七月王制時代のフランス社会
llその時代の文学研究のための覚え書
小場瀬卓
三
はしがき
フランス文学のなかでも︑私はむしろ十七・八世紀の文学を専門とするものであって︑十九世紀にたいする私の知
識は素人の域を出るものではない︒それが︑七月王制の時代についてあえて筆を取ろうとするのには︑つぎのような
理由がある︒
この時代に活躍したユ︒コi<・口娼σQoや︑ミュッセ鼠蕊ω簿やヴィニー<お越などのロマン派の文学についてはと
もかく︑バルザックじσ効一.鋤︒やスタンダ!ルω搭鑑ぴ巴の文学を語ろうとする場合︑われわれはその時代の社会に関
する知難しに蓬せない︒どのように彼らを読もうと︑それはも圭り研究者の畠であるが・このふたりの偉大
なリアストは︑自分たちの時代の﹁年代記作者し︒鐸○づβ審霞たることを自負し︑そう広言している以上︑彼らを生
んだ社会に関する知識を欠いた研究が︑片面的であらざるをえないのは当然である︒例えぽ﹃赤と黒﹄卜鳴沁◎薫ミN鳴蜜険が恋愛小説だとしても︑作者が﹁+九世紀の年代記﹂§§黛§と奪§N鳴と副題している以上・これ
を恋愛小説としてしか読まないような研究が十全なものたいえないことは論じるまでもなく明らかなことである︒
︽人間喜劇︾N黛O◎§駄ミ偽ざ鰍ミ勲筑博励鳴という大小説群を﹁パリ生活の状景﹂﹁地方生活の状景﹂﹁軍隊生活の状景﹂と
七月王鋼時代のフランス社会八一
七月王制時代のフラソス社会八こ
いうふうに分けて︑その時代の大きな画幅を描こうと,意図したバルザックについては︑このことは一層真実であろ
う︒だから多くの研究者は︑少くともこの二大作家に関するかぎり︑七月王制時代の社会を社会科学的に研究する必
要のあることを感じ取っている︒しかし文学を志すような人間は︑感愛性には恵まれていても︑社会科学な研究には
弱いのが通例であって︑その必要は感じていても︑なかなか七月王制時代のフランス社会と科学的に取り組むことが
できないでいるというのが︑わが国の研究老の悸らぬ実状ではないかと思う︒私とても社会科学に弱いことにかけて
は人伍に落ちないが︑モリエールやディドロの研究をする際︑その必要を感じていくらかその方面の勉強もしたので︑
他の文学研究者にくらべれば若干その心得のある部類の人聞と世間からは見られているようである︒そのせいか︑バ
ルザックやスタンダ;ルが私の專門でないことを承知の上で︑彼らを生んだ時代について書けとか︑彼らを﹁政治
的に読むし読み方について話をしろとかいう依頼を受けて閉口する︒できるかぎりはおことわりするのだが︑どうに
もことわりきれなくて︑その種の雑文を書いたり︑話をしたりしたこともある︒どんな雑文にしろ︑漫談めいた話に
しろ︑七月王制時代の社会に関する知識なしにはやれないから︑十七・八世紀のフランス社会についてほどではない
にしても︑それについて多少勉強もした︒歴史科学あるいは社会学を専攻していられる人の眼から見れば児戯に類す
るようなものであろうが︑その程度のことであっても︑文学研究の領域では︑御披露すれぽ︑若干その時代の文学専
門の方にはお手助けになるといった所もあるかと思う︒それで︑鳥なき里のコーモリとの識りを覚悟のうえで︑七月
王制時代のフラソス社会について粗描を提供しょうと考えたのが本論である︒これはほんの粗描であり︑その骨組み
だけであるから︑ここから一足跳びにバルザックやスタンダ!ルの小説に飛墨することはできないし︑またそんなこ
とをしたら誤りで︑七月王制時代の詳細な政治の動きや風俗史に関する知識なしには彼らの小説は分析できないが︑
そういった政治の動きや︑風俗を︑単に現象的にではなく本質的に︑根源的に捉え︑バルザックやスタンダ!ルがい
程
かによくその本質を見抜き︑描破しているかを理解する︑
願している次第である︒ 一番根底になる知識をいくぶんでも提供できたならばと念
一︑金融轟界族の支配
一八三〇年の七月革命によって成立したオルレアン家のルイ聾フィリップのもとで支配したのはブルジ鐸アジー全
体ではなく︑その一分派︑すなわち銀行家︑株式王︑鉄道成金︑炭鉱や鉄鉱であてた成り上り者︑彼らに加担した一部
(1)の地主など︑いわゆる﹁金融貴族﹂であった︒個有の意味におけるブルジョアジー︑すなわち産業資本家は議会にお
いて野党を形造り︑内閣にも代表者を送り込んだことはあったが︑政治は必ずしも彼らの意のままにはならなかった︒
小ブルジ認アジーや労働者はまったく政治から除外されていた︒このことは当時の議会制度を見れば一目瞭然であ
る︒上院議員は国王の任命であったし︑下院の議員を選ぶ権利を持つためには二〇〇フラン以上の税金を納めていな
ければならなかった︒この二〇〇フランが今日のフランになおしてどのくらいの金額に相当するかはむずかしい問題
で︑計算の仕方でいろんな数値がでるであろうから︑二〇〇フランという制限がどんなに厳しいものであったかを理
解するためには︑当時賃金は平均一日ニフランで︑小麦一〇〇リットルが一九フランであったことを想起するほうが
