大齊故昭玄沙門大統僧賢墓銘疏攷
田熊信之
○ はじめに 二〇〇七年秋の半ば、 古都 の西南方の地から、 一盒の墓銘 (墓誌) が 出土し、民間に流出するに及んだ。この墓銘は、堅固な青石製のもので、 蓋上の左右に鉄製の二鐶を加え、細線で方格の界線を刻んだ身上面には、 行一九字詰め一九行、銘文の区分と崇敬表示の空格を除く、全三四九字に 及ぶ秀抜、峻厳な隷書の文字が鐫り刻まれていた。 この墓銘は、刻字の内容から、北齊中、後期の昭玄曹の実態、その長の 沙門大統の具体相を証す極めて重要な資料と認められるが、民間に所蔵さ れるためか、その存在自体を知る人が少ない。筆者はこのさまを惜しみ、 本稿でこの新出現の墓銘の形姿とその銘文の含み示す内容を攷述すること とした。 Ⅰ 北齊代の僧官 北齊王朝の初代皇帝となった高洋 (文宣帝) は、 政治の一面に仏事を用 いた奉仏者であり、僧尼統御を果たす昭玄沙門十統を置設した皇帝として もその名が伝えられている。この高洋こと文宣帝が置設した僧官は、北魏 孝文帝太和末年に設立された僧尼統轄署監福曹が新たに改められて昭玄曹 注1 とされた後にあたるもので、北魏、東魏代以来の國統や沙門統を置く流れ を承けたものと見られるが、全国にわたり階序的に置設したこの僧官のさ まは、唐 宣 『續高 傳』 注2 の中の記事に次のように綴られている。 ・故魏齊二代 爲統師、 昭玄一曹純掌 、令 員 五十許人。 部 尼二百 餘萬、而上綱領將四十年。 (卷 麒 八義 解 四 釋法上傳) ・初天保之中、 國 十統。 有司聞奏事須甄異。 文宣乃手訪 云、 上法師 可 爲大 統。餘爲 統。 (卷 麒 八義 解 四 釋法上傳) ・ 又 昭玄十統 肅淸正 法。 使夫 二百萬 衆綏緝無塵 法。 上一人 有 功矣 。(卷 麒 九 義解 五釋 靈裕 傳) ・ 附 昭玄大統上法師、 度聽 出 家 廣如別 傳 載 。(卷二十三 護 法上 釋 曇顯 傳) 全国二百 万余 の僧尼の統轄者として、 律学随 一の法上が文宣帝の信 任 を 得 て、昭玄曹 局 の長である沙門大統に 任じ られ、 尓余 の 通 統を 従 えて 正 法 を 粛 清 したということである。法上は、東魏、北齊代を 通じ て統師となり、 学 苑第 八三三 号 五四 ~六 七(二〇一〇 三)僧尼を綱領すること四十年に及ぼうとしたと綴られている。 こうした北魏、東魏、北齊代の僧尼統御の僧官の沙門統、沙門通統、沙 門大統等の実際については、僧伝資料及び刻字資料 注3 に断片的に次のような 記述が徴される。 ・沙門統曇 (『魏書』卷一百一十四 釋老志条) ・沙門統惠深上言 (『魏書』卷一百一十四 釋老志条) ・魏故比丘尼統慈慶 (墓誌 北魏正光五年五月十八日葬) ・魏故昭玄沙門大統 令法師 (墓誌 北魏永熙三年二月朔三日葬) ・魏故□ 昭 玄沙門都維那法師惠猛 (墓誌 年月未詳) ・大德沙門生禪師、 禪師大弟子沙門統倫 二法師、 倫 二統、 高足大沙門統 法師 (中岳嵩陽寺碑、碑序 東魏天平二年四月八日立) ・昭玄 及 順 林之英 (『北齊書』 卷二十四 列傳 杜弼傳条 東魏武定 六年四月八日記事) ・而 爲國 眇然無顧、 昭玄曹局曾不經臨 (『續高 傳』 卷第十六 禪二 釋 傳) ・沙門法上爲昭玄 以檢約之 (『北史』卷三十二 列傳 崔暹傳 神武代記事) ・齊昭玄大統法上 (『續高 傳』卷二十一 明律 上 釋法願傳) ・昭玄都法順 以奏聞 (『北齊書』卷十一 列傳 河間王孝 傳) ・有青膠二州沙門都釋子僧濟本 ( 像記 北齊天保三年歳次壬申四朔八朝 ) ・沙門大昭玄統曇延法師 (『續高 傳』卷第十一 義解 七釋 慧 傳) ・日夜與曇獻寢 。以獻爲昭玄統 (『北齊書』卷九 列傳 武成胡后傳) ・昭玄沙門統定禪師 (南響堂寺石窟 第二號窟中心柱刻字) ・昭玄沙門大統定禪師 (水浴寺石窟 西窟内壁(西前壁)刻字) ・ 人 爲濟州沙門統 (『北齊書』卷四十六 列傳 蘇瓊傳) 等。 散見されるこれらの資料からは、補任の歴史や経緯の一部が微かに知ら れるばかりであったが、こうした中に、新たに北齊代中、後期の高僧、僧 賢の閲歴を刻む墓銘が発見されたわけである。 Ⅱ 新出の僧賢墓銘とその刻文 河南省臨 県の 都址の西南方の地、 「野馬崗東北二里」 の 地から出土 した 注 4 僧賢墓銘は、次のような 計 測値 を も つ。 蓋 石 表 ( 截頭 部) 縦 37.5 cm×横 37.6 cm 裏 (石 底面 ) 縦 46.3 cm×横 46.0 cm×厚 9.3 cm 身 石 表 (刻字 面 ) 縦 46.3 cm×横 46.0 cm×厚 9.0 cm 裏 (石 底面 ) 縦 45.5 cm×横 44.7 cm 鉄鐶 蓋 石上 面 中 央 部 左右 に 鉄釘 を も って 附 す。 釘残 高 1.0 cm( 推 定 縦幅 2.7 cm×横幅 2.3 cm) 鐶推 定内 径 6.5 cm( 推 定 線径 約 1.2 cm) 蓋 石の上 面 は 頂形 ( 覆斗形 ) で、 そ の 底面 は平 板 ではな く 、 周縁 から 内部中 央 に 向 けて 0.4 cmほど 削凹 されて お り、 蓋 石 底面縁 辺 と刻字を も つ 身 石上 面縁 辺 が 契合 で き るように 加工 されていて、 そ の四 周 の 各 面 は 丁寧 に 磨き 整え られている。 ま た、 身 石は上 面 の刻字 面 、四 周 側 面 が平 滑 に 磨 平 されているが、 そ の 底面 は 割 り 整え られた まま である。 身 石の 底面 は刻字 面 よりやや 狭小 にされている 注 5 。
