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「自己」についての神学的考察 (2)

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Academic year: 2021

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(1)(2). 「自己」についての 神学的考察 小林. 謙一. Eine ぬ eoloま scheBe 廿ach 血ng. 廿. berdasSelbst(2). Kenichi@KoBAYASHI. 2. キリスト教神学の 立場から 2. 「. まえがき. (1)」では、. 始めて、 哲学・ 免 疫学・精神医学等の 知見を援用して、 自己という問題に 関する現象論を 略述した。 続く本稿では 神学の立場から 自己という現象を 見なおし、 さらに自己の 本質に迫りたい。 「『自己』についての 神学的考察. 自己について 身近な観察から. 2. 2. 新約聖 舌 のいくつかの 箇所を手がかりに ル力 15 章、 有名な「放蕩 息子の讐 え 」の 17 節に「そこで、 彼は我に返って‥・」 とあ る。 以前の聖書協会試では「本心に. heautondeelthon. ( 新共同調 ). 立ちかえって」であ る。 ギリシア語原文では eis. であ り、 直訳すれば「自分に. ( はいった. 、 帰った ) 」となる。 ここで大切なの. は 、 自己二本心とは、 他 および外界から 切り離されて 孤立した自分の 内面といったものではなく. 物語の進行が 示すように、 「父のところ」すなわち 神のもとに い ることだ、 ということであ る。 ガラテヤ 2, 20 、 「生きているのは、 もはやわたしではない。. おられるのだ」。. この逆説は、 いわば自己がからっぽになり、. いう イメージを表している。. キリストがわたしの 内に生きて. そこをキリストが 乗っ取った 、. と. また 1 コリント 6, 19 「自分のからだは 、 神から受けて 自分の内に. 宿っている聖霊の 宮であ って、 あ なたがたは、 もはや自分自身のものではない」という. 句は 、 人. 間 的自己の所有者が 自己自身ではなく、 聖霊 二 キリストの霊であ るという、 同じく逆説的な 事態 を主張している。 さらに コ マ 14, 8 「生きるにしても 死ぬにしても、 わたしたちは 主のものなの. であ. る」. ; ピリピ 2, 13 、 「あ なたがたのうちに 働きかけて、 その願いを起こさせ、. 至らせるのは 神であ 胃 であ. る」. かつ実現に. ; ガラテヤ 3, 27 、 「あ なたがたは、 皆 キリストを着たのだ」等も. 同趣. る。. このようなキリスト 教の「自己」理解を 以下に分節して 述べる。. 2. 3. イエス・キリストとの 共同性 神学的には人間の 自己はキリストと「共にあ る」こと. (Gemeinsch燕 ) から切り離せない。. カ. 一ル・バルトの 和解論の冒頭の 節の題は「われわれと 共 なる 神 」,であ って 、 W/4 までの和解論 全体の総主題となっており、 ストとの. Ⅳ 73,. き. 71 「人間の召命」の 主題も、 肋 itsa比にあ るとおり、. Gemeinsch凪であ る。 この共同性をバルトは 次のように定義している。. commumicatio とは、 新約聖書の言語では 、 二人の人格の 間の関係. --. 「. キリ. Koinomiaまた. 両者があ る特定の秩序の.

