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日米外交の再検証 : 核密約の淵源を求めて

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日米外交の再検証 : 核密約の淵源を求めて

著者 黒崎 輝

雑誌名 PRIME = プライム

号 33

ページ 3‑21

発行年 2011‑03

URL http://hdl.handle.net/10723/1027

(2)

はじめに

 1960年の日米安全保障条約改定時、日米両政府 は日本への核兵器の持ち込みに関して密約を結ん でいたのではないか。これまで多くのジャーナリ ストや研究者が、その真相の解明に挑んできた。

同年1月に現行の日米安保条約(正式名称は「日 本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全 保障条約」)が調印された際に日米間で交わされ た「条約第6条の実施に関する交換公文」(岸・

ハーター交換公文)に基づき、米軍が日本に核兵 器を持ち込む場合には、米国政府が日本政府と事 前に協議することになった。日本政府の説明によ れば、事前協議の対象となる「持ち込み」には核 兵器を搭載した米国艦船の日本への一時寄港も含 まれたはずであった。ところが、関係者の証言や 米国政府の機密解除文書の調査を通じて、米国の 核搭載艦船の寄港は事前協議の対象としないこと に日米両政府が合意していた疑惑が浮かび上が り、その実態を明らかにする作業が続けられてき たのである。

 さらに2009年の総選挙の結果、長年政権の座に あった自由民主党が下野して民主党政権が誕生す ると、外務省が密約調査に乗り出した。調査対象 になった四つの密約には安保改定時の核密約も含 まれた。この調査は、岡田克也外相(肩書は当時)

の委嘱で密約調査にあたった有識者委員会が、

2010年3月に報告書を同外相に提出して終了し た。そこには、従来の日本政府の説明に反し、米 国の核搭載艦船の一時寄港を事前協議の対象から 除くという「暗黙の合意」あるいは「広義の密約」

が日米間に存在したとの結論が盛り込まれた(1)。 これは政権交代の成果とみなすことができるが、

核密約の実態解明を通じて日本の非核三原則の実 相や、日本における外交の民主的統制の在り方を 検証しようという、地道な努力が行われてきたこ とも忘れてはなるまい。

 本稿は、こうした核密約の実態解明の進捗状況 を踏まえつつ、従来の研究とは異なる視角から安 保改定交渉以前の核持ち込みをめぐる政治と外交 を再検証する。そのために本稿が主な考察対象と するのは日本の国会での核持ち込み論議である。

核密約に関する研究が核持ち込みをめぐる国会論 議に全く関心を払ってこなかったわけではない。

しかし、その問題関心からすると当然のことだ が、日米両政府の政策過程や政府間の外交過程が 主な考察対象とされ、安保改定交渉以前に国会で どのような核持ち込み論議が行われていたかにつ いて十分検討されてきたとは言い難い。その結 果、安保改定交渉以前に国会で表明された核持ち 込みに関する日本政府の政策的立場を、同交渉や 国会での条約審議における日本政府の対応と関連 付けたり、比較したりする作業も手付かずのまま 特集:日米安保を問い直す

安保改定交渉以前の核持ち込みをめぐる国会論議と日米外交の再検証

─核密約の淵源を求めて─

黒 崎   輝

(福島大学准教授・PRIME客員所員)

(3)

になっている。そのための予備的考察を行うこと が本稿の課題である。

 このような問題意識に基づく本稿は、安保改定 時に核持ち込みの事前協議に関する米国政府の立 場と日本政府の国内向けの説明との間に生じた乖 離に焦点を合わせる。安保改定の時点では日米間 に「暗黙の合意」すら成立していなかったとの判 断を有識者委員会は示した(2)。ただ、その一方 で米国の核搭載艦船の寄港は事前協議の対象から 除くという米国政府の立場を、日本側が全く認識 していなかったわけではないとも同委員会は指摘 している(3)。そうだとしたら、米国の核搭載艦 船の寄港は事前協議の対象に含まれるとの見解 を、新日米安保条約の国会審議を通じて日本政府 が明らかにしたことはどのように説明できるだろ うか。他方、米国政府は日本政府の解釈に公には 異議を唱えなかったが、それはなぜか。こうした 疑問について考えるための手がかりが、核持ち込 みをめぐる国会論議を再検証することで得られる のではないか、という問題意識も本稿の根底に流 れている。

 結論を先取りして言うと、本稿は二つのことを 明らかにする。まず、安保改定交渉以前から、核 持ち込み協議について米国政府の立場とは異なる 説明を日本政府が国内向けに行い、それを米国政 府が黙認するという構図が日米間に定着しつつ あった。鳩山・石橋・岸政権は日本への核持ち込 みを拒否する意志を表明しただけでなく、日本に 核兵器を持ち込む場合、米国政府は日本政府と協 議するという合意ないしは了解が日米間にあると 説明した。そして米国政府はそれを公に否定しな かったが、そのような了解は存在しなかったので ある。保守陣営と革新陣営の政治対立が続くな か、核兵器に対する国民の拒否感情が日本政府に とって無視できない存在になっていたという事情 が背景にあった。本稿は、新日米安保条約の国会 審議において、米国の核搭載艦船の寄港は事前協

議の対象に含まれるという独自の解釈を日本政府 が表明したことを、このような欺瞞の積み重ねの 延長線上に位置づける。また、そうすることで、

安保改定交渉やその後の国会審議への日本政府の 対応に影響を与えていた日米関係の構造的要因に ついて考えてみたい。

 本稿は、安保改定の成果として核持ち込みを事 前協議の対象とするという日米合意が成立したに もかかわらず、そこには米国の核搭載艦船の寄港 は含まれないとは国民に向かって説明しづらい立 場に岸政権が置かれていたことも明らかにする。

具体的には安保改定交渉以前の核持ち込みをめぐ る国会論議を考察し、以下の3点を指摘する。す なわち、①米国の核搭載艦船が日本の領海を通過 したり、日本の港湾に立ち寄ったりする可能性を めぐって論議が行われていたこと、②安保改定を 進めた岸信介が、日本の領土のみならず領海や領 空への核持ち込みも拒否する考えを表明していた こと、③米国の核搭載艦船の寄港について米国政 府と協議することはできないとは岸が言明しな かったこと、である。安保改定交渉で核搭載艦船 の寄港の問題が議論されなかった理由として、① 問題を忘れていた可能性、②錯誤が生じた可能 性、③意図的に明確化を回避した可能性が有識者 委員会報告では検討されているが(4)、少なくと も①の可能性は考えにくいことも本稿の考察から 明らかになろう。

 以下、本稿は次のように論を進める。まず1950 年代後半に日本国内で核持ち込みが政治問題化し た背景や、日本への核持ち込みの実態を確認す る。次に日本では鳩山・石橋・岸政権期にあたる 1955年から1957年の時期に遡り、国会論議を通じ て核持ち込みへの対応や米国との協議に関して日 本政府がどのような経緯で、いかなる見解を明ら かにしたか考察する。そして安保改定交渉が始ま る前の1957年から1958年前半の時期に焦点を合わ せ、米国の核搭載艦船の日本寄港に関してどのよ

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うな議論が国会で行われ、いかなる見解を岸政権 が明らかにしていたかを考察する。最後に本稿で 明らかにしたことと照らし合わせながら、新日米 安保条約をめぐる国会審議への日本政府の対応を 考察し、今後の研究課題を提示することにしたい。

Ⅰ 核持ち込みをめぐる国会論議と日米両政府の 対応、1955−1957年

 1950年代後半、日本国内ではたびたび日本への 核兵器の持ち込みが政治問題になり、日本政府の 対応をめぐって激しい国会論戦が繰り広げられ た。核持ち込みに関する日本政府の立場は、そう した国会での議論を通じて形作られたといってよ い。日本政府は核問題に関する自らの立場を積極 的に表明しようとはせず、野党の追及に応える形 で核持ち込みに関する立場を明らかにすることが 多かったからである。本節では、1950年代後半に 核持ち込みが政治問題となった背景や、米軍によ る日本への核持ち込みの実態を確認した上で、

