公法と私法の再構築(1) : アメリカでのステイト・アクション法理と表現の自由論からの一考察
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(2) 北海道教育大学紀要(人文科学・社会科学編)第64巻 第2号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(HumanitiesandSocialSciences)Vol.64,No.2. 平成26年2 月 February,2014. 公法と私法の再構築(1) −アメリカでのステイト・アクション法理と表現の自由論からの一考察−. 籾 岡 宏 成. 北海道教育大学旭川枚法律学研究室. ReconstructingPublicandPrivateLaw,Partl MOMIOKA Hironari. DepartmentofLaw,AsahikawaCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 グローバル化する国際社会の中にあって,国内における公法と私法のあり方も見直しが急務 とされているが,通説的な見解もなく,本格的な議論も始まっていないのが実情である。しか し,アメリカ合衆国におけるステイト・アクション法理と表現の自由論が交錯する局面での議 論を検討することにより,公法・私法の関係をめぐる予備的な考察が可能であるように思われ る。本稿では,まずステイト・アクション法理の展開を概説し,一貫性の欠如という深刻な問 題を抱えていることを確認する。さらに,表現行為との関連でステイト・アクション法理がど のような局面で適用できるかについての合衆国最高裁の立場の変遷を示し,これに関連する判 例について触れる。最後に,アメリカでの公私区分の是非をめぐる議論を紹介する。. Ⅰ.はじめに おそらく現代社会ほど,公法と私法の特質を整理しその関係について抜本的な見直し行うことを必要とす る時代はかつてなかったと言ってよいであろう。なぜならば,一方において公法の私法化,逆に私法の公法 化(「公法と私法の融合」ないし「公法・私法の区別の相対化」1)が指摘されていながら,他方において両 者の峻別を維持し一定の緊張関係を持たせる,または両者の「協働」2を期待する局面も見られ,両者の関係 1 公法と私法の区別の相対化という現象を権利の相対化と関連づけて論じ,プライバシーの権利という文脈の中で,公私の 区分の重要性を主張した論文として,浅野有紀「プライヴァシーの権利における公法と私法の区分の意義」初宿正典他編『国 民主権と法の支配一任藤幸治先生古稀記念論文集〔下巻〕』179頁以下(成文堂,2008年)がある。 2 公法と私法の協働という現象については,山本隆司「司法と公法の 〈協働〉 の様相」法社会学66号16頁以下(2007年),. 秋山靖浩「民法学における私法・公法の 〈協働〉一生括環境の保全・形成の場面を素材にして−」法社会学66号37頁以. 13.
(3) 粗 岡 宏 成. をどのように捉えるかが重要な課題となるからである。いずれの方向へ向かうにせよ,こうした公法・司法 の関係の変容の背後にあるのは,経済のグローバル化という情勢の中での企業体を中心とした組織内の規範 の強化,行政活動の広範化・肥大化といういわゆる行政国家現象の進行などの,国際関係,国内情勢の急激 な変化である。言うまでもなく,国際化・グローバル化という文脈においては,このことはわが国固有の問 題にとどまらず,程度の差こそあれ他国の法制度にも係わる問題であると言っても誤りではなかろう。. しかしながら,このように多様化し錯綜した状況にあるためか,公法と私法の関係,ひいてはこれと深く 関連する公的領域と私的領域をめぐる法規制のあり方については,統一的な見解の一致はおろか,その理論 的な枠組みも提示されていないだけではなく,本格的な議論さえも緒に就いていないのが実情であるように 思われる。. 本稿の目的は,こうした状況を踏まえつつ,メタ・レヴュルでの理論構築を試みるのではなく,そのため の予備的作業の一環として,アメリカ法におけるステイト・アクション法理と表現の自由論が交錯する事例 をめぐる議論を考察しながら,公私区分が現代において有する意義は何かについて再検討を行うことにある。. こうした観点からの分析を試みるのは,一方においてステイト・アクション法理が公私の区別を前碇として おり,他方において表現の自由の分野においては,「パブリック・フォーラム論」などに象徴されるように,. 公的領域と私的領域を区別する考え方が強く打ち出される局面もあり,これらの交錯する事案を検討するこ とは,現代の法的な諸問題を考える上での公法・私法の区別の意義は何かについて重要な示唆を与えてくれ るものと考えるからである。. 以上のような問題意識の下,本稿は以下の構成をとる。Ⅲでは,アメリカ法におけるステイト・アクショ ン法理の展開を概説し,一貫性の欠如という深刻な問題を抱えていることを確認する。Ⅲでは,表現行為と の関連でステイト・アクション法理がどのような局面で適用できるかについての合衆国最高裁の立場の変遷 を示し,これに関連する判例について触れる。Ⅳでは,アメリカでの公私区分の是非をめぐる学説の状況を 紹介する。. Ⅰ.アメリカにおけるステイト・アクション法理の展開 アメリカ法におけるステイトアクション法理は3,極めて複雑であり,その目的・意義そのものについ てさえ議論が絶えない「難題」の一つであるとされる。アメリカ法学の泰斗チャールズ・L・ブラックも4, 「見るも無残な概念上の領域(conceptualdisasterarea)」5と述べたほどである。以下に述べるように,最 下(2007年),名和田是彦「「協働」・「新しい公共」・「市民社会」−「協働」をめぐる言説分析−」法社会学66号54 頁以下(2007年),田中成明「私法・公法の〈協働〉と司法の機能一現代型訴訟を素材に−」法社会学66号66頁以下(2007 年)などを参照。. 3 ステイト・アクション法理について詳細に論じた邦語文献としては,榎透『憲法の現代的意義アメリカのステイト・ アクション法理を手掛かりに−−−−−−−−¶(花書院,2008年),木下智史『人権総論の再検討一私人間における人権保障と裁判所 −−−−−−−−¶69−162頁(日本評論社,2007年),宮下紘「ステイト・アクション法理の理論構造」一橋法学7巻2号239−307頁(2008. 年),同「ステイト・アクション法理における公私区分(1)∼(2・完)」一橋法学5巻3号961頁以下(2006年),6巻1 号157頁以下(2007年),榎透「ステイト・アクション法理にみる「国家」」専修法学論集100巻211号243頁以下(2007年),ジェー. ムズ・E・ハーゲット,渡辺賢(訳)「アメT)カ憲法におけるStateAction法理の展開」北法35巻6号59−85頁(1985年) などがある。 4 チャールズ・ブラックの来歴,業績については,駒村圭吾他編『アメリカ憲法の群像一理論家編』(尚学社,2010年)3−32. 頁を参照。 5 CharlesL.Black,Jr.,TheStゆremeCourt,1966Term−−」わreu,Ord:‘SiaieAction,”EqualProiection,and PrpPosition14,81HARV.L.REV.69,95(1967).. 14.
