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<特集2012年度先端社会研究所定期研究会・報告記録>イギリスにおける南アジア系移民の政治へのかかわり

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(1)

録>イギリスにおける南アジア系移民の政治へのか

かわり

著者

若松 邦弘

雑誌名

関西学院大学先端社会研究所紀要 = Annual review

of the institute for advanced social research

11

ページ

111-138

発行年

2014-03-31

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2012 年度先端社会研究所定期研究会・報告記録

イギリスにおける南アジア系移民の政治へのかかわり

若松邦弘 氏

(東京外国語大学大学院 総合国際学研究院・教授) (日時:2012 年 11 月 9 日(金)16 : 00∼18 : 30 場所:先端社会研究所セミナールーム 司会:鳥羽美鈴

定期研究会報告の紀要再録にあたって

南アジア/インド班 代表・

関根 康正

先端社会研究所では、昨年度(2012 年度)より共同研究プロジェクト各班(「日本班」、「中国国 境域/雲南」班、「南アジア/インド」班)による定期研究会を継続的に開催してきた。「南アジア /インド」班でも昨年度計 3 回の研究会を開催したが、これらの報告ではヨーロッパを中心とする 南アジア系移民の置かれた政治的状況からグローバルに展開するミュージック・シーンの最前線に 至るまで、現在進行中の諸現象の詳細な報告がなされることとなった。当班では、こうした貴重な 報告の資料的・研究的価値に鑑み、これを幅広く本紀要読者諸氏と共有したいとの考えから、ここ に再録することとした。 再録にあたり、報告者の寛大なご了解を賜ったことをここに記して謝意を表したい。 なお掲載する報告文書は、当日の音声記録を起こしたものに発表者の校閲が加えられて作成され た。今号には第 2 回(当班第 1 回)の若松邦弘氏の報告を掲載し、第 4 回(当班第 2 回)の栗田知 宏氏と第 7 回(当班第 3 回)のサラーム海上氏の 2 報告は次号以降に掲載する予定である。

はじめに−コーディネーターより

第 2 回定期研究会コーディネーター・

鳥羽 美鈴

2012年度の先端社会研究所第 2 回定期研究会(南アジア/インド班第 1 回)には、東京外国語 大学から若松邦弘氏をお迎えし、「イギリスにおける南アジア系移民の政治へのかかわり」という タイトルで講演をしていただいた。若松氏のご専門は政治学で、西欧政治とくにイギリス政治につ いての第一人者である。 今回の講演では、「南アジア系」移民がイギリス社会の構成員になるに至った歴史的背景や現代 イギリス社会における彼らの位相と政治的関与の特徴について、先行研究の紹介や豊富な資料の提

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示とともに詳細な報告がなされた。一例として、「Asian(アジア系)」の人口規模を知る手掛かり となる国勢調査の興味深いデータ分析が挙げられる。また、1940 年代にまで遡って、イギリスに 大量流入する人々の自主規制に関わる植民地省と英連邦関係省それぞれの見解を追ったうえで、カ リブ海地域の西インド諸島からの移民と、アジア系移民に対する政府の認識の違いが明示された。 近年のイギリス社会でインド系、パキスタン系、バングラデシュ系の人々が置かれた経済社会的 状況の違いについても詳述されたが、講演の冒頭の用語説明とあわせ、彼らを「南アジア系」やイ ギリスで使用される「Asian」という用語で一括りにして語ることの問題指摘はとりわけ重要であ る。 若松氏によれば、今日、イギリスの南アジア系市民はインド系とパキスタン・バングラデシュ系 とに分けて認識されることが多い。イギリス各地の都市部に地縁・血縁ごとのコミュニティを形成 し居住するこれらの人々について、イギリス社会での顕著な上昇が見られる前者に対し、後者の場 合はその遅れが広く指摘され、また 1990 年代以降、後者はイスラムという属性に投射されるイメ ージからも注目されるようになっている。さらに、パキスタン・バングラデシュ系の人々の間で は、コミュニティという集団と個人との関係について世代間の意識差が大きく、近年それが社会活 動とのかかわりや政治への参画を巡る摩擦として表面化している。今日イギリスの政党システム変 容が顕著に進行するなか、コミュニティ内でのこの対立は一般のイギリス政治のなかでも無視でき ない要素となっているという。 本報告は、インドを中心とする南アジア社会における「排除」と「包摂」のあり方を研究する南 アジア/インド班にとっても、西ヨーロッパの主要国の一つであるイギリスの社会に視点を転じ て、そこに生きる南アジア系の人々についての理解を深めるうえで実に学ぶところの多い内容であ った。なお若松氏の主要著書・論文については、報告文書末尾に付したものをご参照願いたい。

【研究会報告】

○司会 時間になりましたので研究会を始めさせて頂きます。本日開催するのは、共同研究「南ア ジア/インド班」研究会第 1 回となります。本日の報告者として東京外国語大学大学院 総合国際 学研究院教授の若松邦弘先生においで頂いております。若松邦弘先生には、私ども「南アジア/イ ンド班」のメンバーに欠けていると思われる政治学の観点からぜひお話し頂きたいと思っておりま す。御報告には 90 分の時間の余裕がございますので、雑談なども交えて頂いて結構です。その後、 会場の皆様におかれましては、報告者の若松先生に自由に御質問をして頂ければと思います。 では、早速ですが御発表を宜しくお願い致します。 ○若松 若松と申します。きょうはお招きいただきましてどうもありがとうございました。 さっそく本題に入りますが、タイトルを「イギリスにおける南アジア系移民の政治へのかかわ り」とさせていただきました。ここでポイントとなるのは南アジア系移民、「南アジア系」という 言葉です。ここで想定されている南アジア系という人たちをイギリスではどのような言葉を用いて 指すのか、あるいは関係している用語にどのようなものがあるか。それを今日の話では最初に、ま

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ずお話しさせていただきます。 その後、この場で言う南アジア系移民に当たる人々が、いつの段階でイギリス社会の目に見える 形の構成員になっていったかとの歴史的背景を説明させていただければと思います。 それから、その人たちがイギリス社会に住むことになり、どのような立場に置かれているかとい う、広い意味での社会的な位相の話をいたします。 ここまでが前段に当たります。そのあとで、政治へのかかわり、政治参加ということでやや大き めの話をいたしたく思います。