1955年から1957年の時期に、核持ち込みへの対応 や米国との協議に関して日本政府が国会で表明し た政策的立場を考察する。

1 核持ち込みが政治問題になった背景

 1950年代後半に日本国内で核持ち込みが政治問 題となった背景からみていこう。まず、日米両政 府が1951年に結んだ旧日米安保条約と行政協定

(正式名称「日本国とアメリカ合衆国との間の安 全保障条約第3条に基づく行政協定」)は、米軍 が日本に持ち込む兵器を制限していなかった。核 兵器も例外ではなく、日本が核兵器の持ち込みを 拒否したり、核持ち込みに関する協議を米国に求 めたりしても、それに米国が応じる法的義務はな かった。米国による日本占領の終結後も日本に米 軍を駐留させるために結ばれた「駐軍条約」とし ての旧日米安保条約の性格が、ここに如実に表れ

ていた。さらに行政協定第5条によって航空機・

艦船を日本の飛行場や港湾に出入りさせる権利を 米国は持ち、それを阻止することは日本にできな かった(5)。旧日米安保条約の下では核兵器を搭 載した米国の航空機や艦船が、原則的に自由に日 本に立ち寄ることができる状況にあった。

 こうしたなか、1953年1月に米国で発足したア イ ゼ ン ハ ワ ー(Dwight D. Eisenhower) 政 権 は

「ニュールック」政策を採用し、西側防衛の手段 として核兵器を重視する姿勢を鮮明にする。1954 年1月にダレス(John Foster Dulles)国務長官が 明らかにした「大量報復」戦略は、ソ連に対して 米国が圧倒的優位に立つ戦略空軍による核報復力 に依拠した核抑止戦略であった(6)。またアイゼ ンハワー政権は、冷戦の主舞台となった欧州では ソ連・東欧諸国が西欧諸国に対して通常戦力で優 位に立っているとの認識から、同盟国支援のため に米国外での核兵器の貯蔵・配備を進めた。1950 年代後半に入ると、米国内外に配置された陸軍部 隊の核装備化が図られ、「ペントミック師団」と 呼ばれる原子力部隊が登場した(7)。1957年12月 には北大西洋条約機構(NATO)で米国の中距離 弾道ミサイル(IRBM)の欧州配備が決定され た(8)。加えて米国は、欧州や極東などソ連・中 国の周辺地域に展開される米海空軍の核装備の強 化を図った(9)

 その一方で日本国内では、第5福竜丸事件を契 機に反核感情が醸成されつつあった。米ソ両国が 水爆開発競争を繰り広げていた1954年3月、米国 が太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行ったとこ ろ、米国が設定した危険区域の外を航行中の日本 のマグロ漁船・第5福竜丸の乗組員が同実験から 生じた放射性降下物を浴びて被曝した。この事件 は多くの日本人に広島・長崎の被爆体験を想起さ せ、日本人が三度核兵器の犠牲者になったことに 対する強い憤りを感じさせた。さらに事件後にマ グロなど水産物から放射能が検知され、各地で放

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射能を含んだ雨が観測されるといった事態が続い たことは、日々の生活が核実験によって脅かされ る恐怖や不安を大衆に抱かせた。その結果、日本 社会では被爆体験を共有する国民としての意識が 形成され、反核感情が高まることになる。第5福 竜丸事件後、全国各地で澎湃と沸き起こった原水 爆禁止を求める草の根の運動は、その現れであっ た(10)

 日本の国内政治に目を転じると、保革対立の構 図の下で日本の外交・安全保障政策の根幹に係わ る日米安保条約と再軍備が主要な政治争点になっ ていた。本稿の考察時期、日本の保守政権は一貫 して対米協調を日本外交の基軸とし、日米安保条 約に基づいて日本の安全を確保しながら、漸進的 に日本の防衛力を増強することに努めた。1955年 11月に保守合同が実現し、自由民主党が結成され たことは、保守政権、ひいては日米安保体制の国 内政治基盤の強化を意味していた。とはいえ、革 新陣営では日米安保条約や再軍備に対して批判的 な声が強かった。1951年に日本社会党が右派と左 派に分裂した後、左派社会党は非武装中立を唱え ていた。そしてこの路線は1955年10月に再統一さ れた社会党に受け継がれた(11)。1950年代後半、

最大野党の社会党は米軍による日本への核兵器の 持ち込みや自衛隊の核武装に反対するが、それは 非武装中立という同党の基本政策に根差していた といえよう。

 このような保革対立の構図の下、核問題に関す る国内世論を無視することは日本政府にとって政 治的に困難になった。1950年代後半、核兵器に対 する拒否感情が「国民感情」へと成長し、その代 弁者の地位をめぐって保守陣営と革新陣営の競合 関係が生まれたためである。つまり、一方では革 新陣営が核実験や核持ち込みへの反対を通じて日 米安保条約や再軍備の問題点を浮き彫りにし、国 民の反核感情を日米安保条約・再軍備反対に導こ うとしていた。他方、国民感情の代弁者の地位が

革新陣営に独占され、反核世論をコントロールで きなくなる事態を避けるため、政府・自民党は慎 重に対応する必要に迫られた。第5福竜丸事件後 も核実験を繰り返していた米国やイギリス、ソ連 に対して鳩山政権や岸政権が抗議外交を展開した 背景には、そうした日本の国内事情があった(12)。  核持ち込み問題への米国政府の対応を理解する ためには、前述のような日本の国内状況が米国政 府の対日外交に及ぼした影響に留意する必要があ る。当時、米国政府は日本をアジアにおける冷戦 政策の要石と位置付けていた。ところが、保守合 同以前の保守政権の政治基盤は不安定であった し、自民党結成後も激しい保革対立が続いてい た。そのため、日本の中立化や米国離れに対する 不安を米国政府は少なからず抱えていた(13)。こ のような状況の下、日本の保守政権の政治基盤を 弱めるようなことは避けなければならない立場に 米国政府は置かれていたといえる。そのため米国 政府は、核兵器に対する国民の拒否感情に配慮 し、核問題への対応に苦慮する保守政権の立場に 一定の理解を示すことになる。

2 日本への核持ち込みの実態

 核持ち込みに関する米国政府の立場や、日本国 内の核持ち込み論議に対する理解を助けるため、

米軍による日本への核持ち込みの実態も確認して おきたい。結論から言うと、直ちに実戦で使用可 能な核兵器を日本本土において米軍が貯蔵した り、配備したりすることはなかった。しかし、ア イゼンハワー政権が核兵器を軍事戦略の中心に据 え、米国外での核兵器の貯蔵・配備を推し進めた ことに伴い、日本は着実に米国の核戦略に組み込 まれていった。

 米国の核搭載艦船の寄港に関する米国政府の立 場に直接係わるが、1953年から核兵器を搭載した 米国の航空母艦が日本に寄港していた。当時、米 国の核爆弾はコアと呼ばれる核物質部分(nuclear

(6)

component)と、それを取り除いた弾体部分(non- nuclear component)とに分けて貯蔵されていたが、

その年から核物質部分が弾体部分と共に空母で貯 蔵されるようになったという事情が背景にあっ た。なお、同年10月に横須賀に寄港した第7艦隊 所属の空母オリスカニが、日本に初めて寄港した 米国の核搭載艦船とみられている(14)

