魯申公と浮丘伯とについて
著者
井上 了
雑誌名
集刊東洋学
巻
119
ページ
81-91
発行年
2018-06-29
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129947
81 魯申公と浮丘伯とについて(井上)
魯申公と浮丘伯とについて
井
上
了
はじめに 伝統的な理解として、戦国期の儒学は秦始皇の焚書によ りいったん断絶し、前漢文帝が挟書律を廃したことにより 復興したとされる。特に、済南の伏生による﹃尚書﹄復元 は、印象深い説話として伝えられてい る ︶1 ︵ 。 しかしたとえば陸賈は劉邦へ﹃詩﹄ ・﹃書﹄を説いており、 焚書以降にも伏生によらない﹃書﹄の伝承があったことは 明らかだ。 またたとえば叔孫通よりも後に出た高堂生は ﹃儀 礼﹄十七篇を保存していたとい う ︶2 ︵ 。漢初の儒学は、壁中蔵 書といった細い糸によってではなく、戦国生き残りの儒家 たちにより伝承されたものであっ た ︶3 ︵ 。 漢初に復興した儒学は、荀子の流れを汲む魯学派と、董 仲舒に代表される斉学派に大きく区分されるとい う ︶4 ︵ 。魯学 の祖とされる魯の申公は、焚書以前に浮丘伯から﹃詩﹄を 学び、漢の武帝の頃まで生きて孔安国や江公らを教えたと 伝えられる。事実であれば、彼は荀子と漢儒とをつなぐ重 要な位置を占めるだろう。しかし、彼の履歴や学統には疑 問な点も少なくない。小論では、申公の経歴や彼が学んだ という浮丘伯について確認し、ひいては彼らが伝えたとさ れる﹃穀梁伝﹄の位置づけについても考えたい。 戦国と漢とをつなぐ儒者たち ﹃史記﹄ 袁 盎鼂 錯列伝によれば、 伏生は ﹁孝文帝時﹂ に ﹁年 九十余﹂という。文帝初年に九十余歳ならば生年は前二七 〇年以前となり、范増よりやや年少で酈食其とほぼ同年齢 となる。すなわち伏生は白起抜郢の数年後に生まれ、荀子 が蘭陵令を廃された頃に三十代前半、始皇の統一の時すで に五十余歳であった。これは漢初の儒家というよりも戦国 斉の遺老と呼ぶのがふさわしいだろう。またたとえば張蒼 は 戦 国 魏 の 安 釐 王 の 時 に 生 ま れ て 前 漢 文 帝 の 丞 相 と な り、 集刊東洋学 第一一九号 平成三〇年六月 八一 −九一頁82 馮唐や尉佗は趙王遷の頃から武帝期までを生き た ︶5 ︵ 。戦国生 き残りの老人たちの活躍の下限は、高祖期や恵帝期ではな く武帝期であったのだ。 魯は戦国末に楚へ併合され、秦末には魯儒らが張楚に与 して孔甲は陳渉に殉じ た ︶6 ︵ 。しかし楚漢戦後に劉邦が魯を囲 んだ際﹁魯中の儒家﹂は礼楽の講習をやめず弦歌の音が絶 えなかったとい う ︶7 ︵ 。また叔孫通が劉邦に降った際には﹁儒 生弟子百余人﹂を従えており、漢はその当初から大規模な 儒家集団を内包していたこととな る ︶8 ︵ 。 挟書律の廃止前にも、叔孫通の学団、魯中の儒家、陸賈 や伏生など、多くの者たちが詩書礼楽を伝えていたのだ。 魯申公と楚元王・穆生・白生 さて、 ﹃漢書﹄儒林伝や楚元王伝によれば、 申公は魯の人、 若くして浮丘伯︵荀子の門人︶に﹃詩﹄を学び、劉交︵後 の 楚 元 王 ︶・ 魯 の 穆 生・ 白 生 ら と 同 門 と な っ た が、 始 皇 の 焚書により別去したという。 漢が興ると、申公は師とともに魯で高祖に謁見した。呂 后の時には浮丘伯が長安に居り、楚元王は子の郢客︵後の 夷王︶を浮丘伯のもとへ遣って申公と共に学ばせ た ︶9 ︵ 。 元王が薨じ夷王が立つと、 申公は王太子戊の傅とされた。 しかし太子戊は学問を好まず申公を辱めたため、戊が立つ と申公は魯へ帰り家教に専念した。王戊はやがて呉王濞ら と共に乱を起こし、破れて自殺する。 申公は ﹃詩﹄ の訓詁を作って教えたが、 家教の弟子は ﹁百 余人﹂ ︵﹃史記﹄儒林列伝︶あるいは﹁千余人﹂ ︵﹃漢書﹄儒 林伝︶といい、博士となったもの十余人、大夫・郎・掌故 は百を以て数え、孔安国は臨淮太守、王臧は景帝の太子少 傅、趙綰は御史大夫に至った。 武帝の初年、王臧・趙綰が明堂を建てんことを請い、帝 は八十余歳の申公を蒲車もて迎え た ︶10 ︵ 。しかし老子を好む竇 太后は王臧らを投獄して自殺させ、 申公は病と称して帰り、 数年にして卒した。 申公は﹃詩﹄と﹃春秋﹄とを教授し、瑕丘の江公はよく これを伝え、門下は最も盛んとなった。 ﹃漢書﹄の造作 以 上、 ﹃ 漢 書 ﹄ 儒 林 伝 を 中 心 に 概 観 し た。 こ れ は お お む ね ﹃史記﹄ 儒林列伝を襲っているが、 ﹃史記﹄ には見えず ﹃漢 書﹄の追記あるいは改変と思われる部分が大きく三つ指摘 できる。そのうち瑕丘江公以下の学統を述べた部分が﹃漢 書﹄の追記であることは当然だが、他の二箇所がともに浮
