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こぺる No.200(2009)

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沼田(毎月 l回25日発行)ISSN凹 19岨43

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ひろば⑬ 父を靖国神社から早く取り戻したい 一合泥取消訴訟原告のひとりとして 松岡 勲 播州からの便り③ こころが縛られるということ 福岡ともみ いのちを生きる@ さあ、 再挑戦だ! 長 谷川洋子 映画の現場一写真と文

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写 真 ・ 江 口 和 憲 文 小 林 茂 一語ずつ、「ぼくは…さようならはきらいだj と明光志郎さんは言った。 40 年問、数えきれない数の職員が「さよなら、さよならねj と芦をかけて、びわ こ学園を去って行ったからだ、と江口さんはあとで教えてくれた。 一一「わたしの季節

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(明光志郎さんの撮影、カメラを構える筆者、 2003年) aちかし 「老朽化して移転する。彼らが生きてきた証を撮ってほしい」。友人の江口和憲さんから の電話だ.った。滋賀県にある重症心身障がい児(者)施設第二ぴわこ学園(現・びわこ学 園医療福祉センタ一野洲)。彼らの心象を措いた映画が「わたしの季節」である。最初、私 は「障がいを持つ人々が社会のl-j-1でどう処遇されるべきかj という点に関心があった。し かし、私は病気で倒れ、それが「上から見下ろした視線」であると気づかされた。彼らは 年々重くなる障がいと向き合ってきた人々なのである。その道の尊敬すべき先翠であった。 40年間、ここで暮らす明光志郎(18)さん。復帰した私に、電動車イスをあごで操作しな がら、「無理したらアカンで」と戸をかけてくれた。私は深いところで癒されるのを感じた。 大地から芽吹くように人は!とkまれ 春夏秋冬と季節がめぐるように人は生きてゆく。

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ひろば⑮ 松岡勲︵大阪府茨木市在住︶ 父、徳一は二度目の召集の一九四五年一月に中国湖北一 が く じ よ う り ょ う し 省都城県梁子島で戦死しました。三五歳でした。父は一 百姓で大工でもありましたので、軍隊では工兵隊に所属一 ろ 一 し、戦死時には最前線におり、現認報告書によると﹁顧一 せ ん 一 ー頂部左顎部穿透性貫通銃創︵脳損傷︶﹂で即死しました。一 そ の 惨 状 を 想 像 す る と 心 が 痛 み ま す 。 一 父が戦死した時、私の母、春枝は二八歳でした。母は、一

父を靖国神社から早く取り戻したい

合間取消訴訟原告のひとりとして 忘却との闘い 私は一九四四年に生まれました。二年前の二

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七年 司 ︸ ’ q J I U から靖国神社合記取消訴訟に参ノ加しています。この間の 裁判を通じて痛切に感じてきたことは、﹁忘却との闘 い﹂です。私が生まれたときには、父は戦地におり、そ のまま戦地で亡くなりましたので、一度も父とは会って お り ま せ ん 。 そういった意味では、私には父の記憶はなく、普通の 庶民は、自分の足跡を文章にあまり残していませんから、 わずかな遺品と記憶の断片を、両親の生きた時代のなか に置き直し、父と母が感じたであろうこと、考えたであ ろうことを想像し、再構成しなければ、戦争に関わる記 憶はどんどん退色し、忘却の彼方に消えていきます。裁 判のなかで、父と母が生きてきた歴史を考えようとして きましたが、そのなかで忘却との闘い、記憶との闘いが と て も 大 切 な も の で あ る と 感 じ て き ま し た ・ 。 父の戦死

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悪性リンパ腫との闘病の末、

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七年三月、九

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歳で亡く なりましたが、彼女の話によると、私が生まれた日の未 明、父は﹁天保山の桟橋︵大阪港︶から出航した﹂そう です。そのため私は、誕生から今日まで六五年間、﹁ま だ見ぬ父﹂の姿を折にふれ、脳裏に描くことしかできま せ ん で し た 。 生まれた子の顔を見ることもないまま出征した、戦地 の父に宛てて、母は、私の生後八

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日目と生後七ヶ月日 の写真を送りました。一枚目は父のもとに届き、喜びの 気持を伝えてきた葉書が残っているものの、二枚目の写 真は届かず、送り返されてきました。私について触れた 父の文章は、このたった一枚しか残っていません。二葉 の写真は私のアルバムに今もあります。 私は、母から父の話を聞かされる度に、二度も見たこ ま ぶ た ともない父の姿を必死に験に描きました。想像するし す べ か術がありませんでした。母は父の死後、再婚せず、ひ とりっ子の私を育ててくれました。

母は父の夢をよく見ました。ラジオ放送で﹁尋ね人﹂ の放送があった頃で、ニュースが﹁戦死したはずの人が 興安丸で舞鶴港に着いた﹂などと伝えると、かならず翌 朝、﹁お父さんが帰って来た夢を見た﹂と私に語って聞 かせました。我が家は母屋の右手に木戸があり、その木 戸から路地になっていました。その奥が洗濯場で、そこ で母は毎日洗濯をしていました。夢の中で国民服姿の父 が木戸を開けて、﹁ただいま帰って来ました﹂と現れま す。しかし、それはかなわない夢でした。 また、こんなこともありました。私の子どもの頃は家 が貧しいので、大阪まで出かけることはめったになかっ たのですが、年に一度ぐらいは大阪や十三一の繁華街に連 れて行ってもらえました。その街角で、私の住んでいた 茨木市ではめったに見ることがなかった米軍兵士を見か けると、すれ違いざま振り返って、母に手を引かれた私 が、﹁お母ちゃん、あの兵隊さんがお父さんを殺したの か?﹂と聞いたと、後年母から聞かされました。 私 が 二 一

