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〔資 料〕一枚の世界 --その小釈の試み(5)

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全文

(1)

[解

題]

「おふだ」について(

3

―釘念仏御札



その二



日光山輪王寺蔵

『釘抜念仏縁起絵巻』

(紙本著色、 一巻)

をわずか一紙に

収めた木版



寂光寺釘抜念佛縁起』

(宮島コレクション蔵)

は、

これが

三重県松阪市中万町の神山一乗寺

(天台宗延暦寺派)

の蔵版であろうこと

を日光山興雲律院の中川光熹師より教示された。同師「日光山寂光寺釘抜

念仏とその伝播について」

「歴史と文化」十号、 平成十三年三月

)によると日光山輪王寺蔵『釘

抜念仏縁起絵巻』には元禄五年に作成された複製一巻があって、それが一

乗寺に所蔵されているという。この複製本が一乗寺の所蔵に帰したのは明

治二十一年

(一八八八)

九月以降のことと考えられるから、

これをもとに

木版



『寂光寺釘抜念佛縁起』の版木が製作されたのはそれ以後のことで

ある。

『釘抜念仏縁起絵巻』

の詞書のみの書写本がある。

見によれば四本存

する。以下に紹介する。文字遣



清濁



句読点は原資料に忠実であること

を心掛けたが、いずれも数丁のものであるので本文の体裁は本誌紙型に改

め、改行は文意を取って施し、改丁は鈎記号で示した。

国会図書館蔵『

日光山 寂光寺

釘拔念佛



起写』

(蔵書番号二一九 三七)

仮綴装であったものに表紙を後補し、

その題簽に

日光山 寂光寺

釘抜念佛



写」と墨書。扉には本文と同筆で、

日光山 寂光寺

釘拔念佛



起写

并 ニ 諦忍律師五 輪五大秘釈

/旅中亭」

とあり、

〔帝國圖書館藏〕

〔赤沼書屋〕

の方形朱印が

ある。また扉見返には本文とは別筆で、

五輪塔、方形ハ中央大日如來、円形ハ東方阿 仏、三角形ハ南方宝生如來、 半月形ハ西方弥陀如來、 團 形ハ北方不空成就仏ニシテ、 五 智五部ノ本尊ノ 形也、 五 輪塔ト念仏ノ功德ト因縁資テ幽冥拔苦ノ益ヲ蒙ル成ヘシ、 五 輪ヲ 一切衆生ノ色心実相ト云ヘバ五輪即亡者ノ体也、

の一文がある。以下に縁起本文を示す。

日光山寂光寺釘拔念仏 起 それう ゐ て んべん の な ら ひ 、 せ う じやひ つめつのことはり、 も くぜ ん な りと い へ ど も、 ぐち も ふ めいの ぼ ん ぶ 、 しめし な ければわ き ま へ ず、 天 上 の五す い、 人間 の八 く は、 い ふ に お よばず、 四 悪 し ゆ の く げ ん も、 な ど うけ ざ ら ん や 、 さ れば三がいは や す き こと な し、 く はた く の ご とし、 し ゆ くじ うま ん せ り、 は な は だ お そる べ しと佛もの べ 給 へ り、 爰 に下 野 の 国 、 日 光山の べ つし よ、 じやくく はう寺 上人 か く げ ん 、 西方に心 ざ し 深 く 、 念仏の行 朝 な 夕 な お こたらず、 つとめ 侍 りしに、 ある日こ ゝ ち や すからずして、 に わかにい き た へ ぬ 、そ ば に 侍 りしともがら、 お ど ろ き あはて ゝ 、か な たこ な た く すしわ ざ な ど しけれ ど 、 」 そのしるし な ければ、 ひ た ん か ぎ り な し、 か く てと ゞむ へく もあら ざ れば、 さ うそう だ び の き そ く をいと な ま ん と せ るに、 上人 のは だ へ な をあた ゝ かにして、 あたかもいけるが ご と くな れば、 野 べ に お く りもえ せ で、 一 七 日 夜 う ち 過 ぬ 、か く て 人 々 あ や しみ 侍 りけるに、 上人 た ち ま ち よみ が へ りて、 つ き そう 人 に 此比 のありさまをかたる、 我 この ほ ど 、 ゑ ん わう ぐ うにいたる、 大王われにつ げ てのたま ふ 、 な ん ぢ 今 こ ゝ に き たる べ き 時 にあ らず、 さ れ ど もし や ばの ぐ ん し や う じや け ん にして、 地 ご く に お つるともが らい や まさり ぬ れば、 な ん ぢ に 地 ご く のすがたを見 せ 、し ゆ じや うをす く い しめ ん ため な りとて、 則 ゑ ん わうの お し へ にしたが ひ て、 地 ご く をめ ぐ る、 」 大 地 ご く 百 三十 六 、そ の ほ かに 地 ご く かずをしらず、 つみの き や う ぢ うにし 学苑 第 九 〇〇 号 六 〇~ 六 九(二 〇 一五 一 〇 )



世界



その

釈の

み(

5

関口

靜雄



夏奈



阿部

美香

〔資

料〕

(2)

