大正・昭和初期における「特別学級」実践の模索 :
有馬良治と京都市崇仁尋常小学校 「特別学級」の
場合
著者
玉村 公二彦, 片岡 美華
雑誌名
鹿児島大学教育学部教育実践研究紀要
巻
24
ページ
119-129
別言語のタイトル
A trial of educational practice for children
with intellectual defficulties and organizing
“special classes" in Taisho and early Showa
era : a case of Yoshiharu Arima
BulletinoftheEducationalResearchandDevelopment,FacultyofEducation,KagoshimaUniversity 2015,Vo1.24,119-129
大 正 ・昭 和 初 期 に お け る 「
特 別 学 級 」 実 践 の 模 索
一 有 馬 良 治 と 京 都 市 崇 仁 尋 常 小 学 校 「特 別 学 級 」 の 場 合 玉 村 公 二 彦[奈 良 教 育 大 学 教 育 学 部] 片 岡 美 華[鹿 児島大学教育学部(障 害児教育)] Atrialofeducationalpracticeforchildrenwithintellectualdefficultiesandorganizing " specialclasses"inTaishoandearlyShowaera:AcaseofYoshiharuArima TAMAMURAKunihiko・KATAOKAMika キ ー ワ ー ド:特 別 学 級 、 大 正 昭 和 期 、 ペ ス タ ロ ッ チ ー 、 知 的 障 害 、 京 都 市 崇 仁 尋 常 小 学 校は じめ に
戦前 にお ける知 的 障害 児 へ の教育 実 践 は、 石井
亮 一 の滝之 川 学 園 をは じめ とす る施 設 教育 、 そ し
て師範附属小学校や公 立小学校 にお ける 「
特別学級 」
として形 成 されて きた。 特別 学級史 研究 として は、
戸 崎 敬子 に よ る 『
特 別 学 級 史研 究 』 『
新 特別 学 級
史研 究 』 な どが研 究 の到 達 点 とな って いる1。 し
か し、 各府 県 にわ た る広 範 な史 料調 査 の必 要 な ど
もあ っ て、 「
特別 学 級 」 の 成 立 ・展 開 とそ こで の
教 育実 践 は、 十 分解 明で きて い る と は いえ な い 。
しか も 、戦 後70年
とな る今 日で は学 校 の 統廃 合
な どによ る史 資料 の 散逸 は と りわ け厳 し く、 さ ら
に史 資 料が 示 す個 人 情報 の取 り扱 い につ いて も十
分 な配 慮が 必 要 とな って いる こ とか ら、歴 史 的 な
研究 は 困難 に直面 して い る ともい える。
しか し、戦 前 にお け る知 的障 害児 教 育 の試 み と
して の施設 や 学校 ・学級 の成 立 過程 は、そ の 事業
を成 り立 たせ る ため に理 解 を求 め る こ とも含 め た
苦難 に満 ちた 取 り組 みが あった 。 た とえ ば、 本稿
で取 り上 げ る こと とな る京 都 市の場 合 にお いて も、
白川 学 園等 の財 政 経 営 を見 て も、公 的 な援 助 が得
られず 、個 人 経営 とな るな ど、 先駆 的 な取 り組 み
で あれ ば あ るほ ど、 そ の発展 は紆余 曲折 した もの
とな って い る。 障害 児者 の保 護 ・教 育 事業 と して
成立 ・発展 した もの の みな らず 、そ れ を 阻ん だ背
景や 未 発 とな っ た事 業や 困難 を乗 りこえて 実 現 さ
せ て いっ た事 業 な ど、先 駆者 の歴史 的 な苦 闘 か ら
学ぶ ものは少 な くな い。
本稿 で 取 り上 げる有 馬 良 治(1902-1930)も
、
短期 間 で は あるが 「
特別 学級 」 の形 成 史上 にお け
る 模 索 を 行 っ た 一 人 で あ る 。 有 馬 良 治 が 、 教 育 観 と実 践 の 模 索 と 探 究 を 行 っ た の は 同 和 教 育 の 先 駆 と して 評 価 さ れ て き た 京 都 市 立 崇 仁 尋 常 小 学 校(以 下 、 崇 仁 小 学 校 と す る)で あ る2。 有 馬 良 治 は 、 これ ま で 戦 前 の 「融 和 教 育 」 の 先 進 校 と し て の 崇 仁 小 学 校 の 教 師 集 団 の 教 育 観 に大 き な 影 響 を 及 ぼ し た も の と し て 取 り上 げ ら れ て き た3。 崇 仁 小 学 校 の 融 和 教 育 と の 関 係 で 評 価 が な さ れ て き た こ と か ら 、 有 馬 の 「特 別 学 級 」 の 実 践 的 模 索 は 紹 介 さ れ る も の の4、 そ の 時 期 の 「特 別 学 級 」 史 の 中 に 十 分 位 置 づ け られ て こ な か っ た も の で あ る 。 1.有 馬 良 治 の 経 歴 とそ の 教 育 実 践 の 模 索 有 馬 良 治 は 、 明 治35年2月 に 、 鹿 児 島 県 薩 摩 郡 隈 之 城 村 東 手 の 阿 久 根 家 四 男 と し て 出 生 。 三 歳 の 時 、 父 の 母 方 の 有 馬 家 を 相 続 す る こ と と な り、 有 馬 姓 とな る 。 そ の 後 、 第 七 高 等 学 校 造 士 館 理 科 乙 に 入 学 ・卒 業 。 家 業 の 医 院 を継 ぐ べ く 医 学 ・医 師 の 道 を 進 む こ と を期 待 さ れ た も の の 、 煩 悶 の 末 、 大 正11年4月 京 都 帝 国 大 学 哲 学 科 に 入 学 、 心 理 学 を 専 攻 。 大 正14年3月 、 京 都 帝 国 大 学 卒 業 。 卒 業 と 同 時 に 、 京 都 市 崇 仁 尋 常 小 学 校 の 代 用 教 員 とな る 。 短 期 間 の 教 師 生 活 の 中 で ペ ス タ ロ ッチ ー 研 究 、 特 別 教 育 、 融 和 教 育 な ど の 取 り組 み を 精 力 的 に 行 う も 病 に 倒 れ 、 志 半 ば で 鹿 児 島 に 帰 郷 。 昭 和5年1月17日 に 惜 し ま れ つ つ27歳 で 永 眠 。 遺 稿 は 有 馬 良 治 『ペ ス タ ロ ッ チ ー に 生 き る 』(玉 川 学 園 出 版 部 、1931年)。 有 馬 は 、1924年 に 鹿 児 島県 人 の 学 生 会 にお い て 、 当 時 崇 仁 小 学 校 校 長 伊 東 茂 光 に対 し て 初 対 面 な がら同 校 の 教 員 と し て仕 事 を した い 旨 を 申 し 出て い た 。 そ の 後 、1925(大 正14)年 、 京 都 大 学 哲 学 科 心 理 学 専 攻 を 卒 業 す る に あ た っ て 、 伊 東 宅 を 訪 問 し 崇 仁 小 へ の 採 用 を 懇 願 し 、 郷 里 の 父 親 へ の 説 得 を 行 っ た 。 そ れ が 受 け 入 れ られ 崇 仁 小 の 代 用 教 員 と し て 教 職 生 活 を 出 発 さ せ る 。 よ り詳 細 に 、 崇 仁 小 学 校 時 代 の 年 譜 を 示 せ ば 次 の 通 りで あ る 。 1925年3月31日 京都市崇仁尋常小学校代用教員 となる [14年4月 よ り2年 生の担任 として1年 間] ※田中邦太郎、中嶋源三郎な どとともに教鞭を執る 1926年2月17日 ペスタ ロッチ ー九十九年記念祭 を実施、 パンフ レッ ト 「ペスタ ロッチー に復 れ」 を編 集 し崇仁校 よ り出す [職員会議での緊急動議提 出によ り開催が決定] 1926年4月1日 特別学級設 置によ りそ の担 任 とな り、京 都市特別 学級研 究会員と して力をつ くす 1926年10月 京都童話教育研究会結成 と共 に名誉会員 とな る 1927年1月9日 担任す る特別 学級 を解散 し教育各方面 に 力を伸ばす 1927年2月17日 ペス タロ ッチー100年 祭 を行 い、パ ン フ レッ ト 「ペスタ ロッチー に復れ」増補版 を 作成 1927年3月26日 奥丹震災地 に児童慰 問として京都 童話教 育研 究会研 究員 として約一週間活 動 1927年4月1日 特別学級 を再興 1927年6月1日 同学級児童 を普通学級 にかえす [学事視察 によ る] 1927年6月7日 京都市 よ り学事視察 として1ヶ 月東京方 面に出張 [この間、東京 高等師範学校 附属小学校 第5部 や成城 小 学校を参観 し、小原国芳な どとの懇談やイ デヤ書店 な ど でのペスタ ロッチー翻訳関連 の打 ち合わせ を行 ったもの と思われる] 1928年4月19日6年 担任(希 望 によ りて卒 業後 上級 学校 に進まざる ものを担当) 1928年5月 勤労学舎 を起 こす 1930年1月17日 永眠 小 西 重 直 は 、 有 馬 に つ い て 、 そ の 著 書 『教 育 の 本 質 観 』 の 中 で 次 の よ う に ま と め て い る 。 「崇 仁 小 学 校 に 教 鞭 を 執 り、 学 校 に お け る 教 育 以 外 に 下 宿 に ま で も子 供 た ち を 呼 び 集 め て 魂 の 接 燭 を 樂 し ん で 居 つ た の で あ る。 