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こぺる No.224(2011)

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日(毎月 l回25日発行) 4E1 4El

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AEEl とべる刊行会

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ひろば⑩ 『坊っちゃんjの喧嘩一旧制中学校と師範学校の対立を考える 野 町 均 四日市から@ 東日本大震災と向き合う女性たち

坂倉加代子

いのちを生きる⑮ 葬られた金網 長 谷川洋子 花 と マ グ マ ー 絵 と 詩 森永都子

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水俣詩篇 絵 森永都子 水俣病であること 森永都子 ﹁ わ た し は 水 俣 病 で す ﹂ と 、 言 え る く ら い な ら 、 闘いも、偏見も、差別もなかった。 認定されても、健康手帳を見せると ⑧︵マルコ!公害患者︶として 看護婦もせせら笑った。 J ﹂の人たちは、ただで病院来れて ぐ ら い の も の だ 。 良かねえ H 頭痛も耳鳴りもしびれも包丁をとりおとすことも 何もかも、人の日には見えない。 激症型で、あばれ狂い死ぬしか、みとめられない。 ﹁ 先 生 、 わたしが死ねば、解剖ば、してくれなはりまっせ。 うそはついとらん、で。﹂ 死んでからしか 人は人として 認められない

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ひろば⑩

このときは中学校側が一歩一 午後の余興の会場で﹁中学校側から一 の意趣返し﹂と、普段から仲の悪い両校の生徒が再び衝一 突。止めに入った坊っちゃんと山嵐はこの騒動に巻き込一 まれ、おまけに教頭の赤シャツの陰謀により二人は生徒一 を 一 扇 動 し た と さ れ 、 新 聞 沙 汰 に な る 。 ﹃坊っちゃん﹄には中学校と師範学校との関係が次の一 ﹁ ど こ の 県 下 で も 犬 と 猿 の 様 一

の喧嘩

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旧制中学校と師範学校の対立を考える

均 ︵ 東 京 都 在 住 ︶ 四国・愛媛県松山市の旧制中学校︵以下、中学校︶を 舞台にした夏目激石の代表作﹃坊っちゃん﹄。主人公の 新任教師、坊っちゃんは親譲りの無鉄砲、正義感の強い 数 学 の 先 生 だ 。 ところが赴任した中学校と師範学校の生 徒聞の喧嘩により、同僚の先生、山嵐とともに学校を辞 めて東京へ去ってしまう。対立した両校の置かれた位置 や学生の実態などを眺めながら、激石が描いたこの喧嘩 の意味や近代日本の教育について考えてみたい。 喧 嘩 の き っ か け は 、 日露戦争の祝勝会に参加する中学 校 と 師 範 学 校 の 先 陣 争 い で 、 譲 っ た 。 と こ ろ が 、 よ う に 描 か れ て い る 。 ① 中学校と師範学校は こベる に 仲 が わ る い さ う だ 。 なぜだかわからないが、丸で 気 風 が 合 は な い 。 何 か あ る と 喧 嘩 を す る 。 ﹂ 1

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②中学校側からは﹁しきりに何だ地方税の癖に、引 き 込 め と 、 怒 鳴 っ て ゐ る 。 ﹂ 地方税については岩波版﹃激石全集﹄に、地方自 治団体がその経費をまかなうために課す租税、その 補助を受ける師範学校を軽蔑して言うとの註があ る ③先を争った衝突は、中学校が一歩を譲ったかた ちでとりあえず折合がついた。 ﹁ 資 格 か ら 云 ふ と 師 範 学 校 の 方 が 上 ﹂ だ っ た 。 ここで激石が言うように中学校と師範学校はどこの県 でも犬猿の仲だとすると、この喧嘩は単に松山だけのこ とでは済まされないし、中学校と師範学校の関係が影響 しているならば、血気に走る若者同士の勢力争いで片付 けられるものでもない。﹁地方税﹂というなかなかうがっ たやじにも両校の不仲な関係を考えるヒントがありそう だ 激石︵夏目金之助︶が愛媛県尋常中学校に赴任したの は一八九五年︵明治二十八年︶四月。ここで勤務した 年間の体験や見聞を取り入れて書かれた﹃坊っちゃん﹄ には当時の教育界の姿がうかがわれて興味深い。 そ れ に 狸 ︵ 校 長 ︶ 、 赤 シ ャ ツ ︵ 教 頭 ︶ 、 山 嵐 ︵ 数 学 の 主 任 教 師 ︶ 、 プや特徴は現代の先生方にも通じるところがある。 戦前の教育制度の基礎となったのは、一八八六年に森一 有礼文相が公布した学校令だ。そこで喧嘩の両校、中学一 校と師範学校はどのように位置づけられていたか簡単に一 見 て お こ う 。 基本となる学校の種別は小学校、中学校、大学、師範一 学校の四つである。ほかに専門学校︵主人公の坊っちゃ一 んは東京の物理専門学校、今の東京理科大の出身︶や私一 立学校もあるが、問題の喧嘩には関係しないので、ここ一 で は 触 れ な い 。 まず、最高学府は帝国大学である。そのもとに小学校、 いずれも尋常と高等の二つの段階を設一 中 学 校 を 置 い て 、 4 J ﹂ こ O

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これとは別に教員を養成する師範学校を設置し、閉じ く尋常と高等の二つで編成した。最高学府の帝国大学へ

