斎官の形成過程 に関す る一考察
―天武朝か ら桓武朝の伊勢斎宮一
脇 田 大輔
は じめに
本稿 の 目的 伊勢斎宮 (以下 「斎宮」)は、伊勢神官 に奉仕す るた めに都 か ら 派遣 された未婚 の皇族女性 で ある伊勢斎王 (以下 「斎王」)の居住地で あ り、ま た斎宮寮 とい う役所で もあつた。斎王制度 は、673年に天武朝の大来皇女が派遣
され て以来、後醍醐朝 の祥子 内親 王 まで約660年間存続 した。
ところで、斎官の変遷 に関 しては、発掘調査で飛鳥 。奈 良時代の上器 の出土が 史跡 西部 に集 中 し、奈 良時代後期以降の上器 の出土が史跡東部 に集 中す るこ とか ら、史跡西部 に存在 した初期斎官が後 に史跡東部 に移 り、8世紀末頃 に方格 地割 が造営 された と推定 されてい る
(1)。
これまでは、特に史跡東部 の内院区画 と呼ばれ る斎王の居住地推定区画の遺構 変遷 が主 に注 目されてきた。その造営 は光仁朝 の酒人 内親王まで遡 る と考 え られ てい る。例 えば、内院 区画の正報告書である『 斎官跡発掘調査報告I内院地 区 の調査 本文編』 (斎宮歴 史博物館 、2001年、以下『 内院報告書』)では、史跡 東部 で8世紀前半に遡 る遺構 が散発 的 にみ られ る としなが らも、官衛遺構や集落 跡 の遺構 が確認 されていない こ とか ら、規格性 のある開発 を計画 した時期 を酒人 内親 王段階 とす る ② 。
しか し、『 内院報告書』を含 めて、従来の研究では8世紀前半に遡 る遺構 に関 す る検討 が必ず しも十分 ではなか つた。遺構・遺物が確認 され てい る以上、その 要因 を明 らかにすべ きで あろ う。ま してや 、後 に内院 区画や方格地割 が造営 され る地域 であれ ばなお さらである。史跡東部の内院及び方格地割 は、急速その場所 に造営が決 まったわけではな く、酒人 内親王以前か ら斎官 として利用 されてきた 伝統 ある場所 に造営 され た と解釈す るこ とも可能 なので ある。
また、拙稿 (脇田
2012、
以下 「前稿1」
)で指摘 した よ うに、斎官 の上器 は都 城 土器 との類似性 が認 め られ るに もかかわ らず 、既往 の上器編年 (以下 「2000
編年 」)にお ける土師器供膳具 の年代観 は、都城編年 よ りも古 く位置づ け られて お り、再検討 が必要 である ⑬)。
よつて、土器編年が見直 されれ ば、 これ まで と は異なる調査成果の解釈が生まれ る可能性 もある。そ こで、本稿 では、斎官 の成 立期 で ある天武朝 か ら方格地割 の造営時期 と推 定 され る桓武朝 までの斎宮形成過程 の再検討 を 目的 とす る。当該期 の斎 宮は、これ
までの調査 。研究成果 か ら、大 き く①史跡西部の斎宮、②史跡東部 に移設 した斎 宮、③方格地割が造営 された斎官、とい う流れで形成 された と考 え られ る。中で もあま り注 目され て こなか った①〜② の段階の斎官 の様相 を明 らかにす ること で、初期斎宮か ら方格地割造営までの斎官形成過程 を考察 したい。
分析方法 具体的 な方法 としては、まず、発掘調査の出土土器分布 を時期別 に 確認 し、各時期 に斎 宮 として利用 された場所 を探 ってい く。斎宮 として利用 され ていた場所か らは、当然土器が出上 してい ると考 えるか らである。特 に史跡東部 を活用 しは じめた時期 には、分布 にも大 きな変化がみ られ るはず である。
そ こで、史跡東部 の利用が本格的に開始 された時期 とその斎王 を探 ってい く。
なお、土器 の実年代 は、土師器供膳具の杯 A・ 皿 A・ 椀Aから判断 した 。
)。
本 稿 で表記す る時期 区分 も主 に拙稿 (脇田2015、
以下 「前稿2」
)で提示 した私案 編年 (表1、
以下 「私案 ○ 一〇期」と表記)を用い、適宜、既往 の 2000編 年 (以下 「斎宮○ ―○期」 と表記)も併記す ることとした。
次 に、土器分布 で明 らかに した斎王が史跡東部 を利用 した要因を、斎王制度の 変遷や斎宮寮 の変遷 に関す る文献史学の研究成果か ら考察す る。史跡東部の活用 は単体で行 われたのではな く、その必要性が生 じたためだ と考 えるか らである。
そ うした要因は、斎王 を取 り巻 く環境 の変化 にある とみてお り、これ を文献史料 か ら探 ってい く。
さらに、史跡範囲内か ら検出 された古代伊勢道 (以下「古道」)の廃絶時期 と、
方格地割 内で検 出 され た規格性 をもつ建物 の成 立時期 を私案編年 に よ り再検討 し、方格地割の造営時期 を再検討す る。古道 は方格地割の中を貫 くかたちで存在 す るこ とか ら、古道 の廃絶 と方格地割 の造営時期 には密接 な関係 があると考 える。
また、前述 した よ うに、土器編年 の再検討 によつて、通説 とは異 なる解釈が生ま れ る可能性 もあるため、私案編年 を用いた調査成果 の検証 を行 う。以上か ら、天 武朝か ら桓武朝の斎宮形成過程 を明 らかに していきたい。
第 1章 土師器供膳具の分布か らみた伊勢斎宮
第 1節 伊勢斎 宮の検 出遺構
本節 では、まず発掘調査 で明 らか となった斎官の遺構 を概観 してお く。
史跡 の範 囲内では、北西か ら南東 に向か う古道 を確認 してい る (図
1)。
そ し て、史跡西部の古道北部が生活 区、南部が行政 。儀礼 区、といつたかたちで遺構 の性格が異 なることが指摘 され てい る(『
内院報告書』)。
斎 宮 関係 で現在 までに 確認 され た最古の遺構 は、史跡西部 の南側 で検 出 した7世紀後 半の ものであ り、私案編 年
