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1 1はじめに弥生各期の実年代への位置付けについては 炭素14 法や年輪年代法の活用によって 新しく科学的な根拠が与えられつつある 特に 歴史民俗博物館(歴博)が主導する 弥生時代遡上論(( ( は 次々に発表する炭素年代値と共に 考古学界に弥生年代の再検討の流れをもたらし 多くの議論が提起されてい

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はじめに

弥生各期の実年代への位置付けについては、炭素 14法や 年輪年代法の活用によって、新しく科学的な根拠が与えら れ つ つ あ る。 特 に、 歴 史 民 俗 博 物 館( 歴 博 ) が 主 導 す る 「 弥 生 時 代 遡 上 論 (1 ( 」 は、 次 々 に 発 表 す る 炭 素 年 代 値 と 共 に、考古学界に弥生年代の再検討の流れをもたらし、多く の議論が提起されている。 それらの状況については、二〇〇五年末、大貫静夫が考 古学者の意見をまとめた形で、大幅な遡上を意義あるもの と認めながら「弥生時代の開始期が前一〇世紀まで遡ると は考えられず、前期末中期初頭が前三〇〇年を大きく超え て、前四〇〇年に近づくことは考えられない」と現状を総 括してい る (( ( 。未だ「科学的な」方法による年代観が全面的 に認められたわけではない。 筆 者 は 既 に、 炭 素 14法 に つ い て、 暦 年 較 正 の 国 際 基 準 が、日本の実状に合わない可能性について、実例とその理 論的な根拠を挙げて、再検討を迫ってい る (( ( 。すなわち、歴 博自身の年代観にしたがい、歴博の測定した炭素 14年代を 整理してみても、暦年較正の国際基準から大きく乖離して い る デ ー タ が 多 く、 歴 博 説 は 炭 素 14法 自 体 の 問 題 と し て も、成立しない可能性があると考えている。したがって、 実年代の遡上は、直接的な「科学的手法」と共に、更なる 考古学的な積上げを必要としている。 その意味で、注目したいのが青銅器の鉛同位体比の問題 数理考古学・前韓国国立慶尚大学招聘教授

あ ら い

ひろし

鉛同位体比から見た

弥生期の実年代に関する一試論

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である。青銅器に含まれる鉛の同位体比分析は、現在のと ころ、鉛の産地を直接推定するほどの情報は持たないが、 類似品のグループ化や青銅器編年との対応関係を研究する ことには十分な意味があり、考古学における型式分類と同 様に、有効な手法となり得る可能性を有している。 し か し、 一 般 の 考 古 学 研 究 者 に と っ て、 分 析 値 の 解 析 は、なじみ深い分野とは言えず、中国における鉛同位体比 の研究との対比も未だ不十分で、鉛同位体比を本格的に活 用した研究はこれからの段階にある。 筆者は、今までに、鉛産地問題における「朝鮮半島説」 の誤りを指摘したり、古墳時代鏡の鉛同位体比の類似性を 通して、鋳造地問題への新たな提案を行ってい る (4 ( 。その過 程で、日本と中国・韓国の古代青銅器の鉛同位体比分析値 のほとんど全てをデータベース化して持っている。 本報においては、主として弥生時代前期末から中期初頭 の青銅器について、中国の青銅器の鉛同位体比と比較し、 実年代としての位置付けについて議論し、弥生時代の実年 代論の多様化を図って見たい。

 

鉛同位体比の分類

考古学においては、土器、青銅器など、型式の分類とそ の変遷過程を精緻に調べ、出土層位などをもとに編年を行 うのを基本としている。同様に、青銅器の鉛同位体比の研 究においても、その分類は研究の基礎であり重要な役割を 持つ。しかし、分析値が連続的な数値であり、これをどの ように分類するか、客観的な基準がある訳ではない。 従来は、 図 1に例示するように、朝鮮半島産鉛(朝鮮半 島系の青銅器の多くが属する:ただし筆者見 解 (4 ( では朝鮮半 島 産 説 は 誤 り で 実 際 は 中 国 産 )、 華 北 産 鉛( 前 漢 鏡 や 弥 生 後期の青銅器の大部分が属する:しかしこれも筆者見 解 (4 ( で は 華 北 産 に 確 定 し 得 な い )、 華 南 産 鉛( 古 墳 時 代 の 銅 鏡、 銅鏃などが属する:これも筆者見 解 (4 ( では華南産に確定し得 な い )、 日 本 産 鉛 な ど と、 産 地 呼 称 を 使 っ て 分 類 し て い た が (( ( 、用語として不適切で、この分類では中国、朝鮮半島を 含む東アジアの実状には合わない。 そのため、筆者は、産地とか青銅器形式、あるいはそれ ら青銅器が使用されていた時代とは、いったん離れて、四 種類ある鉛同位体の内、グラフ表示する際に、多用されて い る (07 Pb/ (06 Pb ( X 軸 ) と (08 Pb/ (06 Pb ( Y 軸 ) の 二 つ の 数値により、分類することを試みた。 (07 Pb/ (06 Pb と (08 Pb/ (06 Pb の関係図の一例として、 中国 古代青銅器と弥生青銅器のほとんどを網羅して作成した分 布を 図 2に示す。 しかし、 図 2から判るように、これをこのまま X軸とY 軸 で 分 割 分 類 す る と、 組 合 せ が 膨 大 に な り、 極 め て 効 率

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図 1 産地呼称をつけた鉛同位体比の分類図例

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が 悪 い 。 そ れ は 、 X 軸 に も Y 軸 に も 分 母 に (06 Pb の 項 を 含 む た め 、 同 一 グ ル ー プ 間 で は 、 右 肩 上 が り の 長 楕 円 状 の 分 布 を 示 す か ら で あ る 。 こ の よ う な 表 示 が 多 用 さ れ る よ う に な っ た の は 、 宇 宙 ・ 地 球 科 学 の 分 野 で 鉱 床 生 成 の 時 期 と の 対 応 を 議 論 す る の に 便 利 だ か ら で あ り 、 必 ず し も 青 銅 器 や ガ ラ ス の 鉛 の 差 異 を 表 示 す る の に 優 れ て い る か ら で は な い 。 し た が っ て、 理 論 的 に は、 同 位 体 比 に よ る 表 示 を や め て、新たに各々の鉛同位体量をパーセント表示に計算し直 してから、分類する方法が良いと考えるが、それでは従来 発表されて来た分析値をそのまま利用できず、実用的とは いえない。 そのため、筆者は 図 3に示すような分類を行うことにし た。グラフ表示との関係が明瞭で、従来の数値をそのまま 利用できるし、簡単な数式表示で、分類計算も行える。 したがってこの分類法は、従来のように「考古学的な類 似 性 」 を 求 め た も の で は な く、 単 に「 分 析 値 の グ ル ー プ 化 」、 す な わ ち 分 析 値 の 代 替 で あ る。 考 古 学 的 な 類 似 性 を 求めると、必然的に「解釈」が導入され、学説が不安定な 状 態 で は、 爾 後、 無 用 な 混 乱 を も た ら す お そ れ が あ る の で、現段階ではそれを避けたわけである。 目的が分析値の代替であるから、あまりおおまかでも、 逆にあまり細かすぎても使い難い。原理的には鉛同位体比 をいったんパーセント表示して、それを基礎にしてグルー 図 3 207Pb/206Pb/ と208Pb/206Pb の αβ 分類図

