158 r−ぶ発トー
労働力の価値について
山 下 隆 資
も く じ H 間嘩の所在
国 価値「実在」説 E)価値「非実在」説 囲 結語
日 間題の所在
資本主義社会においては,労働力も商品として売買される。労働者ほ生産手 段をもたぬがゆえに,資本家に対し労働力を商品として販売し,その代価とし
て得た賃金によって,自己の生括に必要とする商品を市場で購入し,生活を維 持してゆかなければならない。この関係は,W(労働力)−G(賃金)−W′(生活 資料)という単純流通形式でもってあらわすことができる。ここで労働者が労 働力を商品として一敗売するのは.,価値増殖を目的とするものではなく,生活手 段商品を得ることを,つまり,使用価値自体をえることを目的としている◇こ の意味において,労働力商品ほ,他のあらゆる生産物が価値増殖を目的として 生産せられ販売せられるという「原理論」的に想定される資本主義社会の中
(1)
で,「−唯一・の渾沌商品」をなすものということができるのである。
だが,資本主義社会に.おいて,労働力商品の流通形式のみがこのようなW−
G−W′という単純流通形式をとるとほいえ,それは自立的性質を有するものと してあるわけではない。資本の流通形式と速けいを保持する限りでのみ存立し
(2J うろのである。その関連を図で示せば次のように・なる0
(1)「原理論」的に想定される全面的な商品経済社会の中で,このように,労働力商品が
「唯一・の単純商品」をなすことを,はじめて鋭く分析したのは宇野弘蔵氏である0宇野 弘蔵「労働力なる商品の特殊性について:」(『価値論の研究』所収)
(2)この図は,隅谷三寄男『労働経済論.』(日本評論社恢)45頁の図を参照したものであ
る。
一J591 労働力の価値檻ついて:
?一「鵬−W<㌘一一一一・…−−1一…−P・…・…−・㌣′鵬
G′159
W′・−−−・…−=・W伍)
(q…‥−・・−・、・■…・・…・−−一山・Ap −】−…一・■・・・一−・】−−G
なお,この図の記号の説明は.次のとうり。
(1)W(A)は労働力商品を示す。(2)Apほ労働過程を示す。(3)(G)……l}Ap…・
Gほ.,賃金の支払が労働過程の後で行なゎれることを示す。(射り‥いぼ,労働者と資 本家との圃の取引による商品および貨幣の移転を示す。(5)=は,生産過程が労働 過程であることを示し,労働者が資本家のもとで働くことを示す。(6)W′・‥W〈A)は労 働者の生活過程を示す。
この図でも明らかなとうり,労働者のW(A)−Gの過程は,資本家にとって ほG−W(A)の過程であり,これほ労働者が資本家に労働力の使用価値を渡し て価値をえる関係を示している。そ・しで,労働者のG−W′の過程ほ資本家に とってはW′−G′の過程であり,こ.れほ労働者か資本家に価値を渡し,生活手 段としての商品の使用価侶をえ.る関係を示している。このように,労働力商品 の単純流通形式ほ,資本の流通形式と遠けいを俸持すること紅・よってのネ存立
しているのである。
ところでここで注意を要することほ,上図においても示されているきうり,
資本主義社会狂おいては労働力も商品として売買されるとはいえ,この労働力 ほノ,他の一・般商品のように資本の生産過程(図でほ.Pの過程)で労働生産物と して生産されて−いるのではない,ということである。労働力は,労働者の日常 の生活過程(図ではW′…W(A)の過程)の中で生産されているのである。それ ほ隅谷三者男氏もいわれるように,「…‥‥直接商品の生産として行なわれるも のでほなく,資本の再生産からはいちおう独立に.,その意味に.おいて,労働市 場や労働過程とは異なって,資本の直接的な支配の外部虹おいて,いちおう労
(3)
働者自身の意志に・よって規定されろ生活の内部において遂行され」∴ているので
(3)隅谷≡喜男,同上,42頁
第43巻 第1・2・3号
J6クーー
160
ある。このように労働力商品は,−・方では資本によって.労働生産物として生産 されるものでほないという点で,したがって−,その使用価値が資本の生産過程 で生み出されたものではないという点で,他の−・般商品とほ決定的に異なって いるのであり,又他方でほ,この労働力は,生活手段商品を消費することに.よ ってのみ再生産されるという点で,同じ労働生産物でない土地商品などとも決 定的に異なっているのである。
さてそれでは,このように特殊な商品である労働力それ自身の中に.は,果し て−・般商品と同様に,抽象的人間労働の対象化されたものとしての価値が「実 在」するといえるのであろうか。それともそれ自身の中には価値が「実在」す
るとほいえないのであろうか。労働生産物である−・般商品の中に抽象的人間労 働の対象化されたものとしての価値が「実在」することを否定する人はいな いと思われるが,労働力そ・れ自身の中に−\般商品と同様な意味で価値が「実 在」するか否かについては,必らずしも意見の−・致がみられない。従来,これ
ら把関しては相対立する2つの見解がある。そのひとつは,下山房雄氏によっ て代表される見解1であるが,労働生産物でない労働力商品の中にも−・般商品と
(4) 同様に.価値が「実在」するという説である。(この見解を,′ 私は便宜的に.価値
「実在」説と呼ぶことにする)・。他のひとつは,宇野弘蔵氏に.よって代表される 見解であるが,労働力の中に・はあくまでも価値が「実在」せず,したやミって
($ノ
労働力商品は擬制商品であるとす・る説である。(この見解を,私ほ便宜的に.価値
「非実在」説と呼ぶことにする)。この小論でほ,上記2人の見解を中心に検討 してゆき,労働力それ自身の中に価値が「実在」するといえるかどうかを明ら
かに.したい。
目 価値「実在」説
まずはじめにわれわれは,労働生産物でない労働力商品それ自身の中にも「抽 象的人間労働の凝固物」として−の価値が「実在」するという見解からみてゆくこ
(4)下山房雄稿「労働市場と賃金」(高橋,高木,金子編『講座,現代賃金論Ⅰ』所収)
(5)宇野弘囁,『価値論の研究』
労働力の価値について
ーヱ6ユー・・161