「南アジア系」とは

最初にワーディングです。南アジア系、英語で言うと“South Asian”となるかと思います。この “South Asian”という言葉は、いまここで話す移民について申し上げますと、イギリスではあまり 使われません。「南アジア系」という言葉で日本人がイメージする人々は、恐らくイギリスでは “Asian”という言い方になると思います。 この“Asian”ですが、イギリスでのこの言葉に、日本人は恐らく含まれません。イギリスで “Asian”と言った場合には、英領インド、あるいはインド亜大陸にルーツを持つ人々、あるいはそ うみなされている人々、これを広く日常用語で“Asian”と呼びます。主に“Indian”つまり「イン ド系」、“Pakistani”つまり「パキスタン系」、それから“Bangladeshi”、「バングラデシュ系」です。 “Asian”に対する注目は、イギリスの場合、歴史的には比較的最近のものです。ではマイノリテ ィ集団を指す言葉としてほかにどのようなものがあるかといいますと、大きな人口としては、イギ リスで言うところの“Black”、あるいはこの言葉がややネガティブなニュアンスがあると思われる ところもあり、“Afro-Caribbean”という言葉がしばしば使われます。日本人の目から見たときに は、いわゆる肌の色が褐色の人々です。アフリカ系のルーツを持つ人たちです。“Asian”はその人 たちと対比されて使われる概念です。“Afro-Caribbean”と“Asian”というイメージになります。 今、申し上げましたように、イギリスで歴史的な時間軸を考えてみますと、“White”つまり「白 人」以外のマイノリティ、すなわち“non-white”という人たちのなかで第 2 次大戦が終わった時 点ぐらいで最も注目されていたのは、“Afro-Caribbean”の人たちです。“Asian”という南アジア系 の人たちは、その時点では余り一般の人々にはその存在が注目されていなかった。したがって、イ ギリスの場合にマジョリティーとマイノリティというのは、マジョリティーが白人、“White”であ って、マイノリティ、ノンホワイトというのは“Black”である。 実はこの“Black”という言葉自身も多義的で、今、申し上げた“Afro-Caribbean”に加え、場合 によっては“Asian”も含んでブラックと言うことがあります。“Black”というのはですから、狭 義で言えば“Afro-Caribbean”のことを指し、広義で言えば“non-white”全体を指すという使い方 がなされる傾向があります。その広義と狭義の差というのが、歴史的には実態として小さかったと いうことです。 このようにイギリスでは、マジョリティーとマイノリティに関する問題は、肌の色、すなわち “race”に関する問題であると捉えられがちだった。日本でしたらさまざまな民族問題は、例えば

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エスニック問題と言われることがあります。イギリスでもいまはそのような表現を使うようになっ てはいますが、最初に出てきたときには“race”、あるいはその関係性として“race relations”、日 本語で訳すと「人種関係」という概念で捉えられる傾向が強く、ここでの説明もまずはそこから始 めることとなります。“Race relations”の“race”には一体どういうものが過去含まれてきていて、 今はどうなっているかということになります。 このあたりの言葉の使い方は非常に微妙です。“Non-white”という意味合いにおいて は 、 “Asian”は“Black”に含まれることもあります。第 2 次大戦後、大量の南アジアからの移民が入 ってくるようになり、その人たちの存在がさまざまな形で認識されるようになってきた時点で、行 政でもさまざまな機関がつくられた。そして民間でもさまざまな NGO、それから研究機関がつく られましたが、用語はいろいろです。Institute of Race Relations、こちらは民間の NGO、研究を中 心としているところですが、ここでは“race relations”という表現が使われています。それからさ まざまな差別とか、嫌がらせに関する法的な事項を調停する行政機関として Race Relations Board というものが 60 年代に作られました。やはり“race relations”です。これに対し、同じ時期に啓蒙 活動を担うべく作られた公的機関は Community Relations Council という名称です。それぞれつく った人々、政策立案者の間ではこれらの用語の微妙な違いは考えられていたのでしょうけれども、 一般の人には違いが全くわかりません。それから、先ほど申し上げた 90 年代の COE 的な形でウ ォーリック大学につくられていた研究所は、Center for Research in Ethnic Relations です。作った人 たちにはそれぞれの思いがあると思いますが、余り明瞭に使い分けられているとは言えないように 見えます。 1つ言えるとすれば、“community relations”という言い方が、ある意味最もイデオロギー的には 中立的との印象はあります。例えば、“race relations”とした瞬間に、政策とか公的な補助金の問題 は人種的・民族的なマイノリティを念頭に置いた政策となってしまうため、それがある意味、逆差 別になるとの観点から躊躇されることもあり、このため、中立的な言葉として“community tions”という使い方で無難に収めるとのケースはままあります。ですから、今でも“community rela-tions”という言い方は比較的多くの場で見かけるかと思います。それに比べると、“race relations” や“ethnic relations”というのは、明らかに一定の政策的な使命感が含まれた言葉になってきてい ます。“Asian”というのは当然、“race relations”や“ethnic relations”との言葉が持っている含意に 照らすなかで取り上げられてくる社会的な存在です。 その“Asian”について、どの程度の規模の人口集団かと申し上げますと、イギリスでは最新の 国勢調査は 2011 年に実施されていますが、エスニック・グループといいますか、民族単位・人種 単位のカテゴリーの集計結果がまだ公表されていません。国勢調査は 10 年ごとに、一の位に 1 が つく年に実施されます。そのため、いまは悪いタイミングで、2011 年の集計は今年後半、あるい は今すぐにでも発表されるくらいのタイミングとなっています。最新の結果である 10 年前の 2001 年センサスでは、エスニック・グループという言葉を使って、我々がここで考えている集団の人口 規模を捉えています。

White British、White Irish、Other White、それから Mixed race、それからエスニック・グループ として、Indian、Pakistani、Bangladeshi など。このあたりが国勢調査の調査票にあらかじめ選択肢

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として印刷されていまして、回答者は自身で印をつけるという形になります。White British という ところに印をつけた人が 5,000 万人、White Irish というところに印をつけたのが 69 万人、Mixed raceにつけたのが 67 万人、それから Asian については Indian、Pakistani、Bangladeshi、それから Other Asianという 4 つのカテゴリーにつけた人が統計上は集計されるという形です。Chinese は別 枠になっています。

先ほど申し上げたブラックないしアフロカリビアンの人たちは Black Caribbean、Black African、 Black Other、このあたりにつけると思います。

日本人はどこにつけるかというと、多分、Other につける人が多いのではないかと思います。あ るいは Chinese につけている人や、もしかすると Other Asian につけている人もいるかもしれませ ん。

この形で見てみますと、白人以外の、いわゆるマイノリティの人口といいますのは、白人の 3 つ のカテゴリー、White British、White Irish、Other White が合わせて 92.1% ですので、これを引いた 形の 7.9% が、いわゆる我々が認識するところのマイノリティ・グループの人口になります。

その 7.9% を大枠にして、Indian、Pakistani、Bangladeshi、Other Asian を足し上げると 4.0% です ので、マイノリティ・グループである 7.9% のほぼ半分を占める部分が Asian となります。この Asianは今やアフロカリビアン、すなわち、その下の Black or Black British というところに集計さ れる 2.0% を大きく凌駕する規模になっています。

いわゆる Asian が、国勢調査のカテゴリーで Indian、Pakistani、Bangladeshi、Other Asian あたり を指すとすると、すこし説明が必要なのは Other Asian というカテゴリーです。24 万 7,644 人です が、先ほど申し上げましたとおり、これは自己申告ですので、どういう人がこのカテゴリーに印を つけたかは、偶然的なものもあるかとは思いますが、意図してここにつける人たちは、おそらく、 場合によっては Indian に印をつけるかもしれない人たちと考えられます。この人たちは、インド 亜大陸出身で、まだ 19 世紀、あるいは 20 世紀前半の時期にアフリカに渡った人たち、主にインド 洋沿岸地域ですので、ケニアとかウガンダとか、そういった地域ですが、そこを経由してイギリス に第 2 次大戦後入ってきた人たちです。その人たちが恐らく Other Asian に印をつけているケース があろうと思います。そのような人のなかには、Indian に印をつける人たちもいるだろうと思いま す。この人たちはやや固有の社会的属性を持っています。この点、後ほど、また改めて話します。 国勢調査のカテゴリーについては、恣意性があると言われています。ホワイトか、そうではない か、という点がかなり意識された統計とされています。国勢調査では、エスニック・グループに関 する統計は 91 年からとられています。それ以前は出身地とか国籍の調査は行っていましたけれど も、自身がどのエスニック・グループ、民族集団、あるいは人種集団に属するかということは、イ ギリスのセンサスでは聞いていませんでした。91 年にその項目が設けられ、2001 年が 2 回目です。 この二回の間では、カテゴリーの修正がなされていますので、直接の対比はできません。Mixed race というカテゴリーは 91 年にはありませんでした。また 91 年のカテゴリーでは White は 1 つでし た。一つのカテゴリーとしての White に続いて、それ以外のカテゴリーとして Indian、Pakistani、 Bangladeshi、Black Caribbean、Black African が印刷されているという具合に、カテゴリー自体が明 らかにホワイト以外の人たちにどういう人たちがいるかを捉える性格が強い調査のされ方だと言わ