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進むには、尋常小学校から尋常中学校︵旧制中学校︶へ もしくは高等小学校を経て尋常中学校へ、 そして高等中 学 校 ︵ 旧 制 高 校 、 以下高等学校︶へ進学し、卒業しなけれ ば な ら な か っ た 。 ﹃坊っちゃん﹄の主人公が勤務したのはこの尋常中学 校 に 当 た る 。 一方、師範学校は帝国大学へはつながらない、独立し た教員養成の学校だった。高等師範は中学校教員を養成 す る 学 校 で 、 当 初 は 東 京 、 のちに広島と奈良に設立され 今日の筑波大、お茶の水女子大、広島大、奈良女子大の 前 身 を な し て い る 。 尋常師範は小学校教員を養成する学校で、府県にそれ ぞ れ 一 校 設 置 さ れ た 。 ﹃坊っちゃん﹄で中学校と対立する師範学校は尋常師 範 学 校 だ っ た 。 ﹃坊っちゃん﹄での中学校と師範学校との喧嘩の場面 では、中学校側から師範学校側へ ﹁ 地 方 税 ﹂ と や じ が 飛 んだ。師範学校生が受ける公費助成を蔑視して怒鳴った一 言葉である。小学校教員養成の尋常師範学校は府県の管一 理する学校として地方税で賄われており、私費生もいた一 が、公費助成を受ける生徒がほとんどだった。 ここで師範学校の性格について天野郁夫司学歴の社会一 史﹂︵平凡社ライブラリー︶を開いてみよう。まず、師範一 学校に入学できるのは一八八六年︵明治十九年︶の学校⋮ 令が出る前は十六歳から十八歳までまちまちだったが、 同令により十七歳と定められ、全国おなじ制度となった。 また九八年には十六歳に引き下げられている。︵男子の一 場 合 ︶ 。 師範学校は多くが二部制を採っていて、一部は高等小一 学校卒業者を対象とするコ

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ス で 当 初 の 修 業 年 限 は 四 年 、 二部は中学校卒業者を対象とするコ

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ス で 同 じ く 一 年 だ っ た。それにしても十七歳という入学資格は高等小学校を一 卒業してなおブランクのある年齢である。つまり学校令一 の基本には、尋常小学校、高等小学校、中学校、高等学一 校を本流とする考え方があり、おのずと尋常、高等の小一 学校とつながらない師範学校は傍流とならざるをえない。 ﹃学歴の社会史﹄は、中学校と比較しながら師範学校一 こベる 3

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を次のように位置づけている。 ﹁ ︵ 師 範 学 校 は ︶ いわば正規の学校体系から離れた学 校 ﹂ 。 ﹁ と も す れ ば 、 H 正 規 H の学校体系に乗り遅れた者た ち の ” 敗 者 復 活 “ の 場 ﹂ 。 ﹁ 正 規 の 中 等 学 校 に 行 く こ と の で き な い 若 者 に と っ て 、 ささやかではあるが立身出世、社会的な上昇移動の希 望 を 与 え 、 夢 を 見 さ せ て く れ る 学 校 ﹂ 。 こうして中学校、高等学校を経て帝国大学というコ

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スを表通りとすれば、師範学校は裏通りである。師範学 校生の多くは公費助成を受けており、保護者の経済力は 平均すれば中学校のほうが上回っていたようだ。 学力は高くても家計が貧しく中学校へ進学できない者 は師範学校に目を向けたわけで、中学生が師範学校生を ﹁ 地 方 税 ﹂ とやじった場面には図らずも格差の問題が見 え 隠 れ し て い た の だ っ た 。 四 ここで中学校と師範学校の対立を、実際に師範学校で 一八九四年︵明治二十一 七年︶新潟県柏崎に生まれ、一九一

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年同県の高田師範一 学校に入学、のち一九二七年︵昭和二年︶弁護士を開業一 し、戦後は日本社会党の結成に参加して衆議院議員を八一 期 務 め た 。 この人が語りおろした、山川恒夫編著﹃聞き書き猪一 俣浩三自伝﹄︵思想の科学社︶という本の中で、猪俣は師一 範学校へ入学したときの事情をこんなふうに語っている。 ﹁私は柏崎高等小学校卒業後、師範学校に進もうと考一 えた。本当は中学校へ行きたかったのだが、家にはその 資力がない。師範学校ならば、学費を含めたすべての費一 用が、県費で賄われることを聞いていたからだ。﹂ ひょっとすると﹁地方税﹂というやじを猪俣浩三も新一 潟の中学生から受けたのかもしれない。 ﹃聞き書き猪俣浩三自伝﹄にはもうひとっこんな証一 言 が あ る 。 一 当時師範学校には一部生と二部生の生徒がいて、一部一 生は中学校には行かずに入学した生徒、二部生は中学校一 一 部 生 は 修 業 年 限 一 学んだ人の証言に探ってみよう。 猪俣浩三という代議士がいた。 卒業後に編入学してきた生徒だった。

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が 四 年 、 小学校教員の免状が取得でき 二 部 生 は 一 年 で 、 た 一部生の中の裕福な家庭の出身者や二部生には、都 会に出るよりも地元で着実な職業に就かせたいという親 たちの意向が強く働いており、さらに師範学校卒業生の 兵役は六週間︵普通は二年間︶という思典があった。 一部生と二部生の関係はどうかといえば、 ﹃ 坊 っ ち ゃ ん﹄にある中学校と師範学校の反目に似て総じてよくな かったらしい。猪俣浩三はその理由について次のように 述 べ て い る 。 ﹁家庭環境の差が、両者の反目を募らせていた向きも あ っ た と 思 う 。 一部生の場合、どちらかといえば、経済 的にそれほど余裕のない家の子弟が大半だった。︵中略︶ 三部生の場合は、中学へ進学させられるだけの恵まれた 家庭の子弟がほとんどだった。彼らはたいがいの一部生 よ り 、 は る か に 裕 福 で あ っ た 。 ﹂ 同じ師範学校に学んでいても一部生と二部生は反目を 募らせていた。まして中学校と師範学校のように学校間 の対立となるとエスカレートしやすく、激石はそれを指 して﹁犬と猿のように仲が悪い﹂と書いたのだった。 五 撤石が書いているように中学校と師範学校の関係はす そこには帝国大一 学への道に通じた主流とそうではない傍流、表通りと裏一 通りの対立が内包されていたのであり、経済面から見て一 も格差の反映があったことは、先に述べた新潟の師範学一 校で学んだ猪俣浩三の証言からもよくわかる。 中学生も師範学校生も、勉強して学歴という階段を上一 がって世に出ようとする点ではまじめな若者たちだった。 にもかかわらず不仲になりやすかったのは、一般的に言っ てそれまでの生育歴の違いがあり、くわえてこれからの 進むべき道についても異なるイメージがあったことが挙一 げ ら れ る 。 裕福な家庭で、都会に出すよりも地元で着実な職業に∼ 就かせたいという意向の強い場合はともかく、農村を例一 にとれば、地主や富農の子弟で成績優秀な者は中学校か一 ら高等学校、帝国大学を目指し立身出世を図った。 これに対し貧農、小作農の子供で成績は良くても中学一 校への進学のかなわない者には公費の支給される師範学一 こぶる良くなかった。たどってみると、 こぺる

