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密教文化 Vol. 1987 No. 159 004静 慈圓「密教相承の祖師の足跡――広化寺・福先寺・奉先寺―― P41-68」

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-広

-静

は じ め に 私 は 密 教 相 承 の 祖 師 の 事 跡 に 関 心 を 持 っ て い る。 そ の 一 人 弘 法 大 師 空 海 の 師 恵 果 と 青 龍 寺 に つ い て は す で に 発 表 し ( 1) た。 本 論 文 で は、 イ ン ド か ら 中 国 へ 密 教 を 伝 承 し た 善 無 畏 阿 闊 梨 ・ 金 剛 智 阿 闊 梨 を 取 り 上 げ、 両 師 と 関 係 の あ る 洛 陽 の 広 化 寺 ・ 福 先 寺 ・ 奉 先 寺 の 遺 跡 に つ い て 明 ら か に し た い。 善 無 畏 が ﹃ 大 日 経 ﹄ の 翻 訳 を し た 福 先 寺、 ま た 善 無 畏 が 葬 ら れ た 広 化 寺、 金 剛 智 の 墓 塔 が 建 立 さ れ た 奉 先 寺 は、 文 献 の 上 で は そ の 名 が 見 ら れ る も の の、 そ の 場 所 が 現 在 の ど こ に あ た る か に つ い て は 全 く 不 明 で あ っ た。 と こ ろ が 昭 和 五 十 九 年 ( 一 九 八 四) 三 月 二 十 九 日 私 た ち の 前 に そ の 位 置 が 確 定 さ れ た の で あ る。 そ の 経 過 に つ い て 少 し 触 れ て お こ う。 私 は 弘 法 大 師 御 入 定 千 百 五 十 年 御 遠 忌 の 行 事 と し て、 ﹁ 空 海 ・ 長 安 へ の 道 ﹂ 訪 中 団 と 題 し て、 弘 法 大 師 空 海 が 中 国 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡

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-41-密 教 文 化 (2) で た ど っ た 福 州 か ら 長 安 ( 西 安) へ の ル ー ト を 再 現 し、 か つ ま た 実 際 に そ の 道 を 踏 査 す る と い う 好 機 会 に 恵 ま れ た。 二 月 二 十 九 日 福 州 か ら 始 め た こ の 踏 査 も 三 月 二 十 八 日 や っ と 洛 陽 に た ど り つ い た。 訪 中 団 の 追 体 験 も い よ い よ 最 後 に 近 づ い た の で あ る。 私 た ち は こ の 洛 陽 で の 仕 事 と し て は、 善 無 畏 ・ 金 剛 智 に し ぼ っ て 行 動 す る こ と と し て い た。 二 十 九 日 龍 門 石 窟 に 到 着、 す ぐ ﹁ 龍 門 文 物 保 管 所 ﹂ を 訪 ね た。 そ こ で 龍 門 文 物 保 管 所 研 究 員 の 温 玉 成 先 生 と 遭 っ た の で あ る。 温 玉 成 先 生 は 一 九 六 四 年 北 京 大 学 を 卒 業、 仏 教 考 古 学 を 専 門 と さ れ て お り、 龍 門 寺 院 に つ い て の 造 詣 も 深 い。 温 先 生 と の 懇 談 の 中 で、 龍 門 に お け ゐ 仏 教、 中 で も 私 た ち の 目 的 と す る 広 化 寺. 福 先 寺. 奉 先 寺 の こ と が 明 ら か に な っ ( 3) た。 そ し て 先 生 は 自 ら 広 化 寺 ・ 奉 先 寺 の 両 寺 に 案 内 し て く だ さ っ た の で あ る。 こ の 時 よ り す で に 三 年 が 過 ぎ て い る。 こ の 間 私 は、 温 先 生 と 常 に 連 絡 を と り、 広 化 寺 ・ 奉 先 寺 等 に つ い て 指 導 を 受 け て き た。 現 在 広 化 寺 ・ 奉 先 寺 は 調 査 と し て は 一 応 の 帰 結 を 得 て い る の で、 そ の 発 表 の 義 務 を 痛 感 す る と こ ろ で あ り、 こ の 一 文 を 記 す る こ と と し た。 龍 門 十 寺 広 化 寺 ・ 奉 先 寺 を 明 ら か に す る に は 龍 門 十 寺 に つ い て 触 れ ね ば な ら な い。 龍 門 十 寺 の 問 題 は、 唐 以 来 の 仏 教 史 や 文 学 史 の 問 題 に か か わ る も の で あ る。 温 先 生 は 唐 時 代 の 詩 文 を 検 索 さ れ、 さ ら に 龍 門 碑 刻 を 基 本 資 料 と し、 出 土 文 物 や 実 施 踏 査 を 合 わ せ て 検 討 さ れ、 白 居 易 ( 七 七 二-八 四 六) 時 代 の 龍 門 十 寺 を 明 ら か に さ れ た。 ﹁ 龍 門 十 寺 考 辮 ﹂ ( 上) ・ ( 下) ( 4) が そ れ で あ る が、 こ の 論 文 は 龍 門 十 寺 の 各 寺 に つ い て 詳 細 に 論 述 し て あ り、 又 今 後 の 各 寺 の 発 拙 に も 関 連 し て い く 基

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礎 と な る も の と し て 重 視 せ ね ば な ら な い。 こ こ で は こ の 論 文 を 参 考 と し な が ら、 龍 門 十 寺 を 歴 史 的 に 垣 間 見 て お こ う。 ま ず ﹁ 龍 門 十 寺 ﹂ の 名 前 は、 最 初 は 唐 代 の 詩 人 白 居 易 の 詩 の 中 に 見 え る。 太 和 六 年 ( 八 三 二) 彼 は ﹃ 修 香 山 寺 記 ﹄ ( 5) の 中 に、 ﹁ 洛 都 の 四 郊 の 山 水 の 勝 は、 龍 門 が 第 一、 龍 門 十 寺 の 観 遊 の 勝 は、 香 山 が 一 番 で あ る ﹂ と い っ て い る。 唐 代 貞 観 年 間 ( 六 二 七 ⊥ ハ 四 九) か ら 開 元 年 間 ( 七 一 三 -七 四 一) ま で は、 唐 朝 は 繁 栄 を 極 め 公 卿 や 貴 族 が 洛 陽 に 邸 を ( 6) か ま え る こ と 千 に 余 っ た と い わ れ る。 仏 教 が 広 く 伝 播 し た 唐 代 に お い て は、 公 卿 や 貴 族 や 国 内 外 の 高 僧 は、 龍 門 で 石 窟 を 開 き、 寺 を 建 て 舎 利 を 祭 り、 ま た 宝 塔 を 建 て る 風 習 が 盛 ん で あ っ た。 し か し こ の よ う に 政 治 経 済 の 発 展 に 随 っ て 繁 栄 し て き た 寺 院 も、 唐 代 の 変 乱 に よ っ て 衰 敗 し 亡 び て い く の で あ る。 安 史 の 乱 ( 七 五 五-七 六 三) 以 後、 洛 陽 の 市 内 は 衰 頽 し 人 煙 な き 状 態 と な っ た。 宋 人 李 格 非 撰 ﹃ 洛 陽 名 園 記 ﹄ に は、 ﹁ 其 の 離 乱 に 及 び、 つ づ い て 五 季 卜( 代) め 乱 を も っ て、 其 の 宮 殿 は 兵 舎 と な り、 竹 樹 は 破 壊 さ れ た。 高 亭 大 樹 は 姻 火 に 焼 か れ 化 し て 灰 儘 と な っ た。 唐 の 滅 亡 と 共 に ( 7) 全 て 亡 び て し ま っ た。 ﹂ と あ る。 李 格 非 の こ の 文 は、 東 都 の 園 林 の 荒 廃 の 状 態 を 書 い て い る が、 寺 院 の 荒 廃 も こ れ に よ っ て 知 る こ と が で き る の で あ る。 元 代 の 洛 陽 の 状 態 は、 薩 都 刺 の ﹃ 龍 門 記 ﹄ が そ れ を よ く 表 わ し て い る。 す な わ ち ﹁ ( 龍 門 は) 旧 く は 八 寺 あ っ た が、 今 は 一 つ と し て 存 在 し て い な い。 た だ 東 岩 嶺 と い う 所 に 石 を 積 ん だ 跡 が 二 箇 所 あ る の み な の で、 そ れ だ け で は 何 も 辮 ず る こ と が で き な い。 数 十 の 碑 が あ る も の の ほ と ん ど が 倒 れ て お り、 立 っ て い る も の は 一 ・ 二 で あ る。 碑 は 全 て ( 8) 仏 語 で あ る が、 (剥 落 し て 読 む こ と が で き な い。 し た が っ て 詳 し く そ の 始 め を 知 る こ と も で き な い。 ﹂ と あ る。 以 上 の よ う に 元 代 ま で は、 龍 門 十 寺 の 研 究 は さ ほ ど 明 確 な も の は な い。 明 ・ 清 代 以 後 に な る と 龍 門 十 寺 の 問 題 に つ い て は 諸 説 み ら れ る。 概 し て 次 の 三 説 が あ る。 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡

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密 教 文 化 第 一。 路 朝 森 の ﹃ 洛 陽 龍 門 志 ﹄ の 中 に は、 十 寺 を 香 山 寺 ・ 奉 先 寺 ⋮ 石 窟 寺 ・ 霊 岩 寺 ・ 乾 元 寺 ・ 広 化 寺 ・ 崇 訓 寺 ・ 宝 ( 9) 応 寺 ・ 嘉 善 寺 ・ 天 竺 寺 と し て い る。 こ の 説 は、 ﹃ 洛 陽 名 勝 志 ﹄ ﹃ 河 南 府 志 ﹄ ﹃ 洛 陽 県 志 ﹄ の 諸 説 を 集 め 整 理 し た も の で あ る。 こ れ を よ り 詳 し く 探 索 す る と 石 窟 寺 と 霊 岩 寺 は 北 魏 の 楊 街 之 撰 ﹃ 洛 陽 伽 藍 記 ﹄ に 見 え る が、 崇 訓 寺 と 嘉 善 寺 は 唐 人 の 詩 文 或 い は 石 刻 の 中 に は 見 ら れ な い。 第 二。 関 百 益 の ﹃ 伊 闘 石 刻 図 表 ﹄ に は、 路 朝 霧 氏 が 述 べ た 十 寺 を 検 討 し て ﹁ 奉 先 寺 は ま た 龍 華 寺 と も い い、 ま た 天 竺 寺 と も い う。 ま た 石 窟 寺 は 即 ち 賓 陽 中 洞 で あ る と も い う ﹂ と。 こ の こ と か ら す る と 十 寺 と い う の は、 九 寺 と な る。 第 三。 日 本 の 水 野 清 一 ・ 長 広 敏 雄 両 氏 著 ﹃ 龍 門 石 窟 の 研 究 ﹄ の 中 に、 龍 門 十 寺 と は 霊 岩 寺 ・ 天 竺 寺 ・ 香 山 寺 ・ 玉 泉 (11) 寺 ・ 菩 提 寺 ・ 敬 善 寺 ・ 奉 先 寺 ・ 龍 華 寺 ・ 広 化 寺 ・ 石 窟 寺 で あ る と い う。 し か し こ の 十 寺 の 中 で 霊 岩 寺 と 玉 泉 寺 は 龍 門 (12) に は な く、 両 氏 が 指 摘 し た 唐 代 の 龍 門 十 寺 は 結 局 八 寺 で あ る、 と 温 先 生 は い う。 ま た 温 先 生 は、 看 経 寺 ・ 潜 渓 寺 両 寺 の 名 前 は、 宋 の 蘇 過 ( 一 〇 七 二 = 二 三) の 文 中 に 始 め て 見 ら れ る が、 近 時 あ る 人 が こ の 両 寺 を 唐 代 の 十 寺 の 中 に 入 (13) れ た の で 十 寺 の 名 前 が ま す ま す 混 乱 し た、 と 指 摘 さ れ て い る。 以 上 龍 門 十 寺 の 概 況 に つ い て 触 れ た が、 温 先 生 の 結 論 は、 白 居 易 時 代 の 龍 門 十 寺 は 香 山 寺 ・ 奉 先 寺 ・ 宝 応 寺 ・ 乾 元 寺 ・ 天 竺 寺 ・ 菩 提 寺 ・ 応 化 寺 ・ 敬 善 寺 ・ 石 窟 寺 ・ 勝 善 寺 で あ る、 と す る。 応 化 寺 ・ 奉 先 寺 は も ち ろ ん 龍 門 十 寺 と そ の 時 代 の 流 れ の 中 で 考 え て い か ね ば な ら な い。 こ れ ら に よ れ ば 広 化 寺 ・ 奉 先 寺 は、 常 に 龍 門 十 寺 と し て 位 置 づ け ら れ て き た こ と が 明 ら か で あ る。 善 無 畏 三 蔵 と 広 化 寺

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﹃ 大 日 経 ﹄ の 密 教 と い え ば、 善 無 畏 を 無 視 し て 論 ず る こ と は で き な い。 広 化 寺 は 善 無 畏 が 葬 ら れ た 寺 で あ り、 そ の た め に 歴 史 の 中 で 重 視 さ れ て き た。 そ こ で ま ず 善 無 畏 に つ い て 触 れ て い こ う。 善 無 毘 の 伝 記 資 料 は、 善 無 畏 の 俗 弟 子 李 華 に よ. っ て 書 か れ た 玄 宗 朝 翻 経 三 蔵 善 無 畏 贈 鴻 臆 卿 行 状 ﹂ (﹃ 行 状 ﹄ と 略 称 す) と、 同 李 華 の 書 い た ﹁ 大 唐 東 都 大 聖 善 寺 故 中 天 竺 国 善 無 畏 三 蔵 和 尚 碑 銘 井 序 ﹂ ( ﹃ 碑 銘 ﹄ と 略 称 す)、 そ れ に ﹁ 宋 (14 ︶ 高 僧 伝 ﹂ な ど 九 種 類 ほ ど 見 ら れ る。 こ れ ら を 参 照 し て 善 無 畏 と 洛 陽 の 関 係 を 概 括 し て お く。 善 無 畏 は、 貞 観 十 一 年 ( 六 三 七)、 東 イ ン ド の オ リ ッ サ 地 方 の 王 子 と し て 生 ま れ た。 十 三 歳 で 王 位 を 継 い だ が、 こ た る ま き く た れ を 兄 に 譲 り 出 家 し た。 中 イ ン ド の 仏 教 の 中 心 地 ナ ー ラ ン ダ 寺 で 学 び 達 磨 掬 多 阿 閣 梨 か ら 陀 羅 尼 ・ 印 契 ・ 愉 伽 の 密 教 を 授 け ら れ、 ま た 潅 頂 も 受 け た。 教 え を 広 め る た め に 唐 に 来 た の は、 達 磨 掬 多 阿 闊 梨 の 進 め で あ っ た と い う。 ナ ー ラ ン ダ 寺 を 出 発 し て 陸 路 唐 に 向 っ た。 北 イ ン ド を 離 れ た 時 か ら そ の 名 声 は 中 国 に ま で 達 し て い た と い わ れ る。 シ ル ク ロ け い ひ ん ー ド を 通 り、 迦 灘 弥 羅 (唐 代 蜀 賓)、 烏 揚 国 を 通 り、 突 厭 に 入 り、 つ い で 路 を 吐 蕃 に 取 り、 唐 の 西 方 に 達 し た。 と き え い そ う じ や な の 皇 帝 で あ っ た 容 宗 は、 迎 え を 派 遣 し、 僧 の 若 那 と 将 軍 の 史 献 に 命 じ て 甘 粛 省 の 玉 門 塞 の 外 で 到 着 を 待 た せ た と あ る が、 善 無 畏 が 実 際 に 長 安 へ 入 っ た の は、 玄 宗 の 開 元 四 年 ( 七 一 六) の こ と で あ る。 こ の 時 善 無 畏 は 八 十 歳 の 高 齢 で あ っ た。 ま た 金 剛 智 が 長 安 へ 入 っ た の は、 そ れ か ら 三 年 後 の 開 元 七 年 (七 一 九) で あ る か ら、 中 国 へ 密 教 を 伝 承 し た 最 初 の 人 は 善 無 畏 と い わ ね ば な ら な い。 さ て、 中 国 に 伝 え ら れ た 密 教 に つ い て 注 目 し て お か ね ば 徐 ら な い こ と が い く つ か あ る。 ま ず は 中 国 に 伝 え ら れ た 密 教 教 理 の 内 容 に つ い て み て み よ う。 イ ン ド に お い て 発 祥 し た 密 教 は、 思 想 的 に も 修 法 の 面 で も そ の 最 初 は 呪 術 的 な 宗 教 で あ っ た。 し か し 時 代 が 進 む に し た が っ て 思 想 も 進 歩 発 展 し、 密 教 は 新 し い 思 想 体 系 を も つ こ と に な る。 す な わ ち 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡

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-45-密 教 文 化 ﹁ 究 術 的 な 教 え ﹂ に す ぎ な か っ た 密 教 が、 新 し い 思 想 の 展 開 を と げ て ﹁ 成 仏 を 求 め る 思 想 ﹂ に 発 展 し た の で あ る。 そ し て そ の 代 表 経 典 が ﹃ 大 日 経 ﹄ と ﹃ 金 剛 頂 経 ﹄ で あ る。 善 無 畏 ・ 金 剛 智 は、 ま さ に そ の 思 想 家 の 代 表 者 で あ っ た の で あ る。 次 に ま た 一 つ の 重 要 な 問 題 が あ る。 そ れ は 中 国 に お け る 密 教 の 受 け 入 れ 方 で あ る。 中 国 に お い て 七 世 紀 後 半 か ら 八 世 紀 に か け て、 朝 野 の 人 々 が 密 教 に 期 待 し た の は、 密 教 の も つ 現 世 利 益 的 な 機 能 で あ っ た。 ま た 皇 帝 が 求 め て い た の も 同 様 で あ っ た。 イ ン ド の 密 教 は ﹃ 大 日 経 ﹄ ・ ﹃ 金 剛 頂 経 ﹄ を 中 心 に ﹁ 成 仏 を 求 め る 思 想 ﹂ と し て 新 し い 思 想 に 発 展 し た に も か か わ ら ず、 中 国 側 が 求 め て い た の は 密 教 の 究 法 的 な 立 場 で あ っ た の で あ る。 善 無 畏 ・ 金 剛 智 に と っ て は 皮 肉 で あ る が、 こ こ に 彼 ら は 唐 朝 の 中 央 集 権 国 家 体 制 が 求 め て い る 究 術 的 な 機 能 を は た さ ざ る を 得 な く な る の で あ る。 さ ら に ま た 注 視 し な け れ ば な ら な い こ と が あ る。 そ れ は 道 教 の こ と で あ る。 朝 野 の 人 々 が 求 め て い る 現 世 利 益 ・ 除 災 招 福 を 目 的 と し た 宗 教 は、 道 教 と し て 当 時 の 中 国 に あ っ た の で あ る。 ま た 皇 帝 の 多 く は、 道 教 の 信 奉 者 で も あ っ た。 し た が っ て 密 教 を 中 国 に 同 化 さ せ る に は、 道 教 と の 対 決 に お い て、 呪 術 を 競 う 場 づ く り も 余 儀 無 く さ れ た。 請 雨 法 な ど の 呪 術 的 な 儀 礼 を、 善 無 畏 ・ 金 剛 智 共 に 多 く 行 な っ て い る の も、 や む を 得 な い 行 動 と い わ ね ば な ら な い の で あ る。 以 上 の こ と は 中 国 が 求 め て い た 密 教 受 用 の 時 代 背 景 と し て 重 要 な こ と な の で あ る。 さ て、 開 元 四 年 ( 七 一 六)、 長 安 に 到 着 し た 善 無 畏 は、 勅 命 に よ っ て 興 福 寺 の 南 院 に お ち つ き、 の ち 延 康 坊 に あ る 西 明 寺 に 移 る。 翌 年 よ り 早 速 翻 訳 を 開 始 し、 最 初 に ﹃ 虚 空 蔵 求 聞 持 法 ﹄ 一 巻 を 訳 出 す る。 こ の 経 は、 そ の 時 唐 に 留 学 し 善 無 畏 に 師 事 し て い た 大 安 寺 僧 道 慈 に よ っ て 日 本 に 持 ち 帰 ら れ る。 求 聞 持 法 は、 日 本 で は 記 憶 力 増 進 の 法 と し て、 奈 良 時 代 で は 多 く 使 用 さ れ、 弘 法 大 師 空 海 も こ の 法 に 関 心 を 持 ち 修 法 し た こ と も 事 実 で あ る。

