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キリスト教文明との出合い

日本史検定講座第二期第五講

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はじめに

私に与えられた「キリスト教文明との出会い」「鎖国とは何か」というテーマは、い ささか地味なテーマのように思えます。キリスト教は日本人に馴染みが薄いし、鎖国は 戦国時代のようにダイナミック(dynamic 動的)ではなくスタティック(static 静的) な感じがするからです。しかし、この一見、地味に思えるテーマが日本にとって実は大 きな意味があるのです。 一つのエピソードをご紹介します。

1 衝撃と対応

デュランれい子(Duland Reiko 1942 年〜) さんという女性版画家がおります。オランダ人 と結婚し、『一度も植民地になったことがない 日本』や『意外に日本人だけが知らない日本史』 などの著作があります。 そのデュランれい子さんが、アムステルダム で個展を開催する前日、夜遅くまで準備をして いたら、南米スリナムから来たゲストワーカー (とソフトに呼んでおりますが、本当は出稼ぎ)の女性が、素朴な質問をしてきました。 「これがあなたの職業ですか? なんていう職業ですか?」 「アーチストです。」 「アーチストという職業は、私たちの国にはありません。めずらしい職業ですね。あな たは何人ですか?」 「日本人です」 「日本のマスターズ・カントリー(Masters country)はどこ?」 マスターズ・カントリーって何だろうと迷ったが、やっと「宗主国」ということに気づ きました。日本はどこの国の植民地だったか、と彼女は尋ねているのです。 「私たちの国には、そんなものはありません」 れい子さんの答えが、そのスリナム女性は理解できなかったようです。

デュランれい子さん

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知らなかったのです。 そして彼女のこの驚きこそが、今日のテーマなのです。 なぜ日本は植民地にならなかったか――。 平川祐弘(ひらかわすけひろ、東大名誉教授)さんは自著『西洋の衝撃と日本』で次 のように書いています。 「近代日本の歴史は、西洋文明の衝撃(インパクト)の下で、日本が示した対応(レスポ ンス)の記録である。西洋の衝撃はアジアにとっては、それ以前とそれ以後の歴史をい わば二大別するほどの大事件である。」 つまり今日のテーマは、一見して地味に思えるでしょうが、実は「西洋文明の衝撃と 日本の対応」という、日本にとっても、世界にとっても、歴史の分水嶺となる大きなテ ーマなのです。

2 胡椒と布教の「大航海時代」

そもそもなぜ16世紀に、ヨーロッパ人がアジアにいたのでしょうか。 これには2つの理由があります。「聖(せい)」と「俗(ぞく)」です。この二つの存 在がヨーロッパをアジアへと向かわせたのです。 「聖」とは、バチカンを総本山とするカトリックです。 ドイツのマルティン・ルター(Martin Luther)が起こしたプロテスタント運動は、 新しいキリスト教改革運動としてドイツを中心に広がりました。理由はバチカンが堕落 していたからです。 これに呼応してバチカン内部からも改革運動が起きました。若い修道士たちが中心に なり、初心に返ってカトリック教圏を拡大するため海外へ進出して行こうというもので す。その最も熱烈な修道士のグループがイエズス会です。「イエスの軍隊」を自称する だけに勇敢で冒険的な武装修道会でした。 「俗」とは、イベリア半島の絶対王政です。 それも胡椒(こしょう)でした。ヨーロッパ人は肉の味覚を増し、腐敗を防ぐために 胡椒が必須でした。胡椒は原産地インドからはるばる運ばれてくるため、非常に高価で した。主にインド洋から船で持ち込まれるが、15〜6世紀はオスマン・トルコが勃興 して地中海の制海権を握っていました。さらにイベリア半島から追われたイスラームの アラブ海賊が、恨みをこめてキリスト教国の船団を狙って略奪を繰り返していました。

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胡椒を輸入するルートが途絶えがちになり、胡椒は「金1グラム、胡椒1 グラム」と 言われるほど貴重になってしまいました。ヨーロッパ随一の海洋国家スペイン、ポルト ガルは新しい交易ルートを探さなければならなくなったのです。こうして海外進出の機 運が高まりました。 ポルトガルはアフリカ大陸を南下したバスコ・ダ・ガマがアフリカ南岸の喜望峰を発 見し、インドへの航路を初めて拓きました。かくて彼の運んだ胡椒はインドの原価の 40 倍の高値で売れたと言われます。 スペインはコロンブスを派遣して西へと向かい、カリブ海を発見しました。ちなみに コロンブスの目的は胡椒だけでなく、マルコポーロが書き遺した「ジパングの黄金」に ありました。彼はカリブ海諸島をインドだと確信し、その近くにはあるはずの黄金探し に生涯の夢を賭けました。ついでに言えば、カリブ海とは食人種カリベ族から名づけら れました。 このようにバチカンの野望と絶対王政のポルトガル・スペインの欲望が一致して「大 航海時代」が始まったのです。 実はこのとき、世界を二分する約束が交わされています。 「トルデシリャス条約」です。 この条約は、1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれ、ローマ教皇 アレクサンデル6世が承認したものです。当時、両国が盛んに船団を送り込んでいた「新 世界」における紛争を解決するために、西アフリカのセネガル沖に浮かぶカーボベルデ 諸島の西 1770km の海上の子午線にそって、ここよりも東側の新領土をポルトガル、 西側をスペイン領と定めた ものです。 傲慢にも両国は世界を二 つに分けて支配することに したのでした。 バチカンはこの条約によ って、スペインとポルトガル が新世界を発見したら①征 服権、領有権を与える(副国 王としての権限を有し、その

