彰一氏から貴重なア ドバイ スを頂戴 した。併せてここに感謝の意を記す。

1)岡本 (1969)p.10

2)′ト林 (1993)p,20

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184 58 2・3

哩 (原価統制) における手続 きや思考 に遡 ることので きる部分 もあるだろう。

さらに踏み込んで考 えれば,標準原価計算 に基づ く原価管理が行 なわれる以前 の もの も,現代の原価管理の中に見 られるか もしれない。では,現代の原価管 理 において,そ うした過去 における原価管理の手続 きや思考 といった遺産は,

どの ように生 きているのだろう。

こうした疑問に対 して答 えを得 る一つの方法は,具体的な企業の原価管理 シ ステムに着 目し,それが どの ように変化 したのかを探 ることである。では, ど の企業に焦点 を当てればよいのか。幾つかあるが,選択 にあた り中で も重要な 要件 は,ある一定期 間にわたる原価管理 に関す る資料 を取 り揃 え られる企業で ある。筆者 はその一社 として 日本電気株式会社 (以後, 日本電気)が挙 げ られ るのではないか と考 える。

そこで,本研究では, 日本電気の原価管理 システムの進化 を追究 し,現代 に おける原価管理の中に,過去の原価管理の手続 きや思考が どの ように引 き継が れているかの手掛か りを得 ようと考 える。 ただ し, 日本電気 は100有余年 もの 歴史 を誇 る企業である。従 って,本稿では,その手始めに,同社の創業当初の 原価管理が どの ようなものであったかを論及す る。

2.草創 期 にお け る 日本 電気 の経 営 システム

日本電気 は,グループの売上高46,526億 円 (20073月期),当期純利益 91億 円 (同),従業貞数154,786人 (同)の大企業である。現在,同社 の事業 ITソリュー ション事業, ネ ッ トワークソリュー シ ョン事業,エ レク トロ ン デバ イス事業 といった電気機器事業全般 に及ぶ。

同社 の設立は1899年,米国で電話機 ・交換機 を中心 に電気器具の製造 ・販売 を行 なっていたウェス タン ・エ レク トリック (以後,WE:WesternElectric) か ら出資を受けたことによる

日本市場‑の進出を企図 していた19世紀末のWEは,アメ リカン ・テ レフォ ン ・ア ン ド ・テ レグラフ (以後,AT&T:AmericanTelephone&Telegraph)

(3)

を頂点 とす るベル ・システム (BellSystem)傘下の企業 として,AT&Tの米 国外 の電話事業進出に随行 し,国外 の電話機 ・交換機製造事業 に乗 り出 してい た。そ もそ も電話 はベル ・システムで発明 された ものであ り,ベル ・システム に対抗 で きるような技術 ・ノウハ ウを持 った勢力 な ど,進出先の各国に存在 し なか った。 だが,電話事業 は各国に とって も通信政策の根幹であったため,外 資 による電話事業の支配 には,ナ シ ョナ リズムに起 因す る猛烈 な反発があった。

その ため,やが てAT&Tは国外 拠 点 か らの撤 退 を余儀 な くされた。 一方, WEには各 国ナ シ ョナ リズムを押 し退 けるだけの卓越 した電話機 ・交換機の製 造技術 が あった。そ して,WEの経営 陣はAT&Tの失敗か ら,現地の民族資 本 との合弁 を通 じて進 出を図る とい う方針 を採 っていた。 これによ り,WEは 国外拠点か らの撤退 とい う事態 を防 ぐことがで きた。

1896年, 日本 において政府 による電話拡張計画が発足 し,電話事業の拡大が 見込 まれた こ とか らWEは 日本へ の進 出 を決 めた。合弁会社 の設立 まで には 粁余 曲折があった ものの,同社 の初代専務取締役 を務 めることになる岩垂邦彦 民 ら日本人資本 との合弁会社 とい う形で, 日本電気 は発足 した3)0

日本電気 の社 史 『日本電気株式会社七十年史』 (1972)4)の区分 では,創業 の

3) 日本電気 編 (1972)によれば,創業時の 日本電気においては専務取締役が社長 格 に相当する役職であ り (p.49),同社で 「社長」 という名称が初めて用いられ たのは,1943年のことである (p.191)。 日本電気をWEとの合弁会社 という形 で設立 した岩垂邦彦氏は,工部大学校を卒業後,工部省に入 り電話の保守の仕事 を行なっていた。そ して,1886年, 4年間出仕 した工都省を辞 して渡米 した。米 国では,後に トムソン ・ヒュース トン ・エ レク トリック (ThomsonHouston Electric)と合併 して,ゼネラル ・エ レク トリック (以後,GE:GeneralElectric) となる,エジソン ・マシン ・ワークス (EdisonMachineWorks)に,見習い技 術者 として入社 した。そこでは設計部門と製作部門とを交互に 「コマネズ ミのよ うに働 きなが ら,アメ リカ式の経営 と技術 開発の実際 を学 び とっていった」

(p.29)という。その後,1888年に帰国 し,大阪電燈に勤務 した後,GEおよび WE製品の輸入代理店となった。このような経歴 を歩んでいたことから,WEが 日本進出する際,岩垂氏が提携相手 として選ばれ,日本電気の設立後は専務取締 役 として経常に携わることとなった。

