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統計的認識と社会科学的認識 : フラスケムパーの所論について

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統計的認識と社会科学的認識

       フラスケムパーの所論についてt

回  統計的認識が量的認識であるという意識はドイツ社会統計学の生成の当初よりもたれていた意識である。クニース ︵囚■囚註Φω︶は﹁独立の学問としての統計学﹂の名を政治算術に認証するとぎ、政治箕術の基本的特徴の一つを﹁一切の事        実が精確な数字的表示をともなわねばならぬという絶対的な条件によって、自ら材料の淘汰が行われる﹂こととする。リュ         ーメリン︵∩甲. 国訳ヨΦ一一b︶は数字が統計方法の性格的特徴であるとし、統計方法を数的方法とよぶ方が適切であるといった。 マイヤー︵9ζ餌貿︶は、統計方法の本質を﹁数量的集団観察﹂と規定し、これを社会観察に対して使用することによって        形成される統計学を精密社会科学とした。この様にドイヅ社会統計学の古典家達は、量的性格を統計的認識の基本的特徴 としたが、しかし統計的認識を量的認識として基礎づけることにおいては、その努力は必ずしも十分でなかった。リュー メリンは統計的認識を広義における類的把握としてとらえ、マイヤーはこれを社会に定着させることに関心を向けた。要 するに前期ドイツ社会統計学においては、むしろ統計的認識の質的契機が主たる関心の対象となっていたのである。  後期ドイツ社会統計学になると、統計的認識を量的認識として基礎づけようとする志向が成熟する。ジージェック ︵男N凶N傷︶は統計方法を統計数の獲得および解釈の手続から成るものとしてとらえ、その論理的構造に接近した。ミュー      統計的認識と社会科学的認識      一七

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     統計的認識と社会科学的認識      一八        ラー︵旨ζ邑Φ同︶は、統計的認識における質と量との統一に努力する。これらの努力はティッシャー︵︾■芝葺ゲ臼︶、フラス ケムパー︵℃閏﹃ω犀簿ヨ℃¢H︶、 ワーゲマン︵国芝・σq・器暮︶におよんで明らかに自撹的なものとなるのである。 ティッシャー         は、統計を﹁集合的全体の数的記述﹂とし、この基本的性質を可能にする方法的概念を誘導する。同様のいな、より組識 な試みはフラスケムパーによって遂行される。ワーゲマンは数学が﹁純粋数の学﹂であるのに対して、統計学は﹁経験数        の学﹂であるとし、経験数の論理的前提を問題にする。  要するに、統計的認識を量的認識として墓礎づける意識的な努力が㎝九二〇年末より三〇年代にかけてドイツ社会統計 学の基本的特徴の一つをなすにいたるのである。          ﹁統計の本質は祉会的事実の数的説明である﹂一すでに指摘したように、フラスケムパーは統計的認識を量的認識と して意識し、この意識において社会科学的領域における統計的認識の形式的論理的構造を明かにすることにつとめ、この 部面において多くの寄与をなした。いまこれを簡単に要約すると次のとおりである。      ,  一、量的認識としての統計的認識の対象の形式的規定。          二、量的認識形式の一般的制約一﹁事論理と数論理の平行論﹂。          三、量的認識としての統計的認識がとる論理的方向の規定、記述的方向と法則的方向の規定。﹁認識目標の二元論﹂。  四、量的認識としての統計的認識が社会科学的認識においてもつ意義と限界の規定。  フラスケムパーにおいては、認識は主観による現実事態の入工的改造として現れる。統計的認識もまたこれが例外をな すものではない。かくして現実事態をいかに改造し認識の対象を構成するか、認識の対象の規定が根本的な問題となる。 いまや、統計的認識の対象は、統計的認識の対象構成として現れる。構成には形式が必要である。そして、この形式こそ 統計方法における本質的なものを形成する。かくして、統計的認識を量的認識として基礎づけようとするフラスケムパー