83 魯申公と浮丘伯とについて(井上) 丘伯に係る記述であることは注意すべきだろう。 ま ず﹃ 漢 書 ﹄ は 冒 頭﹁ 申 公、 魯 人 也。 ﹂ の 後 に﹁ 少 与 楚 元 王 交 倶 事 斉 人 浮 丘 伯 受﹃ 詩 ﹄。 ﹂ と い う が、 ﹃ 史 記 ﹄ は こ れを欠き、直ちに﹁高祖過魯、申公以弟子従師入見高祖于 魯 南 宮。 ﹂ へ 接 続 し て い る。 ま た﹃ 漢 書 ﹄ の﹁ 呂 太 后 時、 浮丘伯在長安。楚元王、遣子郢与申公倶卒学。 ﹂を﹃史記﹄ は﹁ 呂 太 后 時、 申 公 游 学 長 安、 与 劉 郢 同 師。 ﹂ と し て 浮 丘 伯の名を挙げず、 また﹃史記﹄楚元王世家にも元王が﹃詩﹄ を学んだことは見えない。すなわち﹃史記﹄には元王や申 公が焚書以前に﹃詩﹄を学んだとする記事はなく、呂后期 に夷王や申公が学んだ師も浮丘伯だとはされていな い ︶11 ︵ 。 ﹃ 漢 書 ﹄ 楚 元 王 伝 は、 元 王 や 申 公 と と も に 浮 丘 伯 に 学 ん だ者として魯穆生と白生の名を挙げ、また申公が文帝の博 士となったこと、元王も﹃詩﹄の伝をつくり﹁元王詩﹂と 称されたこと、穆生・白生・申公が楚の中大夫とされたこ と、楚王戊が礼を失し穆生が去ったこと、等を縷々記して いる。これらはやはり﹃史記﹄楚元王世家には見えず﹃漢 書﹄の追記に係り、すくなくとも穆生と白生とを元王の同 門とするのは虚構だろう。申公が武帝の初年に八十余歳な らば焚書の年には十歳前後となり、焚書以前に元王と学友 だったという話は信じがた い ︶12 ︵ 。また劉邦の出自からも、彼 の弟が少時に魯で﹃詩﹄を学んでいたとは考えにくい。 楚 元 王 伝 は﹁ 元 王 詩 ﹂ に つ い て﹁ 世 或 有 之。 ﹂ と い う 微 妙な表現をする。世にあまり伝わらない書だとしても、劉 向・ 歆 は 元 王 の 子 孫 で あ り、 ﹃ 漢 書 ﹄ 芸 文 志 が こ れ を 載 せ ていないのは不自然だろ う ︶13 ︵ 。また﹃漢書﹄は、呉王濞と通 謀した楚王戊を申公と白公が諌め、王戊が彼らに赭衣を着 せて市に舂かせたという。しかし﹃史記﹄によれば王戊を 諌めたのは楚相の張尚と太傅の趙夷吾の二人のみで、王戊 は彼らを殺して挙兵している。そもそも謀反を諌めた者を 市に舂かせるという措置は防諜上あり得ず、この記事も後 世の作文と考えられ る ︶14 ︵ 。 浮丘伯について ﹃ 漢 書 ﹄ 楚 元 王 伝・ 儒 林 伝 は い ず れ も 楚 元 王・ 夷 王・ 申 公らの師として浮丘伯の名を挙げる。しかし﹃史記﹄が荀 子の門人として挙げるのは李斯と韓非のみ で ︶15 ︵ 、漢初の資料 として浮丘伯に言及するものはない。 昭帝期の議論を宣帝期にまとめたとされる﹃塩鉄論﹄の 毀学篇に﹁李斯与 包丘子 0 0 0 倶事荀卿﹂とあ り ︶16 ︵ 、ここで李斯と 併 称 さ れ る﹁ 包 丘 子 ﹂ が 浮 丘 伯 だ と 一 般 に 言 わ れ て い る ︶17 ︵ 。 なお﹃新語﹄資質に﹁ 鮑丘 0 0 之徳行、 非不高于李斯 ・ 趙高也。 ﹂ とあり、唐晏は﹃説苑﹄至公篇に見える﹁鮑白令之﹂がこ
84 の﹁ 鮑 丘 ﹂ で あ る 可 能 性 を 指 摘 す る が、 そ も そ も﹃ 新 語 ﹄ は後世の偽作で問題とならな い ︶18 ︵ 。 ﹃漢書﹄は浮丘伯を﹁斉人﹂とする が ︶19 ︵ 、劉向﹁孫卿書録﹂ に よ れ ば、 荀 子 は 晩 年 に 楚 の 蘭 陵 令 と な り 同 地 に 葬 ら れ、 前 漢 末 に も な お 荀 子 の 遺 風 が 蘭 陵 に 伝 わ っ て い た と い う ︶20 ︵ 。 蘭陵は楚の県だが﹃漢書﹄地理志では東海郡に属し、現在 の 山 東 省 臨 沂 市 な い し 棗 荘 市 に 比 定 さ れ て い る ︶21 ︵ 。﹁ 楚 の 蘭 陵﹂は﹁斉魯の間﹂と言うべき位置にあ り ︶22 ︵ 、また魯そのも のが戦国末には楚に併合されていた。 斉 0 の浮丘伯が 楚 0 で荀 子に学び 魯 0 の申公を教えたとする﹃漢書﹄説は決して不自 然ではない。 さて、楚王戊は呉楚七国の乱に破れて景帝前三年に自殺 したが、翌四年には王戊の叔父で平陸侯だった劉礼が楚王 とされ︵文王︶ 、同七年には子の道が嗣いだ︵安王︶ 。さら に﹃漢書﹄王子侯表上によれば、安王の子の不害が元光六 年に﹁浮丘侯﹂に立てられたとい う ︶23 ︵ 。この浮丘は二代十七 年間だけ存続して特段の記事も伝えられず、元鼎五年末に まとめて廃された百六国の一にすぎない。 申公の師を荀子の門人だと伝承した者、あるいは彼の姓 を﹁包丘﹂だと伝承︵ないし創作︶した者は、申公の後学 であったかも知れない。しかしこれに﹁浮丘﹂の字を宛て 得た者は、むしろ楚王家の側ではなかろう か ︶24 ︵ 。楚元王の玄 孫である劉向の﹁孫卿書録﹂は﹁ 李斯 0 0 嘗為弟子而相秦。及 韓 非 0 0 号 韓 子。 