4) 日本電気は 『日本電気株式会社七十年史』(1972)の公刊後 も,『日本電気最近十 年史』(1980),『日本電気株式会社百年史』 (2001)を発行 している。だが,草創

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186 第58巻 2 ・3号

1899年か ら明治末の1912年 までが同社の草創期 と位置づけ られている。 この期 間中,同社 は親会社 とい うべ きWEか ら様 々な影響 を受 けた。そ して,それ が以降発展 を遂げてい く同社の礎 になったのである。本稿では,草創期 におい て 日本電気がWEか ら得 た,そ うした経営 システム関連の影響 を明 らかにす 。WEか らの影響 は,次の3つに区分することがで きる。

wEか らの支援 によるもの

( wEが敷いたコン トロールシステムによるもの。

( WEの先進的なシステムを見習い, 日本電気の経営陣が導入 した もの

では,それぞれについて各節で論 じる

3.WEからの支援

日本電気 は 日本国内における電話機 ・交換機の製造のために,WEと日本人 資本 との合弁会社 とい う形で設立 された。だが,WEの提携相手 として選ばれ た岩垂氏 も,岩垂氏 と共 に 日本電気 を創設 した前田武四郎氏 も,電話機販売の 経験 はあって も,製造 に必要な経験やノウハ ウは持 ち合わせていなかった。そ のため,創業 間 もない 日本電気 はWEか ら支援 を受 け,事業 を軌道 に乗せ て いった。

当時のWEは繁栄 を誼歌 し, 日本電気 に対 して大規模 な支援 を行 ないやす い状況にあった。1913年 にシカゴ近郊のWE・ホー ソン (Hawthorne)工場 を 訪れた前田氏 は,当時の様子 を次の ように述べている

期におけるWEによる経営管理システムなどの記述に関しては,「ことに資料の 少なくなっている草創期から関東大震災まで (1編)と,その後,太平洋戦争 終結まで (2編)のいわゆる戦前の45年間の歩みについて,とくに重点を置い て編纂に努めました」 (pp,514515)という 『日本電気株式会社七十年史』が最 も充実 している。そこで,本稿ではこれを主に用いている。

(5)

電話機 を製造する事,世界第一 と称するホ‑ソー ン工場は,実に現今米国が有 する八百商箇のベル会社の電話の凡てを供給せる所にして,抑 も米国の電話事業 は,其の盛況に入 りてより,支友に大凡二十五年,而 して今尚ほ年々歳々,増加す る一方なるが,此の趨勢たる何時迄続 くものであろうかは,殆んど橡測 し能はぬ 所 にして,専門家の意見によれば,今後尚ほ十五 ヶ年は愚か,或は二十年迄,好 況を持続するならんとの推測である5)

この ように発展著 しいWEか ら日本電気 は様 々な援助 を受 け るこ とがで き た。WEに よる強力 な支援があったか らこそ, 日本電気 は 日本 国内での競争力 を高めてい くことがで きたのである。それ らは主 として以下で論 じる3点 に纏 め られ る

3‑ 1 生産設備 の整備

日本電気 は電話機 ・交換機の製造 を 目的に設立 された。だが,事 を急 いだた め,買収で取得 した工場 (三吉電機工場) は老朽化 が 目立 ち, さらに周 囲に人 家が建 て込み拡張の余地 もなか った。 また,大通 りか ら外 れ,輸送上,不僅 で あった。 同工場 に据 え られていた機械類 は旧式過 ぎて電話機製造 には不適当な ものであった。その ような事情 か ら,場所 を移転 して新工場が建設 されること になった。 旧工場 に近い東京 ・三田の土地取得 に成功 したことか ら, 日本電気 は同地 に新 たな工場 を建設す ることに した。1902年 に新工場が完成 し, これに よ り同社 の本格 的な電話機製造が始 まったのである。

新工場 の建設 は,WEか ら派遣 された建設技 師が中心 になって工事の指揮が なされた6)。 また, この工場の機械設備 はすべ てWEの中古 品 を輸入 した もの

5)前田 (1914)p.82

6)Jillard (1924)が 「コンクリー ト造 りの工場の被害は甚大であった」 (p.103)と いうように,関東大震災 (1923年)が発生すると同社の工場は大 きな損害を蒙っ た。震災後,同社はWE・ホーソン工場で総支配人を務めたジラー ド (A.G.Jil 1ard)らの助けを借 り,ホーソン工場を模 した工場を建設 した。

(6)

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であったが,それで も当時の 日本 にあっては最新式の ものであった。 当時の WEは機械設備の更新計画 を概 ね5年 を目処 に行 なってお り, 日本電気では長 い間,WEか ら機械設備の中古品を譲 り受けて,生産設備の更新 を行 なってい た。 日本電気 の製造現場 は,WEによって設計 された工場,WEが使用 した機 械設備か ら始 まったのである。

3‑2 人材の派遣および教育

WEには 「同社の経常方式 を可能な限 り,現地の提携企業 に浸透 させ る方針 が」7)ぁった。 また,米国企業での勤務経験 のあった岩垂氏 自身 も合理的 ・能 率的な生産方式 ならびにこれに伴 う作業態度 ・作業慣行 を,で きるだけ短期 間 の うちに 日本電気の末端 にまで確立 させ ることを望んでいた。そ こで,「この 目的 を速かに達成す るため,岩垂邦彦 は,最初か らWE社 に対 し,経営の各 部 門に通 じた指導者の派遣 を要請 し」8),wEか らは厳格 な選考 を通過 した優 秀 な社員が指導者 として派遣 された。派遣 された社員はいずれ もそれぞれの才 能を高 く買われた人々であ り,いわば, 日本駐在は彼 らにとって出世街道の ワ ンステ ップであった。 日本電気 に派遣 された社員はそれぞれ功績 を残 し,帰国 後 はWEで栄達の道を歩んでいった。