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校を経て小学校の先生になるというささやかな立身出世 の 道 が あ っ た 。 学力の面からは中学生と師範学校生はともにインテリ その対立は卵同士の突っ張り合いだった。 もっとも、中学校、高等学校、帝国大学の本流コ

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ス の の 卵 で あ り 、 人聞が師範学校出の小学教師を自分たちと同格のインテ リと見ていたかどうかは疑問がある。 東大教授で戦後の日本を代表する思想家・丸山員男は、 小学校の先生をどんなふうに見ていたか。 ﹁ 日 本 フ ア シ ズ ム の 思 想 と 運 動 ﹂ で、丸山は戦前日本の中間層を二つ の 型 に 分 け る 。 一つは﹁小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小 売商店の店主、大工棟梁、小地主ないし自作農上層、学 校教員、ことに小学校・青年学校の教員、村役場の吏員 役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神宮といった社会 層 ﹂ 。 もう一つは﹁都市におけるサラリーマン階級、いわゆ る文化人ないしジャーナリスト、 ︵ 教 授 と か 弁 護 士 と か ︶ ﹂ 。 その他自由知識業者 その上で、前者をファシズムの社会的基盤とし、さら 当 時 の 学 校

先 生 対 す る 社 ,6、 Zズ 的 制 約 は 強

十 把 に﹁第二のグループを本来のインテリゲンチャというな らば、第一のグループは疑似インテリゲンチャ、ないし は亜インテリゲンチャとでも呼ばれるべきもの﹂と述べ た 。 こ の 観 点 か ら す る と 中 学 校 は ﹁ 本 来 の イ ン テ リ ゲ ン チ ャ ﹂ を、師範学校は ﹁ 疑 似 イ ン テ リ ゲ ン チ ャ ﹂ を養成すると こ ろ と な る 。 小学校の先生への丸山のような視線も、中 学校と師範学校が対立する一つの要因だったのかもしれ EZ 。 ふ ’ h v v 一 」 /\ 東 京 府 立 一 中 、 旧制二品、東京帝国大学法学部という ﹁ 表 通 り ﹂ の コ

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スをたどってきた丸山員男の目に、 学教師は ﹁ 疑 似 イ ン テ リ ゲ ン チ ャ 、 ないしは亜インテリ ゲンチャとでも呼ばれるべきもの﹂ と 映 っ て い た 。 ひとからげに﹁疑似インテリゲンチャ﹂だの ﹁ フ ア シ ズ ムの社会的基盤﹂だのと言われでも困ってしまう。自身 の 考 え を 公 表 す る の は も と よ り 、 ひそかに思いを告げよ

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うとしても困難が伴った。映画﹁二十四の瞳﹂ で ﹁ 先 生 は軍人を好かんの?﹂と聞く軍人志望の児童に、高峰秀 子演じる大石先生が﹁先生は弱虫だから戦争はやっぱり 怖くて好きじゃない﹂と答えるシ

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ンがある。この応答 にしても当時の小学校の先生としては大変な勇気を要し た は ず だ 。 それはともかく激石が書いているように日露戦争の祝 勝式での序列は師範学校が中学校よりも上だった。両校 の喧嘩は中学校側が一歩譲る形で決着したが、中学校側 からすれば、師範学校の連中はしょせんは傍流で、裏通 りなのだからゆくゆくは逆転するのだといった余裕があっ た の で は な い か 。 丸山員男の言う﹁本来のインテリゲンチャ﹂ の ﹁ 疑 似 インテリゲンチャ、ないしは亜インテリゲンチャ﹂ "" -の 優 越 と 余 裕 で あ る 。 もちろん中学校卒のままでは師範学校卒とさほど変わ りはないが、高等学校へ入学すればエリートの度合いは 飛躍的に高まるから、中学生は高等学校生の予備軍とし て 師 範 学 校 生 と 対 立 し て い た 。 それに中学校に合格でき ず師範学校へ行っている生徒もいて、師範学校は ﹁ 敗 者 そうなると学力と経済力の優越意識を持つ中学生に対一 し劣等感にさいなまれる師範学校生がいて不思議はない。 学力の優秀な者ならなおさら小学校の教師なぞをしてい一 ては中学校から高等学校、帝国大学へ進んだ連中に遅れ一 をとってしまうと焦りが生じるだろう。 それでなくても帝国大学にはつながらない傍流と見る一 世 間 の 視 線 が あ る 。 自分はあの連中と比較してひけはとらないと思うとな一 おさらに慎悩は深まる。﹁地方税﹂というヤジには喧嘩一 で対抗できても、﹁本来のインテリゲンチャ﹂からの差一 別的視線には耐えられない。なんとかしたいと思う。 そのような事情は小林秀コ一という実在の青年をモデル一 にした田山花袋の長編小説﹃田舎教師﹄︵一九

