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Ⅰ.はじめに この 調 査 は 史 跡 唐 招 提 寺 旧 境 内 ( 奈 良 市 五 条 町 )に 所 在 する 旧 開 山 堂 解 体 修 理 に 伴 う 発 掘 調 査 です( 図 一 ) 唐 招 提 寺 では 平 成 25 年 の 鑑 真 和 上 1250 年 忌 に 向 けて 旧 開 山

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Academic year: 2021

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報道発表資料

史跡唐招提寺旧境内(旧開山堂)

発掘調査の概要

平成25年3月21日

唐招提寺

奈良県立橿原考古学研究所

調 査 地

奈良市五条町(唐招提寺)

調査原因

唐招提寺旧開山堂解体修理工事

調査期間

平成24年4月13日~7月13日

調査面積

58㎡

調査担当

調査課

主任研究員

鶴見泰寿

主な遺構

旧開山堂基壇、溝など

主な遺物

古代~近世の瓦、土師器、須恵器、青磁、白磁、陶磁器、瓦器、瓦質土器、塼仏破片、

銅製品破片など(整理用コンテナ230箱)

鑑真和上坐像が安置されていた旧開山堂の地下調査を実施し、基壇の構造や造営工程

を明らかにしました。また北から南に傾斜する旧地形を確認しました。基壇内からは

古代~近世の瓦片とともに古代の大型多尊塼仏片が出土しました。

発表場所

唐招提寺

※現地説明会はありません。 ※出土した塼仏は、3月23日(土)~4月7日(日)の期間中、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 無料ゾーン(奈良県橿原市畝傍町50-2、電話0744-24-1185)で展示します(月曜日休館)。

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Ⅰ.はじめに

この調査は、史跡唐招提寺旧境内(奈良市五条町)に所在する旧開山堂解体修理に伴う発掘調査です(図一)。 唐招提寺では、平成25年の鑑真和上1250年忌に向けて旧開山堂の解体修理を実施し、完成後は鑑真和上坐像のお 身代(複製)を安置することになっています。調査では旧開山堂基壇を解体発掘し、さらに造営以前の状況につ いても調査を行ないました。 旧開山堂は、現在の新宝蔵付近にあった御霊屋を明治14年に現在地へ移築したもので、昭和38年に御影堂(旧 一乗院寝殿)が興福寺旧境内から移築されるまでの間、鑑真和上坐像が安置されていました。御霊屋は江戸時代 初期の建築で、享和2年(1802)の雷火で大破し、文政3年(1823)に修理されたことが記録から知られています。 唐招提寺創建当初、調査地にどのような建物が存在したかは明らかではありませんが、「招提寺建立縁起」に は門、金堂、経楼・鐘楼、講堂と南から北へ順に伽藍の記述があり、建物の配置順に書かれています。「建立縁 起」には講堂に続いて八角堂(義浄・義演造立)、食堂(藤原仲麻呂家施入)、羂索堂(藤原清河家施入)が列記 されているので、講堂北側の食堂周辺には八角堂や羂索堂が存在した可能性が高いと考えられます。

Ⅱ.調査の概要

1.旧開山堂基壇 イ.上層基壇(図二上、写真2・3) 解体修理された旧開山堂の基壇です。基壇の規模は東西7.62m南北7.06m、基壇の高さは南面で0.56m、西面 北端で0.42m、東面北端で0.45mあります。基壇外装は大野山(京都府木津川市加茂町)産花崗岩切石を積んで 造られ、南面中央には6段の石階がありました。 基壇は、南面は地覆石の上に羽目石と葛石があり東西角には束石が立てられています。それに対して基壇東西 両面には地覆石はなく、地面に直接羽目石が置かれるなど、南面と比較するとやや簡略化されています。基壇上 面の標高は、葛石上面で北が標高67.01~67.04m、南が標高66.92~66.97mとなり、基壇上面は水平ではなく南 が10㎝前後低くなっています。石階部分は幅2.26m高さ1.12mで、耳石は2段目の踏石に載せられています。羽 目石は切石を積み上げたもので地面に直接置かれ地覆石はありません。石階最上段は基壇葛石よりも0.54m高く、 階段上部北面には石が不規則に積まれてコンクリートで固められていました。 基壇上面には柱および床束を支える礎石が並びます。柱間は東西端間が1.48m、中央間が1.98m、南北方向は いずれも2.22mです。床束の礎石は基壇上面に単純に置かれているだけでした。礎石は東西3間南北2間で、礎 石上面の高さは標高67.02~67.07mとやや不揃いで北側が若干高くなっています。礎石は一辺0.35~0.45mほど と全体に小さく、これらの礎石はすべて後述する下層基壇の礎石上に置かれたもので、上下の礎石の隙間には小 割りした石の破片などが挿入されていました。これは、移築後のある時期に建物が根継ぎ、あるいはかさ上げさ れたことを示しています。基壇外装もこれに合わせて新調されたとみられますが、このような改修の時期につい ては明らかではありません。東西両側の礎石には「□寅角」「東側中」「辰巳角南側」「未申角」「西側中」「戌亥 角」の墨書があり、現在の礎石位置と墨書内容とが一致することから基壇改修時に記されたものと考えられます。 基壇土はほとんど締まりのない褐灰色砂で、礎石外側の周縁部分は黄橙色砂を敷いています。この基壇土は厚 さ0.25~0.30mで基壇全面を覆い、その下には堅い黄褐色粘土の面があります。上層基壇土からは瓦・土師皿・ 陶磁器・寛永通宝などが出土しました。 ロ.下層基壇(図二上、写真4~7) 上層基壇土を外すと、堅い黄褐色粘土で築成された基壇が現れました。下層基壇上面にはやや大きめの礎石が 柱位置に頭を出しています(上層基壇の礎石はその上に載ります)。下層基壇に伴う礎石の上面には墨線の残る ものがあり、その間隔は1.48mで旧開山堂の柱間と完全に一致することから、移築当初は下層基壇の上に旧開山

