常者として障害者介護に関わるということ
1970年代障害者解放運動における 全者運動の思想を中心に
山 下 幸 子
1.はじめに 問題の所在 障害者に関わる,障害者の生活介護を行う,そうすることで見えてくる問題がある。例え ば障害者とその家族との関係性,入所施設や在宅福祉サービスの現状,そこかしこにある街 の物理的バリアなど,障害者の生活を取り巻く問題は数多い。介護する 常者はそれらの問 題に直面することになるのだが,そのような問題を えるとともに,介護する「私」の立場 とは何か,障害者と 常者との関係性とは,といった問題に直面することもある。これは筆 者自身の経験であるが,このような問題意識を抱えると,「 常者としての私」を 上げする ことはできない。介護する「私」の拠って立つ価値とは何か, 常者中心の社会のなかで生 きてきた「私」が障害者と向き合うとはどういうことなのかといった問いを え続けていく ことになる。 このような問いに対する え方の切り口を,1970年代の 全者運動 に見出すことができた。 上述した問いについて,1970年代の障害者解放運動とともに各地域に 生してきた 全者運 動は え続け,そして介護を行い,障害者と向き合ってきたのである。 1970年,横浜市で起きた母親による障害児殺害事件とその事件に対する減刑嘆願運動 ,そ して胎児条項を盛り込もうとした1972年の優生保護法改訂案の国会提出 を契機として,日本 脳性マヒ者協会・青い芝の会(以下,青い芝の会と略する)は,障害者自身の立場から,つ まり「殺される立場」から, 常者中心社会を糾弾していく運動を始めた。障害者を「あっ てはならない存在」とみなし,隠し,否定し,抹殺していく思想が根底に流れる社会がある。 そしてそのような社会を自明のものとみなす,いやそれ以前にそのようなことが意識化され るにも至らない 常者に対して,障害者解放運動を担う障害者たちは問題提起を行い続けた のである。 障害者たちからのこのような提起を受けて,自らの問題として提起を受け止めていこうと いう 常者による運動が1970年代から全国的に派生してきた。これら 全者運動は,障害者 解放運動の思想と実践に依拠しながら,「 全者であるという自己の立場にしがらみ続け」(『ゴ ⑴リラ』№2 1974:38), 常者である自らを問い直す試みを始めたのである。 1970年代における青い芝の会の思想や実践については,数々の文献で紹介や 察が行われ ている(横塚1974;横田1979;立岩1995,1998;杉本2001;全国自立生活センター協議会 2001;大阪人権博物館2002,2003)のに比して,障害者からの提起を受けた 常者の実践や 思想については,ほとんど 察が行われていない。本稿では1970年代の 全者運動,主に関 西で1973年に 生した 全者運動組織であるグループゴリラをモチーフとしながら, 全者 運動の思想と実践について, 全者運動組織が発行してきた機関紙やパンフレット,青い芝 の会の障害者による著作等を用いて 察していくことを目的とする。 ここで,本稿の研究範囲について述べておく。関西の 全者運動の動向については,その 展開過程から以下のような時代区 ができる。本稿では第1期の 全者運動の思想や実践を取 り上げて 察する。 第1期:1973年2月から1977年10月まで。 全者運動の 生から緊急アピール 以前。 第2期:1977年10月緊急アピール後から1979年まで。 全者運動組織をめぐる混乱期。 第3期:1980年以降。重度障害者の地域拠点の確立と,障害者の生活要求に根ざした行政闘 争期。1970年代の思想を継承しつつ,障害者と 常者との共同行動をとる。 なお,本稿の構成は以下のとおりである。 次の第2節では 全者運動の成立背景とその活動内容について論じる。本稿で取り上げるグ ループゴリラは青い芝の会の「友人組織」としての活動を展開したが,その青い芝の会は 常者に対して何を求めたのか,そして 常者との関係性をどのように規定したのかというこ とについて確認を行う。そして 全者運動の 生過程と,その活動内容について確認を行う。 第3節では,障害者との関わりのなかから, 常者が自らの 常者性をどのように捉え直して いったのかを述べる。そして第4節で本稿の簡単なまとめを行い,今後の研究課題について述 べる。 2. 全者運動の成立背景と活動内容 (1)障害者からの提起 全者運動の 生が青い芝の会など障害者解放運動からの提起に起源があることは上述し たが,ここでもう少し,青い芝の会が 常者と障害者との関係性をどのように位置づけてき たのかを確認したい。 青い芝の会の中心人物であった横塚晃一は,障害者と 常者の立場の違いについて,ボラ ンティアを行う 常者を素材にしながら次のように述べている。少し長いが以下に引用する。 ⑵
