南海研だより : 9
著者
鹿児島大学南方海域研究センター
雑誌名
南海研だより
巻
9
ページ
1-20
発行年
1983
URL
http://hdl.handle.net/10232/15714
鹿 児 島 大 学 南 方 海 域 研 究 セ ン タ ー
論
KagoshimaUniversity ResearchCenterfortheSouthPacific研だ上!}
N o . 9 1 9 8 3 年 5 月
学 術 調 査 隊 の 草 の 根 交 流
第2次調査隊を谷山の阜頭で見送ってから私 は別途空路で後を追い,フィジー,ソロモンで は調査隊の受入れ準備や公式行事に参加したり, いわば不即不離の日程をすごした。 先行して調査船を出迎えた経‘験はアンボン, ナウル,パラオそれに昨年度のスバと繰返して きたが,船が繋留され隊員と言葉を交わすまで は何とも不安なものである。本年度からその役 割からも解放され少し感慨を覚える。 こんなアウト・サイダーの傍目八目で眺める と,このセンター調査隊は何とも大掛りで雑然たる集団に見えてくるし,かごしま丸の容姿も
頼もしいやら心細いやらである。まして日本の
研究組織や調査方法に不慣れな外国人(知識人)
から見ると,調査隊の全体像すなわち人文,社 会,自然などで混成された組織は不明確で成果 も危倶されるらしい。それでも行動開始される と活気づき機動化するので$,成程これが日本的 調査かということになる。 フ ィ ジ ー , ソ ロ モ ン は そ れ ほ ど で も な い が 束岩切成郎畷駕潅暑)
・西南アジアでは身分的階層性が根強く,それに 宗教と民族の関係も入って,エリートの大学研 究者は体や服をよごしてまで辺地や大衆に融けこもうとし難い条件がある。そこにいくと日本
人研究者はあまり社会的エリートでもないし, 禁忌・タブーの知も無いので知的好奇心のある 限り何処へでも飛びこんで行けるし,それが行 動原理みたいになって最近はアジア各国の若手 フイルド・ワーカーに影響をあたえている。 そ こ で 我 々 が 配 慮 し な け れ ば な ら な い こ と は 峻岳,絶海でないかぎり,大概の場所は人間社 会とかかわりを持っていて,近代法の私有では ないが慣習による資源の利用と管理が存在して いて,勝手な採捕や侵入は許されないというこ とである。調査隊が入る山林,原野,河川,海 面でのサンプル収集も,多くの場合事前の了解 や黙認があってこそ,現地の住民はにこやかに応対しているのである。この辺の呼吸が人間仲
間としての最低の相互理解すなわち草の根交流であり,この種の調査隊に先発コーディネータ
ーが必要な所以である。南 海 研 だ よ り
第2次「オセアニア海域における水陸総合学術調査」について
南海研センターが主催する「オセアニア海域 における水陸総合学術調査」の第2次調査は, フイジーとソロモン諸島で実施された。調査隊 員は法文・医・歯・理・工・農・水産の各学部 と南海研から教官・事務官・大学院生が参加し, 更に学外からは神戸大学・京都大学・弘前大学 ・民族学博物館の教官が参加し,合計50名の大 世帯であった。調査隊の構成は,自然班18名, 農業班6名,水産班8名,社会・文化班8名, 医学班9名,事務官1名と成った。昨年同様水 産学部の調査練習船かごしま丸に乗船し,1982 年11月10日より同年12月21日までの全42日間の 行程であった。 本調査は文部省の特定研究経費によって行わ れたものである。昨年度に引続きこのような大 規模な調査が実現した背景には,学長を始め関 係諸氏の並々ならぬ御尽力の賜物があった事を 明記し,ここに隊員一同を代表して深謝の意を 表する次第である。 各班の調査項目の概略は次の通りである。 自然班一南太平洋海域の海洋構造の把握,及び 両国における海洋生態,生物生産に関 する研究。 農業班一両国における農業生産性,農業形態, 熱帯作物及び土地利用の研究。 水産班一両国における水産生物生態,増養殖, 及 び 漁 法 な ど の 研 究 。 社会・文化班一両国における漁村の社会構造, 土器の分布,建築様式,言語及び海洋 政策に関する研究。 医学班一両国における公衆衛生,医動物及び人 体病理に関する研究。 今回の調査は第1次隊同様,フイジーに本部 を 持 つ 南 太 平 洋 大 学 と の 共 同 研 究 で あ る 。 し か し我々の調査項目が多岐に亘るため,同大学の (2)片山忠夫(調査隊々長)
ほかに,農科大学,医科大学,政府関係機関も 協力参画した。これらの協力を得て調査は成功 裡に無事終了した。 フイジーの首都スバに入港直後,船上でカバ の儀式によって歓迎された。これは我々を友人 として受入れる伝統的かつ重要な儀礼の一種で ある。この儀式に始まり,ソロモン諸島の首都 ホニアラで行われたレセプションに到る期間, 各隊員とも目まぐるしく東奔西走したが,全員 が最後まで健康を維持し続け得たことは誠に幸 いであった。 両国は民族構成,独立後の発展の歩み,産業 構造などさまざまな面で類似点と相違点とが混 在している。このような背景をもつ国々を並列 的に調査するには慎重な配慮が必要である。ま た 基 礎 的 研 究 を 柱 と す る 調 査 項 目 も , 論 議 の 過 程で実用的な分野にまで間口が拡がり,調査や 助言を求められる局面も多々みられた。また, 調査期間中に示された先方の熱意に報いるため 現 地 調 査 で 得 た 知 見 が 一 過 性 の オ ハ ナ シ に 留 る こ と な く , 今 後 息 の 長 い 接 触 を 続 け , 長 期 的 見 地から第1次産業は言うに及ばず,文化・社会 的面でも,調査団の生活向上に貢献し得るよう 努力すべきであろう。 洋上では全隊員が交代で話題を提供する洋上 学部も連日実施した。他人の研究課題や物の考 え 方 な ど を 理 解 す る こ と に よ っ て , 自 分 の 調 査 の 位 置 付 け を 明 確 に し , 広 い 視 野 に 立 ち 総 合 的 判断に裏づけられた成果を纏めるよう企画した ものであり,これぞ正にこの形式による調査活 動における真骨頂である。今回の調査成果ば5 月に速報として公表するが,それが第3次以降 の調査と,南海研の将来にとって良き糧と成る ことを念願する次第である。No.9
一 味 ち が っ た 南 海 研 の 特 定 研 究
今回の第2次i凋炎を終えて,私は,のべ7回 もの文部省特定研究調盗に参加したことになる。 南方カツオ調査3回(NAV74∼77),琉球弧調 査2回(NAV78∼79),そして本オセアニア調 査2回(NAV81∼82)−いずれも水産学部付 属のかごしま丸や敬天丸の連用によるものであ る。今,それらの調査を振り返ってみると,な ぜ か , 南 海 研 の 特 定 研 究 に は 一 味 ち が っ た も の が感じられる。そのちがいを私なりに考えてみ ると,端的に言って,親方日の丸であるか否か ではなかろうか。そのような根本的な相違が本 調査の節ぶしに具現されたものと,思われる。 南海研は7年間の時限つきでスタートした施 設であり,恒久的な各学部や教養部などとは全 く異なったフイロソフイのもとで研究活動をす す め な け れ ば な ら な い 。 南 海 研 は 決 し て 7 年 間 で 終 止 符 を 打 っ て は な ら な い 。 そ れ に は な ん と 言っても実績が大事である。この特定研究はそ の実績に直結するものである。第2次調査では そういう意気込みがひしひしと感じられた。そ れは,大変いい伽lfljである。以下に他の特定研究 と一味も二味も違っている点を列,記してみる。 インテグレーション(統合)の必要性 南海研の特定研究は「一般公募」を原則とし ている。従って参加隊員の専門分野が極めて多 岐に及ぶことになる。それ故調査活動のインテ グ レ ー シ ョ ン が 心 要 に な っ て く る 。 こ の こ と は 昨 年 度 の 第 1 次 調 査 で も 言 及 さ れ て は い た が , 今回は第2回目の調査でもあり,それに関する 討議が盛んであった。特に松田隊員のフレッシ ュな意見が人目を引いた。 結局のところ,多少のことは踏えながら全体 的な統合にむけて努力する,という方向で一応 の幕になったようである。それにしても,きす平田八郎(調査隊副隊長)