一、出土墓銘の刻字採録例 この墓銘の刻字は、鮮麗な隷書で、当代一流の書者の手になるものと思 われる。この刻字に関して、墓銘の出土後、拓影目睹者による二種の釈文 が公表されている。先ず二〇〇八年二月下旬に好事家が発表した釈文を引 こう。 ※採字改行部 : /印を付した。 北齊僧賢墓誌銘 大齊故沙門大統僧賢墓銘 / 昭玄大統 /法師諱僧賢 . 俗姓張氏 . 桑乾 . 桑乾 人 . 家有 風 . 名德相跌 . 法師風尚英 .題調賢秀 . 早著出群之望 . /夙立 倫之表 . 懷抱高分 . 獨拔風塵 . 貞心峻節 . 眇 俗累 . 於是矯跡縞門 . 遊心真寂 . 長 驚玄境 . 深入/秘藏 . 微言妙旨 . 獨得如神 , 馳譽飛聲遍於遐邇;年廿九 /敕修 内起居 . 法集 . 既而實相 .宗靜業圓教異珍 . 同歸殊 .總入懸河 . 注水破石 . 摧 金一音 , /四部 . 仰龍象之望 . 朝野推焉;詔為沙門都 . 俄轉沙門大統 . 總 持 . 興聖 , 國之福田 . /又 /詔為二大寺主 . 如師子吼 . 常轉法輪 . 甘露津流 . 被於一切方欲 . 橋 苦海 . 拯拔危城 . 生滅非常 . 處/從化往;以武平元年 . 在 庚寅二月乙卯朔五日己未 . 神於興聖寺 , 時年六十六 . 上下嗟殤 . 縞/素 酸感 , 以 其 月八日 葬 於野 馬崗東 北二 里 , 勒 玄石 . 垂景 行於 不朽 . 其 銘 曰 / 峨峨 上人 . 窮理 入神 . 慈悲將 俗 . 清 靜居 身 . 天口 非 .河 瀉誰 倫 . 超茲 欲海 . 邁彼 玄津 . 時 求懿 德 . / 弘 風有 因 . 法輪 恒運 . 覺寶 惟新 . 此 生非 我 . 慈 燈 處 淪 . 勒 斯泉 石 . 用 紀芳 塵 注6 。 つ いで同年二月 末 に 篆 刻 愛 好家が、 「 以上是 本 人 的断句 . 萩 各 位老 弗樟 正!!!」 と 添記 して 次 の釈文を公表している。 北齊僧賢墓誌銘 大齊故沙門大統 賢墓銘 昭 玄大統 / 法師諱 賢 . 俗姓張氏 . 桑乾 . 桑乾人 . 家有 風 . 名德相跌 . 法師風 英 . 題調/賢秀 . 早著出群之望 . 夙立 倫之表 . 懷 高分 . 獨拔風塵 . 貞心峻 .眇 俗累 . 於是/矯跡縞門 . 心真寂 . 長驚玄境 . 深入秘藏 . 言妙旨 . 獨得如神 , 馳譽飛聲 於遐/邇;年廿九 敕修内 居 . 法集 . 既而實相 . 宗靜業圓 異 珍 . 同歸殊 .總入懸河 . /注水破石 . 摧金一音 , 所 四部 . 仰龍象之望 . 朝 野推焉; 詔 爲 沙門都 . 俄轉沙門/大統 . 總持 . 興聖 , 國之福田 . 又詔 爲 二大 寺主 . 如師子吼 . 常轉法輪 . 甘露津流 . 被/於一切方欲 . 橋 苦 .拯拔危城 . 生 滅非常 . 處從化往;以武平元年 . 在庚寅二月/乙卯朔五日己未 . 神於興聖 寺 , 時年六十六 . 上下嗟殤 . 縞素 酸感 , 以 其 月八日/ 葬 於野 馬崗東 北二 里 , 勒 玄 石 . 垂景 行於 不朽 . / 其 銘 曰 峨峨 上人 . 窮理 入神 . 慈 悲將 俗 . 清 靜居 身 . 天口 非 .河 瀉誰 倫 . 超茲 /欲 .邁彼 玄津 . 時 求懿 德 . 弘 風有 因 . 法輪 恒 .覺寶 惟新 . 此 生非 我 . 慈 燈 處 淪 . 勒 斯泉 石 . 用紀芳 塵 注7 。 この二種以 外 に 現 在 ま でに墓誌銘の釈文を 試み たものを 見 ないが、これ ら は、 何 れも、 断句 と 共 に釈文上に相当な 錯誤 が あり 、 補 正 を 必要 として いる。 筆 者は拓影と 共 に 原 石を平 成 二十年 夏 に 実 見 し得、誌銘釈 読 を 進め て、同二十一年 正 月 及 び 五月に 学会 でこれを 口 述 しているが、ここで改 め て そ の誌文銘 辞 を採 録 して沙門大統僧賢に かか わる事 蹟 に つ いて 小 述 を 試 み て おく ことにしたい。 二、新採録と私訓 総三 四九字にわたる 謹 隷 所 刻の僧賢墓銘の銘文は 次 のように採 録 される 注 8 。
なお、 「法」 「桑」 「緇」等の文字は繁体、異体の表記となっている。 大齊故 門大統 賢墓銘昭玄大統 師諱僧賢俗姓張氏 乾 乾人家有 風名 徳相踵 師風尚英 體調閑秀早著出羣之 夙立絶倫之表懷抱髙分獨拔風塵貞心峻 俗累於是矯迹緇門 心真寂長 玄境深入 秘藏 言妙旨獨得如神馳譽飛聲 於遐邇 廿九 勅脩内 居 集既而實相 宗淨業 異 同歸殊 入懸河注水破石摧金一音 四部 仰龍象之 朝野推焉 爲 門 都俄轉 門大統 持興 國之福田又 詔爲 二大寺主如師子吼常轉 輪甘露津流被於一 切方欲橋 苦 拔危城生 非常 従化往 以武平元 歳在庚 !二月乙卯朔五日己未 " #於興 寺時 六十六上下嗟殤緇素酸感以 其月八日 $於野馬崗東北二里敬勒玄石垂景 行於不朽其銘曰 峩峨上人窮理入神慈悲 % 俗清淨居身天口非 &河瀉誰倫超茲慾 邁彼 玄津時求懿徳 '風有因 輪恒 (覺寶惟新此 生非我慈燈 淪勒斯泉石用紀芳塵 大齊故沙門大統 賢 墓 銘昭玄大統 法師 諱は僧賢、俗姓は張氏、桑乾 さうけん の桑乾人なり。家は 風有りて 名 図 1 僧賢墓銘 蓋 上面,側面 拓影 図 2-1 僧賢墓銘 身 刻字面,側面 拓影 図 2-2 僧賢墓銘 身 刻字面,側面 拓影
