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ウィリアム・サマセット・モーム『五彩のヴェール』(1925)と映画化作品『ペインテッド・ヴェール』(2006)の比較研究 ―翻案映画における「外」の要素とその意義―

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』(1925)と映画化作品『ペインテッド・ヴェール』

(2006)の比較研究 ―翻案映画における「外」の要

素とその意義―

著者

孫 蘇渝

雑誌名

国際文化研究(オンライン版)

27

ページ

1-12

発行年

2021-03-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00131053

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一、はじめに 映画『ペインテッド・ヴェール―ある貴婦人の過ち―』(2006)1はイギリスの作家であるウィリ アム・サマセット・モームの長編小説『五彩のヴェール』(1925)2から翻案された作品であるにも かかわらず、そこには物語の舞台やいくつかの主要なエピソード、登場人物の結末などの変更に 至るまで翻案元小説と異なる新たな再創作の跡がいくつも見られる。それに加え、小説は主人公 のキティの心理描写を中心とし、彼女の内面的な精神成長を描く一種の「教養小説」として位置 づけられるが、映画の方は彼女の心理過程という閉ざされた場を越え出ようとしているように思 われる。そのような形に変更された理由とは何か、その変更は映画においていかに表現されるの か、詳しく考察する必要があるだろう。ただし、先行研究では小説『五彩のヴェール』に注目す るものが多い一方で、翻案映画及び小説と翻案映画の比較に注目するのは相対的に少ない。その 中で、前島洋平(2010)は「映画 The Painted Veil(2006) の現代的意義に関する一考察」にお いて、小説と翻案映画の相違点を比較し、「この二つ(小説と映画化作品)は全くの別ジャンル であり同一視すべきではない」と断言しており、翻案映画の主題が「人間同士のコミュニケー ションの重要さに他ならない3」と指摘している。確かに、小説における英国人夫婦の間の徹底 した相互無理解という主題に対して、翻案映画で夫婦間の愛情の回復と最終的な和解がなされて いるという点は、小説と映画作品との大きな相違点であり、この面から両作品の比較を行う必要 性がある。ただし、前島は単に英国人夫婦の夫婦関係に注目し、それ以外の人間関係や、人間関

ウィリアム・サマセット・モーム『五彩のヴェール』

(1925)と

映画化作品『ペインテッド・ヴェール』

(2006)の比較研究

―翻案映画における「外」の要素とその意義―

孫   蘇 渝

要 旨 2006年の映画『ペインテッド・ヴェール―ある貴婦人の過ち―』は1925年のウィリアム・ サマセット・モームの長編小説『五彩のヴェール』から翻案された作品であるが、両作品に は物語の内容から作品の主旨まで、著しい差異がある。本稿は、特に翻案映画に新たに付加 された中国に関する要素に注目し、オリエンタリズムの理論を参照しながら、その意義を明 らかにすることを目指す。 【キーワード:ウィリアム・サマセット・モーム /『ペインテッド・ヴェール』/ 映画研究 / 中国の表象 / オリエンタリズム】

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係を取り巻く政治的・社会的状況には十分注意を払っていないように思われる。ところで、翻案 元小説と翻案映画の区別について、映画の主演俳優兼プロデューサーであるナオミ・エレン・ ワッツとエドワード・ハリソン・ノートンがインタビューで、以下のように言及している。

Naomi Ellen Watts: The book was so interior and I think that with film you have to layer in that external and extra thing4

Edward Harrison Norton: We just imagined it on a slightly bigger scale, and made external some of what is internal in the novel5.

ここで共通して問題となっているのは、小説の「interior」(内面的な)ものを映画の「external」 (外面的な)ものへと変換するということである。ただし、心理小説である『五彩のヴェール』 における登場人物の思考・心理・感情を指すであろう「内面的な」要素に対して、「外面的な」 要素と呼ばれるものの実質とは何であるのか、という疑問が生じる。そこで、本論は特に映画プ ロデューサーの二人6が指摘した「外面的な」要素に注目し、翻案元小説と翻案映画との比較に よって、映画『ペインテッド・ヴェール』(2006)における「外面的な」要素の表現とその機能・ 意義を明らかにすることを目指す。 二、映画『ペインテッド・ヴェール』(2006)における「外面的な」要素とは? 実際に、両プロデューサーが指摘した「外面的な」要素とは何かを理解するには二人が以下の インタビューで答えていることが有力なヒントとなる。それは「中国観」に関するものであり、 当時の政治的な状況も含めた物語の「背景」であると考えられる。

Edward Harrison Norton: The second big phase was my contribution to it on script level. I came in and said to Ron that part of what needs to happen is it has to be inspired by the themes but the scope of it has to be expanded. Both emotionally and even in terms of its view of China7.

