• 検索結果がありません。

1.はじめに

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "1.はじめに"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

   フィリピン華僑の動向 一セブ市広東会館を中心として一

1.はじめに

2.フィリピン華僑の地位と特質 3.フィリピン・セブ市華僑とその活動

 一セブ広東会館,1979年度会務報告を中心に一

①会館運営の理念

②1979年度までの歩み

③1979年度における婦人の活動

④本国との交流   a 王柄南一行を迎う

 b 芸術の交流

⑤国内華僑間の交流   a 広総南遊訪問団の来訪

 b 南勢雑誌 4.おわりに

1.はじめに

 これは,最近のフィリピン華僑,とりわけ同国中央部の中心都市セブ市における広東幣 の動向に関する一考察である。本稿の契機と素材は,1980年3月2日〜19日間,本学東南 アジア学生研究会のメンバー10人のグループに同行し,フィリピンのマニラ,セブ,ダバ オ,ヴアギオの諸都市を訪問,最近のフィリピン華僑の動向を見聞したことによって,え られたものである。中心資料は,『公元1979年,宿務広東会館会務報告』の検討におくが,

主題に入る前に,フィリピン華僑の東南アジアにおける地位と特性を概観しておく。

2.フィリピン華僑の地位と特質

 フィリピン華僑について,オーストラリア国立大学太平洋研究所長Wang Gungwu教授       (注1)

は大要次のように指摘している。

 「公式の統計によれば,フィリピンにおける華人人口は10万から20万人となっているが,

実際には,フィリピン籍を持たない華人の人口統計でしかない。華人の血統を継承するフ ィリピン国籍者の数は,恐らく数十万人に達すると思われるが,彼等は華人としての人口

(2)

統計の対象にはならないd

 『華僑経済年鑑』(1970年)によると,約11万人の華僑がフィリピンに居住していること になっているが,これは国府政府(台湾政府)発行のパスポート所有の中国人の数である。

比華商業会議所の発表によれば,華人系住民人口は60万人と推計,全フィリピン人口に占 める割合は1%前後としている。

 天理大学教授,中村孝志は『東南アジア華僑社会』(昭和47年11月,天理教東南アジア 研究室)に,次表を引用しているが,同書の中には,フィリピン華僑に関する論述はない。

ただ,香港中文大学教授陳荊和の解説「華僑の幣問題」が収められているので,関係する        (注2)

部分の要旨を紹介しよう。(同書3〜22頁)

 フィリピン華僑の第1位を占める福建耕について。

 野州,泉州出身が中心,両出身者は地理的にも接近し,方言が同じ。一般に福建会館に       第1表 東南アジア主要国における華僑郷幣の分布

推定人口 常 派 別 構 成(%)

区   分 (万人)

福 建 広 東 客 家

潮 州

海 南

その他

タ    イ 350.0 10 8 10 60 10 2

マ  ラ  ヤ

350.7

30 26 22 11

9.5 5.5

シンガポール 149.0

40 18

1

28 18

インドネシア 300.0

55 15 20 10 一 一

フィ リピン 30.0

80 20

南北ベトナム 111.6

8 41 11 37 3

カンボジア

30 6 15

5

67 7

ビ  ル  マ 45 50 一 一 一 50

   (注)二天締『華僑経済問題』による表示を筆者が一部修正した。

統括されるが,フィリピンの如く人口が多い場合は,更に細分した県・郷単位に会館を結 成する傾向が強い。職業的には貿易,海運,金融,為替,自転車,自動車,船舶の販売業 のほか,ゴム製品,製糖,製油,パイナップル缶詰,製菓業,石鹸製造等の軽工業を営む 者が多い。

 尚,福建省の省都福州出身者は,方言も違うため,別の討派(福州討)を結成,小規模 な雑貨商,飲食店を経営しており,経済的にも社会的にも,前述した福建幣よりステータ スは低い。

 フィリピン第2位の華僑,広東奮について。

 この郷蓄は,別名「広肇常」ともいう。広州と肇慶の出身者が多く,両地方とも珠江の デルタ地区の農村から来た者である。

 幣の職業としては,労働者,職人になる傾向が強く,商人より製造業へ向う者が多い。醤 油や酒の製造,金属器具,ガラス,鏡の製造等に従事する・。また屠殺業とそれに関連する なめし皮業,靴屋も少くない。また,時計の修理,洗濯屋,料理の材料屋,印刷業等の手 工業が多く,前述した福建蓄が露店商などの小商人へ向うのと基本的なパターンを異にし

(3)

ているといってよい。

 次第に資本蓄積が進むと,建築業,錫鉱業等生産部門,或いは百貨店,劇場,旅館を経 営する傾向が強くなる。今次訪問したセブ市ではほとんど蓄財をなしとげた後者のグルー プに多く接することができた。(飲食店も少くない)。