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土地を征服して統治する) ②貿易の独占を許す③原 住民を奴隷化することを 許す④布教保護権(教会 の人事権)を与える―― を認めたのです。布教保 護権というのは、新しく 領土を発見した者に、そ の土地で教会を造り、そ の支配権を与えるという、 事実上の王になれるので す。 東半球の進出権を得たポルトガル人たちは、インド、フィリピン、マレー、マカオを 征服して侵略基地を構築し、ついに16世紀の中頃に日本に姿をあらわしたというわけ です。 前置きが随分長くなりましね。 そろそろ本題に入りましょう。

3 鉄砲伝来

天文12(1543)年9月23日、1隻の明船が鹿児島の種子島に漂着しました。船には 王直という明人(のちの倭寇王)と3人のポルトガル武装商人が乗っていました。 藩主の種子島時堯(たねがしま・ときたか)は彼らを保護しました。そのときにポルト ガル人が持っていたのが鉄砲です。 「これはすごい。鉄砲は弓矢よりも遠くに飛ぶし、命中率も高い」というわけで、種子 島時堯は鉄砲2挺を 2000 両で購入しました。現在、邦貨では約1億 2000 万円と見積 もられます。相当ふっかけられたのでしょうが、これが武器としての文明の利器が日本 にもたらされた歴史的瞬間でした。 購入した鉄砲は、刀鍛冶たちによって解体され、改良され、量産されました。刀鍛冶 たちは、砂鉄を鍛えに鍛えて優秀な鉄を造る技術を持っていたのです。これを堺の商人 が買い付け、彼らの持つ流通力で一気に日本中に普及しました。日本はまたたく間に世 界一の鉄砲保有国になりました。約30年後、織田・徳川連合軍が火縄銃3000 挺で甲 斐の武田勝頼(長篠の合戦)の長槍騎馬軍団を破りました。

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この勝利で勢いを得た織田は諸侯を破り、戦国時代が幕を下ろしたのです。 戦国時代は100 年続きましたが、100 年間ずっとドンパチやっていたということでは なく、100 年間、日本全体を統治する絶対権力のない時代が続いたという意味です。そ の長い空位時代は鉄砲によって終わったのです。 「南北朝時代」とか、「戦国時代」というのは、中国の歴史から採用された言葉です。 中国における戦国時代は、まさに文字通り血で血を洗う戦乱の時代でした。一国が陥落 すると、民はことごとく皆殺しになります。王朝交代のたびに人口が半減し、時には9 割が死滅します。それは城壁に籠城し、すべてが戦闘員になるからです。農民のはてま で城壁に籠り、敗れると全員殺される。田畑は枯れ、農耕は絶え、深刻な飢餓が襲い、 ものみな死に絶える。勝者も敗者もない。これが中国の戦争です。 しかし、日本における合戦は、すべて局地戦です。戦うのは武士だけ、いかなる戦乱 のときも百姓は農作をつづけ、職人は仕事をつづける。したがって大量死は起きないの です。それゆえに誰かものすごく強い奴が出るまで局地戦が終わらない。そして最後に 出た「ものすごく強い奴」が織田信長だったわけです。彼は先見の明があるので、いち はやく鉄砲を取り入れたのです。 ところが面白いことに、信長は後に鉄砲を禁止しています。こんなものは武士が使う ものではない、という美学からです。鉄砲なら女子供でも撃てます。戦いというものは 武士が誇りにかけて行うものです。ですから女子供が武器を弄ぶようなことがあっては ならないのです。 ヨーロッパ人は「鉄砲を捨てた日本人」を不思議に思っています。鉄砲は日本より早 く東南アジアに輸入されていたが、これを改良して自分たちのものにしてしまったとい うのは日本だけでした。ところがその日本が、鉄砲をやめてしまう。織田信長ら武将が 愛したのは刀であり、槍でした。遠くからドスンと撃つ鉄砲は卑教であり、武士道に反 するというのが理由だったのです。

