読 み の 教 育 の 新 展 望
I‑」
子 ど も の 読 み を 支 援 す る 教 師 の 役 割 を め ぐ っ て ‑
塚 田 春 彦
一、作品中心から読者中心へ
一・一子どもが「私」を通す読み
最近の国語科の読みの研究では'言語表現というものは本来
様々な意図や知識から構成される複合的なサブシでァムの集合体でt.構造としては様々なレベルで開かれた状態にあるという理解が定着しっつある。たとえ偉大な作家の作品であっても'
それは一定の意図の下に完全無欠の状態で統一された確定的な情報を捷供している訳ではないと考えるのである。またこうし
た理解を端的に示す概念として「作品」に代って「テクス‑」
という用語が使われ始めている。読みという理解行為においては'テクストを構成しているサブシステムの解釈についてもか
なり読者の意志的なかかわりに委ねられ'またテクスIの構造
上の空隙は読者が自らのイメージや経験によって創造的に埋めてい‑と考えられている。テクスIの理解はテクストの側から
の一方的な論理によってその意味内容を決定されているのでは
な‑'読者一人一人が各自の知識・経験をもとにして再構成する面があり'むしろそうした働きかけの方が重要かつ不可欠の ものであると考えられている。
こうした理解に立って'現在'読みの研究においてはt.個々
のテクストに対する生徒一人一人の反応研究が重視され'生徒
の既有知識が読むことに及ぼす影響やその意味づけが積極的に(荏‑)
取り上げられるようになってきている。生徒が「テクス上と一のかかわりによって構成した事実・行為を学習指導や研究の基13点にしていこうというのである。・f
この発想の転換によってへ読みの教育における多くの関心も
読者である生徒7人7人の読書過程へと移ってくる。生徒はど・
のように読みを構築してい‑か。その一人一人の読みの姿に迫
り'その読みの行為およびその変容の実態に教育的価値を見出そうとすることになる。
またこの力点の移動は読みの学習指導に限ったことではなく、
或る教育観の変革と軌を一にしていることも押えておかなけれ
ばならない。一例をあげると'パフォーマンス・ゴ
ー
ルからラ
ー ニ ン
グ・ゴールへという目標観の転換がある。学習観の転換と言ってもいいものであるが'これらの用語はそれぞれ次のような学びの姿の違いを表している。
パ フ ォ ー マ ソ ス ・ ゴ ー ル と は 学 習 者 が 「自 分 の 能 力 が 肯 定 的
に 評 価 さ れ る よ う な 結 果 を 得 よ う と す る 」 学 習 に 見 ら れ る 言 わ
ば 結 果 重 視 の 立 場 で ' こ れ ま で の よ う に 「内 容 と し て の 知 識 」 の 学 習 に 焦 点 を 当 て る も の で あ る 。 こ れ に 対 し て 、 ラ ー ニ ソ グ
・ ゴ ー ル と は 学 習 者 が 「学 ぶ こ と に よ っ て 自 分 の 知 識 が 増 え 技
能 が 向 上 す る こ と 自 体 を 喜 び と す る 」 過 程 重 視 の 立 場 を 指 す 。
こ ち ら は 「機 能 と し て の 知 識 」 の 学 習 に 焦 点 を 当 て て い こ う と
す る も の で あ る 。 パ フ ォ ー マ ン ス ・ ゴ ー ル の 考 え 方 の 背 景 に は 、 「知 能 は 不 変 で 統 制 不 可 能 と 考 え る 固 定 理 論 」 が あ り ' ラ ー ニ
ソ グ ・ ゴ ー ル の 考 え 方 の 背 景 に は 「知 能 は 少 し ず つ 増 大 す る も (杜 2) の と 考 え る 変 容 理 論 」 が あ る と さ れ る
。こ の 前 者 か ら 後 者 へ と
い う 過 程 重 視 の 発 想 に よ る 教 育 観 の 変 革 に も バ ッ ク ア ッ プ さ れ
て ' 生 徒 の 読 み の 実 際 の 姿 の 中 に 教 育 的 価 値 の 再 構 築 の 原 理 が 探 ら れ よ う と し て い る の で あ る 。 「何 冊 か の 本 ' い ‑ つ か の 文 献 を ﹃私 ﹄ な り に 読 み 継 ぐ こ と
が 読 書 本 来 の 姿 で あ ろ う 。 読 み 手 自 身 が 問 題 を 繋 い で い く 読 み 、
感 覚 ・ 感 性 を 繋 い で い く 読 み ' 論 理 を 繋 い で い く 読 み ' こ う し
た ﹃私 ﹄ の 意 識 的 ・ 意 図 的 な 行 為 と し て の 読 み が 読 書 の ﹃読 (注 ・・) み ﹄ で あ る