又 浮 丘 伯 0 0 0 。 皆 受 業 為 名 儒。 ﹂ と 李 斯・ 韓 非・ 浮丘伯の三名を列挙するが、これは実に﹁浮丘伯﹂の初出 である。 ︹楚王家略系︺ ︵①∼⑧ は楚王の代数、 ゴチックは侯名︶ ①元王│②夷王│③王戊 ④文王│⑤安王│⑥襄王│⑦節 王 ︶25 ︵ │⑧王延寿 浮丘 節侯│侯覇 紅 ︵休︶ 懿 侯 ︶26 ︵ │懐侯││敬侯│││哀侯 劉辟彊│ 陽城 繆侯│節侯│釐侯│⋮ 劉向│ 紅休 侯歆 申公と魯詩学派 さて、申公が荀子の門人に学んだという説話が事実でな ければ、当然﹁申公一派の学は荀子に淵源して居 る ︶27 ︵ ﹂とい う通説も再考せねばならない。とくに申公が﹃春秋﹄を伝 えたとする﹃漢書﹄説は、穀梁学の由来・位置づけを考え る上で大きな問題となる。 ﹃ 史 記 ﹄ 儒 林 伝 は、 申 公 の 弟 子 と し て 蘭 陵 の 王 臧・ 代 の 趙 綰 を、 ま た 高 官 に 至 っ た 者 と し て 孔 安 国・ 周 霸・ 夏 寬・
85 魯申公と浮丘伯とについて(井上) 碭 の魯賜・蘭陵の繆生・徐偃・鄒人の闕門慶忌を挙げてお り、これら九名のうち少なくとも五名が魯ないし蘭陵の人 とされ る ︶28 ︵ 。さらに﹃漢書﹄によれば、魯の韋賢は江公と徐 公から﹃詩﹄を受け、また﹃礼﹄ ・﹃尚書﹄をも治めて丞相 に至っ た ︶29 ︵ 。東平の王式は徐公 ・ 許生に学んで廃帝昌邑王 ︵海 昏侯︶の師となり﹃詩﹄を教えたが、帝の廃位に伴い蟄居 した。山陽の張長安・東平の唐長賓・沛の褚少孫・薛広徳 らは王式に学び、さらに楚の龔勝・龔舍は薛広徳に学んだ とい う ︶30 ︵ 。 ところで上記の学統はあくまでも﹃詩﹄について述べた もので、 ﹃史記﹄も﹁申公独以﹃詩経﹄為訓以教﹂と言う。 ﹃ 漢 書 ﹄ 儒 林 伝 は た と え ば 孔 安 国 や 龔 勝 が﹃ 詩 ﹄・ ﹃ 書 ﹄ を 兼修したというが、 前者は倪寬から、 後者は陳翁生から ﹃書﹄ を 受 け た と さ れ、 ま た 周 霸 の﹃ 易 ﹄ は 田 何 に 本 く と い う。 彼らは申公からは﹃書﹄や﹃易﹄を受けておらず、複数の 経書にわたる﹁魯学派﹂なるものが武帝以前に存在したこ とは﹃史記﹄からは窺えな い ︶31 ︵ 。 し か し﹃ 漢 書 ﹄ 儒 林 伝 は﹁ 申 公 卒 以﹃ 詩 ﹄・ ﹃ 春 秋 ﹄ 授、 而 瑕 丘 江 公 尽 能 伝 之、 徒 衆 最 盛。 ﹂ と 述 べ、 申 公 が﹃ 詩 ﹄ の他に﹃春秋﹄をも伝えて江公がこれらの皆伝を受けたと 主張する。また儒林伝には、王式が晩年に薦められて博士 となり、当時﹁魯詩の宗﹂であった江博士︵江公の孫︶に 辱められて免帰したという逸話が見え る ︶32 ︵ 。いっけん王式の 敗北を述べたようにも見えるが、この記事は王式に好意的 な立場で︵というよりも江博士の悪意を強調して︶描かれ ており、また儒林伝は王式の弟子や孫弟子を列挙しつつ江 博士の魯詩については後学を伝えな い ︶33 ︵ 。この事件の後にも 魯詩学の主流は王式らであり続け、江博士は﹃穀梁﹄のみ を伝えたかのごとくである。 魯学派と穀梁学 申公の﹃詩﹄や伏生の﹃尚書﹄は、訓詁を主とする﹁樸 学﹂で、武帝の意に適うものではなかっ た ︶34 ︵ 。元鼎六年の封 禅に際して徐偃や周霸らは﹁不能弁明封禅事、又拘於詩書 古文而不敢騁。 ﹂として罷免さ れ ︶35 ︵ 、災異説を取り入れた﹃公 羊﹄や﹃斉詩﹄が重用されるようになっ た ︶36 ︵ 。 ﹃ 漢 書 ﹄ 儒 林 伝 は﹁ 瑕 丘 江 公 受﹃ 穀 梁 春 秋 ﹄ 及﹃ 詩 ﹄ 於 魯申公、伝子至孫為博士。 ﹂とし、申公の﹃詩﹄と﹃春秋﹄ を瑕丘江公が﹁尽能伝之﹂したというが、これは申公と春 秋学︵というよりも﹃詩﹄以外の学︶とを結びつける唯一 の記述であ る ︶37 ︵ 。また﹃漢書﹄儒林伝や武五子伝等は、武帝 の時に江公が董仲舒と争い敗れて﹃穀梁﹄が斥けられたと し、ただ戻太子が江公から私に﹃穀梁﹄を受け、魯の栄広
86 は蔡千秋・周慶・丁姓へ﹃穀梁﹄を授けたという。これら は い ず れ も 非 公 然 の 伝 承 を 主 張 す る も の で、 ﹃ 穀 梁 ﹄ を 武 帝以前に溯らせるための附会だろう。 宣帝が立つと、祖父の戻太子が﹃穀梁﹄を好んだことを 聞 き、 韋 賢・ 夏 侯 勝・ 史 高 ら へ﹃ 穀 梁 ﹄ に つ い て 尋 ね た ︶38 ︵ 。 彼 ら は み な 魯 の 人 で、 ﹃ 公 羊 ﹄ が 斉 学 で あ る こ と、 ﹃ 穀 梁 ﹄ は魯学でありこれを興すべきことを説いた。そこで宣帝は 蔡千秋を抜擢し、郎十人を選んで﹃穀梁﹄を学ばせた。蔡 千秋が死ぬと江公の孫を徴して博士とし、 劉向らに﹃穀梁﹄ を受けさせた。江博士が死ぬと周慶・丁姓を徴し、彼らは 石渠閣で議論したという。 