年 代 私 案編 年
区 分 標識遺構
ス
96 98
∝
106ε
108て 1120 1152 118C 121C 1242 1272
嘲 雛 第
第 SB4フ 43(第 71次
)斎王不在
第 2段 階 SB1615(第 30次
)第3段 階
SB5632(第82次
)第4段 階 SK4フ 49(第 ア ,次
)第5段 階
SK4497(第 71次
)SK4498(第 71次
)第6段 階 SK5072(第 75次
)第 7段 階 SK6225(第 88次
)疇 雛 州 第 鋼
翻
SK6226(第 88次
)第 2小 期
‐
SK6210(第88次 }…
第 2段 階
第 2小 期 離 宮院 出土土器
第3小 期 SK60メ 0(弟 じ 0次
SKl5(第 34カ
'第 ‖期 第 1段 階
SK1045(第 20次
)SK7430(第 109次
)第 2段 階
SK2650(第44次
)第 3段 階
SKフ 040(第 103次
)SX6666(第
95加 SK7030(第 103次
)第
V期第 1段 階 SE4050中 層 (第 61次
)第 V期 第 1段 階
SE4050上
層 (第 61次
)SE2000(第 31‑4次
)第 2段 階 SK1730(第 32次
)SK1074(第
20次
)第3段 階 SD3052悌 50次
)岬攀 SK9026(第
143次
…
SK9028(第143次
))‐…
…・
SD10118(第175次
)‐・
‐SE9014(第 143次
)‐‐
SK10114(第159次
)‐表 1 斎宮土器 の私案編年 と2000編年 鱗分
2 0 区
紹代
2 ︒
年 2000編 年
標識遺構
階 嘲 競 卿
900
1000
SB1615(第 30次
)SK1255(第
27厠
嘲 階 詰
靭 SK5102(第 フ 0‑1次
)階嘲
轟制 SK1098(第
21‑1次
)SK6210(第 88次
)斎宮第 1期 第4段 階
SE4580(第 69次
)階囲
轟搬 SK6030(第
86次
)SK1445(第 34次
)斎宮第 ‖期 第2段 階
SK5200(第
77次
)SK1045(第
20次
)斎宮第 ‖期 第3段 階
SK7430(第 109次
)SK2650(第
44次
)斎宮第 ‖期 第4段 階
SX6666(第
95次
)SK7030(第
103次
)SK7040(第
103次
)SE4050中 層 (第 61次
)斎宮第 川期 第 1段 階
SE4050上 層 (第 61次
)SE2000(第
31‑4次
)斎宮第 Ⅲ期 第2段 階
SK1730(第
32次
)SK1074(第
20次
)斎宮第 Ⅲ期 第3段 階
SD3052(第
50カ
鎌 倉
都城遺跡
鳥 飛 IV
一 平 城
︱ 一 日 一
Ⅲ 一
Ⅳ 一 V V
VI 安 平 京
︱ 期 中
い L
︱
新
= 士 日
= 中
︱ ︱
新
初代斎王 の大来皇女 に関係す る と考 え られてい る。斜 方位 の塀 と掘立柱建物 を数 棟確認 してい るが、現状では建物配置 に規格性 は認 め られ ない。 その東側 には、
古道 につ なが る とみ られ る南北道路が あ り、この道路 と前述 の遺構 は方位 を揃 え て造営 された よ うにもみえる。
8世紀 の遺物 としては、蹄脚硯 、朱彩 の大型 土馬、羊形硯 な どが史跡西部 で出 土 してい る。前述 した斜方位遺構 のす ぐ南側 に、正方位 の塀で囲まれ た施設 が あ り、内部 の建物配置な どは明確 でないが、奈 良時代の斎官に関係す ると考 え られ てい る。当該期 には、後 に方格地割 が形成 され る史跡東部で も、散発 的に遺構 。 遺物 が出土す るが、規格性 のある建物群 は確認 され ていない
(『
内院報告書』)。
8世紀後 半の光仁・桓武朝 には、史跡東部 に方格地割が造営 され た と推 定 され てい る。方格地割のプランニングに関 しては、1993年の 96‑5次調査 で人脚 門 が検 出 され た ことを契機 として、当初 は東西7列だつた ものを後 に5列に削減 し た とみ る説 が有力 になつてい る (榎村2010)。 また、各 区画規模 がすべて統二 さ れ てい るわ けではな く、東 か ら3列目の区画 は東西130mと他 よ り若干大 き く設 定 されてお り、その中心 を幅約 10mの道路が通 る。
斎王制度 が廃絶す る 1333年 まで方格 地割 は維持 された と考 え られ るが、各 区 画 の利用 実態 は定かではな く、また 13世紀後半にな ると斎王が伊勢へ下向 しな
くなるため、制度 よ りも早 く廃絶 していた可能性 がある
0。
なお、方格地割 の各 区画 には、便 宜上、地名 に由来す る名前が付 け られ てい る
(図
1)。
近年 は方格地割 内での調査が進展 してお り、中で も特 に進んでい るの が、内院 区画 とみ られ る鍛冶山西 。牛葉東 区画 と、斎王が 日常祭祀 を行 う私的な 祭 祀場 と考 え られ る西加座南 区画 、「寮庫」 の可能性 が指摘 され る西加座 北・ 下 園東 区画 な どである。靴‖屍
g座
‖素習座下園 西 ll下園 東
西 カ
勢 道 ポ 軋御館鶴 探褥
西 ]
捕‖蕎習座‖蕎習座内 山 西
内山 東鏃
駿治山東牛葉 西
午 葉 東
中 西 西
中西 東 ll 笛りll木葉 山 西
木 葉山 東鈴 池 西
鈴池 東図1 史跡斎 宮跡の方格地割
近鉄線
①
脚 ヽ
第2節 土師器 出土遺構の分布
私案編年 に基づいて、各時期 の土師器 出土遺構 の分布 を確認 した結果、時期 に よつて土器 の分布 が変化す ることが判明 した。本節 では、斎官形成 の画期 とみ ら れ る時期 の分布 を確認 してい く。ただ し、出土地点の地区表示 までは把握 できた が、その中の さらに細 かな地点までは押 さえていないので注意 されたい。