徳 相ひ踵 つ ぐ。法師 風尚 英 、體調 閑秀にして、早に出群の を著し、 ほまれ 夙に絶倫の表 しるし を立つ。懷抱 高分、獨り風塵を拔く。貞心 峻 眇 はるか に 俗累 を つ。 す 是に於ひ て 迹を緇 門に矯 あらた め、 心を真 寂に ばす 。 長 つね に玄 境に せ、 は 深く秘藏に入る。 言 妙 旨 獨り神の如きを得、譽 ほまれ を馳せ 聲を飛 かけ らせ 遐邇 をちこち に し。 あまね 廿九、 よはひ 内 居 法 集を勅 脩す。 既に し て 實 相 宗、 淨業 、 異軫にして同歸し 殊 にして 入す。懸河 注水、破石 摧金、一音 いつとん の 四部 倶に仰ぐ。龍象の ほまれ 朝野 焉 これ を推せり。 詔ありて沙門都と為り、 俄 にはか に し て 沙 門 大 統に轉ず。 持興 は國の福 田 、 又 詔 あ り て 二 大 寺 主と為る。 師 子 吼の如く、 常に法 輪を轉ず。 甘 露 津 流し、 一 切に被 およ ぶ。 方に苦 に橋 し、 危域を 拔せんと欲するに、生滅は非常にして、遽 にはか に化往に従ひ、 武平元 歳在庚寅二月乙卯朔五日己未を以ちて 神を興 寺に す。 うつ 時に 六十六なり。上下 嗟殤し、緇素 しそ 酸感す。其の月八日を以ちて 野馬崗 の 東北二里 に り、 はふ 敬 つつし み て 玄 石に勒し、 景 行を不 朽に垂る。 其の銘に曰 い はく 、 峩峨たり 上人、窮理 神に入る。 慈悲 俗に め、 すす 清浄 身に居 とど む。 天口は非類、河瀉 誰れか倫 たぐひ せむ。 茲 ここ に慾 を超え、 彼の玄津に邁 ゆ く。 時に懿 徳を求め、 風を弘む る に因あ り。 法 輪 恒に らせ めぐ 、 覺 寶 惟 れ 新 たなり 。 此 の生 非 我 にして 慈 燈 遽か に 淪 き ゆ。 斯 の 泉 石に勒 き ざ みて 、 用 も ちて 芳 塵を 紀 せり 。 三、語辞の釈解 ここ で 銘 文中 の主 要 な 語辞 の 小解 を 記 しておくことにしたい。 ○ 諱 本名 を敬 崇 し 称呼 を 避 けるという 中 国古代 以 来 の 礼 俗の風 習が仏 徒 に も 及 ん だ 称 制 のよう で 、この 「 諱 」 とは、 遷 化した 先 師、 亡僧 の 名 を 尊び直 称 を 避 ける 意味 で の も のと 判断 さ れる。こうした内 容 は、 後 代 人 が 次 のように 記 してい る 注9 ことから も 理 解 で きよう。 た だ し 「 字 」 については出 家 後 の も のとは 見難 いとこ ろ も あるの で 注 意 を 要 するよ う で ある。 ・ 先 師 諱 惠 果和 尚、俗 姓 馬 氏 ( 大 靑 龍寺 三 朝 供奉 大 德 行 ) ・ 大師 諱 智 顗 、 字 德 安 、俗 姓 陳 氏 ( 隋 天 臺 智 者 大師 別傳 ) ・ 二 北 齊 者 文 。 ……… 後 學 敬不 敢正斥 其 諱 、以北 齊 者 稱 焉 ( 天 臺 九 傳 ) 僧 賢 の 名 は、出 家 時に師 僧 から 付与 さ れた 僧 名 と推 測 さ れる が 、 南 齊 武 帝 代 の 外 国 沙門 僧 伽跋陀羅 こと 僧 賢 ( 唐訳 で は 衆 賢 ) の 名 に因むと こ ろ が あ っ た も ののように も 想像 さ れる。 ○ 昭 玄大統 この 語 については 本 稿Ⅰ章 ( 54頁~ ) 参照 。 昭 玄大統 !は 昭 玄 曹局 の長の 呼称 で ある。 劈頭 行の 題 に 続 いて二 字 分の 空格 を 置 き 刻 まれるこの 語 は、その 後 部に も 二 字 分の 空格 が 設 けられていて 次 行 の 冒 頭 に 連 な っ ている。この表 記 については、 崇 敬表 記 の も とに 僧 賢 の上 任 した 僧 官 を 刻 ん だ も のと 見 る べ きか、 或 いはこの 墓 銘の 造顕 者 、 "述 者 、 書丹 者 を 示 す も のと 見 る べ きか、 判 じ 難 いとこ ろ が ある が 、 題 記 の 直 下に 造顕 者 ( 部 局 ) 、又 は "書 者 名 を表 記 する 例 は、 隋 唐 代 以 前 には 例 えば 次 記 のような も の が わ ずかに 徴 さ れるのみ で ある上、 所 刻 の 語 が「 昭 玄 ( 曹局 ) 」 で なく 「 昭 玄大統 某某 」 でも ない 「 昭 玄 大統 」 で あるとこ ろ からすれば、この 語 は、 造顕 や "書 にかか わ り 刻 まれた も の で はなく、 僧 賢 その人の 銜 官 を 綴 る も のと 見 ること が 出 来 るよう で ある。 ・ 故永陽 敬 太妃 墓 誌 銘尚 書 右僕射 太 子 詹事臣勉 奉 敕 "/ 永陽太太 妃 王 氏 、 琅邪臨沂 人 也 。 略 ( 梁普 通 元 年 十一月廿八日 #葬 ) ・ 大 齊 天統元 年 $次 乙 酉 十一月己卯朔六日 甲申張府 / 君 墓 誌 銘 宗人長