Naomi Ellen Watts: The book was so interior and I think that with film you have to layer in that external and extra thing. That’s the backdrop in it and so the political stuff in it makes it a lot more cinematic8.

ただし、ここで問題となるのは、第一に脚本の創作には両プロデューサーがいかなる役割を果 たすのかを先に明らかにする必要があるということである。実際に、翻案映画の脚本はロン・ナ イスワーナー(Ronald Nyswaner)であり、その最初の脚本は「小説にも物語の構成にもかなり 忠実」であった。しかし脚本家によればエドワードは、「忠実に文学的な翻案をしなければなら ないという感覚から私〔ナイスワーナー〕を解放した。〔中略〕だからエドワードはその時以来、

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本当にこの映画の〔脚本の〕執筆と具体化の一部をずっと担ってきた」。すなわち脚本の創作と 映画の制作にはエドワード・ノートンは無視できない貢献があり、ある意味で脚本創作の方向性 を示したと言えるだろう。なお、ナイスワーナーはインタビューにおいて、「〔ジョン・カラン監 督は〕映画の最終版にある政治的なサブプロットに確実に影響を与えた。〔中略〕ジョンは、人々 が社会的および政治的な環境にどのように生きるのかということにもっと大きな興味を持ってい る9」と述べている。そういった発言から、まず映画における中国に関する政治的な状況に関わ る要素の増加が両プロデューと監督との共通認識であることは明らかである。次に、ナイスワー ナーは映画での「政治的な」プロットを「サブプロット」と呼んだが、注意すべき点は映画にお ける中国に関する要素は「政治的な」プロットに限られていないことである。 第二に、中国に関する「外面的な」要素は映画においていかに表現されており、そしてそれが どのように機能し、映像作品内の物語の進展に対していかなる効果を持つのか、という問題に注 意を払う必要があるということである。そこで、本稿は翻案映画におけるストーリー上の内容の 変化に注意を払う上で、特に新たに付加された中国に関する要素に重点を置き、エドワード・ W・サイードがその著書『オリエンタリズム』(1978)で提示したポストコロニアル理論を参照し ながら、翻案映画におけるその意義を究明することを目指す。 三、映画『ペインテッド・ヴェール』における中国に関する「外面的な」要素の表現 最初に、本論で取り上げる映画『ペインテッド・ヴェール』に新たに導入された中国に関する 「外面的な」要素とは何かをまず概括的に説明しておくことにする。その内容はヨーロッパ人の 夫婦を代表とする欧米人と中国の僻地に生活する現地人とのコミュニケーションと、1920年代中 頃において中国の植民地支配を続ける欧米人に対する中国人の心的態度及び行動にかかわる事象 を中心とする。映画において具体的な表現としては、中国の僻地で蔓延するコレラに対するウォ ルター(エドワード・ノートン)が行う治療と、当時の中国人が英国人を初めとする欧米人に対 して抱く排外的な意識に関する描写、いわゆる当時の中国人の「反帝国主義」の思想を中心とす る。そういった「反帝国主義」の思想の現れとしては、まず物語の舞台が翻案元小説では香港で あったのを、翻案映画では1925年の上海に移動させるということがある。こうして、物語におい て中国人の反帝国主義の思想が実際の歴史的事件、即ち1925年に上海で起こった「五・三〇事 件10」によって表わされることによって、映画の虚構の物語が中国の植民地時代の歴史と緊密に 繋がるようになる。次に、そういった反帝国主義の思想は大都市の上海から中国の僻地である湄 潭府まで、当時の統治層から一般平民層まで共有されるコンセンサスのように描かれている。そ ういった翻案元小説では存在していなかった中国の反帝国運動の思想と歴史事件を意図的に取り 入れることによって、当時の中国人が西欧列強など帝国主義の国々から受ける束縛から脱却しよ うとするために外国人に対して強い排外的な意識を持ち、激変していく社会に対応しながら生き る姿を表現できるようになると考えられる。