夙 に ペ ス タ ロ ッ チ ー 研 究 會 を 起 し、 ペ ス タ ロ ッ チ ー 全 集 編 纂 の 同 人 と して 筆 を 執 っ て 居 り、 低 能 児 の 教 育 や 教 員 相 互 扶 助 の 問 題 ま で も 心 配 し 、 丹 後 の 震 災 當 時 の 如 き も 眞 つ 先 に 奥 地 に 踏 み 入 っ て 子 供 た ち の 救 済 に 力 を 蓋 し た の で あ っ た 」 有 馬 の 業 績 の 第 一 は 、 崇 仁 小 学 校 に お け る 「ペ ス タ ロ ッチ ー に復 れ 」 を合 い言 葉 と した 、 教 育 理 念 ・ 教 育 思 想 の 内 面 化 で あ り 、 そ れ に よ る 教 育 改 善 運 動 へ の 同 士 の 糾 合 で あ り 、 ペ ス タ ロ ッチ ー 研 究 で あ ろ う 。 第 二 は 、 特 別 学 級 の 設 置 とそ こで の 実 践 的 模 索 、 そ し て そ の 特 別 教 育 促 進 運 動 の 開 始 で あ り 、 そ れ を 支 え る 知 能 検 査 の 導 入 と 教 育 組 織 の 改 善 で あ る 。 第 三 は 、 進 路 とそ の 後 の 継 続 的 な 援 助 に つ い て で あ る 。 2.京 都 市 崇 仁 尋 常 小 学 校 と 「ペ ス タ ロ ッチ ー へ 復 れ 」 崇 仁 小 学 校 の 社 会 的 基 盤 崇 仁 小 は 同 和 地 区 を 校 区 と す る 学 校 で あ る 。 崇 仁 小 で は 、1918年 の 米 騒 動 を 契 機 と して 、 校 長 と し て 伊 東 茂 光 が 抜 擢 さ れ 、 そ の 運 営 に 当 た る こ と に な る5。 伊 東 は 、 明 治19年7月,鹿 児 島 県 日置 郡 日 置 村 に 、 代 々 医 者 の 伊 東 家 の 三 男 と し て 出 生 。 第 七 高 等 学 校 を 卒 業 後 、 京 都 帝 国 大 学 法 学 部 独 法 科 に 入 学 。 卒 業 後 、 代 用 教 員 、 京 都 大 学 図 書 館 事 務 嘱 託 を 経 て 、1920年 、 京 都 市 立 崇 仁 尋 常 小 学 校 の 校 長 と し て 着 任(以 後 、 敗 戦 の 後 、1946年 ま で 校 長 を つ と め る)。 こ の よ う に 、 伊 東 は 、 校 長 と し て は 異 色 の 経 歴 を も っ て い た 。 伊 東 は 、1920 年 の 着 任 当 時 を 次 の よ う に 回 想 し て い る 。 「一 応 に 地 区 の 学 校 は 継 子 扱 い で あ っ た 」 「ち ぐ は ぐ な 校 舎 と運 動 場 と き た ら小 石 だ ら け で 運 動 会 の 目 前 に は 金 槌 で 石 の 頭 を た た い て 回 らね ば な らぬ 」 「下 駄 履 き で 体 操 を や っ て い た 」 「授 業 中 に は 馬 が 乗 り入 れ て 駆 け 回 る 」 「正 式 の 師 範 の 出 身 と い え ば 1人 か2人 、 大 部 分 は 無 資 格 の豪 傑 揃 い で あ る」 「な
ん で も視 学 さ ん が 『崇 仁 小 に や る ぞ 』 と言 わ れ る の は効 果 の 著 し い 脅 し 文 句 で あ っ た 」 と 。6 1920年 以 降 、 伊 東 の も と で 、 学 校 を 中 心 と し て 教 師 の 意 識 や 教 育 実 践 の 向 上 、 社 会 運 動 と の 交 差 と 地 域 改 善 へ の 進 出 な ど多 く の 努 力 が な さ れ て い く 。 そ れ は 、 経 済 的 貧 困 と 児 童 労 働 、 親 の 低 位 な 教 育 水 準 や 文 化 的 環 境 を 背 景 と し て 劣 悪 な 学 習 環 境 、 行 政 上 の 差 別 等 と い っ た 事 態 が 、 児 童 と 学 校 に 日常 的 に 生 起 し 、 学 校 運 営 、 教 育 実 践 の 困 難 を 形 づ く っ て い た こ と と の格 闘 で も あ っ た 。 そ の 背 景 と な る 学 区 ・学 校 の 実 態 を典 型 的 な 問 題 と して 次 の3点 を 抽 出 す る こ とが 出 来 る 。 す な わ ち 、 第 一 に 、 校 区 の 全 般 的 貧 困 と か か わ っ て 、 崇 仁 小 に 在 籍 し た 児 童 の 生 育 歴 上 に お け る ゆ が み が 指 摘 さ れ る よ う 。 そ の 一 つ の 指 標 と な る も の は 後 に 示 す 乳 幼 児 の 死 亡 の 問 題 に み られ る 。 公 衆 衛 生 、 地 区 の 乳 幼 児 ・児 童 の 栄 養 不 良 ・病 弱 ・ 障 害 の 早 期 固 定 化 等 児 童 の 発 達 上 の 問 題 傾 向 に 繋 が りが ち で あ ろ う と思 わ れ る 。 第 二 に 、 崇 仁 小 の 児 童 数 は1920年 頃 ま で 着 実 に 増 加 し、1920年 代1100人 程 度 で 安 定 的 に な り 、 昭 和 恐 慌 期 で あ る1930年 代 に 急 激 な 増 加 を み て い る 。 児 童 数 の 急 激 な 増 加 は 、 経 済 的 困 窮 に 伴 う 崇 仁 校 区 や 隣 接 ス ラ ム へ の 流 入 人 口 の 増 加 を 反 映 して い る も の と 考 え られ る が 、 経 済 的 な 変 動 に よ る 地 域 の 流 入 な ど 不 安 定 な 状 態 を 示 して い る 。 第 三 に 、 出 席 率 に か か わ っ て 児 童 労 働 や 子 守 、 中 途 退 学 の 問 題 で あ る 。 この 傾 向 は 、 「相 対 的 安 定 」 と い わ れ る1920年 代 に お い て も 残 っ て い る 。 1923年 度 卒 業 生 の 欠 席 日 数 の 状 況 は 、 学 年 が 進 む に つ れ て 平 均 出 席 日数 が 減 っ て い っ て い る 。 具 体 的 に は 、 出 席 率 は 第1学 年93.0%、 第2学 年 92.4%、 第3学 年91.9%、 第4学 年90.1%、 第 5学 年86.6%、 第6学 年72.6%と な っ て い た7。 第4学 年 ・第5学 年 ・第6学 年 と 「永 欠 」 お よ び 「退 学 」 が 現 れ 増 加 し て い る 。 と りわ け 、 第6学 年 に お いて は 「欠 席 」 「永 欠 」 「退 学 」 は 顕 著 で あ る 。 こ の 事 実 も ま た 、 家 事 労 働 や 部 落 産 業 に 組 み 込 ま れ て い っ た も の で あ ろ う 。1939年 の 調 査 に よ れ ば 、 崇 仁 小 学 校 校 区 の16歳 以 上 の 者5324人 中 、 「無 教 育 者 」1637人(30%)、 「尋 常 小 学 校 中 退 者 」 1027人(20%)で あ り 、 両 者 合 わ せ て2664人 (51%)で あ る と 報 告 さ れ て い る 。1939年 の 崇 仁 学 区 住 民 の ほ ぼ 半 数 ま で が 、 教 育 を十 分 受 け る こ と が で き て い な か っ た の で あ る 。 こ う し た 一 連 の 事 実 は 、 児 童 が か ろ う じて 崇 仁 小 学 校 に 在 席 し た と して も、 家 庭 の 貧 困 な 経 済 状 況 の 中 で 、 中 途 退 学 、 不 就 学 を 余 儀 な く さ れ る 事 例 を 示 し 、 そ の こ と は 児 童 の 能 力 の 発 達 が 押 し と ど め られ る こ と に繋 が っ た と考 え られ る 。 第 四 に 、 学 校 維 持 費 の 大 部 分 が 学 区 の 負 担 に 依 存 させ られ る 状 況 が あ り 、 校 区 の 経 済 的 状 況 を 直 接 に 反 映 す る も の とな る こ と か ら、 教 材 教 具 、 学 校 設 備 な ど の 教 育 条 件 の 整 備 、 教 育 内 容 や 方 法 、 学 校 運 営 に精 通 し た 教 師 の 存 在 な ど 、 教 育 を 発 展 さ せ る 条 件 を そ ろ え る こ と の 困 難 が 存 在 して い た と 考 え られ る 。 以 上 、 崇 仁 小 の 学 校 運 営 や 教 育 実 践 の 基 盤 と な る 教 育 条 件 に つ い て(1)児 童 の 生 育 歴 上 の 課 題 、 (2)在 籍 児 童 の も つ 経 済 的 文 化 的 条 件 、(3)教 育 行 政 ・教 員 配 置 上 の 差 別 が 指 摘 さ れ よ う 。 そ の 劣 悪 な条 件 を 乗 り こえ て 教 育 を成 り立 たせ る た め には 、 児 童 の 生 活 基 盤 に働 き か け る所 謂 社 会 改 革 の 課 題 に対 応 す る教 師 の 主 体 を 形 成 す る こ と 、 さ ら に は 、 教 育 課 題 と して 生 活 の 問 題 を 位 置 づ け 、 引 き 取 り、 そ れ に 応 え る 教 育 指 導 の 内 容 や 方 法 を 鍛 え 上 げ る こ とで あ っ た と 考 え られ る 。 教 師 の 意 識 の 改 革 と社 会 運 動 崇 仁 小 の 教 育 と崇 仁 学 区 の 「融 和 事 業 」 の 推 進 力 と な っ た の は 崇 仁 小 の 教 師 達 で あ る 。 自 明 の こ と の よ う に思 わ れ る こ の 事 実 の 背 後 に は 、2つ の 課 題 を 遂 行 して ゆ く に あ た っ て の 教 師 の 主 体 形 成 が な け れ ば な らな か っ た 。 校 長 伊 東 は 、 「教 師 の 頭 を改 造 し 、 改 造 せ ら れ た る 教 師 は 熱 と 愛 を 以 て 差 別 の非 を 児 童 に 教 授 」 しな けれ ば な らな い と述 べ 、 教 師 の 意 識 の 改 革 を 課 題 と し た 。 崇 仁 小 の 教 師 の 思 想 と行 動 を 反 映 して い る 史 料 と して 『日宿 直 日誌 』(1924年 ∼1946年)が あ る 。 『日誌 』 は 、1932年 頃 ま で は 、 比 較 的 自 由 に 教 師 の意 識 と行 動 を 反 映 して い る と み られ る 。 そ の 『日 誌 』 に よ れ ば 、 初 期(1924年 ∼1927年 頃)、 教 師 の 中 心 的 テ ー マ は 教 師 の 生 き 方 の 問 題 で あ っ た 。 そ の 中 心 に な っ た の は 、 有 馬 良 治 、 土 屋 克 己 、 福