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の努方ば、量的認識のための対象構成、とくにその形式を規定することに集中せざるを得ないQ  統計的認識の対象構成、とくにその形式の規定として、フラスケムパーが根本的な意義をあたえるのは統計的集団論で ある。  本稿は以下においてフラスケムパーの統計的集団の規定を分析することによ・って統計的認識の量的性格に関するフラス ケムパーの見解を明かにすることを課題とす.る。   以下、引用.箇所および典拠の指摘にあたってフラスケムパーの主要労作の若干につき次の略称を用い︵括弧内︶、また邦訳も次に掲出  するものによった。    H O﹁8卑空山臼OQ蜂当職ぎど≧醇①目①ぼΦGり仲p蔚叶量p>墨こ巳お■大橋11足利訳・﹃一般統計学﹄・昭和二八︵一九五三︶年・農林  統計協会刊︹︾目αq・ω菖    卜。 じuΦξ9σq讐①ぎΦH日並。腎匹。目ω雷蔚静。げ8]≦霧ω①口埴≧一σq.QQけ﹀目。rミ・ゆα.℃H露。。.︹ω涌出器ω窪︺    。。 ℃δ窪Φ日臣臼ごOす。げ。・円畝σq犀Φ詳..貯伍興ω母蔚畠ぎ≧蒔ωけ︾円﹃二HO.しdαこ一配り.︹臼Φざ冨﹃け蒔評①一翼    幽 ω富蔚猷ぎ﹀臥σq聾9UΦ口響﹃Φ閃。諾9目σqM年。。.<.いしd昂葺け︹ω欝気江δ ①内●姿冨の、∪δω什卯二ω鉱吋卯一ωω巴び馨㊤口幽戯①芝δoユΦ口ωoず鷺r一。。㎝O●訳・三二七頁。 ク二二スはのべている一﹁この統計学点政治算術一引用  者︺は、人間の協同生活に対して重要な意義を有する精確な数字的表示によって保証された精細な知識を獲得する﹂ ︵訳・三二八頁︶。 ②O・男β日霞ジN霞目冨。臨①αΦ同uD3欝江ぎ7目。。①。。●国’同。。謹﹂﹃鴻①恥ΦpF︾亀旨酔Nρr目。。瞬γQっ。卜。おF卜。刈り博訳・三八七および四五六 ’頁。リェーメリンはのべている一﹁統計学が今日一般に何等かの数え上げの結果と解されていることはまさに統計的に証明することが出来ることで  ある﹂ ︵勲費ρ・Qα・N卜。④・訳・二二六頁︶。1﹁数的に斎えた特徴によって概念を規定するあの方法に、統計的方法というかわりに数的方法なる名  称を与え、これにもとつく技術的学科に社会経験学︵ωoN巨Φ国B第二ω島評︶の名称を与え、これに対して統計学なる名称を国情論に許したとしたら、  その方が多分一層よかったかもしれないし、いろいろの混乱を避けられたかも知れない﹂ ︵勲pOこω.b。﹃ρ訳・四五六頁︶。 ③.寓轟きOΦ器欝B霧乙・碍寄一瓜目Φ①ω亀ω。﹃国璽総ΦσΦ口﹄。。刈8ω﹂ω一門.訳一入頁。ω鼠二ω什騨口宣O①ωΦ房9四⇒ω冨箒ρ月冨霞暮﹃9①誓蝕。・二ぎ  一・︾録一・Q自・卜。ドb。.︾自一●Qo.。。一1。。.訳・七九f八二頁。 マイヤーはのべているi﹁数量関係の悉皆集団観察という単なる方法に対して統計とい  う名称を廃止し一それ自身としては全く望ましいことであるのだが、﹁統計﹂方法といヶ表現の代りに﹁数量的﹂方法あるいは﹁計数﹂方法︵どう  よんだらよいかと問われるならば、私は目下のところ後者の方を提言したい︶という名称をあてようとする試みは効果がないことがわかってきたしと 統計的認識と社会科学的認識 一九 ■

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    統計的認識と社会科学的認識       二〇  ︵↓サΦo﹃①甑。αoゴΦω什鋤鉱除Hぎb。.︾自h︸ω.ωb。幽訳・八二頁︶。 ④N冨①ぎO円§α甑ω。りα巽oQ3けお二ぎP>ξいω■卜。一ω ∪一Φこ≧霞Φ日ΦヨΦ=巷鳥&①二三ΦN芭δ、.皿欝二ω繍ωo二丁o停。ΩΦ昌δ鐸ρ︸9楠﹁Z障■  ¢’Qo¢一ωQ。.じdα●︵しQ. HりO一四Φ− Qoω“ しu山.︶一〇。。9ω■2ω・ ⑤ ]≦口巨Φき日げ8踏Φ信コα日Φ9昌鱒鮎興ω3口。。鉱ぎおb。メω●恥i切● ⑥目置。冨ひ○﹁§巳①αq毒αqユ①巴ω8ヨ寓Fおb。ρω■蕊hい拙稿﹃ティッシャーの統計学﹄・経済論叢・第五六巻第一号・昭和一八年︵一九四三︶  年・九六頁。 ⑦芝轟Φヨ磐pZ町器器嘗①αq①一ユ興Q。訂房訟﹃おω9QQ.b・9hい ⑧国霧冨匿需び零〇三Φ旨紆﹃9虫9母鉱αq冨=口α賃ω什四ゴω鉱ぎ≧飼●QQ鉾︾円9・藁㊤.じdユ呈露POQ.卜。藁 ⑨ 男冨ω犀餌口唱ΦびP騨○こOQ.卜。這”⋮QQ什p。鉱ω江犀¢コロ自p。ω瞬ΦωΦ叶Nαo同O円。ωω①コN国三Φ昌糟諺=σq.しQ﹃︾需F一9じdαこ一㊤NS拙稿﹃大量観察と大数  観察﹄・経済論叢・第四七巻第五号・昭和一三︵一九三八︶年・一四五頁、﹃フラスケムパーにおける社会統計学の構想﹄・彦根論叢・第一四号・昭和  二八︵一九五三︶年・二七−八頁。 ⑩閏賦ω穴9日ロΦひ9ΦbJ①⊆①葺q5αqO①同N餌三冒﹃象ΦωoN冨一毛ジω①コωo冨砕Φロー♪H茜・ωけ:♪需げ二b。ω●切皇おωω・拙稿﹃フラスケムパーにおける社  会統計学の構想﹄・前掲誌・三三一五頁。 二  前期ドイツ祉会統計学においては統計的集団概念は外在的であるが、後期ドイツ祉会統計学になると事態に変化が生じ       ①      ②      、 内在的なものとして現れる。ジージェックは統計的集団を観念的統一体と規定した。フラスケムパーはこの傾向を継承す るばかりでなく、むしろ徹底化するというべきである。  フラスケムパーが、統計には統計的集団が存在することが前提されるというとさ、あるいは、統計的集団を統計の対象 と規定するとぎ、たしかに、統計的集団は客観的に実在するものと考えられているかのごとくであるけれども、実はそう ではないのである。ティッシャーの著作評においてフラスヶムパーはいっている一1﹁統計的集団は、概観することの出 来ぬ、特に流動変転して止まぬ現象の現実事態を認識克服するための抽象的構成物である﹂とQげ.h、2界FQ。酔.描卜。.ゆ3