が南海研の特定研‘先である。インテグレーショ ン に つ い て こ れ ほ ど 鴨 ん に 討 議 さ れ た の は , 私 にとって初めてである。今後,隊員募集前にも この間逆をI訓淡すれば,よりよいインテグレー ションか'11能になるものと思われる、 隊 員 組 織 上 の 特 色 隊 員 組 織 の こ と も 南 海 研 特 定 研 究 の 大 き な 特 色である。つまり,教務補佐貝や外部教官が全 隊 員 の 路 以 上 も 占 め て い る 特 定 研 究 は 他 に 瀬 が な い 。 特 に 大 学 院 生 や 研 究 生 ら が 教 務 補 佐 貝 制 度 の 適 用 に よ っ て 正 隊 員 と し て 調 査 に 参 加 で き るようになっている。これは大学事務当局の絶 大 な 御 尽 力 に よ っ て 実 現 し た も の で あ り , 改 め て関係諸‘I.『に感謝の意を表したい。こういうす ば ら し い 制 度 は い つ ま で も 継 承 し た い も の で あ る。 第 2 次 調 資 隊 に 参 加 し た 大 学 院 生 等 は 9 名 で あり,また外部教官は5名であった。いずれも 第1次調査隊より1名ずつ減員になったことは かえすがえすも残念なことである。大学は申す までもなく教育と研究の場であるので,大学院 生等がこのような特定研究に参加するのは当然 のことである。また,研究内容にもよるが,教 務補佐員の有無が成果を左右することもある。 彼らの活躍に期待を寄せている。一方,南海研 は学内共同利用施設であるから学内教官を優先 するのが当然かもしれない。しかし,南海研の 省 令 化 申 請 時 に 類 似 施 設 を 申 請 し た ラ イ バ ル 大 学が幾つもあったのであり,あまり我侭ばかり は言っていられない。南海研の将来のためにも ある程度の外部教官の導入は極めて大事なこと である。 (3)南 海 研 だ よ り
調 査 隊 事 務 局 報 告
中野和敬(事務局長)・井上晃男(コーディネーター)
昭和57年度の文部省特定研究経費により本研 究センターが中心となって実施した「オセアニア 海域における水陸総合学術調杏」の第2年次(通 称NAV’82)は前年度と同様水産学部所属の調 査練習船かごしま丸を活用し,フィジーとソロ モン諸島で期待どおりの成果をあげ,無事終了 した。かごしま丸の出入港日,航海中の活動等 を以下に記す。 昭和57年11月10日鹿児島港出港 昭和57年11月25日フイジーのスバ港(ビチレ ブ島)入港 昭和57年12月1日スバ港出港 昭和57年12月6日ソロモン諸島ホニアラ港 (ガダルカナル島)入港 昭和57年12月9日ホニアラ港出港 昭和57年12月21日鹿児島港帰港 か ご し ま 丸 に よ る 洋 上 観 測 は ホ ニ ア ラ 港 か ら の 帰路,東経160°線沿いに南緯7・より北緯7・ま での区間中の12ステーションで行なわれた。 調査隊長は農学部の片山忠夫教授であったが, 岩切成郎センター長は別途フイジーに入国し, 12月9日ホニアラ出港まで、調査隊が陸上活動を 行なっている期間中,この特定研究の代表者と して隊と行動を共にした。また,本センターの 井上晃男教授は調査隊がフイジーに到着する前 から現地へ赴き,南太平洋大学を始めとする本 調 査 の 共 同 研 究 機 関 の ス タ ッ フ と 隊 の 実 際 の 活 動に関し,最終的な打ち合わせを行なった。 (中野) 調査隊を乗せたかごしま丸の出港を見送った 後,11月16日鹿児島を出発して空路フイジーに 向った。私の役目は,調査隊の到着前に現地の 研究者と充分な打合せを行ない,調査活動が円 滑に実施されるように準備をすることであった。 (4) 今回の調査隊のように,調査隊員の数が多く, また調盗・研究分野が多岐にわたる場合には, 現地との文書,電話等による連絡だけで、調査予 定を決定しても不満足な結果に終ることが多く, l∼数人が先発して,現地の共同研究者との密 接な連絡のもとに,研究班あるいは個人ごとその 調侮地,調査方法,日程などの詳細を検討する ことが必要である。とくに短期間の滞在でより 効果的な研究・調査活動を行なう場合には一層 この感が深い。 予め各隊員,研究班から提出された希望調査 項目,調炎地などを基に,協力してもらえる現 地研究者の都合,利用可能な車・船の数などを 勘案しつつプログラムを作成する訳であるが, このようにして最終的な案ができ上ったとして も,いざ実際に調査を始めてみると,種々の事 情 で そ の 通 り に は 活 動 が 行 な わ れ 得 な い こ と が 多い。このような際には,各隊員がその時々で 判断してプログラムとは別の行動をとることに なる。幸い今回は海外調査の経験の豊富な隊員 が多かったこと,またそうでない隊員の場合に も,その場その場で適切な判断がなされ,むし ろ予定した以上の調査活動が行なわれた。先乗 り コ ー デ ィ ネ ー タ ー と し て の 役 目 を 十 分 に 果 せ なかった私としてはこれらの隊員各位に心から 感謝の意を表する次第である。 今 回 の 調 査 が 比 較 的 順 調 に 行 な わ れ た の は ひ とえに南太平洋大学とくに海洋資源研究所各員 の骨身を惜しまない協力による。中でもL.P.Zann 博士及び、S・Singh氏にはとくにお世話になっ た 。 ま た 同 様 に 調 査 期 間 中 , 各 研 究 班 の 方 々 と 行動を共にし,私達の研究・調査活動に御協力 頂いたフィジー医科大学,CWM病院,フィジー 政府農政局などの職員の方々に厚くお礼申上げ る 。 ( 井 上 )9 NC き紬きフィジーに根拠をもつ南太 鹿児島大学南方海域柵究センタ平洋大学との共同企画であり、ソ ーが主催する﹁オセアニア海域にロモン諦蝿国においてもその支部 おける水陸総合学術調査﹂の塑一が加わった。調査の交渉は前年の 江調査はフイジーとソロモン諸島経験を生かして順調に進行した 鹿児島大学南方海域緋究センター碧切成郎センターgは先に、フィジーとソロモン諦酷に唖 学術調壷隊を派遣した。﹁オセアニア海域における水峠総合学術調査﹂︵文部省特定研究、一期一 一一一カ年計画︶の一一年次の行動。癖究調査の成果は近く報告書にまとめて発表するが、ひとまず各一 理の現地での活動ぶり老紹介してもらう。第一回はまず、調査隊長に総掘墾堤お願いした。︾ 凸①■や。bザ■。■dG■●■●由●や◆①や古●Ba■●勺や●や■◆●●●●。■●●Cu即●与■●■■■U●ode。■g●■●■●甲●凸■■廿口gP中④P申■。。eq申守曲◆●■●●■◆●●●凸申■●●い■dgg■■ 国で突施された。調症隊蝕は五十が、調五坂目が多岐にわたった ①L、そりうう申一コヒ芦、賀吊造・こう、3房・更f二、匙斗ご法、 −1茎B●威卿センター長︶は先に、フィジーとソロモン諦燭に︾を伴う。 ニア海域における水峠総合学術調査﹂︵文部省特定研究、一期︾フィジーにおけるインド系往陛
蕊霊嬢蕊蓬諺獣蕊韓︾