(4) 公法と私法の再構築(1). 高裁がこの法理が適用される射程を限定的に捉えるようになっているとされる現在でさえ,学説ではその是 非をめぐって依然として激しい見解の対立が見られる。. 1.英米法の特質一民事・刑事責任の非峻別 ところで,周知の通り,イギリス法の流れを汲むアメリカ法においては,パンデクテン法典などに象徴さ れる抽象性・体系性を特徴とする大陸法体系とは大きく異なり,公法・私法の区別はそれほど強く明確に意 識されてこなかったと言われている。これは,現在のアメリカにおいても,刑事事件,行政事件,民事事件 は必ずしも峻別されておらず,むしろそれぞれが相互に補完,協働する側面が見られるということを意味す る6。 そのような民事・刑事責任の未分化,非峻別という現象は,アメリカに固有の次のような法制度が存在し, 社会において一定の機能を果たしていることから例証できる。これには,民事手続を通じて刑事上の法的効 果を求めるものと,私人が本来のルートではない刑事・行政手続を通じて法実現を求めるものがある。前者 の例としては,民事訴訟を通じて悪性の高い被告の行為に対する処罰・抑止を目的とした懲罰的損害賠償 (punitivedamages)7,連邦または州が制定法に基づき法違反者に課す民事罰(civilpenalty),州が州民の 健康,福祉,消費者保護などの公共の利益の観点から,被保護者に代わって被告事業者等に損害賠償を請求 できる父権訴訟(加椚徹り矧桁毎)などがある。後者の例としては,公的機関の違法支出の差止などを目的 として住民が訴訟を碇起することを許す納碗者訴訟(taxpayers’suit)などが挙げられるであろう。このよ うに,アメリカにおいて民事・刑事の手続が明確に区別されていないのは,英米法における「法の実現方法 の多様性・柔軟性」の重視といった根源的な特質に深く由来するものと思われる。. 2.ステイト・アクション法理の特質−公的・私的領域の区別 これに対して,ステイト・アクション法理をめぐる議論においては,公法上の概念を私人の行為にいかな る範囲で適用するかという議論であったことから,おのずから公的領域と私的領域の区別が意識されてきた。. この意味において同法理は,アメリカ法の特徴の一つである上記のような公法・私法の未分化(民事・刑事 責任の非峻別)とは,その発想において大きく異なる存在であるとも言える。. だがその一方においては,私人による人種差別,信教の自由の侵害といった人権保護の中核部分に係わる 極めて重要な問題がアメリカ社会において顕在化し,こうした事態に司法的な対処を行うためのツールとし てステイト・アクション法理が用いられていたことから,単に周辺的な法理として一蹴できない大きな重み を有していたことも指摘しなければならない。事実,とりわけ私人が直接的に関与する差別行為という問題 の解決においては,この制度が重要な機能を果たしてきたと言ってもよい。以下,この法理がいかなる状況 で生まれ,どのような展開を見せてきたのかについて概略を説明する。. 6 アメリカ法における民事刑事の峻別の不存在という特徴については,田中英夫『英米法総論(下)』(東京大学出版会,1980 年)515−19頁を参照。 7 この制度全般については,拙著『アメリカ懲罰賠償法』(信山社,2012年)を参照。なお,民事・刑事峻別に関連した論 点として興味深いのは,過大な懲罰賠償額を被告に課すことが合衆国憲法第8修正の「過重な罰金の禁止」条項に違反する. か否かが争われた判例(Browning−FerrisInd.,Inc.Ⅴ.KelcoDisposal,Inc.,492U.S.257(1989))において合衆国最高裁は, 懲罰賠償があくまでも民事手続の中で与えられることを強調して,すなわち民刑峻別論を主たる根拠として,合憲判断を示 している点である。同書,100−102頁参照。. 15.
(5) 粗 岡 宏 成. 3.ステイト・アクション法理の生成・展開. 日本国憲法と同様に,個人としての権利について定めた合衆国憲法の中の主要な規定が,特定の行為を禁. 止する対象として想定しているのは政府である。例えば,同法第1修正には,「連邦議会は,…言論または 出版の自由を制限する法律を制定してはならない(傍点筆者)」とあり,州政府による個人の権利の侵害を. 禁じた最も重要な条項である第14修正には,「州は,…何人からも,デュー・プロセスを経ずして,その生命, 自由または財産を奪ってはならず,その権限内にある者から法の平等な保護を奪ってはならない(傍点筆者)」 と規定されている。こうした文言にしたがい,合衆国最高裁は,連邦・州の政府ではない被告については, 憲法条項の適用を目的とした訴訟はあり得ないという立場をとってきた。この原則を確認した古典的な裁判 例が1883年のCivilRightsCasesであるが,この中で合衆国最高裁は,第14修正が連邦議会に授権したのは 州の行為であって私人の行為ではないと判示した8。その後も公私の区別論は判例の上で発展を見せ,20世. 紀初頭のLochnerv.NewYork9,Coppagev.KansaslOなどの判例において頂点に達することになった。 これらの判決においては,連邦憲法のデュー・プロセス条項によって,財産権や契約を結ぶ自由が州の規制 権限から保護され,しかもそうした権利・自由は,憲法が個人に対して与えた基本的なものであることが最 高裁によって明確に打ち出されている。最高裁が経済的自由に関する実体的デュー・プロセス法理を放棄し た後は11,公私の区別の憲法上の争点は,通常は私的な存在である個人・組織が連邦裁判所によって「ステ イト・アクター(stateactor)として位置づけられるのが適切であると言える」12のはいかなる場合かとい う問題に移行した。 現在のステイト・アクション法理の下では,最高裁が問題とするのは,「憲法上の権利の剥奪と主張され るものが,州の権限に由来する権利または特権を行使したことから生じたのか否か」13であるとされる。最 高裁が折に触れて示してきたのは,伝統的に行政行為に随伴してきた類の機能を,政府ではない被告が果た しているか否かという観点から分析するという論理構成であった。例えば,Marchv.Alabama判決におい ては,「企業城下町(companytown)」が他者の表現行為に制約を加えることを禁ずる判断を最高裁が示し ている14。ただ,こうした「公的機能」に着目した論理構成は,究極的には財産の所有権者の利益と表現者 などの利益との間の黙示的な衡量に他ならないという見解もある15。 それよりも多く採用された論理構成は,政府ではない被告が,政府との契約,政府からの授権,規制など を通じて,政府との十分に密接な関連性を有しており,その行為を政府の責任に帰すことができるかどうか. を検討するというものであった。例えば,Burtonv.WilmingtonParkingAuth.判決では,州が所有する ビルに入居していたレストランによる人種差別行為を最高裁は禁じている16。. 8 TheCivilRightsCases,109U.S.3,11−12(1883).この判例については,勝田卓也「私人による人種差別と連邦法による規 制権限」樋口範雄他編『アメリカ法判例百選』50−51頁(有斐閣,2012年)を参照。 9 198U.S.45(1905).この判例については,川岸令和「経済的自由とデュー・プロセス条項(1)」樋口他編・前掲書(注釈8) 90−91頁を参照。 10 236U.S.1(1915).. 11Nebbiav.NewYork,291U.S.502,537−39(1934).これは,最高裁がデュー・プロセス違反の主張を斥け,牛乳の小売価 格の上限を設定していたニューヨーク州の規制を支持し,財産権や契約に対する制限を憲法の観点から厳しく審査しないと. 判示した事案である。 12 Lugarv.EdmondsonOilCo.,457U.S.922,939(1982). 13 Edmonsonv.LeesvilleConcreteCo.,500U.S.614,620(1991). 14 326U.S.501(1946).. 15 Seee.gl,KathleenM.Sullivan&GeraldGunther,CONSTITUTIONALLAW873(14thed.2001). 16 365U.S.715,722(1961).. 16.