韋賢らが宣帝へ言上した﹁穀梁子本 魯学 0 0 、公羊氏乃斉学 也。 宜 興 穀 梁。 ﹂︵ ﹃ 漢 書 ﹄ 儒 林 伝 ︶ が﹁ 魯 学 ﹂ と い う 語 の 初出で、本来これは春秋学について言う語だった。当時主 流であった﹃公羊﹄を﹁斉学﹂という地方的な学問だと貶 め、後発の﹃穀梁﹄をこれに比肩させる、あるいはさらに 上 位 に 据 え よ う と す る、 ﹁ 魯 学 ﹂ と は そ の よ う な 意 図 に 出 る用語だったろ う ︶39 ︵ 。漢初に 魯 0 詩を伝えた申公が﹃穀梁﹄を も 伝 え た と い う の は、 ﹃ 穀 梁 ﹄ を 魯 0 学 と 称 し た が 故 の、 宣 帝期以降に係る架上と思われる。 まとめ 項 羽 の 死 後、 劉 邦 は 魯 を 攻 囲 し た が、 ﹁ 魯 中 の 諸 儒 ﹂ は 礼楽を講誦し弦歌の音が絶えなかったという。申公はこの 頃おそらく二十歳前後、魯で無名の師に学ぶ﹁弟子﹂の一 人であった。 彼が焚書以前に楚元王と同門であったことは、 ほとんど有り得ない。 呂后期、申公は長安に出て﹃詩﹄を学び、劉郢客と同門 となった。申公と楚王家とのコネクションはこの時はじめ て形成されたと思われる。たまたま元王の太子が早逝した ため郢客が二代夷王となり、申公は四十代前半で太子戊の 傅となった。しかし三代の王となった戊は学を好まず、申 公 は 五 十 歳 前 後 で 魯 へ 戻 っ て 家 教 に 専 念 し た。 ﹁ 楚 の 王 太 子の傅﹂という経歴は、帰居の後にも弟子﹁千余人﹂を集 めるため役立ったと想像できる。 呉楚七国の乱後に復興を許された楚王家にとっても、こ の名儒と自家との関係は重要だったろう。申公と楚王家と の交誼を夷王から一代くり上げて元王に始まるものとした のは、夷王の直系が絶え、元王の子である文王が楚を復し た後に作られた因縁話ではなかろうか。元王や申公らの師 を浮丘伯とするのも歴史的な事実とは思われない。 ところで訓詁を専らとする魯詩学は武帝に好まれず、王
87 魯申公と浮丘伯とについて(井上) 臧と趙綰は武帝初年に自殺させられ、徐偃と周霸は封禅に 際 し て 罷 免 さ れ た と い う。 武 帝 期 に 盛 行 し た の は﹃ 公 羊 ﹄ や﹃斉詩﹄であった。しかし宣帝期に至り、韋賢 ・ 夏侯勝 ・ 史高︵いずれも魯人︶は﹃公羊﹄に対抗して﹃穀梁﹄を薦 め、これを﹁魯学﹂と称した。彼らは﹃魯詩﹄のほか﹃魯 論語﹄等にも個別的に関わるが、 ﹃魯詩﹄ ・﹃魯論語﹄ ・﹃穀梁﹄ 等をまとめて﹁魯学派﹂と称することには歴史的な根拠が な い ︶40 ︵ 。 荀 子 の﹃ 春 秋 ﹄ 学 が 浮 丘 伯 や 申 公 を 通 じ て﹃ 穀 梁 ﹄ まで継承されたとする説は、最も信じがたい。 注 ︵ 1︶ ﹃ 史 記 ﹄ 儒 林 列 伝・ ﹃ 漢 書 ﹄ 芸 文 志 等。 た だ し﹃ 尚 書 ﹄ 壁 蔵 の こ と は﹃ 史 記 ﹄ 袁 盎 鼂 錯 列 伝 に は 見 え な い。 な お﹃ 史 記﹄ ・﹃漢書﹄は中華書局標点本を用いる。 ︵ 2︶ ﹃史記﹄ 酈生陸賈列伝 ・ 儒林列伝等。ただし ﹃史記﹄ は ﹁ 言 0 礼、 自 魯 高 堂 生。 ﹂﹁ 於 今 独 有﹃ 士 礼 ﹄、 高 堂 生 能 言 0 之。 ﹂ と 言 う に と ど ま り、 高 堂 生 が﹁ 士 礼 十 七 篇 0 0 0 ﹂ を 伝 え た と す る 説は﹃漢書﹄に降る。 ︵ 3︶ 秦 始 皇 に よ る 焚 書︵ 前 二 一 三 年 ︶ か ら 前 漢 恵 帝 に よ る 挟 書 律 の 廃 止︵ 前 一 九 一 年 ︶ ま で は 足 か け 二 十 三 年。 焚 書 か ら 陳 勝 ら の 挙 兵 ま で な ら ば 四 年 で、 こ の 短 期 間 に 詩 書 が 紊 滅したとは信じがたい。 ︵ 4︶ 廖 平 は 今 文 学 に つ い て﹁ 按、 今 学 旧 本 一 派、 伝 習 者 因 地 而異。 ﹂﹁今派全由郷土致岐異。 ﹂ として ﹁魯派﹂ ・﹁斉派﹂ ・﹁韓 派 ﹂ を 列 挙 し、 ﹃ 魯 論 ﹄ や﹃ 穀 梁 ﹄ 等 を﹁ 今 学 魯 派 ﹂ と 呼 ん だ︵ ﹃ 今 古 学 攷 ﹄ 巻 上﹁ 今 古 学 流 派 表 ﹂、 光 緒 丙 戌 序 陶 家 鈺刊本︶ 。本田成之は廖平を踏まえつつ ﹃左伝﹄ をも ﹁魯学﹂ に含めたが︵ ﹁魯学派に就て﹂ 、﹁芸文﹂七│四、 大正五年︶ 、 武内義雄は、 ﹃魯詩﹄ ・﹃韓詩﹄ ・﹃穀梁春秋﹄等を﹁魯学派﹂ 、 ﹃斉詩﹄ ・﹃公羊春秋﹄ ・﹃伏生尚書﹄等を﹁斉学派﹂とし、 ﹃毛 詩 ﹄・ ﹃ 左 氏 春 秋 ﹄・ ﹃ 古 文 尚 書 ﹄ 等 を﹁ 古 学 派 ﹂ と し た︵ 岩 波全書﹃支那思想史﹄昭和十一年、一四〇∼一六七頁︶ 。 