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四、翻案映画における「外面的な」要素の意義 次にここで、翻案元小説には見られなかった当時の中国人の「反帝国主義」の思想など、意図 的に付加された中国に関する内容の意義とは何か、詳しく考察してみよう。 1 .翻案映画に複層化する主題を導く効果 第一は、翻案映画に複層化する主題を導く効果を挙げることができる。翻案映画には複層する 主題が三つあり、まずは異国に暮らす英国人夫婦の関係とその結末という物語の具体的なストー リーから浮かび上がる主題である。そういった主題は小説から継承した主題であり、映画の一番 目の水準になる主題であると思われる。ただし、最後まで夫婦関係を曖昧に描き、反目し合って いた二人が結局は和解していない可能性が高いと考えられる小説の結末に対して、翻案映画の方 には二人の愛情の回復が明白な形で演出によって示されている。そのような結末の変更がもたら された一つの原因は、翻案映画において中国に関する「外面的な」要素の増加による結果である と考えられる。実際に、脚本の創作に対して、脚本家のナイスワーナーは映画監督と上述した二 人のプロデューサーの意見と異なり、英国人夫婦の関係という側面を重視し、インタビューにお いて「キャラクターが自分自身に恋をすることは本当に見たくない。キャラクターが他人と関係 を持っているのを見たい」と述べた。つまり、脚本家ナイスワーナーは、特に中国に関する要素 を増加する意図が元々なかったと言える。ただし、なぜキティ(ナオミ・エレン・ワッツ)がウォ ルターに恋するのかを説明するために、ナイスワーナーは「ウォルターの役割を広げる」策略を 採用し、主要な施策としては、ウォルターが「いかにコレラから町を救った11」のかを詳しく描 くことにする。映画における具体的な表現としては、ウォルターが実施するコレラに対する治療 方法が導入されている。ただし、ここで注目すべきは、ウォルターがコレラを治療する過程にお いて、彼と現地人との衝突及び、それを経た後に得られるコミュニケーションが不可欠なプロッ トとなるために中国に関する「外面的な」要素の増加が必要となる。実際に、そういった要素は 確かに二人の感情の回復に重要な役割を果たしたと言えるが、それはナイスワーナーが指摘した ウォルターが実施するコレラに対する治療のみならず、中国人の外国人に対する態度の描写をも 含まれる。その例としては、村の因習を無視されたことへの反抗心と反帝国主義の影響で、湄潭 府の学生たちはキティを攻撃しようとするが、すんでのところでウォルターが駆けつけてキティ を救うというエピソードが挙げられる。こういった事件によって、前島洋平(2010)が指摘する ように、「〔異国に住む〕マイノリティーとして団結せざるを得ない二人の距離は徐々に縮まって いく12」ことになり、物語の最後の二人の最終的な和解へと導く主要な要因の一つとなっている。 そしてそれは他方で、二人が自分たち英国人夫婦という閉じた関係の「外」の世界にいる「他者」 と遭遇させられ、彼らのことを恐れながらも、その内面性を理解し始めるきっかけを与えている とも読み取られる。 次は、中国人の排外意識と直接に関連する寓意的な主題である。それは、映画製作者が指摘し た「二番目の水準」、すなわち「物語は西洋人が他のいくつかの民族の国々の中でぶらつき、他

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の民族の人々に彼らの国を改善する方法を教え、そして自分がなぜ感謝されていないのだろうか を疑問に思うことになる13」という<進んだ文明を誇る欧米人が教えを垂れても現地人には理解 されず反感を買ってしまう現実>主題である。映画において明白な表現としては、ウォルターが 質問する中国人のためにコレラを治療する自分がなぜ中国人に嫌われるのかという問題に対し て、余大佐は「私はあなた〔ウォルター〕を信じているが、もしあなたの国の銃が我々の人民を 狙っていないならば、この仕事〔コレラの治療〕を一緒にするのはうれしい14」と答えた。そう いった答えは中国の知識人の持つ考えの一端を明らかにするのであるが、その反面、現在の欧米 のある種の進歩的知識人が持つだろう考えを代弁すると思われる映画製作者が、映画の登場人物 の口を借りて自分たちの見解の一端を表明し、新たな光の下に植民地支配の歴史を見直し、批判 的に自己分析を行う傾向が見られるのではなかろうか。 最後に、上述したウォルターと余大佐との対話によって、映画においては欧米人と中国人との 相互無理解と軋轢が明白に表現されているが、そういった異文化間の相互無理解から出発しなが ら、異文化間の相互理解の端緒に至る主題も翻案映画で表現されている点を明らかにしてみよ う。映画におけるそういった主題の代表的な表現の一つは、ウォルターと余大佐との関係の変化 である。最初に余大佐は外国人のウォルターを警戒し、英国植民地主義の手先として排除しよう としていたが、この英国人医師によるコレラ治療の献身的な取り組みを目のあたりにして、彼へ の信頼感が芽生えるようになる。さらに先述した会話によって、余大佐とウォルターという二人 の知識人は互いに相手が何をどのように考えているのかを理解し始め、欧米人と中国人の間にあ る程度の相互理解が生じつつあり、それが結末における二人の信頼関係へと確実につながってい くことになるであろう。 以上論じた三つの主題、即ち<英国人夫婦の関係とその結末>、<進んだ文明を誇る欧米人が 教えを垂れても現地人には理解されず反感を買ってしまう現実>、<異文化間の相互無理解から 相互理解へ至る契機>は、すべて中国に関する「外面的な」要素と緊密に関わっており、「外面 的な」要素の導入がないならば上述した主題が映画に組み込まれることはなかったと言っても過 言ではないであろう。 2 .翻案映画において指向されるオリエンタリズムの相対化 第二は、中国に関する「外面的な」要素によって、オリエンタリズムの思想が浸透している翻 案元小説から翻案映画を解放しようとする方向性が見られるように思われる。その意義を説明す る前に、最初にオリエンタリズムとは何かを確認しておこう。オリエンタリズムとは、1978年に エドワード・W・サイードが提示した概念であり、彼によると「オリエンタリズムという語に 〔は〕複数の意味」があるが、本論では特に「「東洋」と(しばしば)「西洋」とされるものとのあ いだに設けられた存在論的、認識論的区別にもとづく思考様式」なのであると、「オリエントを 支配し再構成し威圧するための西洋の様式15」という二つの意味を中心的に扱うことにする。 モームは必ずしも代表的なオリエンタリズムの作家とは言えないが、小説『五彩のヴェール』