 さらに当時、日本本土では秘密裏に弾体部分が 貯蔵されていた。米軍部は核攻撃作戦の兵站拠 点、出撃基地として日本を利用したいと考え、

1954年末から弾体部分の貯蔵が始まった後も、核 物質部分を日本で貯蔵することや、在日米軍によ る核兵器の使用について日本政府から事前許可を 取り付けることを希望していた。結局、日本の国 内事情を考慮して核物質部分の貯蔵や事前許可の 申し入れは見送られたが、1965年7月に弾体部分 が日本から完全に撤去されるまでの間、極東有事 の際には、沖縄から数時間でコアが日本本土へ運 ばれ、ソ連や中国に対する軍事作戦を遂行するた めに日本を核攻撃基地として使用する態勢が整え られた(15)

 いうまでもなく、こうした核貯蔵や軍事活動の 実態は公にされなかったものの、日本国内で核持 ち込みに対する不安を掻き立てるような米軍の動 きがみられた。たとえば1955年8月、核・非核弾 頭を装着したロケットを発射可能なオネスト・

ジョンが日本に陸揚げされ、米軍の東富士演習場

(静岡県)や北富士演習場(山梨県)、島松演習場

(北海道)で試射が行われた(16)。また1956年11月 から核兵器を積載できる米空軍のF100戦闘爆撃 機が日本に常駐するようになった(17)。1958年7 月には核兵器を搭載可能な米空軍B57爆撃機が ジョンソン基地(現在の航空自衛隊入間基地)に 着陸しようとした際、埼玉県狭山市内に墜落する 事故を起こしている(18)。後述するが、1957年に 入ると第7艦隊の核装備化の進展を示唆する米軍 関係者の発言が日本で報道されたこともあっ

(19)。米軍政下の沖縄では米軍が基地を自由に 使用できる状況にあり、1955年に始まった原子砲 の配備は日本本土でも注目された(20)

3 鳩山政権期の核持ち込みをめぐる国会論議  以上で概観した時代状況を背景として、1950年 代後半、日本政府は日本への核兵器の持ち込みを 拒否する意向を国民に対して繰り返し表明した。

その先鞭をつけたのは鳩山政権であった。しかも 鳩山政権は、核兵器の持ち込みに関して米国政府 は日本政府と事前に協議するとの了解が日米間に あることを明らかにした。核持ち込みに関する日 本政府の政策の形成に鳩山政権は重要な役割を果 たしたといってよい(21)

 もっとも鳩山政権は積極的に核持ち込み拒否を 表明したわけではない。1955年3月、鳩山が外人 記者との会見で日本に原爆貯蔵を認めてもよいよ うな発言を行ったと報道された。これをきっかけ に第22回国会では米軍による日本への核持ち込み が問題となり、左派政党は政府の対応を問い質し た。それに応える形で鳩山首相は、「機会をみて 原爆の貯蔵を内地でしないよう米国側の言質を とっておきたい」との意向を示したのに続き(22)

「原爆貯蔵について米国から相談があった場合に は断じて同意しない」と確言したのだった(23)。 核持ち込みに対する国民の不安感を払拭し、野党 の追及をかわすことに、その狙いがあったと考え られる。

 しかし、その後も核持ち込みをめぐる論戦は続 き、そうした一連の答弁は皮肉にも鳩山政権を いっそう難しい立場に追い込んだ。前述の通り、

旧日米安保条約や行政協定には米国が日本に持ち 込む兵器を制限する明文の規定がなかったため、

いかなる法的根拠に基づいて日本は米軍の核持ち 込みを拒否するのか、そもそも米国が核持ち込み について日本に協議を申し入れる保証はあるの か、といった問いに対して説得力のある回答を行

(7)

う必要に迫られたためである。

 こうしたなか、重光葵外相が国会答弁の中で注 目すべき事実を明らかにした。同年5月31日にア リソン(John M. Allison)駐日米大使と会談した 際、「将来(米国が──括弧内は引用者)原爆を 持ち込む場合においては、…(中略)…日本の承 諾なくして原爆は持ち込まないのだ」と国会で説 明することに同大使から了解を得ていると言明し たのである。6月27日の衆議院内閣委員会でのこ とであった(24)。さらに第22回国会会期末になっ てオネスト・ジョン配備問題が論議の的になる と、杉原荒太防衛庁長官や下田武三外務省条約局 長も、国会答弁の中で「重光・アリソン了解」に 言及しながら政府の立場を説明した(25)。  だが、先行研究で指摘されている通り、「重光・

アリソン了解」なるものは実在していなかった。

米国政府の機密解除文書からは、国会で厳しい追 及を受けていた重光が、5月31日の会談でのアリ ソンの発言を手前勝手に解釈して前述のような答 弁をしていたことが窺える。そのため、重光に対 してアリソンは内々に強く抗議している。しか し、米国側は重光の希望通り、「重光・アリソン 了解」が存在しない事実を公にはしなかった(26)。 それは日本の国内事情を考慮した結果であっ た(27)。米国政府は「重光・アリソン了解」の存 在を否定することで、日本人の反核感情を刺激し たり、保守政権の面子を傷つけて革新政党を鼓舞 したりするようなことは避けた。

4 石橋・岸政権期の核持ち込みをめぐる国会論

 1956年12月に鳩山政権が退陣した後、第26回国 会では再び核持ち込み問題をめぐって活発な議論 が行われた。そこで野党の追及の矢面に立たされ たのは岸信介であった。自民党総裁選に勝利した 石橋湛山が鳩山から首相職を引き継ぎ、新内閣の 外相には総裁選に敗れた岸信介が就任した。とこ

ろが首相就任後まもなく石橋は体調を崩し、岸が 臨時首相代理を兼ねることになった。1957年2月 25日には石橋内閣が退陣して岸を首班とする新内 閣が発足するが、同年7月の内閣改造まで外相も 兼務した。そのため岸は、核持ち込みをめぐる論 戦で日本政府の立場を説明する役回りを演じるこ とになる。なお、その内閣改造によって藤山愛一 郎が外相として入閣した。あらためて言うまでも ないが、後に彼は岸とともに安保改定交渉に深く 関わることになる。

 では野党の追及に岸はどう対応したのか。端的 に言えば、鳩山政権の立場を踏襲した。1957年1 月、米国防総省当局が「原子力支援部隊を日本と 沖縄に駐留させることを検討中だ」と言明したと の報道がなされると、社会党は原子力部隊配置に 反対の立場を固め(28)、核持ち込みへの日本政府 の対応を国会で厳しく問い質した。対する石橋政 権は、米国から原子力部隊を日本に進駐させたい との相談があった場合には、政府としては承諾を 与えない、と2月8日の閣議で申し合わせ(29)、 その線に沿って岸が国会で答弁を行った。しかも 岸は「重光・アリソン了解」に言及しつつ、米国 が日本に核兵器を持ち込むときには日本に相談が あるはずであるとの認識を披歴した(30)。そして 首相就任後も岸は、5月に国会会期が終了するま での間、核持ち込みに関して同様の説明を行って いる(31)

 このような岸の対応はひとつの疑問を生む。

「重光・アリソン了解」 が存在しないことを岸は 知っていたのだろうか。この了解が日米間で問題 になった1955年7月当時、重光に加え、外務省の 門脇季光事務次官(肩書は当時、以下同様)、谷 正之顧問、下田武三条約局長、それに井口貞夫駐 米大使は 「重光・アリソン了解」 が存在しない事 実を知っていたことが、米国政府の外交文書に よって確認できる(32)。したがって、その事実を 岸が知らなかったとしたら、重要な組織内情報が

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重光の後任に引き継がれなかったことになる。逆 に岸が知っていたとしたら、首相自ら意図的に 誤った情報を国民に繰り返し伝えていたことにな る。前者の場合であれば、政府内の情報管理や政 治家と官僚の関係という観点から、後者の場合で あれば、政府の説明責任という観点から問題があ ると批判されても仕方あるまい。