 最後に,いま一つの文献から華僑人口の推計を示そう。アジア経済研究所『フィリピン ー経済環境と投資環境』(1969年6月,森村勝編)によると,中国国籍の中国人は,12,970

人(1961年)がセンサス人払だが,通念的には,「華僑とは血統的に中国人であり(混血 を含む),中国的生活様式を営むもの」とされている。この基準によると,推計だが,

   フィリピン国籍の華僑の成年者       4万人    同国籍を持たない華僑の成年者       35万人

   懲;七隈撚劉 23万人

なお出身地別では,全体の90%は福建省出身で,主として商業に従事,一部製造業にも進 出している。

 しかしここでも,60年以降「職業規制法」が制定され,華僑の排除が企図されている。

 「小売業国民化法」(ユ954年6月発効)

   国内商業における華僑資本を排除。

 「米とうもろこし国民化法」(1961年)

   アメリカ人を除く外国人(主として華僑)の参加しめ出し。

 他方,1971年10月,イングレズ外相は,華僑は30〜50万人と推定されると言明し,その 年公認された中国人学校155校,生徒数は,75,000人であった。

 .出身地下の統計はないが,別の推計によれば,福建常80%,広東幕10%,その他10%で 比較的多く居住し,中国入街が認められる都市は,マニラ,セブ,レイテ,ダバオ等であ

る。

 資産額から推計した華僑の経済面の地位は,1958年当時約15億ペソと推定された。産業 別には,商業(30%),精米業(60%),繊維工業(50%),製材業(40%),巻たばこ(60

%),ココナツ集荷輸出(70%),金融業(30%)において,勢力を有している(カッコは       (注3)

華僑資本の占める割合)。

 以上,フィリピン華僑の人口推計,幕派別の特性等について考察したが,総じて,わが 国東南アジア華僑研究の数多い労作の中で,フィリピンに関するものが極めて少いことに ついて,改めて注意する必要があろう。それは,フィリピンにおいて,中国人との同化=

メスティーソ問題か,東南アジア各国の中で比較的平穏であったこともあろうが,主とし て,わが国戦後の東南アジア進出が,タイ→マレー→シンガポール→インドネシアという 半島沿いに南下し,フィリピン島岐群に対しては,政情不安もあって,進出がおくれ,

ようやく70年代後半から顕在化し,関心も高まり始めたこととも無縁ではないであろう。

(4)

 その意味で,ほとんどわが国に紹介されることのなかったセブの広東会館の記録を次に 謙訳,引用し若干の考察を加えることとしたのである。

3.フィリピン・セブ市の華僑とその活動       (注4)

一セブ広東会館1979年度会務報告を中心に一

 広東会館は,セブ市においてはむしろ,華僑社会での少数派といわれる。少数派であ るために一そう結束して,他の平等にみられない立派な会館を建設したのだという。(1978 年に改築)。「報告」の前文中に,会館運営の理念ないし原則がまず示されている。

①会館運営の理念

 「同郷の互助精神にのっとり,同郷の力を団結して合作一致を計り,皆労の福利を増進 し,僑民間の感情を聯合して国家に対する忠誠に至らしめ,又フィリピンの国法を遵守 して特旨友好を促進させる事を宗旨とするd

 79年総会でのフィリピン華僑連合会代表(来賓)のメッセージ

 「人貝からしてセブの広東会館はその他の大団体に及ばず,経済学は尚更その他の団体 に及ばないが祖国を熱愛する事,実際の行動でもって愛国を示すことはセブの広東会館に 及ぶ者はない。今后とも同門を団結し,華僑社会の為に努力し,菲,中友好促進とブイリ ピン新社会の繁栄の為努力される様希望するd

②79年度までの歩み(会務報告から)

 「本会は50年という半世紀を経た長い時間を経過している。しかも多くの事項を経歴し て来ている。今日は皆様が一堂に集まった機会にセブ広東会館が今日まで50年聞経った過 程を簡単に報告しこれを以って過去を検討して未来を策するようになしたいと思う。

 セブ広東会館は1924年に同郷の先輩各位の協力により先ず諸々の「広東」の別称として 成立し,あわせて中山第二小学を併設して広東語で授業を行った。翌,1925年多くの同郷 が「百号聯合会」の名称は少し一般性がないと思いそこで名称を「セブ広東会館」に改称 して今日に至る。初期頃には会所を借りていたが,その後各同郷が館趾を独自の建物にし なければ永続するのが難しいと認め,遂に1926年に同郷全体会議iを召集し募金を行って土 地を買入,マナリリ街に会館を建てた。その後各地の同郷が多数入会して来た。しかも学 生数も日増しに増えて来たので会所が狭くなり用を達さなくなったので1936年再び土地を 買い入れて会所をコロ生白に建てたのが今日の館趾である。太平洋戦争が渤発し,日本軍 に占領され会所も砲火の灰塵;に帰したので会務も停滞した。1945年フィリピンが復興され た後,各熱心な同郷達が直ちに復興会務委員会を設けて復興工作を行い,1947年正式に 会役員を復活させ,復興第1回役員とし,同時に会所の建築準備工作も積極に進めたが,