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九 年 刊 ︶ 一 に も う か が わ れ る 。 一 ﹃田舎教師﹄の林清三は中学校は卒業したものの、家一 庭の経済事情により高等学校進学も、師範学校への編入一 学もかなわず、やむなく正規の免許状を持たない小学校一 復活機関﹂という性格を持っていた。 こ"'る の代用教員に就いた。明治三十四年だから﹃坊っちゃん﹄ とそれほど変わらない時期だ。 7

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友人たちが進学するのを見て、清三は自分だけ小学校 の田舎教師として人生を終えるのかと焦燥にかられる。 かといって職をなげうって進学を志すとなればリスクは 大 き い 。 一念発起して苦学し大学に学び、弁護士から代 議士になった猪俣浩三のように、より高い立身出世のチヤ ンスをつかもうとする勇気を欠いていた。清三は意気地 の な い 自 分 を 嘆 く ほ か な か っ た 。 ﹃ 田 舎 教 師 ﹄ は 、 もっと学問を積んで進学した連中と 肩をならべたいと考えるあまり、彼らの差別的視線をわ が内に取り込んでしまい、悩みを深めてしまった人物の 物 語 と し て 読 め る 。 天野都夫﹃学歴の社会史﹄ には文部省が一八九七年 ︵ 明 治 三 十 年 ︶ に行った小学校正教員の在職年数調査が 紹 介 さ れ て い る 。 それによると一年未満の退職者が十三 パ ー セ ン ト 、 一年から五年未満が三十三パーセントに上 り、教員になった者のうち半数近くが五年未満で辞めて い る 。 そこには給与などの待遇とともに社会的ステ

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タ スといった問題もあったと考えられる。 中学校と師範学校の対立のその後を第二次大戦後に眼 を移して見てみよう。学校制度は戦後の教育改革で大き一 く 変 わ っ た 。 激石が愛媛県尋常中学に赴任して約半世紀後の一九四一 七年︵昭和二十二年︶に学校教育法が施行され、新制の 学校が、まず同年に小、中学校、翌年に高等学校、そし一 て 四 九 年 に 大 学 が 発 足 し た 。 一 このころ、﹃坊っちゃん﹄と同じ愛媛県、ただし西条 市で小学校の代用教員をした高橋哲雄先生の証言がある。 高橋先生は一九二一一年神戸市生まれ。イギリス社会文化一 史を専攻する学究で、甲南大学と大阪商業大学の名誉教一 授 。 一 戦時中に母方の縁で愛媛の西条に疎開し西条中学︵現一 西条高校︶で学び、大阪の旧制高校へ進学した。一年終一 了時に学制改革となり、新制大学を受験したが失敗。翌一 年の受験まで浪人しながら正規の免許状を持たない代用一 教員として勤務した。中学校で一年飛び級していて、今一 七 でいえば高校三年生の年齢で代用教員をしていた。 と こ

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ろが先生の給料は、女子師範出の二十三歳の正教員より も高かった。それまで親切だった女先生は自分の給料が 代用教員より低いのを知り高橋先生に冷たくなったとい V

免許状どころか年齢も師範学校出の卒業生より低い自 分が代用とはいえ教員に就けたのは﹁旧制高校合格者と いうのは田舎では ﹁できる子﹂の鑑札だったのが役立つ た﹂からだと高橋先生はその著﹃東西食卓異聞﹄ ︵ ミ ネ ルヴア書房︶で述べている ﹃坊っちゃん﹄で喧嘩した旧制中学校と師範学校は新 しい学制で終わったが、この時期でも旧制中学から旧制 高校へ進学した者はそれだけでしかるべき待遇が受けら れ た 。 田舎の学校の教師もいいなと思い始めた高橋先生は、 勉強にとルソ

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ル ﹄ を 持 ち 歩 い て い た と こ ろ 、 遠縁に当たる女子師範出の先生から次のような直言を受 斗 J ﹄ ﹂ O L J ル ソ

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を読んだからといって良い教育者になれるわけ ではない。校長や教頭が読んでいる本は大衆文学の吉川 英治。教頭は吉川の﹃宮本武蔵﹄は理屈っぽくて読みに 彼らほど優秀な小学教師にはなれない。子どもたちを引一 きつけるのは別の次元の話。あなたは別の可能性を試み一 る べ き だ 。 一 大学入試へ向け遠縁の若者を励ます意味もあったのだ一 ろう。しかしそれ以上に、この言葉には、学歴や成績だ一 けでは教師という専門職は勤まるものではないとの師範一 学校出の意地と見識がうかがえる。ここにも形を変えた一 中学校と師範学校の緊張した関係があった。 八 戦後の教育界は文部省︵現文部科学省︶と日本教職員一 組合︵日教組︶の一一大勢力が占めた。二つの勢力の背後一 には自民党と社会党、国際政治の面では米ソの対立があっ た 。 二つの勢力は、一方が﹁日本と世界の諸悪はすべて反一 動政治の責任である﹂と言えば、他方が﹁組合運動に熱一 く い と こ ぼ し て い た 。 ﹃ 宮 本 武 蔵 ﹄ で挫折するのだから あなたの知性とは大違い。だけどあなたは逆立ちしても こベる 心な偏向教師が社会をだめにする元凶だ﹂と主張した。 9