私 案I‑1期
(673〜
697年)(図 2)史 跡西部 の北 と南 に集 中す る。北 は塚 山 古墳群 な ど多数 の古墳 が あ り、南 は 日立 った古墳群 は見 られ ないが、後 に前述 し た初期斎官の遺構が出現す る。私案 I‑3期
(707〜
715年)史 跡西部 の南か ら史跡東部 まで分布 し、初 めて史 跡東部 か らの土器 の出土が確認 できる時期 である。その位置 は、後 に造営 され る 方格地割北西隅の区画 にあた り、出土 した遺構 が掘立柱建物であることか ら、当 該期 か ら史跡東部 を斎官 の一部 として利 用 した可能性 も考 え られ る。私案 I‑4期
(715〜
724年)・ I‑5期(724〜
749年)(図 3)私 案 I‑3期ま での上師器 出土遺構 は少 な く、分布 も①史跡西部の北 と南、または②史跡西部 の 南 と史跡東部 の西北、 といつた よ うに三分 していた。私案I‑4期の分布 も同様 で あるが、私案 I‑5期にな ると土師器 出土遺構が増加 し、史跡西部では、再び 北 に も分布 が確認できる。 また、史跡東部では西か ら東まで広 く分布す るな ど、分布範 囲が広が る。私案 I‑4期まで とは明 らかに異 なる傾 向である。
私案I‑7期
(770〜
784年)(図 4) 斎官への気多王派遣記事 が『 続 日本紀』にみ える時期である
(0。
分布 が再び史跡西部や 史跡東部 の北 に も広 が るよ うに な る。中心は史跡東部 にあ り、後 の下園東 区画〜牛葉東 区画の南北3列×牛葉東 区画〜鍛冶 山東 区画 の東西4列、計 12区画分 を中心 に斎宮 として利用 した と考 える。鍛冶 山西 。中区画の2区画分 の範 囲 に、二重掘 立柱塀 で囲まれ た建物群 が 当該期 に成立 した とす る指摘がある (山中章2001、
榎村2012)。私案 Ⅱ …1‐ 1期
(784〜
796年)(図 5) 785年に紀作良が造斎宮長官 に任命 さ れ る記事 が『 続 日本紀』 にみ え、方格地割 の造営時期 とも考 え られ てい る。)。
分布 は、方格地割外 よ りも地割 内に集 中す るよ うにな る。筆者 は前稿 1で、古道 の路面上の土坑か ら長 岡京期以降の上師器 が確認 されてい ることか ら、当該期 に は古道が廃絶 していた と考 えた。
私案 Ⅱ …1‑2期
(796〜
810年)(図 6)分 布 は、前代 よ りも さらに方格地割 内 に偏 る。 当該期 の斎王 は布勢 。大原 内親王である。近年、布勢内親王の段階で、卜定か ら群行 までの行程 が『 延喜式』の斎宮式 (以下『 延喜斎宮式』)に最 も則
つた形で行 われ、大原 内親王 にも同様 の傾 向が認 め られ ることが指摘 されてい る
(長原2013)。 少 な くとも群行 までに関 しては『 延喜斎官式』に最 も則 した時代 とい えよ う。 当該期 に方格地割 が形成 された とす る説 もある (榎村2012)。
2
o・s x 図
①
私案
I‑1期の上師器 出土遺構 の分布
1111,
:I IF手:・
=業
,1驚::揉
ti、
非」凛.■1期の土 師器 出土遺構 の分布
図
5私案 Ⅱ
図6 私案 Ⅱ‑1‑2期の土師器出土遺構の分布
以上 の結果 か ら、桓武朝までの斎 宮形成 に関 して次 のよ うに想定 され る。
初期斎官 は史跡西部 の南 に設 け られ たが、私案 I‑3期 (707〜715年)頃か ら 史跡東部 を斎宮の一部 として利用す る兆候 がみ られ 、私案1‑5期
(724〜
749年)
頃までには利用 されていた可能性 が高い。ただ し、発掘成果 を踏 ま える と、中枢 部 は史跡西部 であつた と考 え られ る。また、土器 の分布 が史跡東部 に拡大 した と はい え、引き続 き史跡西部で も確認 できることか ら、この段階にお ける斎官は「移 設」 したのではな く、史跡東部へ 「拡大」 した と解釈 した方 が よい。
その後 、私案I‑7期 (770〜784年)には中枢部 も史跡東部に移 って、斎宮の 主要施設 は史跡東部へ移設 され、私案 Ⅱ‑1‑1期 (784〜796年)には方格地割
が造営 されて、斎官は史跡東部 に固定す ることになった と考 える。
第2章 7〜8世紀の斎王制度 と斎 宮寮
第1節 斎 宮拡大期の伊勢斎 王
本 章では、上記 の検討結果 を踏 ま えた うえで、斎王関係 の文献史学の研 究 を参 看 し、斎宮形成 の画期 とな りうる時期 とそれぞれ の斎王 を考察 してい こ う。
前節 での検討 によると、史跡東部で遺物・遺構 が初 めて確認できるのは、私案
I‑3期 (707〜715年)であ り、方格地割 の東北隅にあたる区画に土器 を伴 う掘 立柱建物が存在 した。 当該期 は元明天皇の治世 にあた り、多紀・智努 。円方の3 人が斎 王で あった とされ る。 しか しなが ら、在任期 間は不明で、そ もそ も斎王 と
して伊勢 に下つたのか どうか も明 らかでない い
)。
よって現状では、 これ らの斎 王が斎宮の範 囲拡大に影響 を及 ぼ した とは考 え難い。次 の私案 I‑4期
(715〜
724年)において も、ほぼ同様の地域で遺物 を伴 う土 坑 を検 出 してい る。元正天皇の治世 で久勢斎 王の時期 にあた り、彼女 は約 4年間 を斎 宮で過 ご した ことか ら、斎官 の範 囲拡大 に関係 した可能性 も考 え られ る。しか し、遺構検 出地点は後の方格地割 の西北隅にあたる区画までであ り、史跡東部 で も最西端 にす ぎない。また、当該期の遺構 の検 出数 はわずかで、これだけでは 史跡東部 を意識 的に利用 していた とは言い難 い。