経費が大きかったので本会館員だけの力では及ばないので各地華僑の募金をつのった。そ こでマニラ広東会館各役員の大いなる支持を受け,4万元余りを集め1951年3月にその地鎮

(5)

  祭を行い1952年に完成した。

 e 1953年全フィリピン広東会館第3回代表大会が新会館で挙行出来たのも一重に各賢   四達が策して金を出しあったり力を出しあったりして協力されたたまものである。会   館が再建された後義山(墓地のこと,市川注)にある広東先賢の記念碑の修理も順調   に進められた。黄二丁が復典第8回理事長になった時,福利組が設けられ会友の福利   問題を解決した。セブ広東会館は創立1924年から1946年迄の22年間と,その後の1947   年の復興第1回から1964年の復興第18回迄18年間,前後共41年になる。若し復興の2   字を使用する場合,創立以来の22年間の歴史を失う恐れがあるので1965年から第42回   に改め,今年で50回になる。但し第44回から役員任期が2年になり事実上セブ広東会   館はすでに56年の歴史を持つことになる。

   菲中国交回復後,本館の規約も早速修正された。なぜなら以前は同郷の小範囲であ   つたが現在は環境も違い同郷の為だけでなく,同僑以外にも関心を持たなければなら   なくなり,それから以降社会と国家間にも対応する働きをなすよ うになった。吾等は   一致団結して意志と力を集中して僑社の安定を計るとともに菲国の繁栄の為共同に貢   献しなければならなくなった。

③1979年度における婦人の活動

 一国際婦人デー〈講演の要旨〉から一   「国際婦人デーを祝う」

  3月8日は国際婦人デーである。本館婦人組はこの日の正午12時に本館3階の講堂に   て宴会を催し婦人組全員以外に本館の全役職員,広東僑胞の元老,及び平素婦人連合   会を熱愛している人達が一緒になってこの佳き日を祝った。会食後祝典儀式を行い主   席張硯容が次の如く開会の意義を述べた。

   「今日3月8日は国際婦人デーでこの盛大な祝日は本館所属の婦人組馬主任,門主   任並びに各位婦人かたがたの臨席の下で行われ,私が機会あってみなさまと一緒にな   って共にこの日を祝い,而も大会の主席におされた事は非常に光栄と思う。最初に婦   人方皆様に感謝の意を表したい。婦人世界の歴史とその発展に対しては私の知る所は   限りあるが,過去の歴史から見るに世界各国及び各地区は多く男が中心である為,婦   人の地位はいちぢるしく剥奪されて来た。旧い中国では帝王が統治していた時代なの   で歴史上記載されている 三十六宮七十二妃 から 三寸の金道(てん足)四寸の腰   にいたる迄,それでも表現出来ない残忍な名詞が婦人界の頭上にかぶされ,女は弱き   者であるという不合理な状態が続いて来たのである。そこで各国の婦人指導者達が立   ち上がって三三し,各地の進歩した先賢達の努力奮斗により婦人界の自由平等を勝ち   取り3月8日を国際婦人デーにしたのである。中国に於いての婦人運動もこの30年来   著しく発展して来た。毛主席と周総理がよく 婦人達は半分の天空をおおい,婦人達   は半分の天理を支える と言った。この2つの言葉からして中国婦人達が如何に団結

(6)

  しているかが解る。

   新聞報道によると副総理陳慕華女史が豪州での国際会議の席上,中国を代表し世界   三和の為に発言しベトナムを攻撃する演説を行った。また女史は婦人達が中国にて   国家を護衛出来るだけでなくして国家を建設する事に対し一定の貢献(4つの現代化)

  が出来たことを証明している。本館の婦人組の各位は各国婦人指導者と並び論ずるこ   とは出来ないが,馬主任,伍主任,関主任指導の下必ずしっかりと正しき立場を確保   し,婦人各位の友誼と団結の為,同郷福利の為に努力し,その中で殊に,近年来同郷   同僑と菲,中友誼の為たえず努力を傾け,本館の名誉を高められたことを私はこの機   会を借りて皆様に崇高な敬意を表するとともに心から感謝の念を示したいと思う。

   本館各位婦入の皆様が子女達を連れて会館各種の活動に参加されることを進められ   るよう願いたい。彼等に小さい時から一種の良き認識と良き印象を興えて早々青年達   を組織して本館の仕事に協力出来るよう願い同時に本館将来の良き後継者になられる   よう期待するd(会務指導員馬廻のスピーチより)「今日国際婦人デーの紀念会に参加   出来る機会を得たのを嬉しく思う。国際婦人デーは国際的な催しである。中国で最初   に祝ったのは1924年から始まり過去中国は専制独裁の時代であって男女とも何等平等   を言うことはなかった。婦人は旧道徳の圧制の下,生涯ただ三従四徳あるのみであっ   た。三従とは家にありては父に従い,嫁に行っては夫に従い,夫が逝っては子に従う   ということである。四徳とは婦言,婦工,婦徳,婦容とのことで以前の中国婦人はよ   しあしにかかわらず一生ただこの「三従」と「四徳」の中で生活するのみであった。