(6) 公法と私法の再構築(1). 繰り返しになるが,このようなステイト・アクション法理の下では,裁判所が禁ずることができるのは, あくまでも州の行為のみである。そのため,政府ではない個人・団体による行為が州政府と不即不離の関係 にあると裁判所が認定した場合には,裁判所による事案解決には二通りあった。第一には,そうした非政府 の行為そのものをステイトアクションに擬制して被告に法的責任を負わせるというやり方であった17。第 二には,そうした行為を促進・助長したとして政府の組織・団体に対して原告への救済措置を命ずるもので あった。後者の例として著名なShellyv.Kraemer判決では,一方の人種のみに対して不利な条件の不動産 契約書中の約款条項を州の裁判所が執行することを連邦最高裁が禁じている18。. 4.ステイト・アクション法理の問題点−一. 貫性の欠如. ステイ1、・アクション法理は,私人による人種差別行為などを司法的解決に持ち込めるという点において 極めて有用な道具として機能していたが,その反面において様々な批判を受けることになった。その中でも 最も非難が集中したのは,同様の事案であっても結論が異なりうるという法的安定性・一貫性の欠如という 問題であった。そもそも,ある判例において「事実関係を厳密に吟味し状況証拠を比較考察することによっ てのみ,私人の行為における州の明白でない関わり合いを認定することができる」19と述べられていること からも分かるように,ステイト・アクションの問題を扱うにあたり最高裁自身が「事件ごとに(case−by− case)」対応していた側面が強いと言える。. 以下の最高裁の判例における事実関係を見るだけで,結論の予測不能性という問題の深刻さの一端が窺え る。例えば,政府が保有するビルで賃貸しをしていたレストランが人種差別を行っていた場合にはステイト・ アクションとなるとする判例がある一方において20,酒類を販売する政府による免許を取得する私的クラブ が差別を行っても法的な責任を問われることはないとした事案もある21。人種差別的な内容の不動産賃貸借 契約を裁判所が執行することはステイトアクションにあたるという裁判例がありながら22,他方では,遺 言書における人種差別的な条項を裁判所が執行するのはこれにあたらないとした事案もある23。地元の差別 禁止法が州憲法に基づいて廃止されたことを受けて土地所有者が行った人種差別的な賃貸借行為については ステイトアクション法理が適用されるとした判例がある一方で24. ,州が導入した統一商事法典に基づき抵. 当権を行使する中で,委託された動産を売却処分した卸売業者には適用されないとした判例もある25。一方 的な手続の中で,州裁判所を利用して債務者の財産を差し押さえた債権者がステイト・アクターにあたると した事例がある一方で26,州から付与されていた独占的な権限を用いて,告知や発言の機会なしに消費者へ の電力供給サービスの打ち切った公共事業体は,それにはあたらないとした事例もある27。さらには,公立・ 私立学校の代表を集めた州規模の体育協会はステイト・アクターになり得ると判示した判例がある一方. 17 5ビゼg.g,オd.at725.非政府の行為者が州とは独立している場合には,非政府の行為の責を州に帰することができるとした。 18 334U.S.1,1920(1948).この判例については,宮下紘「私人による人種差別と州行為の理論」樋口他編・前掲書(注釈8) 52−53頁を参照。 19 β〟γわ〃,365U.S.715,722(1961). 20 〟.at726.. 21MooseLodgeNo.107v.Irvis,407U.S.163(1972). 22 5ゐゼ触334U.S.1,20(1948).. 23 Evansv.Abney,396U.S.435,444−45(1970). 24 Reitmanv.Mulkey,387U.S.369,378−79(1967). 25 FlaggBros.,Inc.Ⅴ.Brooks,436U.S.149,164−66(1978). 26 Lugarv.EdmondsonOilCo.,457U.S.922,941−4(1982). 27Jacksonv.Metro.EdisonCo.,419U.S.345,358−59(1974).. 17.
(7) 粗 岡 宏 成. で28,全米規模の同様の体育協会はこれにあたらないとした判例もある29。こうした事案から,ステイト アクションについての最高裁の態度は,それぞれの事案における事実関係に深く依拠しており,一貫した判 示内容を提示できていないことが分かる。. Ⅱ.表現行為へのステイト・アクションの適用 1.合衆国最高裁判例の流れ 次に,表現の自由論との関連での議論についての検討に入る。私的財産の領域(私有地)において言論の 自由が憲法上保護される射程と,その中でのステイト・アクション法理の位置づけは,半世紀以上もの間, 合衆国最高裁の判例の流れの中では未解決のままである。 この点が問題となった最初の判例は,1946年に出されたMarchv.Alabama判決30である。この事件にお いて最高裁の多数意見は,機能の面から企業城下町を伝統的な町と区別することはできないとし,第1修正 が政府に適用されるのと同様に当該企業にもこれが適用され,他者の表現活動を制限することはできないと 判示しが1。 ショッピング・モールでの表現活動が問題となった事案が最高裁での判断を仰いだのは,約20年後の1968. 年のAmalgamatedFoodEmployeesUnionLocal590v.LoganValleyPlaza,Inc.32判決においてであった。 この中で最高裁は,私人が所有するショッピング・センターをビジネス街と同視し,そこでピケを張る行為 を権利として認めたのであっ7:33。しかし,ほどなくして1972年のLloydCorp.v.Tanner34判決において最 高裁はその判示内容の適用範囲を狭め,ショッピング・モールでの表現活動がモールの設置目的と直接関係 を有し,かつその情報伝達において発言者に他の代替的手段がなかった場合でなければ,憲法上の保護を受 けないという判断を示しが5。. さらに最高裁はその直後の1976年のHudgensv.NLRB36判決において,第1修正の適用範囲を拡大した LoganValley判決での判示内容を完全に覆すことになった。そこでの最高裁による判示内容は,Lloyd判 決の流れを推し進めるものであり,第1修正が対象としているのは「ステイト・アクションであって,専ら 私的な目的のために非差別的に用いた私有財産の所有者による行為(アクション)ではない」ため,言論の 自由の主張を行うためには,間口段階でのステイトアクションの立証が必要であるというものであっが7。 したがって,私人所有者による言論規制はステイト・アクションにあたらず,そのため第1修正違反にもな り得ないと結論づけが8。. 28 BrentwoodAcad.Ⅴ.Tenn.SecondarySch.AthleticAss’n,531U.S.288,290(2001).この判例を題材に民間の非営利法人 による個人の権利侵害の問題を論じた邦語文献として,藤井樹也「非営利法人の権利侵害行為とステイト・アクション法理」 国際公共政策研究7巻2号15頁以下(2003年)がある。 29 NCAAv.Tarkanian,488U.S.179,181−82(1988). 30 326U.S.501(1946). 31 〟.at507−10.. 32 391U.S.308(1968). 33 〟.at318−19. 34 407U.S.551(1972). 35 〟.at568−70. 36 424U.S.507(1976). 371d.at519(quotingLIpyd,407U.S.567). 38 〟.at519−21.. 18.