武 内 の﹁ 武 帝 以 前 の 経 学 を 総 称 し て 魯 学 と い ふ に 対 し 武 帝 以 後 の 経 学 を 斉 学 と 呼 ぶ こ と が で き る ﹂︵ 同 一 五 四 頁 ︶・ ﹁ 魯 学 は 天 人 の 関 係 を 否 定 し た 荀 子 の 学 に 発 源 し て 居 る に 反して、 斉学は天人の相関を肯定する孟子に出て居て﹂ ︵同 一 五 八 頁 ︶ と い っ た 見 解 は、 お お む ね 踏 襲・ 是 認 さ れ て い るようだ。 ︵ 5︶ 張 蒼 は 景 帝 の 前 五 年︵ 前 一 五 二 年 ︶ に﹁ 年 百 有 余 歳 ﹂ で 薨 じ て お り︵ ﹃ 史 記 ﹄ 張 丞 相 列 伝 ︶、 生 年 は 前 二 五 二 年 以 前 となる ︵拙稿 ﹁老子を ﹁柱下の史﹂ とする説について﹂ 、﹃集 刊 東 洋 学 ﹄ 一 一 六、 二 〇 一 七 年 ︶。 ま た﹃ 史 記 ﹄ 南 越 列 伝 に﹁ 南 越 王 尉 佗 者、 真 定 人 也。 姓 趙 氏。 ⋮⋮ 秦 時 用 為 南 海 龍川令。 ﹂﹁至建元四年卒。 ﹂とあり、 張釈之馮唐列伝に﹁武 帝立、求賢良、挙馮唐。唐時年九十余。 ﹂とある。 ︵ 6︶ ﹃ 史 記 ﹄ 孔 子 世 家 に 孔 鮒 に つ い て﹁ 為 陳 王 渉 博 士、 死 於 陳 下。 ﹂ と あ り、 儒 林 列 伝 に﹁ 陳 渉 之 王 也、 而 魯 諸 儒 持 孔 氏 之 礼 器 往 帰 陳 王。 於 是 孔 甲 為 陳 渉 博 士、 卒 与 渉 倶 死。 ﹂
88 と あ る。 孔 鮒 と 孔 甲 と が 同 一 人 物 で﹁ 魯 諸 儒 ﹂ を 率 い て 陳 勝 に 帰 属 し た 者 と す れ ば、 彼 の 学 団 は あ る い は 陳 勝 と 運 命 を 共 に し た か も 知 れ な い。 な お 孔 子 世 家 は 孔 子 か ら 孔 鮒 ま で の 八 代 を す べ て 直 系 相 続 と す る が、 孔 鮒 の 没 後 に﹁ 弟 の 子 ﹂ で あ る 孔 襄︵ 孔 安 国 の 曽 祖 父 ︶ が 嗣 い だ と い い、 孔 鮒 の 子 が 不 自 然 死 し た︵ 父 と と も に 敗 死 し た ︶ 可 能 性 を 窺 わ せる。 ︵ 7︶ ﹃ 史 記 ﹄ 儒 林 列 伝﹁ 及 高 皇 帝 誅 項 籍、 挙 兵 囲 魯。 魯 中 諸 儒尚講誦習礼楽、 弦歌之音不絶﹂ 。ただしこれは直後の﹁漢 興、然後諸儒 始得 0 0 修其経芸。 ﹂に矛盾するようでもある。 ︵ 8︶ ﹃ 史 記 ﹄ 劉 敬 叔 孫 通 列 伝。 叔 孫 通 に つ い て は 恵 帝 の 初 年 ま で、 陸 賈 に つ い て は 文 帝 の 初 年 ま で﹃ 史 記 ﹄ に 記 事 が 見 えるが、彼らの生没年や師承は知られない。 ︵ 9︶ ﹃ 史 記 ﹄・ ﹃ 漢 書 ﹄ と も 楚 夷 王 の 名 を 基 本 的 に﹁ 郢 客 ﹂ と す る が、 ﹃ 史 記 ﹄ の う ち 孝 文 本 紀 や 儒 林 列 伝 な ど で は﹁ 郢 ﹂ としており﹃漢書﹄文帝紀や儒林伝もこれを襲う。 ︵ 10︶ た だ し 申 公 は 楚 を 辞 し た 後﹁ 終 身 不 出 門 ⋮⋮ 独 王 命 召 之 乃 往。 ﹂︵ ﹃ 史 記 ﹄ 儒 林 列 伝・ ﹃ 漢 書 ﹄ 儒 林 伝 ︶ と い い、 武 帝 に召された記事はこれに矛盾するようでもある。 ︵ 11︶ 服 虔 は﹁ 浮 丘 伯、 秦 時 0 0 儒 生。 ﹂ と し て お り、 浮 丘 伯 が 呂 后期まで生存したとは言わない。 ︵ 12︶ 申 公 は 始 皇 の 統 一 の 頃 に 生 ま れ た こ と と な る。 斉 詩 を 伝 え た と い う 轅 固 生 は 武 帝 初 年 に﹁ 九 十 余 ﹂ と さ れ、 申 公 よ り十歳ほど年長となる。 ︵ 13︶ ﹃漢書補注﹄ は ﹁王先慎曰、 芸文志不載元王詩伝。志本 ﹃七 略﹄ 、劉歆不応数典忘祖当是次而未成、 故班史伝疑云﹁或有﹂ 以 示 未 見 之 意。 ﹂ と 言 う︵ 芸 文 印 書 館 景 光 緒 二 十 六 年 浙 江 書局刻本︶ 。 ︵ 14︶ ﹃漢書﹄ 楚元王伝に ﹁王戊⋮⋮乃与呉通謀。二人諌、 不聴、 胥靡之、 衣之 赭衣 0 0 、 使杵臼雅 舂 0 於市。 ﹂と、 外戚伝上に﹁呂 后 為 皇 太 后、 乃 令 永 巷 囚 戚 夫 人、 髡 鉗 衣 赭 衣 0 0 、 令 舂 0 。﹂ と あ る。 ﹃ 司 空 律 ﹄ に は﹁ 城 旦 舂、 衣 赤 衣、 ﹂ と あ る が︵ ﹃ 睡 虎 地 秦 墓 竹 簡 ﹄︵ 文 物 出 版 社、 一 九 九 〇 年 ︶ 第 一 四 七 簡 及 び﹃岳麓書院蔵秦簡︹肆︺ ﹄︵上海辞書出版社、 二〇一五年︶ 第 一 六 七 簡 ︶、 伝 世 文 献 に お い て 舂 刑 と 赭 衣 と が 共 起 す る も の は こ れ ら の 他 に 見 あ た ら な い。 