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歳代後半になった頃の話ですが、教員として 修学旅行の取り組みで広島を訪れ、被爆者の方々と出会 ったことがあります。お盆前のことでした。家の欄聞に 飾つである父の写真をもっと真ん中に移したいと母が言 い出しました。普段なら邪魔くさくなり、﹁また今度﹂

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となるところですが、﹁うん、いいよ﹂とすぐに引き受 けました。被爆者との出会いを経験していたので、﹁死 者﹂との距離が近くなっていたのだろうと思います。私 ふ が写真の額を拭いていたとき、母がこんなことを話し出 1 レ ま J F l ︶ れ ∼ 。 ﹁終戦の一年後ゃったかな、地域の合同慰霊祭があっ し ん せ き て、午前中親戚が集まり、﹁お父さんが帰って来る﹂と 聞かされたお前は走りまわって、はしゃいでいた。けれ ども午後、お寺に行き、白木の箱がならんでいるだけと 知って、お前は﹁お父さん、どこにもいいひん﹂と悲し そうやった﹂と母は言いました。私にはその記憶がない のですが、その時の私と母の姿を思い描き、幼い私を見 ていた母の視線を感じとり、母をいとおしく思いました。 このようにして、もの心がついて以来、私の心のなか す には﹁父の不在﹂が棲みつきました。それは母にとって も 同 様 だ っ た で し ょ う 。 戦死についての認識の転換 私は中学生になっても、﹁イサオくんのお父さんはな ぜ死んだの?﹂と先生や友だちから聞かれると、涙ぐむ ような子どもでした。一方で、中学三年生の現代社会の一 学習で、憲法第九条で戦争放棄、武力不保持、交戦権の一 放 棄 が 決 め ら れ て い る の に 、 ﹁ な ぜ 自 衛 隊 が あ る の か ? ﹂ 、 一 また、﹁国民主権であるはずなのに、象徴天皇制であっ一 ても、なぜ天皇がいるのか?﹂と疑問を持つようにもな一 っ て い ま し た 。 一 少しずつ私は、父を奪った戦争、父を連れ去った軍隊一 が嫌いになっていました。父を殺した軍隊についての認一 識も、外国にまで戦争を仕掛けた日本軍はアジアの人々一 にとって侵略者なのだというように変わっていました。 私は、一九五八年七月、中学三年生の時に、遺児代表一 として靖国神社参拝をしました。しかし、参拝で﹁お父一 さんに会えた﹂といった感動もありませんでした。靖国一 神社は、私にとって父の存在を感じさせてくれるもので一 は な か っ た の で す 。 高校三年生の頃のある日、高校の屋上から茨木市街の一 町並みを眺めていると、不意に﹁この屋根の下には、生一 きていると父と同じ年頃の人たちがいるはず﹂という想一 念が浮かんできました o 息せき切って帰宅するとその思一 す − い の う ち を 真 っ 直 ぐ に 母 に ぶ つ け ま し た 。 一 う ち の お 父 ち ゃ ん 、 − ﹁ お 母 ち ゃ ん ! 戦争に行ってる

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んやから、向こうで人、殺しているはずや﹂と。母は裁 縫していた手を止めて、私の言葉を援ね返しました。母 の顔は真っ青でした。﹁うちのお父ちゃんは、虫も殺さ んええ人ゃったから、絶対そんなことあらへん!﹂。私 は返す言葉がありませんでした。 当時、私の言葉をそのまま母が受け止めてくれると思 っていたに違いありません。しかし、高校生になった息 子から突然発せられたこの間いに、母は内心は大変な動 揺を感じたでしょうが、肯定することもできなかったの だろう、と今は思います。 ゆっくりとした歩みでしたが、父が殺す側にいたとい う認識を持つようになっていました。しかし、その後、 母から拒否された﹁父と戦争﹂についてのこの問いかけ を母に向けることはできませんでした。八月一五日に毎 年行われる全国戦没者追悼式のテレビ中継をじっと見つ める母の背中を後ろから見ているのは、 た 。 つらいものでし 母と私を引き裂いた靖国神社 私のなかでは、﹁父と戦争﹂との関係をどうとらえる かが、重要な聞いとしてずっとあり続けてきました。そ一 れは、侵略軍の一員としてアジアや中国の民衆に対した一 ︵ H 殺す側にいた︶父が、なぜ靖国神社で﹁神﹂として一 ま つ 一 間られているのか、靖国神社と天皇制との関係とは何か一 という疑問であり、父の﹁合組﹂に同意できないという一 気 持 で あ り ま し た 。 一 しかし、この気持を母に話すことはできませんでした。一 わずかな期間の結婚生活しか過ごせず、その後、六

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年 一 以上を独身で過ごした母。むざむざ殺された夫、あるい一 はひょっとしたら誰かを殺したかもしれない夫、想像を一 超える無惨な死に方をしたのであろう夫、他の家族のよ一 うに子どもの成長を見守ることのできなかった夫、この一 怒り、悲しみ、やりきれなさをいったいどこにぶつけれ一 ばいいのかと彼女は自問自答したに違いありません。湖一 北省とはどんなところなのか、一月の寒さはどんなだっ一 ろ − たのか、現認報告書にいう﹁櫓ノ操作ヲ﹂する﹁船﹂と一 し れ つ 一 はどんなものだったのか、﹁蟻烈ナル敵火ノ射撃﹂とは一 どのようなものなのか、まるで想像もつかないことを、一 何度も何度も思い描き、その恐ろしさ、苦しさに思いを一 は ふ び ん 馳せたでありましょう。そんな夫を不潤に思い、また、一 父の顔すら見ないままであった私を不慨に思い、そして、一