たがひて、 地ごくにおちてくをうくるしな  を見るに、 か なしみなげくに たへずありけり、ゑん王又のたまわく、ていげのぼんぶ、とんよく、しんゐ、 ぐちにして、 あくをなすことかぎりなければ、 死 して後四十九日の間、 四十 九のくぎをうたる、 ざいごうのせんじんにあうじて、 くぎのちやうたんこと なり、 六寸八寸或は壱尺六寸なり、 かしらに三、 左右のかたに二、 ふたつの 手に六、 はらに二十、 わきに十四、 足の右ひだりに四つ、 合せて四十九也、 此くぎをうたるゝとき、 くるしみさけぶこへ、 上 はうてうてんにひゞき、 下 はあびていに聞ゆ、 ゑん王ふかくあはれみて、 ひたんし給ひ侍れ 」 ども、 じ ごうじとくのむくひなれば、 此 くるしみをのぞく事、 十五のはうべんにもか なひがたし、 ことに一尺六寸の大釘を、 む ねに三うたるゝくるしみ、 さらに たゆべくもなし、 し やばにおいて仏をくやうし、 僧 にふせするくどくにより て、 そのくるしみやうやくめつすといへども、 三 十三年すぎざれば、 此釘ぬ くることなし、 なんぢ年月じやうごうをしゆせしものなれば、 すみやかに本 国にかへり、 めいもふのしゆじやうをけうけして、 四十九万遍の念仏をすゝ むべし、 いかなるざいごうふかきものも、 此念佛の行みちぬれば、 そ のくる しみをまぬがる、 人々死して七々日すぐる日、 し ろきもちを四十九そなふるは、 」 四十九のふし ゛ に、 うたるゝくぎをてんじて、 此もちにうたしめんとなり、 又 四十九の そとばをたつることも、 此釘をてんじて、 仏たいとなさんくどくなり、 たと ひばうこんあくしゆにおつとも、 ついふくさぜんのこうによりて、 四十九の 釘のくるしみをのぞき、 とそつのないゐんにいたるべし、 いはんやいけるう ち、 このふだをうけ、 みづから四十九万べんの念仏をしゆするともがらは、 わうじやううたがひなしとて、 札一枚をさづくとおぼへて、 ゆ めのさめたる 心地すと、 上人つぶさにかたれり、 かくて上人手をひらき侍れば、 五 りんに 四十九の数のあなある札あり、 まことにありかたきことゞもなれば、 見 るも の聞ものきいの思ひをなし、 じ やけん 」 のともがらも、 た ちまちしんじんふ かくなりて、 此札をおの  こひうけ、 念 仏しゆぎやうせんとねがへれば、 上人ゑん王のさづけ給ひし札をうつして、あづさにきざみひろくほどこせり、 ぢよくせまつだいといへ共、 か ゝるふしぎのあるにそ、 ゐ んぐわをもおそれ ず、 はういつむざんなるものゝおしえなれと、 あ さからずおぼへ侍りける、 げに此世はかりのやど、 らいせいながきすみかなり、 万 法みなくうなれば、 ゆめまぼろしの世に何か心をとゞむべき、 た ゞしうじやくの念をはらいすてゝ、 しばらくもごせをわすれず、 り んじう正ねんならんことを願ひて、 ぎやうじ うざぐはにしやうみやうねんぶつせば、 ごくらく 」 じやうどにわうじやうせ んこと、うたがひなし、 かゝるきどくありといへども、 しるしとめざればこをきにつたわらず、 かつ はぼんぶのうたがいもあらんとおもへば、 上人のかたりしやうを、 ふでにま かせて後代にのこすも、 けやくのたすけにならざらましかばと、 か くしるし 侍りぬ 文明十三年 辛 丑 六月弟子沙門某謹書 文化八年弥生初旬写之 旅中亭 」

以上の縁起文の書写に続いて、次丁に、

正三老人因果物語曰 文明年中、 野州日光山寂光寺 ノ 覚源上人、 俄 カニ 死 シテ 至 ル 二 于冥府 ニ 一、閻 王 命 シテ 令 三 歴覧 セ 二地獄 ヲ 一 、既 ニシテ 而出 シテ 二 五輪圖 ヲ 一 告 テ 二 上人 ニ 一曰、 罪悪 ノ 衆生死 シテ 到 レ 此 ニ 、先 ツ 釘 ウツ 二 一身支節 ノ 四十九処 ニ 一 、其苦 ミ 不 レ 可 レ フ 、若有 テ 二男女 ニ 称 二 阿弥陀仏 ノ 名号 四十九万偏 ヲ 一 二 メ 五輪塔中 ノ 圏 ヲ 一 至誠 ニシテ 囘向 スレハ 、 亡者離 テ レ 苦 ヲ 必生 ス 二 浄土 ニ 一、若 其 レ 善者 ナレハ 受 テ 二此功德 ヲ 一 二 長 シテ 善根 ヲ 一 、超 二 ス 上品 ニ 一、上 人 還 テ 二陽間 ニ 一 、當 ニ ト下 語 テ 二 此 一 ヲ 普 ク 救 フ 中衆生 ヲ 上 乃 チ 授 ク 二 五輪念仏 ノ 圖 ヲ 一、上人 蘇 生 シテ 其圖 ノ 在 リ 二 于 掌 中 ニ 一 尓 ヨリ 来 タ 諸 人、 毎 トニ レ 値 ア フ 二 亡者 ノ 中 陰 ニ 一 、 依 テ 二 此圖 ニ 一念仏 追福 スル 者 シバ  有 リ ト 二 験 一 云 、

正三

『因果物

書があり、さらに

尾張

八事山

正寺

諦忍律師

念佛

醍醐編

書があるが

割愛

する

なお

丁に

旅中亭

藏〕

方形朱印

がある

宮内庁書陵部蔵『寂光寺釘拔念佛縁起』

陵部図

庫蔵

津村

片玉集

前 後 続 集

(蔵書番号四五 八 一)

四八に

所載

本文に書名はないが、

片玉集前

目録」

寂光

寺釘

念佛縁起

とある

なお右

資料

陵部

資料目録



画像公開

システ

ム」

( 図 書 寮 文 庫 )

によ

覧し、

それに

據っ

。「

寂光寺釘

佛縁起

片玉集

前 後 続 集

二五九七

二六

コマ

である

下に縁起本文を

(3)

