外 交 問 題 研 究 家 と し て 清 の 沢 冽
︱ 日中 戦 争 か ら 日米 対決 の時 代
︱へ
1 は じ め に 領
土 再分 割 闘争 と そ の否 定
︱
﹃世 界 再 分割 時代
﹄ が主 張 し たも の︱ A 本 書 の目 的 B 概 要 C 本 書 の強 調点 外
交問 題 の歴 史 的 アプ ロー チ ー
﹃第 二次 欧 州 大戦 の研 究﹄ 何は を 訴 え るか
︱ 外交 題問 研究 家と てし 清の 沢冽
︵三
・完
︶
︵ 一二 ・ ル π一︶
山 本 義 彦
九 五
C B A
外 交史 研究 家 清 沢冽
︱
﹃外 交史
﹄ は 日米 対決 の中 で何 を打 ち出 し たか
︱ A 本書 の目 的 B 概要 C 本 書 の強 調点
︻付
︼ 清 沢冽 放 送 用原 稿 近﹁ 衛内 閣 が出 来 まる で﹂
︵以上︑第四四巻四号︶ 本日
近 代外 交 史 の中 の大 久保 利通
︱
﹃外 政家 と し て の大 久 保利 通﹄ は大 久保 利 通 の評 価を ど のよ う に変 え たか
︱ A 本 書 の目 的 B 概 要 C 本 書 の強 調 点
6 総括
法経 研究 四四 巻二 号
︵一 九九 五年
︶ 本 書 の目 的 概 要 本 書 の強 調点
︵以 上 第︑ 四三 巻 四号
︶
九 六
︱外 交 問題 研究 家 清沢 冽 は日 米対 決 の下 で何 を 訴 え るか
︱
︻付 録
︼ 新資 料 郷︱ 里 信 州穂 高 の師 井 口喜 源 治 に宛 てた 清 沢冽 簡書 そ︹ えが き
︺
︵以 上 本︑ 号
︶ 5 本日 近 代 外交 史 の中 の大 保久 利 通
︱ 外﹃ 政家 と し て の大 久 保利 通﹄ は大 保久 利 通 評の 価 を ど よの う に変 えた か
︱ A 本 書 の目 的 本 書 は中 央公 論社 か ら 一九 四 二年 五 月 刊に 行 され 本︑ 文 二六 頁三 か なら る︒ ま ず
﹁序
﹂ か らと りあ げ て︑ 本 書 の執 筆 動 機 を 探 る こと にし よ う︒ そ れ は︑
﹁日 外本 交史 を通 じ て︑ 最 も異 色 あ り 興︑ 味 あ る外 交 征は 蕃 件事
︹日 本近 史代 では 長 くら 台湾 征 伐 と いう 用 語 が使 用 され てき たが
︑ 一八 七 年四 台湾 侵略 の事 件 を うい
︱筆 者
︺か 引ら 続 く北 京 談判 あで る︒ 外 政 と内 政 と か ら あみ い︑ 一つ の時 代 と他 の時 代と が衝 突 す る︒ 舞 台 の正 面 現に れ る のは 大久 保利 通 あで るが 西︑ 郷 隆 盛 出が て︑ 李鴻 章 が明 滅 し︑ 英 米仏 列の 強 が出 て来 る︒ のこ 事 件を 通 り越 し て︑ 初 め て内 外 対に す る明 治 本日 の地 固 め が出 来 た﹂ と︑ うい 書 き出 し で始 め ら れ てい る︒ こ 大の 久保 の清 国 と の北 京 会 談 こそ は 中︑ 国と の近 代 日本 の本 格 的 な 交 渉 の出 発 点 であ り︑
﹁現 に支 那事 変を 最大 の問 題 と し て有 し てゐ る日 本国 民 に︑ いろ ノヽ の示 唆を 与 へる も のが ある
﹂ と し て︑ 本 論 の現 実的 要必 性 を強 調 し てい る︒ し か し
︑ そう した 表 面的 理由 以上 に︑ 沢清 は西 郷 と の論 争 点 が じ︑ つは 大﹁ 陸 派 と内 治主
﹂義 と の最 初 の抗 争 であ っ た こと を 示 し て︑ と く に北 京 談判 に関 し ては 従︑ 来
︑ れこ に関 す 研る 究 は︑ 本基 的 に存 在 し て いな か たっ とこ を述 べて
︑ 外交 問題 研究 と家 し ての 清沢 測
︵三 完・
︶
九七
九 八 法経 研究 四四 巻二 号
︵一九 九五 年︶ 本 書 の意 義 を積 極 的 に打 ち出 し て いる
︒ な お征 韓論 では
︑ さし た る新 たな 見 方 や資 料 を提 供 でき な いと し ても
︑ こ の 北京 談判 では 新 機 軸 を打 ち出 し てい るも のと 自 確ら 信 し てい る の であ る︒ こ こで あ︑ ら かじ め本 書 の構 成 を紹 介 し てお こう
︒ 第﹁ 一章 征 韓論 を中 心 に﹂
︑
﹁第 二章 征 台 を敢 行す まる
﹂で
︑ 第﹁ 二章 日清 間 の予 備 交渉
﹂
︑
﹁第 四章 全 権弁 理大 臣 と し
﹂て
︑
﹁第 五章 北 京 談判 の行 詰 り﹂
︑
﹁第 六章 交 渉 妥結 に到
﹂る
︑
﹁第 七章 大 久保 の心 事 と政
﹂策
︑ そし て
﹁付 録﹂ に 使﹁ 清 趣意
﹂
︑
﹁大 久 保利 通略 年譜
﹂を 収録 し て い る︒
B 概 要 では 本文 を見 よ う︒ ま ず第 一章 では 大︑ 久保 の人 間的 性格 を論 じ て︑ 自己 の主 張 を断 固 と し て堅 持 し ま︑ た相 手 が弱 いと み ると 威︑ 嚇 す ると うい とこ を 事︑ 実 に即 し て述 べる
︒ ま た︑ 大﹁ 久保 のと つた 外 交 手 法 は︑ 奇 計的 な策 略 だ﹂ と いう
︒ こう し た論 述 方法 は︑ 前 の節 でも 示 たし よう に︑ 清沢 の外 交史 認識 に見 られ る ま︑ ず そ の担 当 者 の個 性 の持 つ役 割 を抜 き には でき な いと いう 立場 があ ろう
︒ つぎ 大に 久 保 が内 政 家 と し て理 解 さ れ て いる 従 来 の認 識 に対 し て︑ 彼 が朝 廷 と 薩摩 藩
︑ そし て幕 府と の交 渉 で発 揮 し た能 力 こそ は︑ そ の外 政 家 とし て大 き な力 量 を 示 し て いる のだ と︑ 評 価 し て いる
︵五 頁
︶︒ さ て︑ 興 味 あ る論 理を 提 供 し てい る のは 清︑ 沢 の大 陸派 と内 治派 と 称す る政 治 家 のあ り方 に関 す るも ので あ る︒ いわ く
︑
﹁大 陸 主 義 と 内治 主義 の相 違 は︑ 要 す る に前 者 が ひた ぶ る に国 権 伸張 を念 願 す る に対 し︑ 後者 は内 治 と外 交 と の調 和 を主 張 す ると でも ふい のが 当 つて ゐ る であ ら う︒ これ は西 と郷 大久 保 と の人 柄 の相 違 であ る﹂ と︑
︒ まつ り こ こ には ︑ 一見 す ると 相 矛い 盾 す るか のよ うな 二 つの 論 理 が じ︑ つは 大久 保 にあ てっ は︑ 統 一的 に理 解 さ れ て
い て︑ 大陸 派 と内 治 派 は︑ そ の内 面 にお いて 一個 の日 本 外交 の二 つの 側 面 と い てっ よ いも の であ とる の認 識 を提 示 し て いる の あで る︒ た かし に︑ そう なで け れば
︑ 一八 七 三年 の西 郷 盛隆 の征 論韓 に対 立 し た当 の大 久 保 が︑ 年翌 には 台 湾 間 題 を 干渉 行 的為 と と ら れ るよ う に扱 たっ こと の意 味 は 解︑ 明 され な い あで ろう
︒ 大 久保 と 西郷 は 刻︑ 頸 友の と し て盟 友 であ り そ︑ はれ 大久 保 が岩 遣倉 欧使 節 か 帰ら 国 し 以て 後 も そう たし 係関 は︑ 一 定 程度 継 続 し たが し︑ か し そ の交 友 係関 も 徐︑ 々 に希 化薄 たし こと そ︑ の根 元 に
﹁韓 国 題問
﹂ あが り︑ そ の取 り組 方み の相 違 の明 確 化 とと も に︑ 顕著 と な てっ い たっ こと を 強︑ 調し て いる 清︒ 沢 は︑ 大 久保 の欧 米 験体 が のこ 西郷 と の認 識 の開 きを 急 激 拡に 大 し とた 考 え て いる