岩垂氏は,特 に工場 における人材育成が緊要であると考えていた。それは 「 造会社 とい うものは,その組織 において も,人的資源において も, フロアーに おいて も,「工場」す なわち直接生産現場が会社組織の大部分 を占めていた。

したがって,会社 は,「工場」 をうま く管理で きさえすれば,経営 は安泰で」9) あるとい う考 え方が根底 にあったか らである。それ までの 日本的な製造現場で は,経験的な勘や技術 を親方か ら弟子へ と秘伝 的に伝承することが慣例であっ た。だが, 日本電気では, こうした伝統的な方法ではな く,WEか ら指導者 を 招いて綿密 な教育プログラムを作 り,教育訓練の集積 によって製造現場の監督

7)佐々木 (1998)p.540

8)岡本 編 (1964)p.2800

9)小池 (1991)p.117

(7)

者 を育成するという方法が取 られた。 こうした外国人指導者 を通 じて, 日本電 気の従業員 らは製品に関する技術のみならず,生産管理や人材育成の技術 を学

び取 っていったのである。

3‑3 資材の供給

WEは,電話機 ・交換機の製造 に必要 な数多 くの材料 について, 日本電気 に 便宜 を図るとい う資材供給契約 を結んでいた。 この契約は,WEが製造 してい る電話機 ・交換機,その補修 に必要 な部品や材料 は もちろん,WEでは製造 し ていない機械,計器,測定器,工具などか ら事務所で使用す る帳簿,伝票,文 房具 などの消耗品に至 る一切 を安価 で供給するとい うものである。 この契約に 拠 らないで 日本電気が購入 した ものは,筆,塞,硯 ,算盤など純 日本的な品 目 数種 に過 ぎなかった。

資材供給契約制度 とは,WEが契約 を結んだ会社の年間需要量 を調査 し,そ のデー タに基づいて必要見込品を調達 ・保管 し,各会社の必要に応 じ,その都 皮,納入す るとい うものである。この制度は,需要側の各会社 には購買 ・保管 ・ 配給担当の組織 を設けずに済むとい うメ リッ ト,WEにとっては多 くの会社 の 注文 を取 り纏めることで,大量生産,大量消費が可能にな り,規模 による経済 性 を利用 して良品を安 く入手で きるとい うメ リッ トがあった。 この ような制度 が可能であった背景には,ベル ・システム傘下の企業が積極的に標準化 ・規格 化 を進め,同 じ材料,同 じ図面 を用いて生産 しようと努めていたことがある

草創期の 日本電気 において,後述す るような科学的管理 を導入す ることがで きたのは,資材供給契約制度 を通 じて,良質かつ標準化 された原材料 を容易 に 入手す ることがで きたか らである。 これは 日本電気 にとって非常 に有益 な制度 であった。そのため,同社の社史 『日本電気株式会社七十年史』 (1972)では,

WEか ら与 えられた恩恵の うち最 も重要な ものであった。電報一本で, どん な種類の必要品 も,必要量だけ送 り届 け られた。それは品質の保証 された, し か も安価 な品物であ り,一定の軽微 な賦課金 を伴 うものの,その支払いは決 し て急がれなかった。いずれに して も, この制度の恩恵が,当社の発展 に寄与す

(8)

190 58 2・3

るところ大であったことは,い くら強調 して も, し過 ぎるとい うことはないの である」10)と,最大級の賛辞が贈 られている

日本電気の創業当初 は, 日本の工業技術 も欧米 に比べて低 く,資材供給契約 に基づいてWEか ら提供 される良質な部品 を 日本電気 で組み立てる,一種 の ノックダウン生産が行 なわれていた。やがて,WEか ら様 々な技術 を得 るうち に, 日本電気で もそ うした部品の製造技術が蓄え られ,独 自の技術 開発 も行な えるようになった。

明治 ・大正期 は,逓信省 による電話拡張計画が数次にわたって行 なわれてい た。 日本電気では,それに伴 う急激な大量受注の機会 を逃す ことな く迅速に需 要 に対応するため,部品の 自製 も開始 させていた。それが結果的に良い方向に 作用 し,後年,親会社の変更によ り資材供給契約が打 ち切 られて も,良質な部 品の確保 とい う点に関 して, 日本電気 はそれほ どダメージを受 けなかったので ある。

4.W Eの コン トロール システム

WEの国外進出の基本原則 は 「その国に,その国の法律 に基 き,その国の人 によ り経営 される会社 を創立 し,それを背後か ら統制する」11)とい うものであ る。この原則 に従 ってWEは傘下の企業 にコン トロールシステムを導入 した。

そ して, 日本電気 に対 して も,例外 な くこの原則が適用 された。1918年 にWE が海外事業統括のために日本電気の株式 を移転 し,イ ンターナ ショナル ・ウェ ス タン ・エ レク トリック (以後,IWE:InternationalWesternElectric)へ と 親会社が変更 して も,1925年 にインターナ ショナル ・テ レフォン ・アン ド・テ レグラフ (以後,ITT:InternationalTelephone&Telegraph)IWEを買 収 し,新 たにイ ンターナ シ ョナル ・ス タ ンダー ド・エ レク トリック (以後, 10)日本電気 編 (1972)pp.6061。岡本 編 (1964)によれば,ここにある賦課金