私案 I‑5期 (724〜749年)にな る と、分布範囲は後の方格地割 の東端 区画ま で拡大 し、遺構 の検 出数 も増加す る点が注 目され る。土器 出土遺構 の大半は土坑 であるが、史跡東部まで斎官の範囲が拡大 し、何 らかの形で利用 されていた可能 性 が高い。当該期 は元正・聖武朝で、斎王 は井上内親王 と県女王で ある。しか し、
史跡東部 で規格性 をもつた建物遺構 が検 出 され ていない こ とか ら、斎官 の中枢部 が移転 した とは言い難 い。
ところで、私案 I‑5期の斎王に丼上内親王が含 まれてい る点は注 目すべ きで ある。彼女 は、元正 。聖武朝 の2代にわたつて斎王を務 めたが、こ うした例は他 にみ えない。また、通説では、井上内親王は斎王制度や斎宮寮の整備 に多大な影 響 を与 えた斎王 と考 え られ てお り、その よ うな斎王の時期 に、土師器 出土遺構 の 分布・検 出数 が拡大 。増力日してい る事実 は見逃せ ない。それ までは史跡西部 に斎 官が造営 されて きたが、井上 内親 王の段階での斎 王制度 と斎 宮寮 の整備 に伴 い、
斎 宮 の施設 自体 もよ り広 大 で様 々 な機 能 を備 える施設 として整備 す る必要 が生 じたのではないか。このため、従来利用 されてこなかった史跡東部の活用が計画 された と推 定 され る。
では、井上内親王段階の斎王制度 と斎宮寮の整備 とは、具体的に どのよ うなも のだつたのか。この′点に関 しては、文献史学 において様 々な議論 がな され て きた ので、次節 ではそれ らの研究史 を整理 し、斎宮拡大のきっかけ となるよ うな事象 を見出せ るか どうか検討 してみ よ う。
第2節 井上内親王段階の斎王制度 と斎宮寮
斎王制度 は、飛鳥時代 か ら南北朝時代 まで存続 した とされ るが、その制度 の規 定 は、10世紀 に編纂 され た『 延喜斎宮式』で しか知 ることができない。つま り、
斎王制度 が開始 され て以来 、どの よ うな改訂 がな されて『 延喜斎宮式』にみえる よ うな制度 とな り、またそれ以後 どのよ うに変質 していったのか とい うことが、
文献史料 か らは把握 で きないので ある。
す でに先 学が指摘す るよ うに、660年もの間存続 した斎 王制度 が一貫 して『 延 喜斎宮式』 にみ える規定 であった とは考 え難 く (山中章 2011、 長原 2013)、 実 際、六国史 な どの斎王 関係 記事 と『 延喜斎宮式』の条文 との不一致 は数多 く見受 け られ る 。
)。
近年、『 延喜斎官式』の斎王制度 の成 立過程 に関す る研 究が長原舞 佳氏 に よつて発表 され 、斎王制度 の成立期 か ら確 立期 までの研 究史 もま とめ られ てい るので (長原2013)、 それ を参考 に研 究史 を概観 してい こ う。斎王 の制度化 につ いて、山中智恵子氏 は、「天武朝 に、 中断 していた斎王 を再 び派遣、制度化への道 を開かれた」 と指摘す る (山中智恵子 1980)。 これは現在 で も通説 となってお り、一般的に斎王制度 は大来皇女か ら始 まつた と述べ られ る こ とが多い。しか し、大来皇女段階で成立 した斎王制度 は不安定なものであった とい う指摘 もな されている。
例 えば山中章氏 は、大来皇女 か ら丼上内親 王までの斎宮 の厳密 な位置 が発掘調 査 で明 らか となつていない ことや 、大来皇女 の帰京後 に斎 王が任命 され た形跡 が ない こ と、奈 良時代 の斎王の出 自が女王 も しくは不 明な時期 があることな どか ら、
大来皇女段 階で成 立 した斎王制度 は、古代王権 に とつて必ず しも常置 の不可欠 の 制度 とはみ な され てい なかつた可能性 を述べ る (山中章2011)。 また、榎村寛之 氏 は、大来皇女が斎王 として伊勢 に居住 していた頃、彼女以外の皇女や キサキが 伊勢神 官 に派遣 された と考 え られ る記事が『 日本書紀』にみ えることか ら、大来 皇女の段階の斎王制度 は完成形態ではなかった と指摘す る (榎村2012)。
次 に、大来皇女段階で成立 した斎王制度 がある程度確 立す るのは、聖武朝 の井 上 内親王の頃 とみ るのが通説 となっていた。例 えば田中卓氏は、文献史料 にみ え る天武朝か ら桓武朝の斎王関係記事 と『 延喜斎宮式』の条文 を比較 した上で、『 延 喜斎官式』 の よ うな斎 王の規定が成 立す る時代 を聖武 朝 と考 えてい る。 そ して、
聖武天皇 の時代 に、仏教文化 の開花 とともに神祇 思想 と制度 の向上発展 があつた とし、その一端が斎王制度 の確立過程 にもみ られ ると述べ る(田中1959)。 また、
山中智恵子氏 は、大宝元年 (701)の 斎宮司に関す る記事や養老2年 (718)の 斎 宮寮印使 用 、養老5年 (721)の 井上斎王北池辺宮入 の記事 な どか ら、神亀5年 (728)までの間に斎官寮が確立 した と考 え、井上内親王 を斎官寮・斎王制度確 立期 のただなかにあった斎王 と評価す る (山中智恵子 1980)。
一方 で、井上内親王段階の斎王制度 も非常に不安定なものであった とい う指摘 が な され てい る。例 えば榎村寛之氏は、「称徳朝 の伊勢神官 は、仏教優位 の支配 下 に置 かれ 、法体 の女帝 が三宝の加護 に よ り自ら祭 る、とい う形 を採 ったために、