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堂が建てられていたと考えて間違いありません。基壇土は版築状の積み土(黄褐色粘土と褐灰色土の互層)で、 版築による基壇土の厚さは南端で0.68m、北端で0.05mです。なおこの基壇土は南と南東では基壇の範囲外にも 延びているので、旧開山堂の敷地全体の造成と一連の作業であるようです。 下層基壇上面では礎石の周囲に掘方はみられず、礎石を据えた後に周囲に基壇土を盛って造ったことがわかり ました。また基壇上面には撞き固めた際の痕跡が残っていました。痕跡は一辺10㎝程度の隅丸方形で、深さ1~2 ㎝程度のものが東西南北に並んでみられました。礎石はいずれも赤色を呈し火を受けたようにみえますが、旧開 山堂および前身の御霊屋に火災の記録はなく、焼土や炭層なども検出していません。また下層基壇の礎石が御霊 屋から移されたものかどうかもわかりません。 西南角の礎石は転用材です。半分に割れていますが、地獄谷産熔結凝灰岩製で上面に直径約70㎝の円座を造り 出しています。下部は一辺約80㎝の四角形で底部は先端が平らな逆台形を呈します。唐招提寺に現存する礎石の 中では材質・形状が講堂礎石に近いと考えられます。講堂の礎石は解体修理時の報告書によると「朝集殿以来の ものかと考えられ、丈は五〇㎝(最大五五㎝、最小三七㎝)、大きさは上面より約二一㎝下が最も大きく七八㎝ 角(最大八三㎝、最小七一㎝)、上は七四㎝角(最大七六㎝、最小六八㎝)、下方は逆方錐台形型で底面は四六 ㎝角(最大六五㎝、最小四一㎝)、上端には高さ七・五㎝、上径七四㎝(最大七六㎝、最小六七㎝)の礎石と同 寸の円座を造出している」(奈良県教育委員会『国宝唐招提寺講堂他二棟修理工事報告書』)とあります。講堂 は建治元年(1275)、慶長11~14年(1606~1609)、延宝年間(1673~1680)、明治38~41年(1905~1908)、昭 和42~47年に大修理が行なわれていますので、今回発見の礎石は、中世以降の講堂修理で入れ替えのために外さ れていたものを旧開山堂に転用した可能性が高いと考えられます。 ハ.根石(写真8・9) 南面および東西面中央の礎石の下には根石が3~5段積まれていました。一般的には礎石の下に根石を平らに 敷き並べますが、旧開山堂では比較的大きな根石と基壇土を積み上げながら基壇を築成しています。特に南面の 柱列については旧地表面が低いため分厚く盛土する必要があり、柱の不同沈下を防ぐために厳重に石を積み重ね たとみられます。北面の柱列はもともとの地表面が高く盛土の必要がほとんどないため、円形に掘りくぼめた中 に礫を敷き、その上に礎石を設置していました。 南面の柱列の南側では、次に述べる整地土上面において、柱筋に揃えて一辺約0.75mの方形石敷き二段分を検 出しました。用途は不明ですが、①基壇南端の沈下を防ぐ基礎として石を敷いた、②当初はこの位置に南面柱列 がくる計画であったが途中で変更された、などを想定することが出来ます。 ニ.整地土(図三上) 基壇土は北半では旧地表面に直接盛られ、南半では斜面をある程度埋めて整地した上に基壇土を版築で積み上 げられていました。基壇の範囲の地面を一度掘り下げてから丁寧に地固めをする掘込地業などは行なわれていま せんでした。この整地土は瓦片などの遺物を多く含む褐灰色粘質土・にぶい黄褐色粘質土であまり締められてい ませんでした。礎石下の根石はこの面から積み上げられています。 2.旧地表面 旧開山堂移築前の旧地表は緩やかに南に傾斜する斜面で、木の根やそれによる穴などが多くみられました。調 査区東南隅では凝灰岩切石と平瓦の堆積がみられましたが他に顕著な遺構はありませんでした。北西部分では赤 く焼けた土が堆積していました。この付近では近世の火災の記録はありませんが、明治6年の境内図には地蔵堂 の南側に「修理小屋」の記載があり、今回出土の遺物の中には年代不明ですが炉壁片や鞴羽口片なども含まれて ますので、幕末明治初期頃に存在した鍛冶工房から排出された可能性も想定できるでしょう。 トレンチ東壁中央北側では、旧地表面直下において土坑内に土師皿が重ねられた状態で砂で埋められていまし た(写真10・11)。土師皿には大小2種類があり、大は直径約10㎝、小は約7㎝前後です。また「聖」「本」「大」 の墨書が底部にあるものも沢山あります。土師皿の内部には油や煤の付着はないので用途は灯明皿ではありませ