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4 宣教師上陸

教皇派遣のイエズス修道会宣 教師フランシスコ・ザビエルを 乗せたポルトガル船が日本にや ってきたのは、種子島から6年 後、天文18(1549)年のことで した。彼らは薩摩半島の坊津に 入港しています。今度は漂流で はなくて、日本を目指してやっ てきたのです。 上陸したのは8月15日です。 この8月15日というのは、大 東亜戦争終結の日というだけで なく、キリスト教にとっても、 いろいろと意味のある日です。 すなわち、聖母マリアが天に召 された日であり、第一次十字軍が出発した日であり、イエスズ会が結成された日であり ました。ザビエルはこの日を選んで日本上陸したかのようでした。 ザビエルは「8月15日を記念して、日本を聖母マリアに捧げます」と日記に書いて います。日本は勝手にマリアに「捧げられ」てしまったのです。けれど、捧げられなか った。そこが日本の素晴らしいところです。

前述したようにイエズス会は「Companhia de Jesus」、すなわち「イエスの軍隊」 という意味です。ザビエルはパリ大学の学生のとき、初代イエズス会総長イグナチオ・ ロヨラと一緒にイエズス会を立ち上げたメンバーのひとりです。 1534年8月15日、彼らはモンマルトルの丘に立ち、「我々はこれからイエスの 軍隊として、世界をめぐってキリスト教を広めるぞ!」と約束しました。これが「モン マルトルの丘の誓い」です。ですからザビエルが日本に上陸した8月15日は、彼らに とってたいへん意味のある日だったのです。

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実は、ザビエルも、イグナチオも、スペインでは珍しい名前です。なぜなら彼らはバ スク人だからです。バスク人というのは、ヨーロッパではナゾの民族とされています。 スペインとフランスの国境の山岳民族でありながら海洋民族でもあるのです。海にも山 にも強い。スペインからやってきて、はじめてフィリピンを征服したレガスピ船長もバ スク人でした。トロイ落城で逃れてきたギリシア系部族という伝説もあります。 バスク人の風俗で有名なのがベレー帽です。フランスなどベレー帽は芸術家のシンボ ルとなっていますが、これがバスク人から流行したものです。アレクサンドル・デュマ の「三銃士」の主人公ダルタニアン、ヴィクトル・ユゴーの「ノートルダム・ド・パリ」 の寺男カジモドもバスク人です。ちなみに、カジモドが恋する美女エスメラルダはジプ シー女、いまは「ロマ」と言います。 バスク地方はフランス領とスペイン領に分断されていますが、ほんとうは一つの民族 です。そしてバスク人は今も独立運動をやっています。ヨーロッパというのは、一皮め くると実に多様な種族が暮らしており、それゆえに争いが絶えないのです。 モンマルトルの丘

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5 多神教と一神教

ザビエルがもたらしたのは一神教(いっしんきょう)でした。じつは世界の歴史は「一 神教(Monotheism)」と「多神教(polytheism)」の戦いの歴史なのです。 昔、世界中どこもみんな多神教でした。ローマ神話にもギリシア神話にも、たくさん の神々が出てきます。ヨーロッパの先住民であるケルト人はドルイト教という多神教を 信仰していました。しかし、キリスト教がローマの文明と武力によって世界中にひろが ったために、このドルイト教を含めてヨーロッパはことごとく一神教に切り替わってし まいました。ドルイド教の巫女(みこ)たちは民間医療者であり、僧侶もありました。 巫女の施す医療は合理的であったようですが、キリスト教によって妖しい魔女とされま した。これが魔女狩りのルーツです。 いまでもイギリスには魔女を名乗る人たちがいます。これは古代のドルイト教の教え を守る人たちです。彼女らは魔女であることを誇らしく思っているのです。信仰に根ざ したものは、なかなか死なないものですね。 日本はもちろん多神教です。そして実は文明国で唯一の多神教の国でもあるのです。 誰が数えたのか知りませんが、古事記には300柱の神々が登場します。八百万の神と いうくらいですから、日本の神さまの数は ものすごい数です。 明治時代、ラフカディオ・ハーンが日本 にやってきました。彼は日本という高度文 明国が、いまも多神教であるということに 驚きました。ラフカディオハーンは、父が ケルト人、母がギリシア系です。ケルトも ギリシアもかつて多神教の国だったので すね。 ラフカディオハーンは、神々がいっぱい いる日本を不思議に思い、そして魅せられ ました。多神教はマイルドです。いろいろ

