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東京医科大学霞ヶ浦病院開設

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Academic year: 2021

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東京医科大学霞ヶ浦病院開設

昭和 2 3 年 1 1 月 1 日東京医科大学霞ヶ浦病院を開設した旨の開設屈を 1 1 月 9 日 県知事に届出た。院長来栖光一、副院長高橋不二彦博士で来栖氏は新治協同病 院長のま

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であった。診療科目は内科、小児科、外科、耳鼻咽喉科、眼科で、

医師 2 名、薬剤師 1 名、看護婦 4 名、事務員 3 名、敷地面積 6 , 1 3 2 坪 6 5 、建坪 1 9 棟 9 4 6 . 5 坪であった。昭和 2 4 年 4 月 1 日院長には高橋不二彦が昇任した。

病院は開設されたとは言うものの、大学は当時東京に於ける大学の施設の拡 充に追われて財政困難な時期であったので、直ちに名実共に附属病院として運 営することは不可能であったので、協同組合連合会が引きつ

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いてその経営に

当った。当時の医師は高橋不二彦、柳生三郎の僅か 2 名だけであった。

東京医科大学附属病院

その後協同組合連合会本部と種々交渉の末昭和 2 4 年 6 月協同組合連合会との 閑に売買の契約が行われ、更に折衝を重ねて 7 7 4 , 3 7 0 円 8 2 銭で買収する乙とに 話合いがつき、昭和 2 4 年 9 月 3 0 日正式に譲渡契約が成立し、 1 0 月 4 日登記を完 了した。昭和 2 4 年 1 0 月 9 日より経営診療共に東京医科大学霞ヶ浦病院となった。

院長高橋不二彦博士、医員柳生三郎、事務長小田倉 章、薬剤師中島ふみ、事 務員 3 名、看護婦 4 名、小使 1 名、病床数 3 0 床であった。この買収に際しての 佐藤理事の苦労は銘記さるべきものである。

大学はこの時、霞ヶ浦病院の経理は種々な事情のため独立採算制とし、医療 面では東京医科大学病院から医師を派遣することに決定した。最初に派遣され て来たのは、内科窪谷淳、外科氏家基である。

結核療饗所として発足発展

当時我国は結核の早期発見早期治療が喧ましく叫ばれて居て、各地に結核病 院或は療養所が乱立される時代であった。霞ヶ浦病院は所謂阿見ツ原といわれ た土地にあるので結核療養所として立って行かなければならないのは当然であ った。しかも当時は結核病床が全国的に頗る不足して居たので、当院でも早急

に病床の整備増加が要請された。然し荒療した建物を修理して病室を整備する ためには財源を必要とした。然るに大学は当病院に対して何等の経済的援助を 行うことは出来なかった。然し当院は財源を持たなかった。時には職員の給料

の遅配さえも行われたのである。来栖、高橋、伊藤良則(後に事務長)等は頗 る苦慮したのであった。然し昭和 2 5 年には日産化学株式会社の好意により委託 ベッドの形式で 1 0 0 万円の寄附を得て病室の改修を行い、又日本通運株式会社

(特に東京支店佐藤寛六博士)、東京証券取引所健康保健組合(特に築比地豹 二博士)の協力を得て病室は漸次改修増床され、入院患者数も別表のように増 加して行った。

診療面に於ては東京医科大学病院(所謂本院)から医員が派遣され、又小宮

(2)

遺 書

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− − 官

14

1

教授、篠井教授、牧野助教授が時々出張診療を行った。

整備発展期

昭和 2 6 年 7 月阿見町霞台に土地 3 3 7 坪を医師用住宅用地として買収し、昭和 2 7 年 3 月には不用建築物を買って木造 2 階建 8 8 坪 3 6 名収容の看護婦宿舎を建築 し、第 5 病棟を改造して病床数 1 8 0 となり、更に厚生省の補助金 7 0 万円を得て 昭和 2 8 年 3 月着工、全年 8 月木造平屋建一棟(第 6 病棟) 1 6 2 坪 5 0 床が落成し

て、届出病床数は 230 床となった。

昭和 2 6 年土地測量を行い、昭和 2 7 年度から関東財務局からの借入敷地は 1 0 , 3 8 8  . 1 6 坪、建坪 1 6 棟 9 7 5 .7 坪となった。