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れていました。その性格は、2001 年には、White も細分したたこと、あるいは Mixed race をつく ったことによって多少は薄められてはいますが、その際もこのような形で質問されていたわけで す。

歴史的背景

第 2 次大戦後、ヨーロッパ諸国に非ヨーロッパ地域から多くの人が入ってきたとことはよく知ら れている話であろうと思います。イギリスもその例外ではありませんでした。イギリスの場合、そ の中でも大きなカテゴリーは、イギリスと昔からつながりを持っていた帝国、そのなかの一部から 多く入ってきています。1940 年代は年に 1,000 人を超えるような大きな数字ではありませんでした が、50 年代に入り、年当たりそれ以上、あるいは 1 万人単位で入ってくるようになっています。 西インド諸島とはカリブ海地域ですが、ジャマイカとかトリニダードトバゴあたりからの人々で、 多くの場合、「アフロカリビアン」と呼ばれる人たちです。その後、インド亜大陸のインド、パキ スタンからの流入が続きます。 数字を見ますと、50 年代の頭に比べ 60 年代にかけて、全体として増えていますが、年によって 多少の波があるというのはわかると思います。これらの人たちは、南アジアの研究をなさっている 先生方は御存じかと思いますが、イギリスの本国に住む人たちと同じ国籍上のカテゴリーを持ち、 自由にイギリスに入ってくることができました。その意味では、他の西ヨーロッパ諸国、例えばド イツとか、あるいはスウェーデンといった国々が人を受け入れた、いわゆる「外国人」として受け 入れたようなものではなく、イギリスの場合は、少なくとも法的な意味においては、自発的に、も ちろん経済的には従属関係にあるために強いられたという側面はあるかもしれませんが、あくまで も法的な意味合いにおいては自分の意思において入ってきた人たちということになります。 西インド諸島からの戦後の流入は、53 年から 55 年の間に急拡大し、56 年まで増えています。こ の時点で、イギリスの世論がこの大量の流入にどのような反応を示すかをイギリス政府が懸念した こともありまして、西インド地域の自治政府にイギリスに向けての渡航の自主規制を要求していま す。57 年には若干減っていますが、渡航規制をこのように要請した影響があります。 インドやパキスタンからの大規模な流入の始まりは 55 年ぐらいと、やや遅れています。しかし、 イギリス政府の内部では、このインド、パキスタン、すなわちアジア系の移民が入って来はじめる ことへの警戒のほうが、西インド諸島からの流入に対するものより大きかった。これは単純に人口 圧力の問題です。母数となる人口は圧倒的にインド亜大陸のほうが大きい。この地域からの流入が 本格的に始まると大変であるとの意識は、西インド諸島からの移民が少しずつ増え始めていた 50 年代前半に既にありました。実際に 50 年代半ばには、55 年、56 年、57 年と、とりわけパキスタ ンを見ていただければわかりますが、年々増えているわけです。57 年になると、イギリス政府は この流入に対する何らかの対策が必要と考え、こちらは既にイギリスから独立していますけれど も、インド・パキスタンの両国政府にイギリスに向けた出国の自主規制を西インド諸島と同じよう に要求する。このため、58 年に入国は多少減っています。インド系は 6,600 人から 6,200 人、それ からパキスタン系は 5,200 人まで増えていたのが 4,700 人へと減っています。これは自主規制の影

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響です。その翌年、59 年の減少は、景気の影響もあったと考えられます。不景気でイギリスでの 職が減ったのが 59 年の場合には大きいと見られています。 しかし 61 年の数字を見ていただければわかりますが、イギリスの景気が回復したら、もう自主 規制の効果がなくなってしまった。一気に入国が増え始めたわけです。イギリスの側の好景気、そ して西欧各国でそうですが、60 年代、高度成長に向かう時期に、労働力が必要になってきている。 それによってプルされる。すなわち引かれる形で入ってきている。62 年、こちらは年初 6 カ月間 という変則的な統計となっていますが、この 6 カ月で 9 万 4,000 人です。なぜ 62 年が 6 カ月で切 れているかといいますと、この年の 7 月にイギリス政府が法律によってイギリスの側で入国の規制 を行った、これが 62 年の 7 月です。それまでは移民送出地域の当局に自主規制で出発を抑えても らっていたのが、イギリスの側がイギリスの国籍を持っている旧帝国の人たち、イギリスに自由に 入って来ることのできる権利を持っているこれらの人たちの権利を制限するという法律を通すこと によって絞ったわけです。これは何かというと、職による制限です。専門的な技能を持っている人 や特定の種類の職が決まっている人のみに月単位で決まった数のバウチャーを発行する。それ以外 の人は入国のときにはねられるという形で絞った。ですから 62 年の後半は一気に流入が減りまし た。 このように 50 年代に流入が問題視されるようになるわけですが、そのころイギリス政府の中で マイノリティという人たちについてどのような認識があったのかを、政府内の資料に興味深い表現 がありましたので、持ってきました。先ほど申し上げた非常に微妙な自主規制をめぐる問題があっ た 57 年、58 年あたりの時期です。西インド諸島の自治政府に自主規制を要求しており、インド・ パキスタン両国政府にも求めるかが課題となっていた時点です。その 58 年に西インド諸島を管轄 している植民地省で関係部局の官僚がどのようなことを言っているか。 要約しますと、インド、パキスタンからの移民の流入が顕著にふえているが、それが問題なの は、これらの人々は職業的な技能を持っておらず、文字が読めない。健康状況も西インド諸島の 人々よりよくない。インド系、パキスタン系の人は、イギリス人がつきたがらないような職業を 転々としており、西インド諸島系の人たちがイギリスにおける偏見をようやく克服しつつあるこの 時期、西インド諸島の人たちに関するイギリスの世論がようやく穏健なものとなってきたこの時期 に、このような状況は非常に懸念される。こういった内容です。 このように植民地省のなかでは、インド系、パキスタン系の流入を、数年早く入ってきていた西 インド諸島系の人々と対比させ、その人たちの社会的な条件か一層悪いと認識しています。植民地 省はインド、パキスタンよりも西インド諸島の人たちのほうをより厚遇したい立場の人々ですが、 このように書いているわけです。 もう 1 つ、こちらはインド、パキスタンの側の管轄である英連邦関係省の同じ時期の文書です。 先ほどの文書は 58 年の 2 月ですが、こちらは 3 月で、ほぼ同じ社会状況の中で書かれており、自 主規制をパキスタン政府、インド政府に要求するかどうかに関する文章です。この時期、イギリス 政府は、パキスタンからイギリスへの渡航について何らかの斡旋組織が暗躍しているのではないか と疑っていました。これについてこの文書は以下のように書いています。 イギリスの世論はパキスタンからの流入について、いまのところは懸念を示している、あるいは