〔寂光寺釘拔念佛縁起〕 それ有為轉変のならひ生者必滅のことはり目前なりといへとも愚癡妄迷の凡 夫しめしなけれはわきまへす天上の五衰人間の八苦はいふにおよはす四悪趣 の苦患もなとうけさらんやされは三界はやすきことなし火宅のことし衆苦充 満せりはなはた畏るゝへしと佛ものへ給へり爰に下野國日光山の別所寂光寺 上人覺源西方にこゝろさしふかく念仏の行朝な夕なをこたらすつとめ 」 侍り しにある日こゝちやすからすして俄に息絶ぬ側に侍りし輩おとろきあはてゝ かなたこなたくすしわさなとしけれとそのしるしなけれは悲 かきりなしか くてとゝむへくもあらされは送葬荼毘の儀則をいとなまむとするに上人のは たへなをあたゝかにして恰いけるかことくなれは野邊にをくりもえせて一七 日夜うちすきぬ かくて人  あやしみ侍りけるに上人たちまちよみかへりてつきそふ人にこ の比の 」 ありさまをかたる我このほと閻王宮にいたる大王われにつけてのた まふ汝今こゝに来るへき時にあらすされとも娑婆の群生邪見にして地獄にお つるともからいやまさりぬれは汝に地獄のすかたをみせ衆生をすくはしめん ためなりとそすなはち閻王の教にしたかひて地獄をめくる大地獄百三十六そ のほか小地獄数をしらす罪の輕重にしたかひて地獄におちて苦をうくるしな  を見るにかなしみなけくにたへすありける閻王又のたまはく底 」 下の凡 夫貪欲瞋恚愚癡にして悪をなすこと限りなけれは死して後四十九日のあいた 四十九の釘をうたる罪業の淺深に應して釘の長短ことなり六寸八寸或は一尺 六寸なり頭に三左右の肩に二ふたつの手に六腹に二十脇に十四足の右ひたり に四合て四十九なり此釘をうたるゝ時くるしみさけふ聲上は有頂天にひゝき 下は阿鼻底に聞ゆ閻王ふかくあはれみて悲 したまひ侍れとも自業自得の報 ひなれはこのくるしみを除くこと十王の方 」 便にもかなひかたしことに一尺 六寸の大釘を胸に三うたるゝくるしみさらにたゆへくもなし娑婆にをいて佛 を供養し僧に布施する功德によりてそのくるしみやうやく減すといへとも三 十三年過されは此釘ぬくることなし汝年月浄業を修せしものなれはすみやか に本國にかへり迷妄の衆生を教化して四十九万遍の念佛を勧むへしいかなる 罪業ふかきものも此念佛の行みちぬれはそのくるしみをまぬかる 人  死し て七 々 日 す く る日し ろ き を 」 四 十 九 そ のふるは 四 十 九 の ふし  にうたるゝ釘を轉して此 にうたしめんとなり又四十九の卒都婆をたつるこ とも此釘を轉して佛躰ともなさむ功德なりたとひ亡魂悪趣におつとも追福作 善の功によりて四十九の釘のくるしみをのそき都率の内院にいたるへし况い けるうちこの札をうけみつから四十九万遍の念佛を修するともからは徃生う たかひなしとて札一枚を授くとおほえて夢のさめたるこゝちすと上人つふさ にかたれり かくて上人手をひらき侍れは五りんに四十 」 九の釘の穴ある札ありまことに ありかたきことゝもなれは見るもの聞もの竒異の思ひをなし邪見のともから もたちまち信心ふかくなりて此札ををの  こひうけ念仏修行せんと願へれ は上人閻王の授給ひし札をうつして梓にきさみ廣くほとこせり濁世末代とい へともかゝる不思議のあるこそ因果をもおそれす放逸無慚なるものゝをしへ なれとあさからすおほえ侍りけるけに此世はかりの宿来世はなかきすみかな り万法みな空なれは夢まほろしの世になにか心をとゝむへきたゝ 」 執着の念 をはらひ 捨 て 暫 も後世をわすれす 臨 終正 念ならんことを ね かひて行 住坐 に 称名 念佛せは 極樂 浄 土 に徃生せんこと 疑 ひなし かゝる 奇特 ありといへともしるしとゝめされは 遠 きに 傳 はらすかつは凡夫の うたかひもあらんとおもへは上人の 語 りしやうを 筆 にまかせて後代にのこす も化 益 のたすけにならさらましかはとかくしるし侍りぬ 文明 十三年 辛丑 六月 弟子沙門 某 謹識 」 右寂光寺釘 抜 念佛 縁起舊 本 書畫並 不 好 今 改製而寄附焉 元禄 五年 壬申 四月 當 山 座主第 五十六世二 品〔花押〕親 王 」

『日光山志』巻三所載『釘念佛





起』

植田孟縉編

日光山

志』

載『

釘念佛



八年

( 一八三七 )

和泉屋庄次郎版

影印復刻

した

日光山

志』

(版 本地 誌 大 系 11、 一九九六 八 )

據っ

。以

下に

縁起

釘 く ぎ 念 ね ん 佛 ぶ つの  ゑん ぎ 元禄 年 中御 ご 門 もん 主 しゆ 御 おん 染 せん 筆 ひつ 巻 くわん 中 ちゆう 所 しよ 々  図 づ 画 ぐ わ は 狩 野 常 信 筆 ふ で 粤 こゝ に下 しも 野 つけの 國 くに 日 につ 光 くわう 山 ざ ん の別 べ つ 所 しよ 寂 じ やく 光 くわう 寺 じ 覚 が く 源 げ ん 上 しやう 人 にん 西 さい 方 はう に 志 こゝろ ざ し 深 ふか く念 ね ん 仏 ぶ つ 朝 てう 夕 せき 懈 おこた ら ず 勤 つとめ 侍 はん べ りしに或 ある 時 とき こゝち 安 やす から ず して 俄 にはか に息 いき 絶 たえ ぬ側 かたはら に侍 は べ 」 りし 輩 とも が ら 驚 お ど ろ きけ れ ど留 と ゞ む べ きもなく荼 だ 毘 び の儀 ぎ 営 いとな まんとするに 上 しやう 人 にん の 肌 き 膚 ふ 猶 なほ 温 あたゝか にして生 いけ る が 如 ご と くなれ ば 野 の 辺 べ の送 おくり も見 み 合 あはせ 一七日の夜 よ 過 す ぎ ぬ 斯 かく て人 ひと 々  怪 あやし む 處 ところ に上 しやう 人 にん 忽 たちまち 蘓 そ 生 せい し此 この 比 ころ の 形 ぎ やう 状 じ やう を 語 かた る我 われ 閻 えん 王 わう 宮 きう に 至 いた るに大 だ い 王 わう 我 われ に 告 つ げ て 宣 のたま ふは 汝 なん ぢ 今 いま に こゝ 來 きた る べ きにあら ず されとも娑 しや 婆 ば の群 ぐ ん 生 しやう 邪 じ や 見 けん のもの地 ぢ 獄 ご く に 落 おつ るもの 多 おほ し汝 なん ぢ に地 ぢ 獄 ご く の す が たを見 み せ衆 しゆ 生 じ やう を 救 すく はせん為 ため なり 則 すなはち 大 だ い 王 わう の教 をしへ に 随 した が ひ地 ぢ 獄 ご く を 廻 め ぐ りける大 だ い 地 ぢ 獄 ご く 百三十六 其 その 餘 よ 地 ぢ 獄 ご く の数 か ず を 知 し ら ず 苦 くるし みを 受 うく るものを見 み るに悲 かな しみ なげ くに 堪 たへ

(4)