戚 夫 人 の 説 話 を 踏 ま え て楚元王伝が作文されたものか。 ︵ 15︶ ﹃ 史 記 ﹄ 孟 子 荀 卿 列 伝 と 李 斯 列 伝 は 李 斯 が 荀 子 に 学 ん だ こ と を 言 い、 老 子 韓 非 列 伝 は 韓 非 が﹁ 与 李 斯 倶 事 荀 卿 ﹂ と 言 う が、 彼 ら 以 外 に 荀 子 の 弟 子 の 名 は 見 え な い。 ﹃ 荀 子 ﹄ 議 兵 篇 に 見 え る﹁ 陳 囂 ﹂ は 荀 子 の 弟 子 の よ う だ が、 ﹃ 史 記 ﹄ や劉向﹁孫卿書録﹂は彼に言及しない。 ︵ 16︶ ﹃塩鉄論﹄ は ﹁包丘子﹂ に作るが ︵﹃四部叢刊﹄ 景明刊本︶ 、 ﹃ 太 平 御 覧 ﹄ 百 穀 部 五 引﹃ 塩 鉄 論 ﹄ は﹁ 鮑 丘 子 ﹂・ ﹁ 鮑 丘 ﹂ に作る︵ ﹃四部叢刊三編﹄本︶ 。 ︵ 17︶ ﹃漢書疏証﹄ ︵浙江官書局光緒二十六年刊本︶ 等。 ﹁包﹂ ・﹁浮﹂ の通用は、 ﹃公羊﹄ ・﹃穀梁﹄の経文に見える地名﹁ 包 0 来﹂ ︵隠 公 八 年 ︶ を﹃ 左 伝 ﹄ の 経 文 が﹁ 浮 0 来 ﹂ に 作 る こ と に よ っ て も傍証される。 な お 山 田 統﹁ 伯 魚 と 陳 亢 ﹂︵ ﹁ 国 学 院 雑 誌 ﹂ 七 六 │ 一 一、
89 魯申公と浮丘伯とについて(井上) 一 九 七 五 年 ︶ は﹁ 浮 丘 伯 と 包 丘 子 と は 同 一 人 で あ り、 そ の 名 は、 と も に 蛙 か ら 発 想 さ れ た 擬 人 名 で あ り、 蝦 蟆 の 人 で ある。 ﹂とするが、従いがたい。 ︵ 18︶ 唐 晏﹃ 陸 子 新 語 校 注 ﹄︵ ﹃ 龍 谿 精 舎 叢 書 ﹄ 本、 民 国 六 年 ︶ は﹁ ﹃ 塩 鉄 論 ﹄、 ﹁ 李 斯 与 包 邱 子 倶 事 荀 卿、 包 邱 子 不 免 甕 牖 蒿 盧 ﹂。 按 即 浮 邱 伯。 ﹂ と す る︵ 王 利 器﹃ 新 語 校 注 ﹄ も こ れ を引く︶ が、 同書の紅印本 ︵筆者蔵︶ は該当箇所を ﹁按 ﹃説 苑﹄ 、 始皇時有鮑白令之、 諌始皇封禅意。即其人未知是否。 ﹂ と し、 こ れ を 刊 本 の 文 言 へ 変 更 す る よ う 附 箋 が 貼 ら れ て い る。ただし ﹃説苑﹄ 至公篇の鮑白令之は秦始皇の臣とされ、 ﹃ 塩 鉄 論 ﹄ の 包 丘 子 が﹁ 飯 麻 蓬 藜、 修 道 白 屋 之 下 ﹂ と さ れ るのに合わない。 ﹃新語﹄が後世の偽書であることは、 福井重雅﹃陸賈﹃新 語 ﹄ の 研 究 ﹄︵ 汲 古 書 院、 二 〇 〇 二 年 ︶ を 参 照。 ま た た と え ば 道 基 篇 や 術 事 篇 に 見 え る﹁ 五 経 ﹂ の 語 は﹃ 新 語 ﹄ を 高 祖 期 と み る こ と を 困 難 と す る。 な お﹃ 漢 書 ﹄・ ﹃ 塩 鉄 論 ﹄ は ﹁浮丘﹂ ・﹁包丘﹂を複姓とするようだが、 ﹃新語﹄は﹁李斯﹂ や ﹁趙高﹂ と ﹁鮑丘﹂ とを並べ ﹁鮑﹂ を単姓とするようで、 このことも﹃新語﹄の後代性を傍証する。 ︵ 19︶ ﹃ 後 漢 書 ﹄ 献 帝 紀 や 劉 虞 公 孫 瓚 陶 謙 列 伝 に﹁ 鮑 丘 ﹂ が 見 え︵ 中 華 書 局 標 点 本 ︶、 ま た﹃ 水 経 注 ﹄ に﹁ 鮑 丘 水 ﹂ が 見 え る が︵ ﹃ 四 部 叢 刊 ﹄ 景 武 英 殿 聚 珍 本 ︶、 漢 代 の 漁 陽 郡 に あ た り 斉 や 魯 か ら は 遠 す ぎ る。 ち な み に﹁ 某 丘 ﹂ と い う 古 地 名 は 河 南 か ら 山 東 に か け て 多 く、 西 方 や 南 方 に は 見 ら れ な い。 ︵ 20︶ ﹃ 荀 子 ﹄ 及 び﹁ 孫 卿 書 録 ﹂ に つ い て は﹃ 古 逸 叢 書 ﹄ 本 を 用いる。 ︵ 21︶ 釜 田 啓 市﹁ 前 漢 東 海 郡 の 学 術 的 動 向 ﹂︵ ﹁ 待 兼 山 論 叢 ﹂ 哲 学篇三二、 一九九八年︶ ・ 池田知久 ﹁蘭陵荀子墓探訪記﹂ ︵﹁大 東文化大学漢学会誌﹂四四、二〇〇五年︶等。 ︵ 22︶ ﹃ 漢 書 ﹄ 儒 林 伝 に﹁ 天 下 並 争 於 戦 国、 儒 術 既 黜 焉。 然 斉 魯之間学者猶弗廃。 ﹂とある。 楚 王 韓 信 や 楚 元 王 が 都 し た 彭 城 は も と 宋 地 だ が、 蘭 陵 は 彭城からさらに北東に位置する。 ︵ 23︶ 浮 丘 の 節 侯。 節 侯 の 名 を﹃ 漢 書 ﹄ 王 子 侯 表 上 は﹁ 不 害 ﹂ とし、 ﹃史記﹄建元已来王子侯者年表は﹁不審﹂とする。 浮 丘 侯 の 封 地 は 沛 と さ れ る。 た だ し﹃ 漢 書 ﹄ 地 理 志 に 載 せる沛郡の県名に﹁公丘﹂ ・﹁敬丘﹂ ・﹁夏丘﹂は見えるが﹁浮 丘 ﹂・ ﹁ 包 丘 ﹂ は 見 え な い。 