︒ 一八 六九 年当 時 では 大︑ 久保 が じ︑ つは ロシ とア の 一戦 を 交 える にや ぶ さか で は な いと うい 急 進 派 あで たっ と ろこ と も比 較 し て︑ 論 理 の変 遷を 認め て いる
︒ も とっ も 西郷 の征 韓 論 は︑ 清沢 みず か 述ら べ てい るよ う に︑ やや 雑複 であ てっ 閣︑ 議 では 太 政 大臣 三条 実 美を はじ め
︑ 即 時 兵出 論 に傾 斜 し て いた のに 対 し て︑ 西郷 まは ず使 節 を派 遣 し て︑ 交 渉 の推 移 を見 る きべ だと し 自︑ ら そ 任の に当 た とる うい 立場 であ たっ
︵八 頁
︶︒ 大久 保 征が 韓論 反に 対 であ るも う つ一 の事 情 は︑ 彼 が大 蔵 卿 の位 置 にあ てっ 当︑ 時 の 財 政 の窮 状 を 知熟 し て いた から でも あ とる いう のが 清︑ 沢 の捉 え方 あで たっ ま︒ た︑ 大久 保 の征 韓 論 反 対 の考 え 方 は
︑ じ つは 西郷 盛隆 の身 の上 案を じ のて こと だ たっ とも いう の であ る
︵一 一頁
︶︒ さ て西 郷 の征 韓論 を 評 し て︑ 清沢 は︑ それ が 四 つの 理由 よに てっ いる も のと 考 え て いた
︒ いわ く 第︑ 一に 西︑ 郷 自 ら の行 き詰 ま り
︑ つま り封 建 主義 的武 士 と し ての 精 神的 行 き詰 ま り︑ 第 二 に は︑ 武士 団 の平 和 への 転換 の対 応 の困 難 第︑ 二 に︑ 藩閥 相 互牽 制 の手 段 とし のて 問 題 第︑ 四 に︑ 大陸 政策 の遂 行 の観 点 と︑ く に日 本 の韓 国 のへ 軍 事 介 入 に対 し て
︑ ロシ アが 介 入 し な いと いう 感 触を 得 てい た こと あで る
︵一
〜四 王ハ 頁
︶
︒ 大 久保 は︑ 欧 米 か ら の帰 国後 参︑ 議 就任 期を 待 され た が︑ 西郷 と の征 韓 を論 めぐ る対 立 を考 慮 し し︑ か 西も 郷 が幼 少 外交 問題 研究 と家 てし の清 沢冽
︵三
・完
︶
九九
法経研究四四巻二号︵一九九五年︶ 一〇〇 の時 代 以来 の盟 友 でも あ る事 情 に配 慮 し て︑ 就任 を拒 み つづ け て いた ほど であ る
︵一 八〜 一九 頁
︶ 興︒ 味 がも たれ る の は
︑ そ の後
︑ 一八 七 三年 一〇 月 一四 日 の大 久 保 も加 わ たっ 閣議 で︑ 欧 米渡 航組 が そろ てっ 征 韓論 に反 対 たし こと であ ろ う ま︒ た 月八 と 一〇 月 の三 度 わに た てっ 閣︑ 議 は征 韓 論 方針 を決 定 し たが 大︑ 久 保 は 三︑ 度目 の会 議 に は︑ 反対 派 の大 重隈 信 大︑ 木 喬任 とら と も に辞 表を 提出 し て︑ 欠席 し て いる
︒ この ため 西郷 即の 日上 奏方 針 は貫 徹 さ れ た
︵二 四 頁
︶
︒ と も あれ 西︑ 郷 ら の征 韓 論 は︑ 大陸 発展 をめ すざ 東方 政策 と し て︑ また 国 内的 には 欧米 風 の文 明化 への 反発 と し て︑ 主 張 さ れ とた いう
︒ とく に後 者 に関 し ては 鳥︑ 尾小 弥太 陸軍 少将 の︑ 西 郷 への 留 守 政府 下 の クー タデ ー の懲 憑も 大 き く影 響 し たと し て いる
︒ それ は︑ 同 時 に失 業 士族 の気 風 を反 映 す るも のだ たっ と も 清︑ 沢 は のべ て いる ので ある
︵二 七頁
︶︒ 大 久 保 よに る︑ 西 郷 たち の征 韓論 への 批判 は︑ 第 一に 維︑ 新 政府 登 場 後 ま︑ だま もな いこ と であ り︑ その 基礎 固は ま っ てい ず 地︑ 租 改 正作 業 の意 義 も熟 知 され てい な い現 状 で各 地 に不 満 分子 の跳 梁 が見 られ る こと 第︑ 二 には 軍︑ 隊 派 遣と も な れば 巨︑ 額 の費 用 を要 し か︑ つそ の不 足 には 外 債 をも てっ 充 てね ばな らな い こと そ︑ し てそ の償 却 の困 難 性 政︑ 府 の事 業 も 緒 着に いた ば か り であ てっ
︑ そ の努 力 を 無 にす る出 兵 には 意同 し難 い︑ 第 二 には 毎︑ 年 の貿 易 赤字 によ る金 貨 流 出 に い そっ う の拍 車 を か け る こと なに る 第︑ 四 には 国︑ 際情 勢 を考 慮す れば イ︑ ギ リ ス︑ ロシ アを 無 視 は でき な いし
︑ 日本 の出 兵 に漁 夫 の利 を 得 て南 進を 開始 す る可 能 性 が ロシ アに はあ る こと ま︑ た第 五 に︑ イギ リ スは 強 国 であ てっ し︑ かも わが 国 の外 債 発 行 の依 存相 手 でも あ る こと 第︑ 六 に︑ わ が国 の諸 外国 と の条 約 は独 立国 には ほど 遠 いも ので あ てっ
︑ そ の自 立 化 のた め の交 渉 を 控 え てい る現 状 では 出︑ 兵 は不 適切 であ ると いう も ので あ たっ
︵二 八〜 三〇 頁
︶︒ や や詳 細 に紹 介 し た のは か︑ れ の首 尾 一貫 たし 論 理体 系を 確認 す ると ころ にあ る︒ こ こに は︑ 西 郷 ら の粗 野 とも いう べき 単︑ 純 思考 と おは よ そ縁 遠 深い 謀 遠慮 が流 れ て いる 事︒ 実
︑ この 意 見 の表 明 にあ た てっ の冒 頭 には
︑
﹁凡 そ国 家を 経 略 其し 彊 土人 民 を保 守 す る には 深慮 遠謀 な く んば あら
﹂ず と し てい た ので あ る︒ ま た大 久 保 は︑ こ の論 議 の中 で︑ 列
国がわが国を対等に遇していないもとで︑朝鮮のみに非礼を咎めることの不条理を説き︑西郷が大使をつとめようというのは︑事件を進んで起こそうという意図に発するものだと糾弾した︵三一頁︶︒内治主義優先による征韓論反対は︑ 軍事筋からも主張された︒その代表として︑山県有朋の見解が引用されている︒それによれば︑西郷との最後の会談で山県が︑あと一両年もすれば兵制も固まるので︑それ以降の出兵には応じられるだろうというものだった︵三一頁︶︒
閣議での決裁に重要な役割を負った三条実美は︑病床に臥せたので︑岩倉具視が臨時に首相の位置に立ち︑征韓論︵朝鮮侵略︶を覆す方向にかたむいた︒かれは︑即時征韓論断行か否かを︑天皇に裁可させるということを示した︒が︑ これに対しては︑西郷らは︑まだ若い天皇に決断をさせることの不当性と︑従来でも天皇に責任を負わすような政治的処理は行ってこなかったはずだとして反対したのである︒しかし岩倉は︑両論対立に際しては︑その他の道は取り得ないとつっぱねた︒岩倉のこの対処は︑かれら明治日本の演出者たちが︑天皇をどのように扱おうとしていたかを示す好例であろう︑と筆者は考える︒つまり当時の支配者たちは︑自己の支配の正統性を担保する目的で︑天皇を担ぎ出したのであり︑それは圧倒的な意味を与えている︒ ヽ
さてこうして西郷は︑大久保︑岩倉らとは袂を分かったのである︒清沢は︑さらに用心深く︑次のように指摘している︒﹁内治は単に内治を目的としてはゐない︒その目がけるところは日本の膨脹にある︒その征韓論に於て新産業を代表するものが悉く反征韓論の陣営についたことが︑この抗争の本質を語つてゐる﹂︵三八頁︶︒つまり︑すでにも見たように︑征韓論と反征韓論派とは︑まったく対極的であったのではなく︑当面の情勢判断の相違であったわけである︒
﹁要するに時日と順序の問題であつた﹂︵四八頁︶︑また﹁現実主義者たる大久保が征韓論に反対したのは朝鮮や清国が怖いからではなかつた︒この大陸に手を染めれば必然に長期戦になり︑その背後勢力たる魯︹ロシア︺の利用するところとなる⁚⁚もし外国︑特に魯︑英が出て来ない対外事件あらば︑大久保はこれを利用するところとなることが明ら外交問題研究家としての清沢冽︵三o完︶一〇一