斎官 も事実上無意味化 し、おそ らく断絶 していたのではないか と考 え られ る。井 上 内親 王段階で確立 したかに見 えた斎王制度 は、称徳朝 には断絶 していたのであ る」 とし、称徳朝での斎王制度 の断絶 を指摘す る (榎村2009)。 山中章氏 も称徳 朝 の断絶 を指摘す るが、井上 内親 王 の 卜定か ら潔斎 、群行 にいた る経緯 が、『 政 事要略』巻24(1の に詳細 に記述 されていることか ら、井上内親王の 卜定、潔斎、
群行 がその後 の斎王 のモデル になった とも考 えてい る (山中章2011)。 このよ う に、井上内親王の段階の斎王制度 は、大来皇女段階に比べて追加条項 による発展 はあつて も、安定 していた とは考 え難い。
これ らを受 けて、長原氏は、天武朝か ら仁 明朝 にいた る斎王の 卜定か ら帰京 ま
での関係記事 を集成 し、『 延喜斎宮式』 の条文 と比較 して、両者 が一致す るよ う にな る斎王 を明 らかに しよ うとした。その結果、桓武朝の布勢内親王の頃に『 延 喜斎 宮式』条文 と一致す るよ うにな る とし、それ以前の斎王制度 は不安定だった とす る。そ して、続 く平城朝の大原 内親王段階で細かな制度 の補充がな され、嵯 峨朝 の仁子 内親 王の段 階で、弘仁元年 (810)の賀茂斎院成 立 を契機 に『 延喜斎 官式』の制度が確 立 した と考 える。長原氏は、この制度が井上内親王段階の制度
を基礎 とし、その他 の斎王の動向を補充 して作 られた もの と想定 してい る。
以上の研 究史か ら、筆者 は斎 王制度 の変遷 に関 して次の よ うに理解 した。
まず、天武朝の大来皇女派遣 をもつて斎王制度が始まった とされ るが、その頃 は『 延喜斎宮式』にみ えるよ うな細かな規定は存在 しなかった。次の持統朝の斎 王不在、文武朝の斎王の出 自や短期間での斎王交代か らみて も、天武朝以後 も引 き継 がれ るべ き制度 とは考 え難 く、非常に不安定であった といえる。
その後 、聖武朝の井上内親王 の段階で、斎王制度 を再整備 した と考 え られ る。
この段階には前代 よ りも規定が増加 し、『 政事要略』 にみ られ るよ うな斎 王 の ト 定か ら群行 までの間に行 うべ きこ とが定 め られていたのだろ う。しか し、つづ く 孝謙・淳仁 朝 の斎王の出 自や称徳朝 の斎王不在 を踏 ま えると、聖武朝 に整備 され た斎 王制度 も、天皇 に とつて必要不可欠 な ものではなかつた可能性 が高い。ただ し、斎王が置かれた孝謙 。淳仁朝 にいたつては、基本的には井上内親王段階の制 度 が用 い られ 、 これ以後 も細かな規 定が追加 され ていつた と考 える(10。
そ して、桓武朝の布勢 内親王の段階で、井上内親 王の制度 をベースに様 々な細 則 を補充 した制度 が成 立 し、弘仁元年 (810)の賀茂斎院成立 を契機 に、嵯峨朝 の仁子内親 王の段階で『 延喜斎官式』 に記載 され るよ うな斎王制度が成立 した。
この よ うに、井上内親王の斎王制度が平安時代 に引き継 がれた とすれ ば、斎宮 の施設 自体 について も、井上内親王段階の ものが何 らかの影響 を与 えた可能性 は 高い。おそ らく、前述 した史跡東部へ の土器 分布 の拡大 は、井上内親 王段 階 の斎 王制度 の整備過程で さらなる施設拡充が計画 され、それが史跡東部への拡大 とい
うかたちで実施 され た結果 を表 してい るのであろ う。
ところで、斎王制度 の整備 に ともなって施設が拡充 された と想定す るのは本 当 に可能 なのだ ろ うか。 この点に関 しては、『 政事要略』 が示す よ うに、井 上 内親 王段 階で、卜定か ら群行 までの間にそれ以前 の斎王にはない細かな規定が追力日さ れ た こ とに注 目したい。 これ らが果 た した役割 は何 であつたのだ ろ うか。
井上内親 王が 卜定 され た養老5年 (721)は 、聖武天皇が皇太子 の地位 にあ り、
群行 した神 亀 4年 (727)には即位 していた。榎村氏が指摘す るよ うに、聖武即 位 に先立 って井上内親 王 を斎王 に 卜定 したのは、首皇子 の立場 を確 立 し、長屋 王 との皇位継承争いで優位 に立つためだった とすれ ば (榎村 1996)、 井上内親 王 は
│
聖武即位 を決定づ けた人物 といえる。そ う考 えると、彼女 に対 して聖武 が これま で前例 のないほ ど手厚い群行 を行 つた ことは不思議ではない。そ して、それ に伴 って、彼女 のための斎宮拡大が行 われた可能性 も十分考 え られ るのである。また、
井 上内親 王の段階で斎宮寮 が整備 され た ことと、斎宮 に供給す る年料 に官物 を充 て るよ うにす ることで財政が 自立 した ことも 。の、施設拡充の可能性 を裏づ ける 根拠 とな ろ う。
前者 に関 しては古川淳=氏の論考が詳 しく、古川氏は、『 続 日本紀』神亀4年 (727)8月 壬戌条の斎宮寮補任記事 にみ える官人 121人 とい う人数 が、『 類 衆三 代格』巻4所載 の神亀5年 (728)7月 21日 勅 にみ える職員数 の総計 107人 (+
膳部若干名)を 10名 程度上回るだけであることを指摘 した (10。 したがつて、神 亀5年勅 を もつて斎宮寮 の諸 司が新設 されたのではな く、神亀4年の時点ですで に寮の規模拡大がな されてお り、神亀5年勅 は神亀4年の補任 を追認 した もの と 解釈 され る (古川 1993)。 この点か らも、筆者 は、井上内親王段階に斎宮寮の組 織 が拡大 した ことに よつて、斎官が 「斎 王の官」の機 能 に加 え、従来以上 に役所
と しての機能 を持つ必要が生 じ、それが施設拡大へつながつた と考 える。
以上、文献史学か らは、井上 内親 王段 階に斎 王制度 と斎宮寮 の整備 が行 われ た こ とが明 らかに されてお り、 これ らが斎宮拡大の要因 となつた可能性 がある。