ず閻 えん 王 わう 宣 のたま はく凡 ぼん 夫 ぶ 貪 とん 欲 よく 心 しん にして悪 あく を作 つく ること 限 かぎり なければ死 し して後 のち 四十九日 の間 あひだ 四十九の釘 くぎ をうたる罪 ざい 業 ごふ の深 しん 淺 せん に應 おう し釘 くぎ の長 ちやう 短 たん あり六寸八寸 或 あるひ は壱尺 六寸なり 頭 かしら に三ツ左 さ 右 いう の肩 かた に二ツ兩 手 りやうて に六ツ腹 はら に二十脇 わき に十四足 あし の左 さ 右 いう に四 ツ合 あは せて四十九なり此 この 釘 くぎ を打 うたる る時 とき 苦 くるし み叫 さけ ぶ聲 こゑ 上 かみ は有 う 頂 ちやう 天 てん に 」 響 ひゞ き下 しも は阿 あ 鼻 び 底 てい に聞 きこ ゆ閻 えん 王 わう 深 ふか く憐 あはれ みても自 じ 業 ごふ 自 じ 得 とく の報 むくい なれば此 この 苦 く を除 のぞ くこと 叶 かなひ がたく娑 しや 婆 ば に於 おい て仏 ほとけ を供 くう じ僧 そう に布 ふ 施 せ する功 く 德 どく に依 より て其 その 苦 くる しみ 漸 やうやく 減 げん ずといへども卅三 年過 すぎ ざれば此 この 釘 くぎ 拔 ぬく ることなし 汝 なんぢ 毎月しやうがうを修 しゆ せしものなれば速 すみやか に本 ほん 國 ごく へ帰 かへ り迷 めい 盲 まう の衆 しゆ 生 じやう を教 けう 化 け し四十九万 まん 遍 べん の念 ねん 仏 ぶつ をつとむべし此 この 念 ねん 仏 ぶつ の業 げふ 満 みち ぬれ ば其 その 苦 くる しみを 免 まのか るべし人 ひと 々  死 し して七々日 にち 過 すぐ る日 ひ 白 しろ き を四十九備 もち そな ふるは四十 九のふし ゛ に打 うたる る釘 くぎ を轉 てん じ此 この に打 もち うた しめんとなり又 また 四十九の卒 そ 都 と 婆 は を建 たつ る も此 この 釘 くぎ を轉 てん じ仏 ぶつ 躰 たい ともなさん功 く 徳 どく 也假 たと 令 へ 亡 ばう 魂 こん 悪 あく 趣 しゆ に墮 おつ とも追 つゐ 福 ふく 作 さ 善 ぜん の功 こう に依 より て四十九の釘 くぎ の苦 く を除 のぞ き都 と 率 そつ の内 ない 院 ゐん に至 いた るべし 況 いはんや いけるうち此 この 札 ふだ を受 うけ てみ づから 四 十 九 万 まん 遍 べん の念 ねん 仏 ぶつ を修 しゆ する  ともがら は徃 わう 生 じやう 疑 うたが ひなしとて 札 ふだ 一枚 まい を授 さづ くと 覚 おぼえ て夢 ゆめ の覚 さめ たるこゝちすと 上 しやう 人 にん 具 つぶさ に語 かた れり斯 かく て上 しやう 人 にん 手 て を 」 開 ひら き見 み れば五 ご 輪 りん に 四十九の釘 くぎ 穴 あな 有 ある 札 ふだ あり 誠 まこと に難 あり 有 がたき 事 こと どもなれば見 みる もの聞 きく もの奇 き 異 い の思 おも ひをな し邪 じや 見 けん の  ともがら 忽 たちまち に信 しん 心 じん 深 ふか く成 なり て此 この 札 ふだ を乞 こひ 受 うけ て念 ねん 仏 ぶつ 修 しゆ 行 ぎやう せんと願 ねが へば 上 しやう 人 にん 閻 えん 王 わう の授 さづ け給ひし札 ふだ を写 うつ し梓 あづさ に刻 きざ み廣 ひろ く施 ほどこ せり 叔 しゆく 世 せ 末 まつ 代 だい といふとも蒐 かゝ る不 ふ 思 し 議 ぎ の有 ある 事 こと 放 はう 逸 いつ 無 む 慙 ざん なるものゝ 敎 をしへ なれど浅 あさ からず覚 おぼ えけると 云 云 文明十三 辛 丑 年六月 弟 で 子 し 沙 しや 門 もん 謹 つゝしん で 識 しるす 日 につ 光 くわう 山 さん 寂 じやく 光 くわう 寺 じ 上 しやう 人 にん 」

内閣文庫『日光山寂光寺釘念佛縁起聞書』

(蔵書番号一七八三二 一九二)