とにする。このような見解を理論的にもっとも明確紅述べているのほ下山房雄 氏であるが,まず氏ほ,その著『日本賃金学説史』の中で,労働力価偶の把握 をめぐっての従来のわが国における諸学説を詳細に.検二討し,これまでのよ.うに 労働力の価値という概念を「生産力確保のために.のぞましい生計費=資本に
とってのぞましいもの」としてこ把握したり,あるいは「消費欲望充足のため紅 のぞましい生計費=労働者にとってのぞましいもの一」として把握する,いわゆ る労働力価値「規範」説を一層して鋭く批判するのである郎,この本の中で氏 は次のようにいう。「労働力商品の価値を規定する労働者の生活資料の質と畳 は超歴史的な『あるべきもの』として与えられるものではなく,一定の時点に
おいて現実の労働力の再生産に消費されている生活資料の質量として与えられ
(9) る。」「労働力価値はまずなによりも当為でほなくて実在の範疇として,すなわ
ち現実の労働力商品の供給生産構造のうちに.,具体的には労働者階級の実際の
消費水準・家族構成・就業様式のうち紅与えられる象計費もしくはその分割さ
れた生計費としで
(7)とうり,ここで氏は,労働力の価値ほ「あるべきもの」として観念的に存在し ているものではなく,「具体的に.」「−・定の時点において現実の労働力の再生産 に.消費されている生活資料の質料として」「実在」するものであるという。そし
q
てさらにこ.の論点を進め,労働力の価値は,単に「生活饗料」の価値として
「実在」するだけではなく,「労働力商品に体化され凝結しているとこ∴ろの抽
(8) 象的人間労働」として,労働力自体の中に「実在」するというのである○それ
でほなぜ,労働生産物でない労働力自身の中に・も価値が「実在」するといえる のか。この点について−のより立入った説明は『日本賃金学説史』の中ではまだ なされていなかった。
しかしその後戌の執筆紅よる『講座現代賃金論Ⅰ』の中の論文で,さら紅立 入って次のように述べる。「労働力商品それ自体に.価値が担われているという
(61下山房雄『日本貸金学説史』4貫
(7)下山房雄 同上, 242貫
(8)下山房雄 同上,121貢
舞43巻 籍1・2・3号
・−J6クー
162
私の理解ほ,当然,生活手段価傾が消費行為によって労働力に移転するという 理解でもある。生活手段商品咋消費によって質料的紅はつ普り使用価値として
喀消滅するが,価値としてほ労働力のうちに移転し,労働力の使用価値=質料
・・・(9)
的自然的姿態に担われることになる.」(傍点一引用老)と。ここではじめで氏 は,労働生産物でない労働力商品それ自体にも,価値が担われているというの ほ,「生活手段価値が消費行為に.よって労働力に移転する」からだと明確に述
(10)
ぺるのである。
しかも氏に.よれば,労働力商品の車に「実在」するものとしての価値を形成 するのほ,単にそれだけでほない。労働者に.対象化されるサー・ビス労働も労働 力価値を形成するという。「教師,医師の労働者に.対するサ−ビス労働あるいほ
●●○…‥\●●●●●●●
家事労働と質料的にほ同様なサービス労働,これらが不特定多数の人に.商品経 済的販売される場合,それは,社会的形態をとる私的労働であり,それが労働 力に対象化される限り,労働力価値を形成する。観光のための人間輸送の労働
(11) も,運ばれる人間が労働者であれば,運輸労働が労働力価値を形成する」(傍
点…引用老)と。つまりサーービス労働が「社会的形態をとる私的労働」として 販売される場合ほ,それは労働力価値を形成するというのである。このよな
(9)下山房雄稿,高橋,高木金子編『講座現代賃金編Ⅰ』138頁
(1伽 このように生活手段商品の価値が労働力の申に移転されるという見解はァいわゆる労 働経済学者の方々の「賃金論」の申でよく見られる。たとえば吉沢文雄氏は,その著
『労働の経済理論』の申で,「−・般的にいえ.ば労働力は労働に.よって生産されるものでほ ないので,商品紅関する−・般的な価値規定め枠内におさめるために.特殊な論理的工作を 必要とする。そこで『労働力の生産に必要な労働時間』を『生活手段の生産に必要な労 働時間』におきかえ.て間接的に規定せざるをえない。つまりは『労働力の価凰』が『生活 手段』たる商品の『価値』によってきまること紅なる。この点ほ,生産手段の価値が労働 によって新生産物の上に移転,保存せしめられるように.,生活手段の価値が生活によっ
0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 (l 0 0 0 (I O ● ○ ● 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ● て労働力の価値として移転保存せしあられるものと解してもよかろう」(同上45頁,
傍点一引用者)と述べている。同様な指摘ほ山東登氏の見解の中にも見られる(岸木英 太郎編『労働経済論入門』2碩.)。しかし吉沢氏も山本民も生活手段の価値は労働力の中 に移転保存されるものと考えて−よい,という自己の見解を単に.指摘する程度紅とどまり,
それ以上の理論的な説明ははとんどなされていない。なお,両氏とも下山氏のように,
サ十ビス労働が労働力の価値を形成するが否かについては,何も述べられていない。
(11)下山房雄稿,高橋他編『講座現代賃金論Ⅰ』141〜142恵
ーーJ6.?−
労働力の価値について 163
う見地に立つならば,たとえば主婦の家事労働などほ労働力の価値を形成し ないことになる。なぜならば、「主婦の家事労働が労働力価値を生産しているの ではないということほ,そもそ・も労働力商品に価値として労働が対象化しえな いからでほなくて,それが夫という特定個人にたいして−のみなされる,ノっまり
(12)
社会的形態をとらない私的労働だからである。」(傍点一著者)
かくて下山氏ほ「労働者は,その消費行為に.よっで,一方で生活手段価値を
労働力に移転させ,同時にサービス労働を労働力価値として対象化させる。し
……=====…○がたって労働力価値は,労働者生活に必要とされる生活手段の価値が移転した
… ‥.… … … ‥。….