田 武 雄 、 堀 文 雄 、 南 弘 、 磯 谷 玄 松 らの 若 手 教 師 達 で あ る 。 特 に 、1925年4月 に 有 馬 が 着 任 し た こ ろ か ら活 発 に な っ て い く 。 有 馬 を 中 心 と し て 崇 仁 小 内 部 に 「ペ ス タ ロ ッ チ ー 会 」 が つ く ら れ 、 「ペ ス タ ロ ッチ ー の 貴 き 生 涯 を 思 ふ と き 、 是 に 人 生 の 実 在 と教 育 の 実 在 を 見 出 す 」 こ と を 合 言 葉 に 、 ペ ス タ ロ ッチ ー の 生 涯 と 教 育 思 想 の 中 に 自 らの 生 き 方 と教 育 の 在 り方 を見 よ う とす る 。 そ こで の 特 徴 は 、 ペ ス タ ロ ッ チ ー の 思 想 と現 実 の 自己 の 教 育 活 動 を 重 ね 合 わ せ 、 自己 を 鞭 打 つ 中 で 、 「熱 と愛 」 を 希 求 す る こ とで あ っ た と み ら れ る 。 「(前略)率 直 に 言 ふ と き 自 分 は 一 週 間 の 中 で 何 時 間 自分 の 生 命 を 捧 げ て 児 童 の 前 に 立 つ こ と が あ る か 。 一 時 間 だ っ て 燃 ゆ る が 如 き 教 育 愛 を 以 て 児 童 に 向 か っ た 事 が あ る か 、 子 供 達 の 為 め に 、 彼 等 の 成 長 の 為 め に 、 深 く考 え た 事 が あ る か …(中 略) … 私 は 立 た な くち ゃ な ら な い 。 努 力 しな けれ ばな らな い 」 「(前略)夢 と ペ ス タ ロ ッチ ー の 緊 張 な 追 憶 は 続 け られ た が 、 然 も 修 養 の 足 りな い 僕 自 ら迷 盲 に 走 る 事 の 甚 だ 多 し き や と 云 ふ 様 な 感 が 起 こ っ た 。 ペ ス タ ロ ッチ ー が 『兄 弟 進 め 』 と云 ふ た 彼 の 言 葉 は 意 味 深 く 矢 張 り僕 た ち を 蓋 ふ の で あ っ た 」8 し か し 、 「熱 と 愛 」 は 叫 ぶ だ け で は 豊 か な 内 実 を 持 ち 得 な い 。 か く し て 教 師 は 、 そ の 内 実 を 獲 得 す る た め の 「修 養 」 に駆 り立 て られ て ゆ く。 有 馬 は 、 「我 々 の 経 験 の 深 さ に よ っ て の み 他 人 の そ れ を 深 化 を 訴 え る。 「経 験 」 とは 、 「わ れ 如 何 に 生 くべ きか 、 わ れ 何 に た よ りて 救 わ る る か …(中 略)… か く て ま で 血 み ど ろ な 切 実 な 要 求 に も え 」 た 「宗 教 」 的 体 験 を 意 味 し て い る 。 福 田 武 雄 は 、1926年 「人 は 自分 自身 を否 定 す る所 か ら始 め な け れ ば な らな い」 と述 べ 、 一 週 間 余 に わ た る 断 食 を 行 い 、 そ の 後 、 求 道 の 旅 に 出 た9。 教 師 間 で は 向 上 会 が で き 、 「心 の 浄 化 」 と 称 し て 水 を か ぶ る 営 為 を行 う者 が で た 。 こ う し た 行 的 生 活 の 中 、 「心 の 浄 化 」 過 程 で 、 「愛 は 貧 に 輝 く 」 と して 「教 育 愛 」 「児 童 愛 」 が 獲 得 さ れ る と志 向 さ れ た の で あ る 。 一 方 「熱 と愛 」 を 強 調 し 、 「修 養 」 に よ って 自 己 を 鞭 打 て ば 打 つ 程 、 自 己 の 置 か れ た 状 態 に つ い て 思 い 悩 ま ざ る を得 な い 側 面 も あ っ た 。 「国 家 の 奴 隷 と し て 機 械 の 如 く 働 け ど …(中 略) ・・然 も何 時 斬 首 さ れ る か も知 れ ざ る 状 態 に 置 き て 、 果 し て 真 理 の 為 の 教 育 、 教 育 の 為 の 教 育 の 行 は る や …(中 略)… 我 れ 如 何 な る 道 に 進 ま ん や 。 そ れ 真 教 育 は な せ ざ る か 。 将 革 命 か 、 将 隠 遁 か 、 或 い は 妥 協 か 」 と10。 こ う し た 一 連 の 修 養 や 悩 み を 底 流 と し て 、 崇 仁 小 の 教 師 達 は 、 有 馬 を 代 表 と して 「児 童 愛 」 を基 礎 に した 、 個 性 認 識 の 重 視 とそ の 観 点 か ら の 社 会 批 判 と い う教 育 認 識 を 獲 得 ・表 明 す る に 至 っ た11。 有 馬 は 、 ペ ス タ ロ ッ チ ー 研 究 と 同 時 に12、 眼 前 の 子 ど も た ち の現 実 に対 し て 教 育 に よ る社 会 の 改 造 を志 向 し よ う とす る 。 「ペ ス タ ロ ッ チ ー に復 れ 」 は そ の こ と を 示 して い る 。 「わ れ わ れ の 従 来 の 愛 し来 た っ た 所 の も の は 、 教 育 や 児 童 に 非 ず し て 、 寧 ろ 「教 育 愛 」 「児 童 愛 」 な る言 葉 乃 至 概 念 で は な か っ た か 。 真 実 に 教 育 を 愛 し 、 児 童 を 愛 す る な ら ば 、 今 少 し く教 育 乃 至 児 童 に対 す る 理 解 が 深 ま らね ば な らぬ 筈 だ 。 軍 事 費 に 対 す る 教 育 費 の 如 何 に 貧 弱 な る か を 見 よ 。 教 育 界 に は 幾 多 の 取 り残 さ れ て 、 しか も何 の 日か 取 り 上 げ られ る か 、 予 測 だ も 出 来 な い 重 大 問 題 が あ り す ぎ る 位 あ る で は な い か 。 状 況 学 校 に 進 み 得 ざ る 児 童 の 六 年 生 の 教 育 も 、 現 状 の 儘 に 委 し て お け な い 問 題 で あ ろ う 。 異 常 児(広 義 の)教 育 問 題 、 国 字 問題 等 々 、 何 れ か 緊 急 問 題 な らざ る も の か あ ろ う。 13」 以 上 の よ う に 、 貧 困 な 教 育 行 財 政 を 批 判 し 、 教 育 費 の 増 額 を 要 求 し、 児 童 の 「個 性 」 が 閑 却 さ れ て い る と して 「個 性 尊 重 」 を 訴 え て い る こ と、 「重 大 問 題 」 と して 、 「上 級 学 校 に 進 み 得 ざ る 児 童 の 六 年 生 の 教 育 」 「異 常 児 教 育 」 「国 字 問 題 」 等 を提 起 し て い る の で あ る 。 こ の 教 育 認 識 は 、 以 後 、 崇 仁 小 の 教 育 実 践 の 中 で 、 問 題 解 決 が は か られ て ゆ く プ ロ グ ラ ム を提 供 す る も の で あ り 、 有 馬 は そ の 模 索 の 先 頭 に た つ こ と と な っ た 。 3.崇 仁 尋 常 小 学 校 に お け る 学 級 編 成 と 特 別 学 級 学 級 編 成 一能 力 別 学 級 編 成 と 特 別 学 級 京 都 市 崇 仁 尋 常 高 等 小 学 校 『本 校 施 設 の 梗 概 』 (1935年4月)に よ る と 、 崇 仁 小 学 校 の 学 級 編 制 は能 力 別 学 級 編 制 が と られ て い た 。 す な わ ち 、 「本
校 の学級 編 制 は能 力別 編制 で あ る。 大正 十 五年 四
月 よ り始 め て今 月 に至 った もの で、新 入 児 に対 し
て大伴 氏 の知能 テス トをうけ させ 、 尚数へ 得 る数、
読 み 得 る仮 名 を調 査 し、 これ らの結 果 を参考 に し
て組分 けを行 って居 た 」 と記 されて い る14。
有 馬 は 、1925年
の 着任 よ り、 崇 仁 小学 校 の教
師 の中で 心 理学 の 学習 会 を組 織 し、 崇仁 小 学校 の
教 育 実践 の あ り方 を議 論 し合 っ て いた。 有 馬 の行
う講 義で は 、 ター マ ンな どの測定 運 動 な どが取 り
上 げ られ て い たよ うで あ る。 この心 理学 や 知能検
査 の検 討 か ら、大友 茂 の知 能検 査 の導入 とそ の結
果 に基づ く能力別学 級編成 の導入が 吟味 されて い っ