  女子才なきはすなわち徳であるという言葉は美女を讃えることで表面上は聞きよいが   男尊女卑時代の言葉で婦人が才能あることにより禮教の束縛を受けることをいやがる   ので「女子は才無きはすなわち徳である」という言葉で女をだまして来たのである。

   1949年全国解放戦争が勝利し中華人民共和国政府が成立した後,中国の女子同胞は   やっと男,女平等の地位に達し,現在では中国の婦人は天空の半分をささえることが   出来ると言い,人民大会には女の主席があり,政府機関には副総理,女部長があって   男・女一様に仕事をし,各々その知恵を国家に貢献しているのである。セブ広東会館   婦人組が成立して今日迄17回忌経歴している。近年来各方面の事業に優良な成果を揚   げている。今後とももっと団結し協カー致してそのかがやきを大に発揚されて行くよ   う期待する。(林伯華主任のメッセージ)。

④ 本国との交流  a.王柄南一行を謡う。

   乱言南先生は曽って中国のポーランド駐在大使で中米ワルシャワ大使級会談の際の   中国首席代表を兼ね,その後外交部副部長等の要職を経て現在は中国対外友好協会会   長としてフィリピンを訪れたのである。広州雑技団,重慶雑技団,武術団,バスケット   チーム等は全て部長との友好協会の傘下にある団体で菲,中友好の工作に対する貢献   は至って大きいものである。

(7)

  王柄南会長は今回フィリピンのまねきに応じ来訪したのだが,3月18日にミンダナ  オに到着した。21日午前10時セブに来られ飛行場で,セブの洞門,マタウエ市長,ラプ  ラプ市長など軍,政方面の首脳達が出迎え,華僑社会では呉同等,聯合会主席,セブ菲  華僑特電会洪湖培理事長がセブ40余の社会団体を指導して飛行場にて熱烈な歓迎を行  つた。

  この訪問団の全団貝及び職位に付き略述すると,団長王柄南は現中華人民共和国対  外友好協会会長で,団員高富有は中国国務院事務管理局副局長,杜換は対外友好協会  広東省分会の副会長で,郭東俊は対外友好協会の副秘書長で呉芸文は社会科学院情報  研究所アジア・アフリカ・ラテンアメリカ研究室の副主任,挑淑賢は飛柄南会長夫人  で対外友好協会理事,呉思鳳は陳西放送文工手の女優で顧子欣は対外友好協会の通訳,

 それに新華社の鄭記者,中国駐菲大使館の代理大使薫時先生,フィリピン華僑聯誼会  総会理事長呉永源博士及び,菲,中友好協会職員等の一行である。

  正午に,セブ戸長と市長が聯合してスペイン会館で歓迎宴が開かれ,各社団の代表  を招待し,内外の友好人士が列席した。本館は林野華,黄文洛を特派して宴会に参加  した。午後は省長と市長を表敬訪問して行裕行のヤシ油工場を参観した。夜7時フィ  リピン華僑各界の共催で白金楼にて公宴を開いた。3月22日午前芸術館,崇華病院,

 聯帯塘餐工場を参観した。昼はセブ華僑聯誼会が白金楼で歓迎宴会を開いた。午後は  目貫下溝小学校(現地名不詳,原文のママ),マニタニニュ教会,マゼランの十字架,

 市役所を参観した。3月23日セブを離れてミンダナオに泊り,それから碧揺に行かれ  27日無事帰国された。

b.芸術の交流

  国内外に有名な中国武漢雑技団はフィリピンの第一夫人及びフィリピン華僑聯誼会  の招待に応じて団長夏菊花の引卒の下,全団員53人が5月10日北京より中国民航にて  直接ミンダナオ市を訪れた。時あたかも聯合国の貿易発展会議がミンダナオ市で開か  れ,全世界の155ヶ国の代表7,000あまりの人々が集まっていた。盛大な会合で武漢  雑技団は特別に当日民族劇場で来客をもてなす為に1回上演された。それから14日ひ  る頃ミンダナオからフィリピン航空にてセブ市に来られ,セブ市長,ソロン博士,セ  ブ在住フィリピン華僑各団体の聯合会主席呼声放先生,セブ,フィリピン華僑聯誼会  理事長洪湖培先生等が各社団の代表,フィりピン,中国の友人を引きつれて熱烈な歓  迎を行い本館職員,会員,「及び婦人組20数人も4台の車に分乗歓迎の行列に参加した。

 ユ4日午後7時セブ市の白金楼にてフィリピン華僑各界の公式晩餐会を開き,参加者  にはセブ省筆,セブ市長,マロウエ市長,フィリピン陸軍及び保安軍の司令及び政界  要人華僑,華年フィリピン人達千人あまりが集り80数テーブルの宴席を設けた。

  第1回の公演は15日午後7時半セブ体育館で行れた。開幕儀i式に出席参観された人  にセブ市長,第7保安軍区司令,第三陸軍司令,省保安司令がいた。菲,中両国国歌.