は機械類5%,材料2.5%,その他3%という率で課されていた (p.284)0 ll)岡本 編 (1964)p.284

(9)

ISE:InternationalStandardElectric)が親会社 になって も, これ らのシステ ムは引 き継がれた。岡本編 (1964)によると,WEが 日本電気 に敷いたコン ト ロールシステムとは,人事 と経理 に主眼 を置いた ものであった12)

4‑1 人事統制

日本電気の役員選任 には,すべてWEの事前承認が必要 とされ,同時 に両 社 間で結ばれた協定に基づ き,WEの利益 を代表する役員が 日本電気 に派遣 さ れた。 これは太平洋戦争 に至 るまで続 き,WE(後 にIWE,ISE)か ら常時2

‑ 3人の役員が派遣 された。また,役員以外 にも十数人の社員が常駐 していた。

そ うした社員は技術部門のみな らず資材,経理,文書 といった各部門に配置 さ れた。彼 らは部下の 日本人を訓練す る指導者であると同時に,それぞれの部門 についての実質的な決裁者で もあった。

WEは経営の要所 に役員や社員 を配 し,経営上の重要事項 については, これ らの派遣役員 ・社 員 を経 由 して,米国の本社 の指示 を仰がせ る とい う方式 を 採 っていた。そのため,派遣 された役員や社員であって も自らが決定で きる範 囲は極めて限定的なものであった。 また定例的なもの,些純 なもの以外のすべ ての議事 は,WEか らの承認 を得ていなければ 日本電気の役員会 に提 出で きず, 事前 にWE本社 との協議 ・承認が必要であった。

4‑2 経理統制

経営活動の合理化や生産能率の向上 を目的 とし,WEは 日本電気の創設当初 か ら厳格 に経理 を行 なわせていた。経理統制 を実施す るための土台に, 日本電 気では,WEと全 く同 じ様式の帳簿や伝票が用い られていた。 この伝票の項 目 はすべて英文で書かれ,その下 に日本語の説明文があった。そ して,この伝票 の記帳や整理の仕方について,WEか らの派遣社員が 日本電気の社員に指導 を 行 なっていた。

12)岡本 編 (1964)pp.284288

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192 第58巻 2 ・3号

また,毎月末 にはWEか ら依頼 されたベル計理士事務所 に属す る米国人計 理士がやって来て,現金,帳簿,伝票の照合や,在庫品の調査 を行 なうとい う 検査制度 もあった。 この米国人計理士の監査報告書がなければ, 日本電気 は株 主総会 を開催す ることがで きなかった。 この ような検査制度は, ドンブ リ勘定 が普通であった当時の 日本 にあって,先進的なもの と見 られていた13)

この ように伝票制度や検査制度 を整備 し,WEは予算制度 を経理統制の柱 と して, 日本電気の コン トロールを行 なっていた。

(1) 予算制度

WEでは傘下の各企業の相互依存関係 を調整 して,全社的な計画や方針 を決 定 していた。WEの子会社で もある日本電気 は,WEの決定に基づいて毎会計 年度 ごとの予算 を編成 し,WEに送付 した。WEでは,専 門の分析部 と統計部 が送付 された予算書 についての精密 な検討 を行なって,その結果 を日本電気 に 対す るWEの経営方針 として纏 め,指令書 とい う形で専務取締役 の岩垂氏 に 送付 した。岩垂氏 に課せ られた達成 目標 とは,WEが承認 した予算の数値であっ た。

予算 を通 じて 日本電気 の統制 を図るWEは,予算制度 を上手 く機能 させ る ための システム も整備 した。それは,岩垂氏の作成 した予算書 に対 し,WE 社で精微 な分析 を行 なえるようにす るための報告制度 (2), 日本電気 に適正 な販売価格 を決定 させ るための原価計算制度 (3)】,そ して, 日本電気 の各部 門が実際の結果 と予算 とが禿離 した場合 に迅速な是正措置 を取れるようにす る ための管理制度 (4)】である。

13)久保 田 (1976)は,日本における 「職業会計人の必要 (を求める動き)は大正3 (1914年)に 「会計士法案」の国会提案となり,それが粁余曲折の末,昭和2 (1927年)計理士法の公布 となった」 (p.86)と述べてお り,日本電気では, 30年近 く先駆けて会計監査が実践されていたことになる。

(11)

(2) 報告制度

日本電気では,WE本社 に向け,専務取締役の岩垂氏か ら月例報告書が送 ら れていた。 この報告書 は 「マ ンス リー ・レター (monthlyletter)」 と呼ばれ, 一般報告 と統計報告か ら構成 されていた。

一般報告の項 目には,(丑選挙お よび内閣の更迭,②政府高官の所属政党,政 見,過去の経歴,③ 国際関係,特 に商業上の取決や条約,④政府の民間諸事業 に対す る態度,G)政府の 日本電気 に対する態度,⑥主要 な政府公債の発行 とそ の 日的,⑦税金 ・関税の動 き,⑧法律制定 ・国際貿易に対す る制限の動 き,(9 月間の経済情勢,⑲ 日本電気お よび一般経済界の労働情勢,政府の労働政策,