(2) 64. 謙 -.-. 小林. 枠の内にあ り、 しかも両者相互のアイデンティティと. 特殊性を壊すのではなく、 かえって互いに. 合いつつ、 互いに完全に 相手に属する、 そういう関係のことであ. 確証し保持し. る」. (W/3, 615)。. この根本事実を 具体的に表す 聖書の比倫 的 表現が. 2. 3. 1.. 「神の子」. であ る。 ガラテヤ 3, 26 、. 「あ なたがたはみな、. る信仰によって 、 神の子. キリスト・イェスにあ. なのであ る」。 しかし、 人間また信者の 実体ないし本質が 神と同じになるというのではない。 れは人間がキリストに「あ ずかる」. (KDIV/3. 612) ということであ り、 原像たるキリストの 模. (613)なのであ って、 類. 像 たること. のみ理解されなければならない 際の伏線ないし このょヒ楡を. そ. 上. ヒの 関係を表しているのであ. り、 「神の子」性は 機能として. (614)。 この点は、 後述する神秘主義・ 自己中心の危険を 考える. 前提となる。. 解釈して概念的に 表せば、. 2. 3. 2. キリストとの 共属性 (Zusammengeh ㎝ gkeit,Zugeho. Ⅱ. gkeM. となる。 ロマ 7, 4 を参照。 ピリピ 3, 10 、 「キリストとその 復活の力を知り、 その苦難にあ ずか. って…」。. 「われわれ人間の. 分の自己を今や. 自己性 (Selbsthe㈲をキリストは 彼空事柄とした。 だから人間は. 彼二二五二しか探し、 また見出すことができない」. ( Ⅳ /2.. 自. 302. 強調は原著者 ) 。. この事態を一段進めると. 2. 3. 3, 神の模倣 という思想に 至る。 「こうして、 なりなさい」. (エ. あ なたがたは、. ペソ 5, 1)。 キリストを原像として、. ことを通して「次第に 神のかたちを 刻んで い. なる」 (創世記. 神化. その像を後から 形 づくっていくのが 信徒. (imagode') であ るから、 信徒はキリストに 倣. の生活であ る。 キリスト自身が、 究極の神の像 ぅ. 神に愛されている 子供として、 神にならう者に. く」 (森有正 ) 。. 繰り返すが、 決して「神のように. 3, 5) のではなく、 まして「神になる」のではない。. この点、 ロシア正教神学の. (Apotheose)の思想は危険をはらむ。 神の、 またキリストの 模倣とは、 いっそ 3 具体的に. は、 神の愛の模倣. (模像・反映・. 対応、 ,参与) であ るはの IV/2, 882, 885 仕 , 909,93 ㎝・) 。. キリストとの、 さらに強く、 完全で直接の Gemeinsch ㎡を表すのが 2, 3. 4. uniocumCh. であ. る. Ⅱ. sto. ( キリストとの. 一致 ). (W/3. 619%.)。 「信徒とキリストとの 一致は 、 " 相互の独立性・ 独自性を保ち、 相互に. 独立して行動するような 関係において 成り立つ結びつきであ る。 それは…現実の、 完全な、 解消 できない結びつきであ であ. る. る」. (621)。 この事態の具体的表現がクリスマスの. 奇蹟と、 とりわけ聖餐. (623皿 ) 。 なお、 この項の間 題は ついては以前にいくらか 詳しく論じた ,。. ここで 鍵 となる語が 2. 3. 4. 1. in ( ギリシア語で en). ラ とレ. 前置詞であ る。 enCh 「 hSto. (inChristus) という表現はパウロに 頻出する。. 上述の 2. 2.. に挙げたガラテヤ 2, 20 と表現上は逆であ るが、 事柄としては 同じであ る。 「イエス・キリスト.

(3) 「自己」についての 神学的考察 (2). 65. にあ って」がすべてのパウロの 思想のアプリオリであ る。 ここが神の活動の 場また領域であ る. (IV/2. 745) 。 「キリストにあ る」ということは、 「人間は一人で 自分自身に任されているのでは ない、 " 自分目身に閉じこもり、 自分に囚われているのではない」. (IV/l, 108) ということであ. る。 そして次に、 イェス・キリストにあ る存在が人間の 真の存在であ る。 2. 3. 4. 2. 新しい存在. 「われわれはわれわれ 自身に属するのではない。 われわれ自身に 属するなら、 " われわれは古 い 人間であ. る」 ( Ⅳ /2.. 635)。 「新しい存在は 、 神に仕える存在だという 点で、 天使に等しい. 