仮綴装

たものに

表紙

を後

その

題簽

釘念

佛縁起」

墨書。

に本文と

同筆

釘念

佛縁起」

とある

〔和学講談所〕

の長

がある

下に

縁起

本文を

日光山寂光寺釘念佛縁起聞書 文明七年 乙 キノトノ 未 十月 廿 日 ニ 寂光寺 ノ 住 持龍泉坊頓 死 ス然リ ト 雖モ 其 ノ 身 暖 アタヽカ ナ ルガ 故 ニ 是ヲ 不 葬則チ 七日 ニ 至 テ蘓 ソ 生 シテ 云 ク 我 レ 此 ノ 間閻 魔 國 ニ 至 レ リ 閻王 ノ 云 ク 汝 ヂ 未 タ 此 ニ 來 ル 時 ニ 非ズ ト 雖 モ 末世 ノ 衆生 暴 悪 ニ シテ 冥途 ノ 苦 患 ヲ 不 レ 辨 死 後四十九日 ガ 間 骨節 ニ 四十九本 ノ 釘 ヲ 被 レ打事 ヲ 不 レ 知 是 ノ 事 ヲ 衆生 ニ 告 ツ ゲ サ シ メ 」 ン ガ 為 ニ 此 ニ 來 ラ シ ム ル 也釘 ハ 罪 ノ 輕 重 ニ 仍 テ 大小 ア リ 六寸 ト 八寸 ト 也其 ノ 打 處 ハ 先 ツ 首 ニ 三本 ノ 肩 ニ 二本 ノ 手 ニ 四本 胸 ニ 三本腹 ニ廿 本 ノ 脇 ニ 十本 ノ 足 ニ 四本 亦 一尺六寸 ノ 大 釘三本 ア リ 胸 ノ 間 ニ 是ヲ 打 ツ 此 ノ 苦 ミ勝 レ テ レ 堪 タ ヘ 也 然 ル ニ 至 シ 心 ニ 念 佛 四十九 萬 遍 ヲ 滿 テ ン 人 ハ 此 ノ 釘 ノ 苦 ミ ヲ 免 ル ヘ キ 也汝娑婆 ニ 皈 リ テ是ヲ 衆生 ニ 可 シ レ 勧 ス ヽ ム ト 云 」 テ 其 圖 ヲ 授 ケ リ ト 左 ノ 掌 ヲ 開 キ テ是ヲ 示 セ リ ト 云 云 末世 ノ 衆生疑 ヲ 起 サ ン 事 ヲ 悲 テ 竜 泉坊 自 ラ 筆 シテ 今 ニ 寂光寺 ニ 此 縁起 ヲ 殘 セ リ 予 彼 ノ 寺 ニ 至 テ 慥 ニ 是ヲ 聞 者 也 右一聞 ニ 依 テ是ヲ 畧 書 ス ル ノ 間 少 違 ア ラン 事 ヲ 恐 ル 後 賢 是ヲ 正 フ セ ヨ 既 ニ 文 明七年 ヨ リ 今 延寳 ニ 至 テ 二 百余 年 ニ 及 へ リ 予 彼 ニ 至 テ是ヲ 聞 」  延寳 四 年三月 廿 七日也此 ノ 念 佛 ヲ 唱 へ ン ト 思人 ハ 彼 ノ 寺 ニ 右 ノ 圖 ノ 紙 札 ア リ 是ヲ 可 レ 請 其 ノ 圖 ト ハ 黒 キ 五輪 ニ 白 キ 釘 キ 穴 アナ 四十九 ア リ 念 佛 一 萬 遍 ヲ 滿 テ ハ 墨 ヲ 以 テ 穴一ツ ヲ 消 ス 也 終 ニ 四十九 萬 遍 ヲ 滿 テヽ 悉 ク 消 シ 了 ヲ ハ ル ノ 後其 ノ 端 ハ シ ニ 戒名 ヲ 書 付 施 物 少 分 ヲ 相添 テ 彼 寺 ニ 是ヲ 返 ス 也此時其 寺 ノ 本 尊 ノ 左右 ニ 是ヲ 納 又過 去帳 」 ニ 其 戒名 ヲ 載 テ 以 テ 永 ク 回向 セ リ 則 チ 寂光 道 塲 ニ 於 テ 回向永 ク 退 轉無 キ 旨 請 文 ヲ 出 セ リ 又 タ 他 ノ 追善 逆 修 ニ セ バ 其 戒名 ヲ 可 レ 也 寂光寺 ハ 霧 リ 深 ガ 故 ニ 朔 日十五日 廿 八日 耳 住 持 登 ノ ビ レ リ 常 ニ ハ 里 ト 坊 妙珍 坊 ニ 居 セ リ 妙珎 坊 ハ 御 橋 ノ 川 上四五 町 ニ ア リ 川 端 ハ タ ヨ リ 本 町 ニ 上 ル 處 ノ 右 角 也 又右 ノ 縁起 ノ 中 ニ 曰 ク 閻王 ノ 曰 ク 四十 」 九本 ノ 塔 婆 ヲ 立 テヽ 供 養 セ ハ 此釘 ノ 苦 ミ ヲ 免 レテ 都 ト 卒 ソ ツ ノ 内院 ニ 生 ゼ ン ト 也又 タ 曰 ク 四十九 ノ ヲ 佛 ニ 備 ン 輩 モ 此 ノ 苦 ミ ヲ 免 ル ベ シ ト 世 ニ 四十九 ノ ヲ 用 ヒ 來 ル  ヨ リ 始 ル ト 也 ノ 義 既 ニ 日 本一 刕 ニ 弘 ヒ ロマ レ リ 念 佛 ノ 義何 ソ 不 レ 弘 哉 或僧 ノ 云 ク 大 原 ノ 融通 念 佛 坂 本 ノ 断 抹 磨 念 佛 日 光 ノ 釘念 佛 ト 云 テ我 朝 三 品 ノ 念 佛 タ リ ト 也 」 石平 モ 因果 物 語 リ 中 巻 ノ 廿 七 条 ニ 此事 ヲ 記 シ 玉 ヘ リ然リ ト イ ヘ ト モ 他 人 ノ 聞 ル 處 ニ 依 テ 記 シ 玉 ガ故 ニ 少 シ 相 違 ア リ 故 ニ 予 直 ニ 聞 處 ヲ 以 テ是ヲ 畧 書 ス 夫 レ 三本 ノ 大 釘 ハ 三 毒 ノ 心 篝 誠 ニ 此報 ヒ 永 ク 難 レ 處 也 少 々 ノ ニ テ ハ 拔 ル コ ト 有 ベ カ ラ ス 因 ニ 自 己 ヲ 顧 ル ニ 慥 ニ 釘 可 レ レ 打 ト 思 ヘ リ 其 咎甚 タ 重 シ 何 ゾ レ ン ヤ實 ニ 懼 レ 」 慎 ン テ是ヲ 可 レ 唱 也 豈 釘 ヲ 免 ルヽ 耳 ナ ラン ヤ 其 中 ニ 無 量 ノ 功德 ア リ 凡 ソ 四十九日 ニ 是ヲ 可 レ 滿 其 ノ 内 ニ 成 セ ハ 猶 ヲ 可 也 ノ 又其 ノ 外 ニ 出 ン モ 不 レ 苦也 噫 アヽ 拙 ツ タナ キ 哉 今 末世此釘 ノ 義 ヲ 疑人 ア リ 是 レ 真 理 ニ 暗 キ 故ナ リ 可 レ 恐 々 々 延寳 四 丙辰 暦 三月日 恵 中 謹 書 」 (関口靜雄)

(5)

15.

百人一首

参議篁

木版多色 二四 五×三六 九㎝ 江戸時代後期 (宮島コレクション蔵) 前北斎

百人一首

参議篁

和田の原

八十嶌

かけて

漕き

出ぬと

人には

告けよ

あまの

つり舟

画中の歌は参議篁すなわち小野篁の詠である。

『古今和歌集』

(新編日本 古典文学全集十一 巻九 羇旅歌)

に収められたもので、

その詞書には

「隠

岐国に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつか

はしける」とあり、古来、隠岐に向かう船の乗船地である難波での作とさ

れている。

篁が配流されるに至った経緯については、

『続日本後紀』

(新増大系本 第三巻)

承和五年

(八三八)

十二月十五日条に、

「勅曰。

小野篁。

。出

使

外境

。空

病故

。不

國命

。准

據律條

。可

絞刑

死一等

。處

之遠流

。仍

流隱岐國

初造舶使造

舶之日。

自定

其次第

之。

古例

也。

使等任

之。

各駕而去。

一漂廻後。

使上奏。

更復ト定。

其次第

第二舶改爲

第一

大使駕

之。

副使篁怨

。陽

病而留。

遂懐

幽憤

。作

西道謡

。以

遣唐之役

也。

其詞牽興多犯

忌諱

嵯峨太上天皇覽

之。

大怒令

其罪

。故

此竄

。」

あり、

遣唐副使に任じられた篁が大使藤原常嗣と軋轢を生じて

乗船を拒否し、さらに遣唐使の事業を批判する風諭詩『西道謡』を作った

が、こうした篁の

言動

に嵯峨太上天皇が大怒し、



のう

で隠岐

配流されたと

伝え

ている。

「百人一首

とき」



北斎

(一 七 六 〇~ 一八四九)