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問題があると見ているわけではない。しかしいずれそう見るかもしれず、パキスタンからの組織的 な流入に注目が集まるかもしれない。これらインド系やパキスタン系の人たちは、西インド諸島の 人に比べ、この国ではあまり歓迎されない。その理由は、西インド諸島系の人たちは英語の会話、 読み書きができ、またキリスト教徒であって、イギリスでの職を自分たちで探すことができる人た ちであるのに対し、インド系の人やパキスタンの人たちはこうした特徴を持たない。世論は西イン ド諸島の人たちに対して示したような寛容を彼らには示さないのではないか。 英連邦関係省の官僚、すなわち、どちらかというと西インド諸島よりもインドやパキスタンに対 して友好的な立場をとりたい省庁の人さえもこのように言っているわけです。 ですから、アジア系の人たちについては、50 年代の半ば以降、大量流入がはじまる時期におい て、政府内の認識としては、西インド系の人たちに比べると懸念を持って見られていた。この認識 が正しいかどうかは別に、少なくともそのような属性を持っている存在として見られていたという のが、そもそも戦後のイギリスでの出発点ということになります。

研究上での捉えられ方

以上の政策担当者の認識を踏まえた上で、次に、アジア系の人たちが実際にどのような存在とし てイギリス社会から認識されたかとの話になります。 やや回り道ですが、学術研究においてどう捉えられたかを先に申し上げます。大量に入ってきた 人たち、戦後に入ってきた人たちがイギリスでどのように学術的に「発見」されたか、あるいは社 会的に「発見」されたか。1970 年前後との早い段階でさまざまな形の研究が始まっています。最 初の段階では、アジア系の人たちはあまり認識されていません。あるいはアジア系の人たちと西イ ンド諸島系の人たちを分けない形の議論がなされています。1970 年代、研究の第 1 世代と言って いいと思いますけれども、その時期の研究は、基本的には階級問題と同じ視点でとらえていまし た。どういうことかというと、国民としての権利は全て与えられており、その意味で「外国人」で はないわけです。ですから、その人たちの存在は、ある意味、イギリスに住む肌の色、あるいは風 習が異なる「イギリス国民」の話である。したがって、その人たちに対する見方は、社会的な属性 に注目して捉えたものになります。国内における民族問題、さまざまな国において、例えば地域問 題としての民族問題があります。地域こそ持たないのですが、そのような人たちと同じような位相 で捉えていたと考えていいと思います。ですから、その人たちの置かれている状況は、イギリスの ほかの社会的、経済的な地位が低い人たちと同じように、「階級」の問題と捉えられたわけです。 先ほど話しましたように、その当時、使われていた概念は“race”ですから、「人種」イコール 「階級」、人種問題を階級問題として捉える観点がありました。初期の段階ではジョン・レックス (John Rex)という去年亡くなられた大御所の先生や、エリオット・ローズ(Elliot Rose)といっ た、先ほどの Institute of Race Relations の研究員ですけれども、これらの人たちが住宅の状況、雇 用の状況について移民マイノリティの状況を捉えています。文化的な捉え方ではありません。経済 的、社会的な状況がポイントです。

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されるようになってきています。イギリスの場合には、社会科学において構造的な見方が非常に強 く、いまあげた階級という観点もそうですが、下部構造、上部構造ということを非常に言うわけで す。文化や政治は上部構造です。上部構造の自律性という言い方もイギリスの研究者はいたします が、文化の問題を独自の法則を持ったものとして捉えようという動きが出てきます。御存じの方も いらっしゃるかと思いますが、イギリスにカルチュラルスタディーズという分野があります。文化 研究です。そのカルチュラルスタディーズの 1 つの源流はマイノリティ研究と言われています。マ イノリティ研究は、文化の問題を切り離して捉えていくこのカルチュラルスタディーズに、80 年 代、題材を提供することになります。 ただ、第 2 世代の人たち、例えばロバート・マイルズ(Robert Miles)とか、ポール・ギルロイ (Paul Gilroy)などの文化研究の人たちの注目の中心は、西インド諸島系を中心とする人たちの 「ブラックカルチャー」です。第 1 世代の研究者たちはあまり西インド諸島系とアジア系を区別し ない形で、ともにマイノリティの問題と捉えていた訳ですが、第 2 世代の文化研究に入った時点 で、アジア系の人たちに対する視点は、このようにある意味ではむしろ後退してしまった感がない わけではありません。「ブラック」のカルチャーというものが持つ意義を、マイルズとかギルロイ という人たちは 80 年代にかなり強調するようになっています。アジア系に対する注目は、ここで 少し消えている傾向が無きにしもあらずです。 80年代はこれとは別に、もう 1 つ、並行した興味深い動きもありまして、それは、こうした学 術的な見方が行政の施策にどう反映されているかという観点について、注目されるものがありま す。社会学者の伝統的な構造的視点に依拠し、人種イコール階級と捉える視点が一方にあり、他方 でこれに対して、目の前で起きている問題はちょっと別種である民族的な問題や文化的な問題であ って、両者の視点がぶつかる状況が生じたものです。これは行政施策の中で顕著となっており、特 に教育分野、学校教育においてです。学校教育において、どのように教えていくかという点です。 一方の側に、“anti-racist education”すなわち「反人種主義教育」との観点から教育内容を考える べきとする人たちが教育学者の中にいました。バリー・トロイナ(Barry Troyna)という人など。 これは先ほど申し上げたウォーリックの人です。そのポイントは何か。ここに“Racist”という言 葉が入っていることからわかると思いますが、差別や暴力、嫌がらせ、マイノリティに対するそう いった攻撃を正面から捉える。そういう攻撃とか差別といったような実力行使的なものに対し、そ れはいけないということを教えるべきである。これが“anti-racist education”です。 それに対し、“multicultural education”、訳せば「多文化主義教育」との主張をする人たちもいま す。政府の立場もこちらですが、政府のスワンレポート、85 年につくられた学校教育に関するレ ポートでも、文化の違いを、啓蒙活動を通じてよりよく知らしめていくという、どちらかというと 若干、穏健な立場ではあります。学校の中において宗教が違う、あるいは言葉が違う、そういう子 供たちが、60 年代以降の大量流入の中で増えてきていると。その人たちに対してどのような形で 対応していくか、それから、それを取り巻くホワイトの人たちに対し、どのようにその状況を知ら しめるかという立場です。

この 2 つの立場はあまり折り合いがよくありません。anti-racist の人たちは multicultural education というものは弱腰である、multicultural education を主張する人たちは anti-racist education というの

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はイデオロギー的、社会運動的であって、対立をあおるだけという風に、議論が闘わされることに なっています。このような教育に関する立場の違いは、同時に、それぞれの立場の人たちがどのよ うなマイノリティを念頭に置いていたかということの違いでもあるような気がいたします。前者、 anti-racist education側は、どちらかというとアフロカリビアン系の人たちを念頭に置いて語られる 状況です。英語を話せないとか、キリスト教的な文化を理解できない、といったような話ではな い。それらは問題として認識されない状況の下で、同じような文化、風習を持つのに、なぜ差別が 起きるのか、暴力行為が起きるのかという点が追及されている。これに対して multicultural educa-tionのほうはアジア系が念頭に置かれている感があります。英語の習得がやや難しく、また独自の 文化的な規範が強く、イギリスのマジョリティー的な、ホワイトカルチャー的なものとの摩擦がど こかで生じてしまう。そういったものに対し、どう対応していくかという立場の違いを反映したも のでもあるわけです。