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政治好きの教師と教育いじりの好きな官僚によるあまり 面 白 く な い 政 治 劇 だ っ た 。 と こ ろ で 、 二つの勢力の源流をたどると﹃坊っちゃん﹄ の 喧 嘩 に 行 き 着 く 。 それは明治維新以降の日本社会の歴 史 を 反 映 し て い る 。 そこであの小説で師範学校の生徒に ﹁地方税﹂とやじを飛ばした中学生の一人、仮に A 君 と し て そ の 後 を 描 い て み よ う 。 A 君はけつこう大きな農地を持つ地主の子供として生 まれた。小学校での成績が良く、家庭も進学するのを許 してくれた。無事、中学校を卒業し、難しい高等学校の 入試に合格し、帝国大学を経由してキャリア官僚となっ た 。 一方の勢力を代表する人生モデルである。 ついで師範学校へ進んだ B 君 の 場 合 。 彼 の 家 は 貧 し く 、 農 地 も な く 、 A 君の家のような地主の土地を借りて生活 する小作人だった。小学校の成績は良く、先生も中学校 への進学を勧めたけれどお金がなく、高等小学校へ行き、 その後、勉学をしたいと学費のかからない師範学校へ進 過度な単純化を承知で言えば、敗戦から高度経済成長一 の入り口辺りまでの文部省と日教組の対立は、見方を変一 えるとこの二つの人生のモデルの対立で、﹃坊っちゃん﹄ の 喧 嘩 を 引 き 継 ぐ 第 一 一 世 代 、 第 三 世 代 に よ る も の だ っ た 。 この教育をめぐる対立は、一面で、地主富農や都市の一 富裕層の子弟と、貧農小作や都市の貧困層の子弟という一 貧富の差や格差に基づく階級闘争でもあった。だからの一 ちに高度経済成長の結果、一億総中流化といわれる時期一 になると階級闘争は希薄化する。 ﹃坊っちゃん﹄の中学生と師範学校生の喧嘩から戦後一 に至るまで二つの人生モデルは対立した。しかし、両者一 はささやかであれ立身出世のためには勉学という苦労を一 重ね、まじめに努力しなければならないという考え方で一 は共通していた。その意味で、今日のまったり系の若者一 と は 異 な る 。 一 勉学を通じて学歴を積み、立身出世を志した人々の格一 差を背景とした﹃坊っちゃん﹄の喧嘩は、近代日本の教一 カし小学校の先生になった。もう一方の人生モデルであ んだ。しかし、彼らに負けてなるものかと一所懸命に努育の物語の重要な二章であった。 る

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四 日 市 か ら ⑪

東日本大震災と向き合

う女性たち

坂倉加代子︵

NPO 法人四日市 男 女 共 同 参 画 研 究 所 ︶ 東日本大震災の後、早速、私たちの NPO は被災地へ 支援物資を送ることを企てた。 女性たちが困っているであろう品物、生理用品とショー ツに限って集めることにする。阪神淡路大震災の時も、 同じ物を軽トラック一台分、現地へ送って、とても喜ば れ た 経 験 が あ っ た か ら だ 。 当時、市町村で備蓄されていた物品のリストに生理用 品は入っていなかったと聞く。それは、防災に携わる行 政や地域リーダーに女性がいないことに起因する。 阪神淡路大震災の後、”震災と女性“をテ

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マ に し た 議論が女性を中心に浮上した。この新しい動きは神戸の ”震災を女性の目で記録する会“の活動から始まったと 言える。先に閣議決定された国の第三次男女共同参画基 本計画の中にも、やっとこのテ

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マが記載された。その 成果なのか、今回の備蓄の中には生理用品が含まれてい一 たらしい。とは言うものの、東日本大震災後、国の防災一 会議のメンバーを見ると、十五人のうち女性は一人とい一 う始末。これで、女性や子どもや高齢者にやさしい支援一 ができるのだろうかと、また不安になってくる。今日も一 テレビニュースを見ていると、どこかの県の防災会議の一 模様が流れていた。画面の中は男性ばかり。ここに女性一 が一人もいないことを異様に思わないのだろうか。 ともあれ、私たちは東北へ支援物資を届ける準備を整一 え、三月二十三日と二十四日の二日間、四日市市男女共一 同参画センターの一室を借りて物品の受付けをした。 次から次へと呼びかけに賛同した女性たちが買い物袋一 いっぱいの品を持ってきてくれる。ある女性グループの一 リーダーは段ボール箱をいくつも台車に載せて﹁これで一 足りなかったらまた言ってね。また集めてくるからね﹂ と声を弾ませる。女性の行動の速いこと。気持のいいこ一 と。私は思わず何度も頭を下げていた。杖をついた高齢一 女性の﹁集めていただいてありがとう。何かしなければ一 と の 言 葉 に 励 ま さ れ も し た 。 高校の先生と生徒たちが持ってきてくれたショ

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ツ を 見ると一枚一枚ビニール袋に入れられ、

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・ 比 と 思 っ て い ま し た ﹂ こべる 11

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などサイズがそれぞれに記されている。生理用品もメー カーや種類別に段ボール箱にまとめられていた。それま で、ひとまとめに受付けていた私たちはハッとした。こ れでこそ”手渡す“ことが出来る。この小さな行為その ものがメッセージにもなる。でも、それは手間のかかる 面倒なことだった。部屋いっぱいに高く積まれた品物の 区分けは、気が遠くなるような作業である。避けたい気 持が強かったのだが、高校生たちの行為を無視すること は出来ず、大量のビニール袋を買いに走った。 こうしてまとめた物資を、ネットワークのある仙台のグ ループが立ち上げた”支援プロジェクト“に送ったのだ が 、 先 日 、 た ま た ま 、 このプロジェクトのリーダーが四 日市に来られ、講演会が開かれていた。お話の中で 日市から送っていただいた段ボール箱には品物やサイズ、 数量が書かれていたので、僕たちが仕分けする手聞が省 け、すぐそのまま避難所へ持って行き、すぐに届ける ことが出来ました﹂﹁女性たちは”いいんですか“”いい んですか“と手を合わせながら持っていきましたよ﹂と あり、﹁あっ、私たちのことだ。やってよかった﹂と密 かに喜びが込み上げてきて、仕分け作業を続けているう ちにメンバーたちの口数が段々に少なくなっていったこ と な ど を 思 い 出 し た 。 盛岡の女性センターの職員さんからは﹁避難所へ送ら れてくる女性の下着は標準サイズが大半なので、女性た ちは”私は比なのに、そんなこと言えんし“と辛抱して という話を聞いた。こんな非常時にサイ い る ん で す よ ﹂ ズを注文するなんてゼイタクだと思っているらしいのだ。 この状況だからこそ、ささやかなニ