(8)

  が演奏された後,省長,市長が台上に登られ講演し,つづいて夏菊花団長が謝意を表   して公演が始つた。プログラムは素晴らしく,観衆からのかつ釆がたえず,フィリピ   ン,中国及び外国人三等の一致した好評を博した。観衆は9,000人余りいた。

   第2回は16日午後7時半に演出され観衆は前日よりも尚更多く,会場内が超満員に   なり観衆は10,000人を超えた。

   第3回はよ7日の夜演出されセブの地方政府入士及び公教人員,それからフィリピン   友人達を招待観賞された。観衆は前2回よりももっと多く,物凄くこみあった。演出   の各項目に対する拍手は雷の如くあって,フィリピン・中国間の友好は意義深長なも   のであった。

⑤国内華僑間の交流  a 広野南遊訪問団の来訪

   広東僑団総会曾遊訪問団一行7人は名誉団長陳二半,広町理事長鳳三枝,副理事長   平町,秘書長陳瑞時,財務伍鴻湛,聯絡三陸剣雲,顧問梁添附で編成され,6月10日   午前11時半バコロシメ市から航空でセブに来訪した。出迎えした人々にセブ広東会館   会務指導員馬廻,常務委員張硯容,謝然棋,委員林伯華,黄牛洛,季羅,瓢景超及び   婦人組正副主任黄馬二二,注伍顔芳,三関三二等同郷の婦人達がいて,市内のホテル   におちついた後,直ちに騰龍門本館での二食招待会に出席された。席上張常務委員硯   容は広総の貴賓の各位に対し「同郷の深厚なる情誼を持って熱烈に歓迎するとともに   貴賓達一同の滞在期間中の愉快な旅行をなされるよう祝福する」と挨拶の言葉を述べ   た。午後6時騰二二で馬廻指導員主催の下で座談会が開かれた。内容はおおよそ僑社   には常に三人による長期執務する一種の悪き習慣があってそれ故会務が思うように発   下せぬ,今後はこの制度を変えて多くの新人を登用し新人を訓練し,各々の才能を発   憎して僑社の為に奉仕しなければならないとの事であった。以下の如き発言があった   鷹潤枝「新人を登用しても新人が訓練を受け入れるのであればそれにこしたことはな   い。例えばレストランである人を引抜いて腕の良きコックにしょうと思ってこちら側   が一生懸命になって教えても本人がどうしても技術をのみこむことが出来なければ,

  むだになるのではないか」と言った。陸剣雲は「吾々は青年達が一般の青年達と一致   団結するよう注意しなければならない。そして青年達が青年達の各々の才能を発揮出   来るよう青年達を指導しなければならない。そうすることにより僑社が復興するので   ある」と言った。馬廻は「本館3年来張二丁常務委員の指導の下,会務は大々的に復   興され,対外的にも良き成績の現れがあった。殊に今回の本館修築にあたり,大きな   力をつくされた。修築は又同時に婦人組の各婦人の協力と会友達の合作を得て工事は   着々と進んでいる」と言った。

   広総南遊訪問団はセブ広東会館の修築の件を知りさしあたり二千元を寄付し本館の   財務李羅が受けとった。張硯容はセブ広東会館はセブ市に設置されているが,しかし

(9)

      ライチ  ウォンモ   シュリシ   アガウサン   イリ

 会員は附近の沿海各省の広き地区例えば,禮智,旺木市,桝志学市,亜牛山省の丁丁  アンサイメンオスアマサンボアンガオウケイトンハイマンランマンカイテイムウンザ  岸市,西野鴨の奥沙来市,北三保雪男の保啓市,東黒人省の浪漫芸地市,武運省の則

 ピララン

 比拉蘭市及び,その他の所からなっている。(現地名不詳のため原文併記) 「今回の  寄付募集は会員間で行なわれ,一般にはつのらなかったが,もしも同郷達や各方面の  友好人士が本館を援助して下されるのであれば,一同心から感謝する所である。今回  は広総角遊訪問団各位が2,000元寄付して下され,私は本館全体同郷を代表し心から  感謝を表したい。最近に広東僑団総会の凋潤枝理事長と貴賓各位方が貴重な意見を述  べ吾々同郷をもっと団結させ,それとともに吾々同郷の福利事業をもっとよくして行  くよう心から希望する次第である」とのべた。(セブ側挨拶)盛大な晩食会は広甲南  遊訪問団の主催によって行われた。11日の朝食は白金楼で黄嘗胆先生,伍飾栄先生が  広総の貴賓等を招待し各委員も参加した。食後即ちに会館に参観に行かれ,そこに会  貝馬耀枢が老弱になられているだけでなく,火災に会い,けがをし,よりどころなく  会館に臨時寄宿していたので,広総野遊訪門団各位貴賓はその場で1,500元寄附され  馬柄枢先生がその場で受けとられ謝意を表した。正午12時に張龍言希先生,馬柄枢先生が  香港酒家で広総貴賓を歓送し,本館各委員及び友好各位が会食に出席された後,各位       カガヤン