経済社会的状況

続いて、マイノリティの人たちの置かれている実情、社会状況を、資料をもとに確認してみたい と思います。 お手元にあるハンドアウトですが、最初が、エスニック・グループ間の雇用に関する状況の違い です。順に産業セクター、従事している職種、失業率です。産業セクターの数字では、インド系、 パキスタン系、バングラデシュ系との各グループがアジア系と呼ばれる人たちと考えてよいと思い ます。その人たちがどのような産業セクターで就業しているか。ここにあるのは 90 年代の統計で す。最新の統計がないわけではありませんが、実は最近は一時期に比べエスニック・グループに関 する統計があまり出ていません。政府の政策的なアプローチの違いもあるかと思いますが、時期を 揃えてさまざまな研究機関や行政機関による多様な数字を集めようとしますと、90 年代後半ぐら いとなるため、ここでも少々古いですが、90 年代を持ってきました。 その時期、従事しているセクターですが、インド系は第一次産業に従事している割合が 4%、製 造業で 23%、サービス業が 73% です。これがパキスタン系はそれぞれ 2%、25%、73% です。こ の数字を見ますと、従事している産業セクターがエスニック・グループごとに大きく異なるという 印象まではありません。アフロカリビアン系の人たちを見ると、製造業がそのサブグループごとに 14%、9%、13% となっていますから、インド系とパキスタン系のそれぞれ 23%、25% と比較す ると、製造業に従事する割合はアジア系の人たちのほうが若干多いとの傾向はみられますが、決定 的な違いがあるというほどではない。第一次産業はいずれも白人に比べて小さい数字ですが、もと もと流入時から農業、漁業に従事する人はそれほど多くないことを考えれば、これは理解しうる数 字と思います。 ところが、次にどのようなランクのポジションについているかを、産業セクターを横断する形で 見てみると、顕著な傾向が現れます。いわば幹部クラスである専門職・経営職、技術職、それから 中間クラスの熟練職、事務、非事務、そして技能が余り要求されない半熟練、非熟練職という並び です。アジア系の中だけ見ていただくと、インド系は専門職・経営職、技術職が 42% です。パキ

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スタン系は同じ数字が 27%、バングラデシュ系は 17% です。インド系が他のアジア系に比較して 幹部クラスに突出して進出しているというのが、この数字からわかります。この突出は際立ってお り、イギリス国民全体平均の数字 37% と比較しても、インド系の幹部クラスへの進出度は高い。 同じアジア系といっても差があるということがわかるかと思います。 次は失業率ですが、95 年から 96 年の時点の数字です。比較的イギリスは景気がよかった時期で す。男女に分かれていますが、これを合わせた全体の数字を見ていただきますと、アジア系の中で は、インド系の失業率は 12%。これは白人に比べると若干高いものの、パキスタン系、バングラ デシュ系がそれぞれ 4 人に 1 人、3 人に 1 人が失業しているという状況に比べるとまだいい数字で す。逆に言えば、パキスタン系、バングラデシュ系の失業率の高さは際立っています。アジア系と 一つにくくることは難しいことがわかるだろうと思います。 いまは雇用の数字でしたが、研究の第 1 世代がその学問上の構造的視点のバイアスから雇用と住 宅所有にとくに注目していましたので、ちなみに住宅についての統計として、次の資料を持ってき ました。どのような形態の家に住んでるか。一戸建て、二軒一戸建て、長屋形式、集合住宅に分か れています。 この数字では、90 年代の時点で、インド系の住宅所有状況は白人とほぼ変わりません。白人の 数字が一戸建て 23%、これに対してインド系は 21%。同じように二軒一戸建てがそれぞれ 33%、34 %です。アフリカ系アジア人というカテゴリーを飛ばしまして、パキスタン系、バングラデシュ系 はこれと顕著な差があります。カリブ海系黒人やアフロカリビアン系の人たちと似た傾向の数字で す。一戸建て、二軒一戸建ては少ない。 いま飛ばしたアフリカ系アジア人ですが、この人々は先ほど申し上げましたようにアフリカに行 ったインド系の人たちです。経済的には比較的裕福です。イギリスがインド洋を支配している時期 に、アフリカの東海岸に渡った人たちの子孫ですが、第二次大戦後、そのアフリカ諸国、ケニアや ウガンダでの独立時に強く表出したナショナリズムの影響から、その国から逃げ出した人たちで す。もともとは植民地時代の東アフリカにおいて、経済的には上層にあり、経済の核となっていた 人たちです。着のみ着のままでイギリスに逃げてきた人もありますが、ビジネスに従事していた人 たちも多いので、経済的なスキルはあります。ですから、イギリスでも比較的早く経済社会に定着 していった人たちです。このためイギリスでのその経済状況も比較的にはよいものとなっていま す。 資料には住宅に関する満足水準もありますが、ここでは、インド系の人たちは高く、パキスタン 系、バングラデシュ系の人たちは低いという傾向がアジア系の間では出ています。 それから、英語力に関する資料がありました。英語力というのは文化の問題としてとらえるより は、イギリスの社会生活で使われる核となる言葉であることを考えれば、イギリスで生きていくた めの社会的スキルと考えてよいだろうと思います。そのため、ここでとりあげます。ちなみにカリ ブ海系の数字はこの統計にはありません。もともと英語を話すためです。この統計は面接調査によ るもので、面接時に調査する側が受けた印象ですから、主観的なものも少々入りうるかとも思いま すが、大体の傾向は出ています。全体としては、インド系、パキスタン系、バングラデシュ系と も、みな比較的流暢に英語を話しています。ただし、年齢が上がるほど、エスニック・グループご