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には多かれ少なかれオリエンタリズムの思想が浸透していると言えるように思われる。その証拠 として、第一に、エドワード・W・サイードが『オリエンタリズム』においてモームを一つの例 として取り上げ、20世紀のヨーロッパ小説における「オリエントと放縦な性的自由とのあいだの 連想」を検討したことが挙げられる。サイードによると、モームやジード、コンラッドなどの作 家の作品においてオリエントが「ヨーロッパにおいてはもちえない性的体験を探し求めることが できる場所」のように描かれ、そういったようなテクストの大量な生産によって、「「オリエント 式の性関係」は、大衆文化のなかで、他の便利な商品と何らかわるところのないありふれた商品 となっていった」と結論づけられる。つまり、モームを含むヨーロッパ作家の作品によって、西 洋社会におけるオリエントのイメージは「オリエント=放縦なセックス」という「統制された画 一的なもの16」となり、性的なファンタスムに関わる強力なステレオタイプが生じてくると言え る。そういったステレオタイプは小説『五彩のヴェール』にも見えるだろう。即ち、『五彩のヴェー ル』はアジアの一国である中国で、ヨーロッパ人の男女(キティとチャーリー)が不倫の関係を 結ぶことを契機として展開していく物語である。従って、ある意味で『五彩のヴェール』におい ては、オリエントと地続きであるアジアの一国におけるヨーロッパ人の男女のアヴァンチュール を通して、「オリエント=放縦なセックス」というステレオタイプが反復されていると言えるだ ろう。 第二に、小説『五彩のヴェール』の物語の舞台は中国に設定されるが、小説には中国を背景化 する傾向が強く見られる。クリスチーヌ・ドラン(Christine Doran)が指摘したように、ロラン・ バルトによると、「オリエンタリズム文学の伝統について特筆すべき特徴の一つは、それらの作 品の中で、著者が作品の舞台となっているオリエントに主に焦点を当てていないということであ る17」。そういった特徴は『五彩のヴェール』にて明白に表現されていると言える。コリン・マッ ケラス (Colin Mackerras)は「〔『五彩のヴェール』には〕サマセット・モームの他の作品と同 じように、すべての主人公はヨーロッパ人である。[中略]中国は背景に過ぎない18」と指摘する。 つまり、小説においては中国が明らかに背景化されていることで、単なるエキゾチックな雰囲気 を醸し出す場所と言えるだろう。小説においてそういった背景化の著しい表現は中国人が個々の 顔が見えない曖昧模糊とした無個性的な塊のように描かれることであり、中国人像の単純化がは なはだしい。事実、小説において中国人は以下のように、喜怒哀楽やイデオロギーがない幽霊の ように見られている。

[The Chinese] had a strange look of the dead being borne over the water to the land of shadow. And when they stepped ashore they stood for a little at the landing-place uncertainly as though they did not quite know where to go […] At that hour the streets of the city were very empty so that more than ever it seemed a city of the dead. The passers-by had an abstracted air so that you might almost have thought them ghosts. (The Painted Veil. p.113)