一〇 二 法経研究四四巻二号︵一九九五年︶ かで﹂あった︑と︵五一頁︶︒ ここで大久保の主張に関して︑筆者の視点から︑やや敷衛しておくと︑大久保の議論は朝鮮への出兵問題では︑極め て慎重な配慮を示していたことは︑上の紹介に明らかである︒その基本は︑長期戦の危険性と何よりもロシア等の外国 勢力の介入余地を与えることへの︑配慮ということであろう︒ところが翌年の︑後に見るいわゆる﹁台湾征伐﹂では︑ 事実上抑止しなかったとすれば︑清沢の指摘するような︑たんにいずれにしても内治主義か外征主義かは︑同根の問題 として捉えるだけでも当然十分ではあり得ない︒そこには極東における朝鮮の位置と︑台湾の位置の相違といった論点 を考慮せねばならないであろう︒ 台湾を﹁化外の地﹂として認識した清国の立場と︑日本の隣国ではあるが︑ロシア︑清国︑イギリス等の利害の錯綜 している朝鮮半島という位置が︑そうした相違を根拠づけたのではなかろうか︒むろん一八七四年から七五年にかけて の朝鮮情勢︑つまり七五年九月雲揚号派遣による江華島事件のでっち上げを契機とした︑外交戦略の意味をも考慮する ことは必要であろう︒歴史解釈の点からも︑そうした文脈の意味をも射程にいれた判断についてまでは︑フサしでの清沢 の論議には明確に示されているわけではない︒ 征韓論の解決後に問題として残っていたのは︑台湾問題とサハリン問題であった︒というのは琉球帰属問題での︑清 国とのやり取りの中で︑日本政府は︑ 一八七二年︑日清両国に属した政治体制をとっていた琉球王国を︑琉球藩として︑ わが国に帰属させたが︑大久保はこの問題の解決に当たっては︑台湾に対する方向付けが必要であると判断し︑かつ朝 鮮問題の解決には︑わが国の実力の成熟を待たねばならないとしても︑征韓論克服後という現状のもとで︑一刻も早い 台湾問題への取り組みが必要と考えていた︒そうでなければ折角︑琉球藩を設立したとはいえ︑この地の安定的維持が 困難と考えたからである︒一八七四年の﹁台湾蕃地処分要略﹂はこうした背景のもとで︑大久保と大隅重信が提出した
ものであった︒ その趣旨は︑台湾が無主の地であることが︑前年の副島種臣の清国政府との会談でも確認されており︑琉球人民︵八重山群島民︶が台湾で殺害された一八七一年の事件の報復の権利を︑わが国が保有していること︑このわが国の権利に対して︑清国がもしも琉球を清国の属国として扱っていて︑わが国の権利がないというのならば︑それが不当であること︑先方が朝貢を根拠にするならば︑それこそ悪弊であって︑一刻も早く停止せよど迫ること︑などを提起したのである︵五四頁︶︒
つまり大久保にとっては︑台湾への出兵とは︑わが国の南の領域の確定と緊密に結びあった課題なのである︒当時︑ わが国の領土として琉球が明確に含まれていたわけではなかったのであって︑この主張を行うことで︑事実上︑琉球地域が日本の領土であることを︑承認させる効果が伴ったのである︒
むろんこうした強気の外交方針を実行していく上で︑アメリカ側の支援があったのである︒一八七二年二月六日の閣議では︑木戸孝允が台湾侵攻に断固反対し︑その四月二日の日記に︑﹁人民貧弱︑専ら内政につとめ︑此人民の品位を進め︑然る後着手して︑不後の議を建つ﹂︑とした︒むろんこれに同調しえない木戸は︑参議の職を辞任した︒
清沢は︑理論的には木戸の主張が正当であると判断している︒しかし大久保は︑国内で不平士族の各地での動静を考慮すると︑前年には征韓論で反対を主張したのとはうって変わって︑台湾出兵を主張するほかないと認識されたのである︒それは佐賀の乱の平定の過程でのことであった︒陸軍中将に昇進した西郷従道が︑下野していた兄隆盛に依頼して士族を兵士として徴募して︑出動している︵六一頁︶︒
イギリスのパークス公使は︑同国を出し抜いた行動には不満で︑そもそも清国の同意をえた出兵かどうかを質している︵六四頁︶︒スペイン公使も︑台湾に隣接して同国領のフィリップ島があるので︑まさか日本が台湾を支配しようと外交問題研究家としての清沢冽︵三・完︶一〇三
一〇 四 法経 研究 四四 巻二 号
︵一 九九 五年
︶ は なし い のだ ろう と 表︑ 明 し てい る
︵六 五頁
︶︒ こう たし 台 湾遠 征 の方 針 は︑ 東 京 の外 交 団 によ る抗 議 の的 とな たっ
︒ そ こ で四 月 一九 日 には 長︑ 崎 あに たっ 西 従郷 道 対に し て出 動 延期 命令 が通 報 され た︒ かし 西し 郷 は と︑ も に同 地 の台 湾蕃 地 事務 局 に たい 大隈 重信 の説 得 にも かか わ ら ず 命︑ 令 に聞 く耳 を も たな か たっ
︵七
〇頁
︶
︒ こう し た状 況 の下 で︑ 大久 保 は佐 賀 の乱 の平 定 後 帰︑ 京 し て間 も な く
︑ 西郷 大︑ 隈 ら に事 情 を聴 取 す る くべ 長︑ 崎 に出 張 し た
︵七 二頁
︶ し︒ かし 大 久保 の長 崎到 着時 点 には す︑ でに 大部 分 の 軍 隊 が出 動 し てい た の であ たっ
︒ こ の局 面を 受 け て︑ 大久 保 の 外﹁ 交家 と し ての 真 骨頂
﹂ 現が れ とる うい
︵七 三頁
︶
︒ ま た他 方 では
︑ メア カリ 公使 ビ ンガ ムが
︑ メア リカ 汽 船を 使 てっ の出 兵 には 抗 議 す ると し て︑ 外 務 卿寺 島宗 則 に申 し 入 れを 行 てっ いる が
︑ そ の中 で︑
﹁国 と 云 ふも のは 容 易 に戦 闘 不は 可致
︑
⁚⁚ 貴 国 独は 見を 以 て政 治を 被致 候 に付
・・⁚ 貴 国 は成 丈 泰 平 にし て人 民 を安 堵 せ じめ 長︑ く富 優 なら しめ 度 兵︑ 用を ゆ れ は外 国 は御 国 の為 め には 不成 却︑ て虚 に乗 じ 己︑ れ が利 を謀 る へし 夫︑ 故 兵 を台 湾 に遣 る事 は不
﹂宜 と
︑ 一般 的 に述 べ て︑ 直 接 には 台湾 出兵 に関 し て︑ 明瞭 な反 対 意 思 を 表 明し ては いな いが 間︑ 接 的 に︑ こ の機 会 を イギ リ スが 利 用 す る危 険性 を 示唆 し た ので あ たっ
︵七七 頁
︶︒ 寺 島 外 務 卿 に宛 てた 書 簡 で︑ イギ リ ス公 使 パー ク スも 清︑ 国 が台 湾 を自 国 の領 土 と考 え てい て︑ 日本 の主 張
︵﹁化 外 の地
﹂ と 清 国 が 副 島 に述 べた の で︑ 清 国 領土 では な いと の判 断 を行 てっ いた のが
︑ わが 国 の見 解 であ たっ
︶と 矛は 盾す る こと を 指 摘 し た
︵七 八頁
︶
︒ さ て大 久 保 は︑ 大 重隅 信 大︑ 木 喬任 とと も に︑ のこ 事件 に対 し ては 後︑ 始末 が完 了 し てい な いも と で の撤 兵 には 反 対 し 強︑ 硬 論 を主 張 たし
︵一
〇 一頁
︶ む︒ ろ ん大 久 保 が 絶︑ 大 な権 力 を持 つ以 上 か︑ れ の見 解 政が 府 の方 針 と な たっ
︒ こ の方 針 に基 づ い て︑ 赤松 則 良海 軍 少将 と福 島九 成 少 佐 の間 で︑ 作戦 が検 討 され てい る︒ 清 沢 の柳 原 前光 公 使 の手 記 か ら 引の 用 によ れば 北︑ 京攻 略 を も辞 さな いと いう 強 硬 方針 であ たっ こと が分 か る
︵一
〇 三頁
︶
︒
こう し た近 代 初 期 の日 本 交外 の重 大 な局 面 に関 し ての 検 討 は 筆︑ 者 には そ の後 の研 究 では 意外 にも 捨象 さ れ てい る よ う に思 わ れ る