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ぢωρψ鼻2︶α現実事態と統計的集団とは論理学的認識論的に相異るものであり、両者は明確に区別されねばならないので ある。すなわち、統計的集団は概観することの出来ぬ客観的実在を認識克服するための統計的認識手当であり、客観的実 在の抽象ないし加工変形を通じて主観によって構成されるものと観念されているのである。統計的集団は、フラスケムパ ーにおいて明かに内在的なものとして現れる。  統計的集団概念の内在化は認識論的には客観的実在すなわち意識とは独立に存在する客体の回避を意味する。しかしい         かに回避してもこれを抹殺することは出来ない。ジージェックは二重の対象規定を用意せざるを得なかったが、いまやフ ラスケムパーは統計的集団を﹁認識手段﹂とみてジ㌃ジェックのあいまいさをとりのぞく。その背後には主観の構成的機 能の一段の強調と対象構成の形式への一段の掘り下げがある。これらについては行論のうちに示されるであろう。ともか く、統計的集団概念の内在化は、フラスケムパーにおいてほぼ完了したということが出来、るのである。客観的実在のために        ﹁具体的集団現象﹂という概念を残しているが一。  では、統計的集団が現実事態の抽象的構成物であるとすれば、それはいかなる原理および形式によって構成されるか、 現実事態の人工的構成の程度、現実事態の模写の程度はどうであるか。まさにフラスケムパーの統計的集団論はこれらの 論理学的認識論的設問を背景としつつ構成される。統計的集団の論理学的認識論的規定は一段と緻密になる。  ①拙稿﹃マイヤーと実体科学としての統計学﹄・彦根論叢・第七三号・昭和三五︵一九六〇︶年・五一頁、﹃統計的集団概念について﹄・彦根論叢・第   六五−七合併号・昭和三五︵一九六〇︶年・一二,九頁。  ②鰻NΦぎO建巳誌ωωq興ω叶p器鉱ぎト。.﹀計いおb。G。層ω.曽Φ二巳三曾昌ω騎。げ。口匿ざ濠江ヨω房畠Φωβ駐江ピω幹鼠8讐ω6ゴ註処し㊤■   旨αq﹂鎗蒔匂ψ㊦9 前掲拙稿﹃統計的集団概念について﹄・前掲誌・一二九頁。  ③N冒①ぎ望Φ=≧茜Φ日Φ冒¢..諺Ω象Φ二QQ需臥Φ ①.、ω3肝駐9Φ冒Φ導&Φ巳Φ匿ρ浮晶.Z界q・ωけ.しω。。・b﹂穿︵ω.司。与ρG。も。矯ゆ窪・︶ち.@①.  ④固pω冨ヨ唱。びゅ¢9げΦω胃Φoピ品︽爵ω。冨ぴO二丁冨σq巷ゆqユ①居Go蜜熱時L廻り︾曾9h.2二月.o。什■藁認●切騨︵ω.岡。茜ρ謡.bdαγおωP   ω.躯罐●      統計的認識と社会科学的認識      二一