存在」. (IV/l. 122)、 「神の側らにあ って神の存在と 生とにあ ずかり、 神の意志をともに 意志し、 神の行 う ところをともに 行う 、 ・‥神のパートナーとしての 存在であ る」 (123)0 しかしこの新しい 存在の完成は 未来に待たなければならない (W/1, 7 ; W/2, 368 ; W/3 、 であ. り. 358 ぱ・, 586,uA). 。. 2. 3. 4. 4. 復活後の新しい 生. ここにおいて「われわれの 人格の完成された われを「希望の 状態に移し入れる」. 形態」. (IV/2, 368) が実現する。 この約束がわれ. (369)。 復活後の新しい 人間存在をパウロは「霊のからだ」. (1 コリ 15, 44) と表現する。 これが何を意味するのかはここでは. 詳述できないが、 本稿の関心. から一点だけ 指摘する。 それは、 パウロが「わたしたちすべては、. " 終わりのラッパの 響きと 共. に 、 またたく間に、 一瞬にして変えられる。. " 死人は朽ちないものによみがえらされ、 ( その時. 生きている. る」. コ. わたし 毛 ちは変えられるのであ. (1. コリ. 15. 51-52) というように、 また力 んヴ. ア ンがにのいやしい 肉体を 、 ご 自身の輝く御からだと 同じ形にしたもう 贈り主」. (Inst.m,25,8). と述べるように ,、 新しいからだは 古 い、 地上の肉体と 隔絶した身体ではなく、 古いからだの 復 活 であ り、 すな. ね. ち、 完成した新しい 自己と地上の 生の自己とのアイデンティティは 連続する、. ということであ る。 永遠の中における 自己はその個体性・ 個性、 またおそらく 名前をも、 保持す. るであ ろ 、つ. 2. 3. 5. Pa れitipatio(参与 ) 「キリストとの 一致」という. 与. 」. 事柄を、 とりわけ聖化の 観点において、 表現する別の 試みが「 参. (paれ下 patio,Teilnahme) であ る。 信徒は自分自身にではなく、 キリストに属する. (IV/2,. 586) 。 信徒はキリストの 塑性にあ ずかる (585. 586) が、 またキリストの 苦難にあ ずかり ( Ⅳ /2,268,686, 1V/3,731f.),その 再 挙 に (IV/2,421) 、 したがってキリストの 復活と (IV/3,657) 終末 の 喜びにも ( Ⅳ /2.736) あ ずかり、 最後には神 ご 自身の栄光化にも 参与するⅠ fTT/2.220) 。 ここで いう参与とは、 キリストの 生 と何と復活の 二次的な反映・ 比倫・模像・ 反復ということであ ( Ⅳ /3,732)、 レ Ⅰ 0. り. 再び繰り返すが、 決してキリストと、 まして神と、 同じになるということではな. 4. キリストとの. Gemeinsch柑の帰結として 出てくるのが、. まず. 2. 4. 自己からの自由. であ る。 本稿の (1) でたびたび参照、. した. R.D. レインは「イェスは、 両親を捨てよと. 説いた」. 5こ.

(4) 66. 小林. 謙一. とを指摘している。 親を自分のアイデンティティの 根拠にしてはならないというのであ る。 出典 は「だれでも、 父、 母、 妻、 子、 兄弟、 姉妹、 さらに自分の 命までも捨てて、 わたしのもとに 来 るのでなければ、 わたしの弟子となることはできない」 ( ル力 14,26)であ ろう。 平行箇所マルコ 8,34では「だれでもわたしについてきた いと思 、 うなら、 自分を捨て、 自分の十字架を 負うて、 わ たしに従ってきなさい」と 言われている 60 親のみならず、 自分の命 二 自己でさえ、 自己のアイ デンティティの. 根拠にはならない。 召命また選びのできごとにおいて、. (deぬcto)譲渡され…、. 上. わち. 二月・見 、 から引き離す」. 人間が自己を. 離れて、. 自己を、. 権 利上. (W/3.617. 強調は原著者 ) 。. (de加 re) 自己に属さ 丘 Ⅰもの、 すな 少し分かりにくい. 言い方だが、. つま. 認識し、 それ ( という よ り人格 ) に自己を明け 渡す という自由の 行為 (投企 ) すなわち純粋受動性,に、自己の真のあ りかがあ る、 ということであ ろう。 「自由とは、 神の至高の自由との、 自分からする、 自発的な、 だから意志的な、 一致にお り. 、. 且. 自由において. 「人間はキリストに 事実. ける存在のことであ. る」. 自己の真の根拠を. (W/1,108)。. 2. 5. 捉 (Gebot). 26. る。 要点を述 べる。 