 と別れを告げ飛行場に行かれ飛行機で加牙那市に行かれ,引続き南遊の旅行訪問をさ  れた。

b.南遊雑記

  本館の会員の多くは広く南島各地に住んでいて,長期間本館に来るのに経済的困難  と入手不足にて聯絡がうまく行かず,同郷の人達との問にへだたりとサービスが行き  とどかぬ状態をもたらしている。今回は団を組織して各地区を巡り同郷各位に挨拶す  ると同時に,本館に対し厳しき評判と良き提案をだしてもらって会務を促進するよう  はかり,同時に又本館修築中の一切の情況を各会友に報告するのを本団の南下目的と  する。

   一第一次訪問地一

  吾々の一行はセブから朝早く飛行機でダバオに尽った。飛行場でダバオ市広東会館  の雷根栄理事長,皆労,李信定,股振漢福理事長と各監事及び同郷達の情熱的な情熱  を受け,挨拶をかわした後,車で市内に入った。股振漢先生が経営されている涼宴楼  酒家で朝食の招待を受けた後,雷根栄理事長の案内でダバオ市広東会館で全体理監事  と同郷達の熱烈な接待を受けたので正午と午後は萬国酒楼と営営酒楼にて,雷理事長  と馬,李,般福理事長並びに全体理監事等が宴席を設けられ席中角理事長の情熱溢れ  る言葉で歓迎して下された。続いて本館の張硯容常務委員が今回の来意を説明し,心  からダバオ地区の各同郷達の活躍を祝福し,雷理事長と全体理監事並びに同郷達の熱  誠なる招待に感謝するとともに,雷理事長がクリスマス期間中の青年達の健全な娯楽  と同郷達の団結を奨励され,老人を尊敬するよき精神を学びとりたい。又ダバオ広東

(10)

会館が素晴しく宏き会所を持っているのを非常に嬉しく思う」と挨拶した。講堂の中 央に菲・中両国旗を掲げたが,これは吾々同郷が団結し,菲・中の深き友誼が何時迄

もつづくことを象徴しているのである。

      カ モバランセ   一第二次訪問地,加勿巴蘭社一

 夜中ダバオ市から車で加勿巴蘭社に向つた。途中殆んど山路で夜風が強く全員寒気 を覚えた。しかし夜明方の南島の景色は実に美しかった。長い路を経て目的加勿巴蘭 社にたどりついた。黄偉民,二言旬委員に会って初めて80数才の朱自募先生が,張三二 呉三升,黄嫡平等諮言旬委員等とともに車で40マイル郊外の所迄行って吾々を迎えに行 った事がわかった。車の速度があまり速すぎたので入れ違った。これを聞きむだ走り させる事を本当に気の毒に思い,彼等が帰って来て皆で会った時,吾等全員が親切に 対し熱誠をこめて詫びをした。あわせてセブ広東会館の会務情況を知らせる為に来訪 した事を告げ,最初に同郷達の活動ぶりを尋ね,つぎにはっきりと過去において同郷の 各位に服務するのがたりず,その為いろんなへだたりが生じた事を認め,会務発展の為,

同郷達各位から貴重な意見を提供して下されるよう希望すると述べ,最後に会所を修 築する問題を持ち出したら,一同積極的に応じて下され常非に大きい成果を揚げた。

向時に諮詞委貝回偉:民先生の美味な料理とうまい酒の招待を受け二間皆,大いに語り あった。殊に1977年に中国旅行した思い出として,中国旅行社の服務精神が良き事,

祖国同胞が団結されている事,萬里の長城の偉大な事,三和団の歴史が豊かなる事,

揚子江の大鉄橋の雄大なる事,上海少年宮での楽しい事,故郷の水利事業の普及され ている二等に及び,吾等の中にも数人が曽って1977年度の帰国旅行団に参加していた ので話しがはずんだ。

  一第三次訪問地一

 カモバランセとバタン市の間は近々車で半時間で着いた。余永康,余錫泉門二言旬委 貝と同郷平平さんの接待を受け,同時に余永康先生から会所修築に対する最高額の寄 附目録を得て,吾々はともによろこんだ。

  一第四次訪問地,イリカアン市一

 商店営業の一番忙しい時刻に到着し,関学俊,甑先湖,梁兆方,等諮言旬委員と同郷 達の熱烈な接待を受け,殊に会務の推進に対し貴重な意見が提出された。また本館修 築に対しても自発的に熱誠なる寄附を申し出られ,本館一同の敬服するところである。