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プ化すれば、複雑さからは逃れることができるが、既に同 位体比による表示が一般化している中では、これも混乱を もたらす。その結果としての選択が 図 3である。 すなわち、 図 3において、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵ、Ⅶ の 分 類 は (07 Pb/ (06 Pb ( 以 降 α 値 ) に つ い て 次 の よ う に 定 義する。 Ⅰ   α値[ (07 Pb/ (06 Pb ]  0.7800 以下 Ⅱ   α値[ (07 Pb/ (06 Pb ]  0.7801 ~ 0.8 (00 Ⅲ   α値[ (07 Pb/ (06 Pb ]  0.8 (01 ~ 0.8 (00 Ⅳ   α値[ (07 Pb/ (06 Pb ]  0.8 (01 ~ 0.8700 Ⅴ   α値[ (07 Pb/ (06 Pb ]  0.8701 ~ 0.88 (0 Ⅵ   α値[ (07 Pb/ (06 Pb ]  0.88 (1 ~ 0.9000 Ⅶ   α値[ (07 Pb/ (06 Pb ]  0.9001 以上 また、 ①、 ②、 ③、 ④、 ⑤の分類についても [(08 Pb/ (06 Pb -   × (07 Pb/ (06 Pb ]( 以 降 β 値 ) を 計 算 し て次 の よ う に 定 義する。 ①   β 値[ (08 Pb/ (06 Pb -   × (07 Pb/ (06 Pb ] 0.7400 以 下 ②   β 値[ (08 Pb/ (06 Pb -  × (07 Pb/ (06 Pb ] 0.7401 ~ 0.7 (00 ③   β 値[ (08 Pb/ (06Pb -  × (07 Pb/ (06 Pb ] 0.7 (01 ~ 0.7600 ④   β 値[ (08 Pb/ (06 Pb -  × (07 Pb/ (06 Pb ] 0.7601 ~ 0.7700 ⑤   β 値[ (08 Pb/ (06 Pb -  × (07 Pb/ (06 Pb ]  0.7701 以 上 例えば、 (07 Pb/ (06 Pb が 0.8648 、 (08 Pb/ (06 Pb が (.1 (68 の 時、 α 値 は 0.8648 、 β 値 は 0.74 (1 と な り、 Ⅳ ② 鉛 と 分 類 する。 ここでβ値の定義を [(08 Pb/ (06 Pb -  × (07 Pb/ (06 Pb] と し た の は、 図 1に お い て、 (08 Pb/ (06 Pb と (07 Pb/ (06 Pb の 全体的な回帰式を作ると、 (08 Pb/ (06 Pb =   × (07 Pb/ (06 Pb + 0.7 ( となり、 1.6がその勾配を示しているからである。 すなわち、 図 2あるいは 図 3において、右肩上がりの細 長いマクロな分布を基準として、左上側と右下側の鉛同位 体比を五段階にグループ化したわけである。ここで注意し なければならないことは、図上の細長いマクロな分布は、 本 質 的 な こ と で は な く、 X軸、 Y軸 共 に、 分 母 に (06 Pb を 含むために生じた現象だということである。そのため、長 軸方向(左下から右上の方向)では、見かけ上は大きな差 が あ る の に 対 し て、 短 軸 方 向( 左 上 か ら 右 下 の 方 向 ) で は、見かけ上の差が小さい。したがって、鉛同位体の分類 を行うのに、短軸方向の差異を無視することができないの である。 ま た、 こ の よ う な 数 値 区 分(   × (= (( 区 分 ) を 設 け た 1.6 1.6 1.6 1.6 1.6 1.6 1.6 1.6 7

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のは、分類をあまり粗くすると詳かい議論が出来ないし、 再 分 化 し 過 ぎ て も 煩 雑 だ か ら で あ る。 ま た β 値 に つ い て は、等間隔に区分したが、α値については、実際データの 分布が集中する部分を細かく区分するようにした。 分析資料の少ない部分について、あまり分類を細分化す ると表示が複雑になってしまうし、分析資料の密集する部 分について、分類を大きくし過ぎると、細部の議論に使え な い か ら で あ る。 な お、 鉛 同 位 体 に は (04 Pb も あ り、 他 の (06 Pb 、 (07 Pb 、 (08 Pb に 合 せ て 補 助 的 に 使 用 す る こ と が 望 ま し い が、 鉛 の 中 の (04 Pb の 存 在 量 は 一 ・ 四 パ ー セ ン ト 程 度であり、比較的マクロな議論においては、その必要が低 いので、本稿においては簡潔さを求めて省略する。 以下、この分類方式を   分類と名付ける。

 