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ん。何かの法要・行事で用いられたものと考えられますが、墨書の意味とともに詳細はわかりません。 3.地山面 地山面では創建当初の遺構検出を目的として調査を行ないました(図二下、写真12)。地山面は北が高く南 が低いやや傾斜のきつい斜面で、建物の存在は想定しがたいです。斜面には3~4段の狭い平坦面がありますが、 遺構はみられませんでした。この地山面は直上まで中近世の遺物を多く含む層に覆われているので、近世初期に 削平・掘削を受けたものとみられます。斜面の最下段は標高64.3mで、東室北側(63.9m)とほとんど高低差が ありません。最下段の平坦面北側には溝がありますが、これは北側から東室への水の流入を防ぐためのものとみ られます。また東室西面軒先の北延長線部分では段差が南北に延びていて、何らかの施設が東室の北側に並ぶよ うに存在したかもしれません。

Ⅲ.出土遺物

出土遺物の大半は近世の瓦でしたが創建期の遺物もわずかに含まれていました。特筆すべきものとしては、大 型多尊塼仏片があります(写真13・14)。これは唐招提寺所蔵大型多尊塼仏(重要文化財、縦27.6㎝横15.6 ㎝厚さ6.6㎝)や、夏見廃寺(三重県名張市)・二光寺廃寺(奈良県御所市)出土のものと同型とみられる大型 多尊塼仏片で、下層基壇土内から出土しました。この塼仏片は縦12.3㎝横8.0㎝厚さ4.5㎝を測り、表面は若干の 破損がみられますが、全体に漆がよく残り、一部には金箔も残っています。今回出土した塼仏は、大型多尊塼仏 のうち右側脇侍頭部の右隣に位置する眷属頭部付近に該当します。眷属頭部下には巻毛様の表現がありますが、 これは獅子頭部の可能性があります。 この塼仏片は、唐招提寺所蔵の塼仏と同型の大型多尊塼仏で、表面だけではなく裏面にも漆が塗られること、 裏面側の胎土に砂粒が含まれることなどの共通点がみられますが、唐招提寺所蔵のものは焼成が硬質で色調は褐 灰色を呈しているのに対し、今回出土のものは焼成が軟質で色調も黄色を呈しています。このことは二つの塼仏 が同一の工房で製作された別個体のものであることを示すもので、これにより唐招提寺には複数の大型多尊塼仏 が存在したことが明らかとなりました。唐招提寺所蔵の塼仏については、夏見廃寺の出土品が何らかの経緯で唐 招提寺に寄進されたものとする説もありましたが、今回の調査で唐招提寺には複数の大型塼仏が存在したことが 明らかとなり、いずれも漆や金箔がよく残ることから、寄進されたものではなく当初から唐招提寺で大切に伝え られてきたものとみられます。また、これら以外にも唐招提寺には塼仏や押出仏が所蔵されています。戒壇院か らは小型独尊塼仏14点が出土し、銅板押出仏像6面が伝わっていました。近年実施された金堂の発掘調査では、 塼仏1点と押出仏1点が出土しています。今回出土した塼仏も、奈良時代の唐招提寺における塼仏・押出仏の用法 や伝来について考える手がかりの一つとなるでしょう。