「神の言葉の 中に人間は自分の 別の、 本来の顔、 自由における 自己自身を見出す ( Ⅱ 72.654L 。 「われわれ自身からわれわれはおそらく、 自分が何を欲しているかを 知るだろうが、 何 を われわれはなすべきかは 知ることがない」 ( Ⅱ /2.727) 。 捉 というものは 定義上、 外から来る ( たとい心の内に 響いてくるものとしてであ っても ) ものであ り、 本稿の論理からは、 神から イ この. な. 自己の自由の 規定を具体化するのが 神の戒め. (捉. ・律法・倫理 ) であ. エス・キリストの 姿をとってやって 来るものであ る。 この戒めは自由の 律法であ って 、 個々人の. 個々の行為だけでなく、. 方では、. 心の隠れた 所 ) に達す. キリストとの 共同性からのもう 一つの帰結が 教会論であ る。 UmiocumCh. iSto 「 は直ちに教会へ. 発展する。. 律法の民の一員とい. その個人の自己そのもの. (福音書の言い. る。. 2. 6. 教会 と. 「聖徒」は新約聖書では 常に複数であ. る。 パウロの自己理解は. うものであ った。 古代からイスラエルには 集団的自己の 思想があ った,0 旧新約聖書を 通じて、 人間への関心はまずイスラエルまた. 教会であ り、 個人はその次に 来る。 バルトの 1のⅣの 各巻 で. も、 教会論が先で、 個人の信仰・ タ ・希望は教会論を 基礎として、 その後に論じられている。. リストが頭、 の 充溢. 信徒総体がからだであ. る。. さらに エ ペソ書では、 終末においてキリストと「全宇宙. (pIeroma)」としての教会とが 合わさって「全体的キリスト. 「完全な人間. (anerteleios) 」が啓示されるとの 奥義が希望の. /2,745f.) 。 各個人の自己はこの. キ. (to血 sChnsms) 」すなわち. 対象として述べられている. (Ⅳ. 終末における 教会の完成の 中に究極の場所と 意味を得るであ ろ. 2. 7. 神秘主義 キリストとの 一致および教会論が 自己論にとってもつ. 意味から、 神秘主義の危険が. る。 「キリスト教信仰は 昼であ る。 それが明けそめて、 神秘主義の夜も 過ぎ去った」 神秘主義およびそれと 共通性をもっ 限りでの敬虔主義また 実存主義的思想の. 明らかにな. (IV/1,702)0. 危険とは、. p 「 ome.

(5) 「自己」についての 神学的考察 (2). モチーフの. ( 一方的な ). は本来、. エス・. 「. 67. 主題化、 信仰の Ich-Fr6mmigkeit への縮減であ. る. ( Ⅳ /1,844ぽ ) 。 ・. Pr0me. ,わたしのためにあ る、 ということ以外の 意味をもたない」 (845.. キ l ス. 私にでなく、 圧倒的にキリストのほうにあ るにもかか わらず。 この誤謬の現われを 列挙すれば、 信仰の私事化 (165)、 信徒の実存の 自己目的化 ( Ⅳ のであ って、 つまり重点は. 強調は原著者. ). /2,367)、. まりにも人間的な 自己中心性、 聖なる我執. 「聖なる. 「あ. エ ゴイズム」「敬虔な. 話 (572)、 「内面性への. 逃走」. (Selbstsucht) (W /3,650,Ⅱ/2,147)、 」. Ichbez0genheit( 自分へのとらわれ. )」. (W /3,652)、 敬虔な自己 対. (IV/2.614) 等となる。. 2. 3. 1. で予告した 26 に、 信徒の自己ないし 実存は自己目的ではない。 証人としての 務 め ・働き・機能が 第一の関心でなければならない (IV/3.690.707.734u.pass ㎞ ) 。 「イエスは、 ス トア的 静 諦や神秘主義的至福に 閉じこもって. (f/2,251f.) 。 イェスに従. う. 隣人から離れて 実存するということがなかった」 信徒の実存は 全く神と隣人のためにあ るのであ って、 自分のことは. beilau丘fg ( ついでのこと。 Ⅳ 73.748)、 また vorl互㎡㎏ (終末における 完成前の、 さしあ たりのもの。 773) 、 「随伴現象」 (775) にすぎない。 神秘主義・自由主義・ 実存主義の誤謬は、 この Zugabe ( 添え物・おまけ ) を本質的なものと 取り違えた点にあ る (751)。 他方、 神秘主義のもっ 真理契機は、 カルヴァンが、 義認には信仰さえもが 役に立たないと 言 う よ. うに、 徹底して自己を 無にする (leermachen. Ⅳ /1.689)という点にあ るように思われる。. れは エックハルトの 言う「純粋・ な 離脱」. 