てっとり早いであろう︒言い換えると一〇〇日分の賃金︑あるいは一〇〇〇リットルの小麦(それを生産するために
は︑当時は約○︒八ヘクタールの耕作が必要であった)に相当する税金を納めなければ選挙権がなかったのであるか
ら︑小ブルジョアジーや︑労働者や︑農民にとって︑選挙権なんてものは飾り窓のなかの豪華な衣裳みたいなものだ
った︒事実この制限のため︑三〇〇万のフランス人口のうち︑有権者はわずかに二〇万人にすぎなかったのである︒
註一碧鐸oo轟轡δ眺ぎ碧良Φ$ここにいう﹁貴族﹂は嵩◎ぴ一Φωω①の意ではなく︑﹁少数の特権春﹂ほどの意である︒
七月王制時代のフランス社会八三
七月王鰯時代のフラソス社会八四
フラソスの産業ブルジ滋アジ!がこのように無力であったのは︑フランスにおいては資本主義の発達が遅れ︑イギ
リスがすでに産業革命をほぼ完了した一八三〇年代において︑フラソスではようやくそれが始まろうとしているよう
な段階にあったからである︒(フランスの産業革命はほぼ一八三〇ー六五年の間と考えてよいだろう︒)
このことをもっとも端的に現わしているのは鉄鋼業である︒大革命の一七八九年にフランスは二〇三の熔鉱櫨と六
の鍛鉄所を持ち︑六九〇〇万キログラムの鉄鋼を生産していたが︑一八三〇年においても三三〇の熔鉱櫨と八六の鍛
鉄所を持って︑一億一二〇〇キロの鉄を生産しているにすぎない︒熔鉱醸の数に比し生産が飛躍的に増大しているこ
とは生産の集中を物語るとはいえ︑その間フランスはナポレオン戦争という︑ほとんど全ヨ!ロッパを相手とする長
期の︑大規模な戦争をしたことを思えぽ︑四十二年かかって鉄鋼の生産が二倍にも達しなかったということは︑執政
官時代(一七九五ー九九)︑帝制時代(一七九九ー一八一五)︑ブルボソ王朝の王政復古時代(一八一五⊥二〇)に︑
フランスの製鉄業の進歩がいかに春日遅々としていたかがわかるというものである︒鉄道はまだ敷かれず︑紡績業を
除いて︑圧側的多数の産業は︑アンシャン・レジーム時代同様︑手工業を基礎とするマニュファクチュアーであった
のだから︑鉄鋼にたいする需要もそうなかったのである︒
フランスの工業がその頃になってもいかに手工業的であったかは︑同じ製鉄業において︑コークス熔鉱燈のあった
のは︑一八〇六年においては︑あの武器の製造で有名なクル⁝ゾー9Φ器舞だけだったという一事が雄弁にこれを
物語っている︒一八二八年に中部フラソスの鉄鋼業の中心地であるサン躍テティエンヌω鉱馨出樽冨§①に一三基のコ
ークス櫨が築かれ︑それはさらに一八三〇年には二九基に増加したが︑フランス全体で四〇八基の熔鉱濾があったと
ころから見れば︑そのパーセンテ!ジは依然きわめて低いといわなければならない︒それが一八四〇年には四一基に
なったけれども︑まだまだ問題にするにたりない︒一八四〇年代︑とくに一八五〇年以後になってコ⁝クス製錬はよ
勢
り急速に拡大し︑一八六四年頃になってやっと決定的に木炭製鋳に取って代わるのである︒すなわち一八六四年には
四一二基の熔鉱櫨のうち︑三七〇基がコ⁝クス櫨になっている︒
フランスの工業のイギリスにたいする立ち遅れは︑両国の貿易にはっきり現れている︒一八四〇年代においてイギ
リスは二二億六〇〇〇マークの貿易を持っていた︒それにたいしてフランスは一三億二〇〇〇マークにすぎず︑一八
五〇年において前者は三三億八〇〇〇マークに躍進しているのに︑フランスの貿易は一五億マークににふえたにす
ぎず︑決定的にイギリスに引き離されている︒しかもフランスの輪出品が大部分絹織物︑婦人蝦︑金銀細工︑ガラス
製品といったような手工業的贅沢品であったことを考え合わせるならば︑イギリスとフランスとの工業力の実質的な
差異は︑右の数字に現れた以上に大きいといわざるをえない︒
このような無力さの結果︑フランスの産業ブルジョアジーは政治的覇権を︑銀行家を頭に載く金融貴族にゆだね︑
その獅子の饗宴のパン屑を頂戴する野党の立場で満足しなければならなかったのである︒事実七月王制のもとで内閣
を組織したのは︑金融貴族のイデオローグである歴史家のギゾー○鶏N9であり︑公爵のドゥ・ブローイU①じご8σqζ
であり︑銀行家のカジミール・ペリエ○霧§已Φ℃⑫δ同やラフィットピ既綜おであった︒産業プルジ翼アジ:の代
弁者で歴史家のティェール8鉱Φ話(のちにパリ・コミュ⁝ンを圧殺するあの歴史家のティエ:ル)も大臣になった
ことはあるが︑その内閣は短命に終った︒
それではどうして銀行家がそんなに大きな役割を演じたかというと︑フランスの政府はアンシャン・レジームの時
代から第五共和制の今日に至るまで︑年中赤字続きで︑金融業者の授助なしにはやってゆけないからである︒赤字の
原因は時代により︑また政権の性格によって同一ではないが︑いつの時代にもフランスの国家財政を圧迫し︑その重
荷となった同一の要素がある︒それは楚大な宮僚軍の存在である︒
七月王制時代のフランス社会八五