後の大判



で、百人一首の歌

乳母

もたちにわかり

説く

という

旨のもとに

作されたもので、

六年

(一八三五)

から天

(一八三八)

にかけて

寿堂

西

村与兵衛

から版

されたが、

与兵衛

が版

行途

中で

没落

し、

だ栄樹堂伊勢屋

三次

もす

に続

断念

した

ため二十

で中

してしまった。しかし

現在

、国内外の

美術館

に、

校合



版下

九十一

確認

されていることから、北

斎は

定の全百

完成

していたようである。

「百人一首

とき」

には

「前北斎

」「前北斎



ように、

「前北

斎」

」を

名があり、

「百人一首

う ば が ゑ とき

」と

リーズ

名が

明記

されて

り、今日ではこの二

真贋

の判定

材料

の一つとなっている

ようである。次

掲げ

作には「前北斎



」とあり、小さめの二

つの

郭枠

の中に

「百人一首

乳母 が 繪 とき

」、も

に歌人名とその詠歌が、

たと

「参議篁

/

和田の原八十嶌

/

かけて漕出ぬと

/

人には

/

告よ

/

あまの

つり

」と

まれている

冒頭

出した

錦絵

には「前北斎」の後に

がな

、また「う

き」のシ

リーズ

名もない。つまりこれは

作で、



百人一首参議篁」

きものである。

そら

北斎の画業を

る人は

がないこと

でも

作の

いを

いたは

である。しかし、この

作は和歌の配

作と

構図

も全

じで

画としても一

して



色がない。

(6)

比べ見れば、贋作が鮮やか

な色彩を波の一部にしか使

っておらず、全体的におと

なしい色合いであるのに対

して、真作は海女が薄紅色

や淡黄の衣を身に纏い、波

は白から青藍へと階調して

おり、全体的に華やかな色

使いであることや、人物の

表情が細かく描かれ、波や

岩の細かな部分の彫りの本

数も多く、きわめて丁寧に

仕上げられている。これが

北斎の本領で真作たるゆえ

んであろう。

画面手前に「あま」が、

左奥に篁が乗船しているは

ずの沖行く船が描かれてい

る。

「あま」

は男衆の

「海

士」と、女衆の「海女」が

ともに描かれている。海女は岩の上と海に三人ずつ描かれており、下半身

に纏った衣は柿渋色で統一されている。岩の上の三人はそれぞれ海面に顔

を向けており、いまから飛び込もうとしているように見える。海に潜る海

女のうち手前の二人は海面に顔を向けて獲物を探しており、後方の一人は

左手に鮑であろう、採った獲物を掲げている。小船の先頭で前のめりにな

っている海士は、それを見て口角を上げ、左手をぐっと握っている。一方、

同船の他の二人は気怠げな体勢と表情をしている。一人は籠に、一人は櫂

に寄りかかり、退屈で仕方がないという姿である。しかし、ここに描かれ

た「あま」たちの誰も沖行く船には目を向けていない。自分たちの日常を

過ごしているだけである。

隠岐への配流という非日常に向かう篁が

「あま」

たちに託した言づけも、賑わう「あま」たちには届いていないように見え

る。隠岐に向かう配流船に人影がないことも、罪を得て遠流される篁の詠

歌のむなしさを象徴しているようである。

歌川国芳

(一七九八~一八六一)

の浮世絵に「百人一首之内

参議篁」

ある。画面右上に篁の詠歌に解説が付されている。

ひやく

にん

一首

しゆ

うち

さん

たかむら

一勇齋

/

國芳

画 (丸朱印 角印)

わたの原八

嶋かけて漕

こぎ

いてぬと

人にはつげよ

あま

のつりふね

古 こ 今 きん 集 しふ 羇 き 旅 りよ の部に入 い るこれは 承 しやう 和 わ 二年遣 けん 唐 たう 使 し の / ことにつきて隠 お 岐 き の國へ流 なが さるゝ時の哥なりわれはかく / かぎりもしらぬわだのはらに舩漕 こぎ て八 や 十 そ 嶌とて 数かぎ / りなき嶋々をながめつゝゆく身のあはれさを都の人に / つげよといふ 也誰とさして頼むならねば蜑の釣舟といひし也

国芳の右の作は、

斎の

「百人一首

姥がゑとき

参議篁」

と比べて篁の乗る

配流船が大きく描かれており、海士の小舟と配流船の胴体部分が重ねて描

かれることで画面下部に視線が向く構図である。小舟には褌に鉢

姿で

を漕ぐ二人の海士と

して配流船に視線を向ける鉢

色の上衣を

(7)