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そういった鈍感そうで知性の働きと生気がまったく失われているかのような中国人は、19世紀初 頭以来の欧米社会における中国を「大規模な不満と変化の能力が何世紀も前から死に絶えてし まった国19」と認識する欧米人の中国観の明白な表現であろう。なお、そういった描写によって 小説での中国人は個別な人間よりむしろ抽象的な概念になると言えるだろう。そういった中国人 像の抽象化の背後に隠される問題は、中国人が強制的に沈黙させられ、自己表現する能力が奪わ れたということである。そのため、西洋人を通じて彼らの意思を代弁することが必要となる。そ うすることで、西洋によって東洋を再構築することが合理性があるとされ、自ずと西洋が支配者 の位置に収まり、東洋が被支配者の地位に甘んじることになる。 さらに、中国人を抽象化することを通じて見られる小説での中国を背景化する傾向以外に、小 説において多くの場合は中国人を人間ではなく、「名前も知らぬ種類の奇妙な動物20」とさえ呼ん でいる。そういった中国人像、まずは欧米人の先入観を通過させられ、彼らの恣意的な見方によっ てある程度一様に醜悪化され、強力に再構成されたものであると言えるだろう。次に、中国人を 醜悪化すること以上に深刻な問題は、中国人を先験的に異質な存在として「他者化」することで ある。女主人公の目を通して中国人を欧米人よりも劣った人種として描くことにより、東洋人が 異質化され、さらにそういった中国に対する意図的な異質化と醜悪化の下に、その裏返しとして の欧米人の自分自身に対する自信と誇りが隠されているのが読み取られるだろう。つまり、モー ムの小説における西洋と東洋は交わるところが皆無な二項対立的な関係であり、中国人及び中国 の事物に対する欧米人の侮蔑的な態度は、彼らが自分と異なる人種・文化を否定することによっ て、自分自身の人種・文化の優越性を確認しようとする動機が根底にあると見做される。 上述した中国(人)を背景化・異質化することは、「他者としての東洋の文化的異質性を鏡と しながら、西洋というヨーロッパの人々にとっての自己像が構成され〔…〕西洋を権威化し、東 洋を支配し、教え導き、西洋的な価値観や世界観によって、「世界」を操作する主体を編成21」す るというオリエンタリズム的な思想であると位置付けられるのであり、モームによる翻案元小説 はこのような「西洋中心的」性格を持つと結論づけられるのである。 なお、実際に上述した中国を背景化または異質化する傾向は、小説『五彩のヴェール』から翻 案された前二作の映画作品22でも明白に見える。ただし、本稿は特に小説『五彩のヴェール』と 翻案映画『ペインテッド・ヴェール』(2006)との比較研究を中心とするため、ここでは簡潔に 前二作の翻案映画における中国像を総結することにする。まず翻案映画第一作『彩られし女性』 (1934)での中国は単なる「見せ物」に過ぎないと結論づけられる。なぜなら、第一作には中国 に関する描写は特に中国の「神秘性」を強調することに重きをおいているからである。そういっ た神秘な中国は「呪文に満ちたように見える23」国であり、キリスト教と明らかに異なる宗教の 祭典を行う場所であり、西洋人にとっては未知の神話的世界でもある。さらに注目すべき点は、 映画における中国に対する描き方である。映画において中国を集中的に描くのは中国人の民衆が 行う太陽神への祭典というシークエンスであるが、そのシークエンスにおいて中国の表象は主に アジア人のダンサーの舞踊と僧侶が朗唱する漢詩によって表現される。そういった抽象的で、明

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晰に解析できないこれ見よがしの演出の様式と西洋人にとって不可解と認識される物珍しい文学 形式によって、エキゾチックで神秘的な表象が中国に押し付けられていると言えるだろう。そ ういったシークエンスに登場する中国人の脇役は、サブリナ・ローズ・リー(Sabrina Rose Lee) が指摘したように、「東洋を象徴する見世物の一部24」に過ぎず、白人の観客のために用意した 「他者」となりながら、中国も単なるエキゾチックな雰囲気を醸し出す場所に成り果てると結論 づけられるだろう。 次に翻案映画第二作には、第一作より中国を背景化し、完全に欧米人向けの物語を提供してい ると言える。この第二作において中国はコレラが蔓延する危険な場所であり、そこに生活する中 国人は西洋人の医師とキリスト教の修道女からの救助が必要となる弱者である。事実、映画にお いて中国と関連する最も多い内容はフランス人の修道女による開設する孤児院で欧米人が中国人 の孤児を救助する場面である。つまり、ある意味で映画『第七の罪』は、コリーン・ マクダネ ル (Colleen McDannell) も指摘するように25、キリスト教の伝道を讃える1950年代のハリウッド 映画の一つであると位置付けられる。そういった欧米人を救世主のように描き、キリスト教を宣 伝する映画において、中国はただ物語の舞台を提供する場所に過ぎず、例え舞台を日本やシンガ ポールなどの他のアジアの国々、またはアフリカの国々に移しても、ストーリーの展開には全く 影響がないであろう。 上述したことにより、翻案元小説及び前二作の翻案映画にはオリエンタリズムの思想が同じく らい深く浸透していると言えるだろう。そういった小説および前二作の翻案映画に対して、映画 『ペインテッド・ヴェール』(2006)にはオリエンタリズム的な欧米本位の思想から逃れ、欧米人 が帝国主義的支配のために、そしてそれを通して獲得して来た世界観を相対化しようとする方向 性を示している。その表現としては、まず小説と異なり、翻案映画では欧米人は絶対的支配者で はないと設定されている。小説において物語の舞台は香港と湄潭府という二つの場所になるが、 いずれにせよ、そこで欧米人は支配者の地位に立っている。さらに、軍隊の支配権を持つ余大佐 が武器すら持っていないウォルターに示す従順な態度によって、小説において欧米人は実質的な 支配権を持つのみならず、精神的な支配権をも掌握していると考えられる。つまり、小説におけ るヨーロッパ人と中国人との関係は階級的な上下関係であり、支配者と被支配者との関係である と読み取られるのである。それに対して、翻案映画において余大佐と軍閥の長を代表する統治 層から、「五・三〇事件」に参加する労働者と湄潭府の村人を代表する一般平民層まで、中国人 はウォルターを代表する欧米人に完全に服従している訳ではない。さらに、ウォルターが村の風 習を守る村人の意思に従って浄水の方法を調整することと、彼が軍閥の長の協力を求めることに よって、翻案映画において欧米人は精神的な支配権と実質的な支配権を完全な形では持っていな いと考えられる。そういった当時の欧米人がしばしば持っていた「文明の劣ったアジア人」とい うステレオタイプを相対化することによって、翻案映画は欧米人と中国人との関係を<支配すべ き者-支配されるべき者>という一方的な関係性を脱した位相に置き直そうとする。 次に、翻案映画には中国人像が具象化され、多様化されている点に注目しよう。翻案元小説で