︒ たし か 台に 湾 題問 が 現実 的 には 重︑ 大な 国 家 的危 機を も たら し わた け では な い の で︑ 外 交史 研 究 の世 界 でも 重 視 さ れ て こな い のは あ︑ る意 味 では 理解 きで るが と︑ は いえ 当時 の政 府指 導層 の判 断 と姿 勢 を示 す と いう 意 味 で は︑ 決 し て捨 象 され よて わい け では な い︒ こ のよ う に軍 事 的 な強 硬論 とと も に︑ 政治 的 にも 台湾 を清 国 に返 還 し ても よ いが
︑ そ のか わ り に︑ 談 判 の
﹁心 得﹂ に示 し てい るよ う に︑ 賠 償金 を と ろう と いう の であ る
︵一
〇 頁四
︶
︒ ただ し
﹁初 ヨリ 償金 ヲ欲 ス ノル 色 フ ラア ハス ヘカ ラ ス﹂ と いう の あで る
︵一
〇五 頁
︶
︒ 清 沢 は︑ これ ら の動 向 のう ち に︑
﹁明 治七 年
︑ 日本 は明 治維 新 を続 る内 証が な 片ほ が つか な い間 に︑ 対外 的 には 既 に 優 に支 那 を圧 迫 す る実 力 を す有 る のを 見 る べき
﹂だ
︵一
〇七 頁
︶と 総 括し てい る︒ うこ し た外 交 戦略 が大 久 保時 代 の幕 開 け でも あ たっ こと に注 目 し てお く きべ であ ろう
︒ そ の後 大︑ 久 保 は︑ 清 国 戦が 争準 備体 制 にあ るこ とを 考 慮 し て︑ 政府 要人 の清 派国 遣 を検 討 たし そ︒ れ には 大 久 保自 らが
︑ か てっ 出 以る 外 には な いと いう こと にな る
︵一 二一 頁
︶ 清︒ 沢 は大 久 保 のあ り方 で︑ まず そ の責 任感 の強 さ︑ 対 外 関係 の推 進 のた め に︑ こ の場 合 では 台 湾 問題 の処 理 に関 し て︑ 各国 の理 解 を得 るた め の使 節派 遣 の日 配 りを たし か な も のと 高 く 評価 し てい る
︵一 一四 頁
︶︒ も とっ も︑ 大久 保 が外 国出 張 す ると な れば 政︑ 府 の維 持 が困 難 とだ の伊 藤博 文
︑ 大 隅 ら の批 判 根も 強 く そ︑ こ で対 処 策 と し て山 有県 朋と とも に︑ 黒田 清 隆 伊︑ 地 知貞 馨 を参 議 に任 命し た
︵一 三 ハ頁
︶︒ と ころ で︑ 清 国 と の談 判 決が 裂 し て宣 戦 布告 を必 要と し た場 合 の方 策 に関 し ても 大︑ 久 保 手は 抜 か りな く 清︑ 国 に向 か う前 に決 定 し てい る︒ これ も ま た清 沢 の賞 賛 の的 であ たっ
︵一 三二 頁
︶ 果︒ たし て こう し た見 解 表明 は 指︑ 導 者責 任 感 覚 の指 摘 と とも に︑ 一九 四 年二 月五 と いう 時期 に刊 行 され て いる 本書 の︑ じ つは 厳 し い日 本 の第 二次 大 戦 指導 のへ 批 判 の意 図 込が め ら れ てい たと い てっ 過言 では なか ろう
︒ つま り清 沢 の認 識 は︑ 既 に検 討 o紹 介 し た よう に︑ 盟同 ホ日記
﹄ 外交 問題 研究 家と てし の清 沢冽
︵三
・完
︶
一〇 五
一〇 六 法経 研究 四四 巻二 号
︵一 九九 五年
︶ に見 事 に述 べ て いる と おり 見︑ 識 をも てっ 外交 政策 を推 す進 る立 場を と てっ いた のは 少︑ なく と 太も 平洋 戦争 期 には 皆 無 あで り 軍︑ 部 指 導 のな す がま ま に流 さ れ し︑ かも 軍指 導部 にも 自覚 化 され た責 任意 識 見は ら れず 官︑ 僚 組織 も ま た積 極的 に責 任 を と ろ うと なし か たっ ので あ る︒ こう たし 無責 任 状況 を か︑ つて 丸 山真 男 天は 皇 制 の
﹁無 責 任体 系
﹂ と理 解 し た︒ す べ ては 天 皇 に発 す る権 力 構造 が結 局 の所
︑ それ ぞれ の持 ち 分 の責 任 関係 をす べて 天 皇 の命 によ とる うい わ け であ る︒ それ は基 本 的 に東 条 政 権 の独 裁 によ てっ 刻︑ 印 され た ので も あ たっ
︒ あ る意 味 では 明︑ 治 初期 天 皇制 国家 と は︑ 未 だ権 力構 造 のあ り方 が未 知 数 あで たっ ため に︑ いわ ば革 命 第 一世 代 と し て の大 久 保 伊︑ 藤 ら が 権︑ 力 維持 のた め の責 任 感覚 を持 たざ をる 得 な か たっ と いう 状況 にあ たっ ずは であ る︒ そ の点 から す れば 清︑ 沢 の太 平 洋戦 争 期国 家官 僚制 な いし 軍 事官 僚 制 の無 責 任を 論 じ た のは
︑ 一面 では 積 極 的意 義 持を ち つつ も 他︑ 面 では 明治 初 期権 力 構造 を不 当 に高 く 評価 す る 危 性険 も あ ろ う︒ む ろ ん清 沢 の視 点 はあ くま で当 該 期 の権 力 構造 批判 に重 き がお かれ てい た こと は いう ま でも な か ろう
︒ さ て清 国 と 日本 の対 立点 は︑ 清国 が 湾台 を
﹁属 地
﹂と し て いる のに 対 し て︑ 日本 は これ を
﹁無 主 の地
﹂と し てい る こ と
︑ こ こか ら 日本 の台 湾 征﹁ 伐﹂ 清は 国 か ら介 さ入 れる 根 拠な とし いう こと にあ る
︵一 二六 頁
︶
︒ 大 久 保 の清 国 側 と の交 渉 にお い ては 大︑ 久 保 は︑ 清国 が これ と い てっ
︑ 属﹁ 地﹂ と うい ほど の施 策 を講 じ てい な い現 実 か ら︑ 日本 と し ては
﹁無 主 の地
﹂ と判 断 せざ るを 得な とい 強 硬 に主 張 し て いる
︒ それ は︑ 清 国 側 の︑ 清 国 広は 大 な地 であ るか ら そ︑ の施 政 の実 質 を講 じ てい な いと し ても 当然 と いう に近 いほ ど の表 明 に対 し て の︑ かれ の対 応だ たっ ので あ る 清︒ 国 側 は せ いぜ い のと ころ 台﹁ 湾府 誌﹂ の存 在を あげ る にと まど てっ いた
︵一 三七
〜 一三 八頁
︶︒
︐ サ﹂ では 大久 保 の積 極的 論 陣 と清 国 側 の消 極的 論理 と が明 瞭 であ る︒ 興 味 あ る のは
︑ 三度 目 の会 談 で︑ 中 国 側 が つい に日 本 の
﹁無 主 の地
﹂ 論を 反 駁 し て︑ と く に前 年 の 一八 七 年三 三月
︑
副 島 種 外臣 務卿 が清 国 と の間 で締 結 し た 日清 修 好条 規 にそ てっ 相︑ 互 に固 有 の領 土 を侵 略 せず そ︑ れ ぞ れ の国 の慣 習
︑ 法 規 等 の相 違 関に し て︑ 不干 渉
・自 主権 の擁 護 を うた てっ るい こと に照 ら し て日 本 側 が協 定 違反 あで ると した さ︒ ら に︑ と く に日 本 万が 国 公法
︵西 欧 起源 の国 際法
︶ 一点 張 り で︑ 清 国 に態 変度 更 を迫 たっ に つい ては 清︑ 国 には 清国 の流 儀 が あ り︑ 承 服 でき な とい 対応 し た︒ し かし 特 に後 者 の点 に関 し て︑ 清 沢 は︑ 万﹁ 国 公法
﹂ をも てっ し ても 清︑ 国 側 十が 分 に対 処 でき た ずは だと 論 じ てい る のは
︵一 四
〜四 一四 五 頁︶ 清︑ 沢 つ公 平 な視 点 示を し てあ まり あ ろう
︒ そ し て︑ つい には 清国 側 は︑ 年昨 一八 八 三年 の同 国が 副 島種 臣 に与 えた と︑ 大 久保 の うい
﹁無 主 の地
﹂ と うい 議論 に 関 し ても 公︑ 式 の判 断 では あ り得 ず︑ も もし そう だ とす れば 文書 によ てっ 回答 し て るい べき とこ あで たっ のだ と 反︑ 駁 し て︑ ゆず なら か たっ
︵一 四九 頁