海士が描かれている。波は小舟よりも高く、漕手の海士二人の懸命さが伝

わり臨場感に



れている。配流船は大きな帆と赤と黒の吹流しが二本あり、

側の青い旗に



と書か

尾に



れている

運んだり海上を見渡す八人の男衆がおり、船の横腹の窓には外を見る二人

の男衆が描かれている。奥には篁がいるはずである。

北斎の錦絵と国芳の浮世絵の構図から、二人の篁の詠歌に対する解釈の

違いが見て取れるようだ。北斎の錦絵は、配流船に人の気配がないことや、

海の波が穏やかであることから、哀愁漂う雰囲気を感じさせる。都人であ

る篁にとって異界ともいえる隠岐に流されることを悲しみ、藁にも縋る思

いで無関係の「あま」に言づけを託すという、いわゆるこの和歌の定説と

もいえる解釈を下地に、北斎は海女衆たちの日常を活写した。年老いても

なお斬新な発想をする北斎の面目躍如の感がする。一方国芳の浮世絵は、

男衆の海士たちが生き生きと描かれ、活気に満ちている。画面からは配流

が持つもの哀しさがまったく感じられない。むしろ希望に満ちた船出の印

象を受ける。国芳は、朝廷に対して率直に、あるいは風諭を交えて意見を

述べることができ、その反骨精神から野狂と呼ばれるような人物であった

篁に強い共感を抱いていたのではなかろうか。篁が隠岐に流されて落ち込

むような徒人ではなかったことを強調したかったに相違ない。

なお、北斎の「百人一首姥がゑとき」が中絶したことについて、それが

版元の没落などの理由ではなく、北斎の作品自体が不評であったことに起

因するとする説がある。

たとえば、

北斎研究家の永田生慈氏は、

「実際に

はかえって解釈しにくい図も多く見いだすことが出来ることから、当時お

そらく不評であったともみられる

といわれる。

しかし、

「百人一首姥が

ゑとき」が版行当時不評であったとの風聞は伝えられていないことや、今

回取り上げたのは「参議篁」のみであるが、こうして「百人一首姥がゑと

き」の贋作が作られていたことを考えれば、北斎作不評説に疑問を投げか

けざるをえない。版行された二十七枚すべてを精査したわけではなく、贋

作は寺子屋の教材に

場したり、

み物や

小説に

頻繁

られる伝説

人物として人気の高い小野篁の詠歌に係わるものだけだったのかも

ない。

だがしかし、

「解釈しにくい図」

はそのうちに



解きの

要素

でいるのであって、それが直

不評に

結び

つくわけではないのである。

(岡 本 夏奈) 注  1 国 立 国 会 図書 館蔵 「百人一首 乳母 か絵とき 参議篁」 ( 二 五 六×三 七 〇 ㎝) 。 2 早稲 田大 学演劇博 物 館蔵 「百人一首 之内 参議篁」 (三六 七 × 二 三 〇㎝ 、 同 館 所 蔵 番号四 〇 一 ― 〇〇〇 四 )。 3 この 字 は 「 富」 としては一画多く、 「 當 」 と しては一画 足 りない。 あるいは 「富に 當 る」と 読 ませる国芳の 文字 遊 び であろうか。 4 永田生慈氏 「 飾 北斎 肉筆鑑賞 」( 「 古美術 」 九 三 号 、一 九九 〇 一、 三 彩社 )。

(8)

16.

箱根山牛玉宝印

木版 二四 二×三三 七糎 元文五年(一七四〇) 富士市立博物館所蔵

一枚の紙に



り出された不思議な図様は、図案化された文字である。何

と書かれているのだろうか。真ん中は「箱根山」

、右に「牛玉

ごお う

」、左に「寶

印」の文字を配置し、惣じて「箱根山牛玉寶印」と読む。

牛玉宝印とは、それを発行する寺社にとり、最も重要な宗教的機能をあ

らわす護符である。これを授与された人

(或いは家や村など)

は、除災招福、

家内安全、五穀豊穣、病疫退散といった一年の祈願をこの牛玉宝印に託し、

それに象られた神仏の加護を祈って家の神棚に祀ったり、戸口に貼って護

符としたり、苗代へ水を入れる水口に立てて豊穣祈願の祭りを行ったり、

起請文をはじめとする大切な誓約の料紙に用いたりした。その代表が熊野

の牛玉宝印である。また鎌倉時代後期に



る現存最古の牛玉宝印として、

東大寺二月堂牛玉宝印と那智瀧宝印が知られている

箱根山の牛玉宝印も、神仏一体の宗教空間やその参詣儀礼と密接に関わ

りながら、鎌倉時代以降、数多く



り出されたものと想像される。ところ

が、これまでその遺品は全く知られておらず、いつどのように頒布された

のかを含めて具体的なことが明らかでなかった。

そうしたなかで、

士市立博物館の所蔵する六所家

(旧東泉院)

資料か

ら、冒頭に掲げた牛玉宝印が見出されたのは、大きな発見であった

。しか

も、

元文五年

(一七四〇)

に東泉院によって実施された地

おし

あらため (再検地)

と関わる起請文の料紙に用いられたことがわかっており

根権現

(現、 神奈川県箱根神社)

の牛玉宝印が広く地域社会に浸透していた様相をうか

がうことができる。なにより、牛玉宝印としての図様が判明したことの意

義は大きい。

あらためて、

装飾図案化された文字をみてみよう。

「箱根山」

の文字に

は二羽の鳥を組み合わせた独特なデザインが施され、

「箱根」

「根」

「寶印」の「寶」の字には如意宝珠が組み込まれている。そのうえで、

「箱

根山」

「牛玉」

「宝印」

の頭文字には、

梵字の

( バ ン)

をあらわした

(これが宝印である)

されている。

その三

印に

したい。な

なら、牛玉宝印と

呼ば

れる護符にと

って、その

霊力

は紙に

された印にこそあるからである。そこには牛

からとれる

(これを 「牛 ご 黄 おう 」と 呼 ぶ )

が用いられてお

り、これを

すことで護符としての

宿

る。大切なのは、それが

新春

の祀りである

修正

会や

二会の

で加

され、五穀豊穣や

万民

の祈り

効験

のす

てを

約した護符として頒布されたことである。箱根権現で

月に

修正

会が行われていたことから、そこで加

された牛玉宝印が参

に授与され、

或いは

先達

して

国々

届け

られたことだ

ろう

では、

箱根山の宝印として、

字である梵字の

( 鑁 バ ン 字)

されたのには、いかなる意

があったのだろうか。

戸時代に

芦ノ湖

呼ば

れていた

ことを想起するなら

、箱根権現の

まる「箱根

山」の文字に、

芦ノ湖

をあらわす

字を

す所

は、それだ

で山と

一体となった箱根山特

の神仏

合の

世界

を表す組み合わせであったと知

(9)