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のような名も個人の顔も見られない群像として登場する中国人と異なり、映画に登場する中国人 の姿かたち、容貌、そして行動は多種多様である。そういった彼らは、村の風習を堅守する農民 であり、反帝国主義の思想を持つ労働者と学生であり、「中国は中国人に属する」という持論を 強く主張する軍人でもある。つまり、映画には統治層という社会の頂点から、農民という社会の 底辺に至るまで、様々な社会階級に属する多種多様な中国人を浮き彫りにすることで、当時の中 国社会の多層的な全体像を示そうとする意図が明らに見られる。そうすることで、まず小説で描 かれたような欧米人の先入観によって捏造されていた「鈍感な中国人」というステレオタイプが 相対化され、大幅な修正を迫られると考えられる。次に、そのような個々の顔が見え、差異性の 顕著な中国人の導入及び彼らの意思に対する念入りな描写によって、中国人は小説でのような 「名前も知らぬ種類の奇妙な動物26」という相互理解不可能で異質な他者ではなく、欧米人と同じ ように自分の思想があり、それを明白に説き明かし堅く守る、個別的な人間になる。つまり、小 説と比べると、翻案映画には中国人の異質性/他者性が希薄になったと言えるのであり、それは、 映画製作者を代表する現代の欧米人が、異質だと感じられてきた文化に属する「他者」を見直し、 そしてその「他者」の視点に立って世界を捉え直そうとする試みであると考えられる。 上述したことによって、映画『ペインテッド・ヴェール』(2006)には、中国は翻案元小説での ような単なるエキゾチックな雰囲気を醸し出す背景ではなく、その代わりに中国人は主演の欧米 人に次ぐ重要な登場人物として扱われており、中国人または中国に関する「外面的な」要素は主 要なテーマの一つとして取り込まれていると考えられるだろう。実に、翻案映画の監督もある中 国の新聞記者に、「この作品〔映画『ペインテッド・ヴェール』(2006)〕はハリウッドの映画製作 者が撮影した作品だが、私はこれを中国映画と呼ぶことを堅持する27」と表明している。そういっ た中国人または中国に関する「外面的な」要素への重視によって、欧米人の自分本位の視点で描 かれるオリエンタリズム的な小説は、1970年代からのアメリカでの中国研究に見られる以前とは 異なる方向性、すなわち「西洋中心の度合いのより少ない、中国の内側により深く踏み込んだ見 方で特徴づける28」という「中国自身に即した」アプローチに符合する翻案映画に変遷したのだ と見做される。そういった翻案映画での中国に関する要素への重視を通して、映画製作者たちは 21世紀の欧米の知識人による、より外部へと視点・視野が開かれた世界認識を反映させながら、 欧米中心主義を批判的に乗り越えようとする方向に向かっていると言えるだろう。 最後に、翻案映画には翻案元小説で表現されるオリエンタリズムを相対化し、克服しようとす る方向に向かって進もうとしていると見做されるが、それと同時に、不可避的にエキゾチック的 な中国像が多かれ少なかれ描かれていることにも注意を払う必要があるだろう。その具体的な表 現としては映画で増加される英国人夫婦が上海で京劇を見るプロットと中国の僻地に生活する村 民の因習であり、工夫して撮影する欧米の自然環境と明らかに異なる湄潭府での風景でもある。 当然、それらは物語の舞台を説明するという役割があるのが、欧米と異なる中国の「異質性」を 表すエキゾチックな要素としても言えるだろう。だだし、ここで注目すべきは、そういった少々 エキゾチックだと感じられる中国像は、小説でのような完全に西洋人によって捏造された中国像