 いずれにせよ、6月に岸首相が米国訪問から帰 国した後、核持ち込みへの対応に関する岸政権の 説明に変化が現れた。社会党の要望を受けて7月 末から国会閉会中に各種の委員会が開かれること になり、7月31日の衆議院外務委員会で岸首相 が、「核兵器その他装備の問題」は日米両政府が 設置に合意した政府間委員会の議題になるとの認 識を示したのである(33)。訪米時に行われた日米 首脳会談の「共同声明」の中で、米軍の「日本に おける配備及び使用」を含め、日米安保条約に関 して生じる問題を検討するために政府間委員会を 設置するとの合意が発表されており(34)、前述の 答弁は訪米の成果を踏まえたものであった。そし て以後、岸は同様の説明を国会答弁の中で繰り返 し、核持ち込みについて米国が日本と協議する根 拠として「重光・アリソン了解」に言及すること はなくなった。

 当時を振り返ると、日本国内では日米安保条約 に対する不満が高まっていた。1956年の日ソ国交 正常化を経て、日本は悲願であった国際連合への 加盟を許された。また、戦後復興を終え、高度成 長の時代へと日本は歩を進めており、日本人は自 信を取り戻しつつあった。そうしたなか、日米安 保条約に基づいて占領後も日本に駐留し続ける米 軍は、占領期の残滓として人々の目に映ってい た。折しも1957年1月には相馬ヶ原演習場で米兵 が農婦を射殺するという事件(ジラード事件)が 起こり、日本国内の対米感情はさらに悪化し た(35)。日米安保条約の不平等性が批判され、同 条約の改定や廃棄を求める声が強まる。

 このような状況の下、岸政権とアイゼンハワー 政権は日米関係を調整する必要性を認識してい た。その結果、安全保障分野での取り組みとして、

前述の日米首脳会談での合意に基づき、8月に

「安全保障に関する日米委員会」(以下、日米安保 委員会と略称)が発足した(36)。また岸訪米に合 わせ、1958年中に在日米軍の兵力を陸上戦闘部隊 の撤退を含めて大幅に削減するとの米国の計画が 明らかにされ、翌年2月には陸上戦闘部隊の日本 からの撤退が完了した(37)。日米両政府は日米安 保条約の改定に踏み込むことなく、日米安全保障 関係の現状に対する日本人の不満の軽減に努めて いたといえる。核持ち込みを協議する場という日 米安保委員会の機能を岸が強調した狙いも、そこ にあったと推察できる。

 ただ、核持ち込みも日米安保委員会で協議され るという岸の説明には虚偽が含まれていた。日米 安保委員会の権限や責任が限られているような印 象を日本の国民に与えたくないと岸は考えてお り(38)、そうした説明によって核持ち込みへの国 民の不安を和らげ、野党の追及により効果的に対 処できると、岸が期待していた節がある。しかし、

核持ち込みを同委員会の協議事項とするという合 意は日米間に存在せず、それを協議義務とは米国 側が認めていないことを外務省は明確に認識して いた(39)。一方、米国政府がどのように岸の国会 答弁を受け止めたかは不明だが、それを公に否定 することはなかった。

Ⅱ 米国の核搭載艦船の寄港をめぐる国会論議、

1957−1958年

 前節でみた通り、1955年から1957年前半の時期、

米軍による日本での核兵器貯蔵や原子力部隊の日 本駐留といった問題が国会で取り上げられた。当 時はまだ、日本に核兵器が持ち込まれる場合とし て想定されていたのは、日本国内で米軍が核兵器

(9)

を貯蔵・配備するような事態であった。ところが 1957年に入ると米国の核搭載艦船が日本の領海を 通過したり、港湾に入ったりする可能性が指摘さ れ、核持ち込みの問題として議論されるように なった。安保改定交渉が始まる前、この問題をめ ぐってどのような議論が国会で行われ、どのよう な政策的立場を日本政府は明らかにしていたのだ ろうか。本節では、このような問題意識から、

1957年から1958年前半の時期の核持ち込みをめぐ る国会論議を考察する。

1 米国の核搭載艦船の寄港をめぐる国会論議の 萌芽

 まず注目したいのは、第26回国会で第7艦隊に よる日本への核持ち込みが話題になったことであ る。そのきっかけとなったのは、第7艦隊の核装 備化の進展をほのめかす米軍関係者の発言であっ た。1957年1月末に第7艦隊司令官のインガーソ ル(Stuart H. Ingersoll)中将が沖縄停泊中の空母 上で、「数カ月間にわたり原爆攻撃を行うことが 可能となった第7艦隊に、さらに最新、最強の誘 導兵器が急速に装備されつつある」と語ったこと が日本で報じられた(40)。すると2月11日の衆議 院予算委員会で川上貫一(共産党)がインガーソ ルの発言を引用し、日本に相談なく米国は原爆を 持ち込んでいるのではないかと問題を提起したの である。これに対して答弁に立った岸は、イン ガーソル発言は日本に原爆が持ち込まれている証 拠にならないと論じ、「重光・アリソン了解」が あるので日本に相談なく米国が原爆を持ち込むこ とはないと断言している(41)。第7艦隊がどのよ うな形で核兵器を持ち込む事態を川上が想定して いたのかはっきりしないものの、この質疑応答は 米国の核搭載艦船の寄港をめぐる国会論議の嚆矢 とみなすことができる。

 この問題をめぐる国会論議の深まりを確認する ため、次に6月の岸訪米後に国会で開かれた各種

の委員会での議論を考察したい。政府を追及する 側からみていくと、社会党は核兵器を搭載した米 国の航空機や艦船が日本に立ち寄る可能性を指摘 し、日本政府の対応を厳しく問い質した。岸訪米 時に在日米軍兵力を大幅に削減するという米国の 計画が明らかにされた結果、原子力部隊の駐留と いう形で日本国内に核兵器が持ち込まれる可能性 が低下し、核持ち込み批判の矛先が核兵器を搭載 した米国の航空機や艦船の問題に向けられやすい 状況が生れていたという事情が、その背景にあっ た。

 一方、日本政府は注目すべき政策的立場を表明 した。核搭載可能な航空機や艦船であるという理 由だけで、それらを核兵器として扱うことはしな いという見解を岸が明らかにしたのである。8月 16日の参議院内閣委員会では次のような応酬が あった。すなわち、板付や千歳、横田の米軍基地 に原爆搭載可能な爆撃機が駐留しており、第7艦 隊は戦術核や小型水爆を常備していると亀田得治

(社会党)が指摘したのに対し、核兵器を搭載可 能な飛行機や艦艇を原子兵器というかは兵器の解 釈の問題であるが、そうは考えないとの見解を岸 は披歴した。核兵器搭載可能な航空機や艦船が日 本に来ていれば、日本は原水爆基地になっている と敵側に解釈されて当然であると亀田は反論した が(42)、そのように核持ち込みを広く捉えことに 岸は賛同しなかった。

 この核兵器の定義をめぐる論戦をみると、当時 の核持ち込み論議が日米安保条約をめぐる保革対 立に影響されていたことがよく分かる。というの は、日米安保条約に基づいて日本が米国の軍事戦 略に組み込まれることに反対の立場から、亀田は 核持ち込みの意味をできるだけ広く捉え、核搭載 可能な航空機や艦船が日本に入ることにも反対し たと考えられるからだ。その一方で岸は、対米協 調重視の立場から米軍の軍事行動を制約するよう な見解を一方的に国会で表明することを避けたと

(10)

いえよう。また、核搭載可能であれ、米国の航空 機や艦船の日本への立ち寄りを制限することは、

対米関係の観点からだけでなく、日本の安全保障 の観点からも望ましくないと岸が考えていた可能 性もある。1957年5月下旬にダレスに送った書簡 で岸に関してマッカーサー(Douglas MacArthur