。」こ れ ま で の よ う に 、 指 導 者 側 か ら 一 方 的 に 求 め
ら れ る 克 明 な 読 み に 読 者 と し て の 「私 」 を 埋 没 さ せ ら れ て い た 生 徒 に ' 彼 ら 一 人 一 人 の . 「丸 ご と の 読 み 」 を 保 障 す る こ と の 意
味 を 改 め て 問 う 時 期 に 来 て い る の で あ る 。
た だ し こ の 場 合 の 「私 」 と は ' 作 者 に は 劣 る 無 知 で ひ と り よ
が り の 「私 」 で は な い 。 あ る い は ' 無 理 解 の ま ま 批 判 だ け を 繰
り 返 す ヒ ス テ リ ッ ク な 「私 」 で も な い 。 テ ク ス ト を 理 解 し よ う と す る 「私 」 に は ダ イ ナ ミ ッ ク で 柔 軟 に 変 容 す る 「私 」 ' 多 様 な 視 点 に 立 っ て そ う し た 「私 」 自 身 を 受 け 入 れ よ う と す る 「私 」
が 本 来 宿 っ て い る の で あ る 。 あ る い は そ う し た 「読 む 心 」 を こ そ 注 視 す べ き で あ る と い う べ き か も し れ な い 。
佐 伯 肝 は こ う 述 べ て い る 。 「﹃ 理 解 ﹄ の 根 源 は ﹃〝 私
″と 同 じ ﹄ と い う 認 識 だ が ' そ の 際
の ﹃私 ﹄ を 徹 底 的 に 相 対 化
Lt 状 況 に 規 定 さ れ て い る こ と を 自
覚 し ' そ の 状 況 が 何 で あ る か ' そ れ に よ っ て つ く ら れ た 内 的 制
約 が 何 で あ る か は 未 知 で あ る と み な す の で あ る 。 し た が っ て ﹃私 ﹄ は ﹃私 ﹄ を で き う る か ぎ り 多 様 な ' そ れ ぞ れ の 異 な る 状
況 を 背 負 っ た 異 な る 内 的 制 約 を か か え た 多 く の 可 能 的 な ﹃私 ﹄
に 分 化 さ せ て ' さ ま ざ ま な 生 物 ' さ ま ざ ま な 文 化 の 人 の な か に (珪 4) ﹃住 み 込 ん で み る 必 要 が あ る ﹄ 。
」佐 伯 の こ の 見 解 に は 「過 程 」 と い う も の を 重 視 す る 意 味 ま た
そ の 「過 程 」 が 学 び の 姿 を 支 え て い く 原 理 が 示 さ ︼れ て い る 。 読
み の 中 核 に あ る エ ネ ル ギ ー は 「私 」 が 「私 」 の 既 有 の 知 識 ・ 経
験 を 相 対 化 し な が ら ま た そ れ を 様 々 に 繋 い で い こ う と す る 意 志 な の で あ る 。
一 ・ 二 問 題 の 所 在 と こ ろ で ' こ の 立 場 は 「自 己 を 読 む 」 と い う こ れ ま で の 発 想
と 相 違 す る と こ ろ は な い の で あ ろ う か 。 す な わ ち 読 み 手 の 主 体
性 を 重 視 す る 思 潮 の 上 に さ ら に 考 慮 す べ き 今 日 的 視 点 が あ る の
か ど う か 。 本 稿 の 焦 点 は こ の 問 題 を 具 体 的 に 追 究 す る こ と で あ る 。
14‑
ただ'本稿では「自己を読む」というこれまでのテ
ー
マを読書論の新しい成果などを踏まえてい‑らか鮮明にすることより
も'むしろこの発想の転換に乗じて生じると予想される指導者
側の問層の方を取り上げようと思う。すなわち「支援」と称し
て安易に読者の側に力点を移して生徒の自主学習に任せてしま
おうとする教師側の問題である。
その意味で本稿で扱う新しい問題というのは'生徒f人7人
の「私」の通し方ではな‑'「私」を通す学習者をどう支援するかという教師の側の問題ということになる。これはいくらか視
点を変えれば'教師も自らへ7読者としての自分の読書過程を追究し記録しこれを進んで授業に持込むことが必要であるとい
うことである。教師の多‑は指導書の解説といった第三者の読
みを不用意に自分の読みと混同Lt生徒1人7人の読みをどう大切にすべきなのかその指導のモチーフを自らの読みの中には
探せないでいるのが現状であろう。「私」がどう学んだのか(ど
う読んだのか)を教師が自覚的に教えなければ'本来指導とい
うものは成立しないであろう。生徒が「私」を通す読みを実現