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統計的認識と社会科学的認識 二二  統計的集団の構成における現実事態の抽象と変形としてフラスヶムパーは二つの方向を考える。  ω 静態集団と動態集団  現実事態の抽象は時間的および空間的抽象を含む。統計的集団の静態集団︵bd。D・貯巳。・ヨ婁巴および動態集団︵野壽びq雪σQ㌣ ヨ婁Φ︶への分類規定より、われわれは統計的集団の構成における時間的および空間的抽象をフラスケムパーがいかに考え ていたかをを知ることがでぎるのである。  フラスケムパーはいっている一﹁社会的現実の概観することのできぬ多様な構造物と事実は不断に変化している。わ れわれはそこでいかにして数え測るか? このことは概念操作によってのみ可能であり、しかも二重の観点をもって、し かしその時々に一面的に現実に近づくというやり方によってである﹂と︵≧蒔ω叶こGD■ω9訳・四〇頁︶。  @ 社会的現実過程の或る瞬間の横断面を擬制的に固定化することによって一。こうして成立するものが静態集団で ある。 ﹁静態集団は同時に併存する事例の総体である﹂︵≧醇ωfω.ω堅忍・四一頁︶。  回  ﹁事物の在高の上に進む変動の時間的継起だけを分離してとらえる﹂ことによってi。こうして動態集団が成立 する。 ﹁動態集団は時間的に継起する事例の総体である﹂︵≧蒔ω8ψω9訳・四二頁︶。  ② 形式的同種性  統計的集団の構成は形式的同種性︵す室戸①O断。訂・轟犀①5の要請にもとづいておこなわれる。 形式的同種性の概念はフ ラスケムパーになると一段と展開され精緻なものとなる。形式的同種性は同種性の一形態である。ここに同種性とは 所説によると﹁実質的に意味のある上位概念への従属可能性﹂を意味する。同種の個別事例はそれが従属させられる上 位概念に含まれる徴表においては一致するが、その他の点においては相異る。したがって同種性は完全な同等性︵○﹃。〒 冨・伶︶で拡なく部分約な同等性である︵O互。冨三σq瞠・搾⑳﹄oべ一。。︶。 統計方法において同種性は﹁事物の整序原理﹂U概念構

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成の原理および比較の基礎として意義を有するが、しかしその役割が格別重大なものとなるのは計数の基礎としてである ︵○巨。訂aσqざ♂Q。﹁卜。8一↑O.︶。  同種性は計数の前提.条件を構成する。 ﹁数えられるべぎ事物はすべて或る程度において同種でなければならず、一つの 上位概念に従属させられねばならない﹂ ︵Ω①諄鋤aσq冨びG。b8。︶。ところで見出されるべき数的規定性が認識価値をもつた めには、事物的実体的意味において同種のものが総括されることが必要であるが、しかし﹁現実には統計的集団の単位間 における内的ないし事物的同種性はただちには得られないし、また常に存在するとはかぎらない﹂︵2①諄仁。三σq冨ぢω.睡H.︶。 これは二つの理由による。先ず第一に、調査を実施するためには、容易に確認し得る、外的に認識し得る徴表を基礎とし なければならぬという調査技術上の理由ととも、これだけではなく、客体たる社会的現実の異質的連続性による。社会的 事実は  さきにのべたように一流動的であり、その質的多様性は一つの質的に楷丁づけられた連続を形成している。 それゆえに連続の人工的分割による不連続化、異質のものおよび過渡的なものの等質化および規格化なしに同種性を得る ことは出来ない。かくして同種性は外的形式的なものとならざるを得ない︵○巨。訂aσq匿びω﹄H一i鼻︶。  かくして、統計的集団についてさしあたり次の規定が与えられる一﹁統計的集団とは同種の、しかし変化する単位の 総体である﹂︵≧蒔ω酢.ω.ωピ訳・三七頁︶。  われわれは以上において、フラスヶムパーの統計的集団およびそれにおける主観の構成的機能、とぐにその形式の規定 ・をみた。所説から明かなように、フラスケムパーは数から出発する。数はしかも現実事態そのものの規定ではなく、論理 的形式として現れ、加工変形を通じて現実事態がこれにおしこめられる。ここに主観の構成的機能の著しい強調がある。 ところで、数は﹁一度﹂の集合を前提する。それは等質的な・しかもこのことの上に成立するところの量を等しくする・ ものの総体である。これは、量が等質の上に成立すること、および、数が量の完全な規定性であることによる。フラスケ      統計的認識と社会科学的認識       二三 ’

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     統計的認識と社会科学的認識       二四 ムパーは数の論理的性質を前提し、これを可能にするように現実事態を変形加工して﹁一書の集合﹂を成立させる。これ が統計的集団である。統計的集団は現実事態の変形加工されたものであるから、客体そのものというよりはむしろ認識内        容であり、ゾイテマン︵一︵■ ωΦ口けΦ口]Pづ︼]︶のいうように表示︹﹀⇔し。。・品①︶なのである。  ①拙稿﹃ジージェックと形式的同種性の問題﹄・経済論叢・第五二巻第二号・昭和一六︵一九四一︶年・﹃統計的集団に於ける形式的同種性﹄・経済論   叢。第四八巻第五号・昭和一四︵一九三九︶年・参照。  ②ωΦ三Φ営磐pU器O彗NΦα自宗匿ωゴ犀量鮎α一〇ぴΦ冨旨ω9Φ巳①=①Φ.︸げ■ナ閉界FQQ一こおP切P︵ω糟哨。蒔①刈帆.b﹂e樋這b。PoQ.認卜。.  統計的集団に関するフラスケムパーの上記の規定は、所説によれば、﹁不連続的集団﹂︵9時。黛冒9Φ島。ゴ①寓騨し。器︶を考慮し つつ与えられたものである。 ﹁不連続的集団﹂とは、たがいに分離されて併存継起する個.別的事物の総体からなる。その 例としては、︼国の人ロ・経営・出生・死亡があげられる。ところでフラスケムパーは統計的集団のいま一つの種類とし て﹁連続的集団﹂︵ぎコ仲5臼Φ島。冨ζ・。・。。①︶をあげる。﹁連続的集団﹂とは例えば、一国の鉄道の延長・国富・発電電力量・耕        地面積等であって、 ﹁分離された単位に分解することが出来ぬ総体現象﹂である。そこには単位が存在しない。すなわち 独立に存在する要素の欠如が、換言すると、﹁断続のない合流﹂が連続的集団の持徴をなす︵望ζ婁貫ψ㎝ω㊤1お⋮≧圃 Gり叶.ψωω幽訳・三九頁︶。  連続的集団も数的規定性を得るための手段である。連続的集団の数的規定は、計量による︵の幹ζ・・。。・Pψ躍ご≧蒔ωけ堵 9ω9訳・三九頁︶。計量は規定せらるべぎものを二老しに分割し、分割された断片の個数を数えなければならず、した がって、ここに﹁一等﹂の集合が形成される。ただし﹁一者﹂となる個別事例が客観的に与えられていないので、全く恣 意的に﹁一山﹂を定めなければならない。通常は測定単位がとられる。かくして、 ﹁一儲﹂への分割も、それを通じて 形成される﹁一者﹂の集合も全く主観的擬制的なものでしかない。フラスヶムパーはのべているi﹁不連続的集団の調