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日毎に父と似てくる私に父の面影を探し、私に父を忘れ ないで欲しいと願ったに違いありません。 他方で、国が、靖国神社が、夫を﹁英霊﹂だとほめた たえ、毎年、慰霊祭が国家的行事として行われます。今 の平和は、夫の無惨な死のおかげである、その死に感謝 を捧げるのだと告げられます。そのたびに母は、吐き出 したい思いを抑えこんだに違いありません。だからこそ、 ﹁父は誰かを殺したのではないか﹂との私の問いを、ひ たすら否定することしかできなかったのであろうと思い ま す 。 靖国神社の合杷通知 母は老齢に入っても元気に過ごし、病気がちの私の妻 に代わり孫の養育でも大変世話になりましたが、八

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歳 代後半に入ると足腰が弱くなり、心臓の調子も少しずつ 悪くなりました。

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四年暮れ頃には︵八七歳︶、右顎の下 が腫れだし、発病を知りました。悪性リンパ腫とわかっ たのは翌年で、死去するまで入退院を繰り返し、

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西日本大阪病院で治療を受けました。悪性リンパ腫の治 が ん 療完了後、乳癌手術で入院するという二重の病苦でもあ

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七年三月に治療の甲斐なく、心不全と悪性リンパ腫一 が原因で死去しました。母の闘病期間は二年数ヶ月でし一 た。母の最期は、悪性リンパ腫が高齢もあってあまり進− 行せず、苦しまずに亡くなったのが救いでした。やはり− 長年の無理が、一気に病気として出てきたと思います。一 ただ、最後の一年間は、私が定年退職後勤めていた嘱託一 を一年早く辞め、母の介護に当たれたことはよかったと− 思 い ま す 。 子どもの頃から、父の死亡告知書︵公報︶・現認報告一 書や戦地の父からの葉書等を母から何度も見せられてき一 たのに、不思議なことに、父の靖国神社への合間通知は一 これまで見たことがありませんでした。母にも、何かわ一 だかまりがあったのかもしれません。そのわけを生前に一 聞 い て お か な か っ た こ と が 悔 や ま れ ま す 。 一 母が亡くなり、葬儀等がすみ、一段落した

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七 年 六 月 、 一 母が父の戦死関係の書類が入っていると言い残した押入一 を片付け、靖国神社の合組通知があるかどうか探し、や一 っとそれを見つけることができました。こんな紙一枚が一 ま もう抗癌剤を使うことができないほどに身体が弱ってい りました。その後、病状が悪化し、再入院しましたが、 た 。

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ノ 父を﹁神﹂にしたのかと思い、ほんとうに腹立たしく感 じました。合記通知の日付は、一九五七年一

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月 で し た 。 私の遺児代表としての靖国神社参拝がその翌年になりま す。合把通知には次のようにありました。 陸軍曹長松岡徳一命 右昭和二十年十一月十九日招魂本殿 相殿ニ奉還昭和三十二年十月十七日 本殿正床ニ鎮斉相成合間ノ儀相済候候 此段及御通知候也 昭 和 三 十 一 一 年 十 月 靖国神社宮司 筑波藤麿 遺族御中 別の棚の遺品の中から、﹁靖国神社合記記念神盃﹂ が出てきました。﹁神盃﹂とあるのには驚きました。や はり﹁神﹂にされたのです。同じ所に﹁大阪府知事盃﹂ もありました。大阪府も記念の盃を出していたのです。 多分間時期のものと思われます。 また、合間通知を見つけるより少し前に、母の遺品の 写真を整理していると、母が遺族会で行った靖国神社参 靖国神社に父が合記されていることについて、本格的一 に取り組みたいと私が思い出したのは、

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五年九月に小− 泉前首相の靖国神社参拝に対しての大阪高等裁判所判決一 が出され、判決内容についての講演を聞いたその年の暮一 れ頃でありました。そこで、﹁母も高齢だし、もうあま一 り時聞が残っていない﹂と考え、﹁父と戦争︵靖国︶﹂に一 ついての対話を再開しようと決心し、出来うるならば合一 紀 に 関 わ る 訴 訟 に も 参 加 し た い と も 思 い ま し た 。 一 それまで、卒業式・入学式で﹁君が代﹂が導入された一 際、子どもの﹁思想・良心の自由﹂の保障の問題には熱一 の靖国神社参拝は、一九六 拝の写真が出てきました。写真の裏のメモによると、母

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年、一九七三年、一九七七 年のコ一回でした。母がどんな感情で靖国神社参拝をした かは、今となっては残念ながら分かりません。母から生 前に聞き取れてなかったことを残念に思います。でもや はり、﹁父と戦争︵靖国︶﹂に関わる私と母との対話を不 可能にした原因は、靖国神社の﹁合杷﹂にあると痛感し ま し た 。 靖 国 神 社 の 不 誠 実 な 応 答

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心に取り組むことはあっても、靖国問題はどうしても越 えられない壁が、母と私の間にあり、避けてきたように 思 わ れ ま す 。 しかし、こう決心したものの、その後、母の悪性リン パ腫が再発し、病の進行の方が早く、話す機会を逸した ことは誠に残念でした。母の死によって、永遠に母との 対話は閉ざされてしまいました。そして、母の死後、 ﹁合間通知﹂を見つけて、靖国神社との﹁合間取り消 し﹂を求めるやりとりを始めました。 靖国神社に対して、最初に

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七 年 六 月 一 一 一 日 付 で 質 問 と合杷取り消しの要求文書を送り、その後、何度かのや と う か ん りとりをしました。その封書を投函する日、私の子ども の頃から玄関の上に貼られていた﹁遺族の家﹂と印刷さ し ん ち ゅ う れた真鍛のプレートを外しました。そのプレートには ﹁遺族の家財団法人大阪府遺族会﹂︵それには遺族会の