た と思 わ れ る。
また、それ にともな って 、特別 学級 も設置 された。
同資 料 には特 別 学 級 につ い て、1935年
の時 点 で
の状況 も含 め て次 のよ うに示 されて い る。
「
我 校は大正 十五年以 来能 力別 学級編 制 を採用 して、
大 いにそ の効 果 を認 めて い るが 、 この編 制 法 を一
層生 かす と共 に、 この優劣 編 制 に よって も残 され
た所謂 厄 介視 され て い る低 能 児童 を、一 学 級 と し
て収 容 して い るの が特 別学 級 で あ る。 この 学級 に
よ って成 績 不 良児 が幸 福 にな る に止 らず 、 更 に之
を学校 全 体 か ら眺 め る と、 これ らの不 良児 が 除か
れた 普通 学 級 の学 習作 業 が如 何 に容 易 に進 め られ
て いるか は言 を侯 たな いの であ る。
本 学級 は 大正 十 五年 に創 設 さ れた が都 合 に よ っ
て翌年 閉鎖 され 、昭和 七年 四 月復 活 され た もので、
現 在 は二 年 七名 、 三年 六 名、 五年 四 名 、六 年五 名
の計二 十五 名 を収容 して いる。
今 そ の 収容 児 童 を見 る に 、知 能 指 数70以 下 の
者 が大 多数 で、そ の原 因 は幼時脳 膜炎 を患 い し者、
発 育 不 良、栄 養 不 良 、或 は父 母 の精 神薄 弱 や遺 伝
性 病 に よ る者等 で 、家 庭貧 困 で学 用 品や 衣 服 の供
給 を うけて い る者 が二 十 名 ある 。彼 等 は先 天 的 に
も環 境か ら も恵 まれ な い児 童 で 、学 業 の進 展遅 々
た るは止 む を得 な い ので あ る。 され ば知 識 の習 得
とい う事 よ りも、卒業 後 の善 良な人 として の教 育、
馬 鹿 といわ れて 他 人か らダマ さ れ る ことが あ って
も よい、 人 間 らしい う るお いの あ る人へ の 教育 に
重 きをお い て 、余 り学 科 に躍 起 にな らず 、 の んび
りと学習 して い る。彼 等 は陰 欝 にな りが ち で あ る
か ら学 校 生 活 を愉 快 に さ せ 、 明 る い 伸 び 伸 び と し た 子 供 に な る よ う経 営 し て い る 。」 特 別 学 級 の 在 籍 児 童 に 関 連 して 、 器 質 的 障 害 や 発 育 不 良 、 そ して 劣 悪 な 生 育 環 境 や 貧 困 の 下 に あ っ た こ とが 、1935年 時 点 で の 説 明 か ら明 らか で あ る 。 こ れ を 、 有 馬 が 実 践 を 行 っ た 時 期 で あ る 、1927 年 頃 に 即 し て 、 崇 仁 小 学 校 区 の 全 般 的 貧 困 と 児 童 の 生 育 歴 上 に 困 難 を 確 認 し て お こ う。 京 都 市 教 育 部 社 会 課 は 「不 良住 宅 密 集 地 区 に 関 す る 調 査 」 を 、 1927年 に 行 っ て い る 。 こ の う ち 乳 幼 児 の 死 亡 を 典 型 と して あ げ て み る と 、 崇 仁 地 区 の 死 産 数26人 、 乳 幼 児 死 亡 数144人(1歳 未 満 か ら6歳 迄)で あ っ た 。5歳 迄 の 乳 幼 児 の 死 亡 理 由 は 、 肺 炎52人 、 脳 膜 炎19人 、 発 育 不 全14人 、 消 化 不 良10人 、 脚 気9人 、 胃 腸 カ タ ル8人 、 栄 養 不 良7人 、 気 管 支 炎7人 、 腹 膜 炎4人 、 そ の 他13人 と な って い る 。 1927年 の 調 査 に 基 づ い て 全 市 と崇 仁 地 区 の 比 較 を して み る と 、 崇 仁 地 区 の 出 生 数 の 全 市 に 占 め る 割 合 は1.1%、 死 産 数 は2。6%、 そ して 乳 幼 児 死 亡 数 は3.3%と な っ て お り、 死 産 及 び 乳 幼 児 死 亡 は 2倍 か ら3倍 以 上 に な っ て い る こ とが わ か る。 ま た 、 1927年 の 出 生 数 は183人 で あ り、1歳 未 満 の 乳 児 の 死 亡 数 は96人 と な っ て い た こ と か ら 、 母 子 保 健 と地 域 の衛 生 状 態 の 劣 悪 さ を示 す も の とい え る 。 乳 幼 児 死 亡 は 氷 山 の 一 角 で あ り 、 地 区 の 乳 幼 児 ・ 児 童 の 栄 養 不 良 ・病 弱 ・障 害 の 早 期 固 定 化 等 児 童 の 発 達 上 の 問 題 傾 向 に 繋 が りが ち で あ ろ う と 思 わ れ る 。 こ こ に 、 有 馬 ら の 「特 別 学 級 」 設 置 の 客 観 的 な 基 盤 が あ っ た と い え よ う15。 有 馬 良 治 に よ る 「特 別 学 級 」 の 模 索 と 発 信 有 馬 は 、1926年 度 の 学 級 編 成 に お い て 「特 別 学 級 」 の 設 置 を校 長 伊 東 に 懇 願 し 、 特 別 学 級 を組 織 し た 。 当 時 は 、 「特 別 学 級 」 の 設 置 に つ い て は 教 師 の 配 当 は な く、 学 校 の裁 量 で 行 う こ と と な っ て い た の で 、 校 長 と 同 僚 教 師 の 理 解 が 得 られ な け れ ば 容 易 に設 置 す る こ と は 出 来 な い も の で あ っ た 。 校 長 伊 東 が 、 「君 は 満 身 の 熱 と愛 と を 傾 倒 し て 之 に 當 つ た の で あ る が 、 然 し これ は 形 の 上 で は 失 敗 に終 わ っ た とい っ て よ い 」 と指 摘 して い る よ うに 、 有 馬 に よ る 「特 別 学 級 」 の 取 り組 み は 明 確 な 実 りを も た ら した わ け で も 、 そ の 後 に 継 続 す る も の で も な か っ た 。 有 馬 の 実 践 の 模 索 は ど の よ う な も の だ っ た か を 知 り得 る 史 料 は 極 め て 少 な い 。 わ ず か に残 さ れ た 有 馬 の 遺 稿 な ど か ら、 特 別 学 級 の 取 り 組 み と して 認 め られ る も の を摘 記 し て み よ う 。 1926年(大 正15)年4月 に 特 別 学 級 が は じ め て 設 置 さ れ 、 そ の 担 任 と な っ た 有 馬 は 、 ま ず 、 「学 校 には 不 似 合 な児 童 用 の机 」 ま で 考 案 し、 新 調 して 、 学 級 で の 実 践 に あ た っ た が 、1927年1月9日 に は こ の 特 別 学 級 は 解 散 し て い た 。 こ の解 散 の 際 の 様 子 につ い て 次 の よ う に記 して い る 。 「一 昨 日の 書 食 時 間 に 皆 様 の 御 諒 解 を 得 て 、 昨 日 か ら學 級 を 解 散 し て 無 任 所 と い う こ と に して い た だ い た 。 子 ど も た ち を か な り安 心 して 手 放 せ る よ う に な っ た こ と は 嬉 し い 。 しか し子 ど も た ち とわ か れ る の は つ らか っ た 。 子 ど も た ち が 嬉 々 と して 他 の 學 級 に 行 く の を見 る に つ け て も 、 ま た 行 き 澁 る の を見 る に つ け て も。 煩 悩 の 醜 さ!煩 悩 の 美 し さ!そ れ ぞ れ 送 りつ け る と 早 一 時 限 も 終 わ り に 近 づ い た 」(『 日宿 直 日誌 』1927年1月26日)16 こ の 特 別 学 級 の 解 散 は 、 特 別 学 級 が 学 校 の 中 で 位 置 つ か な か っ た こ と を 意 味 す る も の で は な く 、 ま た 、 有 馬 自 身 の 特 別 学 級 の 促 進 へ の 意 欲 の 後 退 を 意 味 す る も の で も な か っ た 。 こ の こ と は 、1927 年1月11日 の 『日宿 直 日 誌 』 に 有 馬 が 「カ ネ テ 起 草 方 ヲ委 任 セ ラ レ ヰ ル 特 殊 教 育 促 進 ノ タ メ ノ激 文 ヲ 認 ム 」 と 記 述 して い る こ とか ら も確 認 で き る 。 ま た 、 同年1月18日 の磯 谷 玄 松 の 記 述 に よ る 『日 宿 直 日誌 』 に は 、 「午 後 二 時 ヨ リ大 阪 の 野 村 教 育 研 究 所 ヨ リ大 伴 氏 来 校 サ レ教 育 診 断 ノ 必 要 範 囲 方 法 等 二 就 キ 懇 切 二 然 モ 有 益 ナ ル 講 演 ア リ テ 弥 栄 皆 山 校 長 等 ヲ 初 メ 市 内 特 別 學 級 担 任 ノ 面 々 来 校 サ ル 。 樂 只 校 ノ先 生 有 馬 先 生等 ト十 時 頃 マ デ 話 ス 」 と あ る 。 有 馬 は 、 学 級 担 任 を は ず れ て 以 後 、1927年2 月17日 、 「ペ ス タ ロ ッ チ ー100年 祭 」 の 開 催 と増 補 版 パ ン フ レ ッ トの 発 行 、 滋 賀 師 範 や 豊 橋 市 教 育 会 で の ペ ス タ ロ ッチ ー に 関 す る 講 演 を行 っ て い る 。 