︶︒ も とっ も双 と方 も に︑ 戦一 交 え ると うい 判断 をも つに は いた てっ は いな い︒ と い う のは 大久 保 の三 条実 美 宛に てた 交渉 経緯 に関 す 書る 簡 でも 交︑ 戦 す る には 諸︑ 外 国 名に 分 が立 た な とい の認 識 示を し て たい か ら あで たっ む︒ ろ ん それ ば かり か 台︑ 湾駐 屯軍 大が 量 の熱 等病 の病 人 を発 生 させ た と うい 事情 も 大︑ 久保 の認 識 では 考 慮 さ れ て たい の であ る
︵一 五
〇〜 五一 一頁
︶
︒ さ 大て 久 保 は︑ こ の清 国 と の交 渉 に当 た り 他︑ 国 の理 解 を得 る ため に︑ メア カリ には ル
・ジ ャ ンド ル
︵李 仙得
︶
︑ フ ラ ン スに ボは ソア ナ ー ド︑ イギ リ スに はピ トッ マン を それ ぞれ 説 明 させ 要る 員 と し て活 用 し て いる
︵一 五 五頁
︶︒ 大 久 保 の日 記 には 今︑ 回 の事 態 で初 め てイ ギ リ ス側 が 日本 の国 家 威的 権 を 認め
︑ かれ そが れ に感 服 し て いる 様子 がじ る され
︑ そ の際 に︑ イギ リ ス公 使 ウ エー がド 今︑ 後 の日 本 の課 題 と し て︑ 中 国 と は和 を 結び 朝︑ 鮮 に対 し て︑ 手﹁ ヲ出 ス ヘシ
﹂ と 述 べた とこ し︑ かも それ そこ が
﹁上 策
﹂ であ ると し た こと を︑ 記述 し て いる
︒ 清 沢 は
︑ こ のよ う 引に 用 す る こと で︑ わ が国 明治 期 の外 交政 策 の基 調 を くよ 捉 え てい よる う に︑ 思わ れる 清︒ 沢 の認 識 を さら に考 え てみ ると
︑ イギ リ スは 南 方 おに いて 紛 を争 起 こさ れ ては 困 る の で︑ 本日 に朝 鮮 へ目 を 向 け さ せ る とこ
︑ 交外 問題 研究 家と して の清 沢冽
︵三 完o
︶
一〇 七
一〇 八 法経 研究 四四 巻二 号
︵一 九九 五年
︶ こ こ にね ら いが あ り︑
﹁日 英 同盟 の萌
﹂芽 を見 る立 場 であ たっ
︵一 五七
︶頁
︒ た かし に︑ イギ リ スは 一九
〇 二年
︑ 日本 と同 盟関 係 には いる が︑ そ の際
︑ 日本 が韓 国 にお てい 影 響 力を 行使 す る こと に関 し ては
︑ イギ リ スが 承認 を与 え︑ 他方
︑ イギ
リ スの 揚子 方江 面 で の影 響 力行 使 に関 し ては
︑ 日本 側 が承 認を 与 える と うい 内 容 を 含 ん でい た の であ る︒ こ の同 盟関 係 は 日清 戦争 を受 け た極 東情 勢 への 両 国 の対 応 であ とる 同 時 に︑ じ つは イギ リ スの 東 アジ ア方 面 への 影響 力 の低 下 と 本日 の地 位 の相 対的 上 昇 とも 絡 んだ 意 義を も つも のだ たっ ので あ る︒ 結 局 大︑ 久 保 が ねら たっ のは 清︑ 国 から 償賠 を金 引 き出 す こと あで たっ 要︒ す る にわ が国 の出 兵 は
︑
﹁蕃
﹂民 の
﹁蛮 行
﹂ か ら わ が国 公 民 の生 命 を 衛防 す る とこ にあ たっ の で︑ そ の作 戦 のた め のわ が国 軍 のぼ く大 な経 費 負担 を賠 償 せ よと うい わ け であ る
︵一 六 二頁
︶︒ し かも 清国 側 が こ の地 を
﹁属 地﹂ と うい のだ と すれ ば
︑
﹁蕃 民﹂ の行 為 に関 し て措 置 を 執 る べき だと いう
︒ これ には 清国 側 も
﹁蕃
﹂民 への 本日 の対 処を 否定 し てい る の では な いと いわ せ てい る︒ 興味 あ る の は 大︑ 久 保 の奮 闘 で︑ 清国 に対 し て相 当 の譲 歩 を図 ら せな がら な︑ お決 着 が着 かな いた め に︑ 国内 の旧 武士 団 に決 起 の 雰 囲気 が各 地 で醸 成 され た
︹義 兵 の志 願者 続出
!
︺と いう 事 実 であ ろう
︒ こう し た事 実 の指 摘 には 清︑ 沢 は当 時 の新 聞 報 道等 に依 拠 し 引︑ 用し て いる
︵一 六五 頁
︶
︒ のこ 交 渉 の応 酬 の中 で︑ 清 国側 は台 湾 への 日本 軍 の出 動 を義 挙 と 認め すは るが ま︑ た 本日 が 台︑ 湾 を 清国 属地 と し て 認 識 し て いな か たっ こと に関 し ても 理︑ 解を 示す け れど も
︑ だか ら と.い てっ
︑ 日本 軍 の出 動 への 賠償 金 支払 いを 行 とう いう の では 国︑ 民 に いい わ けが 立 たな い︑ 撤兵 後 犠︑ 牲と な たっ 日本 国民 に対 し て の慰 謝
︹撫血
︺支 払 い でど う かと い う判 断 を 示 し︑ 他 方 大︑ 久保 そは れ では 国民 を説 得 でき な い︑ 何 より も
﹁撤 兵
﹂後 と うい のが 問 題 だと いう わけ で不 調 に終 わ る
︵一 六 七
〜 ハ八 頁
︶
︒ こ こ に面 白 い のは
︑ 日清 両 国 とも に︑ そ の国 民 への い わい けが 成 り立 つよ うな 外 交 交渉 の結 果 を期 待 し てい ると ころ
であ ろ う︒ と ころ で︑ 日清 両国 が
︑ こ のよ う な いい わけ を 必要 と した よう な そ︑ れぞ れ の国 の政 治 状況 あが たっ の あで ろう か︒ あ る いは む し ろ
﹁国
﹂民 を出 す こと によ てっ
︑ それ ぞれ に有 利 に こと を運 ぼ うと す る意 図 があ てっ のこ と では な いだ ろ うか
︒ じ つは それ 程
﹁国
﹂民 の パ ワー があ たっ と は考 え難 い ので ある
︒ む ろん それ ぞ れ の支 配層 内 部 の統 合 に と てっ 必要 な対 応 では あ たっ ろう
︒ この 後 者 の点 こに そ力 点 あが たっ と考 えら れ る︒ 清 国 側 は ま たし ても
﹁属 不 属﹂ の問 題 を考 え るが も︑ しも 本日 の いう よう な
﹁不 属﹂ の地 と いう ので あ れば 当︑ 然 こ の地 に兵 を出 し た 本日 が賠 償 を 求め る とこ の不 当性 をも とっ 強 す調 べき だ たっ ので はな いか と いう のが 清︑ 沢 の論 調 で あ たっ
︵一 七
〇頁
︶
︒ こ こに かも れ の合 理精 神 不︑ 当 な論 理 によ る外 交方 針 に関 し ては
︑ そ れが わ︑ が国 のも の であ ろ うと な か ろう と 容︑ 認し な とい いう 立場 が 見 られ る であ ろう 大︒ 久 保 は︑ こ よの う に正 面衝 突 と破 局が ま てっ いる と は と う てい 予 想 し て いな か たっ 第︒ 一回 の九 月 王 ハ日 から 一〇 月 二三 日 の第 七回 ま でに 及 ぶ交 渉 過程 で︑ 最 終 局 面 でも
︑ 大久 保 の主 張 に は︑ 矛盾 が あ ると 筆者 は考 え る︒ それ は︑ 台湾 を清 国 の
﹁属 地
﹂ と みな し て いな いこ と であ り そ︑ の統 轄下 にな いと い てっ いる ので あ る
︵一 七
〇頁
︶︒ 以上 を 通 じ て清 沢 は︑
﹁大 久保 の外 交官 と し ての 真 価 は そ︑ の議 論 周の 到 と共 に︑ か れ ねの ば り にあ る︒ か れ は尽 く す べき は総 べて を 尽 さな く ては やま な い﹂ と 評︑ し て いる
︵一 七 一頁
︶︒ かし 果し たし てそ う であ ろう か︒ 前段 に てら し て清 沢 の大 久 保 評価 は︑ や や過 大 にす ぎ な い であ ろう か
︒ 会 談決 裂 後
︑ イギ リ ス公 使 ウ エー がド 調停 には い たっ