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クが入っている︶と書かれてあり、成人してからも はずきないままでした。私は子どもの頃から、母に﹁お 父さんは靖国神社に記られている﹂と言い聞かされてき ましたが、このプレートを外し、長年世間から与えられ てきた﹁お父さんが戦死したかわいそうな子ども﹂、﹁遺 族の家﹂︵英霊の家︶という心のラベリングを外したの だと思います。その時の気持は、何かが吹っ切れた感じ で、すっきりときわやかでした。 しかし、合間取り消しについての靖国神社の回答は、 政教分離の原則に反し、戦死者の遺族の敬愛追慕の情・ 追悼の自由を侵す、憲法に違反する内容でした。また、 再回答では、﹁靖国神社の根幹にかかわる合杷・祭間に 批判的な意見表明﹂には、﹁議論することを差し控えさ い た だ せて戴きたい﹂とあり、また、﹁今後も同様の御質問に は回答をしかねます﹂とありました。私が生まれて以来 六十数年間の父の不在、私が半世紀をかけて悩みぬいて きた﹁靖国神社の合組﹂、そして母の無念の思いを感じ 取り、やっとのことで合紀拒否という結論にたどりつい たのに、たった二度の回答で︵その回答も質問にまとも に答えたものではなかったて靖国神社が文書による応 接を断ったことに大変な怒りを感じました。靖国神社の 対応は、遺族の感情や意志を受け止めようとしないもの で し た 。

合問取消訴訟への参加

私は、すでに一年前から始まっていた靖国神社合記取

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消 訴 訟 に 、

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七年八月から合流し、その年の一

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月から 訴訟の弁論じ加わりました。そして、同年八月二二日の 午後、靖国神社に直接合記取り消しの申し入れを行いま した。靖国神社では、三

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歳代中頃の神官服を着た調査 課の職員が応接しました。 持 C この時、﹁合間の了解を母にどうして訊かなかったの ですか﹂と聞きましたが、調査課職員は、﹁今と時代が ちがいますので﹂︵個人情報の保護、宗教法人としての 靖国神社のこと等︶との応答でした。そして、合間取り 消しを求めましたが、それは応じられない、と拒否され ました。﹁しかし、合記は一九五七年ですから、戦後の 制度では、遺族の意向を聞くのが当然ではないですか﹂ とさらに問うと、﹁今とちがいますから﹂と繰り返すば かりでした。また、﹁それは、やはり現在の感覚ですね。 戦死者をお杷りするというのが第一義ですから。それが の っ と 日本に古くから伝わる神道の形に則って、お杷りする というのが国家の基本として決まっていたのです﹂とも 言いました。彼の﹁合記取り消しはできない﹂という拒 否の回答を聞き、事務所を辞しましたが、遺族の了解を 得ずに﹁合間﹂したこと、それも戦後になってからの ﹁合間﹂であることには納得できませんでした。この靖 国神社訪問の主要な理由は、父の合間取り消しの申し入 れにありましたが、もうひとつの理由は中学三一年生時の 靖国神社遺児参拝の際になにか特別な思い入れがなかっ たかどうかを確認したかったことにありました。靖国神 社を再訪して、遺児参拝から四八年たっていましたが、 当時、靖国神社に対して﹁全く思い入れがなかった﹂こ とを確認できてよかったと思いました。 中学三年生時の靖国神社遺児参拝については、合間取 消訴訟の証人尋問︵

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八年九月四日、大阪地裁︶で、靖 し つ よ う 国神社側の弁護士が執劫に聞いてきました。弁護士は、 ﹁︵母は︶杷られて喜んでいたに違いない﹂と思っていた ようですが、それは間違っています。本人調書で、その 部分を再現すると次のようになっています。 弁護士 遺児代表としてあなたが神社に参拝に行かれ るときは、お母さんはどういう態度だったの で す か 。 何も言っていませんね、不思議と。 ええつ︵のけぞるような、信じられないとい う言葉が出かかったような声を発した︶。 ええっと言ったって、母親から、おまえはこ 松岡 弁護士 松 岡

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非常に誉れ高き家庭の息子ゃから、気 張って靖国神社にお参りしといでやというふ うに言われた記憶がないのです。それがうち の 母 親 の 実 像 な ん で す よ 。 ん な 、

/\ 靖国神社再訪の際、遊就館を見学しました。遊就館の 展示に私の身体全体が拒絶感を示していました。気味が れ い じ ぽ お は ぐ る ま 悪かったのは、招魂式に霊璽簿を乗せる﹁御羽車﹂で した。御羽車は、招魂祭において霊璽簿を靖国神社本殿 に奉還するために用いられたものですが、照明を落とし た室内のうす暗がりのなかに置かれていました。﹁御羽 車﹂を見て、招魂祭の日の深夜に、誰も見ていないなか をおごそかに戦死者の﹁みたま﹂を本殿に奉還する風景 を想像し、﹁うちの父親︵の名前︶もこれに乗せられた のか。こんな形で﹁神﹂にさせられたらたまらないな﹂ と 背 筋 が 寒 く な り ま し た 。 また、裁判の原告になって何が新たに見えたかについ てふれますと、それは、靖国神社に﹁合間﹂されている 父に対して、私の人生ではじめて真剣に向き合うことが できたことです。それは、遊就館で﹁御羽車﹂を見たと− きに﹁背筋が寒くなった﹂ことと﹁それに乗せられ、一 ﹁神﹂にさせられた父がとてもかわいそうになった﹂こ一 とです。言い換えれば、﹁父との距離が近くなった﹂の一 です。ここでも父との距離が遠かったのは、﹁靖国神社一 による︿合記﹀﹂の介在でした。父は、ただ一人の息子一 が誕生した瞬間に戦地へ送られ、わずかに戦地よりわが一 子を気遣う葉書をしたためることしかできませんでした。一 顔も見ないままのわが子に対する慈しみの深さは想像に一 余りあります。のみならず、そこで死亡したために、自一 身が命名した息子である私と共に過ごすことも、その成一 長を見守ることもかなわないままとなったのであり、そ一 の無念さは想像するも郭しい。その上、被告靖国神社と一 国は、父の死を﹁天皇のために死んで御国のために奉仕一 した﹂者として、﹁神﹂として意味づけ、広く世間に流一 布し、利用し続けてきたのです。私は、父を戦死させら一 れ、死後も父を﹁神﹂として杷ること︵合紀︶により、一 今も父を奪われたままです。それ故に父の﹁合紀﹂を取一 り消し、父を私の元に取り戻すことを切に望みます。一 そのような思考にたどりつけたのは原告となったから一 です。これまでは﹁父の不在﹂が私のメインテ