參軍張景 造/君諱 、 字安興、 南陽白水人也。 略 (北齊 天統元年十一月六日造) なお、誌銘末尾に、造顕、 書年月、氏名等を刻むものも実例が少 なく、現在のところ次のようなものが知られるだけである。 ・魏故比丘尼統慈慶墓誌銘 /尼俗姓王氏、 字鍾兒、 太原祁人。 略 /又 贈比丘尼統。 略 / 略 /征虜將軍中散 大夫領中書舍人常景文、李寧民書。 (北魏 正光五年四月十八日 ) ・魏故侍中使持 都督冀州諸軍事車騎大將軍儀同三司冀州剌史武陽縣開 國公侯君之墓誌 /公諱剛、 字乾之、 上谷居庸人也。 略 / 孝昌二年十月十八日侍御 智深文。 (北魏 孝昌二年十月十八日葬) こうした遺例から、当時、墓誌を造顕するに際しては、常景などの ような文才で聞こえた者に委嘱した選述、所刻などは別として、一般 には高卑の身分に限らず、 書者を表記して後世に残そうとする意識 が稀薄であったことがわかるようである。因みに、付記すれば、次引 の「魏僧令墓誌」のように、先師の遺弟が誌銘を 述することもあっ た。 ・魏故昭玄沙門大統僧令法師墓誌銘/法師 姓杜、 京 兆人也。 略 /弟子智 、 、 覺意等、 痛 顔之長往、 懼大義之將乖、 興言 永慕。 乃 作銘曰、 / 略 /大魏永熙三年 次甲寅二月甲寅朔三 日丙辰。 (北魏 永熙三年二月三日 ) ○ 桑乾桑乾人 この文は桑乾の地名が衍書されているかに見えるが、当 時の出自の表記法によるもので、郡、県等の行政区画単位を上下に置 いたものである。この種の表記は北齊代にかなりの頻度で用いられた ようで、次のような遺例が確認される 注 。 ・公諱 粹 、字 景 純 、 邊城 郡 邊城 縣人也 (北齊故 驃 騎大將軍 范 公墓誌 武 平 六年五月一日 遷 ) ・君諱 雙仁 、字 德 、 廣平廣平 人也 (北齊故 劉 使君墓誌之銘 武 平 元年十一 月十一日葬) ・君諱 保 、 金城金城 人也 (北齊故 鎭 將 乞伏 君墓誌 武 平 二年二月十八日 ) 元 来 、出自、 本貫 地に 関 しては、 ・君諱 、字 延 寶 、 隴西 郡 狄道 縣都 郷和風里 人也 (北魏李 簡 子墓誌銘) ・姓 封 、字 和 、 恒 州代郡 平城 人也 (北魏 和 墓誌銘) などと、州、郡、縣、 郷 、 里 と 順 次大から 小へ と、 ま た上位から下位 へ と所 轄 区分を表 示 するところではあるが、北齊代には、こうした区 分単位名を略記することがあったのである。 さて、桑乾郡桑乾縣の郡縣名は、わずかに縣名のみが 『 北史 』 卷 四 十 九 の 斛斯椿 弟の元 壽傳 中に「 封 桑乾縣 伯 」と 徴 し 得 るのみである。 しかし、 『 隋 書 』 卷 二十五「地 理 」中、 馬邑 郡 善 陽縣 条 下に、 「又 有 後魏桑乾郡、後齊 以 置 廣 寧郡。後 郡 廢 、大 業初 州 廢 。」 と記され、 ま た 『 魏書 』 卷 三十 七 司 馬 安 傳 に、 「子 惠 安、高 時 襲 、 恒 州別 駕 、桑乾太 守 」 同書 巻 八十 朱端 傳 に、 「 朱端 、字元 龍 、代郡桑乾人」 同書 卷 一 百 十二 上 靈 徴 志 地 震 条 下に 「 延 昌元年四月、 略 恒 州之 繁畤 、桑乾、 靈 丘 略 」 『 水 經 注 』 水 条 下に、 「桑乾水、又 東 南 逕 瓜阜曲 西 略 東 南 流逕 桑乾郡北、大魏因水
以立郡、受厥稱焉。 」 と綴られていることから、北魏代に置設された桑乾の郡、縣が、北齊 代に至り、古来の地称をもって廣寧郡桑乾縣と改称されていたことが 知られる 注 。隋代にはこの郡は桑乾鎭と呼称されることになるが、僧賢 墓銘の 者は、桑乾郡が既に廣寧郡と改称されていた時代に、僧賢の 出自地を故に旧称の桑乾の語を用いて示していることである。この桑 乾の地は、現在の山西省山陰県の地にあたり、青齊の士が徒された平 齊郡に河を挟んで北面するところでもあり、また、投北の南人が 葬 され、 仏 寺も起こされた地でもあったことが、 『魏書』 卷六十六の崔 亮傳、同卷二十四の崔道固傳、同卷三十八の王 龍傳等の記事に留め られている。 『北齊書』卷二十五の張纂傳には、 「父烈、桑乾太守」と 見えるが、僧賢はこうした張氏の系流にかかわる可能性がないであろ うか。 ○ 廿九 僧賢の遷化の年次は銘文中に、 「以武平元 (五七〇) 在庚 寅二月乙卯朔二日乙未」とあり、その世寿も「時 六十六」とあるの で、 この 「 廿九」 の時は、 北 魏出帝 孝武帝元修の永熙二年 (五三 三) にあたることがわかる。 高歡に擁立されて帝位に即いた元修がわ ずかに一年余を経たこの時期は、 「永熙之年、 權佞擅朝、 辜小是崇、 勲賢見 」 (『魏書』 卷十二 出帝紀) と記され、 『洛陽伽藍記』 の作者 楊衒之が「永熙多難」と綴る通り頗る多難な時であった。因みに記せ ば、孝武帝は、翌三年秋七月に長安に出関し、その年底に宇文黒獺に よって殺害され二十五歳の命を終えており 注 、また、高歡らに推されて 北魏王朝の空位の帝位に即いたわずか十一歳の元善見 孝靜帝は、改 年後、都を に遷すことになる。 ○ 勅脩内 居法集 発勅は孝武帝ということになろうが、その背後には 権勢並び無き齊獻武王高歡が存在したのではあるまいか。 「内 居法 集」とは一書なのか、または「内 居」と「法集」の二書なのか、こ の文からは分明にし得ないが、銘文後出の寺名を連記するところから すれば二書と見ることも可能のようである。 「内 居」 は、 皇帝の仏 事に関わる言行の目録、注記で、これと共に仏教の故事、論、伝等を 抄 録した 「法集」 を 上 したものと推 測 される。 『魏書』 卷一 百 一十 四「 志 」 釋老志 に、 「世 宗篤好佛理 、 年 常於禁 中、 親講經 論、 廣集名 、 標 明 義旨 、 沙 門條 、 爲 内起居焉」 との記事があるので、 「内 居」 の 実体 が 判 明する。 