;⋮⋮⋮.。⋮・⋮:⋮⋮⋮⋮⋮.,.⋮⋮⋮::⋮⋮:。:.:.:..:。⋮⋮⋮・・・・⋮⋮.それとはかなり異なっている。力 国で突施された。調症隊蝕は五十が、調五坂目が多岐にわたった1ストの亜み、カレーの辛さ、商魂 人、その一つち神戸大学、京都大ため、両大学以外に、腿科大学、のたくましさなど、いずれも群め 学、弘前窓手、民族学博物館から医型傘、一部政府閏係機関なられている。一友メラネシア系 計五人の教官が腿肥醗黍手以外のども参画した。スバヲィジー縦蝿は、本来のお人よしに,加え 隊域として参加した。隊の椎成の首迩入港直後、寒雨の中でて、﹁ゆっくり急ごう﹂という将 は、自然班十ハ八、催莱班六人、行われた歓迎のカバ儀式に始ま来計面を立派に捲ち合わせてい 水派班八人、社会・文化班八人、り、ホニアラ︵ソロモン諸船国のる。したがっていつけん両者はう 医学班九人、事務官一人であっ首迩で蓮行われたレセプショまく洲和を保っている。鍔構
広い分野、実りある交流
た。柔船したのは鋪一次同様水産 学部の洲査練習船﹁かごしま丸﹂ 二、一一九○少︶である。鹿児島出 港は五十七年十一月十日、鹿児圏 州港は士一月一一十一日で、全四十 二日間の行稚であった。 今回の調査は、第一次調査に引 い。現地における活動が離術調査 の基本である華礎的分野と、技術 援助に発展する可能牲をもった 応用的分野との釣り合いが難まれ るゆえんである。 フィジ!、ソロモン詣烏国とも に社会状況はゆ三りではあるが 確実に変化しつつある。たとえば フィジーではインド系雌挫によつ ソロモン諸島の塵村の子供たちⅡガダルカナル島ホニアラの 東ルンガ村でI (南日本新聞1983年1月26日)(5) ンで締めくくった陸上での全行程ソロモン諸勤国では国睡として は、これらの協力によって成功ののアイデンティティ︵岡一性︶が うちに幕となった。薄いと震われているが、八十以上 フィジーは一九七○年に独立の.湾語や部族の述いに由来して閉 し、インド系五一群、メラネシア鎖性が強い。土地、柿物、それに 系四五計の人員椛成である。一方実る架実、それぞれに持ち主が途 ソロモン諸鮎国は一九七八年に独うなどの裡雑さも加わってよほ 立し、メラネシア系九一一一軒とはいど交渉をうまくやるか、顔ききの え、多数の系列氏族の錐間であガイドを雁わないと、土地の立ち ろ。したがって独立後の社会の歩入りや聴き取り調迩に成功しない みには類似の励向がある些同時に不便さがある。 微妙な担哩がみられる。このよう一方、海外での準術拙査は束耐 に異なった背景をもつ一一つの国をアジアをはじめとして次第に困難 並行して調垂するのは、それなりさが地してきた。それは民族窓誠 に面白みがあるが、同時に困難さの画縄にもよるが、蚕源搾取を極 てのみサトウキビの栽噛が行われ ていたが、最近メラネシア系住民 によっても行われるようになっ た。両極族剛の社会・経済的関係 が変化するのは当然であるが、土 地所有関係や伝統的共同社会、単 純な生派概念をもつ自給段段謹識 にも変化の兆しがみえ始めた。一 方、ソロモン論島国では、長い間 行われていた焼き畑股梁におい て、本来伝統的自給生活体系を意 味していたサプシステンス方式 が、一部では生唾物逢市蝿に出術 するという根本的変北がみられ る。 このような行雄をもつ国で行わ れた今回の洲査は今後に何逢致 し、また戦すべきであろうか。第 一次洲五では諜本的な細式を行う とともに、その知倣を相手国に披 露した。節二次洲査ではさらに進 んで応胴的な見地からの謹処を求 められた獅光分野が多かった。言 い換えれば、われわれの洲癒は湖 読国から歓迎されている面が多分 にあるということができよ一宅し かしわれわれは現時点でのこのよ うな好ましい状態に甘んじること なく、今後とも調証国との間で知 識生人間の交流とを謙虚な気持ち で持続していくように努刀すべき であろう。調査隊長・片山忠夫 Ⅱ鹿児塵大学塵学部教授︶ 度に謹戒することが原因の一端と もなっている。しかし一方では﹁技 術援助は経済を発展させ、子孫に 妥当な生活水準を維持するために 不可欠﹂という政府の考えに支え 局れている国が多いことも準実で ある。したがってわれわれの学術 調五はその辺の呼吸を可能な限り 消化した上で行われねばならなの難しさ痛感
オセアニア、それは広大な海洋 坐その間唇雀する島しょから成 る。島しょに住む人々にとって、 海は交廼、漁挽︵ろう︶など生活 の場であり齢また若人の冒険心を かきたて数々の物語を生んだ場で もあった。オセアニアの自然、民 族、産業を語るとき、海些の関係 じたヘンダーソン窒港横にある。でオウムガイ士一一個体を捕趣しル島沿岸で潜水により海藻を珠集た。 ボートの迩転者がその海岸に日本た。六個体を解剖し担御哩手的試料した。日本国内には南太平洋の海自然狂の調査は、沖合の海洋、 軍が上陸したと、すぐ近くを指さを作成、七個体を船内の飼育水槽藻標本は少なく、貴重な標杢琶得島しょを囲む沿岸水の状態、そこ してくれた。山の中腹には日本率に入れ輸送を試みたが十五日目にることができた。持ち帰った標本に棲呑い︶息する動物、植物、 の白い慰悪塔が望まれる。水温測蛇亡、生体輸送の難しさを痛感さの種の判定、またマガタマモなどそして陸上の植物と、一連の部門 定と採水作業をしながら、この地せられる。サンゴ礁の動物とし生材料の実験室内培養による生活を担当した。ここに調査活動の一 で散った同胞の錐に対し其あて、腔︵こ&腸動物、稗含ょ環の解明などがこれから行われ端を紹介した”南海の空の下、強 い︶福を祈った。s皮動物の分布調套標本採集る。 い日差しやスコールにあいながら 沿岸水帯の動物の研究は塚原潤が行われた。 自然班ただ一人の陸上部門を担苦労したことなど、研究成果がま 一一一、小野修助︵鹿大口理︶により沿岸水帯の植物として、海藻の当した甲野和敬︵鹿大・南海研︶とまるころには楽しい思い出に蛮 行われた。オウムガイの生態学的研究が榎本幸人稀戸大・理︶、は、ガダルカナル島を中心にソわっていることだろう。 研究とサンゴ礁を祇成する動物相鯵坂哲郎︵京都大・馨により行ロモンにおける焼き畑体系の調黍円正明・鹿児島大学水産学部 の研究である。南太平洋牽の協われた。フィジーの主島ビチ。し査、耕作放棄地における植生の回助教琶'
'
'
1
力により、スバの沖合五蘇の海域プ島沿岸、ソロモンのガダルカナ復と環境要因との関係を調査し 南 海 研 だ よ り 極 翰 騨 赤 道 付 近 で の 洋 上 で 「 か ご し ま 丸 」 を 止 め C T D ( 水 i 且 塩 分 連 続 測 定 機 ) を 入 れ る I同凸 ② を除くことはできない。鹿児島大よ沿岸域や、海流の境界域などご同作業であり、平田八郎︵鹿大・ 学第一一次オセアニア学術調査隊のく限られた海域である。水︶ほか、水産班の隊員により海 自然班は、海洋、沿岸の動物、値赤道海流の変化は錘帯の海自身水の栄謹塩類が測定された。 物そして陸上の植物生態を専門との変化であり、それは当然島しょ島しょ周辺の沿岸水帯の研究と する七人と、海洋調査では﹁かご沿岸域にも彩恕を及ぼす。島しょして、まず沿岸水の形成状態と化 しま丸﹂の船髭、航海士を加えてに設箇された潮位計の記録紙には学成分分布の調査が水産班の井上 編成された。個々の調査研究に閏沖合の海流の強弱を反映する水位晃男︵鹿本南海研︶、川口智治、 連して、まずオセアニアの海の大が記録される。赤道海流系の勢力池田文厚︵距大。水︶と私で行わ 部分を占める熱帯の海の特徴につの強弱、位置、変化の状態を知るれた。場所はフィジーの南丞半洋 いて記述したい。ことは、オセアニアの自然環境を大学近くのレワ川河口域とやソロ 熱精の海は海面から百届ないし知る基本でもある。モン、ガダルカナル酷ルンガ川 一言減までの暖かい海水と、それ自然班は調査期間中の赤道海流河口域である。ルンガ川は太平 より下圃の冷たい海水の二画になの状態を把握するため、ソロモン洋戦争で日本軍と米軍が死闘を漣 っている。海水の流れは主に表暦 の暖かい海水が東西方向に流れ、 西向き、東向き数本の流れがあ り、赤道海流系と呼ばれる。暖か い海水が表臓を極っているため、 下層にある海の栄養分は表層に運 ばれず、勤椿の海を陸地にたとえ るならば砂漠の状態に近い。鈍帯 の海で、肥えた耕作地に相当する 生物生産性の高いところは、島し生体輸送