ま た 、 ペ ス タ ロ ッ チ ー100年 祭 に 関 連 し て 、 「特 別 児 童 教 育 促 進 運 動 」 に つ い て も 「同 士 の 糾 合 を 説 い て い た(以 下 の 「向 山 宛 書 簡 」)。 「特 に 特 別 児 童 教 育 促 進 運 動 に だ け は 少 な く と も ご奮 起 の 程 お 願 ひ 申 し た い の で す が 。 「低 能 児 劣 等 児 の 心 理 及 び 其 の 教 育 」 の 著 者 、 青 木 誠 四 郎 氏 も 奮 起 し て 下 さ い ま し た 。 そ して 近 く に相 談 相 手 が 欲 し い とお つ しや つ た の で 、 學 兄 を ご推 薦 申 し 上 げ ま し た 所 、 「向 山 氏 に 學 兄 か ら 、 私 の と こ ろ へ 一 度 夜 分 に で もで か け て 下 さ る や う お 傳 へ 下 さ い ま せ 。」 と い つ て ま ゐ り ま し た 。 ど う ぞ 御 多 忙 で も ご ざ い ま せ うが 、 そ の 中 一 度 是 非 お 出 か け 下 さ い 。 な ほ 深 川 川 南 小 學 校 の 特 別 教 室 憺 任 の 田 中 邦 太 郎 兄 は も と本 校 訓 導 で す 。 機 会 が あ り ま し た ら 、 ゆ る ゆ る 御 面 談 下 さ い 。 部 落 問 題 に も造 詣 深 く熱 心 な 人 で す 」17 さ ら に 、 そ の 年 度 末3月 に 起 こ っ た 奥 丹 震 災 の 被 害 地 へ 京 都 童 話 教 育 研 究 会 の 一 員 と し て 慰 問 に 回 っ て い る 。 そ の 際 に も 、 特 別 教 育 促 進 の た め の パ ン フ レ ッ トの 序 文 を小 西 重 直 に 要 請 して い る18。 続 い て 、1927年4月 よ り、 有 馬 は 、 再 度 、 特 別 学 級 担 任 と な っ た 。 こ の 時 も実 践 の 期 間 は 長 く は な く 、1927年4月 か ら6月1日 ま で の2ヶ 月 余 りで あ る 。 こ の 時 の 特 別 学 級 解 散 は 、6月7日 よ り、 京 都 市 の 学 事 視 察 と し て1ヶ 月 東 京 方 面 に 出 張 す る こ と と な っ た か ら で あ る 。 「特 別 学 級 」 の 解 散 の 際 に 保 護 者 に 対 し て 有 馬 が 記 し た 文 章 が 、 「親 心 」 と題 され た も の で あ る(『 崇 仁 教 育 』 所 収) 19 0 そ れ は 六 月 六 日 、 市 の 命 令 で 一 ヶ 月 程 東 京 に 出 か け な け れ ば な らな い と い ふ 前 の 日 の こ とで し た 。 私 の 組 は 、 遺 憾 な が ら、 そ の 間解 散 して 子 供 達 は、 皆 そ れ ぞ れ の 學 級 に 一 時 お 預 け しな け れ ば な らな い こ と に な り ま し た の で 、 お 別 れ の 意 味 で 、 子 供 達 の お 伴 して 動 物 園 に参 りま し た 。 初 め キ ャ ッキ ャ ッ と 嬉 し さ う に 「猿 だ 。」 「ラ イ オ ン だ 。」 と は ね ま わ つ て ゐ ま し た 子 供 達 も 、 や が て 一 巡 し 終 る 頃 は 、 も う大 分 見 あ き 、 歩 き く た び れ て ゐ ま し た 。 帰 り に は 南 禅 寺 前 の 方 に ま は り ま し た 。 「今 度 帰 つ て 来 た ら 、 ど こ に 行 き ま せ う 。」 「又 動 物 園 に つ れ て 来 て 下 さ い や 。」 「さ う し ま せ う ね 。」 な ど 話 し な が ら外 に 出 よ う と し た 時 で し た 。 「あ の 鶴 は 、 生 ま れ て か ら今 や つ と二 十 日 に な る の で す 。 御 覧 な さ い 、 親 鳥 が 小 鳥 に 食 べ さ せ る た め 、 あ あ し て 鱈 を や は ら か く し て ゐ ます 。」 親
切 に も 、 動 物 園 の 係 の 人 は 、 か う教 へ て 下 さ い ま し た 。 見 る と 、 池 の ふ ち に お 父 さ ん 鶴 と、 お 母 さ ん 鶴 ら し い の が 二 羽 、 か た み が は り に 、 鱈 を は さ ん で ゐ ます 。 し ば ら くす る と 、 水 の 中 に 放 ち ま す 。 そ して は 取 り上 げ て 、 う ま ず 同 じ事 を続 けて ゐ ます 。 決 して 鱈 を な ぶ つ て ゐ る や うな 、 そ ん な 人 を 食 つ た 態 度 で は あ り ま せ ん 。 お な か を す か した 赤 ち ゃ ん 鶴 に 、 早 く や は ら か に し て 、 食 べ さ せ て あ げ た い と い つ た 面 持 で す 。 「ま だ で せ う か 。」 「も う 少 し だ な 。」 「さ あ こ れ で ど う だ ろ う。」 「折 角 の こ と に も う少 し。」 と で も い つ て ゐ る や うで す 。 私 は す つ か り打 た れ て し ま ひ ま し た 。 子 を 思 ふ 親 心 。 「畜 生 のや う な 。」 な ど 、 ど う して い へ よ う 、 鳥 や 獣 で も か く も有 難 い 美 し き 親 心 。 お 父 さ ま 、 お 母 さ ま 、 此 の 親 心 な く し て は 、 人 の 子 の 教 育 は 出 来 つ こ あ り ませ ん 。 教 育 と は 、 読 方 や 算 術 を 、 教 へ こ む こ と だ け で は な い で せ う。 人 間 ら し い 人 間 に す る こ と 、 これ が 何 よ り 大 切 な こ と で せ う 。 も つ て 生 れ た 人 間 ら し さ をそ こ な は ず 、 ず ん ず ん の ば し て い か ね ば な り ま せ ん 。 そ れ に は 温 い 親 心 で 抱 き し め て や らね ば な り ま せ ん 。 さ う す る と 、 子 供 の 教 育 に は そ の 親 に ま さ る 教 育 者 は な い と い ふ 事 に な り ま す 。 全 く さ う で す 。 世 の お 父 さ ま 、 お 母 さ ま 、 あ な た 方 が あ な た 方 の お 子 さ ま を 立 派 に 育 て 上 げ な さ る 事 は 、 正 に 皆 さ ま の 何 よ り の 義 務 で も あ り、 又 誰 よ り も 最 適 者 な の で す 。 こ の こ と を 十 分 わ か つ て い た だ き た い 。 私 共 教 師 は 、 却 て 皆 さ ま の 親 心 を み な らつ て 、 四 十 、 五 十 、 時 に 六 十 近 く の お 子 た ち の 相 手 を し て ゐ る の で す 。 そ れ も 一 日 の 中 、 数 時 間 だ け 、 十 分 の 事 が 出 来 よ う 筈 が あ り ま せ ん 。 近 頃 の 人 は 、 教 育 と い へ ば 學 校 の 事 を 思 ふ 程 、 學 校 教 育 に対 し て 、 一 種 の 迷 信 を も つ て ゐ ま す 。 し か し人 間 教 育 全 般 に於 い て 、 學 校 教 育 の 演 ず る 役 割 は 、 果 た し て ど れ 位 の も の で せ う か 。 大 い に 反 省 す べ き 問 題 だ と 思 ひ ま す 。 思 は ず 、 お し ゃ べ り し ま し た 。 お 父 さ ん 鶴 と お 母 さ ん 鶴 は 、 今 日 も 黙 々 と し て 赤 ち ゃ ん 鶴 の た め 、 鱈 を か た み が は り挟 ん で は 、 や は ら か に して ゐ る こ と で せ う。 親 心 、 叡 智 に か が や け る 親 心 、 こ れ の み が 人 の 子 を 教 育 し得 る で あ りま せ う。(終) 有 馬 は 、 「教 育 と は 、 読 方 や 算 術 を 、 教 へ こむ こ と だ け で は な い 」 「人 間 ら し い 人 間 にす る こ と、 これ が 何 よ り大 切 な こ と 」 「も つ て 生 れ た 人 間 ら し さ を そ こ な は ず 、 ず ん ず ん の ば し て い か ね ば な り ませ ん 」 と述 べ 、 学 校 教 育 の 限 界 を 示 しな が ら、 叡 智 に 輝 け る 「親 心 」 に よ る 「人 間 教 育 全 般 」 の 必 要 を 訴 え て い た 。 同 時 に 、 有 馬 は 、 特 別 学 級 の 設 置 促 進 運 動 に つ い て は 、 重 要 な 役 割 を担 って いた 。 この 学 事 視 察 も、 特 別 学 級 の 教 育 の 充 実 の た め の 研 修 を 目 的 とす る も の で あ っ た と考 え ら れ る 。1927年6月 の 学 事 視 察 に 際 し て 、 友 人 に 送 っ た 「東 京 だ よ り」(第 四 信 、1927年6月16日)に は 、 東 京 高 等 師 範 学 校 附 属 小 学 校 の 第 五 部(補 助 学 級)の 参 観 見 学 に 時 間 を 割 い て い る 様 子 が う か が わ れ る 。 「東 京 だ よ り」 に は 、 次 の よ う に 記 して い る 。 「(子供 を は な れ た 教 師 は 水 を 離 れ た 魚 も 同 じ で す ね 、 ど こ の 子 供 に も お 客 様 扱 ひ)そ こ へ 行 く と 高 師 の 第 五 部 の 子 供 た ち だ け は 又 別 で す ね 。 