(8) 公法と私法の再構築(1〕. 2.関連する判例 ステイト・アクション法理が論点となったわけではないものの,表現の自由との関連で公私区分を最高裁 が明確に打ち出した著名な判例としては,NewYorkTimesv.Su11ivan39判決がある。ニューヨーク・タイ ムズ紙の意見広告に掲載された公民権運動を強く支持する表現が公人に対する名誉毀損にあたるかが争われ たこの民事訴訟において. ,合衆国最高裁は,被告が「現実の悪意」をもって当該表現行為を行ったことを公. 職者である原告が立証できなければ損害賠償をとることができないと判示している。注目に催するのは,こ の訴訟の両当事者は私人であったにもかかわらず,原告勝訴判決を裁判所が執行することは,救済を与える ことの可能なステイトアクションに相当したであろうと述べていることである40。これは1964年の判決で あるが,上述のLoganValley判決(1968年)への流れを作ったという見方もできる。また,当時リベラル 色を強めていたウオーレン・コー1、を象徴する判例であったとも言える。 1970年代に入ってからは,メディアが被告となった事案において,報道機関がステイト・アクターになる か否かが論じられる判例も見られるようになった。例えば,MiamiHeraldPubl,gCo.v.Tornillo41判決では, 紙上で批判された選挙の立候補者が同紙で反論を行うことを認めるよう新聞社に義務づけていた州の立法が 違憲であると判示されている42。また,放送の免許を取得した報道機関は,政府と密接な結びつきが見られ るから,ステイトアクターにあたるのではないかが争われたCBSv.DNC43判決では,そうした議論が多 数意見によって斥けられている44。これらは,憲法上の保護を受ける表現の自由の範囲を限定的に捉えてい. るという意味において,上記のLloyd判決(1972年),Hudgens判決(1976年)などと同一線上の流れに ある判例群として捉えることもできるであろう。. Ⅳ.公私区分論の展開 さて,アメリカにおいては判例だけではなく学説においても,ステイト・アクション法理に関する議論に 附随する形で,そもそも公私それぞれの領域を区別することの是非,ひいては公法・私法の関係をめぐる議 論が活発に展開されていると言ってよい。公私区分を肯定する側の議論,批判的に捉える側の議論,そして 両者の主張を組み入れ,いわば「止揚」したうえで公私区分のありかたを模索する立場があるが,ここでは,. それぞれの立場をごく簡単に簡潔に紹介した上で全体を傭撤したい。. 1.肯定論者の主張. まず,権力分立の観点から公私区別を支持する考え方がある。この立場は,様々な権利が対立する論争を 裁定する際に必要な価値判断を裁判所が行うことは不可能であるし行うべきでもないと主張する。歴史に着. 目して説得力のある議論を展開しているミカエル・サイドマンは,ニュー・ディール期のリベラル派がステ イト・アクション法理を拡大させたのは,拡大してきた州の規制権限への裁判所の介入を監視するためで. 39 376U.S.254(1964).これは,名誉毀損事案において憲法の観点から表現の自由を強く保護する「現実の悪意」の法理を打 ち出した判例として,日本でも多くの論者が紹介しているところであるが,常本照樹「名誉毀損と言論の日向」樋口他編・ 前掲書(注釈8)70−71頁を参照。 40 Sullivan,376U.S.254,at265(1964). 41418U.S.241(1974). 42 〟.at258. 43 412U.S.94(1973). 44 〟.atl19.. 19.
(9) 粗 岡 宏 成. あったと主張している45。 しかし,こうしたある種の「司法抑制論」的な観点からの擁護論には弱点もある。サイドマン自身も,司 法的介入から免れるために求められ法的に革命を起こしたリベラル派そのものが公的・私的領域の区別を不 安定・不明確にした存在であったため,ステイト・アクション法理は裁判官の権限を抑制するためには首尾 一貫しない概念装置であると述べている46。さらには,権力分立の観点からの公私区分支持論が依拠してい るのが,諸権利が対立する紛争において重要な諸利益を較量するための裁判官の能力に関する否定的な評価 である点には疑問を抱かざるを得ない。裁判官はその職業上の立場から,憲法上のいかなる立場にあろうと も,自分が担当する事件については対立する重要な諸利益について較量を行うことが通例であるからであ る47。 次は,公私区分を自由のために不可欠なものと捉える立場である。そもそも,公私区分という考え方は, 人間が行う活動の中の特定領域は不可侵なものであるとする自然権理論と密接に結びついている48。ロバー ト・ムヌーキンという論者は,「公と私を明確に区別する考え方は,個人には権利があるがゆえに,個人と 対峠する政府の権力には制限があるというリベラル思想の基本精神と深く結びついている」49と説明する。 マイモン・シュパルツキルトというという論者は,「一定範囲の本質的に重要な価値観が揃いも揃って没却 することのないように,個人と組織が,…多面性や多様な価値観に従って自由に行動できることを前提とし ている」50ため,公私区分論を支持するとしている。公私区分を支持するリバタリアンの議論は,人々の行 動を抑圧し個人の自由を妨げる固有の権能が政府にはあるという前提に依拠している。例えば,チャールズ・ フリードという論者は,「たとえ地方自治体の条例という控え目な外観をとっている場合であっても,州と は法そのものであり,その法は終局的なものである」51と述べている。実際に,公私区分を支持する憲法学 者の中には,現在のステイト・アクション法理の下では政府の権限があまりにも狭い範囲に抑制されており, 個人の自律のために必要とされる領域が確保されていないと批判する者もいる52。. 45 LouisM.Seidman,771eShlteActionR17mdox,10CoNST.CoMMENT.379,398(1993). 46 〟.at399.. 47 憲法問題を扱う事件においては,裁判官こそがそうした較量を行うのに相応しい立場にあるとする主張については,. Black,St4mlnOte5,atlO3を参照。 48 例えば,ステイト・アクション法理と自然権理論は「相互に共鳴する(mutuallysympathetic)」性質を持っているとす る論者もいれば(PaulBrest,SLaLeAcLionandLiberalTheo7T:ACasenoLeonFlaggBroLhe73V.Broohs,130U.PA.L.REV. 1296,1300(1982)),個人間の関係について政府が中立の立場を保っていると認識して始めて個人は自律権を犠牲にすると. いう社会契約理論にある概念と,公私区分の概念を結びつける論者もいる(GaryPcllcr,TheMd(ゆhysicsq′American Lau,,73CAL.L.REV.1151,1209(1985))。また,モートン・ホーウイツツは,16−17世紀における自然権理論の展開に私的領. 域の概念の萌芽を見出している(MortonJ.Horwitz,TheHikto7Tq′thePublic//ヂrivaieDiitinction,130U.PA.L.REV.1423, 1423(1982))。. 49 RobertH.Mnookin,ThePublic//アrivateDichotomy:PoliticalDisagreementandAcademicRゆudiation,130U.PA.L. REV.1429,1429(1982).. 50 MaimonSchwarzschild,lhluePluralismandtheConstitution:1hDqfimseq/theStaieActionDoctrine,1988Sup.CT. REV.129,137.. 51CharlesFried,TheNiuJFi7TtAmendmentJur窟妙nLdence:A Th柁attOLiber秒,59U.CHI.L.REV.225,236(1992). 52 SeeJulianN.Eule&JonathanD.Varat,T7mn車OrtingFi7TtAmendmentNbrmstothePrivaieSector:mthEveり′Wおh ThereComesaCu7Te,45UCLAL.REV.1537,1549(1998)(最高裁が公的領域の定義に焦点をあてているために,ステイト・ アクション法理が個人の自律のための確たる領域を設定することができなくなっているとの議論);RichardS.Kay,The SiaieActionDoctrine,thePublic−PrivaieDistinction,andthelhdゆendenceq/ConstitutionalLauJ,10CoNST.CoMMENT. 329,351(1993)(ステイト・アクション法理が連邦制定法または州法の守備範囲を制限していないため,個人の自律のため. の領域を維持できていないと主張);SeealsoMarkTushnet,Shelleyv.K7umerandTheoriesqfEqualibJ,33N.Y.L.SCH.L.. −ご(1.