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マでし一

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たが、この裁判を通して、﹁靖国神社の合組から父を取 り戻す﹂こと、つまり﹁父の不在﹂から﹁父の獲得﹂へ て ん て っ と転轍させるものとなりました。 靖国神社合間取消訴訟は、この二月二六日、大阪地方 裁判所で判決がありました。判決は、靖国神社の合記と いう行為を﹁抽象的・観念的行為﹂であり、﹁他者に対 する強制や不利益の付与を想定することができない﹂と し、靖国神社を免責するものでした。また、国は合問の ために戦死者の情報を靖国神社に組織的に供与してきた のですが、判決は国の関与︵共同不法行為︶も否定しま した。それを聞いたとき、六五年にわたって靖国神社の 合記によって苦しめられてきた両親と私の人生を﹁どう してくれるのか﹂と怒りを強く覚えました。七月から大 阪高等裁判所で控訴審が始まっています。 今私は、母が亡くなる直前まで寝ていた六畳の間で寝 起きしています。欄聞には父と母の写真がならんでいて、 毎日、寝床から仰ぎ見ることになります。父は国民服姿。 写真は、一九四四年、二度目の出征直前︵翌年戦死︶に 写されました。年齢は三四歳。一方、母の写真は卒寿の 祝いの写真、亡くなる直前の写真です。父の写真は老い ず、母のそれは戦後六十数年の苦労を深く刻んでいます。 追記本稿は、田中伸尚編著﹃これに増す悲しきことの何 か あ ら ん | 靖 国 合 記 拒 否 ・ 大 阪 判 決 の 射 程 ﹂ ︵ 七 つ 森 書 館 、

ω

・ 7 ︶ に 収 録 さ れ た 私 の 陳 述 書 と 重 複 す る と こ ろ が あ る こ と を お 断 り し ま す 。

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播州からの便り③

こころが縛られるという

福岡ともみ︵ウイメンズカウンセリング 京 都 ・ 兵 庫 県 加 古 川 市 在 住 ︶ ﹁買わない﹂という決断 コ カ コ

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ラゼロのテレピコマーシャルは以前、 の瓶をちょんまげにした男性がグピグピ飲んでいるとい う絵だった。バージョンを替えたものが何度か放映され たが、どれもこれも男性性の象徴として﹁ちょんまげ H コ カ コ

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ラ﹂を表現していた。まったく笑えない

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。 ﹁私には飲めません﹂という感じで、しまいには﹁男だ けが飲んだらいいやん﹂とまで気分はエスカレート。こ

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ラ のコマーシャルでコカコ

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ラゼロを買うのをやめた。最 近のコマーシャルは安室奈美恵さんに代わったので心穏 ヱ シ ﹄ やかである。宣伝如きで目くじら立てなくてもな、とも 思う。しかし不快感はやはり大切にしたい。自分自身の 感覚を無視したくないのだ。 ﹁ 革 命 組 織 ﹂

の内幕

が あ る 。 自分の感覚を大切にしようと心がけているのにはわけ 私は一八歳で大学に入学。部落解放研究会と山岳部に 入部し、半年もしないうちに学生運動に飛び込み、デモ と集会に明け暮れることになる。ある新左翼組織にも属 した。公安警察からの追尾やガサ入れ、﹁殺し殺され る﹂対立にまでなった組織からの脅しなど、﹁いつパク られるかもしれない。テロられるかもしれない﹂という 緊張の連続だった。部屋の入り口や窓は﹁敵﹂の侵入を 防ぐためにいつもバリケードが組まれていた。人間関係 の基本は﹁敵か味方か﹂だった。﹁敵﹂に後ろを見せる ひきょう ことは卑怯とされ、﹁弱さ﹂は否定された。ありのまま の自分ではなく、革命的かどうかが問われた。自己批判 を求められ、自己批判書を書いた。女らしさを否定され たのはいいが、それは﹁男﹂になることだった。月経痛 ぜ い じ ゃ ︿ に苦しんでいた私は﹁精神的に脆弱﹂とみなされた。 対立する組織との争いが激化するにつれ、 指導部防衛と

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称して戦前日本共産党のハウスキーパー的な任務が女性 たちに回ってきた。 壊れそうな自分をなんとか保ってこられたのは、仲間 の存在が大きかったと思う。それと﹁差別抑圧からの解 放のために革命を成そうする﹂何者かでありたいとい、つ ご う ま ん 倣慢さが支えになっていたのだろう。 三

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歳半ば、私は仲間と共に組織を離脱した。離脱す るきっかけは、ある幹部の腐敗を指摘したことだった。 男性同志への暴行、女性同志への暴行、カンパの使途不 明、横領疑惑などを具体的に指摘し、処分を求めた。い けないことはいけないと札せるはずだし、札せないとこ の組織は終わりゃなと思っていた。紛糾した。そして矛 せんさく 先が指摘した私たちに向けられた。指摘する意図が詮索 され、ついに﹁スパイ﹂とか﹁反革命﹂のレッテルが貼 ら れ 始 め た 。 私 た ち は 見 切 り ゃ ﹄ つ け た 。 離脱したあと、狭山再審請求を求める集会に部落解放 同盟の一員として参加したことがある。集会を終えデモ に出ょうとしたとき、二

