Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College, Available from http://ir.tdc.ac.jp/
Title
自然観察から始まる歯科医学:古代バビロニアから現代
までの歯痛治療の変遷
Author(s)
澁川, 義幸
Journal
歯科学報, 119(4): 4i-4i
URL
http://hdl.handle.net/10130/4979
Right
Description
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自然観察から始まる歯科医学:
古代バビロニアから現代までの歯痛治療の変遷
澁 川 義 幸
歯の治療技術は,自然界を観察し「経験に基づく」医術として発達してきた。古く歯痛の原因は, 「歯の悪魔」,「歯の虫」,「体液」であるとされた。古代バビロニア人は紀元前(BC)5000年の粘土板 に,歯痛を「マルドゥク・ナディン・アチュの苦痛」として表現し,ヒヨス(ナス科の有毒植物)をウ ルシ科の低木からとれるマスチック樹脂と練り合わせたものを歯の治療に用いていた。古代エジプト 人は,虫歯と歯周病に悩んでいたようで,BC2500年には「歯をあつかう人々の職長にして最高位の 内科医」である「ヘシレ」がヒエログリフに記録されている。当時の医学知識の集大成である「エー ベルス・パピルス(BC1500年)」には様々な口腔疾患が記載され,歯痛治療に多くの植物(没薬(ミル ラ)・クミン・ナツメヤシ・ケシ・トラゴマ)を用いると記載されている。文明が西洋へと移り,BC 25年から紀元50年頃になるとアウルス・コルネリウス・ケルススが「医学論」で,シナモン・マンド レイク(ナス科の有毒植物)・ケシ・海狸香(カストリウム:ビーバーの分泌物)などの混合物による歯 痛治療技術を発展させた。また BC3000年のメキシコでは,唐辛子を歯痛薬として用いていたという。 歯学の進歩は更に続く。「心は脳に宿る」とし中世後期までの医学の礎を築き,実験生理学の父と しても有名なクラウディウス・ガレヌス(170年頃)は,歯痛の原因が歯の内部,すなわち歯髄,にあ ると記述している。「日本書紀(720年)」,「医心方第五巻(日本:984年)」,「開宝重定本草(中国:974 年)」には歯痛の治療薬として丁子が登場する。ようやく18世紀になるとピエール・フォシャール (仏)によって丁子による齲 治療が述べられる(Wynbrandt,1998)。 中村雄二郎は,「医術はすなわち art(技術)であり,その医療技術は,臨床における経験によって 培われるもの(岩波書店,1992)」とし「臨床の知」と名付けた。古来利用された没薬・クミン・シナ モン・唐辛子・海狸香・丁子には一つの共通点がある。全てフェノール類を含有することである。没 薬・丁子にはユージノールが,海狸香にはクレオソート・グアヤコールが,唐辛子にはカプサイシン が含まれている。現代歯科医学には多くの目覚ましい技術革新と発展が見られるが,基本的な歯科医 療は,まさしく古来の「臨床の知」の呪縛から逃れることができていないのではないだろうか? 科学は普遍性・論理性・客観性を通して医学を根拠づける(中村,1992)。フェノール類をその主成 分とする古代の天然成分やオピオイドを成分とするケシに,歯痛を抑える科学的根拠はあるのだろう か? 20世紀後半から,歯痛に関するいくつかの重要な発見がなされてきている。一つはカプサイシン (唐辛子エキス)受容体である「Transient Receptor Potential(TRP)チャネル」の発見である(1997)。また歯痛の発生に,歯髄ニューロンの ATP 受容体(P2X 受容体)が必要で(1997),歯髄ニューロンの μ−オピオイド受容体活性化が歯痛を抑制するという知見である(1995年)。さらに近年,象牙質への 刺激が象牙芽細胞の TRP チャネルを活性化することで,歯髄ニューロンの P2X 受容体を活性化し歯 痛が発生するとする新規メカニズム−Odontoblast hydrodynamic receptor theory−が提唱された (2015,2018)。加えてユージノール・クレオソート・グアヤコール,カプサイシンは歯髄ニューロ ン・象牙芽細胞の TRP チャネルを抑制あるいは活性化することで歯痛を制御し,また,非常にごく 身近な植物由来成分が「歯の再生」分子創薬の標的候補であろうことがわかってきている。このよう なごく最近の知見は,古くから我々人類が自然を観察し,「臨床の知」として用いてきた「歯痛の 薬」が,実は極めて高度な科学的根拠に裏付けられたものであったことを示している。 「歯には歯を」で有名なハムラビ法典には,「手術に失敗したせいで患者が命を落としたら,外科 医は両手を切り落とさなければならない」とある。歯科医療の知識と技術を益々発展させ,「歯科医 学の両手」が切り落とされぬよう,我々はさらに歯科医学研究を発展させなければならない。 (東京歯科大学生理学講座 教授) 巻 頭 言 ④