諸島の首都ホニアラを出港後、東 経一六○度一五分の経線に沿って 南緯七度から北緯七度まで、赤道 海流を横断する線で水温、塩分、 溶存酸素などを一一舌扮深さまで 測定した。水温と塩分より海流の 流速、流量が計算される。計算は 益満伽航海士と私とにより測定機 に直結されたコンピューターによ り行われた。武石泰亮︵鹿大。 壬は同時に採水された海水の電 気的煙質の測定を行った。また、 赤道海流の研究は、水産狂との共 弘抑■ 小口曲 向■的I 苛・宕 叩 。.,配b ■Ldq■b dop■。p 外 ︲■■●︲。。④折■① 騨騨猫溌碑 (83年1月28日) 6 抽 撚 ‘ 戦 い 釦 ● 輯 ﹄ . ● 認 “ 罰 蕊鐸議溌 蕊蕊蕪蕊 ︾ ︾ ︾ ︾ ︾ ︾ ︾ ︾ ︾ ︾ ︾ ︾ ︾ ︾ 識 蕊 識 謹イモ食から米食へ移行
NC 食泌の自給自足を目ざす雌業国農桑班の共同研究のテーマを設定して今回採取した主なものは、土 南太平洋地域の人“は、サトイで起こっているこの盾好の転換するにあたっては、相手側から新壊全四点、作物才モ類︶五十 モ、ヤマイモ、キャッサバ、サッを、過去の日本におけるパン食のしい開発や作物栽端の技術的な要八点などである。今後これらを用 マイモなどのイモ類壬韮趣として場︿罷一同じだと単純に解釈して良求がかなり強く出された。フィジいて種々の研究を進め、相手国の いる。ところが今回調査したブイいのであろうか。水稲を栽嬬する−の場合、同国の経済の約七割が農業に貢献しうる結果を得たい雀 ジー、ソロモンのどちらにも新し場合の気候、土寒病害聖﹄の他価幡変動の大きい砂糖に依存して願う次第である。 く開発された大型の水田が含まれの条件はイモ類の栽培条件よりもいるために、非常に不安定な側面現地にはいるとまず一日の鯛査 ていた。フィジーの場合、過去に少々きびしく、水稲栽培に適してをもっている。政府は、輸出農産物内容ど時間配分などについて、よ 撚米関係の労伽藷として移住していると考えられる地嫁は、両国との多霜化と食紙の自給を目ざしたり細かい話し合いがカウンターパ きたインド人の子孫が、いまや全もそれほど広くないようである。農業開発を成功させて経済の安定I卜との間でなされる。その主役 人画の半数以上を占めるに至ってこの曜好の移行が限りなく進行すを図ろうどしている。だから、こは、海外調査のベテラン片山隊長 ると企粗︵米︶の自給は、まずまカウンターパート案同研究者︶ながら時間を配分し、すべてにほ出し、調燕地域や対象作物の生倒 すむずかしくなるだろう。とともに現地に向かったのであとんどロスがない。︸あロスのななどを写真に収めたのち、土壌や また、両国の人口増加率はかなる。いスケジュールのなかで、追いま植物を採取する。そして途中の り河く、人口圧が徐々に増示ししかし、禰迩期間はあまりにぎわれるのが熱帯作物学の角隊型車上では常Fカメラをかまえ、回 て、米不足にいっそ一つの拍事宙かも短く、調査内容は、現地を見と大学院生の江口、速城向隊戯の新しい光媛に出会一つとシャッター けることになるZ今後、日本にろ、現地で閥く、現地で研究材料蒋手である。彼らは、現場に譜くとを押して記録するといった峡合 対する水稲関係の技術援助の巽叩を採取するといった自答に、分刻採取用基迄かかえ自動車から飛びで、ほとんどむだ口もたたけな (83年1月31日) (7) 9 い。そのうえ採取品の薙理が夜ま で雑く。 採取品の韮理が鮫も遅くまで続 くのが祷虫学の櫛下町隊員だっ た。彼はつねに昆忠殊集用のネッ トを捗ち歩くので、自己紹介は名 前だけで十分だった。ネットを持 ち、蝶︵チョウ︶を追う姿にはだ れもが親しみを感じるらしく覇現 地住民が彼の周囲に集まり、そし て昆虫採築を手伝ったりしてくれ る。停泊中の﹃かごしま丸﹂の電 灯は蒔誘蛾秀︶灯となるし、ま た現地でも日本から持っていっ た誘蛾灯による採取が夜半まで続 くといった具合である。このよう な現地覗査で蝦も肝要なことは、 住民迄親しく話し合える雰囲気を まず作り出すことである。カメラ がそれほど普及していないこれら の国で、最も喜ばれるものの一つ にボロライド写真がある。現場 で、最初にボロライド写冥謹撮影 し、プレゼントすると例外なく打 ち雌けた対応をしてくれる。いっ たん打ち解けた彼らの陽気な態度 蓬みると世界最後の楽幽の国民で あることがひしひしと感じられる のである。 ︵称満・鹿児囲大学腰学部講師︶ ③ L いる。このインド系休民の主食とると愈粗︵米︶の自給は、ますまカウンターパート巽同研究壱 なる米を自給するために、水田造すむずかしぐなるだろう。とともに現地に向かったのであ 成が進められ、フィジー系の化鎚また、両国の人口増加率はかなる。 の米の消賀はかなり少ないとみてり河く、人口圧が徐々に増示ししかし、禰迩期間はあまりに いたのである。 て、米不足にいっそうの拍事宙かも短く、調査内容は、現地を見 どころが、ソロモンの水川地域けることになるZ今後、日本にろ、現地で閥く、現地で研究材料 を調迩してみると、多趣の米が国対する水稲関係の投術援助の巽叩を採取するといった自答に、分刻 内で消蛮され、イモ類逢主章とはますます強まるだろう。そしみで飛び回るといった感じになわ し、かって米食の習慣の全くなかて、両国との胸陥筒研究を進めざるをえない。異体的には、まず つたこれらの島々で米飯への庵ている舵児助大学、直旭研センタ関連の試験場や腿林事務所で現状 ︵し︶好の移行が徐々に起こって−にもいろいろな哩紺がくること説明を一つける。つぎに、現地の関 いることがわかった。また住民にも老えられる。 係老とともに現場に行き、意兄交 聞いてもイモ企より米食の方がう今回調査したフィジー、ソロモ換をやると同時に土壌や作物など まいとい一弓 ンは、いずれも膿莱国で、われわれを採取するのである。このように 二A ’1睦 れらの座業開発地域における種々である。また、彼は、現地での意 の作物の生産性の向上に関する事見交換の主役でもあり、他の五人 柄が研究テーマとして採用され、の隊員の調査状況詮的確に把握し 総懸琴癖癖灘鑑 窄雛§慧婁 蛾# ●也翫日陛 蕊'望舌。 ︲..“尚ユ# 袖Ⅲ ガダルカナル錨の水田を視察する調査隊。手前はかんがい用 の水路南 海 研 だ よ り ソロモンでの謝戒符港地はガ父五十六年までの過去九年間一 ルカナル崎のホニアラ港である。均漁瑛賦は一万五千六百四. その港に入港する隙、私たちは海おる。それは鹿肥隅県の沖| 面に飛び変る魚の群れを何Mとな岸の漁鍵溌のほぼ十分の一 く圃蝉した。カツオの釣り餌完︶・ない。漁場面植がおよそ本 に好適なタレクチォワシ︶の群れ倍で、その漁謹鐘が十分の かもしれない。大魚に追われて海であれば、乱鍵とは全く無 面へと浮上したのであろう。それ態といえる。 にしても、ずいぶん魚が多いなァさて、もうひとつ識いた 1.それが私のソロモンに対すことは、そうしたソロモ
講