「障害者 特に重度障害者は,世間一般が当然のこととして享受している教育,労働など全 ての場からはじき出されております。つまり障害者は現代社会において,被差別者で被抑圧 者なのです。その社会をつくっているのは他ならぬ『 全者』つまりあなた方ひとりひとり なのです。今までのボランティア活動は,このような人達を『かわいそうな人達』あるいは 『不幸な人達』と呼び『だから私達が何かやってあげるのだ』ということだったと思います。 しかしこれは大変な心得違いです。なぜなら我々を,不幸な,恵まれない,かわいそうな立 場にしているのは権力であり,今の社会であります。その社会をつくっているのは他ならぬ 『 全者』つまりあなた方ひとりひとりなのです。あなた方は,我々をはじき出した学 で 教育をうけ,我々の姿のみられない場所で働き,我々の歩けない街を闊歩し,我々の利用で きない乗物,エスカレーターなど種々の器物を いこなしているのです。このように えれ ば,ひとりひとりが,いや他の人はとにかくとしてあなた自身が差別者,抑圧者といえまし ょう。」(横塚1975:122−123) 常者が障害者を脱主体化し,障害者に保護的なまなざしを向けていることを,青い芝の 会の障害者たちはこれまでの経験から認識していた。さらに青い芝の会の思索は続く。その ような障害者に対する保護的なまなざしが 常者中心社会のなかでは自明のものとされ,社 会構造が成り立っている。その社会のなかで障害者は排除されていく。そしてその社会をつ くり上げているのは 常者一人ひとりであり,それゆえ 常者に対し差別者であるという自 覚をもつことを促しているのである。 さらに青い芝の会は,障害者と「共に」 常者が何をなすべきかを問いかける。この「共 に」という言葉についてはさらに えなければならないだろう。青い芝の会は,障害者の力 を奪い障害者を隔離し抹殺していく,そのような社会における障害者と 常者との立場の違 いについて深く追求し,違いを自覚したうえでの障害者と 常者との関わり合いこそが求め られていると えた。横塚は障害者と 常者との関わりについて,次のように述べている。 「 全者組織と青い芝との関係を『やってやる』『理解していただく』というような今までの 障害者と 全者との関係ではなく,むしろ敵対する関係のなかでしのぎをけずりあい,しか もその中に障害者対 全者の新しい関係を求めて 藤を続けていくべきものと位置づけてき ました。」(介護ノート編集委員会1978:224) これまで障害者が経験してきた障害者と 常者との主従関係を否定し,「新しい関係」が模 索されなければならないと示している。青い芝の会の障害者たちが提起する「新しい関係」 ⑶
こそが,障害者としての立場と 常者としての立場のぶつかり合いを通して築かれる関係で ある。 この「新しい関係」の要求に対して 常者たちは, 常者としての自己の生き様と,障害 者としての生き様をぶつけ合わすことを起点とし,運動を始めていったのである。 (2) 全者運動組織の 生 関西を中心に 脳性マヒ者としての自覚,そしてその生き方を社会につきつけていった青い芝の会の主張 から,1972年に,青い芝の会神奈川県連合会のメンバーを主役としたドキュメンタリー映画 『さようならCP』が完成した。青い芝の会神奈川県連合会のメンバーは,このフィルムをも ち,全国各地で上映会と上映後の討論会を行っていった。 関西では1972年7月に『さようならCP』関西上映実行委員会が結成され,同年12月,兵庫県 姫路市で行われた上映集会に参加した障害者たちによって「自立障害者集団姫路グループリ ボン」が結成される。そして翌1973年2月には大阪でも「自立障害者集団大阪グループリボン」 が結成,また同年4月には大阪青い芝の会が結成され,脳性マヒ者の多くはグループリボンに も青い芝の会にも関わっていくようになる 。これら障害者運動においては,自主製作映画活 動や在宅障害者訪問,「障害者と 全者の大 流キャンプ」を行い,これらの企画は在宅障害 者が運動に参加していく契機となった。 そして1973年2月にはグループリボンから介護・友人グループの要求を受けて,「自立障害 者集団友人組織グループゴリラ」が結成される。グループゴリラは大阪をはじめとして,そ の後,兵庫,和歌山,奈良で結成されていき,1974年11月には関西地区のグループゴリラが 結集した「自立障害者集団友人組織関西グループゴリラ」(以下,関西グループゴリラと略す る)が結成される。 (3)活動内容 グループゴリラは大きく けて三つの活動を中心に行ってきた。在宅障害者訪問,行動保 障,自立障害者介護である。 まず一つ目の在宅障害者訪問についてである。当時の施設福祉中心の障害者施策において は,施設入所あるいは親元での在宅生活にしか重度障害者の生きる道はなく,障害者は親や 家族,施設職員といった一部の 常者とのつき合いしか築けなかったという状況であった。 グループゴリラは,青い芝の会やグループリボンの障害者とともに在宅障害者宅を訪問し, 障害者と関係を結び,あるいはその家族とも関係を結ぶ努力を行いながら,「街へ出よう,運 動に参加しよう」と訴えていった。 行動保障は,具体的には運動に参加する障害者の送迎や介護等の日常活動の保障を行うこ ⑷