⑪既存同業者の営業政策の変更,⑫新規 に出現 した同業者,⑬ 同業者の技術上 の進歩,⑭ 日本電気 に関す る,計画中の新製造方法,組織 ・工程 ・執務方法の 変更,技術上の新 しい進歩,新製品,工場の新設改廃の予定など14項 目があっ た。例 えば,内閣が更迭 された際には,逓信大臣の経歴 ・政策・WEに対す る 好悪の感情 などの事項 を記載す る必要があった。

また,統計報告には,(丑政府の財政収支,②輸出入実績,③紙幣流通高,④ 銀行利率,⑤社債利率,(む産業 ・労働統計,⑦ 日本電気の販売実績,(砂受注高 お よび見積 り,⑨在庫数,⑲資産勘定,⑪従業員数,⑫投資 ・利益 など12項 目 があ り,当月,対前月比,対前年同期比の数字が網羅 されていた。例 を挙 げれ ば, ここには各製品別の売上高 ・原価率,工場操業度,株価 などの数値 を記載 されていた。

マ ンス リー ・レターの様式 と報 告期 限 は厳 重 に指示 され ていた。 マ ンス リー ・レターを基礎的な資料 として,WE本社では, 日本電気 の経営責任者で ある岩垂氏が作成 した予算書 を分析 ・検討 した。また,この月例報告書 を通 じ, WEは 日本の政界 ・経済界の動 きを把握 した。そ して,役員の選任 など,経営 上の重要事項が生 じた際は,その都度,「スペ シャル ・レター(specialletter)

と呼ばれる,それ らの情報 を特記 した書類 を提 出するよう義務付 け られていた。

(12)

194 第58巻 2 ・3号 (3) 原価計算制度

当時の 日本では,大企業で も原価計算制度 を採用 していない ところが多かっ た。 しか し, 日本電気 では設立当初か らWEの指導 に よ り実際原価計算 を導 入 していた。その 日的は日本電気製品の適正 な販売価格 を決定するためである。

日本電気では,実際原価計算 を行 なって製品の原価 を求め, これに所要利益 を 加 えて販売価格 を決定 していた (実際の製造原価 +所要利益 ‑販売価格)。政 府や軍部 を相手 に製品を納品す る場合,この価格 を用いて販売す ることがで き たのである。

当初は簡単な個別原価計算 しか行 なわれていなかったが,経理による統制が 充実す るに従 って,総合原価計算 も行 なわれるようになった。 しか し,当時は まだWEが標準原価計算 を実施 していなかったこともあ り,標準原価計算制 度は導入 されていなかった14)

(4)管理制度

WEか ら承認 された予算 を基 に, 日本電気の経営が行 なわれた。 メー カーで ある日本電気 にとって,工場管理 は経常の根幹に関わる最重要事項であ り,工 場内の職制 ・職責が明確 にされていた。工場内の予算執行の責任 ・権限は工場 長 に集約 された。そ して,工場長の下 に総主任が配 され,その下の現場の最先 端 に親方 (あるいは組長, フォアマ ンと呼ばれていた)が置かれた。第一線の 責任者 として,親方には所属人員の調整,作業進行の管理,工場内の作業者 ( 工 と呼ばれていた)への技術指導 などを行 ないつつ,与 えられた仕事 を遂行す ることが求め られた。

親方の業績 は総主任 によって検討 され, さらに工場長が総主任の業績 を総合 した。それぞれの階層で予算 目標の達成に努めるよう期待 されていた。そ して, 予算 目標の達成 を阻むような状況の変化が生 じた場合,各階層で迅速に検討 を 14)中山 (1963)によれば,WEでも標準原価計算を導入 したのは1930年代であり, そのときには,既にWEとの資本関係が途切れてしまっていたため,結局,戦前, 日本電気に標準原価計算は導入されないままであった (p.165)

(13)

行 なって,必要 に応 じて是正措置が取 られていた。

4‑3

この ように創業時か ら, 日本電気 にはWEによる強力 なコン トロールシス テムが敷かれていた。 しか し, これ らは全社的な経営管理 システムに関係す る ものであ り,工場の末端,すなわち親方 と作業者 との間の管理 システムは,当 時の 日本の工場 において慣習的に行 なわれていた親方請負制度 (組受取 り制度) が採 られていた。小池 (1991)が 「これには, さすがのウエス ター ン社 もほ と ほと手 を焼いた らしい。 ウエス ター ン社が最後 まで改善で きなかったのは, こ の親方制度であった」15)とい うように, この親方請負制度が廃止 され,WE涜 の生産管理 システムが導入 されるようになったのは,創業か ら11年後の1910 の ことである。

日本電気 は創業時か ら,WE流の多 くの先進的な管理手法 を積極的に導入 し て きたが,工場 内の作業現場だけは旧態依然 としたままであった。その弊害が 明 らかにな り,岩垂氏が親方請負制度 を廃止 して初めて, 日本電気 は隅々に至 るまで近代的な企業へ と脱却 したのだ といえる。