④ る第一印象であった。ンの漁柔は、ソロモンタイョウと旅物は、原木やコプラ雫シの白 ﹁ソロモンの漁場而砿はっ●﹂とい一つ蝿套社によって代淡されて身︶と並んで同国の一一天輸出品目 関係者に質問すると、﹁東西八画いることである。先はどの漁鍵埜に数えられている。 癖、南北五百面﹂という返頭が城は、その会社の漁鍵型と全く一致なお、先代の同批総支配人であ 鍬よくかえってきた。それは、わしており、ソロモンの水産事備った率田寿夫氏は、キャプテンホ が国の国鉄路線で表現すれば﹁束は、統計的には、ソロモンタイヨンダとして地元民から熱烈に親し 西で鹿貼勘・東京間、また南北でウ社がすべて、と霞へる。まれ、昭和五士ハ年に固函で蛾 鹿児島・大阪間﹂に匹敵する。もソロモンタイヨウ社は、ソロモも童献した人物﹂としてソロモン ちろん、一昔癖の維済水域を含めン政府と日本企準字金枠漁蓉と政府からSIⅢ勲章が授与されて てのことであるが、それにしてもの合弁であり、カツオの一本釣いる。それは回幽初の鍛商位叙勲 広大な漁場面械である。り漁楽を中心として昭和四十八とのことである。 次の疑問は、そ︸その漁瑛城で年に刺準した水雄会社である。本私たち士ハ人の隊員は同社の好 ある。この問いについては、先は社はホニアラに所郷するが、索堆窓により、ツラギ些地を見学する どのような即答は得られない。・政の太半はツラギとノロの川基地でことができた。ホニアラ・ツラギ 府公認の漁狸統計によれば、昭和行われている。従撲域は、ソロモ間は船で約喜時間の行続である。 五十六年までの過去九年間の年平ン人七百五十入と日本人二百五十一般祷用の定期便が通航されてい 均漁瑛賦は一万五千六百里トンで人で椛成されている。昭和五士ハないので、ツラギ酷ではツーリス おる。それは鹿肥隅県の沖合と沿年の韮な繊柴尖紙は、冷凍姑四十ト的来訪省は一人も見坐けなかつ 岸の漁鍵溌のほぼ十分の一にすき八億円、缶詰七億円、飛節一一億た。漁業球地周辺は輸出用の冷凍 ない。漁場面植がおよそ本県の十円、その他総叶約六十億円であカツオの出荷作業や、缶杢壬湯の 倍で、その漁謹鐘が十分の一程度る。それらの製峨はほとんど輸出フル操莱などで活気にあふれてい であれば、乱獲とは全く無継の状に向けられており、ソロモンの水た。作業員はほとんどソロモン人釣り天国に漁業の息吹
であるが、幹部が日本人の せいか、その基地内では日 本的な雰囲気を感じた。し 思いがした。 ン南部のマライタ島から移住して 最後に、ぜひ触れておきたいこきた人たちである。同じソロモン とは、統計資料に記戦されていな人ではあるが、ガダルカナル島の い辺地漁業の実態である。ホニア原住民とは、言語・食性・風俗。瀧川戦附
習慣などが大きく異なっている。 ソロモンの人たちは、お互いに、 そのような宿命窪背負いながら生 きていかなければならない。 ククムの漁民はマライタ島から 移怯後、なんの支錘もなく、細々 と漁業を行ってきた。そして今 日、彼わは立派な漁船漁業Ⅱ写 爽1毛自力で営むように成長して きた。私たちは時間のたつのを忘 れて篠らの漁鍾現場を星亡た。 たくましい若者の塗が印象的であ った。 その現場から二−一一一百燭離れた 道端に、村のよるず市場があっ た。彼わは漁獲物をその市場に水 揚げした。市場は急ににぎやかに なった。私は衝動的にMサイズの カツオを雌入した︵一匹百六十五 円︶・ 彼らの漁業は自給自足の域を脱 しようとしている。若い漁民が育 っているので、いずれソロモンの 漁業にも若干の変異が起こりそう である。それが水産垂の共通した 見方である。 傘田八郎・鹿児島大学水産学部 教授︶ (83年2月2日) ラから束へ一.一十蝿ほど離れたとこ ろにククムという小さな漁民の集 落がある。彼わは大戦後、ソロモ 漁 を す る 人 び と = ソ ロ モ ン 諸 島 ガ ダ ル カ ナ ル 島 で = 8 かし一歩、その錐地を離れると、 ソロモン特有のゆったりとした叫 壁が目にうつり、身も心も安まる9 NC 陸上での調査が生命である社会 文化班員にとって、四十一百の調 査期間中一一一分の一一窪占める洋上生 活は大変もったいない、と思われ よう。しかし不思議なことに、い つも船酔い気分の一人を除いて、 班員は皆元気で意欲的に学習し、 討論地合っていた倉いう︶。 また、ひとたび陸上調査が始まる と、各自の行動計画に従って、精 力的にとりくんでい拒怜
識⋮
⑤ た。あった。ピジンどは元来。心ま大学の言語教育関係機閏文部明にあたる。 今回は国立民族り﹂の意味だが、ソロモン諸島、省、各種新聞社、放送局小学校︵石村満宏・鹿児島大学法文学部 博物館かわ和田パプアニューギニア等では土着化の現場毒訪ね、国語教冨料、放助教琶 ソロモン諸島国滞在は日程の都ロ、ヤム、サツマイモの主食のほの答えに出くわすのである。住居 合上、十二月六’九日こい一つあか、ほどよいパインが百円、おや跡らしき広場には、一週間前まで わただしさであった。かつてソロつ代わりのピーナツひと握り一千隣人が生活していたが引っ越して モン王の宝が眠る島としてスペイ五円、菜っ葉一束五十円などけっ行ったとい一つ話も、日本では過疎 ン人たちに夢をもたせたこの島国こういい値段で売られている。ピを連想してみじめだが、ここでは、 道一九七八年イギリス自治領か−ナシ売りの店主は話に夢中にななんとなくロマンチックになるも ら独立、今は南太平洋諸国中亜要り、見ると裸の子供が巧妙に一個のだ。そ一つ言った村人は、近くの海 な地位を占めるに至っている。人失敬した。五臓と離れない所でも岸に日本製船外機つきのボー脂を 口一一士一万人、六つの大きな島とう食べてしまった。係留させてある農漁家であった。 百近い小島からなり、面積は一万国民の大部分は農民である。原伊藤行隊員は両国調査の際、住 八千平方キロで刻州の一一一分の二。人始的膿架とか自給的農業とか、簡宅建築について精力的に現地を歩 ロ密度八八はスーダン並み。単に一言ってじまうことが多いが、かれた。フィジーでは住宅公社の 首都ホニアラは太平洋戦争時の貨幣経済の普及とともに変化は大類から供給される安いトタン・ベ 激戦地の一つガダルカナル島北洋きい。焼き畑耕作、しかも移動耕作ニヤ板住宅と、伝統的なマングロ にあり、鉄底海峡に臨む港町でもをしながらも、ある農家では過当−ブ材・ヤシの葉住宅の描造居 ある。人口一万五千人の町並みはたり五十級から百が程度の農獲物住環境の差異などについて砺究を 赤黄、色とりどりの花咲き乱れる収入があるとのことである。ソロ深めた。また両国共通の建築方法 街路樹に埋もれたようであり、素モン諸島の地勢図には村落を永住として掘っ立て柱を用い、柱、桁 足の人が行き交う様子はのどかで村落と、一時期だけの村落に区分︵けた︶、栗︵はり︶等の結合部は さえある。しかし車道には見慣れしてある。一見して後者の多いの植物繊維で巻き、決してクギを便 た日本製の車だけが目立ち、時々に灘くのであるが、このような村っていない手法は、古代日本の家 人を満載したトラックが陽気に走を訪ねると場合によっては戸数この建築方法と全く同じであると りすぎてい〆も公設の市場はま戸とか、私たちの家族だけだとかして、この方面への言及も・され りすぎてい〆弼ふ た、近郊からの人 また人でごったが えしている。夕焼き畑・移動耕作の農民
祐一、杉田繁治の両隊員が参加さした英語をピジンイングリッシュ れたが、テーマはメラネシアにおと言っている。こうした近代化に けるピジンの実体と資料の収集で伴う言語の生態を調査するため、 ) (83年2月3日 ア ジシユ送資料および録音をとることがで 花にきた。今後コンピューターを駆便 ﹄め、しての解明が待たれる。 上村俊雄隊員は前回に続いての に参加である。両国博物館では特別 腹に収納保管庫を開いてもらい、考 碑古学的萱料迩物の計測や写真撮影 丘を行った。また文献に知られる遣 緑跡の見学、進物の採集を行った。 路フィジーでは見学途中、未報告 施畑の新しい辿跡と思われるものを発 地き見、土器を採集する幸運に雷裳れ 誌醍た。両国には考恵章門家がおら はのず、上村隊員の今後の研究が椿た 弄堤れる。蛎鋤識謬雑娠霊藩溌
ラらに取り組んだ。一一百噂時代を迎え 一睡て、南太平洋諸国に共通した問題 ホに点として、食糎供給、雇用の拡 評蓉大、外貨誕得、モノカルチャー経 の。済からの脱皮など難問をかかえて 謡まいるが、これらの突破口として注難娼簾嬬牢灘塗群霊