一方、考古学の発掘調査成果か らは、土器 の分布以外で、史跡東部への斎官拡 大 を裏づ けることができるだろ うか。これまでの研究では、酒人内親 王の内院区 画 が史跡東部 に現れ た こ とが本格 的な移設 を示す と考 えてきたが、新 たな土器編 年 と年代観 では、異 な る解釈 が生 まれ る可能性 もあ る。次節 以降、発掘調査成果
を再検討 し、史跡東部への斎宮の拡大 と移設 の時期 を考察 してい こ う。
第3章 伊勢斎宮形成過程 の考察
第1節 古代伊勢道の廃絶
『 内院報告書』による と、古道 は奈 良時代 か ら段 階的 に廃絶 してい った とされ る。廃絶時期 は、古道 の側溝 を切 る土坑 な どの出土土器 か ら、斎宮I‑2期 (710
〜730年)にまで遡 る箇所が存在す るとい う。 しか し、これは土器 の時期 を
2000
編年 に従 つて推定 した結果 で あ り、私案編年 を適用 した場合 は異 な る解釈 が成立 す る余地 がある。そ こで、古道 の側溝 を切 る遺構や 、路面上 の遺構 か ら出土 した 土器群 の時期 を再検討 し、改 めて古道 の廃絶時期 を考 えてい くこととす る。斎官 I‑2期
(710〜
730年)に側溝 が埋没 した こ とがわか る例 として、50次・ 78次・88次 。106‑5次調査 が挙 げ られ てい るが、 これ らが何 を根拠 に推定 され図7 古代伊勢道の調査地点
たのかは記載 されていない。各調査成果 を改めて分析 してみ よ う。
50次調査 (1983年) 古道 の北側溝 にあた る SD170が 検 出 され 、 この溝 か ら出 土 した土器 の実汲1図も掲載 され てい る。8世紀前後 の奈 良時代前半の土器群 とさ れ 、1984編年 。のでは奈 良時代前期 の土器群 の基準資料 として挙 げ られてい る。
2000編年 に照 らし合 わせ る と、斎宮I‑2期
(710〜
730年)とな る。これ らについて、筆者 は、杯・皿 の形状か ら私案 Ⅱ‑1‑1期
(784〜
796年)
頃 と考 える。ただ し、調整 はすべて底部外面オサエ・ナデ のe手法 。→ と報告 さ れ てい るので、時期 が も う少 し下 る可能性 もあ る。 いずれ に して も、報告書
(1の
が想定す る8世紀前後 にe手法 の調整 が主体 とな る とは考 え難 く、斎宮I‑2期(710〜730年)に古道 が廃絶 した根拠 とはな らない。
78次調査 (1988年)前 述 の SD170と 同 じく北側溝 にあた る SD5266を 検 出 して い る。土師器不Aと皿Aの実沢1図各 1点が掲載 され、杯Aは奈 良時代 中期〜後期 と推定 され てい る。杯Aは e手法、皿Aにはb手法 とい う古い調整方法が使 われ るこ とか ら、私案 Ⅱ‑2‑3期 (839〜850年)以前 と考 え られ るが、形状 な どを 勘案す る と、私案 Ⅱ‑1‑1期 (784〜796年)頃まで遡 る可能性 がある。 これ に ついて も、斎宮I‑2期以降の廃 絶 を示す もの とみて支障はない。
88次調査 (1990年) 北側溝 SD2404と 南側溝 SD6252が 検 出 され、奈 良時代前 期 とされ てい るが、遺物実測図の掲載 はない。よつて、これ らの時期 を推定す る ためには、重複 関係 がある遺構 か ら出土 した土器群 を確認す る必要がある。
側溝 を切 り、かつ出土遺物 の実測図が掲載 され てい る遺構 としては SK6246が 挙 げ られ る。また、両側溝 に挟 まれ た路面上 に位 置 し、かつ遺物実演1図が掲載 さ れ てい る遺構 としてSK6210・ 6220・ 6225・ 6226・ 6227・ 6228がある。 出土土器 群 を検討 した結果、SK6246は 私案 Ⅱ 2‑3期
(839〜
850年)、
SK6210は 私案 Ⅱ ―1‑2〜 Ⅱ‑2‑1期
(796〜
824年)、
SK6220は 私案 I‑7期 (770〜784年)、
SK6225 は私案 I‑7期、SK6226は 私案 Ⅱ l l期(784〜
796年)、
SK6227は 私案 I‑7期 、SK6228は 私案 I‑5期
(724〜
749年)と推定す る。道路側溝 を切 るSK6246は若干時期 が遡 る可能性 もあるが、以上の検討結果 か ら、遅 くとも9世紀前半に古道 が廃絶 していた こ とは間違 いなか ろ う。路面上で 確認 した土坑 は、私案 I‑5期
(724〜
749年)からⅡ‑2‑1期(810〜
824年)
まで と時期 の幅 が大 きいが、私案I‑7期 (770〜784年)の土器群が多い傾 向に あ る。最古が私案I‑5期
(724〜
749年)であるので、その段階に調査 区が含 ま れ る鍛 冶 山中区画の古道 が廃絶 しは じめた可能性 がある。以上、88次調査 の成果 には斎宮I‑2期
(710〜
730年)の廃絶 を示す根拠 と なるものは存在せず 、早 くとも8世紀 中頃以降の廃絶 とみて問題 ない。106‑5次調査 (1994年) 北側溝 SD6801と 南側溝 SD6802が 検 出 され 、両側溝 か ら土師器細片が出土 してい るが、時期決定 は困難 とされ る。そ こで、側溝以外 の遺構 に 目を向けると、南側溝 を切 る溝 SD7361が あ り、出土 した土器 が実測図 として掲載 されている。土師器杯Aが 2点あ るが時期差 が見て取れ、概 ね私案
V‑3期
(1068〜
1086)と Ⅱ‑1‑1期(784〜
796年)頃と考 える。よって、106‑5次調査で も斎宮 I‑2期
(710〜