一 方 で﹃ 水 経 注 ﹄ 泗 水 や﹃ 史 記 正義﹄高祖本紀引﹃括地志﹄は、 沛郡 豊 0 県の付近に﹁ 泡 0 水﹂ ︵ あ る い は﹁ 豊 水 ﹂︶ が 流 れ て い た こ と を 言 う。 な お 浮 丘 侯 と ほ ぼ 同 時 期 に 魯 共 王 の 子 の 劉 順 が﹁ 公 丘 侯 ﹂ と さ れ て い るので ﹁包丘﹂ が ﹁公丘﹂ の形訛である可能性は否定され、 ま た 王 子 侯 表 上 に は 代 共 王 の 子 の 劉 遇 が﹁ 夏 丘 侯 ﹂ と さ れ たことも見える。 ︵ 24︶ あるいは浮丘 伯 0 の名も浮丘 侯 0 から着想されたものか。 ︵ 25︶ ﹃ 漢 書 ﹄ 楚 元 王 伝 や 諸 侯 王 表 は 楚 王 延 寿 の 時 に 楚 国 が 廃 さ れ た と い う。 ﹃ 史 記 ﹄ 楚 元 王 世 家 は﹁ 襄 王 立 十 四 年 卒、 子 王 純 代 立。 王 純 立、 地 節 二 年、 中 人 上 書 告 楚 王 謀 反、 王 自 殺、 国 除、 入 漢 為 彭 城 郡。 ﹂ と い う が、 ﹁ 子 王 純 代 立。 王
90 純 立、 地 節 二 年 ⋮⋮﹂ と い う の は 不 自 然。 楚 元 王 世 家 の 冒 頭 か ら﹁ 子 王 純 代 立。 王 純 立 ﹂ ま で は 三 百 八 十 四 字 で 二 十 四字十六簡分に相当し、 この後の﹁地節二年⋮⋮為彭城郡﹂ 二十四字は錯簡であろう。 ︵ 26︶ 紅 侯 家 に つ い て、 ﹃ 漢 書 ﹄ 王 子 侯 表 上 は 懿 0 侯 富 ↓ 懐 0 侯 登 0 ↓ 敬 侯 嘉 0 ↓ 哀 侯 章 と い う 世 系 を 載 せ る が、 ﹃ 史 記 ﹄ 恵 景 間 侯 者 年 表 は 荘 0 侯 富 ↓ 悼 0 侯 澄 0 ↓ 敬 侯 発 0 ↓ 侯 章 と す る。 ﹁ 荘 ﹂ は後漢明帝の諱、 ﹁発﹂は光武帝の五世祖の諱。 劉 富 は 初 め 休 侯 と さ れ た が 呉 楚 の 乱 に 坐 し て 免 ぜ ら れ、 文 王 が 楚 を 復 し た 後 に 改 め て 紅 侯 と さ れ た。 劉 富 の 玄 孫 で あ る 劉 歆 が 元 始 五 年 に﹁ 紅 休 侯 ﹂ と さ れ た の は こ れ を 記 念 したものか。 ︵ 27︶ 武内書一四一頁。 ︵ 28︶ 孔 安 国 と 周 霸 は 魯 人。 碭 は 梁 国 の 県。 夏 寬 は 未 詳。 徐 偃 は﹃ 漢 紀 ﹄ 孝 武 紀 四 に﹁ 上 庸 博 士 徐 偃 ﹂ と 見 え る が 本 籍 は 未詳。 ︵ 29︶ ﹃ 漢 書 ﹄ 韋 賢 伝 は、 賢 の 五 世 祖 の 孟 が 楚 元 王・ 夷 王・ 王 戊 の 傅 と な り、 戊 の 無 道 を 風 諌 し て 去 っ た と い う。 あ る い は当時このような説話の類型があったものか。 ︵ 30︶ ﹃ 漢 書 ﹄ 王 貢 両 龔 鮑 伝 は、 龔 舍 が﹁ 以 魯 詩 教 授 ﹂ し た と 言 う が 龔 勝・ 龔 舍 の 師 を 言 わ な い。 雋 疏 于 薛 平 彭 伝 は 両 龔 が 薛 広 徳 に 学 ん だ こ と を 言 い、 儒 林 伝 は 龔 勝 が 陳 翁 生 に、 龔舍が薛広徳に学んだという。 ︵ 31︶ 武 内 前 掲 書 は﹁ 申 公 は 魯 詩 の 学 者 と し て 有 名 で あ る が 実 は 礼 と 穀 梁 春 秋 と を 兼 ね た 人 で、 荀 子 の 学 を そ の ま ま 受 け つ い で 居 る 様 に 思 は れ る。 ﹂︵ 一 四 三 頁 ︶ と い う。 な お 崔 適 は ﹁漢初諸儒無兼経者﹂ と指摘し、 ﹃史記﹄ が ﹁弟子孔安国﹂ 以 下 を 申 公 に 懸 け る の は﹃ 漢 書 ﹄ 儒 林 伝 の﹃ 尚 書 ﹄ 記 事 が 竄 入 し た も の と 主 張 す る︵ ﹃ 史 記 探 源 ﹄、 宣 統 二 年 序 觶 廬 蔵 刊本︶ 。 ︵ 32︶ ﹁ 博 士 江 公 世 為 魯 詩 宗、 至 江 公 著﹃ 孝 経 説 ﹄、 心 嫉 式、 謂 歌 吹 諸 生 曰﹁ 歌 驪 駒 ﹂。 式 曰﹁ 聞 之 於 師。 客 歌 驪 駒、 主 人 歌客毋庸帰。今日諸君為主人、 日尚早、 未可也﹂ 。江翁曰 ﹁経 何 以 言 之 ﹂。 式 曰﹁ 在 曲 礼 ﹂。 江 翁 曰﹁ 何 狗 曲 也 ﹂。 式 恥 之、 陽 酔 逿 墬 。﹂ ︵﹃ 漢 書 ﹄ 儒 林 伝 ︶。 服 虔 は﹁ 驪 駒 ﹂ を﹁ 逸 詩 篇 名 也、 見 大 戴 礼。 客 欲 去 歌 之。 ﹂ と い い、 文 穎 は﹁ 其 辞 云、 驪 駒 在 門、 僕 夫 具 存。 驪 駒 在 路、 僕 夫 整 駕 也。 ﹂ と い う。 