Ⅱ)駐日米大使は次のように報告している。世界 情勢や日本を重要な標的にする極東の共産主義の 脅威について基本認識を米国側と同じくしてお り、日本が世界戦争を防ぐ米国の核抑止力に依存 していることを認め、侵略に即応できる「機動打 撃力」の概念についても米国側と同じ見解であ る(43)

2 非核武装決議をめぐる政治

 1957年12月に開会した第28回国会でも核持ち込 みが争点になった。1958年4月25日に岸が衆議院 を解散するが、その間、社会党は米軍の核持ち込 みや自衛隊の装備近代化によって日本が核武装に 向かう可能性を指摘し、非核武装決議案への賛同 を自民党に呼びかけた。また、これまであまり注 目されてこなかったが、米国の核搭載艦船の領海 通過や立ち寄りの問題も取り上げられ、興味深い 論戦が繰り広げられた。

 そうした核持ち込み論議の背景からみていこ う。まず、1957年10月にソ連が人類初の人工衛星 スプートニク1号を打ち上げ、その科学技術力の 高さと大陸間弾道ミサイル(ICBM)能力の発展 を西側世界に強く印象付けた(44)。そして、その 波紋は日本国内の安全保障・防衛論議にも及んで いた。秋の第27回臨時国会で社会党は、日米安保 条約・再軍備反対の立場から次のような問題を提 起し、政府を追及している。それは、①

ICBM

な どミサイル兵器の進歩により、在来兵器で装備し た自衛隊は無力、無用となるのではないか、②と くに昭和35(1960)年度末までに18万に増員する 陸上自衛隊の増強は不必要となるのではないか、

③ミサイル戦に対応するため、結局は米軍の核兵 器の国内持ち込みを認めることになるのではない か、といった点であった(45)

 こうしたなか、ソ連の

ICBM

に対抗する当面 の措置として、米国の

IRBM

の欧州配備が同年 12月の

NATO

首脳会議で原則合意された(46)。そ の上

IRBM

を沖縄およびその他の極東地域でも 配備する可能性を示唆する米国政府関係者の発言 が日本でも報道されたことは(47)、日本への核持 ち込みの懸念を生んだ。第28回国会で社会党は、

核持ち込み反対の立場から米国の

IRBM

日本配 備要請への対応を政府に問い質している(48)。  もうひとつの背景として、日本政府が核保有し ないと言明する一方、現行憲法の下でも核保有は 可能との見解を明らかにしていたことを指摘でき る。1957年4月に「攻撃的核兵器」の保有は違憲 との政府見解が発表され、「自衛権の範囲内であ れば原子力を用いても差し支えない」との考えを 岸首相は国会で繰返し披露していた(49)。しかも、

1957年末に自衛隊の装備の近代化の一環として、

空対空誘導ミサイル・サイドワインダーが米国か ら自衛隊に供与されることになり、自衛隊の核武 装に対する革新陣営の警戒感がいっそう強まっ た。第28回国会の冒頭から社会党はサイドワイン ダー供与を取り上げ、それは単に自衛隊の装備を 近代化するためだけでなく、ゆくゆくはこれを糸 口にして核兵器を日本に持ち込み、日本を米国の 原子戦略体制の一環とするものだと主張した(50)。  さらに日本の国内政治事情も絡んでいた。1958 年に入ると、すでに前回の総選挙から3年が経 ち、その間に内閣が三つも変わっていたことか ら、衆議院の解散は近いとの観測が強まってい た(51)。また、日米安保条約反対の立場から駐留 米軍や在日米軍基地の問題に取り組んできた社会 党は、それに代わる新たな争点を探さねばならな くなっていた。米軍の陸上戦闘部隊の撤退が1958 年2月に完了し、駐留米軍のプレゼンスが大幅に

(11)

縮小したためである。社会党は日米安保条約反対 の矛先を核持ち込み問題に向けることで、党勢の 維持・拡大を図ろうとしていたと考えられる。

 このような日本国内外の状況の下、日本の非核 武装化の方途をめぐって与野党の立場の違いが表 面化した。1月29日の衆議院本会議で社会党委員 長の鈴木茂三郎は、日本を含むアジアで「核非武 装地帯」と「不侵略条約の平和体制」の実現をめ ざすという社会党の構想を明らかにした。前者は おそらく、ソ連・東欧諸国が支持していた中央 ヨーロッパ非核兵器地帯案を意識したものであっ た。これに対して岸は、核持ち込みを認めないと の決意を改めて表明した。その上で、現在の国際 情勢に照らすと核非武装地帯や不侵略条約体制は 実現可能とは思われないと論評し、「現実的な政 策でもって進んで参りたい」と答弁した(52)。「自 由主義諸国との協調」を外交の基本原則のひとつ に掲げ、日米安全保障関係の調整を模索していた 岸政権が、親ソ的色彩を帯びた提案を支持しな かったのは当然であろう。

 その一方で社会党は、日本の非核武装化を宣言 する国会決議の採択を提唱し、政府・与党に対す る攻勢を強めた。3月31日にソ連が一方的に原水 爆の実験停止を実施すると声明すると、4月1日 には「核兵器実験停止のための決議案」と「日本 を核武装禁止地帯として宣言する決議案」を自 民・社会両党の共同提案の形ですみやかに衆参両 院で決議したいと自民党に申し入れた。これに対 して自民党は核実験禁止決議案を支持することに し、4月18日に自民・社会両党共同提案の「原水 爆実験禁止決議案」が衆議院本会議にて全会一致 で可決された。しかし、その一方で自民党は日本 非核武装宣言決議案には同調しないことに決め た。社会党は衆議院解散後も同提案への賛同を自 民党に促したが、自民党はこれに応じなかっ た(53)

 このような与野党の駆け引きは1959年6月の参

議院選挙の前に再演された。第31回国会の闘争方 針の一つとして、非核武装、原水爆の製造・保有 禁止を要求することを決めた社会党は、自社共同 提案による非核武装決議案の採択を自民党に呼び かけた。その結果、一旦は両党国会対策委員長会 談で両党折衷案がまとまり、この案は自民党で了 承された。ところが、非核武装決議について、「一 切の核武装はしない」と統一解釈することや、核 兵器を保有しないことを再確認するだけでなく、

「宣言する」ことを社会党が要求したため、両党 の調整は暗礁に乗り上げた。結局、両党の意見が 一致せず、非核武装決議案の共同提案は頓挫し た。このため自民党は「国際平和の保持ならびに 核兵器に関する決議案」を、社会党は「非核武装 に関する決議案」をそれぞれ国会に提出する予定 であったが、これも結局立消えとなった(54)。  それは日米両政府にとって悪い結果ではなかっ た。国会で非核武装決議が問題になっていた1959 年2月6日、マッカーサーは藤山と会談した際、

「本件はシアリアスな問題である」との認識を示 し、「核非武装は日本を孤立化し、共産側が何時 でも掌握し得る態勢に持って行く一つの方途であ るから日本政府がうまく扱ってくださることを期 待して止まず」と、適切な対応を日本側に求めた。

これに対して藤山は、「本件に関しては見解を同 じくするものである」と応じている(55)。社会党 の攻勢にマッカーサーが憂慮の念を深めていたこ とが、この会談の記録から窺える。安保改定交渉 の最中のことであった。

3 米国の核搭載艦船の立ち寄りをめぐる国会論

 第28回国会では核兵器を搭載した米軍の航空機 や艦船の領空・領海通過や日本への立ち寄りと いった問題も取り上げられた。この問題に社会党 が着眼するきっかけになったのは、イギリスでの 出来事であった。「米空軍の爆撃機は英国内の基