してい‑ためには'7人の探求者としての教師の構えが益々重視されなければならない。
本稿の目的は生徒の学びの姿へいかに教師自身の学びの姿を
反映させてい‑かという古‑て新しいテーマを取り上げ'教師のこの方向での今日的な支援の意味を考えてみることである。
具体的な方法は二・三、二・四で捉示するが、その前にまず
この支援の意義づけとなる原理について簡単に確認しておきた
い。それはテクストの理解行為における二つの相互作用性の問 題である。
二、読みの教育の新しい視角
二・一相互作用モデル
読みの研究のために'現在'相互作用モデルと称されるもの
が提案されている。読みの研究は大別すれば読書心理学が扱う
心理的過程としての読みと'読書社会学が扱う社会的過程とし
ての読みに分けられるが'基本的にはこの双方において相互作
用モデルが捷秦されているとみておくのが良いであろう。一九七〇年代以降に形をなしてきたこのモデルはこの二つの過程でその今日的な特徴を確認することができる。それは次のようなものである。
○
心理的過程におけるトップ・ダウンの発想これまでの読みの心理学的研究は言語情報の部分的な理解を積み上げることで全体を説明するというボトム・アップ的アプ
ローチを取っていた。これに対して'読書行為の起点として読者の既有の知識(スキーマ)の作用も大いに重視していこうと
いうトップ・ダウンの発想が重視されるようになった。これは、
単に後者が前者に取って代わるということではなく読みの成
立の原理としてはボトム・アップ的方向とトップ・ダウン的方向との相互作用性を前栂にしようということである。
このモデルのポイントは読者の固有の知識構造を出発点にするという発想に加えて'知識よりもその知識の作動にかかわる
1 5
もの(メタ認知的方略)にも注目し'読みにおけるより意欲的(性5)な側面へのアプローチを重視していこうとしている点である。○社会的過程における作品・読者・教師の関係の変化
[図 1 ] 作品 (作
者)テ ク ス ト (作 者
)\ /
凸,,,,,J J ♂ 教 師 (読 者a)
⁚・生徒(読者b)教師(読 者 a) ∬生徒(読者 b )
この図1に示した力点の移動は'読みの学習における社会的
過程の重要性を示唆しようとしたものである。筆者は'テクス
ト・生徒・教師の相互作用の在り方に着目Ltそこでの実際的
活力を引き出し評価していくことを大切にしていきたいと考え
ている。
先にも述べたが'指導書の解説をそのまま教室に持ち込む第
三者的情報にょる読みの教室の運営を批判的に捉え'当事者同
士である生徒と教師の一人称的情報の相互交流が図られなけれ
ばならないと考える。教師の側の情報が伏せられるだけでは'
逆に、生徒の側の一人称的情報の1人歩きを野放しにすること
にもなる。今日流行の兆しの見える「支援」ということば'あ
るいは学習者の主体性ということばで教師の責任の所在があい
まいにされることがないようにするためにも、ここに教師・生
徒双方の一人称的情報の開発と活用の方法が追究されなければ
ならない。 以上'相互作用性の問題を軸にして二つの過程における今日
的焦点の在りかを確認した。結果的にはこの二つの過程が入り
阻んだ状態で統合的に捉えられるべきで'また指導上の問題も
この双方にかかわる形で考慮されなければならない。しかし本
稿では、「問題の所在」の項でも言及したように'特に後者の過
程に限って課題を設定し'これをめぐって実践的な方法を取り
上げることにしたい。
繰り返しになるが'その課題とは、社会的な過程としての読
みを重視する場合そこでの教師のかかわり方はいかなるもので
あるかということである。例えば'単元学習において学習者の
主体的な学びを優先させるとは言っても、この指導が巧くい‑
絹代⁝、ユ絹黒詔胴悶絹鯛絹約㍍溌:i錯耶t
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あるかといったことが想起されなければならない。教師も生徒
l
も「私」の読書過程を報告し'コミュニケ
‑
ショシ過程を実現しながらこれを共有すること。相互学習(interactivelearning)
の開拓の必要性を以上のように捉えておきたい。こうしたスタ
ンスにおいてはじめて今日的な教師の役割の変化を意義づける
ものが見出せると考えるからである。
二・二教師の役割の変化
一九七〇年代に入って認知革命が進展し'認知心理学は読書(文章理解)過程を最も重要な研究対象の一つとみなして集中
的な研究成果を生み出してきている。こうした学問的な背景も
あり'読みの教育・研究は益々学習者の読みの過程における知