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査単位の設定に際して生ずる悠意は現象そのものの性質の上に限界をみいだすのに対して、連続的現象の測定単位の設定 の際における恣意は無制限であるしと︵ωけ 竃90口もりΦ口“Qo.㎝幽N・︶。  フラスケムパーの以上の所論について若干の分析をつけ加えよう。  ω フラスケムパーか不連続的集団について論ずるとき、統計的集団がすでに統計上の量に解消されていることはすで に指摘したとおりである。連続的集団においてはこのこどがより明確な形で現れている。すなわち、フラスケムパーが連         続的集団とするものは、ジージェックのいう﹁連続的量的標識の和﹂において規定される量であり、かかるものとしての          統計上の量である。  ② フラスケムパーは調査単位数および﹁調査標識の和﹂を量という、論理的により一般的なものへ解消し、かわりに 数的規定に関係して意味をもつ論理的区別を導入している。  連続と不連続という論理的性格の相異は、数的規定の仕方を異ならしめる。  不連続量の数的規定は簡単である。不連続量は個別的なものからなる量であり、 ﹁自ら定まった究極の単位﹂がある。 個別的な個々のものは現実に質と量をもっているから質の捨象により量という側面が純粋に示される。そしてこの抽象に おいて、単位は数的な一であり、不連続量は自然数によって完全な量的規定性を得ることがでぎる。         連続量になると事態は相異る。連続量には形式的には究極の単位がなく、量的には限りなく分割することができる。こ れを数的に規定するのは、単位量を人為的に定め、これらの集合に連続量全体を変えなければならない。         連続量は個別事例においても集合体においても成立する。たとえば個人の所得は前者であり、一国の工業生産額は後者 である。問題は後者、すなわち集合体の連続量である。これを分解すると集合体の要素における連続量一要素的連続量         ︵連続的量的標識の変異︶に到達するであろう。これが分解の限界を形成する。これ以⊥の分解は社会的性格の捨象に導く。      統計的認識と社会科学的認識      二五

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     統計的認識と社会科学的認識       二六 フラスヶムパーにおける測定単位への分解は過剰である。もっとも要素的連続量の数的規定のために、換言すると、計量 のために、測定単位への分解が行われるが、だからといって集合体の連続的量的規定性の発見を測定単位への分解に還元 することは許されない。  連続的集団も不連続集団もともに﹁一者﹂の集合である。二者しが客観的実在を基礎とするか、また観念的なもので        あるか、という相異があるけれども、 ﹁一者﹂の集合であることにはかわりない。そこにはあきらかに単位の概念の拡 張、これを基礎とする統計的集団概念の拡張がおこなわれているのである。  ドイツ社会統計学の生成の当初より基本的概念としてとりあっかわれて来た統計的集団概念は、その基礎として個別事 例の実在を前提し、この前提の下においてのみ意味をもつ。フラスケムパーは個別事例の実在性を第二義的なものとする ことによってこの概念を拡張した。このことは統計的集団概念を無意義なものとし、統計的集団概念の崩壊に導かざるを 得ない。二十世紀に入ってド不ツ社会統計学が経験する学問的性質および論理的構造の変質とともに大ぎく変化する統計        的集団概念はフラスケムパーにおいていまや崩壊の前に立たされるのである。フラスケムパーはいっている。  ﹁用語 的には二つの方法を考慮することができるのであって、集団概念の外に新しい概念を導入するか、そのいずれかである。 後者は、これについて統計理論家の間に一致が得られないかぎり合理的でないと私はおもう。それゆえに以下においては 非常に不満足であるが、集団を統計の一般対象と解し、不連続的集団と連続的集団を区別したいとおもう。ついで私は一 般的集団概念をそれ自体はおいて同種の統計的総体と定義したいと思う﹂と︵≧一σq.Q。∬ω.ωω■訳・四〇一一頁︶。  われわれは社会現象を基本的には多数の入間から構成される社会構成体においてとらえ、これを社会科学的認識の終局 の客体とする。社会科学的認識の一部を形成する統計的認識もこれが例外をなすものではない。  統計釣認識は社会約構成体の量的側面にかかわる。社会的構成体の量的規定性は社会的構成体の等質の構成要素の上に