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とは異なり、逆にそれは「セルフ・オリエンタリズム」(self-orientalism)の結果であると考えら れる。実際に、「中国でこの映画〔『ペインテッド・ヴェール』〕を撮影するために[中略]グロー バル範囲で上映するこの映画の最終編集の権利は中国政府に与えられた29」。すなわち映画で表さ れる中国像は中国政府が認めたものであり、さらに世界規模で宣伝しようとする中国像であると 言える。つまり、上述した映画で描かれる中国に関するエキゾチックな要素は、中国政府が主導 する「セルフ・オリエンタリズム」の結果であるとも言えるだろう。そういったことによって、 まず中国国内の場合、観客は映画での中国人のキャラクターと同一の文化、歴史、言語を共有す るため、容易に彼らに共感し、観客の自分は「中国」という「想像の共同体」の一員、すなわち 「中国人」であるという意識が強化される。さらに、映画での当時の反帝国主義的な思想の描写 を通じて、中国政府は「西洋」という「非人間化の他者」(dehumanized Others)を利用し、「ナ ショナリストの感情を人々の心に植え付ける」ようになる。そうすることで、「国の利益を最大 化し、個人主義を最小化し、国への忠誠心や献身などの特徴からなる」、さらに「社会の衝突と 異議を「西洋」という病気に帰着させる30」ことが達成する。 次に、中国国外の場合、中国に関するエキゾチックな要素は他国の観客を引き込む役割がある だろう。すなわち中国関する「外面的な」要素の増加は西洋人を主とする他国の人々の目を引き 付ける有効なマーケティング戦略であり、ある意味で中国または中国の文化が商品化されている と言える。そうすることで、ハリウッドの映画製作者は高い興行収入を得ると同時に、中国政府 は彼らが認める中国像をグローバル範囲で売り込めるようになる。つまり、そういった中国を商 品化することは西洋のみが主導するものでなく、ハリウッドの映画製作者を代表する西洋と中国 政府を代表する東洋との共謀 (complicity) であると言えるであろう。 五、終わりに 本稿は、二つの作品の比較研究を通じて、西洋本位の長編小説『五彩のヴェール』が、いかに オリエンタリズムを相対化しようとする映画『ペインテッド・ヴェール』に変化させられるのか を明らかにした。分析に当たって、特に翻案映画での中国に関する「外面的な」要素に注目し、 そういった「外面的な」要素はいかに翻案映画に複層化する主題を導き、オリエンタリズムの相 対化を指向しようとするのかを明らかにした。 結論として、映画『ペインテッド・ヴェール』(2006)では、新たに付加される中国に関する 「外面的な」要素によって、さらに、翻案映画の製作者の数名がインタビューにおいて、翻案映 画における中国要素への重視を表明しているが、彼らが実際に中国の歴史的背景・事件、当時の 中国の時代思潮を把握し、映画の物語に組み入れることによって、映画内の欧米人の登場人物の みならず、映画外の欧米人の製作者も「他者」の歴史・文化を探索し、「他者」の視点に立って 世界を捉え直そうとしている試みもこの映画を通してなされていると見做す事ができる。それと 同時に、翻案映画に残留させられた中国に関するエキゾチックな要素を通じて、中国自体による セルフ・オリエンタリズムの痕跡が見られるのである。そういった側面も含めてこの映画は、中

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国(人)に関する外的要素の意識的導入を通じて、万古不易のように固定化されてきた「西洋― 東洋」という二項対立的な構図の克服を果敢に試みていると結論づけられるであろう。

1 『ペインテッド・ヴェール―ある貴婦人の過ち―』The Painted Veil、ジョン・カラン監督、2006年、ア メリカ、カラー、125分(以下『ペインテッド・ヴェール』)。

2 William Somerset Maugham (1874-1965), The Painted Veil, [1925], London: Vintage Books, 2001.

3 前島洋平、「映画The Painted Veil(2006) の現代的意義に関する一考察」、『Cap Ferrat』第 7 号、日本モー ム協会、p.38.

4 Naomi Ellen Watts, “Naomi Watts and John Curran Interviewed – ‘The Painted Veil’ ”,

http://collider.com/naomi-watts-and-john-curran-interviewed-the-painted-veil/,(2020/09/15 閲覧). 5 Edward Harrison Norton cited by. Charles McGrath, “Another Encore for the Most Adaptable of Authors”, https://www.nytimes.com/2006/12/10/movies/10chip.html,(2020/09/15 閲覧).