ソ住︿異語案があり、この率業体の経 営その他の分析を中心に問題の解 ■q#南 海 研 だ よ り ソロモンの健康状況について口比でみる限り、数は+ は、調査が首都ホニアラに限られであるが、なにぶん島が たので全国的なことはわがらな機関、道路網の発達が+ い・ホニアラでは保健省次官のマので、近接医療機関との ニラ氏、医務官のテキエル氏に会ずかしい。 い、外人コンサルタントのパーカ医師数は女性数人を含 I博士を囲んで話し合いを持つ人と非常に少ない。看護 た。こちらの調査の目的を説明し糧一一百小十人、補助員百 協力方をお願いしたところ、快︷全︲六人である。病院以 外は医師が不在であることが日本は蕊地の俗称である。これから などと異なる。公的陵縦機関は一一考えると病院とは病気を治すと 十四時間オープンしており、医療ころというよりは、どうも死ぬ 愛も原則として外米、入院とも無ところというイメージがわいてく 料である。この制度でカバーされる。多分昔は龍症、重体にならな ている国民は七五評以上にものぽいと滴院にかかることができなか る。教会系、事業所系のものは有ったこどから、こういう俗称がで 科であるが、それでも一日当たりきたのであろう。しかし病院を訪 五十l一言五十円ていどで、入院問したが外来ではさほど重症者を でも五百円足らずである。みることはなかった。 医療水準の高低はさだかではな同国で大きな問題とされる疾病 いが、医師はすべて外国で躍学教は、すでに日本で解決されたマラ ⑥ 不足していることから検ソロモンにはマラリアが多発しい気がする。日本の進出企業の人 診等によるサービスが提ているとの情報で、調査隊員に予々からはこの十年間予防薬をのま 供されていないことに起防薬の服用が勧められた。しかしなくても一人のマラリア塞著も発 三劃
雲
│
フ
イ
ジ
ー
.
ソ
ロ
モ
ン
学
術
調
査
隊
報
告
旅業界のもの十六カ所、教会立二青を受けたエリートである。またリア、結核、ハンセン病などで 士一一カ所。ほかに保健所三カ所、白人のコンサルタントが国蹴中火ある。マラリアに至っては、一九 村の救急所四十爪ヵ所がある。人病院に数人いて診娠、臨床検迩に八○年のデータで一一一万五千人もの 口比でみる限り、数は十分のよう当たっているので一定の水準李維人がかかったとのことである。脳 であるが、なにぶん島が多く交通持しているものと思われる。卒中、ガン、心臓迩睦はまだ少 機関、道路網の発達が十分でないここで面白いのは、中火病院がない。 ので、近接医療機関との連拙がむNO9と呼ばれることである。Nこのことはいわゆる成人摘が存 ずかしい。 01とはすばらしい、寺ぞれてい在しないということでなく、ソロ 医師数は女性数人を含めて三十ろことを意味する。またNOmとモンではまだ医療施設や従事者が に明るい処通しを持つことができ 宜を図るとのことで、将来の調査 の同国での保健調五についても便 日間しか滞在しなかったが、今後 く愛け入れて樽わえた。今回は一一 生仁O ソロモンの医療状況を簡単に述 べてみる。 同国の人口は約一一十一一一万人と、 鹿児島市の半分に満たない。ここ に政府立病院六、教会病院二があ る。診娠所は地方立九十六カ所、マラリアに3万洲人師年一
瀧溌 もいわれている。のまなければ、とするのは少し早 車事故が目立って増加しているとが多い、即危険だと考え予防薬を 因するものであろう。近年は自動同国が熱帯地方にあり、マラリア フリア生していない。これは日本人の個 吻薬を人衛生のレベルの高さを示すもの シし早であろう。予防薬の長期服用は副 作用による障害をひき起こし、か えってマラリアよりも恐ろしいの ではないかと私には思える。琴雛蕊鑑しま蕊
奉塞指腸虫症である。またアメーバ赤 す省痢、細菌性赤痢、腸チフスも遥亘 ︾癖されている。ウイルス疾患ではデ 報のング熱、伝染性肝炎、狂犬病など 情ラも存在するようなので注意を要す 建季ろ。 高ホホニアラでの医学垂の行動は、 麺認衛生概況の把握や文献収集を中心 鍵一一として、ガン研究のための血液サ 国ンプル収集、口腔︵こ己疾患の 島診査がなされた。また人々の生活 蓋と動物迄のかかわり合いを知るた モめに市場などでネズミの捕獲や、 泥海では毒性物質をもつウニの採 取を行った。これらの調査物件の 解析は今後明bかにされる予定で 聖の一色o 帝人︵抑橋次雄・鹿児島大学医学部 迄のま助教授︶宮も発,IおわりⅡ
卿鯛叫
鱗
I
i
( 1 0 (83年2月4日) 唖 唖熱誌黙識瞬醗蕊枠蝿 藍 灘鱗
No.9
フィジー・ソロモンでの調査から
和田祐一(社会・文化班)
今回の調査で得た収穫の一つは,フイジーと ソロモンにおける5母音英語の確認である。た いていの言語は,音声言語として『機能』する ために必要な母音(音素)の数がきまっている。 たとえば日本語の母音音素は5つである。『た いていの言語』といったのは、英語の音素の数 は学者の説によって多少ちがうからであるが、 しかし,最低の数を出している学説でも6母音 以 下 に は な ら な い 。 つ ま り 、 〈 ア イ ウ エ オ > の ほ か に も う 一 つ の 母 音 音 素 が あ れ ば 英 語 と し て 機能するというのである。この6番目の母音と いうのはくe>のさかさま〔e〕で,これがで き な い と 区 別 で き な い 単 語 が 英 語 に は た く さ ん ある。(例:heart/hurt=haXt/h9Xt)この 第6の母音は5母音体系のなかではどう処理さ れているか。こんなことは,考えるまでもなく, 5 母 音 の な か の ど れ か で 置 き か え ら れ る に き ま っている。理論的にはそう解っていても,実状 をみるまではやはり不安なのである。しかし, メラネシアも日本と同様であった。今,5母音 型の英語を話している人々は,世界中に分布し, そ の 数 は 増 加 の 一 途 を た ど っ て い る 。 少 な く と も英語を母語とする地域以外では,5母音英語 の 人 口 は 6 母 音 英 語 の 人 口 を 上 ま わ っ て い る に ちがいない。世界の言語の中には5母音体系の 言語の数は一番多く,6母音の言語の数はずっ と少ないのだ。7母音以.上・4母音以下の言語 はもっと少ない。そうなると英語は他民族に使 用されればされるほど『5母音化』する。加う るに,ローマ字そのものが5母音体系である以 上,国際英語(non-nativeEnglish)の五母音 化は避けられぬ運命にあり,5母音英語がすで に広く機能しはじめている。赤道祭をおえて
鯵坂哲朗(自然班)
箪者は,出発直前に「赤道祭実行委員長」を 副隊長よ')拝命致しました。第一次隊では寺田 ・禰藤両隊員の活躍で、成功しているだけに内心 懸念していましたが,医学班に鹿大でも稀な(?) 人材がそろっていたことは心強いことでした。 乗船後,各班の実行委貝が集まり堆本案の作製 にかかりましたが,いかに今回の調企の特色を 出すかという点に亦通祭の成否がかかっており なかなか案がまとまりません。結局,筆なれた 木 原 隊 員 に 基 本 案 を 出 し て い た だ き 鈴 木 隊 員 が そ れ に 手 を 加 え て 完 成 し ま し た 。 細 部 に 関 し て は各出演者のアドリブにまかせることとなりま した。 赤道祭の準備は意外な人が奇抜な迷案を出し たり舞台装置等の工作に腕をふるったりして, 長い船旅の疲れもu欠きとびます。念入りな化粧 や衣装合わせが始まる頃にはしだいに熱をおび、 て来ます。女性用下着に身を包みアイシャドー を濃く塗りつけた自分自身の姿を鏡で見て初め はびっくりしていますが,やがて妖しげな魅力 に自己淘酔する人が続出し,赤道祭の本番にも 増して興味のある光景でした。 天 の 岩 戸 に 隠 れ た 天 照 神 ( 伊 藤 隊 員 ) が さ ま ざ ま な 趣 向 で 誘 い 出 さ れ , 岐 後 に 船 憂 に 赤 道 通 過の雌を渡すという寸劇を,終姑!降妙な、fH1 隊 員 の 司 会 で 無 事 演 じ ら れ ま し た 。 し か し , 圧 巻は珍妙な衣装の医者(船医)と実物以上の看 護 婦 ( 寺 師 隊 員 ) の 長 時 間 に わ た る ア ド リ ブ で 呆るとともに抱腹絶倒しました。出減者の皆様 や 道 具 ・ 衣 装 な ど 陰 の 力 と な っ て い た だ い た 方 々に感謝いたします。 (11)未知の国.隣の国