︒ 一〇 月 二五 日 の大 久保 と の会 談 であ る︒ かれ は調 停案 を提 示 し て︑ 大 久 保 の同 意 を取 り付 け る︒ それ は つ一 には 日︑ 本 の賠 償 要求 金額 引を き下 げ て︑ 清 国 の
﹁撫 血
﹂ のい わい け が 通 る よう にし ま︑ た 日本 の出 兵を 義 挙 と し て同 意 さ せる こと に主 眼 が置 かれ た
︵一 八 二頁
︶︒ ウ エー ド の認 識 は︑ 清日 間 の戦 争 の始 ま りが 諸︑ 列強 の介 入 の機 会 を与 え
︑ ひい ては 戦 争終 結 の可 能性 を奪 い︑ ま た 日本 の進 展す る文 明 開化 の 外交 問題 研究 家と てし の清 沢冽
︵三
・完
︶
一〇 九
法経 研究 四四 巻 二号
︵一 九九 五年
︶ 一 一〇 筋 道 を損 な うと うい も の であ たっ げ︒ んに 日清 交 渉 の決 裂 でド イ ツ側 は︑ 好 感を も てっ 迎 え た こと が し られ てい る ま︒ た ウ エー ド イの ギ リ ス外 相 に宛 てた 書 簡 よに てっ 当︑ 時 の欧 米諸 国 は
︑ 日本 が進 歩 代を 表 し 清︑ 国 が 反動 的傾 向 を有 す るも のと し て︑ 本日 を支 持 す る姿 勢 のあ る こと を伝 え て いる
︵一 八七 頁
︶
︒ 一〇 月 二五 日︑ よう や く清 国駐 在 イギ リ ス公 使 ウ エー ド の仲 介 によ てっ
︑ 日清 間 の交 渉 が妥 結 し た︒ 大久 保 の問 題 解 決 に当 た てっ の観 点 は︑ 第 一に 大︑ 義 名分 国︑ 内 では 開戦 論 傾に く のを いか にし て妥 結 が有 利 であ るか を 示す こと 第︑ 二 に︑ 金 額 の多 少 の問 題
︵償 金 五〇 万 両︶ 第︑ 三 には
︑ イギ リ スの 仲 介 の いか ん であ たっ
︒ そし て最 後 には 撤︑ 兵 問 題 あで ると いう
︵一 九 八頁
︶ 駐︒ 日 イギ リ ス公 使 パー ク スは
︑ 本日 の
﹁勝 利﹂ に関 し て︑ 満不 あで たっ と︒ いう のは 第 一 に︑ 老 大 国 であ る清 国 が そ の正 当性 にも 拘 わら ず 最︑ 若も い国 家 であ る日 本 に譲 歩 し た とこ 第︑ 二 には 償︑ 金 を獲 得 し な く ても 和 平 を喜 ん だ はず の日 本 に︑ 償 金支 払 いが 決 ま たっ こと
︑ しか も こ の点 日︑ 本自 身 が請 求 権 なの こい と を知 っ てい た ずは だと いう ので あ る︒ だ が と︑ は うい も の の戦 争 にな らな か たっ こと を喜 ぶ きべ こと と たし
︵二
〇六 頁
︶︒ 北 京 在留 の外 国 人 も そ の多 く は︑ 台湾 への 日本 軍 の出 兵 には 分充 な根 拠 な とし み て いた ので あ る︒ つま り琉 球人 被 害 対に 処 す る に軍 事 行 動 が 必要 であ たっ ので なは く︑ この 題問 は︑ 基 本 的 に平 和 的 な外 交交 渉 のテ ー マた る べき であ たっ と うい ので あ る︒ そ れと とも に︑ 琉 球 の帰 属 問題 自体 が 清︑ 国 か 本日 か で問 題 が あ る ので あ てっ 何︑ れか と いえ ば清 国 分に あが ろう と 見 て いた
︒ そ の 一方 で︑ か れら は自 身 の利 害 のた め に︑ こ の戦 闘 によ てっ 清 国 が開 国 す る こと を期 待 し てい た ので あ る
︵二
〇六
〜
〇二 七頁
︶ そ︒ し て︑ 清沢 は︑ 歴史 家 モ ー スの 見解 を最 後 に引 用 し て いる が
︑ これ 清は 沢 自 身 の考 え方 でも あ たっ ろう
︒ いわ く︑ この 台 湾出 兵事 件 は︑ 第 一に
︑ 日本 自身 が無 準 備状 態 で出 兵 し つつ も︑ そ の難 局 か ら脱 出 でき た こと 第︑ 二 には 清︑ 国 の実 態 が世 界 に知 ら れた とこ 第︑ 二 には 清︑ 国 が これ ま で の
﹁附 庸国
﹂ を放 棄 す る契 機 と な たっ こと 以︑ 上 の三 点 であ たっ
︵二 一〇 頁
︶︒
清 沢 のこ うし た整 理 によ てっ 台︑ 湾出 兵 問題 の アジ ア近 代 史 おに け る位 置を 見 る こと が でき とる 同時 に︑ 前 年 には 韓 国 出 兵 に反 対 し て いた 大 久保 と えい ども 国︑ 内 政治 情 を勢 考 慮 し て台 湾 出 兵 に対 処 せざ るを 得 なか たっ こと の意 味 が
︑ 確 かめ られ る の であ る 先︒ にも 紹介 し たよ う に︑ 大 久保 が長 崎 に出 張 し た時 点 では す︑ でに 出 兵 軍 の第 一の 船 は︑ つま り西 郷 従道 台は 湾 に向 け て出 航 し てい た ので あ り そ︑ の限 り では 大 久保 が 航 行中 止措 置を と こる と いは か にも 困難 あで っ た ろ うと いう を面 指摘 し てお べき であ ろう と︒ いう のは 高最 責 任者 の 一人 とし て考 えれ ば と︑ う て い中 措止 置 がと れな か たっ あで ろう から であ る︒ 大 久 保 は 清︑ 国 での 五 二日 及に ぶ滞 在 を経 て︑ 和議 を 締結 し︑ 一一 月 一日 北︑ 京 を発 たっ
︒ そ の時 の 日記 よに れ ば
︑
﹁鳴 呼 如 此大 事 二際 ス︑ 古今 希 有 ノ事 ニシ テ︑ 生 涯亦 無 キ所 ナリ
﹂ と し てい ると ころ にも か︑ れ が い か に神 経 を 使 う 取 り組 みを 行 てっ たい かが 示 され てい よう
︵二 一七 頁
︶︒ 帰 路 ど︑ の程 度 の意 義 あ る会 談 かは 測 り が たい が 清︑ 国 側 要の 請 も あ てっ 天︑ 津 で直 隷総 督 李鴻 章 に会 見し
︑ そ の会 談 の中 で︑ 双方 の資 源 を披 渥 し つつ
︑ 本日 銅は を提 供 し 清︑ 国 は 煤 炭 を 本日 に提 供 きで る︑ ま さ に日 清提 を携 必要 とす ると 主張 あし てっ るい
︵三 二〇 頁
︶ ま︒ た こ の交 渉 結終 を岩 倉具 視 はも と よ り︑ 大久 保 と見 解 を異 にし て︑ 郷里 山 口に 帰 てっ いた 木戸 孝 允 も 国︑ 家 経営 の上 で の成 果 と し て率 直 大に い に歓 呼 をも てっ 迎 え 当︑ の大 久 保 に後 書に 簡を 宛 て てい る こと が記 され てい る︒ 清 沢 は こ の木 戸 の態 度を 国家 に対 す る 公 平 無私 の態 度 と好 感 をも てっ 捉 えた
︵三 二 四頁
︶︒ む んろ 外対 硬 派 に属 す る人 々か らは 非難 が続 出 たし 非︒ 難 の 一つ には 征︑ 韓論 に際 し ては 国︑ 家 体制 の整 備 なが いか とら し てい た のに 翌︑ 年 には 台 湾 に軍 進を め る不 条 理を 捉 え ての こと あで たっ
︒ そし て締 結 たし 和 議 本が 来 聞︑ く きべ では な い清 国 の主 張 を取 り入 れ とた の硬 派的 非難 あで たっ
︒ そう たし 立場 から は五
〇万 両 と いう 少 額 撤で 兵 を決 め たと いう こと なに る
︵二 二六
〜 二 七二 頁︶
︒ 外交 問題 研究 家と して 清の 沢冽
︵三
・完
︶
一一 一
一
一二
法経 研究 四四 巻 二号
︵一 九九 五年
︶ 大 久 保 とに てっ は 部︑ 下 に多 く の強 硬 派を 抱 え てい たた め に︑ 彼 をら 意識 し た取 り組 みを し てい た こと が 指︑ 摘 さ れ てい る 例︒ えば 北京 にあ たっ 樺 山資 紀