… …(13) ものと,サ・−ビス労働によって形成されたものとの両者から成立する」(傍点一
引用者)と結論づけることになる。
以上が,下山こ氏のいう価値「実在」説の主要な内容であるが,要するに氏 は,労働生産物でもない労働力商品の中に.も,価値が「実在」することを証明 せんが冬めに,労働者の生活過程を労働力価値の形成過程とみなし,その過程 で労働力の価値ほ労働者が消費する生活手段商品の価値が移転したものと,サ ービス労働によって形成されたものとの2つから成立すると主張し,その意味 で労働力の価値ほ「抽象的人間労働の凝固物」としてニ,労働力白身の中に「実 在」するものと考えるのである。
だが果してわれわれほ,戌のこのような見解に同意することができるであろ うか。答えは否である。氏が労働力の価値を「あるべきもの」「のぞましきも の」として,つまり労働力の価値を「So11en」として把握して来た従来の見解 を鋭く批判した点は正当であった。しかし「Sein」として−の労働力の価値を,
労働力商品それ自身の中に求めることには賛成しがたいのである。それはなぜ か。ここでわれわれの見解を先取していえ.ほ,われわれほ労働者の生活過程は 本来の消費過程であり,その過程での価値移転・価値形成は認めることができ ず,したがって,労働力商品はそれ自身価値を有するものでほないと考えるの である。この理論的な説明は次節句で述べることとし,ここ.では下山氏のいわ
川ハ叫 引び
下山房雄稿,同上,141貫
下山房雄稿,同上,142貫ノ
算43巻 寛1・2・3号
−J64−
164
れるように労働者の生活過程での価値移転,価値形成を主張するならば,そし て労働力それ自身が価値を担うものと考え.るならば,どのような矛盾が生じる
かということを中心にながめ宅ゆくこ.とにする。
まず欝1に・,氏ほ.,労働者の「個人的消費」の過程である生活過程を,−・般 商品の生産過程と同一・に考え,労働力の価値形成過程として把握し,そこで の価値形成・価値移転を主張するのであるが,そうすれば労働者の生活過程も
「生産過程」となってしまい,本来の意味での消費過程がなくなってしまうの ではなかろうか0恐らく氏は,労働者が生活過程で必要生活手段商品を消費す
ることによってのみ,労働力が再生産されるという事実認識から,労働者の生
活過程を,労働力商品の「生産過程」としてとらえたものと思われる。そして
疲かに,「資料的」に考えるならば,つまり使用価値的側面からながめるなら ば,
れることと,労働者の生活過程で,食料や衣服などが消費され労働力が生産さ れることとは同じよう紅見える。どちらとも,旧い使用価値が消費されて,別 の新しい使用価値が生産されるわけである。だから「資料的」に_考える限り,
一般商品の生産のため紅物が消費されることも,労働力の生産のために物が消 費されることも,ともに「生産的消費」私見えるのである。したがって恐らく 民ほ,このような事情と,資本主義社会でほ労働力も商品化されているという 事情から,労働者の生活過程を,労働力商品の「生産過程」と見なし,その過 程での価値形成・価値移転を主張したものと思われる。
だがもしここで,氏のいわれるよう紅,労働者の生活過程をも「生産過程」
としてとらえるなら,そして資本が−・般商品を生産する過程をも,生産過程と してとらえるなら,一体,本来の意味での消費過程とほどのようなものをいう のであろうか。それとも本来の意味での消費過程という概念は無いとでもいう のであろうか○事実氏の見解にしたがえぼすべて生産過程となってしまい,消 費過程という概念ほ無くなってしまっている。しかしこれでほ,生産過程とい −
う概念も成立しないほずである。なぜなら,経済学でいう消費過程と生産過程
とは相対立する概念であるが,一・方が無くなれば,他方の概念も成立しないと考
貨43巻 第1・2・3弓
ーーJ65−165
えられるからである。そして又,本来の意味での消撃退程がなくなれば,商品 の中に.含まれる価値が,いかなる場合に「消失」するのかということも,理解 できなくなってしまうと思われる。氏のように考.え.るなら,商品の価値はあら ゆる過程で移転せられることと−なり,「質屋保存の法則」が作用するどとく,価 値は.不滅なものとなってしまうのではなかろうか。
第2に疑問に思われることほ,下山氏は労働者の生活過程での価値移転を主
(14) 張するわけであるが,この場合,「人間労働の媒介」なくして,どうして生活
手段商品の価値が移転されるということができるのであろうか。商品の中に含 まれる価値が新生産物の中に移転される場合浸.は,必らず「人間労働の媒介」
が必要のはずである。周知のように人間労働はその労働生産過程で,・−・方でほ 抽象的人蘭労働の側面に.おい∴て新価値を形成し,他方では,具体的有用労働の 側面においてニ,生産手段の中に含まれる旧価値を,新生産物の中に移転させるの
( 151 である。そしてこの人間労働の2面的な役割は,労働者が同じ時間に2重に労
働することに.よって一波じられるものではなく,「労働者が同じ時間にはただ一度
/16)
しか労働しないのに同じ時間に生み出す2つのまったく違う結果」によるもの
であった。このようにわれわれほ「人間労働の媒介」を噂じて−のみ,そこでは
じめて価値形成・価値移転をいうことができるのである。