当 時 注 僧賢は、 こ うしたものを 編 できる 才幹 を 認 められていたものと 思 われる。 「法 集」 に つ いては、 『出三 藏 集』 第 十二 「 釋 祐 法集」 に 「法集 雜 傳銘七卷」な ど の記 述 と共に、 「法集 雜 銘」の 条 記に、 「 佛 牙 記一卷 胡音 解譯 記一卷」から「 柔 法 師碑 銘一卷」までの七卷共 帙 の記 述 がある 注 ため、こうした 編 録、 抄 録 物 を 定 したということなのであろ う。 ○ 爲 門 都 俄轉 門 大統 旧来 沙門 都を 沙門 大統 の 別 称と見る 説 があっ たが、この 句 により 沙門 都と 沙門 大統 とは 各々別異 のもので 階 次の 区 別 があることが明らかとなった。 沙門 都が 沙門 都 維那 のことであるか 否 かは明かし難いが、 別官 である可能性があろう。僧賢 本 人には 沙門 統 となっていたと見られる伝 述 があるので、この 沙門 都は 沙門 統 のこ とと 考 えてよいように 思 われる。しかし、 沙門 都が 沙門 統 でな く 沙門 都 維那 であったとすれば、僧賢は 沙門 都 維那 から 特進 して 沙門 大統 と
なったことになろう。 ○ 持興 國之福田 「國之福田」は寺院を「国の福 さきはひ を生む田」に擬し た表現で、 「 持」 「興 」は当時の官立の大寺である。 持寺は伝世文献では総持寺と表記されるが も総も聚束の意を示 す文字で通用して使われるところがある。 この (総) 持寺は大総持 寺と称された河清二年 (五六三) 五月武成帝の建立した官大寺で、 『北 齊書』卷七「武成紀」河淸二年条に、 「五月壬午詔、以城南雙堂閏位之苑、 大總持寺。 」 と造立の記事が見える。この総持寺には僧賢の遷化したのちに、左僕 射祖 の推挽により國都となった崔光の弟 順が住まい、そこで七十 二の世寿を終えている。 また、 大 興 寺とも呼ばれた興 寺は、 同 じく河清二年 (五六三) 八月に武成帝が三臺宮を施入して創立した官大寺であり、 『北齊書』 卷七「武成紀」河淸二年条には、 「秋八月辛丑詔、以三臺宮爲大興 寺」 と記されている。この寺は、曹魏時に築成された銅爵、金獸、氷井の 三臺を修改した金鳳、聖應、崇光の高臺宮をすべて施入した壮大な寺 院であった。 ○ 橋 苦海 『菩 本 經』 ( 大正 新脩 『大藏經』第三册 No. 153) 卷三に、 「爲度煩惱苦 之人而作橋梁」 とある。 苦 しみの海の如き世界にうご めく人々を架け橋を作りわたして救済しようとした、ということであ る。 ○ 拔危城 は拯の通俗異体字。この句は前句「橋 苦海」に対され たもので類同の内容を示す。 北 齊盧思 「從駕經大慈照寺詩序」 に 「救 民於苦器、拯慾界於危城。 略 身心登淨樂之境、生靈仰 御之力。 」と綴られる内容に連なるものと言える。 ○ 野馬崗東北二里 この地が正確に現在のどの地にあたるのか未詳であ るが、恐らくは 河南岸に西から東へ張り出す阜丘の隣接地なのであ ろう。 この野馬崗の名は、 『魏書』 卷十一 「廢出三帝紀」 第十一の 後 廢帝 朗 条 及び 『北 史 』卷五「魏本紀」第五廢帝条に、帝が 廃 されて 安 定郡王 になったのちの 中 興二年 (五三二) 十一月に 門下省 外 で 処刑 さ れ、 越 えて 永熙 二年 (五三三) に 埋葬 された地として、 「 永熙 二年 葬 於 西南野馬崗」 (『魏書』は「 岡 」に作る) と記されている。 野馬崗は 都 攻 略の 戦場 ともなったようで、 神 武帝高 歡 と 爾朱兆 と が 戦 い 敗走 する 兆 を 追 う高 季式 が 駆 け度る崗 や 、北齊 滅亡 の 折 、 反乱 を 起 こした 尉 迥 が 甲 三 千 を 伏せ た地としても 史 書にその名が記さ れている (『北齊書』 卷 一 帝 「 神 武帝 上 」、 『北 史 』卷 六 十 列傳 「 宇 文 忻 傳 」) 。 こ の野馬崗の阜丘の 範囲 はかなりの大きさがあるようである が、この地 縁辺 から当時の 墓誌 が 多数 出 土 している。ここでそれらの 一 部 を 抄 記してみることにしたい 注 。 ・ 於 都西南野馬崗東 (北齊 長孫顯 墓誌 天保四 年 (五五三) 十一月 廿 五 日 ) ・ 葬 於 西南野馬崗之東、 去 城 廿 里 (北齊 徐徹 墓誌 天保 十年 (五五 九 ) 正 月 廿 一 日 葬 ) ・ 於野馬崗東 壹 十里 所 (北齊 薛廣 墓誌 河清 四 年 (五六五) 二月七 日 遷 葬 ) ・ 葬 於 郊 野馬崗之 朝陽 (北齊 元洪敬 墓誌 河清 四 年 (五六五) 八月 廿 二 日 葬 ) ・ 於 城西南 廿 里 ( 薛 懷 儁 墓誌 北齊 天 統 四 年 (五六八) 十二月 廿 三 日 ) ・ 合 葬 於野馬崗東 ( 薛 懷 儁 妻皇甫艶 墓誌 北齊 天 統 四 年 (五六八) 十二月 廿 三
