先師追憶 1 永い眠りに就いたその顔を、とても小さく感じた。立派な顔立ちの方であった。教室 で仰ぎ見ていた経験が、顔の印象を役者絵のように造型していたのかも知れない。それ を小さく感じたのは、いつも確信に満ちた眼差しが静かに閉じられていたからでもあろ うか。送りの日、私の目に映ったその顔は、けはひで整えられ、美しい人形のようであっ た……。 斎場を差配する人たちの中では名めい木きと呼ばれている大きな看板には、故人の名が「渡 邉實」と記されていた。戸籍に記されている氏名である。ごく初期の著述はこの字体で 署名されていた。私の記憶では、1953 年の『國語學』第 13, 14 輯に掲載された論文「叙 述と陳述」から「渡辺実」名が用いられたように思う。1966 年に私が京都大学に入学 したときの「学生便覧」などにもこちらの字体が用いられていた。 単なる便宜であったのかも知れない。合理主義に徹しているといった風であった「渡 辺先生」には、旧字の正字「邊」ならぬ俗字「邉」をいちいち書くことなど意味のない 煩雑なことでしかなかったのだろう。─と、あの日名木を見るまで思っていた。 「言語することの時間性を原理に、精細緻密な構文論を構築した」。二度に亙って渡辺 先生に招かれ同じ大学に居られた川端善明先生の評言(内田への私信)である。この人 ほどそれに徹した人は他にないとも添えられている。少しくそれの疏を記す。 現実の経験としての言語は、時間の中に現象する。もとよりそれを約束する規則は予 め存在していて、それ自体は非経験的なことである。経験的と非経験的とは弁別される べきだが、しばしば一方を他方にいつの間にか繰り込んでしまう論が見られる。従って、 どちらかに徹することは高度な自制を要する。日本語は述語の時間が長い言語である。 穏やかに季節が巡っていく自然にあたかも沿って、私たちは緩やかに述定する。いかな る予断もなくその時間性を精確に解明すること、そこには、現実の言語経験への透徹し た、確信に満ちた眼差しが必須であった。緩やかに述定する営みが、時間性に則して、 生き生きとして動的な構造へと跡づけられる。渡辺実著『国語構文論』(塙書房 1971 年) は、「言語することの時間性を原理に、精細緻密な構文論を構築した」。 結実したその構文の考え方の出発に、「渡邉實」と署名された「陳述副詞の機能」(『國 語國文』第十八巻第一号、1949 年 4 月)がある。用語は山田孝雄のそれに従っただけだが、 (『日本語の研究』第 16 巻 3 号 2020.12.1)
內 田 賢 德
先師追憶
渡辺実先生追悼特集
2 その概念の外延はずっとひろくなり、内包も応じてふくらみをもった。しかし、「陳述 を修飾する」ということとして陳述と関わるこの類は、述語の述定を先取りしているこ とにならないか。『国語構文論』でこの類は誘導という概念で説明される。名称自体に は先行するものがあるが、ここでのこの概念に肝要なのは、この類が、陳述が上下に分 裂してなどと言われるような、時間に逆らって予め現れる要素などではなく、予告、前 触れといった概念である。時間性ということに徹した結果であろう。 と記して、今更のように蘇ってきた一つの問があった。「陳述副詞の類を、誘導と言 おうと思うが、君どう思う」。講義が終わった後、私を呼び止めて、渡辺先生はこう問 われた。『国語構文論』を執筆されていた頃である。ようやく何種類かの文法書を読ん だだけの私には答えようのない問である。考えてみますと答えるのが精一杯であった。 そんな私になぜ、ということは分からない。考えておられたことをたまたまそこにいた 私相手に口にされただけであろう。ただ、この展開は、当時の私などには思いも寄らな い、何か澱のようなものを著者の内部に残したらしい。渡辺先生最後の著書となった『国 語表現論』の中に収められた、他の章とはやや異質な「陳述副詞の機能を産んだもの」 は、かつての出発の論文であるが、そのあとがきに、『国語構文論』のために切り捨て た事項が惜しまれたとあるのは、展開されることのなかった可能性についての思いであ ろう。私などの想像を許さない深い思いが秘められているように思った。 言語表現を現実の経験に徹して解析するという爽快な立場は、文章論や古典注釈の中 でも窺える。「みやび」ということすら、花鳥風月を詠ずる理念に閉じ籠もっていなかっ た。伊勢物語初冠の段、男は見そめた旧都の姉妹に狩衣の裾を切って、当意即妙の歌を 書き贈る。作者はそれを「いちはやきみやび」と評している。「「みやび」の精神を具体 的言動に即して追求する」という伊勢物語の主調が典型的に認められる箇所である。即 興の歌が古歌の心を踏まえていたこと、そしてそれが身につけていたしのぶずりの衣を 巧みに詠み込んでいることに限定されない、まだ若い男の初々しい行動として現実化し ていることこそが「みやび」だと、新潮日本古典集成『伊勢物語』「解説」(新潮社 1976 年) は説く。ここで最近の知見を加えさせていただくと、この男は、すでに素早く歌を書け る文字ひらかなを知っていたし、普段は歌を紙に書いていたと考えられる。当意即妙ぶ りはより高まる。それを伝えれば、そうやそうやと校注者は喜んでくれるであろう。 颯爽とした渡辺先生だったが、私は二度「死」という語を発されたのを聞いたことが ある。両方とももう京都大学を辞されてから京の街で偶然出会った時のことである。一 度目は上智大学に転じられてしばらくしてからのことで、東京へ行ったきりにはならな い、死ぬときは京都で死ぬということであった。何とも応対しにくい発言で、そうです かとしか言いようがなかった。二度目は、その上智大学も辞されて、京に帰られて何年
先師追憶 3 か経ったときであった。「君、何か楽に死ねる方法知らんか」というものだった。私は 初めてこの先生の寂しそうな表情を見たように思った。高齢となられて気鬱がきざした のかとも思った。最後の著述となった「国語学・国文学への我が道」(『日本語学』2017 年 5, 6 月号)を拝読して、やはりそういう面があったのだなと感じた。「いい加減にあの 世から迎えがきてくれてよい」と思っていた矢先に勧められて」執筆したというこの文 章は、生い立ちから、「渡邉の家を継ぐ」ことになり、そして大学を卒業した後の研究 生活を振り返るものであった。あの日先生を送ってから、私は再びこの文章を読んでみ た。そしてあの名木を見たときのひっかかりが解けたように思った。渡辺実とは、この 著者にとって、何かを振り捨てて生き生きと活動するための、自らに課した意匠だった のではないのか。単に合理性や便宜ではない何かがそこにあった。しかし、誰でもいつ かは活動を終える日が来る。人生の残照の中で振り返ったとき、自己が渡邉實へと還っ て行くのだと思われたころ、ふと寂しさが感じられたのではなかったか。それはまた、 その名で著した への郷愁でもあったのだろう。一生の回顧の文章は、そうした思いの すべてを形にすることであったのだろう。末尾に、この文章を書くことを勧めてくれた 人への謝辞が記されている。そして再度の読者には、成立したものへの自足が感じられ た。還ってきた渡邉實として安んじて最後の日を迎えようという鎮もりの中で旅立たれ た。私にはあの名木の表記が、故人の遺志のように思われてならない。 もし先生が、幽かく界りよから、「君、私の研究人生をどう思う」という問を発されたら、今 度は何か答えてみたい。いや、やはりこれも何とも答えようのない問であろうか。 (2020.6.3) ──京都大学名誉教授──