金 土 日 と行 か ず に 月 曜 日 に 行 く と こ の 二 三 日は ど う し て 来 な か つ た の と 、 た つ ね て くれ ま し た 」 こ の 当 時 、 東 京 高 等 師 範 学 校 附 属 小 学 校 の 第 五 部 は 、 「補 助 学 校 」 と し て 独 立 す る 方 向 を も ち な が ら、 男 女 混 合 の 補 助 学 級2学 級 で の実 践 で あ った 。 こ の 時 期 は 、 入 級 に お い て は 、 知 能 検 査 を導 入 し て い た が 、 入 級 児 童 は 比 較 的 軽 度 な 子 供 が 選 定 さ れ て い た と い わ れ て い る20。 し か し 、 東 京 へ の 学 事 視 察 の 成 果 の ま とめ を 世 に 問 う こ とな く 、1927 年 夏 、 有 馬 は 胸 を患 い 、9月 に は 大 学 病 院 に2ヶ 月 ほ ど入 院 す る こ と と な っ た 。 有 馬 の 特 別 学 級 は 解 消 さ れ た ま ま で 学 級 の 担 任 に復 帰 す る こ とな く、 同 年 、11月 に は 崇 仁 尋 常 小 学 校 を 一 時 退 職 し た 。 有 馬 は 、 教 職 へ の 思 い 立 ち き れ ず 、 再 度 、 崇 仁 小 学 校 に 代 用 教 員 と して 復 帰 、 卒 業 後 上 級 学 校 に 進 ま な い 六 年 生 を 担 任 し 、 「勤 労 学 舎 」 を起 こ す も 、 1928年5月 、 病 が 再 発 し 、 同 年7月31日 に 再 び 退 職 。 鹿 児 島 に て 静 養 、 一 時 京 都 に 帰 洛 す る も 、 1929年6月 に鹿 児 島 に 帰 郷 し 、1930年1月 に 永 眠 し た 。 4.有 馬 良 治 か ら受 け 継 が れ た も の 伊 藤 茂 光 校 長 と 障 害 の あ る 子 ど も
校 長 伊 東 は 、 有 馬 が 崇 仁 小 学 校 の 代 用 教 員 とな っ た1925年4月 に 、長 男 を崇 仁 小 学 校 に入 学 さ せ た 。 長 男 は 、2歳 の 時 に 小 児 マ ヒ に か か り 、 回 復 後 も 左 足 が 不 自 由 で あ っ た と い う 。 異 例 な こ と に 、 校 長 は こ の 長 男 を 、 過 酷 な 生 活 実 態 の あ る 崇 仁 小 学 校 に 入 学 さ せ て 鍛 え よ う と した 。 こ の 担 任 と な っ た の が 、 堀 文 雄(後 の 高 宮 文 雄)で あ り、6年 間 の 持 ち 上 が り で 、 卒 業 さ せ て い る 。 そ の 卒 業 と 中 学 校 へ の 進 学 を 見 届 け た 高 宮 は 、1932年4月 よ り崇 仁 小 学 校 の 「特 別 学 級 」 を 再 開 させ 、 そ の 担 任 と な っ た 。 高 宮 の と り ま と め に よ り 、1930年 1月 に 亡 く な っ た 有 馬 の 遺 稿 集 は 、1932年1月 に 刊 行 さ れ た 。 貧 困 へ の 取 り組 み 一 方 、大正末期か ら慢性不 況化 した 日本の経済 に、 1927年 金 融 恐 慌 、1929年 世 界 大 恐 慌 が 起 こ り 、 経 済 的 危 機 を 深 刻 化 さ せ た 。 こ の 危 機 は 経 済 的 基 盤 が 脆 弱 な 崇 仁 地 区 を 疲 弊 さ せ 、 そ こ に 根 ざ す 教 育 を危 機 に お と し こめ た 。 「愛 は貧 に 輝 く」 と述 べ 、 「熱 と 愛 」 を 主 張 し た 崇 仁 小 教 師 達 は 、 こ の 危 機 に よ っ て 実 践 的 に た め さ れ る こ と に な っ た 。 第1 に 表 面 化 し た の は 、 学 用 品 購 入 困 難 な 児 童 、 お よ び 欠 食 児 童 の 急 増 で あ る 。 『日 誌 』 に よ れ ば 、 1928年 夏 か ら崇 仁 小 の 教 師 ・教 育 後 援 会 ・同 窓 会 は 、 ほ と ん ど 毎 日 の よ う に 、 欠 食 児 童 の た め の 給 食 実 現 の 資 金 づ く りの 行 商 活 動 を 行 っ て い る 。 第2に 表 面 化 した こ と は 、 崇 仁 学 区 の 膨 張(流 入 人 口 の 増 大)に と も な う 、 児 童 数 の 増 大 で あ り 、 そ れ に よ る 学 校 経 営 の 困 難 で あ る 。 崇 仁 小 教 師 は 、 1930年7月 、 第2崇 仁 小 設 立 を 意 図 し た 北 海 道 開 拓 現 地 調 査 を行 い、 局面 の 打 開 を 図 ろ う と も し た 。 い ず れ も 「こ の 教 育 行 の 中 か ら ペ ス タ ロ ッ チ ー 教 育 を 理 屈 で は な く 生 き た 姿 で 教 え られ ま し た 」 と 述 壊 さ れ る よ う に 真 摯 な も の で は あ っ た が 、 他 方 「陛 下 の 赤 子 に た っ た 一 人 で も ひ も じ い 思 ひ を さ せ る こ と は 実 に 忍 び な い 」 と い う 認 識 に 基 づ く 、 体 制 内 改 良 の 徹 底 を 意 図 す る も の と な っ た 。 高 宮 文 雄 と 京 都 市 特 別 児 童 教 育 研 究 会 有 馬 の 遺 稿 集 を 編 集 し た 高 宮 文 雄 は 、 昭 和 期 に お い て 「労 作 教 育 」 「学 校 園 」 の 取 り 組 み を お こ
な い、実 践 を ま とめて い る。有 馬 の遺 稿 集 の編 集
と 「
労作 教育 」 な どの 取 り組 み は、 高宮 に 「
特 別
学 級 」担 任 へ歩 み 出す こと を促 す もの とな った と
思 わ れ る。 高宮 は 、特 別学 級担 任 と して 教育 実 践
を行 うと とも に、京 都 市 の特別 学 級担 任 の研 究 会
で ある京 都市 特 別児 童 教育 研究 会 の ま とめ役 と し
て の役 割 を果 た して い くこ と とな る 。京 都市 特 別
児 童 教育 研究 会 の機 関 誌 『
異 常児 教育 』 の創 刊 号
の編集 を担 当 し、 みず か らも 「
特 別 学級 の経 営 へ
の反 省 」 と して実 践 の振 り返 りを行 っ て い る21。
そ こで は、在 りし 日の 有馬 の 「
ペ ス タ ロ ッチ ー に
復 れ 」 を彷彿 と させ る 「
自然 に復 れ 」 との主 張 を
展 開 して いた。
「
特別 児 童 を 自然 に還 せ!と 叫 び た い。 … 自 由な
立 場 に ある特 別 教室 こそ 、普通 児 教育 と何等 変 わ
る こ とな い真 似 事 を廃 して 彼等 の性情 に合致 した
学 習法 を採 用 した い ものだ」
ま とめ にか えて 一京 都 に お ける 「
特別 学級 」 の 形
成 史の 一環 と して
有 馬良 治 の激 し くも短か で 、真 摯 な教 育実 践 の
模 索 を跡 づ けて き たが 、有 馬 の特 別 学級 に関す る
ま とま った実 践 や特 別 学級 の設 置 に 関す る主 張 の
記 録 は見 い だす こ とは 難 しか った 。 しか し、そ こ
では 、ペ ス タ ロ ッチ ー か ら生 き方 を学び 、真 摯 に
教 育 につ い て語 り合 い、そ して 当時 の心 理科 学 の
最 前線 を導入 しよ うとす る積極 的 な姿 勢 が あ った
こ とを確認 す る ことが 出来 た。
このよ うな有馬 と崇 仁小学 校 の教 師達 の模索 を、
京 都市 にお ける特 別学 級 の形成過 程 を振 り返 って、
そ の位 置 を確認 して お きた い。
京都 市 の 「
特 別学 級 」が 本格 的 に 開設 され て 行
くの は、1920年 代 の大 正 半 ばで あ る。 この時期 、
昭和 の 初 頭 まで に、 「
特 別 学 級 」 の おお よそ の枠
組 みが形成 された とみ られ る。大正期 、 「
特殊 児童」
の教育 の必 要性 につ いて先 鞭 をつ け た のが藤 井 高
一 郎 で あっ た
。 京都 市 視学 とな った藤 井 は 、米 騒
動 の影 響 か ら社 会事 業 を進 展 させ る必 要 に迫 られ
て 設置 され た京 都市 社 会課 によ って委 嘱 され 、 特
別 市政 が 敷 かれ た京 都 市 に限定 して 、 「
特 殊 児童 」