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成立する。したがって社会的構成体の量的規定性を得るためには、社会的構成体を要素に分解することが必要であり、構 成要素の異質性を捨象し等質性に着目して、等質の要素の集合を得なければならない。統計的集団、これである。統計的 集団はこの意味において社会的構成体の抽象の上に立つ。抽象は社会的構成体の量的規定性を得るためのものであり、し たがって統計的集団は認識手穀である。祉会的構成体の量的規定性を得るためには、かかるものとして統計的集団は必然        であり、不可欠である。  統計的集団を社会的構成体の量的規定性を得るための認識手段とすることは、しかしながら、統計的集団を主観的な形 成物とすることを意味しない。統計的集団は社会的構成体の量的規定性の構造が必然的に要求する形式と内容において形 成されねばならぬ。ところがフラスヶムパーは、反対に、客体とは無関係に数を前提し、これを可能にする対象を客体の 抽象加工を通じて導ぎ出す。客体はそれが対象にまで抽象され加工される形式を生み出すものではない。転倒的というべ きである。そこには数が量の規定形式であること、さらに量が客体の一側面であることの明確な認識の欠如があり、客体 を明確に規定し、それにおいて見出されるべき量とその構造を明かにし、数的に規定することの意味を問う過程の放棄が ある。フラスケムパーの統計的集団論の欠陥の多くはこれに依存するということができよう。  そればかりではない。客体がそれとは無関係に存立する数のために変形加工されることによって統計的集団が形成され るとき、また変形加工の形式が客体より必然的なものとして与えられないとき、客体との間に間隙が生ぜざるを得ない。 このことは量的認識としての統計再認識と社会科学的認識との間にこ、尺ることの出来ない間隙をおくことになる。われわ れはこの点について節を改めて説明しなければならない。  ①コ霧冨日霧びoD雷蔚巴︵、↓Φ=押≧面Φ8Φ冒Φω3叶蜂皆ζ2Φ筏の≦。け巽9。冨びお。。9ω.㎝N.  ②N冒Φr乏δ。・ぢ房騎9ΦN鋤三窪①暮。・什Φ冨pおも。﹃−ω﹄9      統計的認識と社会科学納認識       一一七

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続計的認識と社会科学的認識 一儲 ③ 蜷川博士はフラスケムパーの連続的集団の規定の中に大量と統計の混同を指摘している﹃統計学研究第一﹄・昭和六︵一九三一︶年・岩波書店刊。  一三〇頁︶。 ④物理的な量︵質量・速度・温度・エネルギー︶は一般に連続量と考えられていたが、量子論はこのような見解を止揚した。プランク︵コ時論︶が一  九〇〇年にエネルギー量子の考えを導入してから、物理的な量の変化もつねにある最小単位の整数倍ずつ不連続的に行われるものであり、厳密には不  連続量であることが明かになった。連続量は一つの理想化の産物であること、論理的形式であることに注意しなければならない。寺沢恒信・﹃弁証法  的論理学試論﹄・昭和三二︵一九五七︶年・大月書店刊・六五−六頁。 ⑤クレッルーーノルベルク︵室2N7乞。誉興αq︶は、フラスケムパーの所論にしたがうと、一個日の身長は﹁測定される、それにもかかわらず測定単位  からなる﹂から、これも集団現象となるとし、フラスケムパーの連続的集団の概念を排斤する。ノルベルクによれぽ連続i不連続集団の区別は集団概  念を混乱させるものである︵﹀=αq①出PΦ一昌Φ ζΦ叶﹃O口Φ⇒一①サN① Ω①︻ ωけO仲一ω叶出︵℃ いこ. ﹀二噛一’ 一㊤蒔①. ω’ れO︶ ⑥社会的性格の捨象について蜷川博士はその前掲著書﹃統計学研究第こでするどくフラスケムパーを批判している一﹁大量の区別を単位の性質に  おいてなす時、其の性質は、社会的性質であって自然的性質ではない。﹂︵一四一頁︶。﹁例えば氏︵フラスケムパー1引用者︶は、電気の如ぎは、エ  ネルギーの統計として重要なる意義を有つが、何処にζ塁のΦロ①冒霊地があるかと云う議論をしている。私も電気に関する統計の重要性を氏と共に認  める。併しながら、それは、例へば電気生産量或は電気使用量等の統計であって単なる電気量の統計と云うことは意味をなさない。勿論電気使用量或  は電気生産と云う大量︵此の場合集団と云ってもよい︶がある訳でなく、況んや、電気量と云う大量があるわけがない。電気は、我々の問題とする限  り、自然物ではなく、社会的価値物として存在し、社会関係に於ける存在物である。此の限りに於いて、生産者、或は消費者等の関係に就いて存在す  る。我々は此等の大量の、集団性の、量的方向としての、生産量、使用量等が、統計に於いて語られるのを見るに過ぎない。フラスケソパー氏のあげ  た他の例、たとえば軌道の如ぎ、土地面積の如ぎ、何れも同じく論ぜられる。氏は、統計と大量とを混同するのみならず、社会的関係に於いて存在す  る事物を自然物とするが、それの許さるべきことでないことは、説明の必要のない所であろう﹂︵=二]一二頁︶。 ⑦フラスケムパーはいっている一﹁計数と計量において共通していることは、単位の数が調査されることである。計数にも計量にも広義における単  位が存在する﹂と︵QD叶℃ ζ鋤ωωΦづ唱 6り.㎝ト一︶。 ⑧フラスケムパーはいっている一i、統計的集団の概念は不連続的単位の総体、特に人口統計の領域を基礎として歴史的発展して来た。ところが近時  にいわゆる連続的集団が統計実務において多く問題になるようになるにつれて、不連続的集団を基礎とオる統計理論は、統計実務と矛盾するにいたっ  たとする。 ﹁理論﹂と.﹁実際﹂とは﹁実際﹂への理論の適応の方向において統一されねばならない︵ωρ]≦霧ωΦPω.経O︶。連続的集団が統計実務へ  多く現れるようになったことは、いうまでもなく、経済統計の発展を反映する。, ⑥前掲拙稿﹃統計的集団概念について﹄・彦根論叢・第六五−七号・一三三一四頁参照。