日合葬) ・葬於野馬崗北去王城廿里 (北齊梁子 墓誌 武平二年 (五七一) 四月廿日葬) ・葬於 城西廿里野馬崗 (北齊可生渾孝裕墓誌 以武平七年 (五七六) 五月 戊寅朔七日甲申葬) ・合葬於魏郡 縣野馬崗白塔村南一里 (北齊李世擧墓誌 武平六年 (五七五) 卒 隋大業六年 (六一〇) 正月朔廿日合葬) これらの刻銘にもとづけば、野馬崗は 城西南二十里の地であるこ とがわかる。当時の一里は現在の五〇〇 m余であることから 城から 野馬崗までの距離は 10 km余ということになる。現在出土地が確認され る数例の墓誌によれば、野馬崗の東辺は現在の安陽市西郊の 河の河 陰の地帯、 そしてそれから安陽河 ( 河) 上流の河陽に及ぶ阜丘が野 馬崗そのものとなるようである。恐らく、現在の 南 干渠がめぐる 北、東、南縁の標高 100 mの地を含む丘陵 注 、すなわち安豊、洪河屯、 河河陽に囲まれる山丘を野馬崗と言ったものと見られ、僧賢墓銘の出 土地は、安豊の西南面、洪河屯の西北面、野馬崗からすれば東北 1 km 余にあたる地と推定することが出来ると思われる。 北、 西に展る魏、齊皇室の陵墓域が、時代を降すに従い次第に 西南へと移り広がり、野馬崗の周縁地が北齊王朝の大小人士の墓域と なっていったようである ※補注 。 なお、僧賢の墓葬のさまについては未詳であり、遺骸が荼毘に付さ れて灰骨のみが 蔵されたのか否か、また墓銘の置設状況等がどのよ うであったのか、などは不明である。 Ⅲ 沙門僧賢とその法系 沙門僧賢の師承、法系はいかようなものであったろうか。遺存資料が限 られているため推測の域を出ぬことにもなろうが、ここで沙門僧賢の法脈 を探ってみることにしたい。 一、既知の記事 僧賢に関する記事は、僧伝、刻書にそれぞれ一つずつのものが遺されて いる。 先 ず、 『續高 傳』 卷第二十五 「 禪」 六 「 衞州霖落泉釋 倫傳十 一」の文を引く。 「 略 齊武平九年、與父至雲門寺 賢統師、珉禪師所、受法出家。時年九 歳。 二師問其相 、 答 以白光流臉二幡夾 之 。 曰 、子 眞 可 度 。 因而剃 落。 周 武平齊、時年十六、與賢統等流離西東、 學 四 念處誦 法 華經 。 略 注 」 これによれば、 統師となっていた僧賢は武平九年 (五七 八 ) に雲門寺に 来った 某 を 得度 さ せ 、周の平齊時にその 某 こと僧倫と 共 に西東に流離した ということになる。この傳を 綴 った 道宣 は、 『續高 傳』卷第十六「 禪」 初 の「齊 西 龍 山雲門寺釋 稠 傳 八 」 末 に、 「余以 貞觀 初 年 陟 地。山 林乃 事 惟新 、 觸 處 荒涼 、 興 生 滅 之 。周 睇 焚 燼 、 頻噎黍 離 之 非 。傳 親 行圖 、 故直叙 之 于 後耳 注 。」 と記している。この伝はおそらく 道宣 が 親 しく四伝の 祖 稠 禅 師の 故 地を 訪 れ、かつての雲門寺の 旧跡 などを 尋ね て関 連 の 情報 を 得 た上で 綴 ったも
のなのであろうが、仏教史学者の諏訪義純氏がその著で年次の記述に全幅 の信頼をおき難いことを述べている 注 。王朝の隆替変遷を経た七〇余年も前 の出来事がどのように伝えられるのか、こうした記事は注意深く読む必要 があろう。 二、遺存の刻字 次に僧賢にかかわる記事は意外なところに残されている。稠禅師が禅観 の実修を行なった龍山雲門寺の石窟の外壁の書刻である。安陽善応小南海 所在の石窟の左に彫り出された守門の金剛神像の坐下に次の刻字が見える 注 のである。 比丘僧賢供養 雲門寺 僧纖書 伏 波將軍彭惠通刊 □ 如 来證涅槃 永斷於生死 若 能至心聽 當得无量樂 一切畏刀杖 无不愛壽命 恕己可爲喩 勿 勿行杖 書刻の偈句は、北凉天竺三藏曇無讖訳の『大般涅槃經』卷第二十二「光 明 照高貴德王菩 品」第十、及び同經卷十「一切大衆所問品」第五中に 説かれるものであり、父親殺害を犯した阿闍世王の済度の話を背影に、 「如来は煩悩吹断の涅槃を証し、生死世界を永断されている。もしよく至心に真 の法を聴くならば、 必ずや無量の楽を得ることになろう。 生きとし生けるも のは、 刀 杖の難を畏れ、 寿 命を愛まぬものはない。 そ れゆえ己をいつくしむ ことをさとしとなすべきだ。 いのちあるものを殺すことなく、 杖うつことな く、慈しみを深め、施しを尽くして仏の道を歩むことだ。 」 との旨を示したものである。 『涅槃經』 由来のこうした偈句は、 稠禅師の 日常の口説で、これを継 承 する僧賢らの 標 語 とも 推測 され、窟前壁に刻 成 された稠禅師の禅観の要 諦 を示す『 華嚴 經』偈 讚 、『涅槃經』 「 聖 行品」及 図 3 僧稠、僧賢、定襌師関連刻字拓影 1.小南海石窟内壁刻字 2.小南海石窟外壁刻字 3.僧賢墓銘刻字 4.南響堂寺第 2窟中心柱刻字 5.水浴寺石窟西窟内壁刻字 5 4 3 2 1
び「梵行品」の偈讚等と即応する内容をもっている。僧賢の名はこのよう なところに辛うじて残されているのである。 三、僧稠の遺弟僧賢 僧賢墓誌の銘文には、出家の動機も修行の情景も記されてはいない。ま た出家落髪の年も記されていないので、法臘も不明となるが、廿九歳時に は勅命による 『内起居』 『法集』 の 脩にもあたっているため、 少なくと もこの時までには、沙門としての相当な練磨を累ねていたものと推測され る。僧賢は年若くして緇門に入り、その英邁な性を発揮して、内外の典籍 にも通暁し、実修を進め、緇素と共に帝室の篤い信頼を得ていたものと見 られる。銘文中には、師承についての具体的な記述がないので、どのよう な経緯を経て一代の沙門となったかを正確に把握することはできないが、 沙門都についで沙門大統に転じて、王朝屈指の官大寺 持、興 の寺主 となっている僧賢には、大いなる師承があったように想像される。