しかしながら,労働力の生産は,「人間労働の媒介」を通じて−おこなわれるも のではない。人間の生活過程での消費行為は,決っして人間労働ということは できない。生活手段商品の消費は,たとえば食物の消費は,胃の消化作用等に
よるものであり,これらの作用ほ決っして人間労働とはいえ.ない。又,食物を 食べるための手の動作も,決っして労働力生産のための人間労働とほ.いえな い。そもそも人間労掛とほ,直接間接人間生活のため紅必要な鹿用価値をつく り出すために「人間の脳や筋肉や神経」などの人間エネルギーを支出させ「合
(Ⅷ 同じ人間労働でも,生産物を直接生産する生産的労働と,そうでなぃ労働(たとえ ば,事務労働や商業労働など)があるが,ここで人間労働という場合は,生産的労働の
ことをさす。
(15)K、マルクス『−資本論』邦訳,マルク.ス・エンゲルス全集版。貨1分冊263頁
(16)Ⅹ.マルクス,同上,第1分冊,261貢
籍43巻 貨1・2・3弓
166】→J66一
(17) 目的的な生産活動」を行うことである。1もし人間生塙のために必要な使用価値
の「合目的的な生産活動」.以外に,このような生活過程における消費行為をも 人間労働と門めるならば,人間労働と,農耕に使用される家畜の「はたらき」,
あるいほ密蜂の「ほたらき」との区別ほ,なくなってしまうほずである。われ われは,人間の生活過程における消費行為ほ,あくまでも本能行為の範疇であ り,それを労働生産のための人間労働とほ認めることができないと考える。そ して,この生活過程での消費行為を,人間労働と認める■ことができない限り,
(18)
その過程での価値移転をいうことはでき・ないと思うのである。
そして′又,氏のようにたとえサービス労働凌「社会的形態なとる私的労働」
というふうに限定すると牒小え,このサ−・ビス労働が,労働者の生活過程で新 しく労働力の価値を形成すると主張するなら,そ∵れほ,人間と自然とのあいだ の物質代謝である労働生産過程以外のところで,労働の対象化過程を認めるこ ととなり,結果的に.それは,労働価値説自体を否定することになると思われる
のである。つまりそれは,労働生産過程における人間労働力の支出をもって,
抽象的人間労働と規定し,それが商品経済社会という特殊歴史的な社会におい て−,価値を形成する労働としてあらわれるとするマルクスの労働価値説自体を 否定するこ.と陀なると考えるのである。このようなわけで,下山氏のいわれる 生酒過程での価値移転。価値形成の想定ほ.,単なる主観的慈恵的な想定に終っ
て:いると思われるのである。
欝3に.,ここで一渉ゆづって,労働力それ自身の中に生活手段商品の価値 が移転し,労働力の中に.価値が「実在」するものと仮定すれば,その労働力の
底値ほ,資本の運動形式G−WくAn∴: P W′NG′の中における−
般商品の生産過程で,どのように作用するのであろうか。つまり,労働力の価 値が,新生産物の中に移転するか否かというこ・とである。この点に関してほ,
下山氏は何も述べられていないが,蔓要なのでここでとりあげることに.する。
(17)K.マルクス,同上,貨1分冊234貢参照。
髄)たとえば牧畜業なとで,肉牛などを商品として生産する場合,その飼料の価侶が肉牛
の巾に移転されるのは,単にヰがそれを消費するからではなく,′卜を飼育するという人
間労働に媒介されているからである。
労働力の価値について
ーJ67−167
まずはじめに考えられること■ほ,(i)労働力の価値も,−・般商品の生産過程 で,さらに新生産物の中に移転せられる,と解釈することである。しかしこの ように廟釈すれば,労働力の価値は商岳の価値(生酒手段商品の価値)が移転せ られたものであり,そ・の商品の価値ほ,労働力の価値が移転せられたものであ る,という悪しき循環論におちいることに.なってしまう。この解釈に・したがえ ば,Cl−Ⅴ+Mという価値構成でもって表わされる生産物のうち,労働者が新
しく価値を形成したのほ,剰余価値部分(M)だけとなってしまうのである。
次に考えられることほ,_ヒ記とほ逆に,(ii)労働力の価値は新生産物の中紅移 転せられるものでほない,と解釈することである。しかしこの解釈にも無理が 生じる。なぜなら,労働力商品そのものの中に価値が「実在」するという点で ほ,労働力商品も機械や原料などの生産手段も同じはずである。それにもかか わらず,機械や原料などの生産手段の中に含まれる価値が,新生産物の中に移 転せられるのに,なぜ労働力の申軋含まれる価値のみが移転せられないのか,
ということを明らかにしなけれほならないからである。それ自身の中に価値が
「実在」するという意味で,労働力商品と生産手段とを同様に.考える限り,−
般商品の生産過程で,前者の価値が移転されることを否定し,後者の価値のみ が移転されることを肯定することほ,無理であると思われるのである。
かくて(i)(ii)いずれの場合にも,労働力の中に価値が「実在」すると考える 限り,−・般商品の生産過程で,その価値移転をめぐって解き難い難問が生じる ことほ明らかである。われわれはここで,やはり労働力の中には価値が「実 在」しないと考える方が適切ではなかろうか。労働力はそれ自身価値物でない からこそ,その価値が移転されることなく新しい価値を形成することに.なるの ではなかろうか。労働者の生産する生産物ほ,C+Ⅴ+Mという佃値構成であ らわされるが,このC部分ほ機奴や原料などの生産手段の中に含まれている旧 価値が移転され「再現」されたものである。しかしⅤ部分ほ,労働力の価値が 移転され「甫現」されたものではない。Ⅴ部分もM部分も,共に.新しく形成さ れたものである。ただⅤ部分は,労働老が生活するために必要な部分だから,