中国古代青銅器の鉛同位体比分類

中国の古代青銅器の鉛同位体比分析は、日本に劣らず盛 んに行われている。手元には南方地域の銅鼓などを除外し ても、一〇〇〇件ほどの分析値をファイルしている。 これらを   分類によって時代別に整理したものを出典別 に 表1 に示す。出典は便宜上一般文献とは区別し、グルー プ化して文献欄に示 す (6 ( 。時代区分は、二里頭期、商周期、 西周期、春秋期、戦国期、秦期、漢期とし、青銅器の出土 地や青銅器種類については、その内容を「三星」とか「殷 墟 」「 新 干 」 あ る い は「 布 貨 」 な ど の 略 記 で 示 し、 そ の 下 に出典(参照番号)を示す。略記の内容はおおよそ次の通 りである。 湖北:湖北省隨州、華南:江西省・湖北省・安徽省、泉 屋:泉屋博古館所蔵、殷墟:河南省殷墟、新干:江西省新 干 太 洋 州、 三 星 : 四 川 省 三 星 堆、 金 沙 : 四 川 省 金 沙、 曲 沃:山西省曲沃、サクレア:米サクレアコレクション、馬 博 : 馬 の 博 物 館 所 蔵、 布 貨 : 戦 国 各 国 貨 幣、 雲 南 : 雲 南 省・ 四 川 省、 江 蘇 : 江 蘇 省、 神 戸 : 神 戸 博 物 館 所 蔵、 東 博:東京国立博物館。 なお、時代区分について、商周期と西周期など不統一な 点があるが、これは原典において、商期と周期を区分して いない場合と、西周と明記している場合があるからで、情 報のロスを防ぐために採った方法である。同様に、出土場 所と所蔵機関を同列で表現したのも、発見場所がはっきり している場合と収蔵品のように出土場所を明記できない場 合があるためである。これらの分類結果を時代ごとに集計 した結果は、後で 表3 にまとめる。

 

弥生時代青銅器の鉛同位体比分類

弥生時代の青銅器の鉛同位体比分析結果も一二〇〇件以 αβ αβ

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表1-1 中国古代青銅器の時期別鉛同位体比分類結果(文献①②③等は

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上ある。これらを青銅器種類、すなわち銅剣(遼寧式、中 国 式、 細 形、 中 細 形、 平 形 な ど )、 銅 矛( 細 形、 中 細 形、 中広形、広形など) 、銅戈(細形、中細形など) 、多鈕細文 鏡、銅鐸(菱環鈕式、外縁付鈕式、扁平鈕式、突線鈕式な ど の 分 類 に 加 え、 流 水 文、 袈 裟 文 な ど の 分 類 も 併 用 )、 前 漢鏡、小型仿製鏡、銅釧、銅鋤、銅鏃などの種類ごとに、   分類した結果を 表2 に示す。出典を個別に示すことは煩 雑すぎるので、これもグループ化して文献欄に示 す (7 ( 。 青銅器の型式分類は、弥生前期から中期にかけては細分 化を心掛けたが、弥生中期から後期にかけては、当面の関 心事ではないので一括して取扱った場合もある。 また、出典が多岐にわたっているので、重複も目立って いる。これらについては極力排除したが、再分析結果など 数 値 の 異 な る 場 合 は、 原 則 と し て 別 の デ ー タ と し て 取 り 扱っている。

 

総括表の作成と状況の整理

弥生青銅器と中国古代青銅器の鉛同位体比分類結果を 表 3 に総括表として示す。 弥生時代の区分(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ期)と青銅器の種 類の対比関係は、細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈、多鈕細 文鏡、菱環鈕式銅鐸を弥生Ⅰ・Ⅱ期、中細形銅剣・中細形 銅 矛・ 中 細 形 銅 戈、 外 縁 付 鈕 式 銅 鐸 を 弥 生 Ⅱ・ Ⅲ 期 と し た。銅剣・銅矛・銅戈や銅鐸で、手元に詳細な分類がない 場合は、総合計にのみ加えた。 ま ず、 表 2 弥 生 時 代 の 青 銅 器 を 総 括 的 に み る と、 一二一〇件中八五〇件(七〇パーセント)がⅤ④鉛に集中 している。Ⅴ④鉛の分類に近いⅤ③鉛、Ⅳ④鉛、Ⅳ③鉛を 加えると、八一パーセントのごく狭い領域に分布している ことが判る。これらのデータの内、多数を占める出雲荒神 谷の銅剣分析値三五八件を除いても、八五一件中五三八件 (六三パーセント)がⅤ④鉛であり、Ⅴ③鉛、Ⅳ④鉛、Ⅳ ③鉛を加えると七六パーセントである。弥生時代には原料 源が限定されていた状況が推察される。 しかし、弥生Ⅰ・Ⅱ期あるいは弥生Ⅱ・Ⅲ期を見ると、 かなり様相が異なる。 特 に、 弥 生 Ⅰ・ Ⅱ 期 の 場 合 は、 Ⅴ ④ は 六 九 件 中 に 四 件 (六パーセント)しかなく、際立った差異があり、大部分 がⅠ鉛、Ⅱ鉛、Ⅲ鉛を示している。その中でも、Ⅰ鉛、Ⅱ 鉛を示す二〇件(二九パーセント)は、中国においては、 春秋・戦国期・秦・漢代を通じて、朝鮮半島に連なる燕国 二 件 を 除 け ば、 例 が 無 く( 二 二 四 件 で 〇 件 )、 Ⅲ ③ 鉛、 Ⅲ ④鉛の一七件も、春秋~漢代で一件しかその例を見ない。 す な わ ち 特 異 な 鉛 と し て、 Ⅰ 鉛、 Ⅱ 鉛、 Ⅲ ③ 鉛、 Ⅲ ④ 鉛 を 指 定 す る な ら、 弥 生 Ⅰ・ Ⅱ 期 の 青 銅 器 で は 六 七 件 中 に αβ

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表2-1 弥生時代の青銅器種類別鉛同位体分類結果(文献は

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表2-2 弥生時代の青銅器種類別鉛同位体分類結果

(続き

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四〇件(半数以上)もあるのに、中国の春秋(漢代)では 二二四件中に一件しか見当たらない。 したがって、これらは同時期に中国で使用されていた鉛 とは考えられないのである。それならば、遼西、遼東、朝 鮮半島あるいは日本の独自の鉛であったのであろうか。し かし、その可能性は中国東北部や朝鮮半島の鉛組成を見る 限り、極めて乏しい。試みに弥生Ⅰ期とⅡ期の青銅器鉛と 中国東北部および朝鮮半島の鉛を比較して 図 4に示す。鉛 鉱山のデータは馬渕久夫 ら (8 ( と佐々木 昭 (9 ( による。図から明ら かなように、中国東北部や朝鮮半島の鉛は、弥生Ⅰ期・Ⅱ 期の異常な鉛とは全く分布を異にしているのである。 ところが、これらの特異な鉛は、中国の商周代あるいは 西周代ではむしろ一般的な鉛であった。すなわち、商周~ 西周代の分析値は六〇四件あるが、その内半数の三〇六件 が該当しているのである。 このような特異な鉛は弥生Ⅱ期・Ⅲ期にも継続するが、 急速に消滅してしまう。 以下、これらの事実について個々に検討を行って見る。 関連する青銅器の内容や鉛同位体比については一括して 表 4 に示す。文献は大部分が 表2 と共通なので、その番号を 兼用して示すが、新出分には新たな番号をつけ た (8 ( 。 図 4 弥生Ⅰ期Ⅱ期青銅器と中国東北部・朝鮮半島の鉛比較