  一第五次訪問地,ヵガヤン市一

 カガヤン市広東同好会はセブ広東会館に直属し,近年来李門人,張三寸,甑柄興等 常務委員の指導の下,非常に団結精神が有って同郷がよく合作し,特に福利事業が最 もうまく行なわれ会務が大きく発展されていた。吾々が到着した時,同郷達の熱烈な 歓迎を受け,ことに本館修築に対し貴重な意見を提出して下され,実にセブ広東会館 のよき縁の下の力持ちとしての支柱であることを知った。

(11)

   一第六次訪問地,ロンマンガイデ市(浪漫旧地市)一

  ロマンガィデ市の各同郷達は早くより本館修築に関する消息を得ていたので,各人  が自発的に寄附され,しかも寄附金は全部李根深委員がみずから本館財政処迄とどけ  られていた。本館訪問団一同は専ら各同郷各位に敬意を表し,一そうの団結を増進さ  れるよう切望し,工作が円滑に執行されるようロマンガィデ市に来た趣旨を話した。

 李根深,関国珊,謝源超,謝放下,二半光,干菜霧,甑文解,諜源等諮詞委員の熱誠  な接待を受け,殊に社会の名士,本館の諮言旬委員,関国学先生が提出された貴重な意  見は次のとおり。

 「菲・中国交流陵復後セブ広東会館は非常に良き実績を上げたことは私達がより一層  前進して団結するはげましになり,より良き貢献を成し,同郷達のよりよき名誉をか  ち取り得たことは,一重に『正義』『団結』『公開』の賜である」この言葉は,誠に本  館会務推進する上の金石良言である。同時に又同郷達がその場において再度の修築寄  附を集めて下された事は,最も得難い貴重な誠意の表れといえる」。

  最後に本館修築の期間中であり余計な時間をさいてその他の地区に住む同郷達を訪  れて挨拶を述べ得られなかったことをお断りしておく。

4.おわりに

 セブ広東会館の『会務報告』に示されている中国本土との緊密な交流の急進展と,フィ リピン南部における広東甜の連帯性の強いこと,セブがその中心的機能を果していること は,極めて鮮烈な発見であった。とりわけ,フィリピン華僑は,元来台湾との接触が深か っただけに,これほど中国本土との交流が熱望されている  誇張がないとは言えないに

しても  ことは,予想をこえることであった。

 もともと広東幣がフィリピンでは少数派ではあっても,そのルーツは多数派の福建幕よ       (注5)

りも古いことは,須山卓教授の指摘にもあるとおり,広く知られていることである。

 また,フィリピンへの華僑の来住を概観し,スペイン統治下に,その原型が確定したと 考えられる時期(17世紀末)における,フィリピン華僑社:会に関する,W・G・スキナー       (注6)

の文献史的考察もこれを裏づけるものである。

 12世紀,唐宋の時代,フィリピンと広東(広州,泉州)との交流が盛んとなり,ミンド ロ島,ミンダナオ島,ルソン島の3島に相当数の中国商人の渡航があったという(『元史』)。

 しかし,スペイン統治下に定住し始めたのは,少なくとも1588年以降といわれる(H.

B.モース,他『極東国際関係史』)。17世紀にかけて,華僑とスペイン統治当局との間に,

反乱と弾圧が数回くりかえされ,18世紀にほぼバリアンといわれる中国人街が,マニラそ の他の開港地に出現したことが知られる。これらは,1898年のスペイン艦隊の敗北による スペイン支配の解体後も存続した。セブにおける華僑定住の歴史は,未だ解明していない が,ここがマゼランの最初の上陸地であり,マニラとは別の拠点として発展をとげた古い

(12)

開港場であるだけに,『会館』としては必ずしも古くはないが,その沿源は300年以上にのぼ るものと推定して誤りないであろう。

 中国本土における易世華命や新中国の誕生にも,フィリピン華僑社会は大きく動揺,変 動することはなかった。これは,16世紀フィリピン各地にあった日本人町が鎖国とともに崩 壊したこと,明治以降再び大量の日本人がフィリピン各地に進出し,定住しながら,第2 次大戦の敗北により・,あっけなく引揚げその基盤を失ったことと対照的である。

 むしろ,フィリピン華僑は,現地人に虫けら(Insect)と謙悪されながらも,しつよう に現地にとどまり,日本人が敗戦によって引揚げた(半ば強制)空白を好機とばかり,一 そうその経営基盤を拡大,強化していった。そして,1960年以降,再びかつてフィリピン で活躍した日本人たちが,舞いもどって来たときには,も早,華僑の土着力はより強固と なり,彼等を無視しては新規の事業は始められないほどになっていたのである。(ダバオ 市の日本人会長やバナナ経営者三宅氏の話等より)。