9 にきわめて近い. リストへの信仰の 前段階にすぎないということであ. こ. 思想であ ろう。 大切なのは、 それがキ. る。 それが第一の 関心になってしまうと、 19. 誤謬に転落してしまう。 イスラム教ではコーランの 朗詠で自己意識が 消え、 神の一人称とムハンマドの 一人称が一つになるというⅢ。 もしそうだとすれば、 前半はよいが、 後半は受け入れられない。 神と人間の関係は「 umiomys 廿ca あ るいは神認識の 主体と客体のなん 世紀的自己中心主義の. らかの同一性には 至らない」 " 。. 以下、 2. 8. 自己との関わりの 諸相 を神学的に見ていきたい。 2. 8. 1. 自己肯定 預言者. ヨ. ナは「神の双でそうあ るような自分であ. ブ 記を見ると分かるように、 「神は人間の. 肯定する ラ 1. (彼の手紙全体に. (IV/1.603) 。 詩篇 51 篇 他 、 また. り続けた」. 自己肯定に Ja を言. 行き渡っているが、 特に. 1 コリ 4. う. 」. 章、. 章 ) 。 彼は「自分自身であ ることをやめることができない」. (639)。 Ⅱ. ョ. パウロも大胆に 自己を. コリ 3 ∼ 7. 章、 10 ∼ 13 章、. ガ. (IV/1,712)0. しかしここで 大切なのは、 これらすべての 自己肯定が 、 神に向かって 告白された限りでのみ 成 り. 立つ、 ということであ る。 パウロが自分自身でしかあ. りえないのも、 自分によってではない。. 外、 自己以前に、 自己を超えて、 しかも自己のもとに」 (IV/2.421)もつか も こそ、 自己肯定があ ぅる 。 その最深の根拠は「被造物の 対する神の自己肯定」 (W/1,105) にあ る。 だから、 「われわれは 自分を信頼してよ い 一われわれの 中に働く神の 力のゆえに」 (W /2、 671) のであ り、 「まず人間の 神との対立、 次に人間同士の 対立、 さらに自分自身との 対立の 自己の生を「自己の. り. 止揚」. (351) が可能になる。.

(6) 小林. 68. 謙一. 出る倫理が「生命への 畏敬」 (fTT/4、 366 ∼ 453) であ る。 「人間に命. このような自己肯定から. じられている 生命への畏敬が 生命肯定として 展開されると、 この肯定はさらに、 人間は断固とし て且 全自身であ ろうと意志するということの. 中にも存する」. (439. 強調は原著者 ) 。 要点をまと. めると、 一回的で独自なこの 私として、 しかしあ くまでも神の 前に 、 神にこのような 者として 創. られ、 神が語りかける、 そのようなものとして、 人間は生きようとしてよい、 「各自が suigene hS, 「 オリジナルなのであ を 保持するために、. る」. 本稿の 2. 2. に触れたよ. ということであ る。. (441)。 この欠かせない、 代替のきかない 自分の命 う. に、 それを犠牲にし、 捨てなければならない。. 表現を和らげれば、 再び与え返されることを 信じて、 自己すなわち 命を捨て. あ. えて逆説を薄めて. る. 用意をたえずしていなければならない、. ということであ る。 だからこのような 自己肯定は A 、ン. ュ ヴァイツァ一の 哲学的・無差別的な 生命への畏敬とは 違い、 またトレルチが 言う「動物的・ 感. (IV/1,424) とも違. 覚 的な自己肯定」. う. 。. キリスト教神学の 他のすべての 命題と同じく、 この自己肯定についても、 終末論的留保がなさ. (fTT/4、 442) という命令、 むしろ約束が、 (IV/2.406)という命令と 並存、 という 20 一致するのであ る。. れなければならない。 「汝がそれであ るものになれ」 「汝がそれであ るものであ れ」. 2. 8. 2. 自己義認 以上に述べたことからして、. 自己義認があ りえないことは 明らかであ る。 パウロがロマ 書. ガ. ・. ラテヤ 書で詳述しているとおり、 外から、 つまり神から 附与された義のほかには、 人間の側には いっさい義がないからであ る。 自分を義とすることができるのは 神だけであ る (W/1,338f.)0 「自分の義」. ( ロマ. 10,3. ;. ピリピ 3,9) は実は「不義. (不正 ) 」にほかならない. (IV/1,593)。 神の. 恵みの裁きだけが 人間の自己の 間にいわば割ってはいって 自己を切断し、 虚偽の、 つまり 無 なる 自己を滅ぼし、 神から見た神の 子たる人間を 義とする (fmm/4,265) 。 ユンゲルも同様の 趣旨を述 べている。 