Ⅳ.まとめ

今回の発掘調査では旧開山堂基壇の工法を明らかにすることができました。移築以前の斜面南半分に土を盛っ て整地し、柱位置に根石を置きながら版築土とともに積み上げ、礎石を据えてから周囲を版築で固めて基壇を築 成するという方法により造られたことが判明しました。さらに移築後に建物を根継ぎあるいはかさ上げし、それ に合わせて基壇外装を造ったことも明らかとなりました。下層の調査では「建立縁起」にみえる羂索堂などの遺 構を確認することは残念ながら出来ませんでした。また、基壇土からは大型多尊塼仏片が出土し、これまで知ら れていた唐招提寺所蔵大型多尊塼仏とは同型別個体であることが判明しました。 (鶴見)

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参考資料

塼仏とは

塼仏とは方形・長方形または上方が弧頭をなす長方形の粘土板の表面に、仏像を半肉彫りに表して焼成したも のです。陶製の陰刻型から型抜きして作成され、焼成後、漆箔や彩色などによって仕上げられていたと考えられ ています。飛鳥時代に中国から伝わり、奈良時代頃にかけて多くつくられました。 塼仏は主に古代寺院跡から出土しており、堂内の壁面荘厳や念持仏として使用されたと考えられています。今 日、全国130か所以上の遺跡などから出土・表採が報告されており、80種類近い図像の塼仏があることが確認さ れています。

大型多尊塼仏とは

大型多尊塼仏は、阿弥陀三尊と二比丘形像のまわりに、天部像や神王像など多数の眷属を配し、阿弥陀三尊と 二比丘像の頭上に天蓋と飛天、背後に菩提樹、足元に須弥壇を表す塼仏です。その図像の大きさは50cm四方以上 に復元でき、現在確認されている塼仏の中で最大のものです。 大型多尊塼仏は現在、13か所の遺跡・寺院・機関で出土・採集・所蔵されていることがわかっています。その 全てが近畿地方であり、現状、近畿地方以外の場所から大型多尊塼仏は見つかっていません。他の塼仏の多くは 近畿地方以外でも確認されていることを考えれば、大型多尊塼仏は特徴的な分布の塼仏といえます。 大型多尊塼仏は、出土場所で厚さや形状、図像などが若干異なる場合があることが確認されています。例えば、 桜井市安倍寺跡出土の大型多尊塼仏は厚さが1~2cm程度で、阿弥陀三尊と二比丘形像だけが表された塼仏であっ た可能性が高いです。唐招提寺の大型多尊塼仏が2cmを超える厚さで、阿弥陀三尊と二比丘形像のまわりに眷属 が表されていることと比較すれば、その違いは明らかでしょう。なぜこのような違いがみられるのかは、現状で は明らかでありません。ただし、法隆寺が所蔵する大型多尊塼仏だけは、後世の修復によって図像が改変されて いることが報告されています。 大型多尊塼仏と同じ図像のものは、押出仏でも確認されています。このため、大型多尊塼仏は塼仏と押出仏の 関係を示す資料の一つとして扱われることがあります。しかし、その実態はよくわかっていません。大型多尊塼 仏の図像をもつ押出仏は、東京国立博物館法隆寺宝物館などに所蔵されています。

使用された年代について

大型多尊塼仏に表現されている須弥壇には、銘文があることがわかっています。銘文は須弥壇の左右両端にあ り、向かって右側には「甲午年五月中」、向かって左側には「□□□□□作」と書かれていることが確認されて います。右側の銘文にある甲午年は694年とみる説が一般的で、このころに大型多尊塼仏がつくられたと考えら れています。

出土場所

奈良県下では、2か所の所蔵例、1か所からの表採例、6か所からの出土例があります。 所蔵例:法隆寺、唐招提寺 表採例:藤原宮跡表採例 出土例:唐招提寺(今回出土分)、興福寺、石光寺、安倍寺跡、二光寺廃寺、当麻寺 奈良県下以外では、1か所の所蔵例、4か所からの出土例があります。 所蔵例:藤井有鄰館(京都市) 三重県出土例:夏見廃寺(三重県名張市) 大阪府出土例:河内百済寺跡(大阪府枚方市) 京都府出土例:乙訓寺(京都府長岡京市) 滋賀県出土例:法堂寺廃寺(滋賀県東近江市) (奈良県立橿原考古学研究所 中東洋行)

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【参考資料

奈良文化財研究所『古代の官衙遺跡』Ⅰ 遺構編 より

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写真1 解体修理中の旧開山堂

写真2 基壇全景(南西から)

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写真4 下層基壇全景(南から)

写真5 下層基壇全景(南東から)

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写真7 下層基壇土除去後(南から)

写真8 南面の礎石・根石(東から)

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写真12 地山面(南西から)

写真10 土師皿出土状況(南西から)

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写真14 大型多尊塼仏(合成図、中央下は唐招提寺伝世品、 右上は今回出土塼仏、下図は二光寺廃寺出土塼仏)

参照

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