とである。在宅障害者が自 の思うとおりに行動をとるには非常な困難が伴うことを,障害 者運動・ 全者運動は実感してきた。まず,在宅障害者が外出するには,親や家族との 渉 が必要であった。在宅障害者訪問を通して,親の え方次第で外出できるかどうかが決定さ れるという現実をみてきたのである。さらには街中のバリアは限りなくあり,また行政によ る障害者の外出の保障は何もない。このような状況のなかで, 全者運動が青い芝の会など の障害者運動と行動をともにするとき,行動保障の遂行は切り離せない活動となっていった のである 。 そして自立障害者介護についてである。関西では1975年に金満里が重度障害者初の自立生 活を始めている(金1996)。その後も運動に参加する障害者のなかから,親元を離れ,あるい は施設や病院を離れ街中のアパートで生活を行うようになっていく。その24時間介護をグル ープゴリラが中心となって担っていった。 4. 全者運動が得た思想 ここで, 全者運動が目指してきたもの,運動の展開過程のなかで築かれてきた思想とは, どのようなものだったのかということを えたい。 1974年に発表された関西グループゴリラの規約の第3条には同会の目的が示されている。 「本会の目的は,人間 体の自由と尊厳を求める,障害者の自立と解放,障害者差別を許さ ない運動を, 全者の立場から担いきることであり,自立と解放の道を歩む障害者と,とこ とんつき合いきる 全者,新たなる 全者の 出をめざす各地区ゴリラの運動を,関西レベ ルで結集し,連帯をはかり,関西を拠点としての障害者解放運動の 全者の潮流の 出にあ る。」(『ゴリラ』№2 1974:12) ここでキーワードとなるのは,「 全者の立場」,そして「新たなる 全者」であろう。以 下,この言葉にこめられた意味について 察を行う。 (1) 常者としての自己への気づき グループゴリラの活動の一つに在宅障害者訪問があることは先に述べた。ゴリラに関わる 常者は,この在宅訪問によって在宅障害者の生の現実に向き合うことになる。風呂に何年 間も入れない障害者,家族から疎まれる障害者,外出に非常な不安を抱える親そして障害者 本人の姿。そこで 常者は,親元や病院,施設のなかで人間性を無視され,社会存在を自覚 する機会をもたなくなるところまで社会的存在を奪い尽くされてきた障害者の姿を見るので ある。 ⑸
その姿を目の当たりにしていくなかで, 常者は,限られた環境において在宅障害者がこ れまで何を感じてきたのかということを理解し,その生活実態を理解していく。そして同時 に,これまでそのような障害者の生の現実にふれなくても生活を営むことができた自己に気 づいていくのである。 「障害者の外出ということになると,一対一の関係のつもりでも,障害者の意志を充 にく みとれず,介護者ペースになりやすいことを思い知ることになる。障害者にしてもわざわざ 介護してくれる 全者に対して遠慮があるから,自 の意志を押し通そうとはしない。それ を同意と受け取ってしまって,こちらのペースでものごとを運んでしまう。」(障害者解放を めざす講座 関西実行委員会1976:15) 「障害者は自 の障害を常に生存の基盤として生きてゆかざるを得ないけれども,ぼくは好 きな時に肩の荷を降ろすように障害者を捨て去ることができる。そういう気持ちが絶えず付 きまとっている限り,在宅障害者訪問中も後ろめたさが残る。」(障害者解放をめざす講座 関西実行委員会1976:15) また自立障害者介護においては,在宅障害者訪問とはまた少し異なったかたちで,自身の 常者性に気づくことになる。障害者の自立生活運動は,それまで 常者中心社会から奪い 尽くされてきた障害者の生を取り戻す実践であり,おのずと障害者ペースを貫き通す生活が 志向されることになる。生産性や効率性が重んじられる社会のなかで,障害者ペースを貫き 通すことは,障害者にとっては大きな「挑戦」であり,既存の社会に対する異議申し立てで もある。自立障害者を毎日24時間介護していくということは,このような志向をもった障害 者と 常者との立場のぶつかり合いとなることは必然である。 「重度障害者がアパートを借りて住むという事さえ, 全者社会においては根底からゆさぶ りをかけるものであり,ましてや私達が障害者の自立生活にかかわりを持つことは様々なと まどいのみ生じるのは当然である。なぜなら,これまでの経験や価値観が彼らからのかかわ りからぐらつき,くずされていき,私達 全者が何ら持ち得ていないことに気付かされてし まうから。」(自立障害者集団友人組織全国 全者連絡協議会1977:83) 在宅障害者訪問そして日々の障害者介護を通して, 常者はその身体で障害者の生活ペー スを実感してきた。そして 常者として生活し,築き上げてきたこれまでの価値観が崩され ていくことも実感していったのである。 ⑹