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との差が大きくなるというのは、男女性問わず見られます。ここで目立つのは、男性はさほどでは ありませんが、パキスタン系、バングラデシュ系で、年長の女性の英語力というのが顕著に低いと いうところです、これに対し、インド系は顕著に低いわけではない。パキスタン系、バングラデシ ュ系の年長の女性では、コミュニティからあまり出ないというケースが多いというところがうかが える資料であります。 最後に学業についてです。高校を卒業する時点で受ける高校卒業資格に相当する試験において、 よい成績をとった教科がどのくらいであるかという資料です。インド系は 54% の生徒がここの表 の集計で一番よい区分に入っています。白人よりもよい数字です。他方、パキスタン系、バングラ デシュ系は白人よりも数字がよくありません。黒人も同じぐらいの数字ですが、背景はそれとやや 異なると類推されます。小中学校からの退学処置者という数字を持ってきましたが、これは成績が 悪いためというよりは素行が悪いための退学です。その退学処置を受けた生徒の比率、1 万人当た りの比率を見てみると、アジア系は概して低い。インド系、バングラデシュ系、パキスタン系、4 人、7 人、10 人、その 1 年前の数字も 6 人、9 人、13 人と低い。白人より低いです。バングラデシ ュ系、パキスタン系と似たような学業水準である黒人を見た場合に、この数字が大きい。21 人、29 人です。ですから学業水準がバングラデシュ系、パキスタン系と黒人の人たちが似ているといって も背景の違いを伺うことができるかと思います。 このように階級的あるいは階層的な差はアジア系のなかに見られ、インド系は比較的社会進出が 進み、それに対して、パキスタン系やバングラデシュは苦戦しているというのが見えるかと思いま す。 イギリス社会がこのように階級の観点からマイノリティを「発見」していったのと同時に、別の 観点、不幸な観点からの「発見」もありました。少し時代が下がりますが、ある種の騒乱行為で す。社会的な注目を浴びるような喧騒、騒乱が起きるとそこに世論の注目が行く。イギリスにおけ る戦後の移民と暴動の問題を見てみますと、大きいものでは、58 年に起きたものが顕著な最初の ものとして教科書風の書物ではよく紹介されます。これはロンドンとノッティンガムで起きまし た。80 年にはブリストル、それから翌年、ロンドン、リバプール、85 年、バーミンガム。これら は教科書によく出てきます。文化の問題を捉える第 2 世代の研究者はこれらの事象を分析する形で 出現しています。文化や言説と、それと政治の関係、あるいはマイノリティと警察との関係といっ たような観点でこの暴動を分析する形です。 この 58 年、80 年、81 年、85 年の暴動、これはアジア系が注目された暴動ではありません。ど ちらかというとアフロカリビアン系の人たちが絡んだものです。その人たちが引き起こしたという 意味ではありません。その人たちと警察とのぶつかり合い、あるいは白人の若者とのぶつかり合い として生じているものです。 アジア系の人たちが暴力行為との関係で注目されたのは 80 年代後半です。ラシュディ事件があ ります。これで焚書騒動がイギリスで起きた。サルマン・ラシュディはイギリス在住の作家です。 ここでイギリスの文化ではとらえ難い状況が何か生じているとの認識です。それ以降、アジア系の 人たちというのがイスラム問題という形で不幸な形で注目されていく。フランスでも大体同じ時期 の注目のされ方だと思います。90 年代半ばには、イギリスで“islamophobia”という言葉が作られ

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ました。訳すと「イスラム嫌い」です。 ここでまた統計ですが、この頃、すなわち 90 年代半ばごろです。アジア系の人たちがこの「イ スラモフォビア」というもののなかで、どのような状況にあったのか。嫌がらせをどう認識してい たのかを推察させる資料です。マイノリティの犯罪被害者に、自分が受けた犯罪の背景に人種的な 要素があると捉えている人がどれくらいという数字ですが、「脅迫」の欄を見ていただくと、自分 が脅迫を受けた、脅迫の被害者になったときに、パキスタン系やバングラデシュ系の人たちは、そ の 7 割が、背景に人種的あるいは民族的なものがあると捉えているという数字です。これは主観的 な認識に基づく数字ではありますが、そのように捉える状況が存在していることを示します。 そして、人種的な背景の攻撃が居住地域における大変なあるいはかなり大きな問題と考える人た ちがどれくらいいるか。性別、世代別、居住地別に分かれた数字となっていますが、ここからは、 白人、黒人に比べて、またインド系に比べて、パキスタン系、バングラデシュ系の人たちはそのよ うな人種的な背景、民族的な背景による問題が自らの地域における大きな問題であると捉えている といることを示しています。自分たちを取り巻く状況が英語で言えば“nasty”ですが、「嫌らし い」ものになっているとの認識がある。 そのような状況の中でアジア系の暴動とされるものが起きます。2001 年、イギリス北部の都市、 オールダム、バーンリー、ブラッドフォードという、パキスタン系が多いとされる街で暴動が生じ ています。さらに 2005 年にバーミンガムで生じた暴動は、ある研究者はある種興味深い暴動であ ったとしていますが、マイノリティ同士のぶつかり合いであったと言われます。アフロカリビアン 系とアジア系がぶつかった、イギリスで初めての暴動というわけです。こういうふうにアジア系の 若者が暴力にかかわる形が出てきます。 あと不幸なことに、これは全世界的にですが、2001 年の米国の同時テロ、これがアジア系には 影響を与えます。イギリスでも 2005 年に爆破事件が起きました。ロンドンの地下鉄、それからバ スが爆破された。犯人はイギリス生まれの、リーズという街の出身の若者たちであった。イスラム 急進主義に共鳴した人たちです。そのころから国内育ちのテロリスト、イギリスの国内でアジア系 の若者の中に急進的な動きがあるとの認識が政府からもとられるようになっていく。不幸な見方で のアジア系の捉えられ方、“violent extremism”という言葉も出てきました。 ちなみにイギリスでは 2011 年にも暴動が起きています。記憶に新しいと思いますが、去年の夏 です。この暴動はあまり人種的あるいは民族的な背景はないと考えてよいだろうと思います。発端 は黒人の人に対する警察の発砲事件ですが、発端は発端に過ぎず、その後の展開においては、あま り人種や民族とは関係のない形で、いろいろな不満層が関与していった破壊行為でしたので、のち の時代の教科書では、2011 年の暴動は人種暴動とか、こういうマイノリティの暴動には数えない だろうと思います。

政治参加

政治参加の話です。以上の社会的な背景を踏まえた上で、ここではマクロ的な話というよりは、 事例的な話をしたいと思います。

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その前段階として、イギリスにおけるマイノリティの政治参加の特徴を考える上で、ほかの国と は異なるイギリス政治の特徴を指摘しておく必要があります。まず、マイノリティは、アジア系の 人たち、アフロカリビアン系の人たちともそうですが、選挙権、被選挙権を持っていることが多い ということです。もともと植民地の人たち、あるいは帝国の人たちに選挙権・被選挙権が認められ ていたこと、さらにその後はいま 2 世、3 世、4 世ですからイギリス生まれです。このため、ほか の国と違い、参政権が認められるかどうかという問題ではない。80 年代にほかの国で生じた起き た外国人参政権や二重国籍を巡る問題とは、あるいはフランスで起きた参政権を求める社会運動と いうものとは事情が異なるわけです。議会外のさまざまな社会団体、とりわけ労働組合を通じた形 などによる、そういう人たちの支援という政治参加の回路は、イギリスのこの点に関して重要では ありません。 あとイギリス政治そのものの特徴として、小選挙区制がとられていることもあり、選挙区ごとの 主要政党がかなり明瞭です。小政党の躍進はなかなか難しい状況です。そうすると、主要政党にい かにアプローチするかという点があらゆる国民にとって重要なポイントとなります。アジア系の人 たちも主要政党にどう近づくかということが重要となっていて、その主要政党を通じて、いかにイ ギリスの政治に自分たちの意見を反映させるかという行動をとることとなります。政党の側もその ような一定のまとまった票が見込めるマイノリティ・グループにアプローチをしていくという形 で、政党による組織化が生じていく。イギリスの場合に社会運動というよりは政党を通じた政治参 加がほかの国に比べた特徴となる。 そのような政治参加ですが、アジア系の場合、どのように政治参加を進めていったか。60 年代 から 70 年代にかけて、先ほど申し上げた 62 年の入国の規制があった後も、実は家族の入国はある 程度フリーパスでした。ですから、実際のところ入国者数というのは、アジア亜大陸からその後も 増えています。呼び寄せによって、イギリスの中で、コミュニティが 70 年代ごろまでに形成され ていきます。その時点で、もともとの地縁・血縁ネットワークが持ち込まれる形で、コミュニティ のネットワーク、あるいはコミュニティの慣習に従った形の政治というものが一定程度の中で生じ ていく形になっていきます。 ダンシジエ(Rafaela Dancygier)という米国在住の研究者が最近おもしろい本を書いています。 ロンドンから列車で 1 時間ぐらいのところに、レスターとバーミンガムというそれぞれマイノリテ ィ人口の大きい都市があります。レスターのほうはインド系が多い、バーミンガムのほうはアフロ カリビアン系とパキスタン系が多い街です。双方の都市で、政治参加の状況が 70 年代のコミュニ ティ政治の時点から全く異なると言う視点です。マイノリティの居住のパターン、これが説明変数 です。 レスターの場合には、特定の選挙区にマイノリティが集中して住んでいる。バーミンガムの場合 には、市の中で比較的拡散して住んでいると言うわけです。そして、その後の政治への関与のパタ ーンも、それゆえに、これらの都市で異なっていったと言う主張です。レスターの場合には集住が あるから、主流政党はその選挙区で勝とうとする場合に、その集住状況を意識しなければならな い。それで意識することによってマイノリティとのリンクができる。これによってさらに行政が行 う社会サービスにマイノリティのニーズが尊重されるようになっていく。ところが、そうすると、