(12)

地から水爆を積んで警戒飛行を行っているが、米 機が水爆を積むのは当然だと考える」とロイド

(Selwyn Lloyd)外相が英議会下院で言明したと、

日本国内で報じられたのである(56)。さらに米国 が陸上戦闘部隊の日本からの撤退を進めるという 事態も重なり、米軍に基地を提供することによっ て日本への核持ち込みが既成事実化しつつあると の論法で、社会党が政府を追及するようになっ た。これに岸政権はどう対処したのだろうか。

 最初に指摘したいのは、核兵器を積んだ米国の 航空機や艦船の領空・領海の通過を拒否する考え を岸が明らかにしたことである。2月14日の参議 院本会議にて、「領空、領海内に持ち込む場合も、

当然含めて拒否をする態度なのか」と、藤田進

(社会党)が問い質したのに対し、「領土のみなら ず、日本の領海、領空に対して、これが持ち込ま ないことに関しては同じような態度で進む考えで あります」と、岸は答弁している(57)。その上で 岸や藤山は、核装備した米国の航空機や艦船が日 本の領空、領海を通過したり、進入したりした事 実はないと繰り返し言明し、そのような事態が起 こるのではないかといった余計な疑念を生まない ように努めた(58)

 それでは米国の核搭載艦船が実際に日本に立ち 寄る可能性について岸政権はどのように認識して いたのか。この点に関して興味深い論議が行われ たのは、4月18日の参議院内閣委員会である。田 畑金光は第7艦隊に核兵器が装備されていると指 摘し、「原水爆を塔載した飛行機、あるいは原水 爆を積載した軍艦が、理論上はわが国に来ること があり得る」かと質問した。これに対して岸は、

「領海を通過するとか、あるいは何か給水その他 の何でもって一時入ってくるとかいうような場 合」は、理論上あり得るとの認識を示したのであ る(59)

 しかし、この日の論戦では米国の核搭載艦船の 立ち寄りへの日本政府の対応にまで田畑の追及は

及ばなかった。田畑の関心は、核武装した米国の 航空機が日本の基地に着陸したり、核武装した米 国の軍艦が日本に寄港したりし、長期間滞在する 事態への日本政府の対応に向けられたからであ る。その一方で岸は、そのような事態はあり得な いし、「これを認めない措置が当然とられなけれ ばならぬ」と言明したが(60)、一時寄港のような 短期間の立ち寄りの場合の対応に関して、自ら進 んで見解を明らかにしようとはしなかった。

 田畑と岸の立場の違いは、核兵器を搭載した米 国の航空機や艦船の立ち寄りを認めないという日 本の立場に対する理解を、米国側に積極的に求め るべきか否かをめぐってはっきり表れた。日米安 保委員会で「核兵器は持ち込まない、第七艦隊が 核武装して日本の港に来ることは許さぬ、あるい は台湾から、朝鮮から、アメリカのB−47が原水 爆を積んで飛んでくるというようなことは許さ ぬ」と確認すべきである。田畑がこう主張したの に対し、日米安保委員会の性質からいって適当で なく、「今直ちに、今の情勢において、そういう ものを持ち込まないということをあらたまって言 う」必要はないが、将来の問題としては考慮して いきたい、との意向を岸は示している(61)。前述 の通り、そもそも核持ち込みを日米安保委員会の 協議事項とする合意は日米間になかったから、岸 は嘘の上塗りを避けたといえる。

 ただ、ここで特に強調しておきたいのだが、米 国の核搭載艦船の立ち寄りについて米国側と協議 することはできないと、岸は言明しなかった。国 民の核持ち込みへの不安に配慮しながら野党の追 及に対処すると同時に、米軍の行動を制約しかね ない言動は慎しまなければならない立場に岸は置 かれていた。国民の反核感情を刺激することは避 けたい。しかし、核持ち込み問題で野党だけに政 治的得点を稼がせてもいけない。それは自民党政 権を存続させ、日米安保体制を堅持するために必 要なことである。また、日本の安全保障のために

(13)

も米国の軍事戦略を阻害し、日米安保体制の実効 性を損なうようなことがあってはならない。こう した時に相反する政策目標の追求に岸政権は腐心 していた。

 最後に第28回国会での核持ち込み論議が外務省 に影響を与えていたことを示唆する文書を紹介し ておきたい。「米軍の配備及び使用に関する日本 側書簡案」と題する1958年8月13日付の外務省内 部文書である。この文書が作成された背景には次 のような事情があった。すなわち、そのころ外務 省は日米安全保障関係の調整をめざし、日米安全 条約を廃止して、新条約を締結する可能性だけで なく、条約を改正せずに補助的取り決めによって 懸案を処理する可能性も検討していた。米国政府 が安保改定交渉の開始を了承しない場合や、安保 改定交渉が長期化する場合には、安保改定を待た ずに重要な懸案は早期に処理する必要があるとの 認識があったためである(62)。核持ち込み問題は そうした懸案のひとつであった。

 このような状況の下で作成された「書簡案」の 趣旨は、日米間の懸案になっていた、①在日米軍 配備の協議、②在日米軍の日本域外使用の協議、

③核持ち込みの3点に関する合意を米国政府に求 めることにあった。核持ち込みに関する日本側の 提案をみると、次のように記されている。「合衆 国は、日本国政府の事前の同意なくして、核兵器 を日本国内に持ち込まない。これは、日本国内に 配備される合衆国軍隊のみならず、臨時に日本国 内に入る合衆国の船舶及び航空機にも適用がある ものとする(63)。」第28回国会で第7艦隊の艦船の 領海通過や立ち寄りの問題を野党が取り上げ、政 府を厳しく追及していたことを想起すると、国会 対策上、米国の核搭載艦船の寄港も事前同意の対 象とすることが望ましいと外務省が考えていたと しても不思議ではない。ここに国会論議の影響を 見て取ることができる。ただ、そのような提案が 安保改定交渉の場に持ち出されることはなかった。

むすびにかえて

 さて、ここで考察の焦点は安保改定交渉後に移 る。1960年1月19日、ホワイトハウスで新日米安 保条約調印式が開かれ、アイゼンハワー大統領立 ち 会 い の 下、 岸 首 相 と ハ ー タ ー(Christian A.

Herter)国務長官が新安保条約と行政協定に代わ

る新協定(正式名称は「日本国とアメリカ合衆国 との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づ く施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊 の地位に関する協定」、以下では地位協定と略 称)、それらに付属する8文書に署名した。そこ には事前協議に関する交換公文も含まれてい た(64)。そして岸の帰国後、日本政府が新日米安 保条約の批准の承認を国会に求めたことから、第 34回国会で条約審議が行われる運びとなった。

 その国会審議では米国の核搭載艦船の寄港と事 前協議の関係が問題になったが、安保改定交渉を 通じて米国の核搭載艦船の寄港は事前協議の対象 から除くという米国政府の立場は一貫していた。

条約交渉が終了した1月6日、藤山外相とマッ カーサー大使は事前協議に関する解釈を示した秘 密文書「討議の記録(Record of Discussion)」に 頭文字署名した。岸・ハーター交換公文と「討議 の記録」に基づいて米国の核搭載艦船の寄港は事 前協議の対象から除かれるというのが米国政府の 立場であった(65)。安保改定交渉では、それが直 截な表現で日本側に伝えられることはなかったも のの、マッカーサーは核兵器の所在について「肯 定も否定もしない(NCND)」という米国政府の 政策を説明することで、核搭載艦船の寄港を事前 協議の対象にはできないという米国側の事情を日 本側に理解させようとしていたようである。なお マッカーサーは後年、岸や藤山が米国政府の立場 を理解していたと証言している(66)