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な価値観を受け入れることができるからです。人々も、たった一つの神しか認めないと いうような排他的な考え方をしません。そういう多神教の文明の持つ良さを、ラフカデ ィオハーンは感じたわけです。彼はその多神教の風土を理解し、数々の作品を世に残す わけです。 ここで申上げたいのは、日本は多神教の国であり、寛容な文明をもっているというこ とです。キリスト教がやって来る前、仏教がはいってきたけれど大した軋轢もなく受け 入れています。かといって、神道が追いやられたわけでもない。神と仏が仲良く共存し ています。これは外国から見れば実に奇妙な国なのです。

6 日本にはいってきたキリスト教

キリスト教は16世紀に入ってきた、とみなさんは習ったと思います。そうでしょう か? 仏教は紀元前5世紀にインドで生まれ、約 1000 年かけて日本に到達しました。 キリスト教の誕生は紀元1世紀です。そのキリスト教が16世紀になって我が国にきた ということは、キリスト教は1600 年かけて日本にやってきたことになります。ほんと うにそんなに長い年月かかったのでしょうか。 実はキリスト教は6世紀には日本に来ていたようなのです。 5世紀、キリスト教は西からシルクロードを通って中国にたどりつきました。バチカ ンから異端とされたネストリウス派です。これが唐では「景教(けいきょう)」と呼ば れました。景教は朝鮮半島までやってきたことはわかっています。モンゴルにも伝わっ ています。朝鮮半島まできたものが、日本に伝わらないわけがあろうか。6世紀には来 たのだと言っている人たちがいます。幕末から明治にかけての学者である佐伯好郎(さ えきよしろう)東大教授、久米邦武(くめくにたけ)早大名誉教授、その他たくさんの 意見があります。 では、どのようにして、景教は日本にきたのでしょうか。 実はこれには秦(はた)氏の頭領として有名な秦河勝(はたのかわかつ)が関与して いるらしい。ちなみに秦河勝は秦の始皇帝の子孫とされているが、西域の人だという説 もあります。彼ら秦氏がもたらした「伎楽面(ぎがくめん)」を見ますと、明らかに鼻 が高くて顔が赤い、みるからにペルシャ顔をしているではありませんか。

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その秦河勝は聖徳太子の側近で あり、太子の命令で京都に広隆寺 (こうりゅうじ)を造りました。 私も調査に訪れたことがあります が、昔はキリスト教の教会のよう な造りだったと言われています。 その広隆寺の境内に「いさら井」 という井戸があり、近くには大避 神社(おおさけじんじゃ)があり ました。これが「大避=大辟=ダ ビデ」と「いさら井=イスラエル の井戸」という意味らしい。 593年に聖徳太子が大阪に四 天王寺を造ったとき、悲田院、施 薬院、敬田院、療病院の四箇院が 併設されました。こうしたチャリティ施設は、これよりも前の時代にはありません。ホ ステルと同じキリスト教的チャリティ施設です。 みなさんは光明皇后の施薬院や悲田院をよくご存知と思います。これは天武天皇の没 後、光明皇后はいろいろなボランティアをするわけですが、その光明皇后の進言によっ て、全国に国分寺が築かれまし た。そこにも慈善施設を造って います。貧しい人や病人や行き 倒れの人を救うボランティア施 設です。 光明皇后はライ病患者の看護 をして、患者のかさぶたの膿(う み)を自らの口で吸い取ったと 言われています。こういう献身 的な姿勢は従来の日本の文化や 歴史にはありません。どうもキ 伎楽面 いさら井

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リスト教的なのです。 キリスト教徒はエルサレムのイエスを葬った聖墳墓教会(せいふんぼきょうかい)に 参ることを一生の夢としています。日本でいえば、お伊勢参りみたいなものです。一生 懸命お金を貯めて、ようやく行けるようになったら、60代、70代です。もう体力が ない。ないけれど夢だから、行きます。途中で行き倒れになる。そういう人たちを扶け て、看護するのが、ホステルというものの起源なのホテル、ホステル、同じ語源です。 いまでも、エルサレムを往還する街道筋にこうした施設があって巡礼者は安く泊まれま すのです。 それと同じ施設が日 本にありました。それが 悲田院(ひでんいん)で す。そしてこれがどうも 6世紀にはいってきた 景教の痕跡ではないか といわれているのです。 他にもたくさんの痕跡 があります。言い出した らきりがない。ただ、ち ょっと留意していただ きたいのは、歴史という のは単純じゃないぞ、と いうことです。

7 ザビエルの日本人観

フランシスコ・ザビエルは、マレーのモルッカで、日本人のヤジロウに出会いました。 ヤジロウは日本の武士ですが、日本で誰かを斬って亡命した薩摩の脱藩浪人です。この ヤジロウは初めてキリスト教の洗礼を受け、あっという間に教義を飲み込んでしまいま した。ザビエルはびっくりして、次のように書いています。 「ゴアの学院に3人の日本人学生がおり、いずれも徳があり、機知に富み、なかでもパ