(10) 公法と私法の再構築(1). 第1修正という特定の文脈において厳格な公私の区分を支持する立場は,個人の自律こそが表現の自由を 底支えする主要な価値であるというリバタリアン的な考え方をとる傾向が強いようである。例えば,ロバー ト・ポストという論者は,公私の区分を軽視・無視すれば,公的な言説を主張するために必要とされる個人 の自律というものが骨抜きにされる危険があるため,言葉による定義がいかに不明確であっても,公私の区 分は実際上必要不可欠なものであると主張している53。前出のフリードもポストに同調し,表現の自由につ いての独立した概念を育むためにも,政府ではない当事者には検閲を行う特権を認めるべきであると述べて いる54。さらにフリードは,私人による検閲が暴走する危険については,公法ではなく私法が機能的にこれ を抑制することを確信できるとして,そうした批判を一蹴している55。 その上で,そうした立場の論者は,一般論として政府は,表現活動を行う機会・場所を配分し情報提供の 指令を出す権限を,市場での経済主体に与えるべきであると主張する56。こうした考え方は,私権理論が表 現の自由論に純粋に反映されたものであり,政府による介入に対抗して表現行為についての自律を保護する という,古典的な意味で第1修正を理解する立場であると言える。公私区分は,私権理論にとって必要不可 欠な存在であるとされる。すなわち公私区分論は,効率性の高い政府を指向する社会的な財としてではなく, 私的財産権に類似したものとして,私権理論の一領域としての表現の自由に関する概念を支持しているとす る57. 。そのため,この立場において最も直接的に公私区分論の形式主義が反映されているのは,私人の行為. に政府が介入することに高い障壁を設けているために,表現の自由を促進する目的で政府が規制を行うこと についても,政府の規制への不信からこれを拒絶するという局面においてである58。. くみ 以上のように,公私区分論に与するリバタリアンの主張は,多分に強力な規範的な要素を含んだ主張であ ると言える。しかし,ステイト・アクション法理が憲法上の権利を否定する結果となることも多々見られた ため,リバタリアンの立場が重視する個人の自律から導きだされる自由権は多くの批判にさらされることに なった。そこで次節では,公私区分論がいかに権利を否定する効果を生んでいるかを論証する批判論者の主 張を吟味することとする。. 2.批判論者の主張 (1)法実証主義およびリアリズム法学からの批判. すでに述べたように,合衆国最高裁が判例の中で構築してきたステイト・アクション法理が前提としてい る厳格な公私区分論は,憲法上の制約に服すべき行為者とそうでない行為者を明確に区別することについて, 一貫性のある原理を維持するという本来の役割を果たしていないという批判を,長年にわたり法学者から浴 びせられてきた。しかも,最高裁自身が,政府でない者の行為の法的性質について一見して矛盾する判示内 容を数多く示してきたことが59,この法理の混乱状態に拍車をかけてきた節もある。にもかかわらず最高裁. REV.383,397(1988)(ステイト・アクション法理が裁判所に禁じている行為の大半は,立法府の権能として制限できるもの であると指摘).. 53 RobertPost,胞ikldohnkMisiahe:1hdividualAutonomyandtheRq7brmq/PublicDiscourse,64U.CoLO.L.REV.1109, 1125−28(1993).. 54 SeeFried,St4)ranOte51,at237. 55 〟.at234−35. 56 SeeEule&Varat,St4)ranOte52,at1600;Fried,St4mlnOte51,at251;Post,St4)7mnOte53,atll18. 57 Seee.g.,GregoryP.Magarian,RegulatingPoliticalPartiesthldera“PublicRighis”FirstAmendment,44WM.& MARYL.REV.1939,1953−54(2003). 58 滋ゼオd.at1957−58.. 59 Ⅱ.4.を参照。. 21.
