ドイ ツ独 立 社 会 民 主 党 と
ヒル フ ァデ ィ ング外 伝,1918年 まで
倉 田 稔
目 次
は じめ に
1社 会 民主 党共 同行 動 団の成 立 まで 2ド イ ツ独 立社 会民 主党 の成 立 3ド イ ツ革 命
は じめ に
小 生 は,か つ て,お よ そ こ う 書 い た 。 ド イ ツ 独 立 社 会 民 主 党(Unabhangige SozialdemokratischeParteiDeutschlands略 称USPD)は,ボ ル シ ェ
ヴ ィ キ と は 違 い,さ り と て 右 派 の 社 会 民 主 党 と も違 う,一 つ の 独 得 の 運 動 体 で あ っ て,今 日 に お い て も 高 く評 価 で き る 政 党 で あ っ た1),と 。
本 稿 は,拙 作 『若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』(丘 書 房1984年)の 続 き で あ り, 初 め の 部 分 は,そ の 著 に 書 か れ て い な い こ と を 書 い た の で 、 全 面 的 で は な い 。
ま た こ れ は,こ の 政 党 の 研 究 の た め の,同 時 に,中 期 の ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ (1877‑1941)研 究 の た め の 予 備 作 業 で あ る 。
1)拙 稿 「社 会 民 主 党 共 同 行 動 団 の 成 立 」(『商 学 討 究 』30・3,1979年12月),15ペ ー ジ 。
〔1〕
2 商 学 討 究 第48巻 第1号
1社 会 民主 党 共 同 行 動 団 の成 立 ま で
1914年 に 第1次 世 界 戦 争 が勃 発 し,ド イ ツ政 府 は8月4日,戦 時 公 債 を ドイ ッ帝 国議 会 に上 程 した 。 これ に ドイ ツ社 会 民 主 党(以 下,SPD)が 賛 成 した 。 そ の 理 由 は,前 日8月3日 の 同 党 国 会 議 員 団 の 会 議 で,右 派 が 戦 争 反 対 の左 派 よ りも多 数 で あ っ た か らで あ り,党 の 決 定 に 対 して は,党 の 団 結 を破 れ な い と い う左 派 の 人 々 の意 識 の た め で あ った 。右 派 が 戦 時 公 債 に賛 成 した 要 因 は,党 ・ 労 働 組 合 の破 滅 へ の恐 れ,好 戦 的 と な っ た大 衆 へ の 追 随,で あ っ た。
前 年 の 「1913年6月30日,帝 国 議 会 で,SPDは,軍 事 予 算 に賛 成 した 。 そ れ ま で い つ も反 対 し て い た。」 そ し て,ベ ー ベ ル2)の 国 会 演 説,そ して 同 年 イ エ ナ 大 会 は これ を是 認3)し た,と 猪 木 は書 く。 極 端 左 派 の 人 々 は,依 然 と し て 戦 争 反 対 の態 度 を と っ た が,ド イ ツ 国 内 で そ の声 は 挙 げ られ な か っ た。 しか も ほ ん の 少 数 で あ っ た 。
カ ー ル ・カ ウ ッ キ ー(KarlKautsky,1854‑1938.)は,理 論 誌 『ノ イ エ ・ ッ ァイ ト』(1914年11月27日 号)に,論 文 「国 際 性 と戦 争 」を発 表 した 。そ れ は, ロ ー ザ ・ル ク セ ン ブ ル グ(RosaLuxemburg,1870‑1919.)論 文 に よっ て批 判 さ れ る こ と に な る 。 カ ウ ツ キ ー の こ の論 文 を取 り上 げ よ う。
彼 は,そ の 「第1節 国際 性 と中 立 」 で 書 く。 社 会 民 主 党 が こ の 戦 争 で敗 北 し た,と 同志 た ち は 主 張 す る。 だ が,「 戦 争 の 勃 発 は,破 産 を意 味 せ ず,理 論 的 見 解 の 確 証 を 意 味 す る。」4)な ぜ な ら,大 国 の 世 界 政 策 が 変 わ ら な い と前 提 す れ ば,世 界 戦 争 は不 可 避 的 必 然 だ か らで あ る 。 戦 争 を 防 げ なか っ た か らイ ン タナ シ ョナ ル5)は 役 に 立 た な い,と い う人 が い る。 しか しそ の 要 求 は 過 大 で あ る。 国 際 的 団 結 は,ど の 国 で も どの 党 で も,等 し くそ れ に 反 応 す る とい う の で は 決 し て な い 。
2)AugustBebel,1840‑1913.