高橋院長死亡、飯島院長となる

昭和 2 8 年 9 月 7 日副教授(教授に昇任)高橋院長死亡し、 9 月 1 1 日大学葬を 行った。全年 1 0 月 8 日小児科教授飯島 孝博士が霞ヶ浦病院長を兼任した。

伊 藤 広のあと外科々長として勤務して居た講師清水徹男博士が同院長を補佐 した。当時の診療科目は内科、小児科、外科、産婦人科、耳鼻咽喉科、眼科、

理学診療科となって居る。眼科は柴山 昇氏が新治協同病院より週 2回出張診 療を行った。

佐藤常務理事は開設以来当院担当理事として度々来院指揮をとり、佐藤竜一 庶務課長(後に総務部長)、西村正会計課長(後に財務部長)がこれを補佐

した。

結核病院として大発展

かくして当院は結核病院として県下有数のものと発展した。昭和 3 0 年までの 病床及入院患者数の増加は下の如くである。

旧病舎西側改造 旧病舎北側改造 旧病舎東側改造 新 病 舎 新 築

数 者 ︶ 者 核 患 患

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8 9 2 0 6 3 8

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病床数

(3)

曹 官

昭和 2 9 年 5 月末日の職員数 7 0 名、医師 8 名(うち嘱託 l 名)、薬剤師 3 名 、 看護婦2 2 名、看護婦見習 5 名、補助看護婦 2 名、その他3 0 名で、敷地面積 9 , 7 7

5 . 8 5 坪、届出病床数 230 床(一般4 3 、結核 1 8 7 )、入院患者数 1 8 3 名(一般 1 7

、結核 1 6 6 )、外来患者数 l日4 5 名となって居る。昭和2 9 年 6 月には大学同窓 会委員約3 0 名を招待した。

中西院長となる

昭和 2 9 年飯島院長が病床に臥すに至ったので、昭和 3 0 年 2 月 1 日中西謙三博 士が内科学助教授として迎えられ副院長として赴任した。全年 4 月額賀 弘博 士が外科学講師外科々長として着任した。

昭和 3 0 年病院敷地の隣接地 3 1 4 坪を購入した。

昭和 3 0 年 9 月 l 日飯島院長は兼任をとかれ、中西副院長が院長に就任した。

病院開設以来存在して居た来栖光一、清野謙次、藤沢三郎による当院の運営委 員会は昭和 3 1 年療止された。

昭和 3 0 年 4 月の借用敷地は 9,438.88 坪、借用建坪 9 6 9. 3 4 坪である。

昭和 3 1 年 1 月倉庫のま、放置しであった建物を改造して患者食堂とした。こ れは後に講堂、卓球場、職員食堂となったが、後年患者収容の余力となって病 院経営を助けた。

経営不振

当時の病床の実収容能力は 200 床で結核患者で殆ど満床であった。適切な治 療、優れた手術を行い県下有数の病院であったが、昭和3 1 年頃より全国的に結 核病入院患者の漸減を見るに至って、当院もその規をーにし、昭和 3 1 年秋頃よ り入院患者数は減少し始め、昭和 3 2 年には激減し、昭和 3 3 年には遂に入院患者 数 1 0 0 名に減少するに至った。従って昭和 3 2 年 、 3 3 年及 3 4 年初期の病院経営は 頗る困難であって、人員整理を考慮すべき段階に至った。この時に於ても大学

は何等の援助も行うことなく、当院閉鎖の意見が出る状態であった。

一般患者の増加による再発展

当時の職員数は 8 0 余名であった。当院は当院として自立しなければならない。

当院が立ち直るためには結核病院から一般病院に切り替えなければならない。

然しそのためには地の利は頗る不利である。昭和 3 2 年頃よりつ J けられた我々 の努力は次第に報いられ、昭和 3 4 年よりや、上昇の気運に向い、爾後着々と延 びを示し、長村教授、芦沢助教授等の支援もあって、昭和 3 6 年までは 3 0 名にも 満たなかった一般入院患者は昭和3 7 年春3 0 名を突破したのを機に日増しに増加

し、昭和 3 8 年には 7 5 名に達するに至り、 4 1 年1 0 月には遂に 1 0 0 名を超えた。外

来患者も 3 8 年 6 月に、 1 日 200 名をこえるに至った。

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