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をよく理解している。もしすべての日本人が彼のように学ぶことが好きな国民ならば、 日本人は新たに発見された諸国民のうち、最も高級な民であろう。彼は無数の質問を浴 びせかけた。彼は何でも知り尽くさずにおかないという強い欲望を持っていた」 (ローマのイエズス会本部への書簡) ザビエルはヤジロウらから日本についていろいろと聞いています。 「首長、または王はヴォオウ(法皇)と呼ばれる。ヴォオウは他の支配者より身分が高く て、結婚できるのは一族だけである。その権威はまさに教皇に等しい。王はすべてのも のに対して権威を持っているが、戦争をしたり処刑したりすることは決してない」(同) ここにおいても、天皇が日本において精神的な権威の存在であり、政治を行って民を

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処刑したりしない存在であることをしっかりと見抜いています。というよりも、これが 日本における常識であったといえます。 こうしてザビエルは日本にやってきました。次が日本に到着後の感想です。 「この国の人びとは今まで発見された国民のなかでは最高であり、日本人より優れてい る人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないだろう。彼らは親しみやすく、一般に 善良で、悪意はない。驚くほど名誉を重んじ、礼節を尊び、知識欲が旺盛である。」と、 びっくりするほど、絶賛しています。(ゴアのイエズス会員への書簡、以下同じ) さらに絶賛は続きます。 「日本人はたいてい貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱 と思っている者は一人もいない」 「日本人はどの国民より何事でも道理に従おうとする。」 これも重要なポイントです。日本人は情緒的、感情的ではなく、理性的だと言ってい ます。 「いつも相手の話に聞き耳を立て、しつこいほど質問するので切りがないほどだ。彼ら は地球が丸いことも知らず、太陽と星の運行について何も知らない。彼らは私の話に夢 中になり、楽しそうに聞き入り、私たちを大へん偉い学者だと思い込んで尊敬する」 ここで重要なことを言っています。宣教師たちは秀吉や信長に会いました。そして彼 らに地球儀を渡したのです。そして地球が丸いことを説明したが、彼らはさほど疑問の も思わず、すっと理解したらしいのです。地球儀のなかの小さな島が日本です。そして この地球が、太陽の周りを回っているんですと話したわけです。 ヨーロッパで初めてこういう地動説を言ったら処刑でした。ガリレオも危なかったの です。日本にはそういうタブーがなかった。日本人は理性に従う。そして「どうなって いるのか」としつこいほど質問する。これは日本人が、与えられた情報をまるまる鵜呑 みにしない、ということです。だから納得するまで質問し続けるのです。 後にザビエルは、「日本に宣教師を派遣するときは知的で論理的な者を派遣せよ」と も書いています。日本人は論理的に思考するので、ちゃんとそれに答えれない程度の低 い者では、かえって、教会側が恥をかくと言っているのです。 「窃盗は極めて稀である。死刑をもって処罰されるからである。彼らは盗みの悪を非常

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わず、盗みについて、こんなに信用すべき国民を見たことがない」 魏志倭人伝に珍しいことが二つ書いてありますが、ともすればわれわれ日本人は見逃 しやすいことです。 それは「日本人は泥棒しない」と書いてあることです。これは今もつづく治安の良さ です。 もう一つは、日本には「城郭がない」ということです。これは前述しました。我々は そんなことはあたりまえだと思っているが、これはものすごく大事なことです。日本以 外のどの国も、たとえば北京はかつて北京城と呼ばれ、南京は南京城と呼ばれました。 日本以外のすべての国は、一つのクニ、一の都市が、高く頑丈な城壁塀で囲まれている のです。日本に城壁がないということは、戦うのは武士たちであり、百姓たちは武士の 勝敗にかかわらず、農業を続けているということます。ですから、どちらが勝とうが負 けようが、民すべてが食えなくなるということがない。つまり日本は飢餓や戦乱(つい でに言えば疫病の大流行)による大量死の歴史がない世界一幸せな民族なのです。

8   その他同時代の日本人観  

イタリア人のニエッキ・ソルド・オルガンチーノ東インド管区巡察使は、当時の日本 について次のように述べました。 「日本人は全世界でもっとも賢明な国民に属しており、彼らは喜んで理性に従うので、 我ら一同よりはるかに優っている。我らの主デウスが何を人類に伝え給うたかを見たい と欲する者は、この日本へ来さえすればよい」(マカオの上司への書簡) 「尊師、願わくは彼らを野蛮人と見なし給うことなかれ。私たちヨーロッパ人は互いに 賢明に見えるが、日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私は本当のところ、 毎日、日本人から教えられていることを白状する。私には全世界でこれほど天賦の才能 を持つ国民はない」(同) 同じくイタリア人のアレシャンドロ・ヴァリニャーノ東インド管区巡察使。 「日本は外国人が支配していけるような国家ではない。日本人はそれに耐え忍ぶほど無 気力でも無知でもなく、スペイン国王は日本においていかなる支配権も有しないし、将 来とも持つことはできない。したがって、日本人を教育したのち、日本の教会の統率は 彼らにゆだねるほかは考えるべきではない」(日本布教ガイダンス『日本の風習と流儀 に関する注意と助言』) 「日本人のする無数の質問に答えるに足る学識を持つことが必要である。神父らはすぐ