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今川遺跡出土の銅鏃

日本で最も古い青銅器は、福岡県宗像郡津屋崎町の今川 遺跡から出土した有茎両翼式銅鏃(遼寧式銅剣の茎を再利 用)で、弥生前期初頭の板付Ⅰ期の包含層から出土してい る。遼寧式銅剣を再利用した銅鑿は、韓国の扶餘松菊里か らも出土しているので、板付Ⅰ期を松菊里期に対応させる 根拠のひとつとなっている。 こ の 今 川 遺 跡 の 銅 鏃 の 鉛 同 位 体 比 は、 Ⅳ ② 鉛 に 属 す る が、中国では、西周期・春秋期・戦国期を通して、最も一 般的な組成であり、中国と同一の原料を使用していたと見 ることができる。逆に言えば、このⅣ②鉛は中国での使用 期間が長期にわたっているため、鉛の分類から製作時期を 特定することはできない。

 

遼寧式銅剣・銅矛

遼寧式銅剣・銅矛の三件の内、二件は朝鮮半島南部の積 良洞出土であり、一件のみが福岡県小倉区上徳力遺跡から の出土である。 積 良 洞 の 遼 寧 式 銅 剣 は、 岡 内 三 眞 に よ れ ば、 B Ⅰ 式 に 分 類 さ れ、 岡 内 の 新 し い 年 代 編 年 で は、 春 秋 中 期( B C 六七〇年頃)の青銅器とされてい る ((1 ( 。今川遺跡の例で判る ように、この遼寧式銅剣の時期判定が、弥生時代の実年代 判定の重要な鍵となっていて、その時期を最も古く見るの が岡内である。 一方、上徳力遺跡出土のものは、遼寧式Ⅴ式銅剣の再加 工品で、遼寧式銅剣Ⅰ式を遡るものではな く ((( ( 、Ⅰ式からⅡ 式への移行時期をどう評価するかによって、弥生年代の設 定に関係してくる。 こ こ で 特 徴 的 な 点 は、 こ れ ら 遼 寧 式 銅 剣 三 点 が い ず れ も、今川遺跡の遼寧式銅剣を再利用した銅鏃と同じく、Ⅳ ②鉛に分類され、中国の西周・春秋・戦国期に最も一般的 だった組成と一致していることである。この事実は、遼寧 式銅剣が中国と同一の青銅器原料を用いていたことを明瞭 に示していると言えよう。 一方、日本では弥生時代を通じて、Ⅳ②鉛に分類される 青銅器は、上記の例を除くと、いわば偶発的と思われる3 点しか見つかっていない。すなわち、日本の弥生時代を通 し て( 厳 密 に 言 え ば、 弥 生 前 期 末 以 降 )、 こ の 中 国 の Ⅳ ② 鉛は、全く使用されなかったと考えられるのである。 その意味で注目する必要があるのは、 表3 に示したよう に、 中 国 か ら 朝 鮮 半 島 へ の ル ー ト に あ た る 河 北 省 の 燕 国 で、戦国期になるとⅣ②鉛が一点も認められなくなること である。Ⅳ②鉛は戦国期を通して、中国ではまだ主たる原

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料のひとつであり、河北省に隣接する山東省でも使用され 続けている。何らかの理由で、燕国への供給が止まった状 況と考えられるのである。 もしそうであるなら、遼寧式銅剣への青銅器原料供給に 支障を来たし、遼寧銅剣の終焉を早める要因になった可能 性がある。鉛組成の面で、遼寧式銅剣と弥生期の細形銅剣 等の間に連続性が全く認められないことは、その意味でも 十分に注目する必要がある。

 

中国式銅剣

韓国の全羅北道上林里で出土した中国式銅剣三点のほか に、日本出土のものが二点ある。上林里の銅剣は、全栄 来 ((1 ( が朝鮮半島での仿製の可能性を指摘したもので、鉛同位体 比が、細形銅剣に類似することからも、中国製とするのに は問題がある。甘木市中寒水屋敷の銅剣も長さが一一セン チで、扁平な形状であり、中国には見られない形であ る ((1 ( 。 一方、前原市三雲出土と伝えられる銅剣は、柳田康 雄 ((1 ( が 中国産としたものであるが、鉛同位体比の分類がⅢ②であ り、戦国期に多く認められるタイプなので中国産としても 問題ないであろう。しかし、いずれにしても、中国式銅剣 をもって、時代を議論することは難しい。

 

弥生Ⅰ・Ⅱ期と

弥生Ⅱ・Ⅲ期の青銅器

表3 を見ると直ちに判るが、弥生Ⅰ・Ⅱ期や弥生Ⅱ・Ⅲ 期 に は、 α 分 類 で Ⅰ と Ⅱ を 示 す 青 銅 器 が 多 数 あ る。 し か し、中国ではこのタイプを春秋期・戦国期・秦漢期を通じ て、 全 く 見 出 せ な い。 こ れ を 更 に 拡 大 し て 言 う と、   分 類 で Ⅲ ③ 鉛 と Ⅲ ④ 鉛 を 示 す グ ル ー プ も 同 時 期 の 中 国 に お い て、その例をほとんど見出せない。 こ の よ う な 傾 向 は、 弥 生 Ⅱ・ Ⅲ 期 の 場 合 に も 続 い て い る。弥生Ⅱ・Ⅲ期を含めて考えると、 表3 に網掛けした分 類の八四点が、中国の春秋期から漢期にかけて、その例を ほとんど見出せないのである。これは弥生Ⅰ・Ⅱ期、Ⅱ・ Ⅲ期の総数一五九点の五三パーセントに相当し、決して例 外的な割合ではない。 ところが、これらの鉛の多くは、中国において、商周期 以前には一般的なものであった。これはどうしたことであ ろうか。 その一方で、弥生時代の主要な鉛であるⅤ④鉛は、弥生 Ⅰ・Ⅱ期には六九件中の四件に過ぎないが、Ⅱ・Ⅲ期に入 ると九〇件中三〇件と急増し多数を占めるようになる。 以上のふたつの事実を組み合わせると、弥生Ⅰ・Ⅱ期の αβ