の 全 数 を 把 握 す べ く 、1921年 か ら1922年 に か け て 「京 都 市 に 於 け る 特 殊 児 童 調 」 を お こな っ て い る22。 こ の 調 査 は 、 京 都 市 の 小 学 校 在 籍 児 童 総 て を 対 象 と し て 、 そ の 中 の 「特 殊 児 童 」 の 実 数 と そ の 比 率 を 算 出 す る こ と こそ 、 こ の 調 査 の 課 題 で あ り 、 内 容 で あ っ た 。 藤 井 は 、 欧 米 の 特 殊 教 育 制 度 を 範 に と り、 「特 殊 児 童 」 数 に 基 づ い て 「実 際 分 別 の 実 数 よ り見 た る 最 低 限 度 の 特 設 希 望 」 と し て 、 こ れ らの 「特 殊 児 童 」 の た め の 「特 殊 機 関 の 充 実 的 建 設 」 を 訴 え た 。 こ こで の 対 策 構 想 の 特 徴 は 、 「特 殊 児 童 」 の 分 類 に 基 づ い て 、 障 害 と そ の 程 度 に 即 対 応 し た 保 護 な い し教 育 概 開 を 設 定 し て い る 点 で あ る 。 この 「特 殊 機 関 」 構 想 は 、 次 の 京 都 市 視 学 城 野 亀 吉 に も受 け 縮 が れ 、 全 国 的 に も発 表 さ れ た も の の 、 「補 助 学校 」等 の単 独 の 施 設 は 実 現ぜ ず 、 「低 能 児 学 級 」(「特 別 学 級 」)も 、1923(大 正12)年 に は 京 都 市 の 各 地 域 区 分 ご と に1校 ず つ 計 画 設 置 さ れ る 予 定 で あ っ た が 、 実 際 は 、 大 正 末 年 ま で 持 ち 越 さ れ た 。 ま た 、 藤 井 は 、1922年7月 、 京 都 市 の 各 小 学 校 長 や 教 職 員 を 対 象 と し て メ ン タ ル テ ス トの 講 習 会 を 企 画 し 、 精 神 検 査 法 ・知 能 検 査 に つ い て の 講 習 を 行 い 、 そ の 成 果 を パ ン フ レ ッ ト と して 公 刊 し た23。 これ ら に 基 づ い て 、 知 能 検 査 な ど の 導 入 す る こ と が で き 、 そ れ が 「特 別 学 級 」 の 設 置 を 促 す も の とな っ た 。 大 正 末 年 ま で の 時 期 に 「特 別 学 級 」 を 設 置 し た 小 学 校 は 、 成 徳 小 学 校 、 七 条 小 学 校 、 桃 園 小 学 校 、 弥 栄 小 学 校 、 養 正 小 学 校 、竜 野 小 学校 、 崇 仁 小 学 校 、 師 範 附 属 小 学 校 の8校 で あ る 。 京 都 市 社 会 課 が 対 策 と し て 提 起 し た こ と か ら 「特 別 学 級 」 設 置 に あ た って は 行 財 政 的 援 助 が あ っ た と い わ れ て い る が 、 しか し 、 各 小 学 校 に お い て 「特 別 学 級 」 の 意 義 が 理 解 され な け れ ば 設 置 さ れ る 所 ま で 行 か な い で あ ろ う 。 で は 、 設 置 さ れ た と こ ろ で の 「特 別 学 級 」 の 意 義 は ど の よ う な も の と み な さ れ た の か 。 京 都 市 の 最 初 の 「特 別 学 級 」 設 置 とな っ た 成 徳 小 学 校 校 長 斉 藤 千 栄 治 は次 の5点 か らそ の 意 義 を述 べ て い る24。 ① 人 道 上 よ り一 正 常 児 と 平 等 に 人 格 を認 め る こ と /吾 人 と 同 様 の 幸 福 を 得 し め ん とす
② 刑事 上 よ り一社 会 の 犯罪 行為 を減 少せ ん とす/
社 会 の犯罪行 為 を未 然 に妨減 せん とす
③ 社会 政 策 上 よ り一 生 食 して家 庭 の 厄介 者 とな ら
しめ ざ らん とす/適 当な 職業 に就 か しむ
④ 経済 政 策 上 よ り一 社 会 の被 る物 質 的損 害 を減 少
せ ん とす
⑤ 教育 能 率増 進 上 よ り一個 性 と能 力 に適応 した る
教 育 を徹 底せ ん とす/普 通 学級 に於 け る負担 力 を
軽減 せ ん とす
「
特別 学級 」設置 は、人道上 の課題で あ りな が ら、
教 育 的な 課題 と とも に社 会 政策 や 刑事 上 の課 題 を
も包摂 し、社 会 な い し国家 防衛 論 的見 地 か ら意 味
づ け がな され て い る。 この文脈 か ら、水 平運 動 の
渦巻 いて いた学区 を校 区 とす る崇仁小学校 にも 「
特
別 学級 」 が設 置 され て いた こ とも了解 され るで あ
ろ う。
大正 昭 和初 期 、設 置 され た 「
特 別学 級 」 の担任
にな った 教 師 の経歴 や 教育 観 な どの詳 細 は末 だ 明
らか にな っ て はいな い。誰 が 「
特 別学 級 」 の担任
にな った の か さえわ か って い な い場合 もあ る。今
後 の研 究 の課 題 で はあ るが 、担 任 が 、 この種 の 教
育 の担 任 に な ってか らは じめ て取 り組 ん だ ことは
容易 に推察 し得 る。 「
特別学級」で の取 り組 みも個 々
の教師 の試行 錯誤 に任 され てい た もの と思 われ る。
有 馬 良治 は 、東京 高 等 師範 附属 小 学校 第五 部 の 成
果 を摂 取 し、 また、 この期 全 国的 な 唱道 者で あ っ
た 青木 誠 四郎 と も直 接 連絡 を と り、意 識 的な 実 践
と促 進運 動 を進 める とい う役 割 を果 たそ う とした。
また 、担 任 同士 の交 流 やネ ッ トワー ク の萌芽 も推
察 され 、そ れ が1929年
頃 に組織 され た京 都 市特
別 児童 教 育研 究 会へ と発 展 して行 っ た もの と思 わ
れ る。
これ らの初 期 「
特 別 学級 」 の教 育実 践 は、 後 の
京 都市 にお け る特別 学 級実 践 の発 展 の礎 石 とな っ
た こ とは容 易 に理 解 し得 る。 この 時期 の模 索 は 、
1930年 代 、 田中寿 賀男(養 正 小 学校:1929年
か
ら担任)、高宮文雄(崇 仁小学校:1932年 か ら担任)、
田村一二(滋 野小学校:1933年
か ら担任)等 の 「
特
別 学級 」 の担 任 を 中心 とした実 践 の主 体 の形 成 と
組 織 化 に引 き継 が れ 、 「
特 別 学 級」 にお ける 教 育
実 践 の姿 を明確 に して い くこ ととな る。
1戸 崎 敬 子 『特 別 学 級史 研 究 第 二 次 大 戦 前 の特 別 学 級 の実 態 』 (多 賀 出版 、1993年)、 同 『新 特 別 学 級 史 研 究 一 特 別 学 級 の成 立 ・展 開過 程 とそ の実 態 』(多 賀 出版 、2000年)。 戸 崎 の著 書 に は 、 残 念 な が ら京 都 市 にお け る 「特 別 学 級 」 の ま と ま った 検 討 は な い。 2京 都 市 立 崇仁 小学 校 は 、2010年3月 を持 って 廃校 とな った 。 崇 仁 小学 校 と 学 区 の 詳 細 な 歴 史 年 表 と して 、 竹 口等 『我 等 の歌 一崇 仁 歴 史 年 表 』 阿咋 社 、2010年)が あ る 。 3川 向 秀忠 「伊 東茂 光 論研 究 ノー ト」(『部 落 解 放研 究 』 第2号 、 1974年)、 杉 尾 敏 明 『同 和 教 育 の 源 流 一伊 東 茂 光 と前 田 ツ ネ 』(部 落 問 題 研 究 所 、1975年)、 八 箇 亮 仁 「伊 東 茂 光 と 崇 仁 教 育 」(r被 差 別 部 落 と 教 員 』 明 石 書 店 、1986年)、 神 楽 子 治 『校 長 あ りき』(部 落 問 題 研 究 所 、1987年) 4秋 定 嘉 和 「1930年 前 後 、 人 権 教 育 創 造 の 試 み 一有 馬 良 治 とそ の周 辺 一 」(世 界 人 権 問 題 研 究 セ ン ター 編 『人 権 講 座 講 演 録1999年 度 』、1999年 、p.65∼88)。 た だ し こ の論 考 は講 演 録 で あ り、 崇 仁 小 学 校 か ら東 京 の 川 南 小 学 校 に転 出 した 田 中 邦 太 郎 と お もわ れ る 教 師 に関 す る記 述 な ど 明確 な誤 りも多 い 。 5米 騒 動 の 際 に先 進 的 な 役 割 を 果 た し た崇 仁 学 区 住 民 ・児 童 の教 育 の た め に 宮戸 俊 一 校 長 が 更 迭 され 、 京 都 市 教 育 会 顧 問 小 西 重 直 、 佐 々 木 惣 一 、 京 都 男 子 師 範 校 長 角 谷 源 之 助 、 同教 諭 竜 野 定 一 、 京 都 市 視 学 大 野 勇 ら に後 援 され る形 で 、 1920年10月 、 後 に 「一 切 の 平 等 主 義 者 」 と評 され た 伊 東 茂 光 が 校 長 に着 任 。 6伊 東 茂 光 「同和 教 育30年 」 『部 落 問 題 研 究 』 第2号 、1949 年 、P.29. 71923年 度 卒 業 生 の 欠 席 日数 及 び 出 席 率(『 大 正12年 度 卒 業 生 成 績 簿 』 よ り作 成)を 以 下 に示 す 。 表1923年 度 卒 業 生 の 欠 席 日数 及 び 出席 率 19181191911920119211192211923 欠席日数 1年2年3年4年5年6年 0-10162146160165168153 10-20125133123123123118 20-30117125113116113113 30-40161811511111014 40-50151618141114 50-60141414111215 50-60131110101012 60-70121110111111 70-80101112101211 90-1001111131612111 100-10101013113121 出席率93,092.491.990.186.672.6 1)各 学年 事の人数の統計が変化 しているのは、転入学、 死亡 などが あったためで ある。 2)長 欠及び退学 に関 して は、全 日数欠席 と見な し平均 欠席 日数及 び出席率 を計算 した。 