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開 元 十 二 年 ( 七 二 四)、 善 無 畏 は 帝 に し た が っ て 洛 陽 に 入 る。 勅 命 に よ り 洛 陽 の 延 福 坊 に あ る 福 先 寺 に 住 ん で ﹃ 大 日 経 ﹄ の 翻 訳 に と り か か り、 翌 年 翻 訳 を 完 成 す る。 洛 陽 に お け る 翻 訳 は、 ﹃ 大 日 経 ﹄ に つ づ い て、 ﹃ 蘇 婆 呼 童 子 経 ﹄ 三 巻、 ﹃ 蘇 悉 地 褐 羅 経 ﹄ 三 巻、 ﹃ 蘇 悉 地 褐 羅 供 養 法 ﹄ 三 巻 な ど が あ る。 開 元 二 十 年 ( 七 三 二)、 故 国 に 帰 り た い と 願 い 出 た が、 許 可 が で な か っ た。 皇 帝 の 信 頼 が 篤 か っ た か ら で あ る と い わ れ る。 そ し て 開 元 二 十 三 年 ( 七 三 五) 十 一 月 七 日 洛 陽 に て 入 滅 す る (﹃ 碑 錦 た よ る)。 行 年 九 十 九 歳。 こ の 時 玄 宗 皇 帝 は、 善 無 畏 の 死 を 悲 し み、 鴻 騰 卿 と い う 名 を 贈 り、 鴻 臆 丞 李 蜆 を 派 遣 し て、 (15) 定 賓 律 師 を 葬 儀 に あ た ら せ て 龍 門 の 西 山 に 葬 っ た。 弟 子 の 宝 思 ( 宝 畏) ・ 明 思 ( 明 畏 () は 墓 の 側 に 住 し て 服 喪 し た、 と あ る。 広 化 寺 善 無 畏 三 蔵 の 洛 陽 に お け る 活 動 は 先 に 述 べ た。 そ れ で は 善 無 畏 が 葬 ら れ た 龍 門 西 山 ま た は 広 化 寺 と は ど の よ う な と こ ろ で あ ろ う か。 以 下 こ の 点 に 触 れ て い き た い。 広 化 寺 跡 が 現 在 の ど こ で あ る の か は 不 明 で あ っ た。 そ の 跡 図1 龍 門 石 窟 全 景 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡

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密 教 文 化 (16) を 調 査 し 確 定 し た の は 温 玉 成 先 生 で あ っ た。 資 料 に ﹁ 龍 門 西 山 ﹂ と あ る の は、 現 在 の 龍 門 (鎮 西 北 の 小 山 上 が そ の 場 所 で あ る (図 1)。 広 化 寺 は 善 無 畏 が 入 滅 し た 時 か ら が 問 題 に な る の で、 そ の 時 点 の 資 料 を 検 討 し て い こ う。 ﹃ 行 状 ﹄ に は 泊 二 開 元 二 十 三 年 十 三 月 七 日 一。 右 脇 累 足。 寂 二 於 禅 室 一。 春 秋 九 十 九。 僧 夏 入 十。 法 界 凄 涼。 天 心 震 悼。 贈 二 鴻 臆 卿 一。 葬 二 干 龍 門 西 山 蝋。 鴻 臆 亟 李 蜆。 與 二 繹 門 威 儀 定 賓 律 師 一。 監 二護 喪 事 一。 以 二 八 月 八 日 一。 葬 二 干 龍 門 西 山 一。. 涕 慕 傾 レ 都。 山 川 攣 色。 (17) と あ り、 ﹁ 碑 銘 ﹄ も 同 じ で あ る。 つ ま り 善 無 畏 が 入 滅 し た の は 開 元 二 十 三 年 ( 七 三 五) 十 一 月 七 日 で あ っ た。 そ し て 葬 ら れ た の な ﹁ 龍 門 西 山 ﹂ で あ っ た。 ﹃ 宋 高 僧 伝 ﹄ に は、 二 十 入 年 十 月 三 日。 葬 二 於 龍 門 西 山 廣 化 寺 之 庭 一焉。 定 慧 所 レ 重 ⋮全 身 不 レ 壊。 會 葬 之 日 涕 酒 傾 レ 都。 山 川 攣 レ 色。 僧 俗 弟 子 寳 畏 禅 師 明 畏 禅 師 榮 陽 鄭 氏 理 邪 王 氏 痛 二 其 安 仰 一如 レ 喪 二 考 批 一 焉。 (18) と あ る。 こ こ に 開 元 二 十 八 年 ( 七 四 ○) 十 月 三 日 に ﹁ 龍 門 西 山 廣 化 寺 の 庭 に 葬 す ﹂ と は、 龍 門 西 山 廣 化 寺 の 庭 に 移 葬 つ ま り 移 し 動 か し た と 解 す べ き で あ ろ う。 い ず れ に し て も 善 無 畏 が 入 滅 し た の は 開 元 二 十 三 年 十 一 月 (. 塞 口同 僧 伝 ﹄ は 十 月) 七 日 で あ る。 だ が 右 引 用 の ﹃ 宋 高 僧 伝 ﹄ に は 三 つ の 注 意 が 必 要 で あ る。 一 つ に は、 ﹁ 二 十 八 年 十 月 三 日、 葬 二 於 龍 門 西 山 廣 化 寺 之 庭 一焉 ﹂ の 箇 所 で あ る。 つ ま り 開 元 二 十 八 年 ( 七 四 〇) に 広 化 寺 な る 寺 名 が あ っ た か ど う か、 そ し て そ の 位 置 で あ る。 と い う の は、 ﹃ 行 状 ﹄ に、 乾 元 元 年。 郭 令 公 奏。 塔 院 爲 二 廣 化 寺 一。 專 二 捻 校 一。 (18) と あ る。 こ れ に よ れ ば 善 無 畏 が 入 滅 し て 葬 っ た 墓 塔 院 を 郭 令 公 が 朝 延 に 懇 請 し て ﹁ 広 化 寺 ﹂ と し た の は 乾 元 元 年 ( 七 五 八) で あ る。 つ ま り 開 元 二 十 八 年 ( 七 四 ○) に ﹁ 広 化 寺 の 庭 云 云 ﹂ ( ﹃ 宋 高 僧 伝 ﹄) と あ る の は 疑 問 で あ る。 な ぜ な ら 入 滅

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し た 善 無 畏 を 広 化 寺 の 庭 に 埋 葬 し た と い う 広 化 寺 の 寺 名 は 善 無 畏 の 死 後 出 き た か ら で あ る。 だ が こ の 疑 問 に つ い て は、 現 存 の 資 料 の 上 で は こ れ 以 上 の 結 論 は 見 だ せ な い。 二 つ に は、 右 文 に ﹁ 定 慧 所 レ 薫 全 身 不 レ 壊 ﹂ と あ る。 ﹁ 全 身 不 壊 ﹂ と は ど の よ う な 意 味 で あ ろ う か。. 宋 高 僧 伝 ﹄ に は、 善 無 畏 伝 の 終 り を 次 の 如 く 結 ん で い る。 今 観 二 畏 之 遣 形 一漸 加 二 縮 小 一。 黒 皮 隙 隠 骨 其 露 焉。 累 朝 旱 湧 皆 就 祈 請。 徴 験 随 生 具 多 二 檀 施 一。 錦 繍 巾 把 覆 レ 之 如 二 優 息 一耳。 毎 下 ︼ 出 レ 寵 置 二 干 低 楊 一香 汁 浴 上 レ 之。 洛 中 豪 右 争 施 二 弾 把 浄 巾 燥 豆 三以 資 二 浴 事 三。 上 穰 禧 多 遣 三 使 レ 臣 往 加 二 (20) 供 施 一。 必 構 二 心 願 一焉。 右 文 は、 乾 元 之 初 ( 七 五 八) と し て 記 し て い る 文 で あ る。 こ れ に よ る と 善 無 畏 の 体 は や や 縮 小 し て い る よ う に 見 え る も の の、 そ の 身 体 を 錦 の 織 物 で 覆 う と ま る で 生 き て い る が 如 く で あ っ た。 そ こ で こ し か け に 坐 し 寵 よ り 出 し た。 そ の 善 無 畏 に 洛 陽 の 高 族 の 者 ら が 錦 繍 ・ 頭 巾 ・ 操 豆 を 供 え る こ と 浴 事 を 行 う の と 同 じ よ う で あ っ た。 皇 帝 も 使 い を や っ て 供 施 を し た、 と あ る。 こ れ は 注 視 せ ね ば な ら ぬ 記 述 で あ る。 な ぜ な ら ば 善 無 畏 へ の 信 仰 は、 入 滅 し た 高 徳 の 僧 へ の 敬 慕 に 対 し て で は な く、 死 後 も 生 き て い る と す る 信 奉 に 対 し て な さ れ て い る か ら で あ る。 後 に も 示 す 如 く、 以 後 皇 帝 は こ の 生 身 仏 の 善 無 畏 を 拝 む た め た び た び 広 化 寺 を 参 拝 し て い る。 三 つ に は、 右 文 に ﹁ 僧 俗 弟 子 寳 畏 禅 師 明 畏 禅 師 榮 陽 鄭 氏 瑛 邪 王 氏 痛 二 其 安 仰 三如 レ 喪 二 考 批 一焉 ﹂ (21) と あ る 文 で あ る。 す な わ ち 弟 子 の 宝 畏 ・ 明 畏 の 二 禅 師 が 父 母 に 仕 え る 如 く 喪 に 服 し た と あ る。 こ の よ う に 胎 蔵 系 の 祖 師 善 無 畏 は、 入 滅 と 同 時 に 死 後 も 弟 子 の 尊 崇 を 得 て い る。 す な わ ち 善 無 畏 が 広 化 寺 に 埋 葬 さ れ て か ら 密 宗 の 胎 蔵 系 の 法 師 は 広 化 寺 に 葬 ら れ る も の が 多 く な っ た の で あ る。 た と え ば ﹃ 宗 高 僧 伝 ﹄ に は 次 の 如 く あ る。 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡

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密 教 文 化 鷹 順 元 年 甲 午 正 月 二 十 二 日 忽 微 疾 作。 召 二 弟 子 一助 二 吾 往 生 一念 二 彌 陀 佛 一。 奄 然 而 化。 俗 年 七 十 五。 僧 騰 五 十 六。 閏 正 月 二 日 茶 毘 収 二 遺 骨 一。 至 二 清 泰 二 年 四 月 八 日 一 建 二 塔 於 龍 門 山 廣 化 寺 之 東 南 隅 一。 (22) と あ る。 こ れ は ﹁ 後 唐 洛 京 長 壽 寺 可 止 傳 ﹂ で あ る。 つ ま り 可 止 は 応 順 元 年 ( 九 三 四) に 去 世 し た が、 清 泰 二 年 (九 三 五) に 広 化 寺 に 建 塔 し た の で あ る。 ま た ﹃ 宗 高 僧 伝 ﹄ に、 以 二 顯 徳 二 年 乙 卯 六 月 入 日 一微 疾。 十 日 令 三 弟 子 早 螢 二 粥 食 一。 有 二 首 樗 嚴 菩 薩 一衆 多 相 迎。 令 レ 鳴 レ 椎 俄 然 而 化。 春 秋 六 十 七。 僧 強 四 十 七。 維 素 號 実 諸 寺 具 二 威 儀 一。 途 二 葬 干 龍 門 廣 化 寺 之 左 一 立 二 石 塔 一 焉。 (23) と あ る。 こ れ は ﹁ 周 洛 京 福 先 寺 道 傳 ﹂ で あ る。 つ ま り 道 は 顕 徳 二 年 (九 五 五) に 去 世 し 広 化 寺 に 埋 葬 さ れ る の で あ る。 善 無 畏 が 広 化 寺 に 葬 ら れ そ の の ち い ち 早 く 善 無 畏 の 墓 塔 を 訪 れ た 日 本 の 僧 が い る。 智 謹 大 師 圓 珍 で あ る。 そ の 旅 行 記 に、 十 二 月 十 七 日。 踏 雪 没 膝。 至 東 都 龍 門 伊 水 之 西 廣 化 寺。 禮 拝 無 畏 三 藏 之 塔。 沙 門 道 圓 撰 三 藏 和 上 碑。 流 傳 東 海。 十 入 日。 又 踏 大 雪 至 東 都。 (中 略) 乗 閑 詣 干 大 聖 善 寺 善 無 畏 三 藏 奮 院。 禮 葬 眞 容。 其 後 遊 歴 敬 愛、 安 國、 天 宮、 荷 澤 等 諸 寺。 (24) と あ る。 圓 珍 は、 大 中 九 年 ( 八 五 五) 十 二 月 十 七 日 広 化 寺 を 訪 れ 無 畏 三 蔵 舎 利 塔 を 拝 し て い る の で あ る。 こ の 記 録 に よ っ て も 善 無 畏 の 墓 塔 は、 大 中 九 年 に は 龍 門 西 山 の 広 化 寺 に あ っ た こ と が 明 ら か で あ る。 次 に、 五 代 以 後 の 多 く の 皇 帝 は、 広 化 寺 に 来 て 祈 祷 を し た り、 善 無 畏 の 遺 体 を 拝 ん で い る。 こ れ は 先 述 の 如 く 善 無 畏 の 遺 体 は、 亡 く な っ た ま ま の 姿 で 杷 ら れ て い た た め 皇 帝 は 広 化 寺 に 参 拝 し た、 と あ り 興 味 深 い。 後 唐 の 荘 宗 同 光 二 年 ( 九 一 西) 十 二 月、 ﹁ 輿 駕 広 化 寺 に 幸 し て 雪 を 祈 る ﹂ と あ り、 同 光 三 年 五 月、 ﹁ 帝 龍 門 の 広 化 寺

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(25) に 幸 し て、 仏 塔 を 開 き 雨 を 請 う ﹂ と あ る。 荘 宗 ・ 明 宗 が 広 化 寺 に 参 拝 し た こ と が 明 ら か で あ る。 ま た 宋 の 太 祖 の 開 宝 八 年 (九 七 五) 八 月 三 日 の 頃 に ﹁ 上 は 洛 陽 に 幸 し、 龍 門 山 の 広 化 寺 に 至 っ て、 無 畏 三 蔵 の 塔 を (26) 開 き 真 体 を 憺 敬 す ﹂ と あ る。 ま た 宋 の 真 宗 の 大 中 祥 符 四 年 ( 一 〇 =) 三 月 の 項 に ﹁ 上 は 洛 陽 龍 門 山 広 化 寺 に 幸 し、 無 (27) そ ろ し よ う ゆ う 畏 三 蔵 の 塔 を 謄 し て、 讃 を 製 し て 石 に 刻 み、 こ れ を 塔 所 に 置 く ﹂ と あ る。 ま た 宋 代 詩 人 宋 痒 有 に ﹁ 謁 龍 門 無 畏 師 塔 祈 雨 ﹂ の 詩 が あ り、 宋 帝 御 封 薫 櫨 を 賜 い て 供 養 を な し た、 と い っ て い る。 以 上 は 皇 帝 が 広 化 寺 に 参 拝 し、 善 無 畏 を 仰 ぎ う や ま っ た 記 述 で あ る。 つ づ い て、 広 化 寺 は 詩 の 中 に も 多 く 歌 わ れ て (28) い る の で そ れ を 見 て い こ う。 広 化 寺 の 近 く に 古 く よ り 大 泉 が あ っ た。 北 宋 の 学 者 欧 陽 修 ( 一 〇 〇 七-一 〇 七 二) に ﹁ 游 龍 門 分 題 十 五 首 ﹂ が あ り そ の い か だ わ と 中 ﹁ 宿 広 化 寺 ﹂ の 詩 に ﹁ 横 嵯 (嵯 を 横 に し て) 深 澗 を 渡 る。 露 を 披 け て 香 薇 を 采 る ﹂ と あ る。 欧 陽 修 は ま た ﹁ 牡 丹 花 品 ﹂ は い の 中 で ﹁ 潜 渓 の 緋 と は、 千 叶 緋 花 で あ る。 こ の 花 は 潜 渓 寺 で 見 ら れ る。 こ の 寺 も も と は 唐 の 李 藩 の 別 荘 で あ っ た ﹂ と い っ て い る。 宋 の 政 治 家 司 馬 光 ( 三 ○ 一 九-一 ○ 八 六) も か つ て ﹁ 潜 渓 を 渡 っ て 広 化 寺 に 入 っ た ﹂ と 言 っ た こ と が あ る。 宋 人 で 書 画 を 善 く し た 蘇 過 ( 一 ○ 七 ニ-= 二 三) も ﹁ 蔚 寮 よ り 広 化 の 潜 渓 を 渡 っ て、 宝 応 に 入 る ﹂ と い っ て い る。 潜 渓 の 名 前 は、 宋 代 に 始 め て 見 ら れ る の で あ る。 宋 痒 有 が ﹁ 潜 渓 晩 帰 二 首 ﹂ の 詩 中 に. 曲 た る 山 河 石 梯 を 冒 す ﹂ と い い、 さ ら に つ づ け て 西 渓 ・ 盧 渓 の 二 つ の 僧 舎 が あ っ て、 こ の 僧 舎 は 数 里 離 れ て い る。 ま た 宋 代 の 潜 渓 寺 は ま さ に 宝 応 寺 と 広 化 寺 の 間 に あ っ た、 と も 言 っ て い る。 次 に、 清 康 煕 四 十 四 年 ( 一 七 ○ 五) 五 月 二 十 二 日 に 建 立 し た ﹁ 修 広 化 寺 碑 ﹂ が あ る。 こ れ は 現 在 の 広 化 寺 跡 の 麦 畑 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡

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密 教 文 化 (29) の 中 に 建 っ て い る。 高 さ 一 七 ニ セ ン チ、 幡 八 五 セ ン チ の 碑 で あ る。 碑 の 中 に、 当 時 の 広 化 寺 は な お 山 門 ・ 鐘 楼 ・ 天 王 殿 6 伽 藍 殿 ・ 地 蔵 殿 ・ 三 蔵 殿 お よ び 大 仏 殿 が あ っ た、 と あ る。 又 温 先 生 は 次 の よ う に 話 さ れ た。 ﹁ 広 化 寺 は 清 の 時 代 ま で 保 存 さ れ て い た。 広 化 寺 の 遺 跡 と し て 残 っ て い た 殿 堂 は、 一 九 六 五 年 冬 私 ( 温 先 生) が 実 地 踏 査 し た 時 に は な 診 一 部 は 存 在 し て い た ﹂ と。 そ の 広 化 寺 は 確 か に 龍 門 西 山 の 北 の 小 山 上 に あ っ た (写 真(1)) 小 山 は 四 方 土 が 削 り 取 ら れ 遠 望 す れ ば 四 角 な 型 に 見 え る。 そ の 削 り 取 ら れ た 坂 道 を 登 っ て い く と、 坂 道 に は 所 々 に 砕 れ た 瓦 ・ 博 な ど が 散 ら ば っ て い る。 温 先 生 の 話 で は こ れ ら は 唐 代 の 布 目 瓦 も 多 い と い う。 ま た こ の 坂 道 の 両 側 は 墓 地 と な っ て い る。 登 り つ め る と 広 々 と し た 麦 畑 で あ る。 善 無 畏 塔 の あ っ た と こ ろ は、 一 段 高 く な っ て お り、 そ の 中 央 は こ ん も り と 盛 り 上 が っ て い る。 一 九 八 四 年 三 月 二 十 九 日、 私 た ち は 広 化 寺 の 跡 に 立 っ た。 私 た ち が 訪 ね た 広 化 寺 は、 二 圓 の 広 い 麦 畑 の 中 に、 碑 が 一 つ 残 っ て い る だ け で あ っ た。 福 先 寺 開 元 十 二 年 ( 七 二 四)、 善 無 畏 は 帝 に し た が っ て 洛 陽 に 入 り、 洛 陽 東 方 の 延 福 坊 に あ る 福 先 寺 に 住 し た。 こ の 寺 で ﹃ 大 日 経 ﹄ の 翻 訳 に と り か か る。 訳 語 を 沙 門 宝 月 が 調 査 し、 一 行 が 翻 訳 を 筆 記 し た。 そ し て 翌 年 に ﹃ 大 日 経 ﹄ 第 七 巻 供 養 法 の 翻 訳 も 完 成 し た の で あ る。 大 日 経 ﹄ 翻 訳 の 間、 善 無 畏 は ﹃ 大 日 経 ﹄ の 講 義 も あ わ せ て 行 な っ て い る。 そ れ を 一 行 が 編 集 し て 完 成 し た の が ﹃ 大 日 経 疏 ﹄ 二 十 巻 で あ る。 こ の 福 先 寺 の 名 前 は、 歴 史 の 中 で た び た び 出 て い る も の の そ れ が 現 在 ど こ に あ る の か、 そ の 位 置 は 不 明 で あ る。 文 献 に ﹁ 唐 代 城 外 東 北 の 隅 ﹂ と あ る。 温 玉 成 先 生 は、 現 在 の 地 名 で は 唐 寺 門 で あ ろ う と い う。 そ こ で 私 た ち は、 洛 陽 市 宗 教 委 員 会 秘 書 韓 学 礼 先 生、 河 南 省 宗 務 所 々 長 張 学 智 先 生

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ら の 協 力 を 得 て、 そ の 場 所 に 行 く こ と に し た。 洛 陽 市 の 友 誼 賓 館 を 出、 東 へ 車 で 約 二 十 分 の と こ ろ の 官 道 に ﹁ 唐 寺 門 ﹂ と い う 名 の バ ス 停 が あ っ た。 こ の あ た り を 捜 索 し た が 寺 ら し い も の は な か っ た。 近 く に 唐 寺 門 村 が あ る と い う の で、 そ こ へ 行 っ て 尋 ね る こ と と し た。 村 ま で 直 通 で き な い と い う の で 迂 回 し な が ら 何 度 か 迷 っ た が、 あ る 村 に 着 い た。 そ こ で 村 の 老 人 に 尋 ね る と 古 い 寺 が あ る と い う。 と も か く そ の 寺 を 訪 ね た。 荒 れ は て た 誰 も 住 ん で い な い 寺 で あ る が、 崩 れ か か っ た 門 に ﹁ 古 唐 寺 ﹂ の 題 額 が か す か に 見 え る。 題 額 に は 右 に ﹁ 民 国 壬 戌 久 年 ﹂ と あ る の で 一 九 二 二 年 で あ る。 中 央 に 右 か ら 左 へ ﹁ 古 唐 寺 ﹂ と 大 書 さ れ、 左 に ﹁ 張 佑 民 題 書 ﹂ と あ る。 張 右 民 は 清 の 銭 塘 と 人。 字 は 用 森。 号 は 東 呆 と い い、 著 に ﹃ 東 呆 集 ﹄ が あ る (. 國 朝 者 献 類 徴 ﹄ 六 十 四) そ の 人 で あ ろ う。 寺 の 概 観 は 図 の 如 く で あ る ( 図 2) ( 写 真(2))。 煉 瓦 塀 に 囲 ま れ て い て 建 物 は あ る が 物 置 き 程 度 で 荒 れ て い る。 図 中(1) は 石 碑 の 台 座 で あ る。 冒 ﹁ 洛 城 東 北 唐 寺 廟 龍 飛 光 緒 歳 次 施 蒙 協 六 図2 福 先 寺 伽 藍 配 置 図 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡

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密 教 文 化 月 武 拾 六 日 興 立 ﹂ と 読 め る。(2) ・(3) は 石 の 飾 り で あ る。(4) は 石 碑 で あ る が、 磨 滅 が ひ ど く て 読 め な い。(5) ・(6) は 石 の 台 座 で あ る。(7) は 井 戸 で あ り 現 在 も 使 用 さ れ て い る。 井 戸 の ま わ り に は 碑 が 敷 石 に し て あ る。 碑 の 文 中 ﹁ ⋮ ⋮ 道 光 二 十 七 年 ( 一 八 四 七) ⋮ ⋮ ﹂ の 字 も 見 え る が ど の 碑 も 摩 滅 が は げ し い。 実 は ﹁ 古 唐 寺 ﹂ が あ る こ の 場 所 は、 未 開 放 地 区 で あ っ た。 私 た ち は 道 を ま ち が え て い る 内 に 偶 然 に こ の 場 所 へ 出 て き た の で あ る。 こ の 地 区 の 代 表 者 は 厳 格 な 人 で あ っ た。 彼 ら と の 約 束 で、 こ れ 以 上 の 発 表 は さ し ひ か え た い。 し か し こ の 寺 が 福 先 寺 で あ る こ と は 確 か で あ る。 福 先 寺 の 件 に つ い て は、 中 国 側 か ら の 発 表 の 成 果 を 待 つ し か 方 法 が な い。 金 剛 智 三 蔵 と 奉 先 寺 金 剛 智 は、 ﹃ 金 剛 頂 経 ﹄ 系 の 密 教 を は じ め て 中 国 に 伝 え、 そ の 教 え を 中 国 に 流 布 さ せ る 基 礎 を つ く っ た。 奉 先 寺 は (30) 金 剛 智 の 墓 塔 が あ る 寺 と し て 歴 史 的 に 有 名 で あ る。 こ こ で は ま ず 金 剛 智 に つ い て 一 瞥 し て お こ う。 い し や な ば つ ま 金 剛 智 は 中 イ ン ド の 伊 舎 那 靱 摩 王 の 第 三 子 で あ る。 十 歳 の と き ナ ー ラ ン ダ 寺 に お い て 出 家 し た。 密 教 と の 出 遭 い は、 三 十 一 歳 の と き 龍 智 菩 薩 と 会 い、 密 教 の 灌 頂 を 授 け ら れ た。 密 教 を 中 国 に 伝 え よ う と し て、 海 路 唐 に 向 か う。 長 安 へ 入 っ た の は、 開 元 七 年 ( 七 一 九) で あ る。 こ の 年 一 行 ・ 不 空 な ど が 弟 子 の 礼 を と っ て 集 ま っ て い る。 翌 開 元 八 年 ( 七 二 〇) に、 洛 陽 に 入 る。 以 後 洛 陽 と 長 安 の 間 を 往 復 し、 密 教 の 中 国 移 植 の た め に 各 地 に 灌 頂 坦 を き づ き、 積 極 的 に 密 教 宣 布 の 活 動 を し て い る。 開 元 十 一 年 ( 七 二 三) よ り、 自 ら が イ ン ド よ り 持 っ て 来 た 密 教 経 典 の 翻 訳 に と り か か り、 多 く の 経 典 を 訳 出 す る。 主 と し て 作 法 を 中 心 と し た 密 呪 経 典 が 多 い。 ﹃ 大 正 新 脩 大 蔵 経 ﹄ の 中 に は、 経 典 ・ 儀 軌 が 合 計 十 五 部 ほ ど あ る が、 こ