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れた哲学者であることが望ましい。また日本人との討論において彼等はその矛盾を指摘 するために、弁証学者であればさらに良い。また宇宙現象について知っていれば、なお さら結構である。何故なら日本人は、天体の運行、日食や月の満ち欠けの理由などを熱 心に聞くからである」(同) 要するに、当時日本にやってきた人たちは、ことごとく日本を絶賛していたのです。

9 ザビエルの布教

ザビエルは日本にやってきて、最初は神をどう訳していいのかわからなかった。おそ らくはヤジロウだと思うけれど、彼は神を「大日如来」と訳し、我々は天竺(てんじく、 インド)から来た、と言いました。インドの天竺から来たのならば、仏教の本家だと思 って、たくさんの領民がキリシタンになるわけです。 ところが、どうも違うようだ。下手な通訳だが、よく聞いていると仏教の悪口を言っ てるらしい。それで仏教のお坊さんたちが怒り出し、殿様に訴え出た。藩主島津貴久は 上陸1ケ月で禁教令を出してザビエルを追放しました。 ザビエルは失意のまま山口からミヤコ(京都)に移りました。キリスト教は、ローマ 以来、常に王権と結びつくことで布教拡大しています。ですからザビエルは日本でも同 じように権力者の力を借りて布教しようとしていました。 しかし、日本は戦国時代であり、将軍、領主などザビエルが頼るべき絶対権力はあり ません。ゆえにザビエルが目したキリスト教伝統の「上からの布教」は不発に終わって しまいます。 こうしてザビエルは失意のまま中国に去っていきました。 ザビエルの去った後、絶対的権力者の織田信長が登場し、宣教師たちを保護しました。 信長は宗教的偏見がなかった。むしろ「君たちは万里の波濤を越えてやってきた、その 勇気がすばらしい」と宣教師たちを優遇します。それにくらべて、仏教徒はなんだ、と いうわけです。秀吉は比叡山の僧兵たちと何度も合戦していますから、そもそも仏教徒 には厳しかったのです。 信長の保護のおかげでザビエルの離日後、教勢は一気に拡大しました。宣教師たちの 「勇気」とルネッサンスによる「西洋文明」が独裁者の心を魅了したのです。もっとも 信長も秀吉もキリシタンに改宗はしません。ルイス・フロイスは「信長は宗教に関心な き無神論者」と書き遺しているほどだから当然です。 信長、秀吉の優遇によって大名の中にもキリシタンに改宗する者があらわれました。

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永禄8(1569)年、正親町天皇(おおぎまちてんのう)が、バテレン追放の綸旨(りんじ) を出します。ところが信長が、あっという間にこれを撤回してしまいました。つまりこ の時点では信長の権力は天皇の権威を上回っていたのです。 信長は宣教師にこう断言しました。 「すべてが予の権力下にあるので、汝は内裏にも公方さまにも意を払う必要はない。予 が汝に言うことのみを行い、汝の欲するところにいればよい」(ルイス・フロイスの書 簡) 「信長は酒をたしなまず、食を節し、人の取り扱いには極めて率直で、自らの見解には 尊大だった。すべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らと話した。人々 は絶対君主のように彼に服従した」 「(羽柴)筑前殿は血統から見れば、たいして高貴の出ではなく、家系からも日本の君 主たるべき身分ではなかった。信長の後継者となるにおよび、可能なかぎり自らを飾り、 引き立てようと全力を傾けた。背が低く、醜悪な容貌で、片手には六本の指があった。 目が飛び出ており、シナ人のように髭が少なかった」 秀吉は、右手の指が6本ありました。多指症です。これ、ちょっとした「トリビアの 泉」ですね。加賀の前田利家も書いているから事実だったのでしょう。秀吉は、この6 本指がコンプレックスで、人前ではこの手を隠そうとしていたようです。けれど人間は コンプレックスゆえに強く、上昇志向が高まるのでしょう。 バテレンたちが持って来る高価な南蛮渡来品を魅力にキリシタンに入信する人が増 えました。受洗した主なキリシタン大名には、大友宗麟(豊後大分領主)、大村純忠(肥 前長崎領主)、織田夕楽斎(信長の実弟)、木下勝俊(秀吉北政所ねねの甥)、小西行長 (肥後熊本・宇土城主)、高山右近(摂津兵庫・明石城主)など信長や秀吉の身内まで います。 こうした大名たちを改宗させるために、宣教師たちは様々な南蛮渡来品を持ち込みま した。 銃、大砲、硝石(火薬の原料)、時計、ガラス製品、パン、カステラ、金平(こんぺい) 糖(とう)、ビスケット、オリーブ油、ぶどう酒、望遠鏡、メガネ、マント、シャボン(石 鹸)、その他、医学や天文学、絵画、印刷機などです。