資本はそれを労働者に引渡さなければならず,したがってその部分を,労働力
第43巻 第1・2・3弓
−−ヱ6β−
168
の価値とみなしているにすぎないのである。このように労働力商品が価値を有 せず,したがってその価値を移転することなく価値を積極的紅形成するという 点に,また,労働力商品が剰余価値を形成するという事実がもとめられるもの
と考えるのである。
ヒ)価値「非実在」説
次にわれわれは,労働力それ自体は価値を有するものではないという宇野 弘蔵氏の見解を見て−ゆくことにする。戌は『労働力なる商品の特殊性について』
と題する論文に.おいて,労働力商品の特殊性を,主としてその「流通形式」の 面から鋭く分析するのであるが,氏はこの論文の中で,労働者の生活過程ほ消 費過程であり,この過程では,労働力ほ決して価値物として生産されるものでほ ないと次のようにいう。「労働力の販売は,労働者に.とってほ,これによってそ の生活資料を得ることを目的とす革ものである。W−G−W′の過程である。し かし此のWは,たとい一・般的に労働力の商品化が前提されているとして−も,そ れ自身でほ.商品として生産せられたものとはいえない。少なくとも,生活資料
としてのW′を消費して,これによって労働力がⅥrとして生産せられるとほい ネ.ない。生活資料は労働者の生活のため消費せられるのであって,これを原料 その他の生産手段として,労働力が生産せられるわけでレま.ない。資本家的見地 からはそう見えるであろうし,又実際労働者自身もそう考えるかも知れない
が,生活資料は,商品として買われて−も,その使用価値ほ,生活のためにイ肖費 せられるものであって,巳に価値としてあるわけではない。その価値を労働力
なる商品に移転せられ,保存せられるのではない。W′とWとの間は,流通過程
が,生産過程によっででほなく,消費過程によって中断せられて−いるのである。
㌦ 商品経済は此の中断をも,社会的にほ生産過短による中断の如き外観を強制
し,人間を物にする傾向を免れないのであるが,それは社会的実体と社会的形
態とを顕到した商品経済の物神性を以ってて・切を解決する,現象に眼を奪われ
−−−j69−
労働力の価値について 169
(ユ9ノ た者に.とっては・そうであるに.しても,経済学にとっては許されない」「そ・れ(労
●●●●●●●●●●●●●●●●●
働者の生活過程のこと一引用者)は消費過程であって生産過程でほない。それ ほただ労働力に商品たる形態が与えられるために.,この消費過程自身が労働力
(20)
の生産過程たる外観を強制せられるに.すぎないのである」(傍点一引用者)と。
見られるとうり宇野氏は,全面的な商品経済社会でほ,労働力さえもが,外 観上ほあたかも商品として生産されるように見えるが,これほ「商品経済の物 神性」によるものであって−,それは決して商品として(価値物として)生産 されるものではない,と強く主張する。氏ほ労働者の生活過程は「生産過程」
ではなく「消費過程」であるから,たとえ労働者が生活手段を商品として買っ
\ たとしても「その使用価値は,生活のために消費せられるものであって,巳に 価値としてあるわけではない」のであり,したが′つてその生活手段商品の価値 が,労働力の中に移転するということはできないというのである。そしてわれ われも,宇野氏のこのような見解に賛成できると考える。それはなぜか。
まずわれわれほ労働者の生活過程が,いわゆる価値「実在」説において主張 されるような「生産過程」ではなく「消費過程」であることを明らかにするた めに,経済学でいう生産過程と消費過程とは,どのようにして区別すればよい のか,この点から検討してゆくことにする。
ここでもしわれわれが,単に.物を生産する過程を生産過程として,物を消費 する過程を消費過程としてとらえるならば,労働者の生活過准は「生産過程」
であると同時に「消費過程」となり,同様に,資本が「・般商品を生産する過程 も「生産過程」と同時紅「消費過程」となってしまうことは明らかである。ど ちらとも,旧い使用価値が消費されて新しい使用価値が生産されているのであ り,消費即生産となっているからである。そしてこのように考えるならば,労働 者の生活過程もー・般商品が生産される過程も同一となってしまい,価値「実在」
説と同じような誤まりにおちいってしまうことになるのである。さてそれでは,
経済学でいう生産過程と消費過程とほ.,一・体どのようにして区別すればよいの
(19ノ 宇野弘蔵『−労働力なる商品の時務性について』(『価値論の研究』所収)182←一183斉
田0)宇野弘蔵,同上,197頁
籍43巻 舘1・2・3弓
−J7∂− 170
か。われわれはまずマルクスのいうことから聞くことにしょう。
マルクスほいう。「労働者ほそ¢素材的諸要素を,その対象と手段とを消攣 し,それらを食い尽ぐすのであり,したがって,それほ消費過程である。この 生産的消費が個人的消費から区別されるのほ,後者ほ生産物を生きてし、る個人
の生活手段として消費し,前者ほそれを労働の,すなわち個人の働きつつある 労働力の生活手段として消費するということによっでである。それゆえ.,個人 的消費の生産物ほ消費者自身であるが,生産的消薯の結果柁消費者とは別な生
(21)