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の 中 に は 後 世 金 剛 智 と 偽 称 し て 訳 出 し た も の も 含 ま れ て い る。 開 元 二 十 九 年 (七 四 一)、 七 十 一 歳 に な っ た 金 剛 智 は、 帰 国 を 願 い 出 て、 七 月 二 十 六 日 勅 許 を 得 る。 帰 国 準 備 の 途 中、 洛 陽 の 広 福 寺 で 病 気 に か か り、 八 月 十 五 日 に 入 滅 す る。 九 月 五 日、 勅 に よ っ て 洛 陽 の 龍 門 に 埋 葬 さ れ る。 天 宝 二 (31) 年 ( 七 四 三) 二 月 二 十 七 日、 奉 先 寺 西 岡 に 塔 が 建 て ら れ た。 永 泰 元 年 (七 六 五) に は、 不 空 の 要 請 に よ っ て 唐 代 宗 が 塔 (32) 額 を 賜 わ っ た。 奉 先 寺 金 剛 智 が 葬 ら れ た 奉 先 寺 と は ど の よ う な 寺 で あ ろ う か。 こ の 寺 も 文 献 の 中 に 見 ら れ る も の の、 最 近 ま で そ の 場 所 は 不 明 で あ っ た。 龍 門 石 窟 は、 伊 河 の 清 流 を 挟 ん で 東 山 ( 香 山) と 西 山 (龍 門 山) に 別 か れ て い る。 東 山 か ら 龍 門 石 窟 を 一 望 す る と、 そ の 中 で 一 番 目 を ひ く の は、 一 七 ・ 四 メ ー ト ル の 巨 大 な 盧 舎 那 仏 を 中 心 に、 菩 薩 ・ 迦 葉 ・ 阿 難 ・ 神 王 ・ 仁 王 な ど の 大 像 が 並 ん で い る ﹁ 大 盧 舎 那 像 寵 ﹂ で あ る (写 真(3))。 こ の 寵 は 唐 の 高 宗 (六 四 九 -六 八 三) と 則 天 武 后 ( 六 八 四 -七 〇 五) が 巨 費 を 投 じ て 儀 鳳 元 年 (六 し 六) 完 成 し た。 こ の 大 盧 舎 那 像 寵 は、 大 奉 先 寺 に 付 属 し て 供 養 さ れ た の で、 碑 刻 の 中 で は 常 に 奉 先 寺 と 称 さ れ て き た の で あ る。 つ ま り 奉 先 寺 の 呼 称 を ま ぎ ら わ し く さ せ た の で あ る。 そ し て 現 在 も こ こ を 奉 先 寺 と 呼 ん で い る。 金 剛 智 が 葬 ら れ た 龍 門 奉 先 寺 は、 唐 高 宗 調 露 元 年 ( 六 七 九) に 創 建 さ れ た。 開 元 一 ○ 年 ( 七 二 二) 伊 河 が 氾 濫 し、 奉 (33) (34) 先 寺 は 破 壊 を う け た。 同 年 十 二 月 奉 先 寺 は 龍 花 寺 と 合 併 し て、 大 奉 先 寺 と 呼 ぶ よ う に な っ た。 大 盧 舎 那 像 寵 も 大 奉 先 (35) 寺 に 付 属 さ れ て い た。 ﹃ 河 洛 上 都 龍 門 山 之 陽 大 盧 舎 那 像 寵 記 ﹄ に 次 の 如 く あ る。 ﹁ 調 露 元 年 (六 七 九) 己 卯 八 月 十 五 日 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡

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密 教 文 化 勅 を 奉 じ て 大 像 の 南 に 大 奉 先 寺 を 置 く。 高 僧 の 中 で 行 解 を 兼 備 し た 者 二 十 七 人 を 選 ん で 召 し、 欠 員 が 生 ず る と す ぐ 補 っ た。 創 基 を 住 持 と し、 萢 法 ・ 英 律 を 上 首 と し た。 二 年 (六 八 ○) 正 月 十 五 日 大 帝 が 額 を 書 か れ た。 こ の 時 別 に 戒 行 に 精 通 し た 僧 十 六 人 を 住 ま わ せ た ﹂ と。 こ の 記 述 は、 奉 先 寺 は 大 盧 舎 那 像 寵 の 南 に 位 置 す る こ と を 指 摘 し て い る。 金 剛 智 が 奉 先 寺 に 葬 ら れ て 以 後、 密 宗 金 剛 界 の 法 子 法 孫 は、 こ の 祖 師 塔 の 附 近 に 埋 葬 さ れ る よ う に な っ た。 た と え (36) ば 唐 の 東 都 の 開 法 大 師 如 信 は、 宝 歴 元 年 ( 八 二 五) ﹁ 奉 先 寺 に 遷 葬 し、 そ の 先 師 の 塔 店 に 柑 す ﹂ と あ る。 ま た 東 都 十 律 (37) 大 徳 智 如 も、 開 成 元 年 ( 八 三 六) ﹁ 奉 先 寺 祖 師 塔 の 西 に 遷 柑 し 瞳 を 建 て た ﹂ と あ る。 入 唐 僧 智 謹 大 師 圓 珍 も 奉 先 寺 を 訪 れ て い る。 そ の 旅 行 記 に 大 中 十 年 正 月 十 三 日、 與 圓 畳 等、 廻 至 龍 門 西 崩、 尋 金 剛 智 阿 閣 梨 墳 塔、 途 獲 禮 拝 兼 抄 塔 銘、 便 於 伊 川 東 邊、 望 見 故 太 保 白 居 易 之 墓、 (38) と あ る。 大 中 十 年 (八 五 六) 正 月 十 三 日 の こ と で あ る。 北 宋 か ら 元 代 前 期 に 至 る ま で は、 奉 先 寺 は な お き わ め て 盛 ん で あ っ た。 北 宋 の 文 彦 博 ( 一 ○ ○ 六-一 〇 九 七) に、 ﹁ 寄 題、 龍 門 臨 伊 堂、 兼 呈 奉 先 寺 興 公 ﹂、 ﹁ 題 龍 門 奉 先 寺 興 禅 師 房 ﹂ あ り、 後 の 詩 は 元 豊 三 年 ( 一 〇 八 ○) 十 月、 金 剛 智 の 墓 へ 参 拝 し た 時 に 作 っ た も の で あ る。 司 馬 光 ( 一 〇 一 九-一 ○ 八 六) も か つ て 奉 先 寺 に 遊 び、 華 厳 閣 に 登 っ た こ と が あ る。 す な わ ち ﹁ 司 馬 温 公 は 洛 陽 に い る 時、 苑 景 仁 と 嵩 山 に 遊 ん だ。 輯 韓 道 か ら 龍 門 へ 至 り て、 奉 先 諸 寺 に 遊 び、 (40) 華 厳 閣、 千 仏 岩 に 上 り、 高 公 堂 を 尋 ね た ﹂ と あ る。 こ の 記 載 に よ っ て 北 宋 の 時 に 奉 先 寺 の 華 厳 閣 は な お 存 在 し て い た こ と が 明 ら か で あ る。 宋 人 張 来 ( 一 ○ 五 二-一 二) の ﹁ 奉 先 寺 詩 ﹂ に よ る と、 宋 の 時 后 宮 の 下 層 の 宮 女 も 奉 先 寺 の 附 近 に 葬 ら れ た と い う。 そ の 詩 に い う ﹁ 荒 涼 た る 城 南 の 奉 先 寺、 后 宮 の 美 人 を 官 こ こ に 葬 る、 角 楼 相 望 み て 高 き 墳 を

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つ か 起 す。 草 間 栢 下 石 人 多 し、 秩 卑 焚 骨 家 を 作 ら ず、 青 石 浮 図 丘 な 墳 と 当 す、 家 家 墳 上 響 亭 を な す、 門 を 守 り て 相 向 い て 人 声 な し ﹂ と。 内 容 は 悲 惨 な 状 況 を 歌 っ て い る。 元 代 の 奉 先 寺 も 曹 洞 宗 の 禅 法 を 伝 え て い る 寺 と し て 盛 ん で あ っ た。 以 上 奉 先 寺 の 歴 史 で あ る が、 温 先 生 の 調 査 に よ る と、、 こ の 奉 先 寺 遺 跡 は、 現 在 の 伊 閾 南 口 ( 龍 門 山 の 南) の 西 岸 の 魏 湾 村 の 北 の 岡 に あ た る の で あ る ( 図 -参 照 × 写 真(4))。 以 下 温 先 生 (41) の 調 査 資 料 に よ っ て、 奉 先 寺 の 遺 跡 調 査 の 情 況 を 報 告 し て お く ( 図 3)。 奉 先 寺 の 境 内 は 大 き く 二 つ の 部 分 に 分 か れ る。 北 半 分 の 地 勢 は や や 高 く、 東 西 の 長 さ 約 四 〇 ︾ 米、 南 北 の 長 さ 約 二 五 〇 米 で あ る。 こ こ は 主 に 仏 殿 跡 の よ う で あ る。 南 半 分 の 地 勢 は や や 低 く、 遺 跡 は 現 代 の 建 築 に 破 壊 さ れ て い る。 こ こ は 僧 舎 跡 の よ う で あ る。 北 半 分 の 最 も 四 の 頂 上 に ﹁ 華 厳 閣 ﹂ の 遺 跡 が あ り、 海 抜 一 九 五 ・ 八 米 で あ る。 こ こ よ り 東 に む か っ て、 段 段 と 低 く な っ て い く 三 段 の 台 地 が あ る。 第 三 段 目 の 台 地 の 図3 龍門奉先寺遺跡位置図 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡

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密 教 文 化 東 部 の と こ ろ は 伊 河 よ り 一 九 〇 米 離 れ て い る。 寺 院 の 北 は 沖 淘 (石 が 流 れ た 跡) に よ っ て 出 き た 断 崖 で あ る。 こ の 部 分 は 龍 門 石 窟 と 溝 を 隔 て て 向 か い 合 っ て い る。 寺 院 の 南 部 に も 一 本 の 沖 淘 が あ る。 一、 遺 跡 第 一 段 目 の 台 地 に は、 崩 れ て は い る も の の 六 角 形 状 の 塀 が あ る。 東 西 の 長 さ 四 七 米、 南 北 の 長 さ 四 三 米 で あ る。 塀 の 高 さ は 三 米 位 で あ る。 塀 の 基 礎 を な し て い る 厚 さ は 二 ・ 二 米 で あ る。 こ の 塀 は 版 築 の 方 法 に よ っ て 造 ら れ た 黄 土 塀 で あ り、 保 存 も 比 較 的 よ い。 こ の 囲 い 塀 の 内 に、 券 土 (土 を 突 い て 固 め る こ と) の 台 基 が 一 つ あ る。 壊 れ た あ と 残 っ て い る 高 さ は 約 一 〇 米、 そ の 形 は 楕 円 形 で あ る。 こ の 台 基 の 東 西 は 一 ○ 米、 南 北 は 一 三 ・ 五 米 で あ る。 第 二 段 目 と 第 三 段 目 の 台 地 と が 交 わ っ と い る 断 崖 の と こ ろ は、 地 表 よ り 一-一 ・ 五 米 の 所 に、 多 く の 場 所 で 大 量 の 唐 代 の 傳 瓦 が 堆 積 し て い る。 そ の 断 崖 を 地 表 よ り 二 ・ 五 米 掘 り 下 げ た と こ ろ に、 東 西 に 走 っ て い る 一 段 の 水 道 管 が 発 見 さ れ た。 水 道 管 は、 圧 縮 さ れ て 内 外 が ひ っ つ い た よ う な 状 態 と な っ て い る が、 内 径 二 八、 外 径 三 四 セ ン チ で あ る。 二、 遺 物 離 碑 完 全 な も の は な い。 長 さ 二 ○ セ ン チ、 幅 一 ニ セ ン チ の も の が 残 っ て い る。 泥 質、 浅 灰 色、 側 面 に は 蓮 辮 (紋 が 離 ら れ て い る。 上 ・ 下 両 面 に は 均 し く 凝 固 し た 石 灰 漿 が あ る。 板 瓦 湾 曲 度 の 大 外 に よ っ て、 三 種 類 に 分 け ら れ る。 (1) 大 板 瓦。 泥 質 灰 色 で あ り、 表 裏 共 に 均 し く 素 焼 で あ る。 残 寛 二 一 ・ 曲 向 三 〇 セ ン チ。 (2) 中 板 瓦。 泥 質 灰 色 で あ る。 外 側 は 素 焼、 内 側 は 黒 色 が 塗 ら れ て い る。 残 寛 一 四、 曲 向 の 残 長 は 二 四 セ ン チ。 (3) 小 残 瓦。 泥 質 灰 色 で あ る。 外 側 は 素 焼、 内 側 は 荒 い 布 紋 が 飾 ら れ て い る。 残 寛 一 五、 曲 向 の 残 長 は 一 七 セ ン チ。

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瓦 当 完 全 に 残 っ て い る も の は な い。 全 部 で 四 種 類 で あ る ( 図 4)。 (1) 獣 紋 円 瓦 当。 泥 質 灰 色。 辺 寛 二、 厚 さ 一 ・ 五、 直 径 一 六 セ ン チ。 (2) 蓮 花 紋 円 瓦 当。 泥 質 灰 色。 辺 寛 一 ・ 八、 厚 さ 一 ・ 三、 直 径 一 三 ・ 五 セ ン チ。 中 心 に 一 本 の 大 蓮 根 の 飾 り が あ る。 外 側 は 大 小 の 蓮 根 が 三 周 に 囲 ん で い る。 紛 蓮 花 紋 小 円 瓦 当。 泥 質 灰 色。 辺 寛 一 ・ 三、 厚 さ 一 ・ 七、 直 径 一 〇 セ ン チ。 中 心 の 紋 飾 は 明 ら か で な い。 外 側 に 一 周 の 円 形 蓮 根 が あ る。 (4) 三 角 形 瓦 当。 泥 質 灰 色。 舌 形 を し て い る。 羽 毛 状 の 紋 飾 に よ っ て 飾 ら れ て い る。 完 全 な も の で な い が 残 長 一 〇、 残 寛 六 セ ン チ の も の が あ る。 こ の 外 に、 一 九 八 一 年 春、 解 放 軍 の あ る 部 隊 が 奉 先 寺 の 西 北 に 工 事 を 行 っ た 時、 ﹁ 石 墓 門 ﹂ 一 扇 を 出 土 し た (図 5)。 こ の 門 は 一 快 の 石 灰 岩 を 彫 刻 し た も の で あ る。 門 高 一 ・ 三 三、 寛 一 ・ 四 四、 厚 さ ○ ・ 一 二 米 で あ る。 門 権 は 厚 さ ○ ・ 一 四、 門 辺 厚 さ ○ ・ 一 七 米 で あ る。 彫 刻 を み る と、 門 の 中 心 に は 石 の 鎖 が 一 つ 離 ま れ て い る。 鎖 の 上 下 に 各 々 横 に 三 列 の 乳 丁 が あ る。 列 ご と に 八 個、 全 部 で 四 八 個 あ る。 乳 丁 の 間 に 天 王 ・ 飛 天 ・ 彩 雲 ・ 飛 鳥 等 の 像 が 線 刻 さ れ て い る。 こ れ は 盛 唐 の 風 格 で あ る。 門 権 の 左 右 の 下 に は 各 々 一 つ づ つ 二 比 丘 が 刻 さ れ て い る。 こ の 像 の 左 方 に は ﹁ 門 人 僧 光 徳 ﹂ と 題 さ れ て い る。 右 方 図5 奉先寺遺跡出土石墓門 図4 奉先寺遺跡出土瓦当 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡

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密 教 文 化 (写真1)広 化 寺遠 望 (写真(2))福 先 寺

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-60-(写真(3))現 在 奉 先寺 と呼 ばれ て い る 「大 盧舎 那 像命 」 (写真(4))左 上 碗 を伏 せ た よ うに 見 え る のが 奉 先 寺 跡 密 教 椙 承 の 祖 師 の 足 跡

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-61-密 教 文 化 に は ﹁ 門 人 僧 道 傲 ﹂ と 題 さ れ て い る。 こ の 記 載 か ら、 こ の 門 枢 の 出 土 し た 所 は、 高 僧 塔 の 基 礎 の 部 分 で あ る と い え る。 第 一 段 の 台 地 の 囲 い 塀 の 内 の 山分 土 の 台 基 は、 境 内 の 一 番 高 い 位 置 で あ る。 こ こ は ま さ し く ﹁ 華 厳 閣 ﹂ の 遺 跡 で あ り、 俗 に ﹁ 講 経 台 ﹂ と い う と こ ろ で あ ろ う。 先 に 司 馬 光 が 華 厳 閣 に 遊 ん だ こ と を 記 し た が、 そ の こ と か ら も 北 宋 の 時 奉 先 寺 華 厳 閣 が な お 存 在 し て い た こ と が わ か る の で あ る。 奉 先 寺 に 埋 葬 さ れ た 高 僧 の 中 で 最 も 著 名 な の は 義 福 ( 六 五 八-七 三 六) と 金 剛 智 へ六 七 一-七 四 一) で あ る。 義 福 は 奉 先 寺 の 北 岡 に 埋 葬 さ れ、 金 剛 智 は 奉 先 寺 の 西 岡 に 葬 ら れ た。 先 に 述 べ た 奉 先 寺 の 西 北 か ら 出 土 し た ﹁ 石 雛 墓 門 ﹂ は、 形 は 雄 大 で あ り 刻 は 精 細 で あ る。 出 土 場 所 か ら 推 測 す れ ば、 お そ ら く 義 福 塔 の 基 盤 の 墓 門 で あ ろ う。 義 福 の ﹁ 福 公 塔 ﹂ は 唐 宋 時 代 に は 有 名 で あ っ た。 以 上 は 温 先 生 が 発 表 さ れ た 遺 跡 調 査 情 況 の 報 告 で あ る。 お わ り に 本 論 文 で は、 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡 と し て 善 無 畏 ・ 金 剛 智 に ス ポ ッ ト を あ て、 両 師 が 活 動 し 入 滅 し た 洛 陽 の 広 化 寺 ・ 福 先 寺 ・ ・ 奉 先 寺 を 問 題 と し た。 こ の 論 文 を 発 表 す る に あ た り 一 番 恩 恵 を 受 け た の は、 も ち ろ ん 温 玉 成 先 生 と 遭 っ た こ と で あ る が、 学 問 的 に い う な ら ば、 先 生 が 専 門 と さ れ て い る 仏 教 考 古 学 と い う 分 野 と の 出 合 い で あ っ た と も い え よ う。 近 年 中 国 の 考 古 学 の 研 究 分 野 は め ま ぐ る し く 発 展 し て い る。 広 化 寺 ・ 福 先 寺 ・ 奉 先 寺 は、 温 先 生 も 言 っ て い る よ う に い ま や っ と 遺 跡 の 考 古 調 査 を 行 な っ た 段 階 で あ る。 今 後 の 研 究 は 考 古 発 掘 に よ っ て 順 次 明 ら か に さ れ て い く の で あ る。 今 は そ の 発 掘 調 査 を 待 つ し か な い。