(2) 常者からみた障害者との共闘の意味 青い芝の会との関わり,そしてグループゴリラの活動から, 常者は障害者との厳然たる 立場の違いを実感する。それは障害者差別というものがこの社会には存在するのだといった ような, 常者である自 自身を 上げした えではない。障害者と関わり運動を担う 常 者である自 自身のこれまでの生活やその価値観のなかに,障害者差別の思想が根づいてい ることを知るのである。つまり,すべての価値基準が 常者ペースで構築されており,その 価値基準が具体的な力となって障害者を排除してきたことを,日々の介護や在宅障害者との 出会いによって気づいていくのである。その価値基準を,まったく意識することなく生活を 営んできたこれまでの自己を捉え直す運動が,グループゴリラをはじめとする 全者運動で あったと言える。 自己の問い直しには痛みが伴う。これまでの自己を否定することにもつながるからである。 しかし 全者運動は障害者との関わりを継続し,介護を行うその身体で障害者と関わること の意味を模索し,障害者差別の糾弾を行っていった。 障害者と四六時中付き合うことは, 常者にとっては「非日常の存在としての障害者が, 我々 全者の日常にズカズカと入り込み,その日常性が破壊されて」(障害者解放をめざす講 座 関西実行委員会1976:44)いくことになる。この日常性の破壊という経験があって初め て,障害者の日常を 常者社会の日常のなかで捉えなおしていくことが可能となる。そして その 常者中心社会のペースに疑問をもち社会変革を志向していく。この思想が,障害者と 常者が共闘してゆける可能性を開いていくのである。 (3)「新たなる 全者」とは このように えていくと,当時の「新たなる 全者」という えの内実が見えてくる。 新たなる 全者について,「差別者としての己を変革し,殺人者としての己れを変革して行 こうとする,我々の根本的な姿勢を示すものである」(障害者解放をめざす講座 関西実行委 員会1976:5)と 全者運動は捉えている。それは自らの 常者性を疑問視し払拭していくこ とであると同時に,その自覚でもって障害者と関わり通していくことを志向するものである。 これが「新たなる 全者」の姿であり,「新たなる 全者運動」を示すものである。 グループゴリラの正式名称は,「自立障害者集団友人組織グループゴリラ」である。「友人 組織」ということの意味を, 全者運動は「障害者と 全者とのつき合いを奪い返す運動」 であると定義している(障害者解放をめざす講座 関西実行委員会1976:82)。介護活動を通 して,障害者の生の現実を, 常者自らの身体で理解していく。そしてそのなかで 常者性 を捉え直していく「新たなる 全者運動」の実践を行うこと,これが「友人組織」という言 ⑺
葉に込められた意味であると えられる 。 5.おわりに これまで,1970年代中頃までの 全者運動の実践について 察を行ってきた。1970年代か らの障害者解放運動は,障害者の地域生活の基盤をつくり上げることを目指しながらも ,こ れまで自明のものとみなされてきた 常者中心社会のありようを問い直してきた運動でもあ った。障害者解放運動においては,生産性や効率性が重んじられる社会のなかでの障害者の 位置づけを敏感に察知し, 常者中心社会そのものへの糾弾を行っていったのである。その 時, 常者は障害者にとってどのような存在だったのかということが問われ,それに応えよ うとしたのが 全者運動だった。障害者を無力化してしまう社会があり,その社会を自明と する 常者がいる。 全者運動が目指したのは,社会を変革していく闘いと,その社会のな かで安寧としている自身を問い直す闘いを行っていくことだと言える。 近年,日本においても,障害者問題に関して,欧米の障害学(Disability Studies)を基盤と した学問領域が展開され始めている。障害学は,障害に関する問題の原因を個人に帰するこ となく,その原因を社会構造のなかに見出そうとするものである。障害学の研究成果から, 障害が絶対的な概念ではなく,相対的なものであることが明らかになってきた。このことは 常という概念についても同様であり,障害 常をめぐってのこれまでの知の転換を図る 試みが行われている。 日本の障害学の主要な論者である石川准は,障害者のアイデンティティの政治を論じるな かで,次のことを述べている。 「なぜ障害者の生き方が,あるいは障害者の生き方だけが語られるのでしょうか。克服か肯 定か,同化か異化か,障害者というアイデンティティの引き受けか拒絶か,そうしたことが 語られ,障害者としての正しい生き方が追求される一方で, 常者は無傷なままで, 常者 という立場を屈託なく享受しているのだとしたら,何が『アイデンティティの政治』でしょ うか。」(石川2000 : 42) 石川は,「どのような立場やアイデンティティでも自由に選べるノーバディ(nobody)」(石 川2000 : 42)として 常者を捉え, 常者としての「自己のあり方を相対化し反省すること を迫るような言説を紡ぎだしていくことが障害学には求められている」(石川2000 : 42)と述 べる。 このような石川の指摘が説得力をもつのは,障害者問題を自己とは 上げしたところで論 じるのではなく,自己の問題でもあると捉えたうえで障害者と 常者との関係性を えてい ⑻