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そしてこの時代に、たくさんの外来語も、日本にもたらされました。 『大言海』に収録されている外来語は英語が2万語と最も多く、次が仏教とともにや ってきたサンスクリット語の338語、オランダ語が107語、ポルトガル・スペイン 語は合わせて100語と4番目に多いのです。たとえば、天麩羅はポルトガル語の「教 会」「教会の精進料理」が語源ですが、ゆえに英語のテンプル temple の類語でもある わけです。意外ですね。

10 非寛容と武力計画

一神教というのは、ひとつの神様しか認めないために、非常に排他的です。他宗教と の共存を許しません。キリシタン大名が誕生すると、その領地にある神社や仏閣は、み んなぶっ壊せと命令が出ます。そして信者たちはその破壊行為を喜んで行うのです。パ スカルが言ったように「人は宗教的情熱に駆られるときほど歓喜して悪をなす」という ことです。 天正7年の神父ローレンソ・メシアの書簡には、次の記述があります。 「有馬領内の偶像を悉く破壊することを決意し、神父(パードレ)の有馬滞在3ケ月間に 神仏の殿堂40 ケ所を破壊せり」 肥前長崎では、バルトロメオ大村純忠の受洗とともに神社仏閣が壊され、抵抗する神 主や僧侶が殺害されました。長崎からは一切の神社仏閣が消えました。 島原の有馬領では、3ケ月で40 の寺社と仏像が焼き払われ、子供まで動員して、洞 窟に隠された仏像まで燃やされています。 大分の大友領では、バテレンの委嘱でフランシスコ大友宗麟(おおとも そうりん) が、「国中の寺社を焚火にせよ」と命令しました。 大阪の高槻城の領内では、ジュスト高山右近が牛頭天王社(ごづてんのうしゃ)の神 主を追放して教会に提供し、忍頂寺を壊して仏像を焼いています。 そのほか神社を聖母教会に変え、春日神社の神鹿を殺して食う、仏像に放尿する、な ど意図的な侮辱事件が相次いで起こりました。一神教というのは、これほどまでに排他 的なものなのです。和を尊び、争いを避け、つねに平和共存の道を求めてきた日本人に は驚天動地の宗教だったわけです。 こうした報告を聞いた秀吉は一転、断固としてキリスト教を排除しようと決意しまし

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ヴァリアーノ巡察使は、フィリピン総督への書簡(1582 年 12 月)で「日本人は非常 に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでおり、征服可能な国でない」と報告していま した。けれど4年後の天正14(1586)年、日本準管区長のガスパル・コエリョは、ルソ ンのイエズス会布教長に宛てて「スペイン艦隊による軍事援助」を要請したのです。 秀吉は、天正15(1587)年3月、薩摩藩を服属させた九州・博多で、教会専用のポル トガル快速船が数門の大砲を発砲するのを見てますます疑問を感じました。なぜ教会の 船舶が武装した戦艦なのか。 秀吉は歴史的な五ケ条のキリシタン禁令を出しました。 1、日本は神国である。南蛮の邪教を伝えてはならない。 2、民衆を改宗させ、神社仏閣を破壊するとは前代未聞である。 3、外国人宣教師は20 日以内に帰国せよ。 4、商船の渡航・交易は自由である。 5、仏法を妨げない者の来航はとがめない。 秀吉は宣教師たちが肉食するのを嫌悪し、とりわけイエズス会黙認の下にスペイン人 たちが日本人を奴隷として海外に売り払っている実態に激怒しました。哀れな貧しい日 本人の男女が足に鉄の重りをつけて監禁され、まずインドまで運ばれ、世界中に売買さ れていたのです。 ところが、秀吉のおもしろいところは、バテレン宣教師らの活動については厳しい禁 令を発したにもかかわらず、一般民衆がキリシタン信仰することは黙認していることで す。 ここは大事なところです。秀吉はキリスト教という宗教が憎くて禁令を出したのでは ないのです。やっていることがあまりに排他的で非人道的すぎるから禁令を出したので す。そうでなければ、いくらでも受け入れていたことでしょう。 さて、みなさん。キリスト教追放とか、禁教とか、鎖国とかいうけれど、「いつそれ をやったのでしょうか?」 実はこの特定ができません。 なんだか知らないけれど、ずるずるといつの間にか、そうなっています。 鎖国令が3回、禁教令が5回、要するに、何回も出している。そして出すたびに段々