730年)に廃絶 した とす る根 拠 とな るよ うな成果 は得 られ てい ない。南側溝 を切 る SD7361出 土土器 は少数 で あ り、時期差 もあるので、これだけで時期 を確定す るのは難 しいが、私案 Ⅱ l―1期
(784〜
796年)頃と思われ る杯Aが出土 してい ることか ら、長 岡京期 にはす で に古道 を切 る溝が造営 されていた可能性 が指摘できよ う。以上の よ うに、『 内院報告書』が提示す る、古道 が斎官I‑2期
(710〜
730年)
に廃絶 しは じめた とい う解釈 は、遺構 の時期 を再検討 した結果、従い難 い。
88
次調査 では、路面上の土坑SK6228から、私案 I‑5期 (724〜749年)と思 われ る土器 が出土 し、全体的に私案I‑7期(770〜
784年)の 土器群 が多い。よって、鍛 冶 山中区画周辺 の古道 は、私案 I‑5期か ら衰退 しは じめ、私案 I‑7期 (770
〜784年 )には廃絶 していた可能性 がある
(1つ
。他 の調査地の成果 を考慮す る と、私案 Ⅱ l l期 (784〜796年)頃には鍛冶 山中区画周辺 のみな らず、方格地割 内を通 る古道 は完全 に廃絶 していた と考 え られ る。
古道 の廃絶 か ら内院 区画 と方格 地割 の形成 は、次 の よ うに推定でき よ う。まず 私案 I‑5〜6期
(724〜
770年)にか けて、史跡東部の後の内院区画造営地 を斎 宮 として利用す るこ とが計画 され 、鍛 冶 山中区画周辺 の古道 が衰退 した。その後 、 私案 I‑7期 (770〜784年)に古道 を一部廃 して付 け替 え、二重掘立柱塀 を持つ 内院 区画 が造営 され た。 さらに私案 Ⅱ l l期 (784〜796年)には史跡東部全 体 の古道 を付 け替 えて、方格地割 の造営がな された。私案編年 と前章の文献史学の研 究成果か ら考 えると、史跡東部の利用計画 を打 ち出 したのは井上内親王の頃であ り、二重掘立柱塀 の内院区画が造営 されたのは 酒人 内親 王、そ して朝原 内親 王 の時期 には方格地割 の造営計画が打ち出 された。
方格 地割 の完成後、最初 に斎王 となったのは布勢内親王であろ う。 しか し、内院 区画 に関 しては2区画分 の範囲を維持 してお り、次の大原 内親王の頃までには鍛 冶 山西 区画 と中区画 の間 に位置す る区画間道路 を造営 し、すべての区画 を統一 し た完全な方格地割 を造営 した と推定す る。
第2節 方格地割 内の規格性 をもつ建物遺構
前節 で述べた よ うに、内院 区画 を通 る古道の廃絶 と付 け替 えが行 われ た後、内 院以外 の区画造営 も含 めた東西7列×南北4列の方格地割造営に伴 って、方格地 割 内を通 る古道 がすべて廃絶 し、付 け替 え られた可能性がある。本節では、内院 以外 の区画 にお ける規格性 をもつた建物配置の成立時期 を再検討す る。他 の区画 でそ うした施設がいつ頃成立 したのかを確認す ることで、古道 の廃絶 との対応 関 係 や 、方格地割 の形成過程 が明 らか にな る と考 えるか らである。以下、西加座北・
下園東・ 西加座 南の3区画 を対象 に検討 したい。
西加座北 区画 (図 8) 規則 的 に配置 された建物群 は、斎官 Ⅱ l期頃 (785
〜820年)に成 立 した 「寮庫」 とされ、 この 「寮庫」機能は当区画廃絶後、後述 す る下園東 区画 に引 き継 がれ た と推 定 されてい る。主 に
51・ 63・ 73・ 90・
130次 調査 の成果 に基づ き、成 立時期 を再検討 してみ よ う。第51次調査 ではSB3120。 SB3206を 検出 した。奈 良時代末葉〜平安時代初頭 と 位置づ けてお り、概 ね斎官 I‑4〜 Ⅱ‑1期
(770〜
820年)と考 え られ る。 同時 期 の遺構 として SE3200。 SK3130・ SK3137出 土遺物の実演1図が掲載 され、土器 の 詳細 は省 略 されていたが、私案 Ⅱ‑2‑3期(839〜
850年)以前 と判断 できる。特 に SK3137で は他 よ り古い様相 の土器 も認 め られ、私案I‑7〜 Ⅱ‑2‑3期(770
〜850年)の範疇 に収 ま る。よって、建物群 の成 立は私案 Ⅱ‑2‑3期以前 と考 え
るこ とがで き、私案 I‑7期
(770〜
784年)まで遡 る可能性 もある。第63次調査 では SB4187を 検 出 した。平安時代初期 とされ 、斎官 Ⅱ l期 (785
〜820年)にあた る と思 われ る。 同時期 の遺構 として SK4200出土遺物 の実没1図
が掲載 されてお り、私案Ⅲ ‑1期古相 (850〜860年前後)頃と判断す る。
第73次調査 ではSB4032・ SB4077を 検 出 した。奈 良時代末期か ら平安時代初期 と位置づ けてお り、概 ね斎宮 I‑4〜Ⅱ‑1期
(770〜
820年)とみ られ る。 同時 期 の遺構 出土遺物の実没1図はないが、次の段階である平安時代前I期、つま り斎 官 Ⅱ‑2期 (820〜850年)にあた る遺構 として、SK4068・ SK4994出土遺物が掲 載 されてい る。それ ぞれ 、私案 Ⅱ‑2‑3期(839〜
850年)。 私案 Ⅲ l期古相 と④̲三二
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図
8西加座 北区画の「寮庫」 図
9下園東区画の「寮庫」
判断 され 、私案 Ⅱ‑2‑3期以前の建物 と考 える。
第90次調査 ではSB6420。 SB6460を 検 出 してい る。平安時代初期 とされ、同時 期 の遺構 として、SK6419。 SE6440出土遺物 が掲載 されてい る。 しか し、SK6419 の遺構説 明の部分では奈 良時代後期 とされ、報告書内で離齢 をきた してい る(10。