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青銅器原料に、商周期の青銅器のリサイクル材が使用され た可能性が浮かび上がる。 一般に、青銅器原料は貴重品であり、不要となるとリサ イクルされる。その際には、使用目的に合わせて、金属組 成の調整を行うので、必ず新たな原料も添加される。した がって、再溶解材であっても完全に元の組成に一致する訳 ではない。すなわち、再溶解材はリサイクル材の組成と新 た に 添 加 す る 原 料 の 組 成 を 結 ぶ 線 上 に 分 布 す る こ と に な る。 このような観点で、弥生Ⅰ・Ⅱ期や弥生Ⅱ・Ⅲ期の組成 を見ると、商周期の典型的な原料であるⅠ②鉛 ~Ⅰ④鉛な どに、Ⅴ④鉛の原料を添加したと考えると納得できる。こ の様子を 図 5と 図 6で確認して見る。 図 5も 図 6も、弥生Ⅰ・Ⅱ期と弥生Ⅱ・Ⅲ期の鉛同位体 比 に つ い て、 X 軸 に (07 Pb/ (06 Pb を、 Y 軸 に (08 Pb/ (06 Pb を採って示したものである。それに加えて、 図 5では中国 の長江上流地域の四川省三星堆・金沙遺跡・江西省新干太 洋 州 遺 跡 の デ ー タ を、 図 6に は 黄 河 流 域 の 河 南 省 殷 墟 の データを目立たぬように×で示している。 図中には、弥生時代の主要原料の分布と、三星堆や殷墟 などの主要な分布を模式的に長楕円で示すが、これらのふ たつの原料間に、弥生Ⅰ・Ⅱ期、弥生Ⅱ・Ⅲ期の鉛同位体 が直線状に分布している様子が良く判るであろう。 図 5 弥生ⅠⅡ期・弥生ⅡⅢ期と三星堆等の鉛同位体比の関係

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さて、弥生Ⅰ・Ⅱ期の青銅器の内でも、最早期に属する のは、細形銅剣の B   や B   式である。三点の試料を確認 しているが、ひとつは韓国の慶尚道出土と伝えられたもの であり、他は福岡県糸島郡前原町向原の上町遺跡と田川市 糠上の原からのものである。これに常松幹 雄 ((( ( が北部九州の 最 早 期 銅 剣 と す る 吉 武 高 木 遺 跡 三 号 木 棺 の 細 形 銅 剣( B   、 B   を含む)等を 表4 にグループ化して示す。鉛同位 体比はⅠ④鉛Ⅰ⑤鉛が三件、Ⅱ④鉛が五件となり、比較的 にまとまった分布を示しているが、一般的な細形銅剣と特 に大きく変わるところがなく、遼寧式銅剣にはつながって いない。 ただ、ここで注目する必要があるのは、Ⅰ④鉛とⅠ⑤鉛 である。これに一致または極めて近い組成の鉛が、戦国燕 国の 匽 字刀銭に見られるのである。リサイクル材の入手が 燕国経由で行われた状況を示している。

 

出雲荒神谷の中細形銅剣

リサイクル原料を配合した典型的な事例が、出雲荒神谷 の三五八本の中細形銅剣にも認められる。この件について は、既に報告したことがある が (4 ( 、その鉛同位体比の分布を 図 7に 示 す。 図 か ら、 主 要 原 料( Ⅴ ④ 鉛 ) に A ― (6( Ⅲ ③ 鉛 ) と D ― ((( Ⅶ ② 鉛 ) な ど を リ サ イ ク ル 材 と し て 使 用 し 図 6 弥生ⅠⅡ期・弥生ⅡⅢ期と殷墟遺跡の鉛同位体比の関係 Ⅰb Ⅰa Ⅰa Ⅰb

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た様子が良く判る。 と こ ろ で、 A ― (6の 組 成 は、 荒 神 谷 遺 跡 か ら 出 土 し た 外 縁付鈕Ⅰ式の銅鐸とほぼ同じ組成であり、同種の銅鐸の再 溶 解 と 考 え ら れ る。 と こ ろ が、 D ― ((等 の 組 成 は、 こ こ 荒 神 谷 遺 跡 以 外 に は 日 本 で は 全 く 認 め ら れ て い な い。 し か し、 戦 国 期 の 河 北 省・ 山 東 省 で は 最 も 一 般 的 な 組 成 で あ り、燕国の 匽 字刀銭にもその組成を見る。しかも山東省の 香奇鉱山や遼寧省の錦西鉱山では類似する鉛同位体比の鉛 を産出してい る (8 ( 。したがって、燕国付近で使用された青銅 器のリサイクル材が荒神谷遺跡に入ってきたと考えること ができるであろう。ただしリサイクル材なので、流入期は 戦国期とは限らない。

 

荒神谷銅剣と同じような事例が、三雲遺跡南小路甕棺か ら出土した前漢鏡(連弧文清白鏡、重圏彩画鏡)等にも認 め ら れ る ((1 ( 。 前 漢 鏡 は、 当 初 か ら 鉛 同 位 体 比 の 分 類 に お い て、 「 華 北 産 鉛 」 の 代 表 と し て 例 示 さ れ て 来 た が、 こ の 三 雲遺跡のような例外もある。 図 8にその関係を示すが、前 漢鏡でも弥生Ⅰ・Ⅱ期やⅡ・Ⅲ期の青銅器に類似するライ ンに載っていることに注目する必要があろう。すなわち、 前漢期の中国においても、一部では殷周期のリサイクル材 図 7 出雲荒神谷同剣におけるリサイクル材の使用状況

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と新原料の共用が行われていたと考えられるのである。そ の製作場所をどこに求めるか、大きな関心事であるが、こ こでは触れない。

 

弥生時代の主原料

(Ⅴ④鉛)

前 述 し た よ う に 、 弥 生 時 代 を 通 じ て 、 七 〇 パ ー セ ン ト の 鉛 同 位 体 比 が Ⅴ ④ 鉛 に 属 し 、 そ の 周 辺 を 合 わ せ る と 、 八 二 パ ー セ ン ト ま で が 、 ご く 狭 い 領 域 に 分 布 し て い る 。 し か し 、 このⅤ④鉛が中国の青銅器に現れるのは戦国時代に入って か ら で 、 春 秋 期 以 前 に は 皆 無 で あ る 。 す な わ ち 、 中 国 で Ⅴ ④ 鉛 が 使 わ れ 始 め た 時 期 を 特 定 で き れ ば 、 弥 生 時 代 の 青 銅 器 の 時 期 も 限 定 で き る 可 能 性 が あ る 。 そ の 意 味 で、 ま ず 戦 国 期 の 青 銅 器 に つ い て、 図 8 三雲遺跡南小路甕棺出土の前漢鏡の鉛同位体比 表5 戦国・秦期の中国・省別の鉛同位体比分布