「自我は自分自身と. 同一になろうとする。 " しかしそれは 自己のアイデンティティを. 探し求める人間の. ユートピアであ る。 " 神が私に最も 近い。 神は私が私自身に 近い. ( 不可能な ). よりもっと近い。. 」. ". 宗教改革時代の 熱狂主義者や 人文主義者が「自分をまじめにとっていた う悲劇であ ろうか」 を 免れさせるのが、. (. 様を見るのは、 何とい. 1/2. 748) 。 本稿の 1. 2. 1. でふれた「夜郎自大」であ る。 この悲喜劇. ユーモアであ ろう。 それは神の義の 信仰からのみ 生じる。 終末の完成した 宇. 宙におけるユーモアと 遊びと芸術の 卓越した意義については、 以前に短く論じた。 ". 2. 8. 3. 自己否定 これについて 内容的にはすでに 論じてきた。 要約すれば、 人間は自己を 失う す ) ことにより、 かえって自己. (金 ). ( 自己から目を. 離. を得る、 ということであ る。 ここではいくつかの 点を付け. 加えておきたり。 f天統的に自己否定は. mo れ市 catio ととらえられてきた。. への不満・絶望として 心理的にとらえるのは 不充分であ. しかしそれをスコラのように る. 単に自己. (IV/2.650)。 それは心理の 根底にあ. (650,652,653)oMo ㎡ fiCaⅡo は、 十字架という 限界に遭遇して 自分 自身に驚 偉 するできごと (688)、 そこからする 自分自身との 対決・戦いのこと (615,618,M5)で. ってそれを超える 真理であ あ. る. る。 しかしこのできごとの 中心は人間の. ( 内心の ). プロセスではなく、 イエス・キリストであ.

(7) 「自己」についての 神学的考察 (2). る. 69. 。 キリストの十字架という 客観的な根拠があ るから、 mortif6Catio は viv 市 catio に転換されるの. であ. る. (653)0. 自己から離れ、 自己に死んで、 どこへ行くのか。 他者・隣人に 向かう。 自己否定からまっす ぐ に 帰結するのが、 献身としての 愛であ. る. (831)0. 絶対他者に向かうと、 それは服従の 行為になる。 自己否定とは、 ほとんど服従というに 等し レ ). 0. 14. Ⅱテモテ 2,13 の 句 「たとい、 わたしたちは 不真実であ っても、 彼. ( キリスト・イエス ). は常に. 真実であ る。 彼は自分を偽ることができないのであ る。」の「偽る」をバルトは「否定する (verleugnen) 」と訳している. (IV/2,610) 。 「人の子は、 自分が神の子であ ることを否定できない」. (610)。 また、 「神は真実であ るから…神は 自分を否定することができない」. ( Ⅳ /3,580)。. これが、. 人間の自己否定が 必然であ ることの最後の 根拠であ ろう。 なお、 神とキリストとの「自己」につ いては、 できれば後述する 予定であ る。 2. 8. 4. 自己犠牲 これについては 前掲拙論「代理観俳の 神学的考察」. 28 頁以下に論じたが 、 い くらか付け加え. ておきたい。 ロマ 書 6 章 13 . 19 節、 12 章 1 節に「自分のからだ」. (肢体 ). を神にささげなさい」とあ るのは、. 自己の全体を、 という意味であ る。 6 章 13 節には前段にはっきり「自分自身を」とあ. る。 宗教的. 行為や慈善において 部分的犠牲が 払われているように 見えるが、 キリストの十字架の 自己犠牲 以 後、 本質的には信徒の 自己犠牲も自分の 一部ではなく、 全体にかかわる。 キリストの代理は「 存 在 論的代理」 " だったからであ る。. いうまでもなく、 自己犠牲は愛に 通じる。 「人がその友のために 命を捨てること、 これよりも 大きな愛はない」 を. ( ヨハネ. 15.13)。 現代アメリカの 神学者 H. コックスは東洋思想を 遍歴した経験. 報告する書物の 中で、 自己実現を求める 自己愛を去って 犠牲と愛に目を 向けるよう勧めてい. る,。 。 「聖書的な考え 方も仏教思想も、 それぞれ別の 理由でアイデンティティ. 一の探求という 考. えに反対しているが、 両者はともに、 それは人間の 正しい目標ではないといっている. 点では変わ. らない」 ,,。. 「世界と人間への 神の Hingabe は、 ユダヤ教ラビニズム・カバラ. (IV/2, 392) という注目すべき 思想について 思想の「神の 縮減 (Z㎞ zum) 」「神の降下」「神の 世界内局 田 (犠牲・献身 ) 」. といった一連の 思想、を発展させて「神の 自己譲与」についての 思索を展開しているモルトマン とあ. ". わせて、 いずれ考察したりと 思 う 。. 