くことが,今もなお問われている課題であるためだろう。そしてその課題について,1970年 代に立ち向かい, 常者としての立場を捉え直してきたという 全者運動の試みについて えることは非常に重要なことであると言える。 最後に,本稿が残した課題について述べておきたい。 これまで述べてきたような思想をもって実践してきた 全者運動は,1977年10月の緊急ア ピールを契機に混迷を極めることになる。 常者としての自己を問い直す運動を行いながら も,介護をはじめとする 全者運動の活動体制の不十 さとそこから生じる疲弊や,障害者 と 常者との関係性の馴れ合いなどが,障害者からの糾弾を引き起こすことになり,そこか ら 全者運動のあり方が再度問われることになった。本稿ではこの緊急アピール以前までの 活動およびその思想から 察を進めたが,それ以降の 常者のありようについて 察するこ とは今後の課題である。 参 文献・資料 石川准(2000)「平等派でもなく差異派でもなく」倉本智明・長瀬修編著『障害学を語る』エンパワ メント研究所 自立障害者集団友人組織関西グループゴリラ(1974)『ゴリラ』№2 自立障害者集団友人組織関西グループゴリラ(1975)『ゴリラ』№3 自立障害者集団友人組織関西グループゴリラ連合会(1970年代〔発行年不詳〕)『紹介パンフレット グ ループ・ゴリラ 障害者差別を許さない友人運動の結晶』 自立障害者集団友人組織全国 全者連絡協議会(1977)『学習 科会基調・レポート』 介護ノート編集委員会(1978)『はやくゆっくり 横塚晃一最後の闘い』介護ノート編集委員会 金満里(1996)『生きることのはじまり』筑摩書房 大阪人権博物館(2002)『障害者でええやんか 変革のとき 新たなる自立観・人間観の 造を』 大阪人権博物館 大阪人権博物館編(2003)『聞き書き 障害者の意識と生活』大阪人権博物館 障害者解放をめざす講座 関西実行委員会(1976)『障害者解放講座統一テキスト』 障害者差別を許さない全国 全者機関紙編集局(1976)『想ひ』 杉本章(2001)『障害者はどう生きてきたか 戦前戦後障害者運動 』ノーマライゼーションプラン ニング 立岩真也(1995)「はやく・ゆっくり 自立生活運動の生成と展開」安積純子・岡原正幸・尾中文哉・ 立岩真也『生の技法 家と施設を出て暮らす障害者の社会学(増補改訂版)』藤原書店 立岩真也(1998)「1970年」『現代思想』26(2),青土社 和歌山障害者解放講座実行委員会(1976)『和歌山第1期障害者解放講座』 横田弘(1979)『障害者殺しの思想』JCA出版 横塚晃一(1975)『母よ 殺すな』すずさわ書店 全国自立生活センター協議会(2001)『自立生活運動と障害文化 当事者からの福祉論』現代書館 ⑼
注 1 常者/ 全者という用語の 用法については,本稿では「 常者」を基本的には 用し,当時 の資料からの引用および 用が必要だと認められる場合には「 全者」を 用している。 2 減刑嘆願運動はマスコミや障害児親の会を中心に行われ,障害児を殺害したのは 困な福祉施策 ゆえであり,母親が障害児を殺すのはやむをえなかったとした。 3 1972年,優生保護法の改訂案が国会に提出された。改訂案の内容は,人工妊娠中絶の適応事由中 の経済的理由条項を削除し,新たな適応事由として「その胎児が重度の精神又は身体の障害の原因 となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められる者」という胎児条項を加えようとす るものであった。この改訂案に女性団体や,青い芝の会等の障害者団体が反対運動を起こし,これ は廃案となった。 4 1977年10月17日に,関西青い芝の会,関西グループゴリラ,障害者情報センターりぼん社の各代 表によって提出されたもの。そこには,障害者のランクづけを行う 常者の実態,障害者と 常者 との馴れ合い,一部の人間による運動の私有化が明記されており,この緊急アピールを期に関西各 地の 全者運動は解散に至っている(大阪,奈良を除く)。 5 グループリボンと青い芝の会は共同の取り組みを行うことも多々あり,脳性マヒ者のなかにはど ちらのグループにも関わる者が多くいた(青い芝の会は脳性マヒ者のみが会員の対象であるため)。 グループリボンは,『さようならCP』の影響を受けて,『カニは横に歩く』という映画の自主制作や, 在宅生活を送る重度障害者との関係づくりのための訪問活動を中心に行っていた。青い芝の会も在 宅訪問を中心的な活動としながらも,差別糾弾闘争を精力的に行っていた。 6 青い芝の会による差別糾弾闘争を行ううえでも,グループゴリラによる行動保障は不可欠なもの である。