(11) 粗 岡 宏 成. は,本質的に矛盾だらけの判示内容に妥協点を見出そうとするのではなく,個々の先例の事実関係に深く依 拠した分析を行いながらも,一つの原理に基づいているのだと強く主張している60。 こうした状況については,公私区分を否定する立場の論者らは,憲法における「公」と「私」という用語 の間の区別は必然的に収束し,有意な区別が不可能になるに至ると痛烈に批判している61。これらの論者は, 最高裁が一貫性の欠如した区別を維持することによって,ステイト・アクション法理が内実の伴わない「標 語以外の何物でもない」62ことが露呈してしまうと論難する。 そして,法実証主義およびリアリズム法学による批判の最大の眼目は,ありとあらゆる状況がステイト・ アクションを構成するという主張である。こうした主張の根拠となっているのが,大企業や労働組合のよう な大きな社会的権力を持っていながら政府には該当しない組織が,合衆国憲法で保障されている権利に反映 されている価値観を否定する権限を有する場合には,それは政府の権限に匹敵するか,それ以上もあり得る という現実の状況に関する認識である63。とりわけ,雇用・労働の局面においては,私人である雇用者が被 用者に対して,政府が行うよりもはるかに大きな支配権を行使することが多い64。最高裁も,政府ではない 行為者が他者の諸権利を侵害する危険についての認識を,折に触れて示してきた。例えば,白人のみに投票 権を与えていた南部の白人予備選挙会(whiteprimary)が問題となった複数の判例においては,最終的に 最高裁は,アフリカ系アメリカ人を政党の予備選挙から排除することを目的とする内規を定める場合には, その政党はステイト・アクターにあたり,なおかつそうした行為は憲法に違反すると判示している65。なお, 最高裁はこれらの判例において,逆に政府が私人の名目で他者の権利を否定することを促進する場合に政府 が何を意図していたかについては論じていないが,このこともまた,政府ではない私人の行為者が憲法的な 観点からも見逃すことのできない抑圧的な機関になり得るということを示唆しているようにも思われる66。 いずれにしても,政府ではない私的機関の独立した権力を認識すれば,諸権利を否定する固有の権限が政府 に認められるがゆえに公私区分が正当化されるとの議論は,形式論に過ぎないということになる。 このように,法実証主義からの批判は,公私区分を強調するリバタリアンの主張に対して強烈な反論をつ きつけた形になった。仮に,法実証主義が主張するように州がありとあらゆる行為について規制権限を有す るとすれば,ステイト・アクション法理が保護する自由は,非政府の機関からの権利侵害に対して脆弱になっ た自由と同じ立場に立つことになる。そうなると,権利を有する者と権利を侵害する者との区別が容易では なくなり,憲法上の権利同士の衝突に決着をつけるには,必然的に,原告の自由であると推定される利益と. 60 β〟rわ乃,365U.S.715,722(1961). 61Seee.g.,DuncanKcnncdy,TheSiagt?Sq′theDeclineq′thePublic//fケivaieDiitinction,130U.PA.L.REV.1349,1354−57 (1982).この論文では,公私という分類自体が収束することが強調されている。 62 Black,Stゆ7ⅥnOte5,at88.. 63 SeeErwinChemerinsky,RethinhingSiaieAction,80Nw.U.L.REV.503,510−11(1985)(資力と権力が大企業などの私人の 手に集中すると,特定の場合において,私人の行為の影響が政府の行為による影響と実質的に変わらなくなってしまうと指 摘);Tushnet,St4)ranOte52,at392−93(政府は個人の自由を侵害する固有の立場にあるとの議論に反駁);SeeaLsoHorwitz, st4)ranOte48,at1428(19世紀末から20世紀初頭にかけての公私区分論への攻撃を当時の強力な企業の隆盛に結びつけてい る).. 64 Seee.gl,CHARLESREICH,OppoSINGTHESYSTEM30(1995)(「雇用者は,公的な存在である政府が絶対に要求しない程度 の従属と画一化を要求するとができるし,しかも実際に行っているのである」).. 65 SeeTerryv.Adams,345U.S.461(1953);Smithv.Allwright,321U.S.649(1944);Nixonv.Condon,286U.S.73(1932); Nixonv.Herndon,273U.S.536(1927);SeeaLsoMorsev.RepublicanPartyofVa.,517U.S.186(1996)(政党を投票権法上の ステイト・アクターにあたるとした事例). 66 Seee.g.,GregoryP.Magarian,TheFi7TtAmendment,thePublic−PrivateDistinction,andNongovernmenialS毎ゆres−. sionq′TmlrtimelbliticalDebate,73GEO.WASH.L.REV.101,139(2004).. ?2.
(12) 公法と私法の再構築(1). 被告のそれとの間の衡量を行うことが必要とされる。アーウイン・チェメリンスキーという論者は,ステイ ト・アクション法理が被告と州の関係という究極的に意味のない検討に立ち入っていて,対立する諸利益の. 実体を無視しているがゆえに,「同法理は,2つの自由から1つを選択するという愚行を正当化している」67 と指摘しているが,正鵠を射ているように思われる。. (2)「批判的法学研究」学派からの批判. 次に検討するのは,批判的法学研究(critical1egalstudies)の立場から公私区分を批判する論者の主張で ある。批判的法学研究とは,1970年代にリアリズム法学から発展した学派で,法には社会の矛盾を正当化す るという機能が見られるとしてそのイデオロギー性を批判する。この立場は,公私のそれぞれの領域は法的 には厳密に区別できないという法実証主義ないしリアリズム法学からの知見の上に構築されており,アメリ カの法制度はイデオロギー的な構成概念としてこの区別を維持していると主張する。カール・クレアという 論者によれば,法実証主義などの立場から見ても,憲法における公私区分は,確立した権力配分に大幅な変 更を加えることを妨げることによって,既得権益を盤石のものにするのに資することになる68。つまり,公 私区分論は,一方において公的機関の中でもとりわけ裁判所が私人間の紛争に介入することを妨げることに よって,強力ではない私人の犠牲の上に強力な組織・団体の権利を高めるという効果が生じることになる。 ポール・ブレストという論者によれば,「ステイト・アクション法理は,…抑圧的な連邦または司法の権力 から市民を保護することに用いられたことは稀であった。より多く見られてきたのは,消費者,少数者およ びその他の相対的に非力な市民からの要求から,企業体の自律を保護するためにこの法理が用いられるとい. う姿である」69。裁判所は,一方において私的機関が抑圧的な権限を行使することを隠蔽しながら,公的機 関こそが憲法で保障された自由に対する唯一の脅威であると示すために公私区分論を用いる。こうした過程 を経て,経済的,人種的,ジェンダー的な不平等が永続するというのが,こうした立場の主張の中核部分で ある。 主としてリアリズム法学および批判的法学研究の学派が,労働の分野で. こうしたイデオロギー的批判を展. 開している。伝統的に私的であると捉えられてきた領域の核心に狙いを定めたうえで,こうした批判論者ら は,私有財産や契約の分野に特徴的に見られる抑圧的・支配的な構造を強調してきた。労働法における法理 に関するクレアの網羅的な研究によれば,労働紛争に適用される公私区分論が「労働者には権力も,簡易生 命保険への加入も認めるべきではないという考えを引き出す取組み」70に貢献したことが判明している。こ の立場の論者が強調するのは,最高裁が再三にわたり,公共事業体71,受託者72,医療施設73などの機関に 憲法上の責任から免責するために,ステイト・アクションの法理を引き合いに出しているという事実に鑑み. 67 SeeChemerinsky,St4mlnOte63,at537. 68 SeeKarlE.Klare,ThePublic”rivaieDistinctioninLaborLauJ,130U.PA.L.REV.1358(1982).ここでは,労働法の分野 における公私区分論の展開がイデオロギー主導によるものであったことが指摘されている。 69 Brest,St4)7mnOte48,at1330. 70 Klare,St4mlnOte68,at1418. 71Jacksonv.Metro.EdisonCo.,419U.S.345(1974)(州から免許を取得した独占の公共事業体は,料金の不払いを理由に消 費者への電力供給を停止する際に,告知などの手続を踏む必要はないとした事例). 72 FlaggBros.,Inc.Ⅴ.Brooks,436U.S.149(1978)(続一商事法典に基づき抵当権を行使する際に受託物を売却処分した卸売 業者の行為は,ステイト・アクションにはあたらないとされた事例). 73 Blumv.Yaretsky,457U.S.991(1982)(低所得者医療扶助制度の対象となっていた患者分の医療費を政府が負担したから といって,私設療養所が患者を費用の安い施設へ移送することについて,手続的デュー・プロセスが適用されるわけではな いとされた事例).. 23.