産物である」「労働者の行う消費碇・は二つの種類がある。生産そのものでは,彼 は生産手段を自分の労働に・皐:って−消費し,それを前貸資本の価値よりも大きな 価値のある生産物に転化させる。これは彼の生産即肖費である。それほ,同時 に・,彼の労働力を買った資本家に・よる彼の労働力の消費でもある。他方では,
\労働者は労働力の代価として支払われた貨幣を生活手段に振り向ける占 これは 彼の個人的消費である。だから,労働者が行う生産的消費と個人的消費とほ資
(22)
ったく違うのである」と。
ことでマルクスは「労働者の行う消費軋は二つの種類がある」とし,十方で は,労働者が「自分の労働」によって一生産手段を消賛することを「生産的消費」
として考え,他方では「生産物を個人の生活手段として消費」し「労働者自 身」を生み出すことを「個人的消費」と考え,このイ労働者が行う生産的消費
と個人的消費とはまったく違うのである」と結論づけているのである。いいかえ
れば,マルクスはここで,労働力の生産と消費を基準にして「個人的消費」と
「生産的消費」を区二別し,労働力の生産のために・物が消費されることを「個人 的消費」として把握し,労働力の消費に・よって新しい生産物を作り出すために 物が消費されることを「生産的消費」として−把握して小るのである。そして−,
ここでマルクスのいう労働力の消費による「生産的消費」の過程が,経済学で いう生産過程であり,労働力の生産のための「個人的消費」の過程が,はかな
位1)K−
Q2)K.マルクス,同上第2分冊744頁
ーーJ㌻ノー
労働力の価値に.ついて 171
ら甲本来の消費過程なのである0労働者の「個人的消費」の過程が本来の消費 過程であることは「社会的実体」であり,たと.え労働力の商品化を前提しても,
その過程が生産過程に転化することほありえないのである。それゆえ,従来の 経済学の分析対象にもならなかったし,又,マルクス自身もその過程を経済学 的に.分析すろこ′となく,ただ−・般商品の生産過程のみ.をその分析の対象とし,
そこでの価値形成・価値移転の解明を,彼の経済学研究の中心に置いたのであ る。
さてわれわれほ以上において,経済学でいう生産過程と消費過程とほ,労働 力の生産と消費を基準にして区別するものであることを明確にし,労働者の生 活過程が,本来の消費過程であることを明らかに・したのであるが,次にわれわ れは,こ.の労働者の生活過程では,なにゆえ紅生活手段商品の価値が労働力の中 に移転するとはいえないのか,この点に√ついて立入って説明すること紅する。
それでは,なぜ生活手段商品の価値ほ,労働力の中に移転するとはいえない のであろうか。ここでわれわれの結論から先紅い.えば,われわれほ,生活手段
●●●○●●○●●○…●●○●●○●
商品の申に含まれて−いる価値ほ,その生活手段商品が労働者の手紅渡った瞬間
●●●●●●●●●●●●●●●●●
に.おいて,失なわれてしまうものであり,したがって−その価値が労働力の中に 移転するというような主張ほできないと考える¢である。それはなぜか。われ われはこ.こで,商品としての価値関係がいかなる場合紅成立し,いかなる場合に その価値関係が終結されるかを考えてみれほ,上記の見解の正しいこ.とが明確
になると思われる。そもそも労働生産物が商品となるため匿ほ,つまり商品と
しての価値関係が成立するためには.,その労働生産物が自己紅とっては非使用 価値であり,他人に、とっての使用価値でなけれぼならなかった。労働生産物が
自己にとっての使用価値であれば,それが商品として市場に登場するこ.とほ.あ
りえず,又,他人のための使用価値でなければ,つまり社会的使用価値を有す
るものでなければ,それが商品となりえないことも明らかである0こ=こでもし
Aという人が自己に.とっては非使用価値であるが,社会的使用価値を有する労
働生産物を生産し,それが商品として市場に登場したとする。こ・の場合,その
労働生産物は,明らかに価値と使用価値の統一・物とししての商品である。しか
第43巻 寛1・2・3号
ー・J72−
172
しその商品をBという人が,再販売などを目的としてではなく「個人的消費」
を目的として,つまり本来の消費を日野として購買すれば,その瞬間紅おいて,
その商品はB自身にとっての使用価値となり,それは,
値の統一・物としての商品でほなくなるのである。Bの手に.あっては,それはも はや商品ではなく,単なる労働生産物,単なる使用価値にすぎないのである。
このように商品は,本来の消費を目的とする人の手に.渡った瞬間において,そ の価値を失なってしまい,商品としての価値関係はそこで終結するのである。
だから労傲暑が,必要生活手段をすべて市場で商品として購買したとしても,
それらの生活手段は,労働者の手に・あってほ.もほや価値としてあるわけではな く,したがって,それらの中に含まれていた価値が労働力の中に・移転するなど という想定はできないのである。だからたとえ全面的な商品経済社会を前提し たとしても,労働力ほ,決っして価値物として生産されるといえないのである。
ただここで,資本家が機械や原料などの商品を市場で購買する場合は,それ ほ労働者が生活手段商品を購買する場合ともがって,「個人的消費」(=本来の 消費)を目的とサーるものでほなく,新しい生産物を生産することを目的とする ものであるから,つまり「生産的消費」を目的とするものであるから,それらの 商品が資本家の手に渡った後でも,なお価値として存在し−・般商品の生産過程 で,生産的に.消費されることに.よ