5.岩垂 氏 によ る生産 管理 システムの導 入

繰 り返す ように,当時の製造業 は工場が会社組織の大部分 を占めてお り,工 場 を上手 く管理することが経営の安定 に結びつ く。そのため, 日本電気で も, そのための努力が数多 くなされていた。例 えば, 日本電気では,(丑作業者の時 間規律の維持,②賃金制度のための基礎記録,③管理制度用の基礎記録 を目的 として,1903年 に 日本で最 も早 くタイム ・レコーダーを導入 している16)。また, WEか らの支援 を受けて,当時の 日本にあっては高性能な工場設備 を有 し,外

15)小池 (1991)p.1220 16)小池 (1991)p.119

(14)

196 第58巻 2 ・3号

国人指導者か ら先進的な技術 を得ていた。その結果, 日本電気 は技術力のある 良質な製品を作 り出 し,創業か ら僅かな年月で高い競争力 を持つ ようになった。

しか し,それだけでは 日本市場 で絶対 的 な競争力 を確保す ることがで きな かった。 なぜ な ら,「国内の競合他社 は,熟練工 による汎用機の活用 と小工場 を使 った分業生産で対応 していたので, コス ト的には 日本電気 よ り低 く仕上げ ることも多かった」17)か らである。それは創業時 における 日本電気 の工場事情 と関係 している。

創業時, 日本電気 は電話機 ・交換機の製造 を目的 として,既存の工場 を買収 した。その とき,同工場の技術者 ・作業者の うち数人は買収後 も留 まったが, 大部分 は四散 して しまった。その結果,草創期の 日本電気 には電話機製造 に携 わった経験 を持つ熟練工がほ とん どお らず,寄せ集めの素人たちで生産 を行 な わなければならなかった。その結果,歯車の雑音が高かった り,真盆鋳物の仕 上が りや外函 の塗 り方が荒い といった熟練工の不足 に起 因す る欠陥が頻発 し た。 「ベ ター ・プロダクツ,ベ ター ・サー ビス (BetterProducts,BetterSer vice)」 を会社 のス ローガ ンとして掲 げた岩垂民 らは,そ うした欠陥品 をすべ て処分 し,良品を生産す るまで何度 もや り直 させた。そのためにコス ト高へ と 跳ね返って しまったのである。

こうしたコス トの問題 に加 え,作業者 を管理す る親方請負制度の弊害 も目立 ち始めていた。能率的な生産管理 システム‑ と工場内を整備することが急務 と なっていたのである。

5‑ 1 岩垂氏の訪米

1905年 に岩垂邦彦氏 はWEか ら派遣 された役 員 ・カール トン (WalterT.

Carleton)氏の勧 めでWE本社 を訪問 した。岩垂氏がかつ てエ ジソ ン ・マ シ ン ・ワークス (後のGE)で見習い技術者 として勤 めていた ときと比べ,WE を始め とする米国企業 は 「経営 も,その規模 ・人員 ・技術力 ・機械設備 ・研究

17)日本経営史研究所 編 (2000)p.22

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機 関 ・労働 お よび生産の管理制度の,いづれの面 において も,往時の痕跡 をと どめぬ まで に,その形態 を一変」18)させ ていた。特 に岩垂氏 の 目を惹 いたのが WEの科学的管理 に基づ いた生産管理 システムであった。

1903年 にテイラー (FrederickW.Taylor)氏が ̀̀shopManagement" を発 表 し,科学 的管理が徐 々に米国産業界 に浸透 しつつあ った中, 「ウエ ス ター ン 社 は, このテイラー ・システムの熱心 な信奉会社 で」19),その先端 を歩 んでい た。 そ こで,岩垂氏 はWEに生産技術 習得 のため に派遣 していた2人の実習 生 ・野坂三郎氏 と江橋親氏の実習 目標 を,科学 的管理 に基づいた生産管理 シス テムの研 究へ と変更 させ た。そ して, 2人が帰 国 した1908年 に岩垂氏 は,彼 ら の知識,経験 に基づいて生産管理 システムの改革 を始めた。

科 学 的管理が導入 された工場 を見 学 した 日本 人 に とって,それ は衝 撃 的で あった ようである。 同 じくホー ソン工場 を見学 した前 田 (1914)は,次の よう に述べ ている。

欧米の人々は,工業に非常な趣味を有 して居る。之に反 して 日本人は,之を持 って居 らない。日本人は概 して政治には熱心だが,工業には冷淡である。欧米人は, 金は働いて作るものと先天的に心得てる。而 して之を作る事を,各自の天職 として, 熱心に研究努力 している。日本人は金は欲 しいが,同時に骨を折る事が嫌である。

工業の如 き骨の折れて成功の遅々たる者は,面倒臭いとして棄て,夫れよりも割 の良さそうな方面に向ふ癖がある。政治家にな りたが り,官吏に志すのは,之れ が為めである。此の如 き状態をして一極愛せ しめ,我国をして工業思想の囲たら しむるには,如何 にせば可なるや,果 して如何 なる良法を以って しても,一代二 代の中に,心理的髪革が期 しえられる ゝであろうか20)0

この ようにホー ソ ン工場 に衝撃 を受 けた岩垂民 らは,その生産管理 システム 18)岡本 編 (1964)p.157

19)小池 (1994)p.2470

20)前田 (1914)p.106

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198 58 2・3

を手本 として徹底 的に模倣 していった。そ して, このWE流の生産管理 シス テムの模倣 を通 じて,科学的管理が 日本電気 に導入 されたのである

5‑2 親方請負制度

WEの科学的管理 に基づいた工場 を目の当た りに し,その後, カール トン氏 か ら親方請負制度の弊害 を指摘 されたことを契機 に,岩垂氏 はそれまでの親方 請負制度 を廃 して,科学的管理に基づいた生産管理 システムを導入することに した。では,それまで行 なわれて きた親方請負制度 とは,どの ような ものであっ たのだろうか。 ここで触れてお く