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今度は白人から、逆差別との反発が起きる。レスターは、マイノリティへの攻撃の性格をもつこの 種の運動が強かったところです。対比的に言えば、民族間の競争がこのレスターという街では生じ た。 これに対して、バーミンガムの場合には、主要政党がマイノリティを無視した。市全体ではマイ ノリティの数は少なくないものの、居住地域が拡散しているため、マイノリティを無視しても選挙 結果に大きな違いが生じない。したがって、政党政治に依存する市の行政もマイノリティのニーズ を無視する。そうすると、バーミンガムの場合は、マイノリティの側から行政に対するサービスを 求める不満、反発が生じてきて、イギリス流では「国家」・「ステイト(the state)」といいますが、 これは行政です、「ステイト」との衝突が議会外政治の基調、あるいはコミュニティ政治のパター ンとして出てきたという説明です。 少しきれい過ぎる対比ですが、頭の部分、居住パターンという説明変数と議会外政治のパターン という非説明変数、これらを見る限りにおいては、相応に言い当てている説明です。間のリンクが これで本当にいいのかどうかというのはわかりませんけれども、1 つの仮説としては面白いと思い ます。 ただし、この研究についての私自身の印象は、きれいではあるが、1 つ重要な要素を抜かしてい るというものです。それは、レスターのマイノリティの構成というのは、先ほど挙げたアフリカか ら来たアジア系の人たちが多いという点です。東アフリカの社会でビジネス活動に従事していた経 験から、もともと経済的に成功する要素を大きく持っている人たちが多く、イギリス移住後の経済 水準も比較的高いので、早い段階から社会にうまく溶け込めたというところもある、政治的関与を うまく作れたというところもあるのではないか、という点はあります。とはいえ、70 年代の動き を、ある意味、図式的に理解するには、ダンシジエの見方は面白いと思います。 時期的にはその後、80 年代になりますと、議会政治へアジア系の人たちの参入が本格的に進ん でいくことになります。政党側の視点からでは、左派の労働党の動きが大きかった。この時期、国 政は右派の保守党です。79 年から 90 年までサッチャー、その後にメージャーを首相として、97 年 まで保守党政権が 18 年間続きました。その間、労働党は全般的には振るいませんでした。とはい え、労働党はどちらかいえば大都市圏で強い。ですから大都市圏には労働党系の自治体も多く、そ こで国政における失地を埋め合わせる形がありました。労働党のこのような都市部におけるネット ワークは、マイノリティへのアプローチを積極的に進めていく形になります。マイノリティの票を 集めていく。これはアフロカリビアン系に対してもアプローチは当然あったのですが、アジア系に ついてはどのようにアプローチしたか。コミュニティの属性をいわば理解した上で、先ほど申し上 げた 70 年代までにできた出身地から持ち込まれたネットワークを利用した形で伝統リーダーにア プローチする。そこを起点に、そのネットワーク全体の票を一気に集めようとしたわけです。 このアジア系の伝統リーダーへのアプローチは労働党が早かったのですが、保守党、そして自民 党という第 3 党もこれに続いていきます。 もう 1 つのパターンは、インド系の場合に見られますが、社会的に成功した人のなかに個人で主 要政党に関与していくというケースも出てきました。写真はキース・バズ(Keith Vaz)という人 ですが、アジア系議員としては第 2 次大戦前以来のアジア系の下院議員です。87 年の選挙で当選

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しています。いま最も有名なアジア系議員と言ってもいいだろうと思います。労働党です。次のシ ャヒド・マリク(Shahid Malik)という人は、初のイスラム系の閣僚です、パキスタン系です。つ い最近 2007 年に就任しています。最後の人はサイーダ・ワルシ(Sayeeda Warsi)という方で、こ の人は初めてのイスラム系女性閣僚で、現職です。保守党としては第二次大戦後初めてのイスラム 系閣僚となります。この人は若い方で 1971 年生まれ、弁護士です。スーツを着て出てくることも ありますが、このような民族衣装で出てくることも少なくありません。閣僚というのは保守党の幹 事長です。イギリスの場合は保守党の幹事長といっても、日本の主要政党の幹事長ほど権力がある わけではありませんが、保守党のスポークスパースンです。イスラム系の若い女性にとっては、こ の人は一つのロールモデルのようです。 このように 80 年代以降、人数こそ多くはないものの、アジア系は少しずつ政治の主流の部分に 入って来ています。 以降の時期を見ると、転機として大きいのは、やはりイラク戦争、アフガン戦争です。ここでア ジア系の人たちの政党に対する支持が少し変わります。何かというと、このアフガン戦争、イラク 戦争というのは、イギリスではブレアが派兵の決定を下した戦争です、労働党が決定した戦争で す。アジア系は保守党とか自民党とのつながりもありますが、どちらかというと労働党とのつなが りが強かった。しかし、その時点で労働党離れが生じ始めることとなります。とりわけイラク戦争 は 2003 年の 3 月に始まっています。毎年イギリスでは 5 月に統一地方選があります。この年の 5 月の選挙以降、労働党離れが顕著になります。 多くは第 3 党の自民党に流れたと言われています。保守党もイラク戦争に一応賛成ですので、2 大政党は賛成です。これに対し、第 3 党の自由民主党は反対ですから、自民党に流れたと言うわけ です。この状況を見て、BBC などの主要メディアも“Asian vote”という言葉を使いました。アジ ア系のまとまった票に注目するわけです。イメージとしては、アジア系を政治的に敵に回してしま ったな、というものがあります。ただ私自身のとらえ方は、これは組織票といえるようなものでは ないのではないように思います。この点について、詳しくは後で説明します。確かに動いたのです が、それは組織票ではなくて、やはり個人的に動いているのではないかと思えるところがありま す。ですから、“Asian vote”という言い方で 1 つのまとまりとして考えるというのは、誤解を招き かねないと思います。 同時に、この時期のアフガン・イラク戦争を巡る動きから生じたのは、アジア系のとりわけイス ラム系のコミュニティ内部からの長老政治批判です。先ほどとりあげた、伝統的なコミュニティリ ーダーという存在への批判が出てきます。このとき伝統的なリーダーには、労働党への支持を変え たくないという者も結構多かったようです。なぜかというと、彼らがイギリス社会のなかで持って いるリソースを考えると、主要政党とのつながりのかなめにあるというところにコミュニティ内部 に対しての権力リソースがあった。これが 70 年代からのコミュニティ政治、80 年代の主要政党と のつながりの中で明確になっていた。それをみすみす手放すだろうか、ということです。伝統的な リーダーは、労働党からなかなか離れることができない。他方で、アフガン・イラク戦争に対する 反発は、とくにパキスタン系、バングラデシュ系の中では少なくない。ここでそのような、いわば 長老政治的なものに対する批判、矛盾が表面化してきます。