生物の申紅移転され「再現」されるものと考えることができるのである。そし てこのように・,生産手段の中に含まれていた価値は,たとえ生産手段が素材的 に消滅しても,次々と新生産物の中に移転されてゆき,最終的にほ生活手段商 品の中に・移転せられ「再現」されるこ.ととなり,その生活手段商品が本来の消 費である「個人的消費」を目的とする労働者の手に渡った瞬間において,はじ めてそれらの価値はすぺて失なわれてしまうことに.なるのである。
ところで,われわれと同じように,生活手段商品の価値が労働力の中に移転 せられるという考え方を否定するに
理でもって,これを否定サーる見解がある。たとえば荒又重雄氏は,「労働力商品
の交換価値は.,質料的に吟味すると,労働力にでは.なく,労働力を再生産する
労働力の価値について
ーJ73−173
ために必要な生活手段商品の使用価値に担われているのである。労働力と,そ れを再生産するの軋必要な生活手段商品との間にほ,生活過程という−・つのプ ロセスがはさまっている。その過程は労働力と生活手段商品との間を必然的な 連関の糸で繋いでおり,その過程紅よって労働力と生活手段商品とは賀料的な
物質代謝の関係にあるとほいえ,価値として−・賞しているわけでほない。価値 は,生活手段の消費とともに消失する。そしてあらわれてくるものほ価値創造 能力をもった労働力である。この労働力は,厳格に.これをみるならば,そ・れ自
… … …・… …(23)
身のうちに価値を担うものではない。」(傍点一引用老)という。
つまり氏は,労働力と生活手段商品との間は「生活過程という一つのプロセ ス」でつながっているが,こ.の生活過程で,生活手段商品が「資料的.」に消費 されることにより,その生活手段商品の中に含まれている価値も,同時に「消 失」されるものと考え,したがって,その価値が労働力の中に・移転されるとい
う想定ほ許されないものとし,労働力は「−それ白身のうちに価値を担うもので は.ない」という結論紅適っするのである。しかし,こ.のような氏の考え方は誤
まっていると恩あれる。われわれはすでに.述べたよう紅,生活手段商品の価値
ほ「生活手段商品の消費とともに消失」するものでほ.なく,生活手段商品が,そ の消費を目的とする労働者の手紅旗った瞬間において,すでに「消失」して−い るのである。荒又氏ほ,生活手段商品の価値が労働力の中に.移転すると主張す る価値「実在」説に対しては,それが「■プル汐ヨア的仮象」に・とらわれた見解 であるとし,それは「必要生活手段と労働力との間の物質代謝に・よって,両者 が質料的に.つながっていることを,直ちに価値としてつながっていることと錯
(2の 覚」した理論であると正当に批判した紅もかかわらず,氏ほ,商品の価値が,
社会的関係に・おいて成立するというこキを十分理解されなかったがゆえに,商 品の価値がいかなる場合に「消失」するかということを誤まって理解し,単に生 汚手段商品が生活過程で「質料的」に.消費されるときにのみ,価値も同時に「消
郎)荒又重雄『労働力の価値の実在性と仮象性匪ンついて』(北海道大『経済学研究』算17巻 1号)128真
伽)荒又重雄 同上129貢
葦43巻 第1・2・3一弓
ー・J7尋− 174
失」すると考えられたように思われる。われわれはここで,商品の価値ほ,物 理的化学的なものでほなく,社会的な関係において成立しかつ「消失」するも のであるということに・,十分注意しなければならないのである。
ここでもし氏のいわれるように.,「価値ほ,生活手段商品の消費とともに消 失」すると考えることから,つまり,生活手段商品が,生活過程で「質料的」
に瀾費されることによって,そ・の中に含まれている価値も共隼失なわれてしま うと考えることから,価値が労働力の中に移転されないと主張するなら,−・般 商品の生産過程で,機械や原料などの生産手段が消費される場合も,その価値 ほ新生産物の中に移転されないことになってしまうのでほなかろうか。なぜな
ら,生産手段商品も,労働者の生活過程における生活手段商品と同様に,「質料 的」に.消費されてしまうからである。ここでもし,氏が,−・般商品の生産過程 に.おいてほ,生産手段商品が「資料的」に.消費されても,その価値ほ「消失」
することなく,新生産物の申に移転すると考えるなら(当然氏ほそう考えておら れると思うが),何故に,労働者の生活過程でのみ,生活手段商品が「資料的」
に消費されたとき,その価値が「消失」されてしまい,移転されないことにな ってしまうのかを,明確に.しなければならない。氏のいわれるように「価値ほ,
生活手段商品の消費とともに消失する」ということから,その価値は移転・され ないと考える限り,この速いは明確に区別できないように思われるのである。
たがって,やほりわれわれのように,生活手段商品の価値ほ,生活手段商品
が生活過程で消費されるから失なわれると理解するのでほなく,それが,森来
の消費を目的とする′労働者の手に渡った瞬間紅おいて,その価値が失なわれる
ものとして理解しなければならないと思われるのであ志。そして文,こうする
こ・とによってはじめて,同じように価値物が消費されても,一方の資本の生産
過程でほ.価値移転がおこなわれ,他方の労働者の生活過程でほ価値移転がおこ
なわれない(消費される前に,すでに.その価値が失なわれているいるから)と
いう両者のちがいの説明が,明確にできると思うのである。
労働力の価値に.ついて.