当時の糾弾闘争としては,1977年の和歌山県立身体障害者福祉センター糾弾闘争(和歌山 青い芝の会の会員であるセンター入所者の鉄道自殺の原因は,センターから活動を妨害されていた り,センター内での虐待やいじめがあったことであったことから行われた糾弾闘争),1973年の片 平闘争(障害者の不当解雇を糾弾する闘争)など多々あった。 7 「在宅障害者と一緒に遊べるように,対等にけんかができるように」という言葉は,当時の 全 者運動の資料に頻出する。障害者と一緒に遊び,けんかができるようになるためには,まずは障害 者のいる風景が当たり前のものにならなければいけない。そうして付き合いを継続していくなかで 常者としての自己を問い直していく必要があるのだと, 全者運動は認識していた。 8 本稿では,障害者と 常者の関係性に焦点をおいているため,このことについては十 にふれる 紙幅がない。詳しくは(杉本2001)(立岩1995)を参照されたい。
Non-Disabled People s Involvement with the Care
of Disabled People
Based on the Thoughts of Non-Disabled Peoples Movement Within the Disabled Peoples Liberation Movement during the 1970s
Sachiko YAMASHITA
In the 1970s, non-disabled peoples movements as well as disabled peoples liberation occurred in some areas of this country. The purpose of this article is to examine the thoughts and practices of those non-disabled peoples movements. The disabled peoples liberation accused the society of which the non-disabled were located at the center. In the non-disabled peoples movement,based on the thoughts and practices of the disabled peoples liberation,non-disabled people began trying to reframe the concept of non-disability.
Non-disabled people provided care in daily life both for disabled people who were responsible for their liberation and for disabled people who were not concerned with the liberation but lived in parents homes in the community. In the provision of care, non -disabled people noticed their positions in society different from those of the disabled. At the same time, they also experienced that their sense of value was broken down. Such an experience made non-disabled people regard themselves as being close by related to the disabled and aim for social change.This process became the non-disabled peoples movement.
There is a possibility that even disabled people who participate in the non-disabled peoples movements are easily viewed as practicing oppression including dis-crimination against the disabled. As the conclusion of this article, the author suggests that it is a very important challenge to explore a rauge of possible relationships between disabled and non-disabled people.