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人あまりの集団からシュプ レヒコールを浴びせられた。心臓の鼓動がドクンドクン と聞こえていたが、平気なふりをした。一団の先頭にい たメンバーたちから脱み付けられもした。幾人もの奈良 ﹁反革命﹂になってしまった。幹部の腐敗は棚上げにされ、一 か く ら ん 白 腐敗を﹁おかしい﹂と指摘した側が﹁撹乱分子﹂とされ一 う そ た。ナチのゲツベルスは﹁嘘も千固いえばどっちでもよ一 県連のメンバーが横についてくれて事なきを得た。 そ の ときの友情を思い出すといまでも目頭が熱くなる。 い ん ぺ い 何が真実なのかは隠蔽されたまま、 私や仲間達は、 くなる﹂と言ったらしいが、 そのままのことが眼前で起 し きていった。集団心理の恐ろしきが骨の髄まで泌みた。 マインドコントロール 私の属していた組織はカルト化していたのではないか と気づいたのは、離脱してしばらくしてのことだ。友人 のところに身を寄せ、何気なく朝のワイドショーを見て いたら、山崎浩子さんが記者会見をしていた。当時統一 教会の合同結婚式に出ていたことが騒がれていた彼女は 記者会見の官頭、﹁私はマインドコントロールされてし く ぎ まっていた﹂と語り始めた。テレビに釘づけになった。 紹介された一冊の本、﹃マインドコントロールの恐怖﹄ ︵スティーブン・ハッサン著、浅見定雄訳、恒友出版︶ をすぐに買いに行った。

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マインドコントロールとは﹁個人が自己自身の決定を 行うときの人格的統合性を切り崩そうとするシステム。 その本質は、依存心と集団への順応を助長し、自律と個 性を失わせることである。行動、思想、感情、情報をコ ントロールすることによって達成される﹂と定義されて いた。読み進んでいくうちに、私がくぐってきた生活に 当てはまることがいくつも出てきた。 ﹁教義はふつう絶対主義的で、すべてを﹁白対黒﹂ に分ける。︵略︸個々のメンバーは自分で考える必 要はない。教義が彼に代わって教えてくれるのだか ら。︵略︶カルトは独特な言葉と表現の﹁詰め込み 言語﹂を持っている。︵略︶複雑な状況を単純化し てそれにレッテルをはり、カルトの決まり言葉に還 元 し て し ま う ﹂ ﹁コントロールしておくのに必要な道具は罪責感と 恐 怖 感 で あ る ﹂ p ﹁﹁新しい﹂人間の最初でもっとも重要な仕事は以前 の自分をさげすむことである。いちばんいけないの は、その人が自分らしく行動することである﹂ ﹁自分たちは特別なのであり、献身的な前衛隊とな 思想性というものは存在に規定されており、大学まで田 進学した自分はプチブル︵小ブルジョアジー︶だと思い一 込んでいた。いつも自信のなさと自責感がまとわりつき、一 ﹁正しい﹂ことがわからず、誰かに承認を求めなければ一 判断できない感覚があった。それを﹁思想性の脆弱さ﹂一 と思ってきた。そのくせ、﹁何者か﹂ H ﹁特別な存在﹂一 でありたかった。自己を否定しながら﹁特別な存在﹂で一 か っ と う いたいという葛藤はマインドコントロールというシステ一 与んド︼会匂 ムの絶好の餌食だ。自らの意志のように進んで組織に縛一 ら れ 、 自 分 を 見 失 わ せ て い く 。 一 思わず取ったのは、﹁新しい人格の再凍結を促進する一 ために、あるカルトはその人に新しい名前を与える﹂と− いう一文だった。自分で決めたとはいえ偽名を使用して いたからだ。警察による弾圧との関係が理由だったが、一 む と ん じ ゃ く 一 そのことがもたらす心理的作用にまったく無頓着であ− って、人類史上もっとも重要な行動に参加している のだというこの気持ちこそ、彼らに自己犠牲と重労 働を続けさせる強い情緒的接着剤である﹂ ﹁正当な﹁やめる理由﹂などというものは存在しな い こ と を 非 常 に 強 調 す る ﹂

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った。名前を捨てるということは、それまでの人生を精 算することに等しかったのだと思う。そんな覚悟もない まま、おもしろがって偽名を使っていた自分が情けない。 私の属した組織は意図的にカルトになろうとしたので はないのだろうが、マインドコントロールの条件は整っ て い た の だ 。 山 崎 浩 子 さ ん の 二 一 一 日 は 、 私 が 抱 え た い い よ ざせつ うのない屈託、不安、緊張、自責感、挫折感について過 不足なく振り返る契機となったのである。 痛みを感じる 精神科医の斎藤環さんは﹁博士の奇妙な思春期﹂︵日 本評論社、閃年︶のなかで﹁ヤマギシ会﹂にふれ、﹁解 離状態は﹁痛み﹂を消去してしまう。私はまさにこの点 にこそカルト的なものの危険性がきわまっていると考え る。他人の痛みを理解することはできない。なぜなら痛 みこそは、最も個人的な感覚にほかならないからだ。痛 みは連帯を生まない。痛みは人を孤独にする。しかしま た﹁痛み﹂は共感へと進む一歩となりうる。︵略︶自分 の痛みを起点として他人の痛みへと向けられた想像力こ ま ぬ か そが、共感への第一歩なのだ。︵略︶葛藤と不安を免れ、 痛みの感覚をなくした人聞は共感性を欠いた暴力的な存一 在 に な り う る ﹂ と 指 摘 す る 。 一 人間の解放を語りながら、他者の痛みを想像すること一 ができなくなる。まさに私が陥っていた世界だ。自分の一 痛みを消してしか生きることができない仕組みはほんと一 うに怖い。私たちが幹部の腐敗を追及したとき、彼の女一 性同志への行為を構造化された性暴力であると指弾でき一 なかった。なぜ性暴力という言葉にたどり着かなかった一 のか、いまも聞い続けている。一人の女性は子どもが生一 まれ女の子とわかったとき﹁この子も自分と同じ道を歩一 むのかもしれないと思ったら涙がとまらなかったのよ﹂一 と 語 っ た 。 心 が 痛 む 。 一 駅や交番に張り出された指名手配の写真を見かけると、一 知った顔があるかどうか確かめてしまう私がいる。この一 写真はもしかしたら自分だったかもしれないとも。あの一 まま、やめることなく続けていたら、指名手配されるよ一 うな活動に埋没していたか、命を絶っていたか、殺され一 ていたか、いずれにしても孤独だったに違いない。そん一 な の は 私 じ ゃ な い 、 と い ま な ら 思 え る 。 一 これからも私は、私が生き抜いてきた過程をひとつひ一 とつ、大事に厳しくみつめていきたいと思っている。一