(13) 粗 岡 宏 成. ると,私人からの権利主張を受け流すことにおいて,いかに公私区分が強力な機関に力を貸しているかとい うことである。結局のところ,ステイト・アクション法理は現状を維持し既得権益を保護するものというこ とになる。. 憲法上の主張を否認することを目的としてステイト・アクション法理を発動することによって,制度化さ れた人種差別の隠れ場所がしばしば提供されてきたという主張をする論者は多い74。チャールズ・ブラック もまた,ステイト・アクション法理が専らそうした目的のために作用していることを,公民権運動の隆盛期 にすでに指摘している75。確かに,ステイトアクションの適用範囲を相当程度に拡大していたほぼ全ての 合衆国最高裁の判例においてはアフリカ系アメリカ人に対する差別行為が否定されていたものの,「批判的 法学研究」学派の中には,私人による命令が,現状における抑圧的な特徴を法的な主張から切り離すことに より,アフリカ系アメリカ人およびその他のマイノリティー集団を不利に扱い続けてきたことを論証する論 者もいる76。 批判的人種理論(criticalracetheory)の論者もまた,ステイト・アクション法理の前提とする公私区分 論を辛殊に攻撃する。1980年代に批判的法学研究の一派として台頭してきたこの学派は,人種差別に関する 従来の法理に隠蔽されてきた多数者支配のイデオロギーを指摘し,「人種からの自由」ではなく「人種への 自由」を説き,被差別者の視点に立った差別解消を目指している77。この立場によれば,憲法上の保護の対 象を公的な領域に限定することは,生活の他のほとんどの局面において有色人種を不利に扱うアメリカのよ うな社会においては全く意味をなさない78。その中で,ステイトアクション法理は,根本的な憲法上の諸 利益の衡量を行うのを裁判所が回避することを許容するための盾として作用する79。さらに批判的人種理論 は,平等権を中心に据えつつ他の憲法上の条項(主としてデュー・プロセスおよび第1修正)をも根拠にし て訴えを提起する私人の訴権が否定されると,「差別行為を行う私人の権利」が創出されることになると主 張する80。この権利によって私人による差別が合法化されるだけではなく,経済分野などにおける差別禁止 立法の制定が妨げられるという危険も発生する81。究極的に批判的人種理論は,私人の差別を促進し保護す る政府の行為は,裁判所が認めることを拒んできた中でも極めて高いレベルのステイト・アクションに相当. 74 Seee.gl,DavidA.Strauss,SiateActionAjiertheCivilRighisE7%10CONST.COMMENT.409,411−14(1993).この論文で は,公民権運動の時代においてステイト・アクションの適用が制限されたことが,いかに権利の拡大を妨害してきたかが詳. 述されている。 75 SeeBlack,St4mlnOte5,at90.この箇所でブラックは,憲法におけるステイト・アクション法理は実務上,憲法上の続利 からの免責を人種差別主義者の偏見に与える方向へ作用してしまったと主張している。 76 Seee,g,,MargaretJaneRadin&R.PolkWagner,The』勿thqfPrivateOrdering:RediscoveringLegalRealismin CbTbe71妙ace,73CI皿−KENTL.REV.1295,1313(1998)(不平等を永続化しておきながら,憲法上の制限から免れる傾向が私人 の行為に見られることを議論している). 77 この学派については,大沢秀介「批判的人種理論に関する ▲考察」法学研究69巻12号67頁(1996年),木下智史「『批判的. 人種理論(CriticalRaceTheory)』に関する覚書」神戸学院法学26巻1号199頁(1996年)などを参照。 78 SeeKarlE.Klare,TheQuestjbrlhdustrialDemocracyandtheStruggleAguinstRaciim:Pe71砂ectivesカ′OmLaborand CivilRなhtsLauJ,610R.L.REV.157,180(1982)(公・私や実体・形式などの二分論を人種関連の事件に関連づけて議論を展. 開している);SeealsoCharlesR.LawrenceIII,LfHeHollersLetHimGo:RegulatingRacistSPeechonCampus,1990 DuKEL.J.431,446−47(人種関係のヘイト・スピーチの問題に関連して,プライバシー概念の有用性を強調する).. 79 SeeLawrence,St4mlnOte78,at446−47(1990)(ステイト・アクション法理は,憲法上の諸価値の間の実質的な衝突を解決 するにあたって,形式的な理由づけしか提示できないと指摘).. 80 Seee.gl,NeilGotanda,ACritiqueq/“OurConstitutioniiColor−Blind,”1991STAN.L.REV.1,10−11(司法判断によっても 立法によっても私人による差別行為を禁ずることのできない領域が存在することを例証). 81 5kゼオd.atll−12.. ?4.