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ズに応えるべきだ 四 ろう。普段の当たり前の生活に近づく安心感は、この何一 でもないようなことを叶えることかもしれない。私は本一 当の支援のあり方に触れた気がした。この大切なことを一 高校の先生と生徒たちに教えられたのだという思いに心一 が 引 き 締 ま っ た 。 その一方で、受付け作業中”人聞が、社会が変わって一 きたんじゃないか“と割り切れないものが残ったことも一 思 い 出 す 。 ﹁ 領 収 書 を い た だ け ま す か ﹂ ﹁ 必 ず 届 く ん で し ょ うね﹂などのセリフを耳にしたからである。物品を手渡一 し受け取る場面の写真を撮っていった人もいた。﹁この ことは新聞に載らないのですか﹂と尋ねられたこともあっ た。地元の新聞は毎日のように、見聞き全面に義損金額一 と氏名を掲載している。何のための領収書や証拠写真な一 のだろうか。新聞に載ることが、なぜ受付け条件に挙げ一

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ら れ る の か 。 そうか、私たちの NPO がまだ市民権を得 よ ぎ ていないということか。信じられない寂しささえ過った の だ っ た 。 品物を送って一ヶ月たった頃、 か。何の連絡もないのですが﹂と追い打ちがかかる。 ﹁たかだか生理用品ぐらいに﹂と、つい本音が口を衝い て出る。阪神淡路大震災では、このような反応はなかっ たのだが。今や、支援物資の受付けには領収書の発行な ど当然のことなのだろう。詳しい届け先や届いたことの ﹁どこへ届いたのです 確認、その後などの説明責任が問われる世の中になって いるということなのか。私たちが時代遅れなのかもしれ ないと思いつつも胴に落ちないことだった。 意欲が減退しているところへ、別のプロジェクトの知 が れ き か 人から﹁瓦礁を運んだり、家の泥を掻く時に着る、捨て るようなジャ

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ジのズボンと長靴が不足している﹂と電 話が入る。今回は知人や友人を中心に呼びかけて送った。 その後、”買い物袋“のリクエストもあり、擢災地の女 性たちの動きに思いを馳せる。 九月になって、冬物の女性用衣類が、わが家の車二台 が入る車庫いっぱいに集まった。友人と二人で仕分けた のだが、着古した物が多い。誰でも ﹁ も う い ら な い わ ﹂ という物を出すものだ。中に、値札のついたコ

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ト や セ

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一 ターがあると、かえって驚いてしまう。半分以上を再生一 ゴミに出すことにした。仕分ける基準は、被災地にいる一 老若の女性たちが”うれしい“”着たい“と思うか、思⋮ わないかにする。何でもいい、着れるものならというも一 の さ し は 持 た な い こ と に し た 。 一 五月のある日、四日市市男女共同参画センター主催の一 映画会の会場で、高校の新聞部で一緒だった先輩夫妻と一 出会う。その後入った喫茶店で、突然先輩が﹁脱原発を一 訴えるデモを、わが街四日市でやらないか。ささやかで一 も、組織や党派を超えた、市民のデモをしたい﹂と軽く一 言った。東京で行われた若者たちのデモの中で、一人の一 女性が持っていた”今まで原発に無関心でいてごめんな一 さい“と書いたプラカードに、先輩は触発されたのだと一 号 守 つ 。 こ の 四 日 市 で デ モ な ん て 無 謀 な こ と だ と 思 っ た が 、 物の弾みのように、その時誰かに肩を押されたように、 私は﹁やりましょうか﹂と言ってしまった。一緒にコ

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を飲んでいた私の友人二人を含め五人が中心にな一 り呼びかけることが決まる。デモをする日は、三月十一 一日から丁度半年過ぎた九月十一日。テーマにする言一 こぺる 13

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葉は”脱原発に舵を切れ“。 警察への申請に出向いたり、ビラの印刷、記者会見と、 慣れない者たちの前を、まるで人ごとのような感覚で物 事が進んでいく。駅前や繁華街で、デモにお誘いするビ ま ラを撒く。無視、拒否、避けていく人が多く、孤独感が 身体を走る。また勇気を出して前に踏み出すと、 がとう﹂と受け取ってくれる人にも出会う。 ﹁ あ り 七十パーセント以上の人が原発に反対しているという のに、この反応はどういうことだろう。 ﹁原発なんかいらん。福島の人のことを思うと腹が立 つ﹂と言っていた友人も﹁デモはねえ﹂と口ごもる。デ モなんかするとアカと思われるとか、夫に迷惑がかかる とか、デモアレルギーは強い。お調子者と言われでも、 私はもう後には引けない覚悟を持った。 デモの参加者は二十人でも、三十人でもいいと思って い た が 、 九 月 十 一 日 、 な ん と 五 十 人 を 超 え る 人 が 三 々 五 々 、 広 場 に 集 ま っ て き た 。 ” プ ラ カ ー ド や ゼ ッ ケ ン は ご ・ 自 由 に ご 用 意 を 。 服 装 も 自由。奇抜なコスチュームも可。楽器、サウンドも可“ など、案内のちらしに書いたことが現実の絵になった。 防護服を着た三人の若者を先頭に、老若男女が、車椅子 に乗った人が、街を歩く。子どもたちは、友人夫婦が用一 意してくれた色とりどりの風船を手にしてはしゃぐ。白一 転車を走らせていた中年女性がデモの仲間入りをして自一 転車を引く。ベビーカーを押す若いカップルがプラカ