3)年 度の途 中入 学者に関 しては表及び計算 には入れて いな い。 8磯 谷 玄 松 の 『日宿 直 日誌 』 へ の 記 載(1926年2月18日) 。 夜 の応 接 室 に あ っ た 貴 重 な 書 物 、 ペ ス タ ロ ッチ ー 像 、 墓 碑 な ど が浮 き 出 さ れ て 、 昼 夜 に わ た っ た ペ ス タ ロ ッチ ー 祭 の 事 が 追 懐 され ざ る を得 な か った と記 され て い る。 福 田武 雄 『断 食 日記 』(私 家 版 、1927年) )± 屋 克 巳 に よ る 『日宿 直 日誌 』 の 記 載 }崇 仁 尋 常 小 学校 『ペ ス タ ロチ ー に 復 れ(増 補 版)』1927年 。 侑 馬 は、 ペ ス タ ロ ッチー100年 を記念 した 『ペス タ ロ ッチ ー 全 集 』(ペ ス タ ロ ッチ ー 百 年 祭 記 念 出版 、 全4巻 、 イ デ ア 書 院 、1927年 よ り刊 行)に も関 与 し て い た 。 当初 の 全 集 の 構 成 の 中で 、 有 馬 は ペ ス タ ロ ッ チ ー の 書 簡 部 分 の 翻 訳 と 解 説 を担 当 して いた 。 有馬 の急 逝 に よ って全 集 の 中 には、 「ペ ス タ ロ ッチ ー の手 紙 」 の巻 は 出 さ れ て い な い 。 有 馬 良 治 遺 稿 集 刊 行 委 員 会 は 、 「田 園 の 家 庭 に於 て 貧 児 の 養 育 並 び に 仕 事 を與 ふ る施 設 の講 演 に助 力せ られ ん こ とを 世 の 志 士 仁 人 に訴 ふ 」 の 訳 と と も に 、 「ペ ス タ ロ ッ チ ー の 手 紙 」 とそ の 解 説 を ま とめ 、 有 馬 の著 書 に入 れ込 こん だ も の と思 わ れ る。 L前 掲 『ペ ス タ ロ ッチ ー に復 れ(増 補 版)』 }1935年 の 段 階 で は次 の よ う に な っ て い る(京 都 市 崇 仁 尋 常 高 等 小学 校 『本 校 施 設 の梗 概 』1935(昭 和10)年4月 p1-4)o 「昭 和 九 年 度 よ り、 一 年 生 の 一 ヶ 年 は 能 力 別 に よ らず 、 生 年 月 日に よ って 平 等 に五 組 に分 け 、二 年 生 に進 級 す る 際 、 知 能 検 査 と精 密 な 学 業 調 査 に よ っ て能 力 別 編 制 に す る こ と に した 。 三 年 以 上 の者 は其 の後 の学 業成 績 の 如 何 を 考 え て 、 入 れ か え を行 って い る 。 能 力 別 の編 制 に つ い て は種 々 の議 論 も あ る が 、 本 校 と し て は 今 日の 処 で は他 の編 制 よ りも 可 な り と考 え て い る 。 現 在 の 編 制 を次 に表 示 す る。 学級 編 制 の概 要 ほ に は ろ い 年 一 CB"B'BA年 二 特 CB"B'BA年 三 別 学CB°B'BA年 四 級CB°B'BA年 五 EDCBA年 六 合混娚 一 高 一 年 の い、 ろ、 は 、 に 、 ほ 、 は優 劣 な しで 、 二 年 以 上 は 最 終 と 再 劣 の 二 学 級 を と っ て 之 をA及Cと し、 他 の 中 等 児 を三 等 分 してB、B'、B"と な す 。 この 三 学 級 は 知 能 学 業 に於 いて 優 劣 は な い。 六 年 のA、B、C、D、Eは 優 劣 五 段 階 に分 か つ た も ので 、 こ の分 け方 は本 年 限 り無 くな る もの で あ る。 児 童 に は優 劣 編 制 で あ る事 を 知 らさ ず 、 指 導 者 の 名 前 も以 って 学 級 名 と して いる 。 A組 に入 るべ き もの は知 能指 数110∼150、Bは80∼110、 Cは80以 下 と な っ て 居 る が 、 年 度 に よ っ て 多 少 の差 異 が あ り、 上 級 学 年 に あ りて は 多 少 の 変 化 が あ る。 な お 、1939年11月 に 発行 さ れ た 『崇 仁 教 育 』 にお い て も、 こ の 「学 級 編 成 」 の 説 明 は 、 「特 別 学 級 」 もふ くめ て 同 様 の もの と して な され て い る(京 都 市 崇 仁 尋 常 高 等 小 学 校 『崇 仁 教 育 』1939年11月)。 1な お 、 昭 和 期 には い る と、 崇 仁 小 学 校 で は 、 無 料 助 産 活 動 を行 っ て い る(1934年11月 よ り)。 教 師 で 産 婆 養 成 所 の 出 身 で あ った 八 田 ヲ コ トと看 護 婦 の資 格 を 持 っ た 仰 木 磯 子
が 助 産 活 動 を担 当 した 。 これ も地 区 の母 子 保 健 や衛 生 状 態 の 改 善 へ の 働 き か け で あ っ た(前 掲 『校 長 あ り き 』 p.192-194) 16こ の 記 述 は 『ペ ス タ ロ ッチ ー に 生 き る 』 に 所 収 の も の に よ る 。 た だ し崇 仁 小 学 校 『日宿 直 日誌 』 に は 、 こ の 記 述 み つ け る こ とは で き な か っ た 。 17田 中 邦 太 郎 は、 和 歌 山 県 西 西 牟 婁 郡 上秋 津 村 で 生 ま れ 、 和 歌 山 師 範 卒 業 後 、 和 歌 山で 教 師 とな る。 児 童 の 心 理 や病 理 に 興 味 を もち 、 和 歌 山 で 教 師 を して い た時 期 か ら 日本 児 童 協 会 の会 員 と な って い る(『 日本 児 童 協 会 時 報 』 第1巻 第 3号 、1920年9月 に新 入 会 員 と して 名 前 が あ る)。1924 年 ∼1926年3月 まで 崇 仁 小 学校 で 教 鞭 を と り、そ の 間 『解 放 の雄 叫び 一平 和 の 鐘 は 鳴 る 』(1925年)を 刊行 。 そ の後 、 東 京 に 転 出 し、 東 京 市 川 南 尋 常 小 学 校 の補 助 学 級担 任 と し て 実 践 を 行 っ た 。 そ の 間 、 東 京 の地 域 を ま わ り社 会事 業 を 説 く、1934年 頃 か ら歴 代 の 皇 稜 跡 を巡 拝 して 教 育 に 生 か そ う とす る 。 笄 小 学 校 の補 助 学 級 の担 任 、 通 常 学級 の 担任 を 経 て 、1938年 、 中央 融 和 事 業 協 会 の主 事 とな る。 田 中 の 補 助 学 級 の 担 任 と して の経 歴 は 、 川 南 小 学 校 で 、1926 ∼1928年 度 の 間 、 笄 小 学 校 で は1932∼1935年 度 ま で 経 験 した 者 と思 わ れ る(富 岡達 夫 『東 京 の知 能 遅 滞 児 教 育 史 序 説(戦 前 編)』(大 揚 社 、1994年)の 補 助 学 級 担 任 一 覧 表 に補 足)。 な お 、 東 京 時 代 の 田 中 の 補 助 学 級 で の実 践 の 様 子 に つ い て は 不 明 で あ る。 また 、 田 中 の経 歴 と 融 和 教 育 論 に つ い て は 、 大 庭 宣 尊 「田 中邦 太 郎 そ の 融 和 教 育 論 の 軌 跡 」(『被 差 別 部 落 と教 員 』 明 石 書 店 、1986年)が 詳 し い 。 18小 西 重 直 宛 書 簡(『 ペ ス タ ロ ッ チー 生 き る 』、p,99) 19同 『ペ ス タ ロ ッチ ー に 生 き る 』pp .77-79 20中 村 勝 二 「東 京 高 等 師 範 学校 附属 小 学 校 戦 前 の 『精神 薄 弱 』 教 育 の 歩 み 」(『筑 波 大 学 付 属 大 塚 養 護 学 校 創 立 三 〇 周 年 記 念 誌 』1990年11月 、p.38)な ど参 照 。 21高 宮 文 雄 「特別 学 級 経 営 へ の 反 省 」 『異 常 児 教 育 』 創 刊 号 、 1933年 、p.45。 22京 都 市 社 会 課 『京 都 市 に 於 け る 特 殊 児 童 調 』(1922年)で あ る が 、 この 調 査 につ いて は 、拙 稿 「戦 前 京 都 に お け る 障 害 児 調査 と児 童 保 護 ・教 育事 業 」(『京 都 大 学 教 育 学部 紀 要 』 第34号 、1988年3月 、pp.254-265)で 詳 し く分 析 して い る 。 23京 都 市 役 所 『精 神 検 査 法 』(京 都 市 役 所 、1922年) 24成 徳 尋 常 小 学 校 編 『精 神 薄 弱 児 の 教 育概 要 』(1923年)に よ るが 、 この史 料 は 未見 で あ る。 京 都 精 神薄 弱 者 育成 会 『道 しる べ 』(1969年)及 び 藤 波 高 『と りの こ さ れ た子 らの京 都 の教 育 史 一 明治 ・大 正 ・昭和 の実 践 』(文 理 閣、1988年 、 p.29-31)を 参 照 。 な お 、成 徳 小 学 校 の 特 別 学 級 は 「教 材 は 現 在 学 力 程 度 を主 と して 定 め所 属 学 級 年 は参 考 と す る に 止 む 、 其 取 扱 は 専 ら適 性 と知 能 発 達 と に順 応 す 」 と し て い た(文 部 省 『全 国 特 殊 教 育 状 況 』 社 会 教 育 叢 書 第 八 輯 、 1924年9月 、 な お こ の文 献 に は 一 橋 尋 常 小 学 校 、 桃 園 小 学 校 の 教 授 上 の 工 夫 も 掲 載 さ れ て い る)。