(14) 公法と私法の再構築(1〕. するというリアリズム法学の知見を強調している82。 フェミニズム法学(feministlegaltheory)もまた,家父長制度の維持における公私区分の役割を強調し てきた。すなわち,公私の区別は,他方において女性を抑圧してきた諸制度を法的な攻撃から保護しておき ながら,女性には自律権があるという幻想を助長していると主張する83。レイプ法においては,レイプ行為 は私的な行為によるものであることが通常であるから,性的な暴力行為が多くの女性の人生における抑圧的 な権力行使の表れであるにも関わらず,公私区分論によりそうした暴力に対する法的な関心は薄れる。同時 に法は,人々が自律に基づいて選択を行うものと推定される私的領域に性行為を位置づけることにより,性 行為への同意を自らの意思に基づくものと推定する84。そのため,女性のレイプ被害が法的救済の対象にな りにくい構造が維持されることになる。さらに,歴史的に女性は公的な領域や市場経済から排除されてきた が,その一方において法は,家庭という「私的」な領域を多くの規制から保護してきた85。そのため,職場 が実質的に政府による規制に服するようになったにもかかわらず,法が家庭を私的な領域とみなしているこ とから,数多くの女性が家庭におけるフルタイムの賃金不払いの労働者としての地位にあることを法が無視 していることになる86。同様の論理で,家庭内のプライバシーという法的概念により,多くの夫婦間の紛争 が法的規制・責任から切り離されることになる87。 公私区分論のイデオロギー的な骨子が明らかになることで,区分を支持するリバタリアンに対して別の反. 論がなされる。私的な組織が,政府の行為能力に匹敵するか,場合によってはこれを超え,個人の自由を脅 かすことも多いという社会的事実は,イデオロギー的批判論者の分析によれば,公私区分の論理に対して単 に異議を唱えているだけではない。むしろ,イデオロギー的批判論者は,一見して非論理的に見えるものは 永続的な権力関係を故意に維持するための偽装工作であると捉えている88。さらに,この立場の論者は,私 的な組織が政府とは異なり,市民に対して政治的な説明書任を負っているわけでもないという点も指摘する89。 そのため,政府が私人間の関係に干渉することが極めて有益な場合もあり得るし,私的組織に対して裁判所 が権利を執行させることは憲法上も許容されるとイデオロギー的批判論者は主張する90。さらには,権利侵. 82 Seee.g.,MariJ.Matsuda,PublicRe坤OnSeStORacist鍵eech:Consideringthe VictimbStoり′,87MICH.L.REV.2320, 2378−79(1989)(人種差別主義者のスピーチを私的なものであると位置づけることは,州がそのスピーチの伝播において果た している受動的・能動的な役割を無視することになるとの議論).. 83 SeeRuthGavison,EbminismandLhePublic−PrivaLeDiiLincLion,44STAN.L.REV.1,17,20(1992)(公私区分論がいかにし て,女性の意思決定の欠如と構造的な抑圧を隠蔽してきたかについての,フェミニストによる説明を要約). 84 キャサリン・マッキノンは,性行為が自由意思に基づくものという考え方によって,中絶の権利をプライバシーの文脈で. 捉えることが支持されると主般している。SeeCATHARINEA.MACKINNON,TowARDAFEMINISTTHEORYOFTHE STATE191(1989). 85 SeeGavison,St4)ranOte83,at21−22(家庭と市場経済の分断についての議論).. 86 SeeMACKINNON,St4)ranOte84,at67(家事に対する賃金を議論). 87 SeeNADINETAUB&ELIZABETHM.SCHNEIDER,WoMEN’SSuBORDINATIONANDTHERoLEOFLAW,INTHEPoLITICS. OFLAW151,154−56(DavidKairysed.,2ded.199O)(家庭における財産に関するルール,レイプ,暴行・傷害などについて 論じている).. 88 SeeKennethM.Casebeer,TouJardaCriticalJuri頭rudence:AFi7TtSiePby W7Lひq′thePublic−PrivaieDistinction ConstitutionalLauJ,37U.MIAMIL.REV.379,422(1983)(最高裁が,ステイト・アクションを限定的に適用することによって, 憲法が保護する私権の範囲が必然的に不安定になるという事実を隠蔽していると主張). 89 Seee.gl,Tushnet,St4)ranOte52,at392(政治的な説明責任を企業に対して課すことにすれば,政府に対して課す場合よ りも大きな脅威となり得ると主張).. 90 See,e.gl,ErwinChemerinsky,A4bre秘eechhBetier,45UCLAL.REV.1635,1637−38(1998)(特定の私的組織に対して, 政府に課すべき言論の自由の規範を課すことの有用性を述べている).. 25.
(15) 粗 岡 宏 成. 害について間接的な責任しか負わないステイト・アクターとしての法的責任を課すよりも,権利侵害という 事実認定について直接に私的組織に判示できる権限を裁判所は有するべきであるという議論も展開してい. る91。結局のところ,イデオロギー的批判論者が暴露しているのは,公私区分論を支持するリバタリアンが 政治力学の中で生き残った「自由」の像に依拠しているに過ぎないということであろう。 このように,イデオロギー的批判論者は,法実証主義による批判から得られた知見に立脚しながら,公私 区分論に見られる矛盾についてリアリズム法学が得た知見をも取り入れていると言える。しかしながら,法 実証主義とは異なり,イデオロギー的批判論者は私人に関する憲法上の概念については部分的に調整できる 余地を示している。すなわち,ステイト・アクション法理がイデオロギーに基づいて決定されたものである との非難は,少なくとも,公私区分論にも一定の合理性があるという前碇に立っていると言える。そうなる と,この前碇は,憲法における公私区分論をより望ましい規範的目的に資するようにその概念を再検討する 可能性を広げるものになる。これが,次に検討する公私区分に対する批判の方向性である。. (3)新たな立場一肯定論・批判論の「止揚」. アメリカ憲法学の中で,法実証主義およびイデオロギー的な立場から公私区分論を批判する立場は,十分 な説得力を有しており確たる地位を築いているとも言える。しかし,その一方において,公私区分論もまた 憲法上の権利に関する法理の中において依然として中心的な位置に鎮座しているのもまた事実である。マー ク・タシュネットが指摘するように,辛錬な批判を何年にもわたって浴びせられてきたにもかかわらず生き 延びている法理には,「批判論者が注意を向けていない何らかの機能がある」92ということになる。そのため, 最近のアメリカ憲法学における公私区分の分析は,これに対する批判を行いつつ,これを正当化する根拠に 焦点をあてるようになっている。これには大きく分けて二つの主張がある。 第一は,公私区分が極めて有用な擬制であるという議論である。例えば,ウイリアム・マーシャルという 論者は,裁判所が一定の基準を必要とするのは,競合する諸利益を較量することに附随する困難を回避する ためであるという前提に立つ93。その上で,ステイトアクション法理については,「競合する諸利益の中 からいずれかを選択するというとてつもない困難さに鑑みると,私人による行為を憲法上の厳格な審査から 切り離すという決定は,裁判官に不可能な判断を強要することを避けるという手段として正当化されるであ ろう」94と彼は主張する。これよりも徹底した議論を展開しているのが,タシュネットである。彼は,憲法 が公私区分を必要としているのは,そもそもアメリカ法学が憲法上の諸権利に関する実体論の構築を行って こなかったからであるとまで極言している95。 第二は,憲法が成立するための前碇条件としての公私区分の存在を強調する立場である。例えば,リチャー ド・ケイという論者は,政府が有する権力にある特別な危険がステイト・アクション法理の基礎にあるとし, その上で,権力が集中した非政府の組織が現代社会の中で絶大な影響力を行使しているとの批判論者の主張 を認めている96。しかし,憲法は他の法とは異なり,公的な行為である立法およびその執行のみを制限すべ. 91SeeCasebeer,St4)7mnOte88,at413. 92 Tushnet,St4)7mnOte52,at391. 93 WilliamMarshall,DilutingConstitutionalRights:Rethinhing’RethinkingSiaieAction,”80Nw.U.L.REV.558,565(1985). 94 〟.. 95 Tushnet,St4)ranOte52,at403(「恐らくステイト・アクション法理は,矛盾を抱えていようとも,実体憲法の矛盾を覆い 隠すための有用な仮面なのだろう。」).. 96 Kay,St4}ranOte52,at350.. −ご(;.
(16) 公法と私法の再構築(1). きであると彼は主張する97。この論者は,「州の権限に対する安定した認識可能な制限が存在することに由 来する担保」98を提供するものとしてこの厳格な制限を正当化している。. (旭川校准教授). 97 〟.at342−43(憲法とその他の立法との間の区別を確保するためには,憲法が制限できる範囲を立法に限定することが必 要であると主張). 98 〟.at360.. 27.
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