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一 ドには”ほんとはデモなんかしたくないんだよ。原発の一 バカ“と書いであった。列のどこからともなく聞こえて一 くるハーモニカが吹く”ふるさと“の曲。いつの間にか一 シュプレヒコールならぬ、大合唱になる。私は三歳の孫一 と手をつないで歩いた。孫の体に、この場に漂う雰囲気一 と四キロメートル歩いた力と疲れはきっと残るだろう。 後日、わかったことなのだが、私たち

NPO

が 集 め た 一 生理用品など段ボール三十箱は送料が十万円もかかった一 そうだ。阪神淡路大震災の時と同じように自分たちのト一 ラックで運ぶことが出来なかったからだ。友人とその店一 の従業員、そしてその場に居合わせた絵本作家たちがだ一 まってその費用を調達してくれたことを知った。 東日本大震災後の私たちの活動を振り返ってみると、 いつも静かな行動で支えてくれた人たちがいたことに思 い至り、心労が消えていった。

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いのちを生きる⑮

葬られた金網

長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 台 風 十 五 号 に 背 中 を 押 さ れ 、 T 市教委に行くことにし た。理科の実験用金網にアスベストが含まれているかも しれないということで、正月明けに市教委が金網を引き 上げ、検査結果は必ず知らせると言ったのに、七ヶ月たっ ても音沙汰がないからだ。教頭に聞いても知らないと言 う。電話をかけてもちゃんと答えてもらえないだろう。 それならと心を決めた。時間休暇を出し、パスの中で何 は ん す う を 言 う べ き か 反 第 し た 。 十一階に教育委員会総務課がある。ガラス戸を開ける。 広い部屋、だ。保健給食課の奥に総務課、その奥に教育長 室があるのを確かめる。カウンターの手前の女性に、 ﹁教育行政相談員さんをお願いします﹂と声をかける。 私はとんでもないことを言ったらしい。何人かが小走り で集まり、相談している。少したって、顔の四角い若い ひ と が や っ て き た 。 一 ﹁相談の中味はどういうことでしょう。中味によって一 はここからちょっと遠いですが、教育センターに行って一 も ら っ た り 、 下 の 指 導 課 に 行 っ て も ら う こ と に な り ま す 。 ﹂ 一 ﹁ え っ 。 相 談 員 が 決 め ら れ て な い ん で す か ﹂ ﹁ で す か ら : ・ ﹂ 一 ﹁決められてないんですね。地教行法︵地方教育行政の一 組織および運営に関する法律︶に、﹁教育行政に関する一 相談に関する事務を行う職員を指定し、これを公表する一 ものとする︵第十九条八項︶﹂つでありますよね。日本一 の法律で決められているものが T 市 に な ぜ な い の で す か ﹂ 一 押 し 問 答 が さ ら に 続 く 。 一 ﹁なぜないか。あなた方はご存じないんですね。それ一 では教育長にお話を聞きたいです。呼んできてください﹂⋮ と言うと、彼は本をひっぱり出したり、上司の部屋と教一 育長室を何度も往復し、だいぶたって私の所へやってき一 た 。 ﹁ 教 育 長 は 来 客 中 で す 。 し ば ら く 体 が あ き ま せ ん 。 ﹂ 静かな教育長室が半分聞いた扉から見える。﹁待ちます。 時 間 は 十 分 あ り ま す の で 。 ﹂ ﹁ い や : ・ ﹂ 。 再 度 押 し 問 答 を した後、﹁こちらへおかけください﹂と、ようやく座ら こぺる せ て も ら っ た 。 四角い顔の彼と実験用金網撤収の担当者二人が、私の一回

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正面に座った。彼は、私の教育行政相談員についての質 問を聞き、一週間後に電話しますと約束して席を立った。 金網担当者は往生際が悪かった。﹁資料が奥の方に入っ ている。重くてなかなか持ち出せない﹂と、稚拙な言い 訳をした。﹁いや、待ちます﹂と言うと、やがて厚さ約 三センチ A 4 版ファイル一冊を取り出してきた。 担当者は、﹁すでに校長には報告を出しました。八校 の 実 験 用 金 網 ︵ = 一 校 は 一 一 十 枚 、 五 校 は 十 枚 ︶ か ら ア ス ベ ストが検出されました﹂と説明。﹁残りの五十二校は大 丈夫だったのですか﹂﹁いや、他の金網は古すぎるなど の理由でメーカーがはっきりせず、各メーカーに送るこ とができなかったので、前島クリーンセンターで処分し てもらいました。﹂﹁えっ?!処分したらアスベストが含 まれていたかどうかわからないじゃないですか!﹂﹁ク リーンセンターでは専門的に処分してもらったので、大 丈夫です。﹂﹁健康被害のことを心配しているのです!ど のように子どもや先生たちの健康調査をするのですか。 特に中学校の理科の先生は、最長で四十年近く、実験学 習の際は週に十何時間ずつ、アスベストが燃やされる場 に立ち会ったことになり、アスベスト被害にあう確率が 一 番 高 い と 思 い ま す よ 。 ﹂ ﹁ そ れ で 、 ア ス ベ ス ト の 入 っ て 今 の 金 一 話が全くかみ合わない。私は実直そうな金網担当者の一 顔を眺めた。彼は目を伏せていた。苛ついたら負けだ。 ﹁子どもや該当教員の健康被害の検査をされる予定は一 あるんですか﹂と尋ねると、彼は急に決然と答えた。 ﹁先生たちの健康のことなら、教職員課が担当です。﹂ ﹁それでは、あなたが教職員課に必ず伝えてください。 そして、連絡した内容書類を私に送ってください。﹂﹁い や 、 そ れ は メ モ に な り ま す 。 ﹂ いない新しい金網と交換したのではないですか。 網 は 安 全 で す 。 ﹂ メモでもいいから必ず送るように、そして校長たちに 渡したという報告書類を連絡便で学校に送るように言っ て席を立った。一時間以上経過していた。帰り際に﹁こ の件を保護者や子どもたちに公表しているのですか﹂と 尋ねると、金網氏は目をそらせた。 これがお役所仕事というものか。疲れと怒りが同時に やってきた。福島第一原発事故に関わる原子力保安院の 記者会見がだぶる。五十二校の金網を検査せずに捨てて も、彼らの仕事はそれで終わりになるのだ。このままで は終わらせないぞ!市役所前のハナミズキの並木を見つ め な が ら 想 い を め ぐ ら せ た 。