ーJ75−175
(四)結
さて,われわれほ以上において,労働者の生活過程は本来の消費過程であり,
その過程で,労働力は価値を有するものとして生産されるものでほないことを 見て釆た。「原理論」的に.想定される全面的な商品経済社会の中でほ,労働者 の生活手段も,すべて資本によって−,商品として生産されるものと想定されな ければならないのであるが,しかしこの生活手段商品は,本来の消費を目的 とする労働者の手に渡れば,それは単なる使用価値となり,もは卓価値として あるわけではないのである。だから,その価値が,労働力の中に移転するな どという想定は許されないのである。労働生産物でない労働力商品ほ,やはり
(25)
それ自身価値を有するものでは.ない,といわなければならない。一そしでその意 但5)下山民は,労働者の生活過程を労働力の価値形成過程と舞え.,労働力もそれ白身の中
た価値を有するものと考え.るから,労働力商品を−叔商品の中に解消してし奮うことと
なり,その結果,「労働力市場価値」諭を,一腰商品の「市場価値」論と仝ったく同じ ようなかたちで展開すること紅なっている。(『講座現代賃金論Ⅰ』152頁ノー156蔑)。つま
り氏は,労働者の生活過程で労働力の形成に要した個別的費用の差を,労働力商品の個 別的価値差としてとらえ,′それを,資本の生産条件の差異に.もとづく一腰商品の個別的 価値差と同一・貯考え,それら労働力の諸個別的価値が,どのようにして単一満場価値に 調整されていくかというかたらで問題を提起する。そして偲は,「労働力市場価値」論 を,『資本論』第3巻寛2編算10章の,いわゆる「市場価値」論に.アナロジーして論じ,
労働力の澤一市場価値の決定を,「加重平均」説でもって説明するのである。しかし,
すでに述べたように,労働力は労働者の生活過程そ,それ自身価値を萌する商品として 生産されるものではなく,その点,−・般商品とは決定的紅異なっているのである0だか
ら,それを一般商品の中紅解消してしまい,一腰商品と同一・な形でその「市場価値」論 を論ずることは,とうていできないと思われるのである。
伽)荒又氏は,生活資料の価値は「労働力なる商品に移転せられ,保存せられるのでほな い」(宇野『価値論の研究』183頁)とする宇野氏の見解には賛成されるのであるが,こ
のことから宇野氏が「労働力の商品としての規定は,いわば仮象紅過ぎない」(宇野,
同上,195頁)とすすまれること紅対してほ,「われわれはこれに賛成することができ ない」(荒又『労働力の価イ直の実在牲と仮象陰についで』126貰)といって,これを否定 する。その理由として,氏ほ「宇野氏が労働力商品を仮象だと主張されることの根拠に あるものは,おそらく,明示的に主張されておらぬとほいえ…‥‥労働力の価値なるも
のは仮象である,との命題であろう」(荒又,同上,127貴)とされ,しかしこの労働力 の価値ほ「仮象」ではなく,生活手段の価値として「実在」するものであるから,宇野 氏の主張ほ.まちがっているというのである。(荒又,同上,127頁)。しかしここで宇野 氏が「労働力の商品として■の威定は,いわば仮象にすぎない」といっているのほ,荒又
氏のいわれるように,労働力の価値が生活手段の価値として「実在」していることを否
定していっているのではなく,資本が労働力を商品として買っても,それは生産手段の
・−J76鵬
寛43巻 発1・2・3弓
176(26)
味で,労働力商品は擬制化された商品なのである。しかしここで注意を要する ことは,この労働力商品を,同じように擬制化された商品である株式商品や土 地商品と仝ったく同一・祝してしまうわけに.もいかないのである。なぜなら,同
じ擬制商品であって−も,株式や土地が商品化され,それらに.価格が成立する場 合と,労働力が商品化され,そ・れに価格が成立する場合とは,全ったく異なっ
ているからである。最後に.,この相違点を,ここで明らかに.しておく必要があ ると思われる。
周知のように,株式や土地ほ,剰余価値の・−・部が配当や地代として分配さる これとから商品化されたのであるが,労働力の場合は,資本主義社会の成立期に おいて,労働者がマルクスのいう「2重の意味」で自由に.なったため匿.,商品
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となったのである。「2重の意味」で自由になると咋,・一・方では,労働者が旧 来の封建的支配服従の関係から解放され,自分の労働力を自由に.処分できるよ
うに・なるということであり,他方でほ.,労働者が,自分の労働力の実現のため に必要な生活手段から引き離されて−,自由になるということである。労働者ほ,
生産手段から引き離されることによって,本来,労働者自身みずから使用すべ きはずの労働力が,もほや自分では使用するととができなくなり,それを商品 として,資本家に販売せざるをえなくなったのである。そして,歴史的過程を 経で商品化された労働力は,資本主義社会が確立すれば,資本そのものの運動 に・よって,たえず商品として,つ蒙り賃労働者して「再生産」されることにな
(28)
っているのである。資本はみずからの運動によって,労働者の賃金を労働力の ように,それ自身の申に価値を有するものとしでの商品ではないという意味で,つまり われわれと同様に,労働力商品は擬制商品であるという意味でいっているのである。こ のことは宇野氏が,生活贋料の価値は「労働力なる商品に.移転せられ,保存せられるの
ではない」といって,労働力が価値を有しないことを明確忙し,又,他の個所で,労働 力商品ほ,それを買入れた資本家にとって:は「使用価値と共に価値を有するという商品
で/はありえない」のであり,「資本家の可変資本は,この面からいえば,最早や単純に
価値を保有するものでほない」(宇野,同上,188貫)といって,不変資本部分を構成す る生産手段とのらがいを強調していることからも明らかである。労働力の価値は,生活
手段の価値として「実在.」するけれども,それが労働者の手紅渡れば,もはや価値とし ては「実在」せヂ,したがって,労働力商品の申にほ価侭が「実在」しないことに.,わ れわれほ注意しなければならないのである。
即 Ⅹ・マルクス,『資本論』邦訳,第1分冊,220〜221貢参照
労働力の価値について
ーノ77一177
再生産資の水準におしさげ,労動老からの生産手段の引き離しを不断に屑現す るため,労働者はたえ.ず労動力の販売者として−,労働市場に登場せざるをえな
くなってし、るのである。このように,同じ擬制商品であっても,株式や土地が 商品化されるのと,労働力が商品化されるのとは決定的に異なっ、ているのであ る。
そして又,株式商品や土地商品の価格が決定される場合と,労働力の価格が 決定される場合とでは,その価格決定の基礎が,仝ったくちがうのである。株
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式商品の価格ほ,基本的には,配当の大きさと利子率に.よって決定される。た とえば,年2割の配当をもたらす額面50円の株式は,年に10円の収益をもたら すのであるが,そ・の痔の利子率が年5%であれば,200円という株価が成立す
るのである。同様に土地商品の場合′ほ,たとえば土地を所有することよって,
年に1万円の地代が入り,その時の利子率を年5%とすれほ,この土地には,
(30) 2叩円という価格が成立するのである。このように,株式商品や土地商品ほ,
その価格決定の中心となるべき価値をもたないが,その価格ほ,配当や地代の
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