 ところが、米国政府の立場とは異なる解釈を日 本政府は一方的に国会で表明する。よく知られた

(14)

事実であるが、4月19日に開かれた衆議院日米安 全保障委員会等特別委員会で赤城宗徳防衛庁長官 は、事前協議の対象となる「核持ち込み」に米国 の核搭載艦船の寄港も含まれるとの見解を明らか にした。この日、横路節雄(社会党)が「第七艦 隊の艦上攻撃機については、それぞれ核弾頭をつ けた核装備がされていることは明らかだ」と主張 し、横須賀に第7艦隊が入港してきた際の日本政 府の対応を問い質したのに対し、赤城は「事前協 議の対象となる」と明言したのである(67)。そし て事前協議の対象となる「核持ち込み」に核搭載 艦船の寄港が含まれるとの見解を、外務省条約局 長の高橋通敏や法制局長官の林修三も国会答弁の 中で明らかにした(68)。しかし、米国政府が公に 異議を唱えることはなかった。

 かくして事前協議に関する米国政府の立場と、

日本政府の国内向けの説明との間に齟齬が生じる ことになったが、日本政府が独自の解釈を国会で 表明するに至った経緯の実証的な解明はあまり進 んでいない。密約調査を機に外務省の関連文書の 公開が進んだものの、そこからは国会審議に向け た日本政府内の対応について断片的な情報しか得 られない。この史料の制約が大きな障害となって いる。また、日本政府が独自の解釈を表明したこ とに対する米国政府の認識や水面下の動きを解明 する作業もほとんど手付かずのままである。

 それゆえ、安保改定交渉終了直前に外務省で開 かれた省議で行政協定第5条を受けた地位協定第 5条と交換公文との関係が話題になったという、

当時の外務省関係者の証言は貴重である。「地位 協定5条では(一定の通告義務などはあるが)原 則的に米国艦船、航空機が日本港湾、空港を自由 に使用することを認めている。だから核を積んだ 艦船、航空機も寄港、飛来し得る。ここを突かれ て『核持ち込みではないか』と国会で追及された とき、外務省は苦しい立場にならないか」という 問題が提起され、交換公文、もしくは付帯書に、

「艦船、航空機に搭載された核の一時寄港、通過 は除く」 と明記する可能性も検討されたようであ る。しかし、「もう交渉は終わった。いまさらこ んな問題を蒸し返すことはできない」という判断 が大勢を占め、その可能性を追求しないことに なった。米国は核の存在を肯定も否定もしないと いう原則を厳守していることも判断を支えたとい う(69)

 これが事実であれば、安保改定条約交渉の間、

米国の核搭載艦船の寄港の扱いが国会での条約審 議の際に問題となる可能性を、外務省の交渉担当 者が意識していなかったことになる。本稿の考察 を踏まえると、米国の核搭載艦船の寄港に野党が 反対していることを岸や藤山が認識していなかっ たとは考えにくい。また、米国の核搭載艦船の寄 港を事前同意の対象とする提案が、安保改定交渉 が始まる前に外務省内で検討されていた。前述の 省議の様子から、米国の核搭載艦船の寄港を事前 協議の対象に含めることは米国政府にとって受け 入れ難いと、外務省関係者が認識していたことも 窺える。にもかかわらず米国の核搭載艦船の寄港 の問題を日本側が議論しようとしなかったのは、

有識者委員会が指摘するように、意図的に議論す ることを回避したからなのだろうか。だとすれ ば、それによって国会審議との関係で問題が生じ うることを安保改定交渉終了間際まで意識しな かったのはなぜか。こうした疑問に答えるために は安保改定交渉における日米外交を再検証する必 要があるが、それは今後の課題としたい。

 ただ、本稿の考察を踏まえると、そもそも岸政 権は、事前協議の対象に米国の核搭載艦船の一時 寄港は含まれないとは国民に向かって説明しづら い立場に置かれていたといえそうである。安保改 定交渉以前にすでに国会では、米国の核搭載艦船 が日本の領海を通過したり、日本の港湾に立ち 寄ったりする可能性をめぐって議論が行われてい た。そして岸政権は野党の追及に応える形で、日

(15)

本の領土のみならず領海や領空への核持ち込みも 拒否する考えを表明していた。しかも岸は、核持 ち込みを日米安保委員会の協議事項とすることに 米国政府が同意しているかのような説明を繰り返 し、米国の核搭載艦船の寄港について米国政府と 協議することはできないとは言わなかった。その ため、米国の核搭載艦船の一時寄港は事前協議の 対象から除かれていると説明すれば、野党が安保 改定交渉での日本政府の対応を厳しく非難し、安 保改定の意義に対する国民の疑念を煽る行動に出 るのは目に見えていた。それは岸政権にとって避 けたい事態であった。

 ともあれ、条約調印を経て日本政府内では外務 省条約局が中心となって国会答弁のための擬問擬 答の作成が進められた。高橋通敏のインタビュー 証言によれば、「事前協議」を担当したのは、外 務省の井川克一(条約課長)や東郷文彦(アメリ カ局安全保障課長)、防衛庁の麻生茂(防衛局防 衛審議官)、高辻正巳(法制局次長)などであっ た。そして1月19日以後の比較的早い時期に「核 持ち込み」の詰めの話し合いが行われ、そのとき

「核持ち込み」には「寄港・通過も含む」という ことで一致したという(70)。国会審議を乗り切る ためには、そうせざるをえないとの判断があった のだろう(71)。こうした政府内の調整を経て、米 国の核搭載艦船の寄港は事前協議の対象となると いう日本政府の独自の解釈は固まった。

 しかし、米国の核搭載艦船の寄港を事前協議の 対象にはできないという米国政府の立場を日本側 がある程度認識していたとしたら、国内政治上の 理由を指摘するだけでは、事前協議に関する独自 の解釈を日本政府が表明したことを十分に説明し たとは言えないだろう。米国政府がそれを公に否 定すると分かっていたら、日本政府が独自の解釈 を表明したとは考えにくいからだ。つまり、日本 政府の対米認識も検討する必要がある。しかし、

それは研究史上の盲点になっている。米国の核搭

載艦船の寄港は事前協議の対象に含まれるという 解釈を採用するにあたって米国側と協議していた のか。していなかったとすれば、それを一方的に 表明した場合、米国側はどのように反応すると予 想していたのか。そうしても米国政府は黙認する と判断していたのか。そもそも米国政府の反応に ついて考慮する必要を感じていなかったとした ら、それはなぜか。こうした点は先行研究では十 分に検討されていない。

 密約調査を機に外務省の関連文書の公開が進ん でもなお、これらの問いに答えることは難しい が、本稿の考察を踏まえると次のような仮説が立 てられそうだ。すなわち、事前協議に関して独自 の解釈を表明することを日本政府に許す「甘えの 構造」が、鳩山・石橋・岸政権期の核持ち込み論 議を通じて日米間に形成されていたというもので ある。本稿で明らかにしたように、核持ち込みの 協議について米国政府の立場とは異なる説明を日 本政府が国内向けに行い、米国政府がそれを黙認 するという慣行が、安保改定交渉以前から続けら れてきた。冷戦という厳しい国際情勢や日本国内 の保革対立、日本人の反核感情を背景として、米 国政府が日本政府に寛容に接する一方、日本政府 は米国側の好意に甘え、日本国民には真実が知ら されないという状況が続いていたのである。実証 は困難だが、そうした欺瞞の積み重ねが日米関係 においては「甘えの構造」となり、日本政府の対 米外交や国会での条約審議への対応に影響を与え ていたのではなかろうか。この点はさらなる検証 を要するが、それは別の機会に譲りたい。

(1)有識者委員会「いわゆる『密約』問題に関 する有識者委員会報告書」2010年3月9日、

46頁。同報告書は外務省のウェブサイトで 閲覧・入手できる。

(2)「有識者委員会報告書」、36頁。

(16)

(3)「有識者委員会報告書」、33頁。

(4)「有識者委員会報告」、25−36頁。

(5)細谷千博、有賀貞、石井修、佐々木卓也『日 米関係資料集 一九四五−九七』東京大学 出版会、1999年、148頁。

(6)佐々木卓也『アイゼンハワー政権の封じ込 め政策──ソ連の脅威、ミサイル・ギャッ プ論争と東西交流』有斐閣、2008年、12−

15頁;Richard M. Leighton,

History of the Office of the Secretary of Defense Vol. III:

Strategy, Money, and the New Look 1953-1956.