創立当初, 日本電気 には生産体制 も整備 されてお らず,熟練工 も乏 しい状態 であった。その ような状況 にあって,いち早 く生産実績 を上げることを望んで いた岩垂氏 は,当時,「わが国の機械工場 は, どこで も親方制度 (請負制度) が工場管理の中心 となって」21)いた ことか ら,「組受取 り」 と呼 ばれる親方請 負制度 を提案 し,これが創業期の 日本電気 において採用 された。 これは部品の 生産や製品の組立など,一つの仕事の単位 ごとに親方 (組長) に仕事 を請負わ せ るシステムである。 よって,会社 としては親方 と契約 を結べ ば,す ぐに生産 が開始 されるという利点があった。

親方は自らが請負 った仕事 を遂行す る上で必要 な人間を, 自ら集めて きて, 日本電気の作業場で働かせた。そ して,不要 になれば親方の権 限で解雇 した。

この制度では,形武上,作業者 は 日本電気の職工 として登録 されるが,実質的 には親方の個人的な使用人に過 ぎず,雇用 ・解雇すべての実権 を親方が握 って いた。会社の役割 は単 に親方の指示で職工名簿に名前 を記入 した り削除 した り す ることであった。

親方請負制度のメ リッ トは,親方がで きるだけ能率的に仕事 を行 なお うと努 力す ることである。 「品質の良い製品 を仕上げなければ リジェク トととな り, 収入 に結びつかない」22)ため,親方は製品の歩留 ま りを向上 させ るように努め, 21)日本電気 編 (1972)p.56

22)佐 々木 (1998)p.550

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工場全体の生産性が上が るとい う面 もあった。だが,次の ように,①親方間の 調整,(彰親方 と作業者 との関係 についてデメリッ トがあった。

(丑 この制度の下では,組それぞれが独 自に動いていることか ら,生産の全 体的な管理が困難であった。日本電気が手がける製作機種が多種類 とな り, それに参加する組の数 も増 えると,各組 はそれぞれ縄張 り意識 を持 ち,互 いに工程上の連絡 な しに仕事 を進めるようになった。例 えば,一対の電話 機 は受話器 と送話器か ら構成 されているため,両方の工程が並行的に進む ことが望 ましいが,その調整が上手 くいかないことも多かった。 この よう な親方同士の意地の張 り合いや感情の もつれが負に作用 し,工場の生産に 大 きく響いた。

親方の下で働 く作業者の不満が高 まって きていた。 この制度では,仕事 を安 く仕上げるほ ど親方の儲 けが大 きいため,親方 はで きるだけ作業者 を 安 く使お うとしていた。 しか も当時は不況で人手が余 っていたことか ら, 親方は思いの ままの低賃金で作業者 を雇 うことがで きた。作業者の不満 は 低賃金 に加 え,仕事内容の変化 と賃金 との関係 にもあった。製作機種が増 え,手がける工程が複雑 になると,親方が仕事の難易度を合理的に賃金 に 反映 させ られな くなっていた。 さらに親方に雇われている立場の作業者 は 雇用関係 を維持するため,賃金 を受 け取 って もその一部 を親方 に上納 しな ければならず,それ も不満であった。

かつて岩垂氏 はこの親方請負制度 を提案 し,積極的に利用 していた。しか し, この制度の弊害 をカール トン氏 に指摘 された岩垂氏 は,1908年 にWEか ら帰 国 した実習生2人 (野坂氏 ・江橋氏)に,その現状 を吟味 させた。その結果,「 の弊害が意外 に大 きいことに驚いた。そ して,まさに改革の時期 は熟 してお り, この弊害 をその ままに放置 しては,悔 いを千載 に残す とい う結論 を得た」23)

23)岡本 編 (1964)pp.158159

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であった。こうして,野坂氏 ・江橋氏お よびカール トン民 らWEか らの役員 ・ 社 員の力 を得て,親方請負制度の廃止,そ して,それに替 わるWE流の科学 的管理の導入が行 なわれることとなった。

5‑3 生産管理 システムの変革

親方請負制度は,当時の 日本社会 に根差 した制度であ り, 日本電気 において も創業時か ら採 られていた制度であったため,その根 は深 く一朝一夕に変えら れるものではなかった。 また,親方請負制度 を廃止すれば,生産現場で絶大 な 権限を有 していた親方たちの猛反発 を食 らうのは必至であった。そこで,岩垂 氏 は変革を一気 に進めるのではな く,時間をかけて親方たちの力 を少 しずつ削 いでい く方策 を打 ち,徐 々に生産管理 システムの変革 を実現 させ た24)。そ こ で行 なわれた方策 として,次の5点が挙げ られる25)