小南海 石窟の刻字から見て、僧賢は僧稠の直弟子の一人と見て誤りはないと思わ れる。僧賢は師僧稠なき後の北齊代中後期に至って 都仏教界の雄となり、 老いて退隠しようとする法上にかわって、僧尼を綱領する沙門大統の地位 についたのではなかったろうか。 こうした僧賢は、惜しまれることに、沙門大統、二大寺主となって後、 久しく時を経ることなしに、 武平元年 (五七〇) 二月朔五日に任住の興 寺で六十六歳で遷化し、同月八日に野馬崗東北二里の墓所に られている。 遷化の年からすれば、 その生まれは、 北魏宣武帝元恪正始二年 (五〇五) 、 師僧稠禅師 (北魏孝文帝元宏太和四年(四八〇)生、北齊廢帝高殷乾明元年(五 六〇)四月遷化) とは二十五歳の年齢差があったことがわかる。 図 4 関連刻経等拓影 1.小南海石窟外壁刻字 2.北響堂寺山中刻経紀年部分 3.北響堂寺山中石経全景 4.北響堂寺南洞唐冩経記 4 3 2 1
○ むすびに さて、僧賢墓銘の刻文の釈読を進めて来た本稿を結ぶにあたって、刻文 中の 「一音 、(四部 仰) 」 の句に触れておくことにしたい。 というの も、この句が、当時の僧俗にわたる奉仏者達の脈絡の一部を解き明かすよ うに思われるからである。 『寶雲經』 『華嚴經』 『十地經』 『泥 經』 『維 經』 等の経典に由来する 「一音演 (法、 法要、 諸法) 」 の 句は、 後魏菩提流支や姚秦鳩摩羅什によ り、諸説逓伝される仏如来一代の教説そのものを指すものとされたが、こ うした内容を引く「一音 」の句が、僧賢墓銘中に刻まれている。この 「一音 」 の句は、 さらに北響堂寺南洞の 「 寫經記」 中にも 「一音 (書勒名山) 」という表現で鐫まれている 注 。こうした句の契合は何れよ り起こされたことなのであろうか。ここには偶然の一致とは見做し難い背 景が存在するかのように見える。 同時代、 同 時期の限られた環境をもつ人々 の手になる刻銘の中に現われた両句は、注目に値するものと思われる。 「 寫經記」の刻書自体は、刻字にあるように天統四年 (五六八) 三月 一日に起こされ、 武平三年 (五七二) 五月八日にその功を畢えたという。 が鼓山山中に刻経事業を起こした天統四年は、沙門都となり次いで沙 門大統となった僧賢が獅子吼して奮迅し、僧衆を綱領していた時である。 この僧賢は曾て鼓山の石窟大寺主となった僧稠ゆかりの沙門である。先師 の領した鼓山の山内で行なわれつつある刻経事業に、沙門大統僧賢は濃密 なかかわりをもっていたように想像するのは筆者だけであろうか。 因みに、 が刻経を残した鼓山 (北響堂寺) には 刻経よりも刻成 時期の古い遺品が存在している。このものは、全山刻経中の最古のもので 天統二年 (五六五) 所刻の 『涅槃經』 の経文の抄刻であ る 注 。 刻成の時期、 抄刻経文の内容からしても、この刻経には僧稠禅師ゆかりの僧賢の名が浮 かび出すように思われる。 新出の僧賢墓銘は、当時の緇門の総領導 沙門大統に任じられた人物の 実像を確認させるもので、併せて僧伝の誤りなども糾正させるものであっ た。この新出の墓銘は、國師大德僧稠禪師や当時の顕官晉昌王 、また 山東、 西北での刻経活動を行なった僧安、 及 び武平代に 昭 玄 沙門大統に 任じられる 定 禪師などとの 間 に見え 隠 れする法脈、人脈を解き ほぐ す 糸口 を導くように思われる。 注記 注 1 『魏書』 卷 一 百 一十四 「 志 」「 釋老志 」(中華書 局 一 九 七四、 六 ) 三 〇 四 〇頁参照 。 注 2 『 續高 傳 』( 大正 新 脩 『大 藏 經』 麒 五十 册 「 傳 部二」 No. 2068 大正一 切 經 刊 行 會 一 九 二七、一) 四八五 頁上~ 中、五四 九頁上 、六二五 頁下参照 。 注 3 注 1 、 2 書、 『北 齊 書』 卷 九 、 十一、 二十二、 二十四、 三十、 等 及 び『 北 京 圖 書 館 藏 中國 歴 代石刻 匯編 』北 朝 (中 州 古 籍 出 版社 一 九 八 九 )、 『 考 古』 一 九九〇 年八期 ( 科学 出 版社 )、 田熊 信之 「 邯鄲 鼓山 水浴 寺東山石窟銘文 考 釋 」 (『北 朝 摩 崖 刻経 研 究 』(三)内 蒙 古人 民 出 版社 二 〇〇 六) 参照 。 注 4 原 刻字による。本稿後 補 57頁参照 。 注 5 筆者の 原 石実 査 による。 注 6 金 石 碑 帖網 上 掲 釈文による。 注 7 中國 篆 刻 網 上 掲 釈文による。 注 8 本墓 誌 (「僧賢墓銘」 )については、筆者は、二 〇〇九 年一月十日 明 治 大