Washington, D. C.: Historical Office, Office of the Secretary of Defense, 2001, pp. 216-220.

(7)防衛年鑑刊行会編『防衛年鑑』(昭和33年 版)防衛年鑑刊行会、134−136頁。

(8)梅本哲也『核兵器と国際政治 1945−1995』

日 本 国 際 問 題 研 究 所、1996年、69頁;

David N. Schwartz, NATO’s Nuclear Dilemmas.

Washington, D. C.: The Brookings Institution,

1983, Chapter 4.

(9)林茂夫「基地闘争」家永三郎ほか編『昭和 の戦後史』第3巻、汐文社、1976年、101

−106頁。

(10)藤原修『原水爆禁止運動の成立──戦後日 本平和運動の原像 1954−1955』(平和研双

no.1)明治学院国際平和研究所、1991

年。

(11)「日本社会党綱領──いわゆる『左社綱領』──」

月刊社会党編集部『日本社会党の三十年』

日本社会党中央本部機関支局、1976年、

710−711頁;「 日 本 社 会 党 綱 領 」 同 前、

726-727頁。

(12)黒崎輝「アメリカの核戦略と日本の国内政 治の交錯 1945−60」同時代史学会編『朝 鮮半島と日本の同時代史──東アジア地域 共生を展望して──』日本経済評論社、

2005年、196−211、222頁。

(13)「有識者委員会報告書」、10−12頁。

(14)太田昌克「『核の傘』核密約の “ 起源 ”」『世 界』2009年11月号、177−178頁;新原昭治

『「核兵器使用計画」 を読み解く──アメリ カ新核戦略と日本』新日本出版社、2002年、

168−173頁。

(15)島川雅史『増補・アメリカの戦争と日米安 保体制──在日米軍と日本の役割』社会評 論社、2003年、62−65頁

;

太田昌克『盟約 の闇──「核の傘」と日米同盟』日本評論 社、9−14頁;黒崎「アメリカの核戦略」、

212−214頁;L. Wainstein, C. D. Cremeans, J.

K. Moriarty and J. Ponturo, Study S-467, The Evolution of U. S. Strategic Command and Control, and Warning, 1945-1972, Institute for Defense Analyses, June 1975, p. 33;Robert S.

Norris, William M. Arkin and William Burr,

“Where they were,”

Bulletin of the Atomic Scientists, November/December 1999, p. 30;

Nuclear Notebook, ibid., pp. 66-67.

(16)『朝日新聞』(夕刊)、1955年11月7日;同 前(夕刊)、1955年11月29日;同前(夕刊)、

1955年12月21日。

(17)『防衛年鑑』(昭和32年版)、193頁。

(18)『朝日新聞』(夕刊)、1958年7月25日。

(19)『朝日新聞』、1957年1月29日。

(20)『朝日新聞』(夕刊)、1955年7月23日。

(21)すでに吉田政権期に核持ち込み問題は国会 で提起されていた。たとえば占領末期の 1952年2月13日に開かれた衆議院予算委員 会において、西村栄一(社会党)が「駐留 軍が日本の軍事基地を前進基地として、こ れを原爆の基地にすることがないか」と、

岡崎勝男外相に質問している。また、第5 福竜丸事件が発覚した直後から、第19回国 会では日本での原水爆基地の建設をめぐる 議論が行われた。ただ吉田政権は核持ち込

(17)

みを容認するとも、拒否するとも明言しな かった。第13回国会衆議院予算委員会議 録、14号、1952年2月13日;第19回国会参 議院予算委員会議録、15号、1954年3月17 日;第19回国会参議院外務委員会議録、14 号、1954年4月1日;第19回国会参議院法務 委員会議録、34号、1954年5月12日。なお 本研究では国立国会図書館の国会議事録 検索システムを利用して国会議事録の調 査を行った。国会議事録検索システム、

〈http://kokkai.ndl.go.jp/〉。

(22)第22回国会衆議院予算委員会議録、8号、

1955年5月9日;『朝日新聞』、1955年5月 10日。

(23)第22回国会参議院本会議録、13号、1955年 5月13日;『朝日新聞』、1955年5月14日。

(24)第22回国会衆議院内閣委員会議録、28号 1955年 6 月27日;『 朝 日 新 聞 』( 夕 刊 )、

1955年6月27日。

(25)『防衛年鑑』(昭和31年版)、177−178頁。

(26)Embtel 3351, Tokyo to SecState, June 27, 1955, 711.5611/6-2755, Box 2875, Central

Files[CF] , RG59, National Archives and Record Administration at College Park

[NA];

Deptel

16, Tokyo to SecState, July 1, 1955, 711.5611/7-155, Box 2876, ibid;坂元一哉

『日米同盟の絆──安保条約と相互性の模 索』有斐閣、2000年、175頁。

(27)Deptel 38, DOS to Tokyo, July 7, 1955, 711.5611/

7-755, Box 2876, CF, RG59, NA.

(28)『朝日新聞』(夕刊)、1957年1月26日。

(29)『朝日新聞』(夕刊)、1957年2月8日。

(30)第26回国会衆議院予算委員会議録、3号、

1957年2月8日;第26回国会衆議院予算委 員会議録、4号、1957年2月9日;第26回 国会衆議院予算委員会議録、5号、1957年 2月11日。

(31)第26回国会参議院予算委員会議録、14号、

1957年3月22日;第26回国会衆議院予算委 員会議録、21号、1957年4月22日;第26回 国会参議院内閣委員会議録、25号、1957年 4月24日。

(32)岸の外相就任時、門脇は事務次官として、

下田は条約局長として在職中であった。

Embtel

64, Tokyo to SecState, July 8, 1955, 711.5611/7-855, Box 2876, CF, RG59, NA;

Embtel

78, Tokyo to SecState, July 8, 1955, 711.5611/7-855, Box 2876, ibid.;Deptel 48,

DOS to Tokyo,

711.5611/7-855, Box 2876,

ibid.

(33)第26回国会衆議院外務委員会議録、26号、

1957年7月31日。

(34)『日米関係資料集』、399頁。

(35)『防衛年鑑』(昭和33年版)、176頁。

(36)同前、165頁。

(37)『防衛年鑑』(昭和34年版)、177−178頁。

(38)原彬久『日米関係の構図──安保改定を検 証する』日本放送出版協会、80−82頁;

Memorandum of Conversation[Memcon], Radford and MacArthur, June

21, 1957,

Foreign Relations of the United States

[FRUS]

1955-1957, Japan, Vol. 23, Part 1, pp. 405- 406.

(39)「安全保障問題に関し大臣より掃除に協議 願ふべき事項」、1958年6月17日、関連文 書2、1960年1月の安保条約改定時の核持 込みに関する「密約」調査、外務省。外務 省の「密約」調査を機に公開された関連文 書は、外務省のウェブサイトで閲覧・入手 できる。

(40)『朝日新聞』、1957年1月29日。

(41)第26回国会衆議院予算委員会議録、5号、

1957年2月11日。

(42)第26回国会参議院内閣委員会議録、閉4号、

参照

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