3)猪 木 『ド イ ッ 共 産 党 史 』 弘 文 堂1950年,50‑5ユ ペ ー ジ 。 4)Kautsky,InternationalitatundKrieg.in:NeueZeit,33.J9"Band1,Nr.&S.225.
5)第2イ ン タ ン シ ョ ナ ル の こ と 。
ドイ ッ独 立 社 会 民 主 党 と ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ外 伝 、1918年 ま で 3 そ の こ とを カ ウ ツ キ ー は,「 第2節 戦 争 に お け る 党 の相 違 」 で,こ れ ま で の 戦 争 の例 をた どる こ と に よ っ て,示 そ う とす る。
1854か ら1866年 ま で 。 ク リ ミ ア戦 争(1854‑56年)6)の 時,社 会 民 主 主 義 者 は, ロ シ ア を革 命 の 敵 と見 て 反 対 して い た 。 しか し,そ れ で も著 しい 差 が あ った 。 ラサ ル7)は オ ー ス トリ ア を,マ ル クス や エ ンゲ ル ス は ロ シ ア を,ヨ ー ロ ッパ 民 主 主 義 の 最 大 の 障 害 と見 な し た。 国 際 的 立 場 を と って も,ラ サ ル は,す べ て の 戦 争 を非 難 す る こ とに は な ら な か っ た 。1866年[プ ロ イ セ ン ・オ ー ス トリ ア戦 争 で],ラ サ ル の 後 継 者 シ ュ ヴ ァイ ツ ァー8)は,ラ サ ル の オ ー ス トリア に対 す る態 度 を継 承 した 。ベ ー ベ ル と リー プ ク ネ ヒ ト9)は,ビ ス マ ル ク10)に反 対 した 。
1870年 。1866年 戦 争 の 後,W.リ ー プ ク ネ ヒ トは,プ ロ イ セ ンの 敵 に希 望 を持 っ た 。 独 仏 戦 争(1870年)勃 発 の 際,リ ー プ ク ネ ヒ トは 戦 時 公 債 の拒 否 を 要 求 した 。 ベ ー ベ ル は,そ れ は ナ ポ レ オ ン11)に 味 方 す る こ と に な る か ら誤 り だ と考 えた 。 とい って ビス マ ル ク政 策 を支 持 で きな い か ら,棄 権 が 最 も良 い と 思 え た 。 党 幹 部 会 は しか しそ れ を行 き過 ぎ だ と思 っ た 。 尤 も,戦 争 が 防衛 戦 争 か ら征 服 戦 争 へ 変 わ る と,態 度 が 違 っ て きた 。
1870年 以 後 。1876年 に ロ シ ア=ト ル コ戦 争 が 起 きた 。 バ ル カ ン諸 国 に味 方 す る とそ の 支 援 者 ロ シ ア を支 持 して しま い,ロ シ ア に 反 対 す る た め に は トル コ に 味 方 して し ま う,と い う 問 の 論 議 が あ っ た 。1896年,97年 に,ト ル コが ア ル メ ニ ア や ギ リ シ ャ と衝 突 した 際 に,ベ ル ン シ ュ タ イ ン12)や ロー ザ ・ル ク セ ンブ ル グが トル コ の敵 を支 持 した件 が あ っ た 。
カ ウ ツ キ ー は以 上 の よ うな,党 内 の 戦 争 に 際 して の 議 論 の相 違 を示 して か ら,
6)ク リ ミ ア 戦 争 。ロ シ ア 対 ト ル コ の 戦 争,ト ル コ に 連 合 軍 が つ い た 。1853年 に 始 ま り, 55年 ま で 続 い た 。
7)FerdinandLassalle,1825‑64.
8)Schweitzer,1834‑75.
9)ウ ィ ル ヘ ル ム ・ リ ー プ ク ネ ヒ トWilhelmLiebknecht,1826‑1900。 カ ー ル の 父 。 10)プ ロ イ セ ン の 宰 相Bismarck,1815‑98。
11)ル イ ・ボ ナ パ ル ト(LouisBonaparte,1808‑73),ナ ポ レ オ ン1世 の 甥,ナ ポ レ オ ン3世 。
12)EduardBernstein,1850‑1932.