学に於ける科学研究費研究成果報告会、及び同年五月十五日 日本教育会 館に於ける第五四回国際東方學者会議の席上、その存在と釈文、試訓を発 表し、図版を公表している。 注 9 大正 新脩 『大藏經』 麒 五十册 「 傳部二」 No. 2058、 No. 2050、同 麒 五十一册 「 傳部三」 No. 2069参照。 注 10 趙超 『漢魏南北朝墓誌彙編』 (天津古籍出版社 一九九二、 六 )、羅 新 、 葉 『新出魏晉南北朝墓志疏證』 (中華書局 二〇〇五、三)等参照。 注 11 王仲犖「北魏延昌地形志北邊州鎭考(王仲犖著作集『北 地理志』下 中 華書局 一九八〇、八) 桑乾郡条参照。 注 12『魏書』卷十一 「廢出三帝紀」第十一 後廢帝安定王、出帝平陽王条参照。 注 13『魏書』卷一百一十四 「志」「釋老志」 三〇四二頁参照。 注 14 釋 祐 蘇晉仁 蕭 子點校 『出三藏記集』 卷 第十二 「 釋 祐法集」 「法集雜記銘」 (中國佛 典籍 刊 中華書局 一九九五、十一) 四五七、 四九八頁参照。 注 15 注 9 書及び趙萬里『 魏南北朝墓誌集釋』 (科学出版社 一九五六) 、韓理 洲等輯校編年 『全北齊北 文補 』(三秦出版社 二〇〇八、 六) 及び筆 者実査資料参照。 注 16 張之考證 『安陽考釋 殷 安陽考證集 』(新 鯖 出版社 一九八七、 三) 「安陽境内 郡 跡示意圖(圖二) 、 下古渠示意圖(圖五) 」、胡曉 等編 『安陽縣志』 (中國青年出版社 一九九〇、 十二) 、「 芦剩⑮屓夕 」「 芦剩⑮ 仇米夕 」、 Go og le 航空写真等参照。 注 17 大正 新脩 『大藏經』 麒 五十册 No. 2068『續高 傳』 卷第二十五 「 禪六」 「衞 州霖落泉釋 倫傳十一」参照。 注 18 注 17書 卷第十六 「 禪初」「齊 西龍山雲門寺釋 稠傳八」参照。 注 19 諏訪義純 『中国中世仏教史研究』 第二章 第四節 「 都仏寺考」 雲 門寺 条 注一〇(大東出版 一九八八、五) 注 20 安陽善応小南海所在石窟壁上刻字参照。 録文は 『安陽縣志』 金 石 卷二 (十二丁裏~十三丁表)にも見えるが、誤録、欠字がある。 注 21 刻字中に以下の文が見える。 「 略 特 驃騎大將軍開府儀同三司尚書令 并 州大中正 食 司州 濮 陽郡 幹 長 安縣開國 侯 晉昌郡開國公 略 於 是發 七 處 之 印 、開七 寶 之 函 。 訪 華之書、 命銀鈎 之 迹 。一 音 説 、 盡勒名 山。 於 鼓 山石窟之所 寫 、 略 維摩詰 經一部、 略 天 統 四年三月一日、 盡武 平三年 歳 次壬辰 五月 廿 八日。 略 」( 拠原 刻字、 拓 影 ) 注 22 こ の刻 経 に つ いては、 何士驥 、 劉厚滋 編『南北 堂 寺及 其附 石刻 目 』 (國 立 北平 究 院 學 究 會 考古 組 出版 民 國二十五年九月) の 「佛經 目 」 冒頭 に、 「 涅槃 經所 在北 堂 寺 山 坡柏樹 下 備 考 北齊天 統 四年 (公 暦 五六八) 刻。 」と 記 述さ れ ているが、 一九九七年八月、 北朝考 古学者 馬忠 理 先生 と筆者が実査し た折 、 落して 埋没 し か けてい た劈 頭 と 末尾 の刻字 残 石を発見し、 こ の刻 経 が 武 平二年の刻成 で ある こ とを 確認 し ている。 なお 、 こ のものは、 『大 般 涅槃 經』 「 師 子 吼菩 品 」の 経 句 の節録 で ある。 ※ 補注 本 稿 校 訂 中の十二月二十七日、中国の北 京 で 、 河 南 省 文 物 局の 責 任 者 に よっ て、安陽 市 西北 郊 の安 豊郷 西高 穴村 所在の 磚室 東漢大墓の発 掘 に つ いて発表があ り 、 こ の 磚室 墓が、 旧来諸 説 紛々 としてい た 曹操 の 陵 墓 高 陵 と見 ら れ る こ とが公表 さ れた 。 こ の墓中 か ら は、 副葬 武 器 の 標識 で ある 圭 形の石 牌や 石 枕 ( こ のものは 盗 掘 さ れ 墓中 より 持ち 出 さ れ てい た ものを地 元 の 警察当 局が回 収 し た よ し で ある) 等の刻字 遺 品 が発見 さ れ 、一 男 二 女 の 遺 骨 片 も発 掘 さ れた とい う こ と で 、中国内 外 で は、 こ の 続 報に注 目 が集 ま っ て いる。安陽 県 安 豊郷 所在の東漢 末 の大墓に つ いては、文 献 学者 や 文 物 鑑 定 家 等に よ る 非 曹操 墓 説 も出 さ れ ているが、 こ の地の 近接 地の 造 磚 工場 の 採 土 地 か ら 、一九九二年に発見 さ れ てい た 、後趙 建 武 十一年(三四五)十一
月の紀年のある「大僕 馬 尉勃海趙安縣魯潜墓誌」の 「 略 墓在高决橋陌西行一千四百歩、 略 故魏武帝陵西北角西 行四十三歩、 略 」( 霜 振山「魯 捻長崗式凪㌢購諒籾 」『 鯖歪深硬 』 二〇〇三―二 河南省文物考古研究所等 八〇~八二頁参照) との銘文や、前後室と四側室を設えた大磚室墓の構造、またその墓室から 出土した刻字遺品の形状、書態、及び曹操にかかわる『三國志』卷一「魏 書」 武帝紀の建安二十三年、 同二十五年の 「 嶮綜 」「 凖綜 」( 「古之葬者、 必居瘠薄之地。 其規西門豹祠西原上爲壽陵、 因高爲基、 不封不樹、 略 」「二月丁卯、 葬高陵。 」) 等から、 曹操墓の高陵と見る肯定的意見が 大勢を占め、筆者もこれを支持しているが、この大墓は、 河南岸に近接 して、西方から東方へと張り出す阜丘地、すなわち野馬崗の縁辺の北東に あたる地に築かれている。この地は、これより阜丘外縁に沿って南方、南 西方へとひろがる、北朝、魏、齊代の墓域の起点ともなるようであり、こ うした地から、各種の石誌、磚銘が多数出土している。僧賢墓銘は、安豊 郷とその南方の洪河屯の間の何処かの地から出土したものと見られる。 (たくま のぶゆき 日本語日本文学科) 図 5 河南省安陽県安豊郷西高穴村東漢大墓 (曹操高陵)出土刻字遺品 1.石枕(底面刻字) 2.圭首形石牌(牌陽刻字) ※河南省文物局発表写真 2 1 図 6 河南省安陽県地勢図部分 拠『芦剩⑮崗』現夕