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出土地域別に鉛分類を調査してみた。 表5 に結果を示す。 この表を見ると、Ⅴ④鉛が比較的多く使用されたのは、中 国華南の安徽省、江蘇省、湖北省から華北の山東省、河南 省にかけてであり、周辺地の河北省、広東省、四川省、雲 南省には、全く認められない。このことは、この種の原料 供 給 地 が、 お そ ら く 華 南 地 域 に あ っ た こ と を 示 唆 し て い る。 また、このⅤ②鉛が、漢期に入ると圧倒的な比率を占め るようになることから判断すると、戦国期でも後期になっ てから使われ始めた可能性が高いと判断する。 なお、河北省以北では戦国期には全く例がないので、日 本へ入ってきたのは、戦国末期から漢期以降のことだと考 える。

 

鉛同位体比による弥生期の位置付け

鉛同位体比解析によって、新たに得られた情報は、もと もと乏しい考古学的な情報の中では重視する必要がある。 それらは次のように要約できる。 ⑴ 遼 寧 式 銅 剣 に 使 用 さ れ た Ⅳ ② 鉛 は、 戦 国 期 以 前 の 中 国 青 銅 器 鉛 に 一 致 し、 当 時 の 中 国 と 同 一 の 原 料 源 を 使用していたと考えられる。 ⑵ し か し 河 北 省 の 地( 燕 国 ) で は、 戦 国 期 に 入 る と Ⅳ ② 鉛 の 使 用 が 全 く 見 ら れ な く な る。 何 ら か の 事 情 で、供給が止まったものと考えられる。 ⑶ 朝 鮮 半 島 お よ び 日 本 の 細 形 銅 剣 の 組 成 は、 初 期 の B Ⅰ 式 を 含 め て 遼 寧 式 銅 剣 と は 全 く 異 な る。 し か も 中 国 に お い て は、 春 秋・ 戦 国 期 に 全 く 使 用 さ れ た こ と の な い Ⅰ 鉛、 Ⅱ 鉛 な ど が 主 で あ り、 こ れ に 漢 期 に 入 り 主 要 原 料 と な る Ⅴ ④ 鉛 を 添 加 し て 溶 解 し た 形 態 を 示している。 ⑷ 中 国 に お い て、 Ⅰ 鉛、 Ⅱ 鉛 を 使 用 し て い た の は 商 周 期 以 前 だ け で あ る。 し か も 山 東 省 以 北 の 鉛 鉱 山 の 鉛 同 位 体 比 か ら 見 て、 こ の 種 の 鉛 は 中 国 北 部 産 や 朝 鮮 半 島 産 と は 考 え 難 い。 し た が っ て、 細 形 銅 剣 や 多 鈕 細 文 鏡 な ど の 主 要 原 料 は、 商 周 期 の リ サ イ ク ル 材 を 利 用 し た 可 能 性 が き わ め て 高 い。 こ れ に 一 致 す る 鉛 の 青 銅 器 は 朝 鮮 系 青 銅 器 の 他 に、 戦 国 期 の 燕 国 に も 数例ある。 ⑸ 後 に、 細 形 銅 剣 等 に も 使 用 さ れ る よ う に な る Ⅴ ④ 鉛 は、 戦 国 期 に あ っ て は、 河 北 省 の 地( 燕 国 ) で は 認 め ら れ な い。 燕 国 に 入 っ た の は、 秦 期 以 降 か 遡 っ て も戦国後期であ ろ う 。 ⑹ 弥 生 期 全 体 を 通 じ て、 七 〇 パ ー セ ン ト も 使 用 さ れ た Ⅴ ④ 鉛 が、 中 国 で 使 用 さ れ 始 め る の は 戦 国 期、 そ れ も お そ ら く 後 期 に な っ て か ら で あ る。 そ れ ま で の

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長 い 期 間、 中 国 で は Ⅴ ④ 鉛 を 全 く 使 用 し て い な か っ た。それは、時代の特定に役立つ情報と言えよう。 ⑺ リ サ イ ク ル 材 と Ⅴ ④ 鉛 の 併 用 は、 弥 生 Ⅰ・ Ⅱ 期、 弥 生 Ⅱ・ Ⅲ 期 や 出 雲 荒 神 谷 銅 剣 の 例 ば か り で な く、 前 漢鏡にも認められる。 さて、それではこれらの情報は、従来学説との関連で弥 生期の年代判定にどのような影響をもつであろうか。 ま ず 遼 寧 式 銅 剣 で あ る が、 岡 内 三 眞 ((1 ( は、 新 し い 年 代 観 で 朝 鮮 半 島 に お け る 製 作 開 始 時 期 を 紀 元 前 八 〇 〇 年 か ら 七 七 〇 年 と し、 松 菊 里 出 土 を 春 秋 前( 前 七 七 〇 年 ~ 前 六 七 〇 年 )、 積 良 洞 出 土 を 春 秋 中( 前 六 七 〇 年 ~ 前 五 七 〇 年)に位置付けている。このことは鉛同位体比から見ても 成立し得る。岡内はまた朝鮮半島の細形洞剣は、遼寧式銅 剣から変化し前五〇〇年頃に成立したとしている。宮本も 新しい説では遼寧式銅剣Ⅰ式からⅡ式への移行期に、細形 銅剣が成立したとして前五世紀説をと る ((1 ( 。 しかし細形銅剣に関しては、初期の細形銅剣でも遼寧式 銅剣と全く異なる鉛を使用している。そのことは、遼寧式 銅剣と細形銅剣の間に時期的な経過があったことを伺わせ る。 遼寧式から細形銅剣までに時期的な経過があったとする なら、その原因は青銅器原料の供給問題に求められるであ ろう。それは、河北省(燕下都遺跡)から出土した 匽 字刀 銭や空首布の鉛組成が、中国の他地域と全く異なっている ことからも推察される。戦国期に入り、戦略物資とも言う べき青銅器原料の交易が制限された結果と考える。 燕国で戦国期に使用された鉛を見ると、Ⅶ②鉛が最も多 いが、これは西周・春秋期に類例なく、燕国内の遼寧省錦 西の鉱山にのみ存在する鉛で、おそらく原料入手難の打開 のため開発されたものであろう。ただし、この種の鉛は朝 鮮半島の遼寧式銅剣にも細形銅剣にも現れていないが、前 述 し た よ う に 荒 神 谷 遺 跡 の リ サ イ ク ル 原 料( D ― ((等 ) に は現れている。 しかし何よりも注目する必要があるのは、燕国でもⅠ⑤ 鉛の実例があることである。中国の方鉛鉱の鉛同位体 比 (8 ( を 見 る か ぎ り、 山 東 省、 山 西 省、 遼 寧 省 な ど の 北 部 中 国 で は、 そ の 全 て が α 分 類 で Ⅴ 鉛 以 上 で、 Ⅰ ⑤ 鉛 と は 全 く 異 なっている。したがって、これらは燕国産の鉛ではあり得 ない。 むしろこれらの鉛は弥生Ⅰ・Ⅱ期の商周期青銅器に共通 するものであり、そのリサイクル材が燕国経由で朝鮮半島 や日本に入ったことを示していると言えよう。 問題はリサイクル材の入手方法である。これは燕国内で 発生したものとは考え難く、河南省の殷墟、江西省の新干 太洋州、四川省の金沙、三星堆などの商周期の遺跡から出 土している青銅器の組成と一致しているので、商周期の青