王 式 は﹁ 臣 以 詩 三 百 五 篇 0 0 0 0 朝 夕 授 王 ﹂ と 自 称 し た が︵ ﹃ 漢 書 ﹄ 儒 林 伝 ︶、 王 式 と 江 公 と が﹁ 驪 駒 ﹂ を 共 有 し て い た な ら ば 現 在 の 三 百 五 篇 に 含 ま れ な い 逸 詩 を 彼 ら は 保 存 し て い た こ ととなる。 ︵ 33︶ ﹃後漢書﹄ 卓魯魏劉列伝が卓茂について ﹁元帝時学於長安、 事博士江生、 習﹃詩﹄ ・﹃礼﹄及歴筭、 究極師法、 称為通儒。 ﹂ というが、江博士は宣帝期の人で時代が合わない。 ︵ 34︶ た と え ば 武 帝 は 倪 寬 に﹁ 吾 始 以 尚 書 為 樸 学、 弗 好。 及 聞 寬説、可観。 ﹂と述べている︵ ﹃漢書﹄儒林伝︶ 。 ︵ 35︶ ﹃ 漢 書 ﹄ 郊 祀 志 上。 ﹃ 史 記 ﹄ 孝 武 本 紀 は﹁ 拘 ﹂ を﹁ 牽 拘 ﹂ に作る。 ︵ 36︶ た と え ば 斉 詩 を 修 め た 翼 奉 が 小 雅 十 月 之 交 を 重 視 し た の は﹁ 日 蝕 地 震 之 效 ﹂ を 知 る た め と さ れ︵ ﹃ 漢 書 ﹄ 眭 両 夏 侯
91 魯申公と浮丘伯とについて(井上) 京 翼 李 伝 ︶、 ﹃ 詩 ﹄ に も 災 異 説 が 求 め ら れ て い た よ う だ。 い わ ゆ る 孔 子 刪 詩 説 は﹃ 史 記 ﹄ に 初 見 す る が、 こ れ も 春 秋 学 に 倣 っ て﹃ 詩 ﹄ を﹁ 経 ﹂︵ 孔 子 が 刪 定 し た と い う﹁ 今 文 学 ﹂ 的 な 意 味 で の ︶ へ と 位 置 づ け る た め に 唱 え ら れ た 説 と 考 え たい。 ︵ 37︶ ﹃ 史 記 ﹄ 儒 林 列 伝 は、 公 羊 伝 の 系 譜 を 述 べ る 中 で﹁ 瑕 丘 江生為穀梁伝﹂としており、 あたかも﹁穀梁伝﹂が﹃公羊﹄ 学から派生した一伝のごとくに見える。 野 間 文 史﹁ 春 秋 三 伝 入 門 講 座 第 五 章 穀 梁 伝 の 成 立 と そ の伝文構造﹂ ︵﹁東洋古典学研究﹂ 五、 一九九八年。のち ﹃春 秋学︱公羊伝と穀梁伝﹄ ︵研文出版、 二〇〇一年︶は、 ﹁﹃史 記 ﹄ で は い ま だ 申 公 に 結 び つ け ら れ て い な か っ た 瑕 丘 江 公 が、 ﹃ 漢 書 ﹄ に お い て は そ の 師 承 関 係 が 明 記 さ れ て い る ﹂ と指摘し、 ﹁﹃史記﹄では申公は﹃春秋﹄とは無関係であり、 し か も 瑕 丘 江 公 と の 師 承 関 係 さ え 無 い。 こ れ ら の こ と か ら 考 え る と、 ﹃ 穀 梁 伝 ﹄ の 作 成 は 瑕 丘 江 公 以 前 に は 遡 り 得 な いのではないかとも予想されるのである﹂という。 ︵ 38︶ 韋 賢 が 丞 相 を 免 ぜ ら れ た の は 地 節 三 年、 史 高 が 楽 陵 侯 に 封 じ ら れ た の は 同 四 年 で、 儒 林 伝 が﹁ 宣 帝 即 位、 聞 衛 太 子 好 穀 梁 春 秋、 以 問 丞 相 韋 賢 0 0 0 0 ・ 長 信 少 府 夏 侯 勝 及 侍 中 楽 陵 侯 0 0 0 史高 0 0 。﹂というのは年代が合わない。 ︵ 39︶ ﹃穀梁﹄の﹁形成﹂の過程や時期がどうあれ、 これの﹁完 成﹂ は景帝期の ﹃公羊﹄ よりも遅れるだろう。野間は ﹁﹃穀 梁 伝 ﹄ が 今 日 見 ら れ る よ う な 体 裁 を 備 え た の は﹁ 石 渠 閣 論 議 ﹂ の 直 前 で は な か っ た か、 と い う 仮 説 を 立 て る こ と さ え 可能である﹂という。 ︵ 40︶ あ る 人 物 や そ の 学 問 を﹁ 魯 学 ﹂ や﹁ 斉 学 ﹂ と 呼 ぶ た め の 定 義 は 先 行 研 究 に お い て 必 ず し も 共 有 さ れ て い な い。 た と え ば 武 内 前 掲 書 が﹁ 孝 文 の 頃 か ら 著 名 に 成 り か け た 経 学 は 大 抵 荀 子 の 流 を 汲 ん だ も の で 魯 人 に よ つ て 継 承 せ ら れ て 居 る か ら、 こ れ を 魯 学 派 と 呼 ぶ。 ﹂︵ 前 掲 書 一 四 四 頁 ︶ と す るが、永井弥人﹁斉詩学派と斉 ・ 魯学派﹂ ︵﹁中国古典研究﹂ 四 六、 二 〇 〇 一 年 ︶ は﹁ 斉 詩 学 派 は、 斉 学 派 で は な く、 寧 ろ 魯 学 派 の 影 響 を 濃 厚 に 蒙 っ て い る と 考 え る。 ﹂ と し、 そ の 理 由 の 一 つ と し て﹁ 斉 詩 学 派 中 東 海 郡 出 身 の 者 が 多 き を 占 め る が、 漢 代 に 於 て は 東 海 郡 は 魯 に 属 し て い た ﹂ こ と を 挙 げ る︵ た だ し 東 海 郡 は 元 王 か ら 王 戊 の 時 ま で 楚 国 に 属 し ていた︶ 。