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いのちを生きる⑮ 長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶

再挑戦だ

1 八月二六日 仕事の引き継ぎのために学校を訪れた。朝から落ち着 かなくて。小娘でもあるまいに、とわれながらおかしく なる。手みやげや九月から使うものを持ち、バーゲン セール帰りのような格好でパスに乗り込む。駅から学校 までパスで何分かかるか、きれいに忘れていた。時間を 計りながら、学校最寄りの停留所で降りると、大きな店 舗が新しく建ち、見知らぬ風景が拡がっているのに驚く。 しかし学校のなかに入ると、以前と変わらぬ世界が私 を待っていてくれた。理科で教える朝顔がちゃんと咲い ているかを確認しながら閑散とした校舎に入る。 大阪府では、春のインフルエンザ騒動で学校閉鎖が七 日間続いたため、今年は夏休みに五日間の補習日をとっ て い る 。

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市は二学期制で夏休みに授業日があり、合計 八日間の授業日が入っている。私の職場は一一一一日から授 業日で、会議などが二五日から始まっていた。今日は秋 の遠足の下見があり、職員室の人影はまばらだった。圧 倒的に若いひとが多い!お肌ぴかぴかのひとたちが行 き来する様はまぶしい。顔なじみの同僚と少しパカ話を してから、理科専科の

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さんと引き継ぎに入る。

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さ ん は、三

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歳くらいの好感の持てる青年だ。話もソツがな い。﹁引き出し﹂は彼より私の方が多いかもしれないけ れど、子供たちはやっぱり若い方が好きだろうなあ、と 思いながら、彼のあとをついていった。 びっくりしたのは、校内の各部屋に

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ケーブル ︵インターネットのケーブル線︶が走っていること、小 型プロジェクターやラップトップパソコンが何台も職員 やっぱりウラシマ太郎 室に常備されていることだ。 ︵ ? ︶ に な っ て い た 。

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を使って理科を教えることが 主流になったらしい。

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さんはていねいに各機械の接続 を教えてくれた。子どもの引き継ぎ、メダカの水替えの 方法、ボーリング調査︵学校敷地の地質調査︶見本のあ こ の 二 年 近 い 聞 に 、

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りかまで聞いて、引き継ぎが終わった。﹁みなさんがや いろいろなことを教えてもらいました。先生、 どうかゆっくりゆっくりゃっていってくださいね﹂と、 さ し く て 、

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さんはおだやかに話を結んだ。私が

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さんの年頃には、 こんなに人聞ができていなかったなあ、とつくづく思う。 あの頃は無茶苦茶していたような気がする。彼だけでは ない。この二年半の聞に、賢くて物静かで達観した若者 たちに何人も出会った。 悪い時代には、ひとは早く大人にさせられるのだろう か。なにか事件が起きるたびに若者が問題視され、その 暇庇を探す報道がされるのは少し不公平な気がする。 九月一日 一年半ぶりに古巣にもどる。職員室は、団塊の世代の あ ふ 教員の姿が消え、いっそう若いひとたちで溢れかえって つ や す わ いる。ずらりとならぶ、艶やかな肌の人の横に坐るのは ちょっと気が引けたが、まあ仕方がない。 五年生と六年生の理科、五年生の算数の一部を補助す る担当になった。教材準備に時間はかかるが、時間数が 担任より少ない上に、朝、職員室に電話が鳴り響くと、 ﹁ウチのクラスかな?﹂ 細 く 長 く お 願 し、 し ま す よ しー一 と気にしなくていいのが楽だ。 専科になってみて、 担任の仕事がいかに長時間の緊張を 強 い ら れ る 、 休みなしの労働か、 身にしみてわかる。 保護者が何人か会いに来てくださった。 先 生 働 き 過 ぎ ! ﹂ 、 ﹁ 燃 え 尽 き な い で 。 日に涙を浮かべて励ましてくださった。本当に素敵なひ とたちとめぐりあっていたことにようやく気づいた。病 に倒れる前は、対応が難しい保護者のことばかり気にし ていた。人生を損していたんだな、と思った。 休み時間、子どもたちが大勢、職員室や理科室に顔を 見に来て、少しずつ話をしていく。ゴンタ︵いたずら︶ な子が照れて何も言わずに戸口で棒立ちしているのが可 愛い。初めて出会った女の子が少ししゃべったあと、 ﹁じゃ先生、がんばって稼ぎや

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﹂と、明るい声であい さっして出て行った。 あ い さ つ いいなあ、大阪の挨拶や。今回は必ず六ヶ月定期券を 使い切って、ばんばん稼がせてもらおうっと。