られる。その更なる読み解きは、箱根参詣の宗教空間を解明するための手

がかりになるだろう。

ここにおいて注目されるのが、

『仏神一躰灌頂鈔

付二所三島参詣

である

本書は箱根を中心とする二所三島参詣の儀礼に関する秘伝書で、中世末期

の箱根修験が、箱根の参詣をいかに意義付け唱導教化していたのかを探る

ことのできる貴重な資料である。そのなかに、箱根山の事として、箱根山

とは、三部大日の種字、それを象る三弁宝珠の箱を埋める宝蔵の御山であ

るとの口伝が見える。箱根山の牛玉宝印に大日の種字である鑁字が三顆捺

されるのは、箱根山が大日の山であり、三部大日の種子を象る三弁宝珠を

埋めた御山であるという口伝の世界と対応するものではなかったか。よく

見れば、三顆の鑁字は光り輝く宝珠にかたどられている。

さらに『仏神一躰灌頂鈔』は、牛玉宝印の口伝として、宝印は印信であ

り、その種字が鑁字であるのは大日如来の法水をもって行者の頭にそそぎ

煩悩の垢を清めるからであり、牛玉は血脈であると説いている。密教では、

師である阿闍梨から弟子へ秘密の奥義が継承されるとき、弟子の頭に聖な

る水をそそぐ伝法灌頂という儀式が行われ、伝授の証として印信と血脈が

授与される。

『仏神一躰灌頂鈔』

は、

箱根参詣を

そうした伝法灌頂の儀礼に準え、参詣の証として

授与される牛玉宝印は印信血脈であり、宝印の鑁

字は行者の頭にそそがれる「大日如来の法水」で

あると意義付ける

存する牛玉宝印が

「箱根山」

「牛玉」

「寶印」の頭文字の頂上に鑁字の朱印を捺

す図様は、そうした参詣の場での宗教体験とも重

ねて解釈されるべきものであった。

このようにみると、江戸時代に頒布されていた

牛玉宝印の図様は中世に



るものであり、当時の

参詣儀礼やその宗教空間との密接な関わりが浮か

びあがってくる。近世に至り、それがどのように

唱導されていたのか明らかでないが、江戸時代に

芦ノ湖が鑁字池と呼ばれていたのは、箱根山を大

日の山と観念していた中世以来の世界観があってこそだろう。

かつて、万巻上人の修行により箱根権現がはじめてその姿をあらわした

とき、

衆生を救おうと願う神の誓いは、

「池水清浄浮月影

汝意清潔来三

三身同共住此山

結縁有情同利益

(池の水は清らかに月影を浮かべてい る。 お前の信心も清浄であるがゆえに、 我らはやってきた。 我らは共に等しくこ の山に住み、 結縁する人々を等しく利益しよう)

いう四句の偈頌にあらわ

された。満々と清らかな水を湛える芦ノ湖は、箱根山に跡を垂れた権現の

「大悲の心水」

であり、

大日の法水」

であると同時に、

かつて開祖

万巻上人によって調伏された九頭竜がいまなお住まう祭祀の舞台でもあっ

た。その水は、雨乞いにも霊験あらたかであったという

。牛玉宝印が



れるとき、箱根山の護符として、芦ノ湖の清水が

混ぜ

られることもあった

のではないか。あるいは、神仏に誓いを

てる場で、

起請

文を

やした

を水に

かして

みする一

神水の

法として、芦ノ湖の水が

いら

れることもあったかもしれない。

箱根山の牛玉宝印は、箱根山の宗教空間を象

し、箱根権現の

護を願う人々に授与される、

格別

の護符であった。その

歴史

とたび

途絶

えてしまったが、

東泉院

に伝えられた牛玉宝印

見が

とつの

契機

となり、近

、箱根神

の牛玉宝印として

生された。箱根神

では、

誓願を

てた参詣者に、

ラミネート

れた

さな牛玉宝印を

として授与してい

る。中世以来の図様を継承しながら、あらたな

宝印として「箱根神

」朱印が

左右

に二顆捺さ

れている。

(阿部 美香 ) 付 記  本 研究 は JS P S 科研費 10 44 90 93 の 助成 を 受 けたものである。

(10)

注  1 町田市立博物館図録『牛玉宝印 祈りと誓いの呪符』 (一九九一年) 、國學院 大學神道資料館『國學院大學所蔵の牛玉宝印』 (二〇〇四年) 。 2 富士市立博物館テーマ展 「富士山東泉院の歴史 六所家総合調査速報展」 (二〇〇七年一二月~二〇〇八年三月) に大高康正氏により初めて紹介、 展 示された。 3 「六所家総合調査が進む」 (大高康正執筆、 『富士ニュース』 二〇〇九年十一 月二十日号) 、 大 高康正 「 富士山東泉院と六所家旧蔵資料の概要」 (『六所家 総合調査だより』一〇号、二〇一二年)参照。牛玉宝印の裏面には、起請文 と年号、誓約者の名前(爪印を捺す)が、次のように記されている。 梵天帝釈四大天王、惣日本国中六十余州大小神祇、殊伊豆箱根両所現三 嶋大明神八幡大菩 天満大自在天神部類眷属、神罸冥罸各可蒙罷者也。 元文五 甲 年十月二十二日 東泉院中間 紋内 角助 六助 関助 4 『新編相模国風土記稿』 足 柄下郡巻之七 「箱根三所権現社上」 項に 「抑当社 ハ。関東ノ惣鎮守ニシテ。貞永ノ式目起請文ノ罸文ニ。殊伊豆箱根両所権現 ト載セタリ。当代又是ニ因給ヘリ。故ニ各国配札ヲナス」とあって、箱根の 牛玉宝印が江戸時代に頒布されていた消息を伝える。同じく「神宝」の項に は「牛玉一顆(高二寸三分) 」とあり、また『駿府内外寺社記抄』 「本社内陣 にて宝物一覧」 (『箱根神社大系』 収 録) にも、 「文殊菩 袈裟 (嵯峨天皇御 寄進) 」「観音十二ヒトエ同御 御鏡(鎌倉 尼将軍 寄進) 」「 弘法 大 師 将 来 籠珠 数 」 等 とともに「牛玉」と記され、牛玉宝印に 用 いる牛玉が、神宝と し て箱 根権現社の内陣 で披露 されていた こ とが 知ら れる。 5 『新編相模国風土記稿』足柄下郡巻之八「 芦 ノ 湖 」項。 6 阿 部「 翻刻 紹介 『 仏 神一 躰灌頂 鈔 』」 (『 昭和女子 大 学 大 学 院 生活機構研究科 紀 要』一五号、二〇〇六年) 。 7 密教 の印 信 に 朱 の 種字 が捺される 例 と し て、 例 え ば 三 重県多気 郡明 和 町 臨 済宗 東 福 寺 派 の 安養 寺に伝 わ る鎌倉時代の 灌頂 印 信 がある。正 和 元年(一三 一二) に 阿 闍梨 伝 灯 大 法師 大 恵 が 弟 子 に 授与 し た「 谷 両 旦胎 灌頂 印 信 」と 「 谷 両 旦 金 灌頂 印 信 」 で 、伝 受 の系 譜 を示す名前 や 時と 場 所に、 阿 字 または 鑁 字 の 朱 印が捺されている ( 福 岡 市博物館 『 栄西 と中 世 博 多 展』 二〇一〇年) 。 『 仏 神一 躰灌頂 鈔 』 が 「 宝印は印 信 な り」 と 説 く 口 伝は、 そ う し た伝 統 を 踏 まえたもの で あったのだ ろ う。 8 『箱根神社大系』上巻、二〇三 頁 参照。 ( せきぐち し ずお 歴史文 化 学科 ) ( おか もと かな 大 学 院 生活機構研究科生活 文 化 研究 専攻 一年) (あ べ み か 歴史文 化 学科 )

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