フィジー・ソロモン諸島
仁平将(医学班)
未 知 の 国 へ 調 査 に 行 く こ と が で き る , し か も 往 復 と も 船 で 。 − 学 生 時 代 の 一 時 期 , 船 医 に な っ て 海 外 へ 行 っ て み た い と 考 え て い た こ と を ふと思い出した。しかし,かごしま丸の1280ト ンという大きさは想像すらできない。青函連絡 船は6000トン級ということはわかっていても… O 船の揺れや船酔いの事などは私は全く心配は していなかったが,周囲の人達の方が心配をし てくれていたようだ。幸いにも航海中は天候に 恵まれ,ベッドにしがみついたのは出航の日だ けだった。 普段は接する機会の少ない他の専門分野の人 々と寝起きを共にしたことは非常に有意義であ った。洋上学部の中では特に「増殖」「焼き畑」「言語」などの話を興味深く聞いた。また,船
員の人達とも交流が出来て楽しかった。しかし
今になって考えると,もっと話を聞いたり意見
を交換しておきたかった人が多数いるような気 がする。途中に他の国へ寄らなかったせいか,フイジ
ーとソロモン諸島はあたかも隣の国のような気 がした。 家族にはおみやげらしい物を買ってこれなか ったが,日焼けした元気な姿で帰った事が何よ りのおみやげであろう。 無事に調査を終えて,医学班公衆衛生グルー プをはじめとした隊員,乗組員の人々のお力に 感謝します。 (12)南 海 研 だ よ り
調査に参加して
江口一弘(農業班)
か ご し ま 丸 が 2 号 用 地 の 港 に 着 岸 し て か ら は や2ヶ月近くが過ぎようとしています。洋上で は考えられなかったような速さで日々がすぎ, アッという間に仕事が累積して,今ではほとん ど首が回らぬ状態です。『ラジオ体操15分前』 で始まった洋上での1日が最近とみに懐かしく 思われてなりません。この原稿を書こうと思い 記憶を逆のぼって行くうちに変な事に気づきま した。もっとも調査期間中にはごく自然な事と して受けとめていたのですが,フイジーでの調 査期間中,農業班は距離的にも時間的にも最も 広範に渡って行動したにもかかわらず,フイジー 本 来 の 原 住 民 で あ る フ ィ ジ ー 人 と ほ と ん ど 接 しておらず,彼らの話がほとんど聞けなかった ということです。実際,インド人の運転する車 に乗り,インド人のカウンターパートの案内で インド人の耕作地の土壌を採取し,またインド 人の耕作者から話を聞く。多少オーバーですが 何となくインド人の生活圏だけを走りまわって来たような気がします。帰路の洋上学部で,日
雇いのフイジー人が働いているのは見たが, 自分の畑に出て働いているフイジー人を見た事 がないと言いましたがひょっとするとフィジー 人が働いているような場所や時間帯に行かなか っただけかもしれません。『うちの畑は…』というようなフイジー人の話が聞きたかったと今
ごろになって思います。最後にこう機会を与え てくださった先生方や関係者の皆様に感謝いた します。No.9
フィールドワークの現場で
川口智治(水産班)
今 回 , 大 学 院 生 と い う 身 分 な が ら オ セ ア ニ ア 海 域 に お け る 水 陸 総 合 学 術 調 査 に 参 加 さ せ て い た だ き ま し た 。 私 に と っ て 初 め て の 海 外 渡 航 で し た の で 見 る も の 聞 く も の が す べ て 生 涯 忘 れ 得ぬ良き思い出となりました。 新造2年目のかごしま丸での洋上生活は快適 そ の も の で し た 。 調 査 日 課 で あ る 海 洋 観 測 と 帰 路の東経160°線上の定点観測も無事におえるこ とができ,なによりでした。 また,陸上調査のなかでもフイジーのシジミ 貝(Batissaviolacea)の生態調査のことが最も 印象に残っています。その調査の舞台は,フィ ジー最大のレワ川でした。ボートで海から河口 を臨んだ時に見た河口域一帯が川からの土砂で 黄土色をしている光景は,今も目に焼き付いて います。また,川が雨で増水しており,どの現 地の人に聞いても「今日は採れない」という日 がありました。採集調査を半ばあきらめていた 時,万が一と思ってインド系の女'性に尋ねてみ ました。「この貝はどんな所に住んでいますか」 と貝殻の実物を示したところ,なんと'快く説明 してくれました。実物を示したのが何より功を 奏したようです。この調査をおえて痛感したこ とは,フィールドにおいては,実験室とは違い 予期せぬ突発的な事象にいかに対応するかとい う実験室では到底考えられない磨き抜かれた判 断 力 , 洞 察 力 , 勇 気 等 が 非 常 に 大 切 で あ る と いう事です。そういう点で大変勉強になりまし た。「今後も後輩にこのような機会を与えてく ださるようお願い致します。」フィジーで考えたこと
鈴木隆史(社会・文化班)
フ イ ジ ー の 首 都 ス バ に お い て 私 は , 押 し 寄 せ る「商品」の波の中でロ申吟する人々の姿を見た ような気がする。色とりどりの衣服,宝石,時 計,電気製品,カメラ,自動車が氾濫し人々を 圧倒している。一見豊かに見える光景も私に多 くの疑問を投げかけてくる。これらの商品を手 に入れることができるのは,ほんの-一部の人々 に過ぎないのではないか。現金収入も少なく自 給 自 足 的 な 生 活 を し て い る 人 々 に と っ て , こ れ らの「商品」は単に欲望をかきたてるだけでそ れを満たすこともできず,気をイライラさせる ものとしてしか映らないだろう。これらの「商 品」が氾濫し,人々の欲求は満たされずイライ ラがうっ積していくことが,果して発展といえ るのだろうか。少しでも自分達の生活を改善し たいと願う人々にとって,高級なカメラや電気 製品は無関係な「商品」である。ショーウイン ドーのガラスに額を当てて中の陳列品を眺め入 る人々の心の中までは見ることはできないが, 開発が進みさらに多くの「商品」が村々に流れ 込 み 人 々 を 圧 倒 し て い く に つ れ , 人 々 の 生 活 も 変わっていくことだろう。開発によって人々の 生 活 が 豊 か に な る こ と を 否 定 し , 現 在 の 生 活 の 方がずっと素晴しいことだと言うのは,「商品」 の あ ふ れ る 中 で 日 々 の 生 活 を 送 っ て い る 我 々 の エ ゴ イ ズ ム で し か な い 。 た だ , こ の フ イ ジ ー の 人 々 の 心 が 開 発 と と も に ど の よ う に 変 わ り つ つあるのか,本当の豊かさとは何か,移り変わ りつつある社会の中でこれから考えていきたい と思っている。 (13)南 海 研 だ よ り ( 14) 口 腔 疾 患 調 査 調 査 隊 員 稲 作 調 査 >毎上観測 巳』 璽 壷 需 強 篭 嬢 電 塞 ぎ 挙 牙 毒 ソ ロ モ ン の 伝 統 的 漁 法 か ご し ま 丸 ス バ 入 港 蝋箪 湛 か ご し ま 丸 レ セ プ シ ョ ン USP,歓迎式
蝋耀蝋
郷11灘 rh 屋 舎 i 罰 糊 毘 職 郷撒瞬ず踊燕紬糊軽睦憲!