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厳しくなっていくのですが、それでも鎖国令にしても、禁教令にしても、やったわりに は、不徹底でした。 なぜかというと、これは遠藤周作も言っているのですが、要するに「貿易はしたい、 だけどキリスト教は要らない」。この二つの相反する政策のために、ついに不徹底なら ざるをえなかったのです。 皮肉なことに、秀吉の禁教令後、かえってキリシタン信者は増えているのです。 元亀元(1570)年に2~3万人だった信者数が、10 年後の天正8(1580)年には15万 人に激増しています。これは当時の人口の約0・9%にあたる数です。 さらに徳川時代のはじめごろには、さらに増えて50万人になったという説もありま す。いかに日本の禁教令が甘く、やさしかったかということです。 江戸の禁教後も「隠れキリシタン」となって維新後まで生き延びたし、殉教を覚悟の 外国人宣教師の潜伏と潜入もつづいています。 秀吉のバテレン追放令に対抗して、天正 18 年(1590)、天草の会議でスペイン人宣教 師たちは「国王(フェリペ二世)の力で日本に要塞を築くべきである。征服事業による 以外に日本にキリスト教界を前進させる手段がない」と、武力侵攻を計画しました。け れど結局、断年しています。あらゆる角度から計画し、どんなに頑張ってみても、日本 を武力で征服することはできないとわかったからです。日本の国家構造はそれだけ強く 堅固だったのです。逆にいえば、もし日本が脆弱だったならば、スペインやポルトガル によって武力征服されていた、ということです。 この国防という問題は、日本人としてしっかりと記憶しておかねばなりません。歴史 に学ぶとは、未来を遠望し、予防することでもあるからです。

11 聖人殉教の丘

文禄5(1596)年8月、スペイン船「ホァン・フェリーペ号」が土佐沖に漂着しました。 奉行の武器弾薬の押収に抵抗した航海長オランディアは、南北アメリカにおける征服事 業を引き合いに出して「われらはまず宣教師がはいって宗教を説き、あとから軍隊がは いり、それらの王国を服従させてきた」と恫喝しました。 この報告は、ただちに秀吉のもとに知らされました。 慶長元(1596)年12月19日、秀吉は外国人宣教師6人と日本人信徒20人を、長

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よる悪魔の所業として名高い事件となっています。しかし、処刑したのは26人です。 なぜ26人なのか。日本の役人は実にやさしい。「転向しなさい、転びなさい」と何度 も諭しています。そしてどうしても転向しない26人だけ見せしめに処刑したのです。 日本にキリスト教が入ってきて以来、いわゆる殉教した人がどれだけいたか。キリシ タン研究者の推計は、禁令違反で刑死となった約4000 人です。多いか、少ないか。私 はめちゃくちゃ少ないと思います。日本を征服しよう、国家を転覆しようとまで企てて いるそういう邪教徒を4000 人しか処分しかしていない。しかも棄教(転び)した者は、 その場で無罪放免されているのです。 このことは、同じ時代のヨーロッパと比較してみましょう。 当時のヨーロッパでは、キリスト教による異端審問の嵐が吹き荒れ、魔女狩りだけで 約30万人の無実の民が拷問のすえ十字架で焼かれていました。ひどい話です。「とな りのAさんが魔女だ」と言ったら、それでAさんは終わりです。捕まれば、さんざん酷 い拷問を受ける。そして拷問に耐えかねて「はい、魔女です」と言えば、「おまえは魔 女の集会(サバト)に行っただろう。その場にいた者の名前を言え」と拷問する。苦し さのあまり知人の名を言う。今度はその人が引っ張られ、そして拷問され、ウソの自白 を強要され、火刑にされる。集団による「狂信的妄想」による終わりのない悲劇の連鎖 です。全員が無実の人でした。その犠牲者が約30万人というのです。 日本では、26人が処刑されました。けれどその26人は、禁制に違反した人たちで す。禁令に違反したら処刑するという御触れがあったにもかかわらず、それを犯し、し かも転向を拒否した確信犯でした。しかしヨーロッパの30万人は無実の罪です。この 魔女狩りはインドのゴアでもありました。アメリカのマサチューセッツ州セーラムでも ありました。17世紀末、約25人が殺された“セーラムの魔女狩り”です。そういう 架空の罪の処刑と比べてみれば、秀吉の理性的なガバナビリティは一目瞭然でしょう。 西洋のキリスト教国が日本を批判する資格はありません。 (了)

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