2. 8, 5. 自殺 この複雑・微妙な 問題を論じ尽くす 用意は筆者にはないが、 以上の考察に 接続する要点だけを 神学的に述べる。 人間の自己の 真実の主体はキリストであ るから、 自分を殺すことは 人間自身の事柄ではなく、 人間は自分自身の 裁判官ではない。 自己とその命は「神に 仕えるために 使用される」「みずから 手をふれることができない. 貸与」. (fTT/4,461) だからであ る。. 自殺の問題の 中心にあ るのはおそらく. んlfechtungであ ろう。 この点はバルト (f/4, 459ぱ ) ・.

(8) 小林. 70. も ボンヘッファ. 司 。 も指摘している。. 謙一. このアブラハム 的・ルター的・ 敬虔主義的概俳は 訳しにく. い。 ふつう「誘惑」と 訳されるが、 キルケゴール. 下. 恐れとおののきⅠのあ る訳者は「試練」と. 「誘惑」の両方の 意味をこめて「 試惑 」としているお。 この概念の中心は、 苦難の中で神が 自分 とともに、 自分のためにいますのか 否か 、 神はそもそも 存在しないのではないかという. なさいなまれるということであ. 疑いに 身. ろう。. 自己主張、 自己満足、 自助、 自己保存、 逆に自己喪失、 といった概念については 省略する。 本 質的に上に述べたことにすでに. 含まれるからであ る。. 2. 9. 自己認 言哉. 神学においては、 現実. ( 存在 ). が先であ って、 その認識はその 次に来る。 これについては 以前. に序説的に論じた "0 自己に関しても 同じであ る。 神の子という 新しい存在がまずあ. り、 それに. 規定されて、 その存在の認識、 つまり自己認識が 出てくる。 「われわれがほんとうにイエス・キリストを 見るとき、 われわれは自分自身を. 認識し」. ( Ⅳ /2,. 315) 、 「ほんとうに、 そして確実に、 自分自身に出会う」 (316)。 自己は「隠されたもの」 (317) であ って、 自分でも もたない」. ( 自然的には ). 認識できない。 「われわれは. ( 自己認識の ). (317) 。 だから「イェス・キリストの 中にわれわれ 自身を認識する」. 可能性・能力を (319) ほかなり。. (Inst.I, 1,2-3.1 ①Ⅳ /1. 405 に引用 ) 。 この「純粋な 現 実性において 贈られる、 事実的な」自己認識 (IV/2. 317) でない自己認識は 自己欺 哺 にほかな カルヴァンも 同様の理解を 示している. らない。 ひらたく言えば「井の 中の蛙」で、 大海も知らず、 高い空も見ない。 その自己認識・ 己理解は不確実に. 自. 揺れていて、 つまり誤解であ る。. しかしまた、 キリストによって 啓示ないし開示された「正しい」自分の. 自己にばかり 目を注ぐ. る。 信者がしばしば 陥るのが「詩篇から 敬虔な自己認識を 読み取る」 ( Ⅳ 73. 743) 危険であ る。 ( Ⅱ /2. 671f.参照。) こ ・こでも中心は 召された者、 証人としての 職務、 委託された のは誤りであ. 任務の認識であ って、 2. 7. で強調したことに 対応,L て 、 自己認識、 恵みの享受は 副次的な「 追 加、. 添え物」. (750) にすぎないのであ る。 ソクラテスの「 汝 自身を知れ」もこれに 似て、 自己の. 形而上学的・ 神秘主義的認識を. 求めたのではなく、 アテナイにおける 自分の具体的な 使命を知り. たかったのではないか。. そもそも認識また 知識は聖書的理解においては、. 中立的・. 「科学的」なことではなく、 認識の. 「対象」が知る 者にできごととして 襲いかかり、 その者をいわば カ づくで変えてしまう 行為であ る あ. (Iy/3. 210 代. ) 。 この点については 後述する「自己理解」の 項でいくらか 詳しく論じる 予定で るが、 論述の筋からすると 次に罪について 考察しなければならない。 Ⅰ続くⅠ. "圭 1. 姐 B 町田, KlrcⅢcheDogma. K. Ⅱk Ⅳ /1,. 1, 以下、 この書からの 引用はぼ DIV/l,. 1) のよう. に 本文中に巻数と 負数を示す。. 第 1 類 第 39 輯 、 1993 、 31 頁以下。. 2. 拙論「代理観俳の 神学的考察」横浜国立大学教育学部紀要. 3. カルヴァン『キリスト 教綱要』Ⅲ /2, 渡辺信夫 訳 、 新教出版社、 1964 、 238 頁。 なお 25 章 全.