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註 ( 1) 拙 稿、、 ﹁ 唐 青 龍 寺 の 遺 跡 と そ の 発 掘 状 況 ﹂ ( ﹃ 密 教 学 会 報 ﹄ 第 一 九 ・ 二 〇 合 併 号) ( 2) ﹁ 空 海 ・ 長 安 へ の 道 ﹂ に つ い て の 全 コ ー ス の 報 告 は 次 の 書 で 明 ら か に し て あ る。 ﹃ 空 海 ・ 長 安 へ の 道 ﹄ ( ﹃ 毎 日 グ ラ フ ﹄ 別 冊、 毎 日 新 聞 社 発 行、 昭 和 五 十 九 年 六 月 二 日)。 ﹃ 空 海 ・ 長 安 へ の 道 ﹄ 報 告 書 (弘 法 大 師 御 入 定 千 百 五 十 年 御 遠 忌 記 念 ﹁ 空 海 ・ 長 安 へ の 道 ﹂ 実 行 委 員 会 発 行、 昭 和 六 十 年 三 月 二 十 一 日)。 ﹃ 弘 法 大 師 空 海 ﹄ ( 監 修 ・ 松 長 有 慶、 毎 日 新 聞 社 発 行、 昭 和 五 十 九 年 十 月 二 十 三 日 発 行) ( 3) 洛 陽 の 広 化 寺 ・ 福 先 寺 ・ 奉 先 寺 に つ い て は、 温 玉 成 先 生 と の 遭 遇 な く し て は 考 え ら れ な い こ と で あ っ た。 ま た 温 先 生 は、 私 た ち の 要 請 に 答 え て、 若 い 研 究 員 を 従 え て 二 十 九 日 夜 洛 陽 ﹁ 友 誼 賓 館 ﹂ を 尋 ね て こ ら れ、 深 夜 ま で 膝 を 父 え て 洛 陽 の 仏 教 に つ い て 懇 談 し た。 記 し て 先 生 の 学 恩 に 感 謝 す る 者 で あ る。 ( 4) ﹁ 龍 門 十 寺 考 辮 (上) ﹂ ( ﹃ 中 州 今 古 ﹄ 一 九 八 三 年 第 二 期)。 ﹁ 同 ( 下) ﹂ (﹃ 中 州 今 古 ﹄ 一 九 八 三 年 第 三 期) ( 5) ﹁ 洛 都 四 郊 山 水 之 勝、 龍 門 首 焉。 龍 門 十 寺 覧 游 之 勝 香 山 首 焉。 ﹂ ( ﹃ 修 香 山 寺 記 ﹄) ( 6) 宋 李 格 非 撰 ﹁ 洛 陽 名 園 記 ﹄ ( 7) ﹁ 及 其 離 乱、 継 以 五 季 之 酷、 其 池 塘 竹 樹、 兵 車 躁 践、 廃 而 為 丘 櫨。 高 亭 大 樹、 姻 火 焚 僚、 化 而 為 灰 儘。 與 唐 共 滅 而 倶 亡 者、 兄 余 慮 栗。 ( ﹃ 洛 陽 名 園 記 ﹄) ( 8) ﹁ 旧 有 八 寺、 死 一 存 者。 但 東 岩 嶺 有 畳 石 趾 二 区、 余 不 可 辮。 数 十 碑、 多 撲、 其 立 者 僅 一 ・ 二。 所 刻 皆 佛 語、 字 剥 落 不 可 讃、 未 暇 詳 其 所 始。 ﹂ ( ﹃ 龍 門 記 ﹄ 薩 都 刺 < 三 三 〇 八 1 ? >) ( 9) 路 朝 森 者 ﹃ 洛 陽 龍 門 志 ﹄ ( 一 八 七 ○ 年 刊) (10) 関 百 益 著 ﹃ 伊 闘 石 刻 図 表 ﹄ ( 一 九 三 五 年 刊) ( 11) 水 野 清 三 ・ 長 広 敏 雄 著 ﹃ 龍 門 石 窟 の 研 究 ﹄ 一 九 四 一 年 刊。 (12) 温 先 生 の 説。 十 寺 の 内 霊 岩 寺 は、 楊 衝 之 の 記 し た 龍 門 の 霊 岩 寺 で は な く、 太 湖 の 辺 に あ る 寺 で あ る。 (﹃ 宿 霊 岩 寺 上 院 ﹄ 詩 ︿ ﹃ 文 苑 英 華 ﹄ 巻 二 三 七 に 記 載 ﹀ に よ る。)。 玉 泉 寺 も 龍 門 に は な い。 以 上 ﹁ 龍 門 十 寺 考 耕 ﹂ (上) (﹃ 中 州 今 古 ﹄ 第 二 期 三 ○ 頁) 参 照。 ( 13) ﹁ 龍 門 十 寺 考 辮 ﹂ (上) (﹃ 中 州 今 古 ﹄ 第 二 期 三 一 頁)。 (1 4) ﹃ 行 状 ﹄、 は 大 正 五 ○、 二 五 ○ 頁 上。 ﹁ 碑 銘 ﹂ は 大 正 五 〇、 二 五 ○ 頁 中。 ﹃ 宋 高 僧 伝 ﹄ は 大 正 五 〇、 七 一 四 頁 中。 善 無 畏 に つ い て は ﹃ 密 教 の 相 承 者-そ の 行 動 と 思 想-﹄ ( 松 長 有 慶 著、 評 論 社) 一 八 五 頁 以 下 参 照。 (15) ﹃ 行 状 ﹄ 大 正 五 〇、 二 九 ○ 頁 中。 ﹃ 碑 銘 ﹄ 大 正 五 ○、 二 九 一 頁 中 ・ 下。 密 教 相 承 の 祖 師 の 足 跡

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密 教 文 化 (16) ﹁ 龍 門 十 寺 考 辮 ﹂ ( 下) ( ﹁ 中 州 今 古 ﹄ 第 三 期 五 二 頁) (17) 大 正 五 ○、 二 九 ○ 頁 中。 ﹃ 碑 銘 ﹄ 大 正 五 ○、 二 九 一 頁 下。 た だ ﹃ 宋 高 僧 伝 ﹄ ( 大 正 五 〇、 七 一 六 頁 上) は、 ﹁ 二 十 三 年 乙 亥 十 月 七 日 ﹂ と あ る。 (17) 大 正 五 〇、 七 一 六 頁 上。 ( 19) 大 正 五 〇、 二 九 一 頁 下。 ( 20) 大 正 五 〇、 七 一 六 頁 上。 ( 21) 寳 畏 ( ﹃ 行 状 ﹄ で は 寳 思)。 明 畏 ( ﹃ 行 状 ﹄ で は 明 思)。 大 正 五 ○、 二 九 一 頁 下。 ( 22) 大 正 五 ○、 七 四 八 頁 下。 ( 23) 大 正 五 ○、 八 一 九 頁 中。 ( 24) ﹃ 支 那 仏 教 史 研 究、 北 魏 篇 ﹄ ( 塚 本 義 隆 著) 三 八 三 頁。 文 中 の ﹁ 沙 門 道 圓 撰 の 三 蔵 和 上 碑 ﹂ は 現 在 見 る こ と が で き な い。 ( 25) ﹃ 冊 府 元 亀 ﹄ 巻 一 四 五 ( 26) ﹃ 仏 祖 統 紀 ﹄ 巻 第 四 十 三、 大 正 四 九、 三 九 六 頁 下。 ( 27) ﹁ 仏 祖 統 紀 ﹄ 巻 第 四 十 四、 大 正 四 九、 一 四 ○ 四 頁 中。 ( 28) ﹁ 龍 門 十 寺 考 蜘 ( 下) 七、 広 化 寺 ﹂ (﹃ 中 州 会 ﹁ 古 ﹄ 第 三 期、 五 二 頁) の 頃 参 照 ( 29) 一 九 八 四 年 三 月 二 十 九 ﹂ 私 た ち は こ の ﹁ 修 広 化 寺 碑 ﹂ を 調 査 し た。 ( 30) 金 剛 智 に つ い て は ﹃ 密 教 の 相 承 者 そ の 行 動 と 思 想 --﹂ ( 松 長 有 慶 著、 評 論 社) = 二 九 頁 以 下 参 照。 ( 31) ・( 32) ﹃ 貞 元 釈 教 録 ﹄ 巻 十 四。 ﹁ 大 唐 東 京 廣 福 寺 故 金 剛 三 蔵 塔 銘 ﹂。 ( 33) ﹃ 旧 唐 書 ﹄ 五 行 志 に、 開 元 十 年 ﹁ 伊 水 涯 澱、 殿 城 南 龍 門 天 竺 ・ 奉 先 寺。 杯 羅 郭 東 南 角、 平 地 水 深 六 尺 以 上、 ⋮ ⋮ 屋 舎 樹 木 蕩 書 ○ ﹂ と あ る。 ( 34) ﹃ 龍 門 盧 舎 那 像 座 上 刻 牒 文 ﹄ に ﹁ 牒。 救 旨。 龍 花 寺 宜 合 作 奉 先 寺。 開 元 十 年 十 二 月 五 日 ○﹂ と あ る ( 35) ﹁ 調 露 元 年 己 卯 八 月 十 五 日、 奉 敷 十 大 像 南 置 大 奉 先 寺、 簡 召 高 僧 行 解 兼 備 者 二 七 人、 閾 即 績 添、 創 基 住 持 萢 法 英 律 而 爲 上 首、 至 二 年 正 月 十 五 日 大 帝 書 額、 前 后 別 度 僧 一 十 六 人、 井 戒 行 精 勤、 住 持 爲 務、 ⋮ ⋮ ﹂ と あ る。 ( 36) ﹃ 白 氏 文 佳 木 ﹄ 巻 六 八 ( 37) ﹃ 白 氏 文 集 ﹄ 巻 六 九 ( 38) ﹃ 支 那 仏 教 史 研 究、 北 魏 篇 ﹄ 三 八 四 頁。 ( 39) 詩 文 の 項 に つ い て は、 ﹁ 龍 門 奉 先 寺 遺 跡 調 査 記 ﹂ ( ﹃ 考 古 与 文 物 ﹄ 一 九 八 六 年 第 二 期)。 ﹁ 龍 門 十 寺 考 辮 ﹂ ・( 下) ( ﹃ 中 州 今 古 ﹄ 一 九 八 三 年 第 三 期) を 参 照 さ れ た い。 ( 40) 路 朝 森 著 ﹁ 洛 陽 龍 門 志 ﹄ ( 41) ﹁ 龍 門 奉 先 寺 遺 跡 調 査 記 ﹂ ( ﹃ 考 古 与 又 物 ﹂ 一 九 八 六 年 第 二 "期)

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参照

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