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銅器の再使用と考えるのが最も妥当であろう。 それでは、春秋期以降まったく例のなかった商周期の鉛 が、五〇〇年以上を経て、なぜ突然大量に現れ、短期間で 使用が終わってしまったのであろうか。偶発的な発掘品な どとしては理解し難い。いくつかの可能性について議論し てみよう。 ⑴ 燕 国 に 商 周 期 の 青 銅 器 が 保 管 さ れ て い た 可 能 性 …… 可 能 性 と し て は 否 定 し 得 な い で あ ろ う。 し か し、 そ の 場 合 は 伝 世 品 と し て の 存 在 で あ り、 再 溶 解 の 材 料 と す る に は、 不 用 に な っ た 理 由 が 求 め ら れ る。 し か も、 朝 鮮 半 島 や 日 本 に ま で 供 給 す る ほ ど 大 量 に 保 有 していたとは考え難い。 ⑵ 春 秋・ 戦 国 期 の 中 華 地 域 か ら リ サ イ ク ル 材 と し て 入 手 し た 可 能 性 …… 河 北 省( 燕 下 都 遺 跡 ) か ら 出 土 し た 青 銅 器 の 鉛 は、 中 華 地 域 と は 異 な っ て い た こ と を 既 に 述 べ た。 戦 国 期 に 入 り、 戦 略 物 資 と し て 交 易 が 制 限 さ れ て い た 結 果 と 推 測 す る。 そ の 場 合、 リ サ イ ク ル 品 と は 言 え、 入 手 が 困 難 で あ っ た と 考 え る の が 合 理 的 で あ ろ う。 第 一、 偶 発 的 に 発 生 し た リ サ イ ク ル 品 で あ る な ら、 春 秋・ 戦 国 期 の 中 華 地 域 で も 使 用 例 が あ っ て し か る べ き で あ る が、 そ の 例 が な い の が、 単 純 な リ サ イ ク ル 説 の 成 立 ち 難 い こ と を 示 し て いる。 ⑶ 河 北 省、 遼 寧 省 あ る い は 朝 鮮 半 島 の 鉛 鉱 山 説 …… こ れ も 鉛 同 位 体 の 地 域 的 な 特 徴 か ら 極 め て 成 り 立 ち 難 いことを既に述べた。 ⑷ し た が っ て、 燕 国 が リ サ イ ク ル 材 を 入 手 で き た の は、 戦 争 な ど に よ る 伝 世 品 の 略 奪 が ほ ぼ 唯 一 の 機 会 で あ っ た と 考 え る。 貴 重 な 青 銅 器 な ら 五 〇 〇 年 以 上 伝世された可能性が十分にあるからである。 そ の よ う に 考 え る と、 そ の 入 手 時 期 と し て 最 も 可 能 性 の 高 い の は、 『 史 記 』 が 伝 え る 燕 の 昭 王 二 八 年( 前 二 八 四 年)の斉・臨澑( 葘 )の攻撃である。これは燕が楚と三晋 と秦と連衡し、一時的に都を陥落させた事件であるが、そ の際に伝世の宝物青銅器を戦利品等として入手したかでは なかろうか。 『 史 記 』 は そ の「 楽 毅 列 伝 」 に お い て、 燕 国 の 将 軍・ 楽 毅が斉の首都臨澑を陥とし、斉の宝物類を根こそぎ奪って 昭王のもとに送り届けたことを「楽毅攻入臨 葘 、盡取齊寶 財 物 祭 器 輸 之 燕 」 と 伝 え て い る。 ま た 同 じ く『 史 記 』 の 「田敬仲完世家」も、莒に逃れた斉の 湣 王を救援にきた楚 の淖歯が、逆に 湣 王を殺した際に、燕の将(楽毅)と宝物 を山分けにしたことも伝えている。おそらく、その前々年 (前二八六年)に安徽省・河南省にあった宋を滅ぼし併合 しているので、その時の戦利品もそこには含まれていたに 違いない。