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今日は人類学者の先生方も多いと思いますので、このあたりを教えていただければと思います が、「ビラデリ」という言葉がメディアをにぎわすようになります。「ビラデリ」というのは、私が 説明するのも変ですが、地縁・血縁のネットワークのようですね。このようなパキスタン系、バン グラデシュ系の人たちの。このビラデリというネットワークがパキスタン系、バングラデシュ系の 政治を支配しているという捉えられ方が、ちょうどこのころ、メディアで取り上げられるようにな ってくる。 ある意味、運が悪いことに、このころイギリスでは郵便投票が導入されました。この郵便投票を めぐって不正がいろいろな形で起きてしまいます。この不正についても関係する枠組みで理解され てしまいました。すなわち、郵便投票用の用紙をコミュニティリーダーが集め回って書いていると いうイメージです。これについては、どうも実際にもないわけではなかったようです。サルマ・ヤ クーブ(Salma Yaqoob)という人物ですけれども、パキスタン系の女性で、71 年生まれという若 い社会運動家です。先ほどの保守党幹事長のワルシと並んで、イギリスの若いイスラム系女性のロ ールモデルと言われる人物ですが、この人が伝統リーダーの政治を批判する。これは『ガーディア ン』という全国紙で批判しています。

レスペクト党への支持

今日の話は、次の事例をもって終わりにしたく思います。レスペクト党という政治団体が、この 動きの中で 2000 年代の後半、イギリスの政治で注目されるようになります。実をいいますと、注 目されるだけで議席にはさほどつながってはいないのですが、いずれにしてもレスペクト党という 団体が注目されるようになります。尊重という意味ですが、略称でもあり、Respect、Equality、So-cialism、Peace、Environmentalism、Community and Trade Unionism の頭文字をとったイデオロギー 的には左派に位置する政党です。イラク戦争への反発を契機に、さまざまな団体が集まって、2004 年につくられました。2004 年の地方選挙、この年は欧州議会選とのスケジュール調整で 6 月の実 施になりましたが、それに合わせて作られた政党です。 正式な党首は、先ほど名前を挙げたサルマ・ヤクーブです。このレスペクト党には、彼女が関与 していた反戦の社会運動が合流しており、彼女が本当の党首です。でも有名なのは、ジョージ・ギ ャロウェー(George Galloway)という人物です。この人は現状、レスペクト党唯一の国会議員で、 彼のほうが一般の人々には有名です。どういう人かといいますと、もともと労働党に所属していた 政治家で、そのなかでも頑固な左派です。そこから理解いただけると思いますが、平和主義で、イ ラク戦争に反対、それでブレア執行部を批判し除名になってしまった。レスペクト党は、2005 年 の総選挙で全国 20 以上の議席に候補を立てましたが、通ったのは 1 人だけで、それがこのギャロ ウェーです。タワーハムレッツというロンドンのバングラデシュ系が多い選挙区で当選しました。 彼はそこで、イラク戦争反対をイスラム系の有権者にアピールする形の選挙戦を展開したわけで す。 ギャロウェーという人物は、イギリスの一般の人は大体名前を知ってる人です。この写真を見て もらえると、彼のパーソナリティもある程度わかるかと思います。この写真では、後ろに載ってる

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のはサダム・フセインです。ギャロウェーはもともとパレスチナ寄りです。親アラブ、反イスラエ ル、反米、筋金入りの外交政策における左派です。サダム・フセインと会談をする。右下の写真で は、変な格好をしています。少々変わり者でもあります。テレビのバラエティーショーに出ていっ て、ある意味、おちゃらけというか、イギリス人のある意味、エスタブリッシュメントが見たら眉 をひそめるようなパーソナリティを持っている。この人は何でもやるだろうと思えるような人物で す。それでも右上の写真は、彼の真剣な顔です。左下ですが、悪ガキが大人になったイメージの表 情です。世論の最大公約数的としてのギャロウェーのイメージはこのあたりかと思います。ですか ら、彼が本心でイスラム系へのアピールがイスラム系の共感に基づくものかはわかりませんが、少 なくとも彼は選挙で勝つためにアピールした。 同じような選挙戦が、この後、今年 2012 年の春に、ブラッドフォードでしかけられました。こ のレスペクト党の選挙が注目されました。ブラッドフォードは、パキスタン系が多い都市、あるい はパキスタン系の都市というイメージがイギリスの一般の人にとっては多いです。調べてみて私も 驚いたんですけれども、人口ではイングランドで第 5 位の自治体です。これだけ見ると大都市に見 えるのですが、実はそんなことはありません。同じ数字ではマンチェスターの人口の方がブラッド フォードよりも少なくなっています。マンチェスターはロンドンに次いでイギリス第 2 の都市くら いのイメージですが、行政区画と人口はずれている印象があります。このブラッドフォードは行政 区画の人口では第 5 位の自治体ですが、どう見てもひなびた地方都市です。ひなびたというところ が重要で、失業率は高い。もともとは繊維産業で潤ったウエストヨークシャー地方にあります。し かし戦後、社会資本も整備されず、隣接するリーズという大きな都市と比較したときに、リーズは ロンドンとの間に直通の特急が頻繁にあって再開発も進んだ街ですが、そこからローカル列車に乗 り換えて 15 分のブラッドフォードというのは寂れた街、がらがらの地方列車が通じているといっ たイメージです。パキスタン系の人口が多く、イギリスにおけるラシュディ事件での焚書の中心と なった街、それから暴動もしばしば起きる街、こういうイメージです。 ここで今年の 3 月、インド系の労働党の現職議員が健康を理由に辞任したことに伴う下院の国会 議員の補欠選挙がありました。このブラッドフォードウエストという選挙区は労働党のいわゆる安 全区で、74 年以来、ずっと労働党です。最近の総選挙での得票率も労働党候補が 4 割を超えてお り、労働党が負けるはずはないと考えられるところでした。ちなみに、この選挙区は、人口の 41 %がアジア系で、非常にマイノリティ系が多いところです。多くがパキスタン系と考えていいと思 います。 ですので、補欠選も無風となるはずでした。労働党はいわば普通に、パキスタン系の候補、市議 会の議員だった人物を立てました。これで労働党としては問題なかったはずでした。しかし、ここ に先ほどのギャロウェーが乗り込んできました。彼は 2010 年の総選挙でロンドンでの議席を失っ ていました。彼がこのブラッドフォードウエストで立候補した。その時点では、誰もが泡沫候補と 思ったわけです。変わり者が、しかもブラッドフォードと全然関係ない人物が来た。これは冗談か って。私が話を聞いた大学の先生も、ジョークと思ったと言います。労働党にとっては余裕の選挙 戦、絶対勝つと思っていたに違いありません。しかし結果は、労働党候補は 8,200 票で 2 位。勝っ たのはギャロウェーで 1 万 8,341 票、1 万票の差がついてしまいました。2010 年の総選挙でもレス

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