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鴨水記 マ﹁先が長くない患者さんたちとの会 話や交流について話すと、子どもたち は静かに聴き入るという。話題は自然 と﹁死 L に触れるが、子どもたちは﹁生 きる﹂ことについて考え、感想文を書 く。ただ、学校で﹁いのち﹂や﹁生と 死﹂の授業をするのは簡単ではない﹂ 0 小中学校でゲスト講師をつとめる三枚 好幸医師︵多摩市聖ケ正病院︶への取 材記事です︵﹁岐路に立つ﹁いのちの 授 業 ﹂ ﹂ 、 朝 日 新 聞 名 古 屋 本 社 版 、

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・ 9 ・日朝刊︶。一二枝さんは教員への聞 き取りから、その理由として﹁時間の 余裕がない。宗教っぽい。教科優先の 管理職が反対する。講師を呼ぶと費用 や準備が大変:・﹂をあげる。﹁子ども たちが平気で寸死ね﹂と言い合う現実 を前に、何らかの取り組みは必要だと 感じている。しかし、教材や指導法が わからず、同僚の支援もなく、何より 忙しいのでそのままになる﹂という教 員の述懐。﹁新しい学習指導要領ではました。たしかに、もう一人の自分は 授業時間数が増え、理数を中心に内容正直でした。ぼくは、やってはいけな も多くなる。比較的自由なテ l マに取いことなどを分かっているのに行動に り組める総合的な学習の時間も減るのだしてしまいます。いじめはいけない で、三枝さんを呼ぶような学校の取りこと悪口はいけないことが分かってい 組みはますます減るのかもしれない﹂るのに、してしまいます。この勉強を と上野創記者はコメントする。やはりして生かしていけたらいいなあと思い この間の教育は根幹からしておかしい。ました﹂。﹁ぼくが一番納得できた言葉 マ大阪市立金塚小学校六年生の感想文は、寸強制や監視や命令でされるんじ から。﹁ビデオ︵﹁君の勇気を待っていゃなくて自分で決めよう﹂という事で る﹄︶をみてみると少しこわい印象がす。みんなから一吉われて、するんじゃ あって、初めきんちょうしていました。なしに、自分で決めて、それをして、 けど話を聞いてみると、すごくおもしそれでできできたら、また、ちがうこ ろくで優しい人だなあと思いました。とを決めるとこんなふうに、少しずつ、 わたしは、﹁あいさつしの話が一番心自分で自分をみがいていって、もつと にひびきました。あいさつをしても心良くしていきたいからです﹂ 0 が通っていないとあいさつにならないマ﹁駆り出され戦わされて殺されて神 という話です。そんな深く考えたこと様にされ誓われている﹂︵八王子市向 がなかったので、﹁おはよう﹂や﹁パ井和美さん︶。﹁朝日歌壇 2009 ﹄ ︵ 朝 イパイ﹂の一言にも意味があるんだと日新聞出版、

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・ 4 ︶で見つけた一首。 思 い ま し た ﹂ 0 ﹁もう一人の自分は、うこのごろなぜか短歌と現代詩がこころ そ を つ か な い と い う 言 葉 に 胸 を う た れ に し み ま し て ね 。 ︵ 藤 田 敬 こ 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9阿吟社 〒602CJ17 Tel. 075-414-8951 Fax. 075 414 8952 - o,空第200号

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教育改革という学校の危機

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学力低下、セキ ュ リ テ ィ 問 題 、 い じ め だ け が 危 機 で は な い ! 改 革 ま た 改 革 の か け 声 の 中 、 ﹁ 豊 か さ ﹂ をほり崩さ れ 、 緩 慢 に 、 しかし確実にやせ細り つ つある現在 の学校の姿を 浮 き彫りにする 。

教育の境界研究会編

世町 四六判 ・ 並 製 ・ 238 頁 ・ 定価 ︵ 本 体 二 一

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円 + 税 ︶ l S B N 9 7 8

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2 目 次 − 学 校 に 人 は 住 ま っ て い る か −むかし学校は:・廃校舎と希望 / 校 区 と 運 動 会 / ラ ジ オ 体 操 と 生 命 保 険 / ﹁ び こ ﹂ 愛 の ム チ / 家 庭 科 室 芝 西 欧 モ ダ ン / ミ シ ン と お し ゃ れ / 校 歌 と 効 果 / 写 真 屋 さ ん と ユ ー ミ ン / 女 教 師 と 看 護 実 習 / 班 ノ ー ト ・ 学 級 通 信 と 親 密 さ / 同 窓 会 と ﹁ 学 校 ﹂ 2 豊 か だ っ た : ・ か ? コ ク サ イ と TPO / 上 履 き と 民 主 教 育 / 制服 ζ ノ ス タ ル ジ | / 給 食 と 秘 密 / レ ン タ ル ペ

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卜 と 学 校 知 / プ ロ レ ス 遊 び と 表 ・ 裏 ル ー ル / 校 門 と 呼 び 声 / 卒 業 証 書 と イ チ ロ | / チ マ チ ヨ ゴ リ と 軽 や か さ / 掃 除 と 落 書 3 教育?改革 ? ト イ レ と 太 郎 く ん / 学 期 と メ リ ハ リ / ﹁ の ノ l 卜 ﹄ と 自 分 ら し さ / コ ン ビ テ ン シ ー と

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力 / 土 曜 日 と 蛍 カ / コ ミ ュ ニ テ ィ ス ク ー ル と 学 校 選 択 / ア カ ウ ン タ ピ リ テ ィ と 多 忙 化 / 複 合 施 設 と 出 会 い / 切 碓 琢 謄 と 学 校 規 模 / 監 視 カ メ ラ と 快 適 さ − モ ノ の 星 座 と 政 治 の 発 見

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場言宗附社

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ロ 守 二 O O 九年十 一 月 二 十五 日 発 行 ︵ 毎月 二 回 二 十 五 日発行 ︶ 一 九九 三 年 五 月 二 十七日 第 三 種郵便 物 認 可 定価 三 百円 同 本体 一 ﹂ lk k 円

参照

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