(1) 書記の配置

最初の改革は,各親方への 「書記」の配置であった。書記の仕事 は親方に代 わって作業者の作業記録 を整理 し,各作業者 に対す る賃金 を計算す ることで あった。それまで親方 は,請負 った仕事がすべて終了 した後 に,作業者 に対 し てまとめて賃金 を払 っていた。そのため作業者 は生計 を計画的に維持す ること がで きなかった。そ こで,書記 を配置 して賃金 を計算 させ,直接,毎月の賃金 を会社か ら作業者 に支払 うような形へ と変 えられた。書記 を配置 した段 階では, まだ会社 と作業者 との間では賃金契約が結ばれていなかった。会社 と作業者 と は,親方 と作業者 との間で結ばれた契約 に従 って,書記の記録 に基づいて賃金 計算 を行 ない,賃金 を支払 うとい う関係で しかなかった。だが, この方策によ り,それまで形式的な関係で しかなかった会社 と作業者 との間に直接的な関係 が生 まれた。

24)AdamsandButler(1999)によれば,WEにおいても1897年に請負制度が廃止 されたが,それには数年の歳月が掛けられたという(p.76)0

25)日本電気 編 (1972)pp.62‑64

(19)

(2) 技術部の設置

1908年 に 「技術部」が設置 された。その 目的は,独 自に技術 開発 を行 なうと い うよ りもWEで開発 された新技術 を消化 し,WEと同 じ技術水準 を保持す ることにあった。そのため,同部の仕事 は,(丑wEの特許 を整備す ること,

wEか ら送 られて くる新製品の製作 図面 を基 に, 日本電気の工場の技術水 準 ・能力 に応 じて細部の工程別図面 を作 ることとされた。当時,主要機種 には WEか ら図面が送 られたが,部品などは現物 をスケ ッチ した ものが,工場 に回 されるとい う有 り様であった。そこで,各部品の完全 な製作図面 を作成 し,各 寸法の リミッ トを定めることが技術部の重要な仕事であった。 ここで作成 され る製作図面 を基 に して,後述の検査員たちは検査規定 を整備 していった。

上述の仕事以外 に,岩垂氏か ら技術部には重大 な仕事が命 じられていた。そ れは単価請負制度の導入 を目的 とした,個 々の部品についての工数分析 と各工 程の時間測定のデー タ作 りである。 これ らは親方請負制度の廃止に直結するも のであった。そこで,親方たちの抵抗 を避けるために極秘裏 に進め られた。 こ れ らの作業 は,1908年か ら3年 をかけ1910年 に完了 した。

(3) トレーサー (産出部)の配置

それ まで,個 々の生産工程 に関す る人員,技術,使用機械,材料 などの決定 は親方に任 されていた。親方は他者か らの指示 に従 う必要はな く,結ばれた契 約のみに従 って生産 を行なえばよかった。 しか し,新型の電話機 ・交換機が登 場 し,WEか らの新技術が入 って くると,親方個人が持 っている技術や知識で は追いつけず,下記の ように納期 に間に合 わないで,会社の信用 を失墜 させ る ケース も生 じた。

1907年 (明治40年)に一つの トラブルが起った。それは,ある重要な得意先に 納入する交換機の進行状態を調べるために,工場長がある親方の所に行き,彼の 担当する部品の完成予定 日を尋ねた。その時この親方は工場長に対 し,昨日でき 上がったと報告 した。そこで工場長は安心 して引 き下った。けれど,事実はでき

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ていなかった。そしてこの交換機の納入は,ついに間に合わなかったため,会社 は得意先から納入遅延を責められ,甚 しく名誉を傷つけた26)

上述の出来事以後,新規 に契約 を結ぶ際,親方 には契約完了 までの進行予定 表 を技術部に提 出す るよう義務づけ られた。そ して,すべての契約 についての 進行予定表 を集め, これに基づいた個別予定表台帳が作成 された。 また,技術 部では併せて総合進行予定表 も作成 した。

進行予定表の作成 と並行 して,有能な技術部員が工場 に配置 された。彼 らは 一定期 間,技術 と生産管理 に関する訓練 を受けた後,毎 EI,工場内を巡回 して 各親方 を訪ね,前 日の生産進行状況に関す る報告 を受け,それを個別予定表台 帳 に記入 していった。彼 らが親方 を訪ね,前 日の生産状況 を個別予定表台帳に 記入 してい くことで,親方 に製品の進捗状況への注意 を払わせ るといった効果 があった。 また,生産が並行 して進行するようにな り,工場全体が効率的に製 作 を進め られるといったメリッ トもあった。そ して,親方にとって も, これ ま で気づかなかった生産阻害の要因を技術部員に発見 して もらえるとい うメ リッ トがあったため,当初 は巡回制度‑の反発があった ものの,徐 々に消 えていっ た。そ こで, 1909年に工場巡回を専 門業務 とす る産出部が創設 され,同部員は

「トレーサー」 と呼ばれた。

やがて トレーサーは記録集めに終始せず,積極的な態度 を取 り始めた。親方 の報告か ら進行が停滞 している原因を自ら突 き止めた り,技術ス タッフや専 門 家 に状況を報告 して親方支援 に差 し向けた りす るようになった。 また,時には 工場長 を担 ぎ出 して親方の支援 に向かわせ ることもあった。

親方請負制度は,親方がその仕事の細部 に至 るまですべての知識 を有 してい るとい う前提があったか らこそ,親方の独裁的な決定権が認め られていた。 し か し, トレーサー制度によ り,親方一人の力ではな く技術 ス タッフとい う組織 の力で対処す るようになると,親方請負制度 を支 える前提が揺 らぎ,これを行

26)岡本 (1964)p.161

参照

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