;
鶴
昭和57年度特定研究「オセアニア海域における水陸総合学術調査」
(フイジー及びソロモン)調査隊員名簿
(15) No.9 代 表 者 ・ 総 括 岩 切 成 郎 鹿児烏大学南方海域研究センター長 鹿児島大学水雌学部・教授・IEll祭伽洋政策学 隊 長 片 山 忠 夫 鹿児島大学農学部・救援・作物学自然班
隊 員 事 務 局 長 班 長 隊 員 〃 〃 ノ ノ 船 長 ・ 隊 員 隊 員 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 武 石 泰 亮 中 野 和 敬 茶 円 正 明 榎 本 幸 人 塚 原 1 判 三 鯵 坂 哲 朗 小 野 修 助 植 田 総 東 川 勢 一 西 徹 益 満 侃 山 口 照 男 堀 脇 秋 男 中 釜 勤 田 中 久 雄 吉 満 幸 雄 帖 地 純 隆 束 政 能 鹿児島大学工学部・教}0が ト ー ● ノえ ● 通-「・計測工学 鹿児島大学南方海域研究センター・教授・生態学 鹿児島大学水産学部・助教授・環境物理学 神戸大学理学部附属臨海実験所・助教授・海藻学 鹿児島大学理学部・助教授・細胞生物学 京 都 大 学 農 学 部 ・ 助 手 ・ 水 産 柚 物 学 鹿児島大学南方海域研究センター・教務補佐貝 鹿児島大学かごしま丸・教授・船長鹿児島大学かごしま丸・助教授・一等航海士
鹿児島大学かごしま丸・講師・二等航海士 鹿児島大学かごしま丸・助手・次席三等航獅}盲 鹿児島大学かごしま丸・講師・機関長 鹿児島大学かごしま丸・技官・一等機関士 鹿児島大学かごしま丸・技官・二等機関士 鹿児島大学かごしま丸・技官・三等機関t 鹿児島大学かごしま丸・技官・通艦長 鹿児島大学かごしま丸・技官・通1言t 鹿児島大学かごしま丸・蛎務官・聯務展農業班
隊 長 ・ 班 長 隊 員 〃 〃 〃 〃 片 山 』忠 夫 林 満 櫛 下 町 鉦 敏 角 明 夫 江 口 一 弘 遠 城 道 雄 鹿児島大学農学部・教授・作物学 鹿児島大学農紫部・講師・熱帯作物学 鹿児島大学農学部・助手・害虫学 鹿児島大学農学部・助手・熱帯作物学 鹿児島大学南方海域研究センター・教務補佐貝 〃水産班
隊 員副隊員・班長 隊員・謡務局 隊 員 〃 〃 〃 〃 米 咲 一 旦 一唖一J 平 田 八 郎 井 上 兇 男 坂 東 敏 博 池 田 文 厚 庫 岡 正 信 小 川 湖 也 川 1 1 I{ 袖 鹿児島大学水産学部・教授・漁法学 鹿児島大学水産学部・撒授・期殖生理学 鹿児島大学南ノ海域研究センター・教授・海洋生態学 鹿児烏大学水産学部・助手・漁法学 鹿児島大学南方海域研究センター・教務補佐貝 〃 〃 〃(l6l
セ ン タ ー 研 究 会 ・ 活 動 報 告
本 年 1 月 か ら の 南 海 研 セ ン タ ー の 定 例 研 究 会 活動は以下の通り。 第13回(昭和58年1月24日) 「フィリピンのシャーマニズム一平地フィリ ピ ン 人 の 宗 教 世 界 」 寺 田 勇 文 氏 ( 南 海 研 ) 第14回(昭和58年2月23日) シ ン ポ ジ ュ ウ ム 『 パ プ ア ・ ニ ュ ー ギ ニ ア の 生 橘 と栄養』 「パプア・ニューギニアを舞台としたサーブシ ステンス研究」 中野和敬氏(南海研) 「パプア・ニューギニア低地における仙体群 生態学的研究」大塚川太郎氏(東京大学医学 部) 「ハプア・ニューギニア高地の生涌と栄養」 小石秀夫氏(大阪Ilj立大学生柄科学部) 第14回の研究発表要旨は次サに掲城の予定。 南 海 研 だ よ り社会・文化班
隊 員 〃 〃 〃 班 長 隊 員 〃 〃 伊 藤 行 和 田 祐 上 村 俊 雄 杉 田 繁 拾 松 田 恵 明 石 村 満 宏 片 岡 千 賀 之 鈴 木 隆 史 鹿児島大学工学部・教授・挫築史及び愈匠 国 立 民 族 学 博 物 館 ・ 教 授 ・ 言 碕 人 賊 学 鹿児島大学法文学部・助教授・与・lIi学 国 立 民 族 学 博 物 館 ・ 助 教 授 ・ コ ン ピ ュ ー タ 此 族 学 鹿児島大学水産学部・助教授・'到際海洋政策学 鹿児島大学法文学部・助教授・人文地理学 鹿児島大学水産学部・助数授・水産維営維済学 鹿児島大学南方海域研究センター・教務補佐員医学班
班 長船医・事務局 隊 員 〃 〃 〃 〃 〃 〃 寺 師 慎 一 桝 橋 次 雄 仁 平 将 木 原 大 泊 惇 松 九; 正 内 川 隆 仙 波 伊 知 郎 坂 本 峰 至 鹿児島大学南方海域研究センター・教授・人体病理学 鹿児島大学医学部・助教授・公衆衛生学 弘前大学医学部・講師・衛生学 鹿児島大学医学部・講師・生理学 鹿児島大学医学部・助手・公衆衛生学 鹿児島大学医学部脆傷研・助手・脈傷学 鹿児島大学医学部・助手・寄生虫学 鹿児島大学歯学部・助手・口腔病理学 鹿児島大学南方海域研究センター・教務補佐員 事 務 資金前渡官吏 有 村 正 男 鹿児島大学南方海域研究センター・事務室主任 その他 留 学 生 〃 NandRAM JaiRajPRAsAD 鹿児島大学水産学部・研究生・漁法学 鹿児島大学水産学部・研究生・漁法学No.9