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このような理解は、全体的に見て、論理が一応完結して いる。すなわち、貴重な伝世の青銅器の入手であるなら、 この昭王の時以外を想定することは困難である。逆に言え ば、商周期の鉛同位体比をもつ青銅器が、五〇〇年以上も たって、燕や朝鮮半島、日本に現れた現象を説明できる仮 説は、現在のところ上記の想定以外には筆者にとって見付 け だ す の が 困 難 な の で あ る。 貴 重 な 宝 財 物 祭 器 で あ る な ら、なぜ再溶解してしまったのかとの反論もあろうが、文 化的宗教的な価値観を共有する場合以外には、戦利品を他 の目的に転用するのはむしろ一般的なことである。 そうであるならば、細形銅剣の製作の本格化は前二八〇 年頃と想定される。したがって、本格化する前二八〇年を 大幅には遡らない時期、おそらく前三〇〇年ころに細形銅 剣 は 誕 生 し た の で は な か ろ う か。 こ れ は、 岡 内 や 宮 本 の 新 説 で あ る 前 (世 紀 よ り も、 む し ろ 岡 内 の 旧 説 で あ る 前 三二〇年こ ろ ((1 ( あるいは宮本の旧説である前三世紀成立 説 ((1 ( に 近い。 細形銅剣の日本への流入は時間差を見て前二五〇年ころ に本格化したと考える。そして、その後まもなく、華南等 のⅤ②鉛も入手可能になったとすれば、弥生Ⅰ・Ⅱ期から 弥生Ⅱ・Ⅲ期への鉛原料の移行状況とも、よく整合するの である。また、戦利品あるいは略奪品であるなら、長期に わたる使用は考え難い。一度限りの入手であり、まもなく 枯渇してしまったはずだからである。事実、この種の鉛は 燕国と朝鮮半島および日本で一時的に使用されたが、その 後 に 完 全 に 姿 を 消 し て し ま っ て い る。 し た が っ て、 弥 生 Ⅰ・ Ⅱ 期 か ら 弥 生 Ⅱ・ Ⅲ 期 へ の 移 行 に は 長 期 間 を 要 し な かったと見るのが妥当であろう。その後、弥生Ⅱ・Ⅲ期に 入ると、漢期に主として使用されるⅤ④鉛への移行が急速 に進む。 こ れ ら の 推 定 結 果 は 、 岡 内 と 宮 本 が 新 し く 設 定 し た 五 世 紀 説 に は 一 致 し な い 。 む し ろ 、 岡 内 や 宮 本 の 旧 説 に 近 い 。 た だ し 、 岡 内 や 宮 本 の 新 説 は 、 必 ず し も 新 事 実 に よ っ て 得 ら れ た も の で は な く 、 炭 素 14法 の 結 果 に 触 発 さ れ 、 い わ ば 解 釈 の 自 由 度 内 で 、 よ り 遡 上 を 考 え た 試 案 で あ り 、 旧 案 を 全 面 的 に 否 定 し た も の で は な い と 考 え る 。 し た が っ て 、 旧 説 も い わ ば 自 由 度 内 に は 存 在 し 得 る で あ ろ う 。 こ こ に 提 出 す る 鉛 同 位 体 比 に よ る 試 論 も ま た 考 慮 に 入 れ て 、 弥 生 時 期 の 実 年 に つ い て は 、 再 論 し 得 る 可 能 性 は 十 分 に あ る と 考 え る 。

 

以上、中国と弥生時代の青銅器の鉛同位体比の比較検討 を行った結果、弥生時代の実年代について次のような試案 を提出したい。この結果は、新しく歴博が提示した年代観 よりも旧来の年代観に該当する数値である。

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弥生前期末・中期初頭の実年代 前二五〇年頃 弥生中期前葉と中期中葉をわける実年代   前二〇〇年頃 弥生中期中葉の実年代   前一五〇年頃 もちろん、本試案は鉛同位体比という、狭い分野から覗 いてみた結果なので絶対的なものではない。しかし、従来 の考古学的な時期推定の根拠も、青銅器の様式変化など極 めて少数の資料から求めた推論部分の多いものであり、鉛 同位体比による根拠に比較すれば、炭素 14の時代観によっ て変動し得る程度のものであった。本報で詳細に述べたよ うに、鉛同位体の時期的・地域的な関係や『史記』に示さ れた歴史的な事件との整合性から見れば、むしろ本試案は 年代精度の面でも確度の高いものだと考える。 したがって、本試案を否定的に位置付けるであろう歴博 の炭素 14法については、やはり炭素 14法の科学的な面から 見て暦年較正の前提条件に問題があると考えている。この 点については、別稿で詳しく述べたので参照願いた い (( ( 。 なお、弥生前期前葉の始まりについては、その時期を特 定できる具体的な情報を得られなかった。しかし、遼寧式 銅剣から細形銅剣への経過時間を燕国の原料入手難として 理解する立場と、朝鮮半島における細形銅剣の出現時期を 前三〇〇年頃とする立場から見れば、これも旧来の年代観 と歴博の新しい年代観の中間に位置付けるのが妥当だと考 えていることを付け加えておきたい。 〔文献〕 ( 1) 藤 尾 慎 一 郎、 今 村 峯 雄、 西 本 豊 弘「 弥 生 時 代 の 開 始 年代」 『総研大文化科学研究』創刊号、二〇〇五。 ( 2) 大 貫 静 夫「 最 近 の 弥 生 時 代 年 代 論 に つ い て 」 Anthropl.Sci.(J-ser .), 11 (, (00 (.1 ( 。 ( 3) 新 井 宏「 炭 素 十 四 に よ る 弥 生 時 代 遡 上 論 の 問 題 点 ― 暦 年 較 正 基 準 の 地 域 差 と そ の 原 因 に つ い て ―」 『 東 アジアの古代文化』 1(7、 二〇〇六春。 ( 4) 新 井 宏「 鉛 同 位 体 比 に よ る 青 銅 器 の 鉛 産 地 推 定 を め ぐって」 『考古学雑誌』 8(―2、 二〇〇〇 。新井宏 「鉛 同 位 体 比 か ら 見 た 三 角 縁 神 獣 鏡 の 製 作 地 」『 情 報 考 古学』 11―1、 二〇〇五。 ( 5) 例 え ば、 馬 淵 久 夫、 平 尾 良 光「 福 岡 県 出 土 青 銅 器 の 鉛同位体比」 『考古学雑誌』 7(―4、 一九九〇。 ( 6 ・ 1 ) 平 尾 良 光( 代 表 )『 古 代 東 ア ジ ア に お け る 青 銅 器 の 変 遷 に 関 す る 考 古 学 的 自 然 科 学 的 研 究 』 平 成 八 ~ 十 年 度 文 部 省 科 学 研 究 費 補 助 金・ 国 際 学 術 研 究、 一 九 九 九、 第 七 章、 金 正 耀「 測 定 資 料 と 鉛 同 位 体 比 値のまとめ」 。 ( 6 ・ 2 ) 彭 子 成、 孫 衛 東、 黄 允 美、 張 巽、 劉 詩 中「 ( 江 西 湖 北 安 徽 ) 諸 地 古 代 鉱 料 去 向 初 歩 研 究 」『 考 古 』 一九九七年第七期。

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of ancient bronze objects from southern China,

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図 2  207 Pb/ 206 Pb/ と 208 Pb/ 206 Pb の関係図の例
図 3  207 Pb/ 206 Pb/ と 208 Pb/ 206 Pb の αβ 分類図
図 8 三雲遺跡南小路甕棺出土の前漢鏡の鉛同位体比

参照

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