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三  社会統計学を社会科学的領域における統計方法論と規定するとき、社会科学的認識と統計的認識との関係を明かにする ことは基本的な意味をもつものである。フラスケムパーは統計的認識を社会科学的概念の経験的量的規定として十分であ るかという方向において問題をとり上げる。  社会科学的概念としては統計単位となる個別事例について飢えている場合と個別事例の結合から生ずる現実的統一体に ついて考えている場合とがある。もっとも所説を内容的にみるとき、前者の場合が多い。  社会的事実は意味関連の中に成立し、社会科学的概念はこのことの着眼にもとづいて形成されている。統計的集団の構 成にあたっては、社会科学的概念とは別個の特別の概念が構成されねばならない。しかもこのことはひとり統計的集団の 構成の場合だけに限られないで、統計標識や群の規定の際にもあてはまることであって、フラスケムパーはこのことを一 般化して、統計調査にあたっては社会科学的概念とは別個の概念一統計的概念  が構成されねばならないとし、しか もこの統計的概念と社会科学的概念との間に間隙が存在することを強調する︵ω什註。・けぎ。D’お㎝一①︶.  プリント︵♪.ゆ百山︶は祉会科学概念と統計的概念との間隙の問題を一層展開させた。所説によると、杜会科学的概念は 理念型的構成による。しかも具体的な個別事例における生得的な徴表ではなく、研究対象の意味に関して本質的と認めら れるものが概念内容をなす。かかる概念は、統計調査においてはただちには用いられない。個々の事例についてその本質 に立入って分析する可能性が統計家に与えられていないということをおいてとわぬとしても、社会現象の過渡的性格のた めに、その事例が統計に計上されるべきか否か常に必ずしも明確であるとはいえないのであって、具体的個別事例におい て客観的に容易に認識し得る性質を普遍化することによって統計的概念を構成することが必要である。かくて意味関連よ      統計的認識と社会科学的認識      二九

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     続計的認識と社会科学的認識      三〇         り展開される概念の代りに即物的な概念が現れる。プリントのいう社会科学的概念と統計的概念との間隙をハルトウィッ         ク︵顕閏畳壽σq︶は理念型概念と経験的類概念との相違と端的に規定する。          社会科学的概念と統計的概念の背離は﹁社会科学的要求に全面的に一致する統計的結果の断念﹂を意味する。ただしこ のことは社会科学的要求に出来るだけ一致する統計的結果獲得のための努力の断念を意味するものではなく、むしろその 努力の強化を訴えるものであり、社会科学的概念に出来るだけ近接する統計的概念の構成を要求するものである。ハルト ウィックはこの課題が社会科学的概念の推敲によることを主張し、これを調整とよび、 ﹁調整理論﹂︵︾母ρ轟ぎコω夢8膏︶        の形成を社会統計学の今後の基本的課題とする。しかしながら、フラスケムパーによれば、社会科学的概念への統計的概 念の適応化がいかにすすもうとも、両概念間の間隙の最小限は常に存在する。それは事態の本質より生ずるものであるか ら︵mW一ρΩ二Qoけ一面℃ ω’ 蒔ω①︶。社会科学的認識と統計認識との間隙はかくして克服することの出来ぬものとして現れるのである。  社会科学的認識と統計的認識との関係は、以上においては個別事例を基礎にして社会科学的概念を構想することによっ て規定された。個別事例から構成される現実的結合体を基礎とする社会科学的概念についてはどうであろうか。フラスケ ムパーにはこの点について明確な所論がないけれども、社会的事実の本質が意味的統一にあるという見解がそのままこれ         に妥当すると考えるこ・とが出来、かくして質と量、現実的結合体と統計的集団との間には、決定的な間隙が存在するこに となる。かくして社会科学概念と統計的概念、社会科学的認識と統計的認識との不一致は明かである。  フラスケムパーは統計的認識を量的認識とし、これが社会的認識においてもつ意義と限界の問題を提起した。所説によ ると、統計的認識は量的認識として社会の全面的認識の一モメントをなすにすぎない。社会の全面的認識において決定的         なものは質的連関の理解、意味連関の理解であり、これは量的11統計的認識の彼岸にある、と。かくのごとく、量的目統 計的認識の抽象性と一面性を主張するかぎりにおいて、フラスケムパーの見解は正しい。しかし多くの欠陥をもっことも