6 この映画のプロデューサーは、Edward Norton、Naomi Watts、Sara Colleton、Jean-François Fonlupt、Bob Yari という 5 人である。

7 Edward Harrison Norton, “The Painted Veil - Edward Norton interview”,

http://www.indielondon.co.uk/Film-Review/the-painted-veil-edward-norton-interview,(2020/09/15閲覧). 8 Naomi Ellen Watts,“Naomi Watts and John Curran Interviewed – ‘The Painted Veil’ ”,

http://collider.com/naomi-watts-and-john-curran-interviewed-the-painted-veil/,(2020/09/15 閲覧). 9 以上の引用は、Martin A. Grove,“Spirit nom for 'Veil' raises Oscar hopes”,

https://www.hollywoodreporter.com/news/spirit-nom-veil-raises-oscar-144548, (2020/12/03 閲覧)による。 10 五・三〇事件。即ち1925年 5 月30日に上海において、外国植民者の工場で働く中国人の労働者が権利を求め

るために起こったデモに対して英国警察が発砲し、学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出た事件 である。

11 以上の引用は、Martin A. Grove,“Spirit nom for 'Veil' raises Oscar hopes”,

https://www.hollywoodreporter.com/news/spirit-nom-veil-raises-oscar-144548, (2020/12/03 閲覧)による。 12 前掲論文、p.34.

13 Edward Harrison Norton, “The Painted Veil – Edward Norton interview”, http://www.indielondon.co.uk/ Film-Review/the-painted-veil-edward-norton interview, (2020/09/15閲覧). 14 cf. 映画『ペインテッド・ヴェール』(2006)、1h15′47″~1h16′16″. 15 エドワード・W. サイード、『オリエンタリズム』、今沢紀子訳、平凡社、1986年、pp.3-4。なお、エドワード・ W. サイードの対象とする「東洋」とはもともと「中近東」のことであり、その地域と欧米との関係性を観察し 分析したものである。ただし、そのように打ち立てられた理論は、欧米にとっての「他者」である東南アジア 以東に対する心的態度についても当てはまる射程のあるものだと見做されている。 16 以上の引用は、エドワード・W. サイード『オリエンタリズム』[1978]、今沢紀子訳、平凡社、1986年、p. 195 による。

17 Christine Doran (2016), “Popular Orientalism: Somerset Maugham in Mainland Southeast Asia”, Humanities 2016, 5, 13, p.3.

18 Colin Mackerras, Western Images of China, Oxford: Oxford University Press, 1989, p.85. 19 大野英二郎、『停滞の帝国 : 近代西洋における中国像の変遷』、国書刊行会、2011年、p.623.

(13)

20 原文:They looked hardly human; queer animals of an unknown species. (The Painted Veil. p.103) 21 小森陽一、『ポストコロニアル』、岩波書店、2001年、p6.

22 翻案映画第一作:『彩られし女性』The Painted Veil、リチャード・ボレスラウスキー監督、1934年、アメリカ、 モノクロ、サウンド、85分 . 翻案映画第二作:『第七の罪』The Seventh Sin、ロナルド・ニーム監督、1957年、 アメリカ、モノクロ、サウンド、93分。

23 cf. 映画『彩られし女性』(1934)、24′21″~24′25″.

24 Sabrina Rose Lee, Locating the Dragons & Blossoms: Toshia Mori, Lotus Long, & Anna May Wong in 1920-1940 Hollywood Cinema, https://www.sabrinaroseleeprofile.com/uploads/1/1/8/3/118381685/ftv_211a_final_ paper__locating_the_dragons___blossoms.pdf,(2020/12/3 閲覧).

25 Colleen McDannell, Catholics in the Movies, Oxford: Oxford University Press, 2007, p.141. 26 William Somerset Maugham, The Painted Veil, [1925], London: Vintage Books, 2001, p.103. 27 cf. 张文伯,“ 好莱坞影片《面纱》:外国人如何被中国感化 ”,

http://yule.sohu.com/20050930/n227100007.shtml,(2020/09/15閲覧)。

28 ポール・A・コーエン(Paul A. Cohen)、『知の帝国主義―オリエンタリズムと中国像』〔1984〕、佐藤慎一訳、 平凡社、1988年、p.225.

29 Anne Thompson,“Edward Norton film sparks international incident”, https://in.reuters.com/article/film-veil-dc/edward-norton-film-sparks-international-incident-idUKN1825131720061218, (2020/12/03 閲覧).

30 以上の引用は、Koichi Iwabuchi (1994), “Complicit exoticism: Japan and its other”, Continuum: Journal of Media & Cultural Studies, 8:2, pp.52-53による。

参照

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