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濃水飛山記 マ﹃こぺる﹄を岐阜で引き受けてち ょうど一年。編集・入稿・校正のあ と、濃水飛山記を送って、しばし休 息。毎月二十日すぎ、出来上がった ばかりの﹃こぺる﹄を戸田二郎さん から受け取り、家に帰って繰り返し 読む。そして小さなミスを見つけて は落ち込む日々でありました。要す る に 、 わ た し は 気 が 小 さ い ん で す 。 購読部数は約八百。基金を取り崩す ことなくやってこられたのは、みな さ ん の お か げ で す 。 お 礼 を 申 し ま す 。 マただ、本誌は二 O 一 三 年 三 月 号 を もって終わります。それは、わたし の決心であるだけでなく、総会で承 認 し て も ら っ た こ と 。 そ こ で 今 後 、 二年分の購読料をお送りいただいて もお返しするととになります。二 O 一 一 一 年 四 月 号 以 降 の 購 読 料 金 に つ き ましてはできるだけ早く個別にお知 ら せ す る つ も り で す 。 マ平川茂さんから、﹁アメリカにお け る ﹁ 両 側 か ら 超 え る ﹂ 試 み ︵ 続 ︶ ﹂ ︵

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。 日 ・ 7 ︶について訂正のお 申 し 出 が あ り ま し た 。 著 者 は 一 一 人 と も﹁白人﹂としたけれど、ヤンシ ー さ ん は ﹁ 黒 人 ﹂ で あ る と の こ と 。 書き手の﹁人種﹂が論議にどのよ う に か か わ っ て い る か は 不 明 だ と 、 平 川 さ ん の メ

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ル に あ り ま し た 。 ﹁ 部 落民でない者に何がわかるか﹂と 言われて、一瞬でも沈黙したこと の あ る わ た し と し て は ﹁ 資 格 と 立 場 ﹂ の問題はいまも重要なテ

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マであ りつづけています。平川さんの続 篇 が 楽 し み で す 。 マ京都の河原町通り三条下る二筋 目東入る北側に﹁オーシャンパ

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・ リラ亭﹂がありました。マスター の木村勝次さんが亡くなったあと は長谷昭さんが﹁カリン亭﹂と名 前を変えて十年間引き継ぎ、その カリン亭が閉じられて十一年。こ の 十 月 二 十 九 日 、 二 回 目 の ﹁ リ ラ 亭 ・ カ リ ン 亭 同 窓 会 ﹂ が 聞 か れ ま す 。 ﹁ 無 縁社会﹂という言葉とともに衝撃 の映像がテレビに流れたのは昨年 一月のことでしたが、人は血縁・ 地縁・社縁などにつながって生き 合っている。その縁が断ち切られ ての、あるいはその縁を断ち切っ ての﹁無縁死三万二千人﹂はあまり に も 哀 し い 。 縁 は 異 な も の 味 な も の 。 酒場で席をともにした人びとが縁を 結ぶこともある。称して酒縁。その 縁 に つ な が れ て 一 夜 を 飲 み 明 か す 。 なかなかいいでしょ? マ今月の読書からー・柴田トヨ﹃百 は や 歳﹄︵飛鳥新社、日・ 9 ︶。流行り ものにそっぽを向いてきた。おかげ で 金 子 み す ゾ に 出 会 う の が 遅 れ た 。 相 田 み つ を に は ま だ 出 会 っ て い な い 。 柴田トヨさんと同時代に出会えてよ かった、よかった。・鹿野政直﹃沖 縄 の 戦 後 思 想 を 考 え る ﹄ ︵ 岩 波 書 店 、 日 ・ 9 ︶。書架中の沖縄関連の本は いたって貧しい。中野好夫・新崎盛 輝 ﹃ 沖 縄 問 題 二 十 年 ﹄ ︵ 岩 波 新 書 、 白 ・ 6 ︶のほかは対談に備えて急い で読んだ鹿野さんの作品があるだけ だ。わたしの読書にどこか大きな欠 落 が あ っ た こ と は ま ち が い な い 。 マ ﹃ こ ぺ る ﹄ 研 究 会 は 月 日 日 ︵ 土 ︶ 2時から。京都府部落解放センター 3階。話題提供者は谷亜生さん。忘 年会は 5 時 半 か ら 新 羅 で 。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ 発行者こベる刊行会(代表藤田敬一) 発行所岐阜市西改回字川向187-4 藤田敬一方 干501ー1161 Tel.&F臼x.058-239-5348 E-mail [email protected] 印刷・発送 戸田写植(干501"60'5 岐阜県笠松町円時寺8381 Te[C;S-388-18制 定価300円 年 間 購 読 料4000円 郵便振替・01010干6141 銀行振替十六銀行正木支店 こベる刊行会代表藤田敬一名義 普通口座 1418253 --'lo喧 第224号 国〆’\乏矛 2011年 11月25日発行

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U ニニ四号一一 O 二年十一月二十五日発行︵毎月一回二十五日発行︶ 一九九三年五月二十七日第三種郵便物認可 定 価 三 百 円

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