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忘れてばならないのである。  統計的認識の意義の局限性は、既に見たように、社会科学的認識と統計的認識の分裂を基礎としているのである。その 中にわれわれは質と量との分裂をみる。たしかに質と量とは客体の相異った側面である。しかし両者は不可分に結びつい ており、二つの規定がどこから由来し、相互にどのように関係するかを明かにするのでなければ、量的11統計的認識の意        義の十分な規定は与えられないであろう。  フラスケムパーの統計的集団の規定を手掛りとして質と量とがいかに関係させられているかを要約するに次のごとくで ある。  ω 数的規定を可能にする等質性を重視することによって、質と量との有機的関係を保証している。 ﹁事論理と数論理 の平行論﹂はこの点において積極的な意義をもつ。しかしながら統計的集団における同種性が外的形式的なものでしかな いために、したがって、量を可能にする等質が外的形式的なものでしかないために、質と量との有機的関係は樹立されて いないとみるべきである。  ② 数によって特徴づけられる杜会的構成体が全体としてもつ質と数的規定性との関係が明かでない。社会的事実の質 的全体的性格に関する所論が社会的構成体が全体としてもつ質の規定に妥当すると老えるならば、量は質との間に克服す ることの出来ぬ間隙をもつこととなる。  以上、要するに、フラスケムパーにおげる質と量の関係づけは部分的であり、しかも外的である。それは、客体を基礎 として方法を必然的なものとして誘導することをしないで、逆に数を前提しこれを可能にするものを対象として客体の上 に設定することによる。しかもこの場合、社会の本質を意味的統一とするとき、対象と社会11客体との間に、したがって また方法と客体との間に、内的必然的関係を全面的に打ちたてることはのぞむべくもないことであろう。社会科学的認識      統計的認識と社会科学的認識      ゴ=

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      統計的認識と社会科学的認識       三二 と統計的認識との間に生じたこえることの出来ぬ間隙一これは何を意味するであろうか。客体と方法との矛盾である。 フラスケムパーはこれを解決していないのである。  社会科学的認識と統計的認識との聞にこえることが出来ない間隙をおいたことは、社会統計学の課題に対するフラスケ ムパーの寄与を基本的に限界づける。フラスケムパーのもたらしたものは、統計的認識を社会的認識の中に位置づけ社会 科学的領域における統計方法を基礎づけることの断念である。ひとびとはここは社会統計学の不可知論を見ないであろう か。  ①︾.望ぎ阜牢。三Φ日①巷α国一顧Φ葺口話8尊爵窪ω。臨⇔匹p什凶ω仲貯9興国蒔①秦野艮ρ﹀=ぴ身・QQ﹃︾需F。。メ鴨αこ6㎝。。・Qり・。。O卜。一ω●拙稿﹃社会統   計的認識の問題と特質﹄・彦根論叢・第四三号・昭和三三︵一九五八︶年・二九i三〇頁。  ②甲閏二四≦齢Zp什霞ヨωωΦ⇒ω島繊島畠Φ§匹ω。N蜀一三ωωgω9窪窪∩冨ω8蔚鉱ぎN卑ω9’h.9騎①墨ヨ8望p・葺ω≦こコト。.じdαコお切9GQ﹄2.  ③﹀.bづぎ9叫●pOこしり■ω8・  ④国.国。・算三mqり穿鋤●○こω.卜。①ご野饗冨ヨ。Φびω賦器叶一ぎレ億緯筈窪UΦ三ω。冨聞。﹃ω。巨嶺、ω.お①.  ⑤︾伽じd鵠口9∪興Op。野田騨ω。冨鎚曇霞9﹃<。節ω白蝶ω。匿津§α象Φoり陸四鉱ω鉱ぎじdΦ冒蜜伽q①N霞αΦ昇ω9gの賦二。。識ぎδω①、QQ﹂㊦ーメ  ⑥固心痛ヨ需び∪δじdΦ号暮改品自費N叫巨h霞象Φω。N冨H鼠。・ωΦ器。冨津①登≧蒔・60骨﹀只﹃こb。ω■じdq・ψ曾lb。.前掲拙稿﹃フラスケムパーに   おける社会統計学の構想﹄・彦根論叢・第一四号・三二頁。  ⑦ヘーゲルはいっている一﹁われわれの普通の意識は、質と量は一対の独立に並存する規定であると考えている。したがって、事物は単に質的に規   定されているだけでなく、また量的にも規定されている、といわれている。この二つの規定がどこから由来し、相互にどのように関係するかを進んで   問うことをしない﹂と︵﹃小論理学﹄・第九八節・補遺二︶。

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