︵初 代台 湾 総督 海︑ 軍 大将
︶が そ の代 表者 であ てっ 清︑ 沢 は
︑ そ のた め 樺に 山 の 日記 を駆 使 し て︑ 大 久保 と の関 係 を詳 述し てい る︒ 樺 山 が恐 れ た のは 何︑ より も 清 国と の妥 協 であ たっ と︒ ころ が台 湾 には 風 土 病 が 多 く︑ 将兵 が 罹病 し て いる 事実 も あ てっ そ︑ れを 知 り つ つも 樺 山 は 出︑ 兵 推進 を 強︑ 調 し て いた
︵二 二八
〜頁 二 三 頁四
︶︒ 大 久 保 が 信頼 し て いた 黒 田清 隆 に宛 てた 一〇 月 三 一日 付 の長 文 の書 簡 を み ると 大︑ 変 興味 あ る こと を 主 張 し て い る
︒ それ は 清︑ 国 が賠 償金
〇五 万両 のう ち
︑
〇一 万 を両 直 ち に支 払 たっ 上 は︑ 台 湾派 遣 軍 を即 座 に撤 兵す べき こと を 主張 し
︑ じ つは 日清 両国 の平 和的 国 交関 係維 持 のた め の必 須 の条 件 と考 え てい た こと あで る︒ そ の こと は 日︑ 清 両国 の信 義を 強 化 す る道 であ り か︑ つ欧 米 か もら 日本 の台 湾出 兵 を義 挙 と 認識 さ せる 条 件 でも あ ると 論 じ てい る
︵二 三八
〜 二 三九 頁
︶︒ そ の上 で︑ 大久 保 は
﹁極 密 副啓
﹂ と し て︑ 別 の文 を 与 え てい る︒ そ こで は 一〇 万両 の 撫﹁ 血﹂ な るも のが た︑ んな る い わい け あで る こと は 国︑ 際 的 には 知 れら てい る ので あ るか ら
︑ こ の金 額を も てっ 死 者家 族 への 扶 助金
︑ 将 兵 等 の死 者
︑ 功 労 者 への 給付 金 とし て設 定 す る に十 分 であ るか ら 残︑ る四
〇万 両 に つい ては 清︑ 国 返へ 却す べき だと し てい る︒ そ の 理 由 と し て は︑
﹁支 那 政府 我︑ 意 ヲ意 ト シ︑ 我為 スト コロ ヲ為 シ︑ 一蕃 民 開導 ノ用 航︑ 客 ノ安 寧 ヲ護 スル ノ資 二充 テ ハ︑ 聖 慮 二於 満 足 ア ラセ 玉 フ ハ疑 フ可 カ ラ
﹂ス と いう の であ る︒ そし て文 明諸 国 が
︑ まい だ か つて 実施 し た とこ のな 賠い 償 金 返 却 が 広 く支 持 を受 け る こと にな ろ うと いう わけ であ る
︵二 四 一頁
︶︒ も とっ も 四〇 万 両 の返 却 は︑ 根 拠不 明 なが ら︑ 実 施 され ぬま ま に終 わ てっ いる と いう
︒ さ て︑ 外﹁ 政 家 と し て の大 久 保 利 通﹂ の
﹁存 在 理由
﹂ 何は であ たっ か︒ 清沢 は論 じ る︒ 台湾 出兵 の意 味 が わ︑ が国 の 南 に伸 び る ため の
﹁一 段階
﹂ あで てっ
︑ 一八 七 四年 の七 月 に 琉は 球 藩を 内務 省 所 管 とし てい る︒ そも そも 琉球 の島 民 ヘ
の危 害 を 理由 と し て台 湾出 兵 し た こと 自 体 が 暗︑ に琉 球 の清 国 か ら の分 離 と
︑ 日本 のへ 帰 属 を意 味 す るも ので あ たっ と えい よう
︒ これ は 本日 政府 が政 府法 律顧 間 ボ アソ ナー かド ら得 た七 五年 月二 の法 解釈 であ る︒ ま た台 湾 問 題 の処 理 は
︑ 欧 米 列強 が 本日 を見 直 す き かっ とけ な り︑ 横 浜 から の外 国 軍隊 の撤 兵 をも た らし た︒ そし てま た清 国 の︑ 実 は弱 体 な 内 情 を 世界 に伝 え る こと にも な たっ
︒ さら には
︑ フラ スン 人 歴史 家 クの ー ラ をン 引 用し て︑ 清沢 は︑ 大久 保 の執 政 が封 建 制 度 か ら中 央 集 権 国家 を築 く歴 史 的役 割 を果 たし とた 指 摘 す る
︵二 五 頁四
︶
︒ C 本 書 の強 調点 以上 詳︑ 細 に清 沢冽 の著 書
﹃外 政家 と し て の大 久 利保 通﹄ の内 を容 紹介 し た︒ そ こ で清 沢 展が 開 たし 書本 の特 徴 何は であ ろ うか ま︒ ず 記述 方法 に関 し て極 め て特 徴 的 な のは 第︑ 一に 原︑ 資料 徹に 底 し て依 拠し て︑ か つ資 料そ のも のに よ っ て歴 史 を 語 せら ると うい 徹︑ 底 たし 歴史 家 清沢 冽 イの メー をジ 焼 き付 けた こと あで ろう 第︒ 二 には 大︑ 久保 利通 イの メー をジ 大︑ くき 変 革 たし こと では なか ろう か 大︒ 久 保を 論 ず る場 合 や︑ りは そ の内 務 卿大 久保 の近 代 日本 造創 者 と し て の 役 割 殖︑ 産 興業 の功 労 者 とし て の役 割 が 要 であ てっ そ︑ こ では よお そ外 交家 と し て の位 置 けづ は
︑ 般一 的 にも 薄 とい い わざ るを え な い であ ろう
︒ それ を 清︑ 沢 は本 書 で︑ 立派 な内 政 家 は同 時 に立 派な 政外 家 とし て︑ 役割 を 果 すた 典 型 と し て︑ 大 久 保 を描 き き たっ と うい こと なで かい 第︒ 三 に︑ 清 沢 の︑ ま さ に徹 底 し た国 関際 係 究の 明 の立 場 堅を 持 し た とこ あで ろう 清︒ 沢 は︑ 大久 保利 通 を検 討 す る本 書 おに いて 文︑ 字 おど り 外︑ 交問 題研 究家 と し ての 力 量を いか んな く発 揮 し とた い てっ も よ いの では なか うろ か
︒ 本 書 の内 容 即に し て の特 徴 をあ げ てお こう
︒ それ 第は 一に 明︑ 治 初 期国 家 と いう まい だ権 基力 盤 が充 分 でな 時い 期 に お い て︑ そ の力 を 十分 には 認識 得し な い清 国 と対 峙 し わた が国 外交 が 独︑ 力 でど の程 度 の力 量 を発 揮し 得 たか を 示 し て 外交 問題 研究 家と てし の清 沢冽
︵三
・完
︶
一一 一一一
一一 四 法経 研究 四四 巻二 号
︵一 九九 五年
︶ い る︒ 第 二 には
︑ そ の力 量 発揮 に際 し て︑ 指 導者 と し ての 大 久保 が意 識 し 続 けた のは
︑ ア メリ ヵ
︑ ィギ
リ スと の連 携 で あ り︑ そ の力 を借 り る こと であ たっ し︑ かし 第 二 に︑ そ のこ と 全は く従 属 的 にと いう こと では な く 大︑ 久 保 の断 固 た る 指 導 性 の発 揮
︑ これ こそ が原 動 力 であ たっ とこ を いか んな く提 示 し た︒ 第 四 に︑ 本書 の つ一 の チモ ー フと も いう べき 内 容 とし て︑
﹁明 治 の政 治 家 は か つて 責任 を回 避 す る こと を知 なら か つた 内︒ 政 家 のか れ は 一転 し て兵 馬 の権 を握 る司 令 官 と な つた
︒ よき 内 政家 は︑ よき 外 政家 であ るご と く に︑ かれ まは た よき 軍人 であ つた
﹂ と いう 言 葉 端に 的 に示 され て いる よ う に︑ 近代 の草 創期 の政 治家 責の 任感 覚 の強 さを 指 摘す る こと によ てっ 逆︑ に本 書 の刊 行時 期 の政 治家 の無 責 任 さを 告 発 す る態 度 であ ろう 第︒ 五 に︑ 注意 し てお い てよ い のは 大︑ 久保 は台 湾出 兵 の正 当 性 の如 何 に関 し て充 分 に考 慮 し つ つ︑ 事 態 を捉 え て いる こと であ ろう
︒ そ の証 とじ も いう べき は︑ 清 国 か ら の賠 償 金問 題 ので 扱 い方 では なか たっ か