 だが,フィリピン華僑と中華人民共和国政府との交流が,地方の幣派別の会館レベルに まで及んだ経緯については詳かでないが,恐らく近年に属すると考えられる。

 1949年の中国共産党の革命以降,東南アジア華僑に対する政策は,文化革命以前,文化 革命期間及び文化革命後という3つの路線の変化をへて今日に至っている。オーストラリ ア国立大学,ステイーヴン・フィッジェラルドは「文化革命後の時期の華僑政策は,文化       (注7)

革命前と本質的には同じ」という評価を与えていることからも推察されよう。特に「4つ の現代化」路線が,フィリピン華僑の中に急テンポで侵透しつつあることに注目しなけれ

1980年3月13日 セブ広東会館にて(前列中央筆者とアジ研学生)

(13)

ばならないであろう。恐らく,少数派とはいえ,広東蓄華僑は革命の父孫文を生んだ母体 であることへの自負があるだけに,新中国への近親性は,他の自派の華僑よりより一そう 深いとも考えられるからである。

 ともあれ,全く一面識もない異邦人の日本人学生や筆者に,胸襟を開き熱烈歓迎してく れた開放的な広東会館の幹部の方々の態度には,フィリピン社会の中で辛酸をなめて生き のびてきた面影は全く感じなかった。も早彼等は,それだけの余裕をもつほどに生活基盤 を確立しているともいえるのであろう。

 最:後に訪問に際し,会館幹部の方々から寄せられた厚意に感謝する意味で,各位の役職 氏名を附記すると洞時に,小稿が従来手薄とされていたわが国におけるフィリピン華僑研 究への何らかの素材供与ともなりうれば,幸せと思う。(会館での記念写真参照)

(注1) オーストラリア国立大学W.Gangwu『東南アジアから見た毛沢東以後の中国の近代化路線』,

   1980年3月,アジア経済研究所。

(注2) 中村孝志編『東南アジア華僑の社会』天理教東南アジア研究室,昭和47年11月

(注3) 戴国輝編『東南アジア華人社会の研究』下,アジア経済研究所,1974年9月所収 木下俊彦「

   フィリピン華人・華僑とそのビヘイビア」,105〜137頁

(注4) この『報告』の訳出には,香港九竜在住の長崎市新地出身の華僑鄭広良氏(貿易商に従事)の    協力をえたことを特記し,謝意を表すものです。

(注5) 須山卓『華僑経済史』1972年7月,近藤出版社,68〜69頁,107〜109頁

(注6) G.William Skinner Over seas Chinese, Leadershlp:Paradigm For A Paradox (1960

   年,コーネル大学『東南アジアプログラムチーム・レポート』改訂版,191頁以降204頁。)

    この論文は,未だわが国には紹介されていないので,いずれ機会をみて短評を行う予定である。

(注7)   China and the Over seas Chinese by Stepnen Fitzgerald,1972, London:

   鹿島平和研究所訳『中国と華僑』昭和49年7月,294頁

〈附記〉  「セブ広東会館役員氏名一覧」

会 務 指 導 員

会  務  顧  問 会  務  顧  問

常務委員兼正総務 常務委員兼三二文書

常務委員兼福利組正主任

正   財   政 副財政兼福利組財政 正   外   交 副   外   交

候  補  委  員

 廻 天饗 応澤 硯容 然棋 禮抗  羅 日興 文霧 天方 為荘,呉

正  中 文  書 副中文書凶荒総務

福利組副主任

正   稽   核 副   稽   核

副  西  文  書

正   審   査 副   審   査 委      員 婦 女 組 主 任

婦女組副主任 婦女組副主任

錦萬,陳 盈澤

「宿務広東会館会務簡報,1979年上半年」より

馬 馬

伯華 元勲 三組 文洛 徒相 明輝 群山 光平  廻 門馬美割 注伍顔芳 盃盤守谷

参照

関連したドキュメント

日露戦争は明治国家にとっても,日本資本主義にとってもきわめて貴重な

現在、当院では妊娠 38 週 0 日以降に COVID-19 に感染した妊婦は、計画的に帝王切開術を 行っている。 2021 年 8 月から 2022 年 8 月までに当院での

「前期日程」 「公立大学中期日程」 「後期日程」の追試験は、 3 月 27 日までに合格者を発表 し、3 月

オープン後 1 年間で、世界 160 ヵ国以上から約 230 万人のお客様にお越しいただき、訪日外国人割合は約

事  業  名  所  管  事  業  概  要  日本文化交流事業  総務課   ※内容は「国際化担当の事業実績」参照 

ここでは 2016 年(平成 28 年)3

 渡嘉敷島の慰安所は慶良間空襲が始まった23日に爆撃され全焼した。7 人の「慰安婦」のうちハルコ

高尾 陽介 一般財団法人日本海事協会 国際基準部主管 澤本 昴洋 一般財団法人日本海事協会 国際基準部 鈴木 翼