(9) 「自己」についての 神学的考察. (2). 7Ⅰ. 体の文脈に注意せよ。 4. 前掲拙論 3435 頁にティリッヒの「参与」概俳について. 5. R.D ルイン『自己と 他者』 志貴 ・笠原 訳 、 みす ず 、 1991 、 110 頁。 ボンヘッファー 『主に従 3 上 、 岸・ 徳 書記、 聖文台、 1963 、 第一部、 にすぐれた 講解 があ. 6. 短く論じた。. ロ. る。 7. ルタ一におけるこの 受動性を. くとらえているのが 松浦純正十字架と 薔薇. よ. 一 知られざる ル. ター』岩波、 1994 、 であ る。 特に 158 頁参照。 8. H.W. ロビンソン『旧約聖書における 集団と個』船水筒同調、 教 文 館、 1972 ; T. ボ ー マン 『ヘブライ 人と ギリシア人の. 9. 思惟』植田重雄訳、 新教出版社、 1970 、 第一部第五章。. 『エックハルト 説教条』田島照久編訳、 岩波文庫、 1990 、 特に「論述・ 離脱について」。. 10 『図書』岩波、 1992 年 6 月号、 8 頁、 荻野アンナとの 対談における 島田雅彦の発言。 ll Eberh 打 d JUngel, Go はes Semn ist ㎞ Werden.Veran Barth , Eine@Paraphrase 12@ Eberhard@Jungel. 師o 「 tliche Rede vom. , Tiibingen , 3.@Auflage , 1976 , 58f. , Gott@als@Gehei. Sein Go 廿es beiKar:. ・. nis@der@Welt , Tiibingen , 2.@Aufl 1977 , 244f Vgl ・. ・. ・. auch@404@. ;. ders.,Ba「 th-S 血 dien,GUtersloh,1982,346. 13 「カール.バルトの 文化の神学」横浜国立大学教育学部紀要第 14 前掲ボンヘッファー『主に. 従う』. (Nac㎡olge) 上. ・. 1. 類 第 36 輯 、 1990 、 M-66 頁。. 下 ,参照。. l5 Eberh 酊 dJUngel,We tloseWahrheit, 「 Ⅲ№ ingen,1990,273.. 16 ハーヴィー・コックス『東洋へ』上野圭一調、 17. 回書 114 頁。. 18. J 廿gen. 19. ボンヘッファー『現代キリスト. MoItmmn,DasKommen. 平河出版社、 1979 、 第 6 章「ナルシスの 池 」。. Gottes.Ch hS 「 田 che Eschatolo里 e,Chr.Kaaiser,1995,331 代 教倫理』ボンヘッファー 選集 W 巻 、 新教出版社、 1962 、 161,. 169 頁。 20 キルケゴール 全集第 5 巻『おそれとおののき・ 二つの教化的講話』桝田啓姉郎訳、 1962 年。 なおデンマーク 語の原語は F Ⅱstelse.. 21 拙論「神学的現実」横浜国立大学教育学部紀要第. 1. 類 第 36 輯 、 1990 、 52-53 頁。. 筑摩書房、.

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参照

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