︒ そ れだ け では な い︒ か れ にお いて は︑ 国際 社 会 で の日 本 の果 たす べき 役 割 に関 す る理 想 主義 があ たっ とも えい な いだ ろ う か む︒ ろん 政治 的 発言 と し て考 えら れよ う が︑ 四〇 万両 返還 論 は そ の内 実 を示 すも の であ ろ う︒ 第 六 に︑ 清沢 の本 書 執筆 動 機 の底 流 にあ たっ と考 え られ る のは 明︑ 治 の指 導 者 の責 任 への 自覚 の高 さと うい こと では な か ろう か︒ む ろ んそ れ は︑ 本 書 刊行 時期 の政 治及 軍び 部指 導 者 の無 責 任 さ への 内︑ 面 的 な批 判 を含 ん でい る こと では な いか
︒
︹本 書 は 中︑ 央 公論 社 りよ
︑ 一九 九 二年 二月 中︑ 公文 庫 の 一冊 と し て復 刻 さ れた
︵解 説 村 松剛
︶︒ ここ では 原者 に 従
てっ
こい
6 総 括
︱外 交問 題 研究 家 清 沢冽 は 日米 対決 の下 で何 を訴 え るか
︱
以上 で︑
﹃世 界再 割分 時 代﹄
︑
﹃第 二次 欧 州大 戦 の研 究﹄
︑
﹃外 交史
﹄
︑ 外﹃ 政 家と し ての 大 久保 利通
﹄ の四 著 作 に 関 し て紹 介 と 検討 を 行 てっ き た︒ そ こ で強 調 され てい た くい つか の論 点 既は そに れ れぞ のと ころ で述 べ てお たい が
︑ こ こ で本 を論 総 括す る意 味 で︑ あ ら ため 整て 理を し てお こう
︒ くと 清に 沢 が 日米 対 決 が濃 厚 と なり か つ︑ 米日 戦争 本格 化 の下 で︑ ど のよ うな こと を主 張 よし うと し て いた かの を 捉︑ え る こと は︑ か れ の平 和 論 国︑ 際 協調 論 の主 張 の 一貫 性 を 見 上る 重で 要 であ うろ
︒ 多少 の繰 返り をし 含 む であ ろう が︑ うこ し た見 地 か あら ら ため て 外﹁ 交 問 題研 究 家﹂ と し て自 立 し た清 沢冽 の全 貌 を捉 え る こと そ︑ し てそ れが 現代 何に を訴 え てい るか を探 る こと は︑ 極 め て深 刻 な意 を味 与 え る こ と と 考 えら れ る︒
﹃世 界 再分 割 代時
﹄ では 端的 にい てっ 植︑ 民 地領 有 の不 経 t済
不 性当 を論 じ て︑ 国 際平 和 のた め には 国際 盟連 のあ り 方 も ま た再 考 を す要 ると たし む︒ ろん 先進 帝国 主義 の植 民地 領有 はも よと り わ︑ が国 にと てっ も無 意味 であ こる と フ︑ ァ シズ ム︑ ナチ ズ ムも 排除 す べき 思想 あで る こと を 公︑ 然 と主 張 し そ︑ 角の 度 か ら︑ わが 国 軍部 の政 指治 導を も容 認 なし い立 場 を鮮 明 にし てい る︒ つぎ に
﹃第 二次 州欧 大 戦 の研
﹄究 は︑ 日本 政治 が大 政翼 賛 化 の方 向 鮮を 明 にし てい た時 期 に︑ あ え て︑ た かし に客 観 性 の高 表い 現 形式 と は えい 欧︑ 米 の戦 争関 係史 を叙 述 す る こと を 通し て︑ わが 国政 治関 係者 の姿 勢 を問 直い す と うい 立 場 を 示 し た︒ そ こ では 面当 の第 二次 欧 州大 戦 が︑ イド ツの 第 次一 大 戦後 処 理 の誤 り 端に を発 し てい る こと を 強 調 す る
︒ ヒト ラ ー主 義 の登 場 を個 人 の問 題と し て のみ 捉 え る べき では くな 大︑ 戦後 の総 合 認的 識 を も てっ 検 討す きべ こと を 強調 す る︒ ま た清 沢 は︑ 社会 主義 に 一定 のシ パン ーシ を感 じ る とこ を語 りな がら も
︑ ソ連 の スタ ー リ 治ン 下 の政 治 は︑ も は や社 会 主義 と は無 縁 の帝 主国 義
︑ 赤﹁ 色帝 国 主義
﹂ の立 場 に移 行 し てい る こと そ︑ し てそ の源 流 と し ては ーレ ニン 時 代 のネ プッ 体 制 よに る
﹁国 家主
﹂義 への 傾斜
︑
﹁国 際 主義 の放 棄﹂ あに ると 見 てい る こと あで る︒ だ から こそ 独 ソ協 調 の 外交 題問 研究 家と てし の清 沢冽
︵三 o完
︶
一一 五
一 一ユ ハ 法経 研究 四四 巻二 号
︵一 九九 五年
︶ 構 図 が 形成 され たと し た の であ る︒ こ のよ う に見 てく ると 本︑ 書 日は 独防 共 協定 に酔 いし れ︑ 大 政翼 賛 のか け声 の下 で︑ 一層 の フ シァ ズ ム化 の進 行す る︑ 近衛 体制 の下 で の極 め て平 和 主義 的 反︑ 帝国 主義 的 な思 想 を表 明 し たも の︑ と
し てよ い であ ろう
︒
﹃外 交
﹄史 では 外︑ 交 問題 を取 引 のそ れと し て認 識 す べき こと 歴︑ 史 研究 が不 可欠 であ り ま︑ た国 際 関 係 の基 礎 と し て の経 済 的 利害 関 係を 設定 し てい る とこ であ る︒ それ と とも に外 交 を担 当 す る指 導者 のパ ー ソナ リ テ をィ 無 視 でき な い こと 等︑ を あげ る︒ そ の上 で︑ 明 治 の指 導層 の必 要な 責 任 をと る姿 勢 と判 断 を的 確 に提 示 し て いた こと を 執︑ 拗 に高 く 評価 し てい る こと であ る︒ ま た国 際関 係と いう 双 方向 の性 質を 持 たっ 課題 への 当然 の配 慮 と は いえ 公︑ 然と 日本 側 の 主 張 と中 国 側 の主 張を
﹁公 平 に﹂ 紹介 す る形 を しば ばし 取 る こと で︑ 読者 に 一方 的 認識 を吹 き込 む こと を避 け てい る点 が あ る︒ これ 当は 時 の熱 狂的 雰囲 気 のも と では 著︑ くし 困 難 な︑ か つ危 険 でさ え あ る執 筆 姿勢 では な か たっ ろう か
︒ 最 後 に︑
﹃外 政 家 と し て の大 久保 利通
﹄ では 明︑ 治 初期 国家 と いう 未 だ権 力 基 盤 が充 分 でな い時 期 にお い て︑ そ のカ を十 分 に は認 識 得し な い清 国と 対峙 たし わが 国 外交 が 独︑ 力 でど の程 度 の力 量 を発 揮 得し たか ま︑ た︑ そ の力 量 発揮 に 際 し て︑ 指 導者 と し て の大 久 保 意が 識 続し け た のは
︑ メア リカ
︑ ィギ リ とス の連 携 であ り︑ そ の力 を借 りる こと であ っ た
︑ そ の こと は全 く従 属 的 にと いう こと では なく 大︑ 久 保 の断 固 た る指 導性 の発 揮
︑ これ こそ が原 動 力 であ たっ こと を いか んな く提 示 し た︒ 本 書 の つ一 の モチ ー フと も いう べき 内 容と し て︑ 明 治 の政 治家 は︑ 近 代 の創 始 の政 治家 と し ての 責任 感 覚 の強 さを 指 摘 す る こと で︑ 逆 に本 書 の刊 行 時期 の政 治家 の無 責任 さを 告 発 す る態 度 であ ろう
︒ こ のよ う に捉 え てみ ると 清︑ 沢 冽 は︑ 基本 的 には 国 際関 係 を平 和 主義 を 基調 と し て展 開 す べき も のと ︑ 一貫 し て考 え てい て︑ 二
〇世 紀 の三
〇年 代 の時 期 を も はや 帝︑ 国 主義 と植 民地 確保 の時 代 と捉 え る こと が いか に間 違 てっ いる か 排︑ 外 主 義 的 民族 主 義 が スタ ーリ 治ン 下 の ソ連 にも 濃 厚 であ るが じ︑ つは それ イは タリ ア︑ イド ツの フ シァ ズ ム国 家 と も共