実汲1図に よれ ばb手法 を主体 とし、c手法 の土器 が少 量 あ ることか ら、私案I―
7期と推定す る。 また、SE6440は私案I‑7期〜 Ⅱ‑2‑2期
(770〜
839年)と判断 し、建物 は私案I‑7期〜 Ⅱ‑2‑2期に成立 した と考 える。
第 130次 調査 ではSB8230。 SB8260。 SB8280。SB8300を 検 出 してい る。斎官 Ⅱ ― 1期 とされ るが、同時期 の遺構 出土遺物 の実測図は掲載 され ていない。一方、前 段階の斎宮 I‑4期の遺構 として SK8294・ SD8299があ り、出土遺物か ら、それ ぞれ私案 I‑5〜Ⅱ‑1‑1期
(724〜
796年)、
私案I‑7期(770〜
784年)と判 断で きる。前者 は外面 のヘ ラ ミガ キや 内面の暗文 を施す ものが多いが、調整手法 はb・
c手法が主体であ り、一括資料 とはい え時期差 を感 じさせ る。 また、時期 が一段階下 る斎宮 Ⅱ‑2期の遺構 としてSK8255。 SK8315が あ り、出土遺物か ら、それ ぞれ私案 Ⅱ‑2‑3期、私案Ⅲ‑1期 (850〜880年)と判断 した。 よつて、
当調査でい う斎宮 Ⅱ‑1期は、私案 I‑7期〜 Ⅱ‑2‑3期
(770〜
850年)の範疇に収 まる と考 える。
以上、主 な調査成果 か ら、「寮庫」の成立時期は私案 Ⅱ‑2‑3期
(839〜
850年)
以前 とみ られ るが、どこまで遡れ るのかは断定で きない。 しか し、一部 の土器 に 私案I‑7期
(770〜
784年 )と判断 できるものが あるこ とか ら、成 立は私案 I―7期〜 Ⅱ‑2‑3期
(770〜
850年)と考 える。下園東区画 (図 9) 西力日座 北 区画 の性格 を引き継 ぎ、斎宮 Ⅱ‑2期新相頃 (820
〜850年頃)に「寮庫」として機能 した と推定 され る区画である。第18・ 23・ 168・
173次 調査で確認 された、「寮庫」 を構成す る建物群 の一部 を再検討 しよ う。
第 18次 調査 では SB930を 検 出 し、平安時代前半の遺構 とす る。斎 宮 Ⅱ ‑2〜 Ⅱ ―
3期頃
(820〜
900年)にあた る。時期 を判断 した根拠 の記載 はな く、おそ らく実 測 図 として掲載 され ていない遺物細片 な どか ら判断 したのであろ う。この調査報 告 には遺物 実測図が一切掲載 され ていないため、他 の遺構 との重複 関係 か ら再検 討す るこ とも不可能 であつた。2000編年 の年代観 を私案編年 と照 らし合 わせ ると、私案 Ⅱ‑2‑3期〜Ⅲ‑2期
(839〜
900年)にあた る。第 23次調査 では、SBl150・1186を検 出 してい る。遺構 同士 の重複 関係 と遺構 内出土遺物 か ら時期 を判断 した とされ 、SBl150を 平安時代 中葉、SBl186は時期 不 明 とす る。2棟の建物遺構 の出土遺物やそれ と重複 関係 をもつ遺構 の出土遺物 実沢1図がないた め、再検討 は困難 である。 ただ し、同時期 の遺構 として SKl179 が あ り、出土遺物の実浪1図か ら私案 Ⅱ‑2‑3〜Ⅲ‑1期新相 (839〜880年以前
)
と判断 した 。
"。
よって、2棟の建物 も概 ね この時期 にあたると考 える。第 168次 調査では、SB10241を 検 出 してい る。報告書は斎宮I‑4〜 Ⅱ‑1期(770
〜820年)の遺構 とし、SK10247よ り先行す る とい う 鬱の。SK10247出 土土器 は私 案 Ⅲ‑1期 (850〜880年)と考 えるので、SB10241は それ以前 に存在 した可能性 が高い。また、同時期の遺構 としてSK10250。 10251・ 10248が 挙げ られてい るが、
出土遺物 はそれぞれ私案I‑5〜6期
(724〜
770年)・ I‑6期(749〜
770年)・Ⅱ‑2‑3期以前
(839〜
850年以前)と判 断で きる。 かな りの時期差 が生 じてい る点 に問題 が残 るが、建物 と同時期 の遺構 は SK10248で あろ う。第 173次 調査 では SB10311を 検 出 し、報告書 は斎宮 Ⅱ‑2期
(820〜
850年 )とす る 。つ。 実測図が掲載 されず、 この遺構 と重複 関係 にある遺構 の出土遺物 実測 図 もみ えない。ただ し、同時期 の遺構 として SK10318が 挙 げ られてお り、出土遺 物実測 図か ら私案 Ⅱ‑2‑3期 と判断 した。
以上、四つ の調査か ら下園東 区画 の 「寮庫 」を構成す る建物 の時期 の再検討 を 試 みたが、建物 に重複す る先行遺構や建物遺構 か ら出土 した遺物 の実測 図がな く、
検討作業 は困難 であった。 しか し、同時期 の遺構 とされ る遺構 の出土遺物 には、
私案 Ⅱ‑2‑3期頃
(839〜
850年)と
み られ るものが多い。この結果か ら、「寮庫」の建物遺構群 も同様 の時期 と考 えるのであれば、下園東 区画が 「寮庫」として機 能す る契機 は、す でに指摘 されてい るよ うに、承和 6年 (839)に離官院 か ら斎 宮 の機 能 が多紀郡 に戻 つた ことであろ う。
西加座南 区画 (図 10) 区画 の西 半分 に規格性 の高い建物群 が展開 し、「神殿」
と推定 され てい る。 主 に83次 。84‑1次・86次調査 を再検討 してい こ う。
83次調査 では、SB5780。 SD5792・ SD5793・ SD5794。 SA5806・ SB5820。 SD5822・
SD5823・ SA5840。 SD5832・ SD5892を 検 出 している。いずれ も平安時代初期 と位 置づ け られ てお り、斎宮 Ⅱ‑1期