4 商 学 討 究 第48巻 第1号
「第3節 」 で言 う。 社 会 主 義 者 と して の 我 々 の 思 考 と活 動 の 出 発 点 は,プ ロ レ タ リア ー トの 階級 闘 争 で あ る 。 どち らの 側 に立 つ か を決 め る よ う な 問題 で は な い 。 戦 争 と は政 府 間 の 闘 い で あ る。 直 接 的 に プ ロ レ タ リア に利 害 は な い,し か し間接 的 に は あ る の で,ど ち らか に 味 方 す る こ とに な る。 国 際 主 義 者 とナ シ ョ ナ リス トは そ の際,違 っ た 態 度 を とる 。 国 際 主 義 者 もそ れ ぞ れ見 解 が 違 っ て お り,各 国 の 社 会 主 義 党 も対 立 す る。13)
軍 検 閲 は,1914年 末 ま で に,SPD中 央 機 関 紙 『フ ォ ル ヴ ェ ル ツ 』 の 発 行 を 二 度 中 止 し た 。 そ の た び に 執 行 委 員 会 は,内 務 省 に 許 可 を と り な し て,階 級 闘 争 と い う 言 葉 を 云 う の を や め る と い う約 束 に し た が っ た 。『フ ォ ル ヴ ェ ル ッ 』は, 戦 争 反 対 の 立 場 を と っ て い た 。も ち ろ ん 明 示 的 に は 反 対 論 を 掲 げ ら れ な か っ た 。 ベ ル リ ン の 党 組 織 の プ レ ス ・コ ミ ッ シ ョ ン は,ベ ル リ ン の 組 織 全 体 と 同 じ よ う
に,フ ォ ル ヴ ェ ル ツ 編 集 員 の 反 対 政 策 を 支 持 し た14)。
12月,2回 目 の 戦 時 公 債 案 へ の 投 票 で,さ す が に 極 端 左 派 の 一 人 カ ー ル ・リ ー プ ク ネ ヒ ト15)は,唯 一 反 対 の 声 を 挙 げ た 。 翌1915年3月,極 端 左 派 の 人 々 は, 雑 誌 『イ ン テ ル ナ チ オ ナ ー レ 』の 発 行 を 決 め た 。だ が こ れ は1号 で 廃 刊 と な っ た 。 一 方,ル ー ド ル フ ・ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,オ ー ス ト リ ア ・ハ プ ス ブ ル ク 帝 国16) に 召 集 さ れ て,4月 ご ろ ド イ ッ を 去 っ た17)。
ド イ ツ の 反 戦 派 に と っ て 大 変 象 徴 的 な 事 件 は,こ の 年1915年 の メ ー デ ー(5 月1日)で あ っ た 。 多 く の 都 市 で こ の 日,平 和 を 求 め る デ モ ン ス ト レ ー シ ョ ン が 敢 行 さ れ た 。リ ー プ ク ネ ヒ ト は ベ ル リ ン で,「 戦 争 を や め ろ1政 府 を 倒 せ1」
と 呼 び 掛 け,こ の 時,警 官 に 逮 捕 さ れ た 。 ス パ ル タ ク ス 団 は,『 ス パ ル タ ク ス
13)Kautsky,op.cit.,NeueZeit,S.236.
14)Carl.E.Schorske,GermanSocialDemocracy.1905・1917。NY.,Evanston,San Francisco,London,1955.p.296.
15)KarlLiebknecht,1871‑1919.ウ ィ ル ヘ ル ム ・ リ ー プ ク ネ ヒ トの 子,ド イ ツ 帝 国 議 会 議 員,弁 護 士,SPD極 端 左 派 の 指 導 者 の 一 人 。 著 作 集 あ り。
16)テ イ ラ ー 『ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 』 筑 摩 書 房 。
17)拙 書 『若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』 丘 書 房1984年,145‑166ペ ー ジ 。
ドイ ッ独 立 社 会 民 主 党 と ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ外 伝 、1918年 ま で 5 便 り』 を9月 か ら発 行 し始 め た 。
1916年9月21〜23日 に,SPD全 国 協 議 会 が ベ ル リ ンで召 集 され た。代 議 員397 名,SPD議 員 多 数 派77名,社 会 民 主 党 共 同行 動 団 メ ンバ ー18名,中 央 幹 部50名, そ の他 で あ っ た。 こ こで3つ の 派 は対 立 した 。
ヒ ル フ ァデ ィ ング が1915年 に ドイ ツ か ら オ ー ス トリ ア に戻 っ て 以 来,ド イ ツ で は ドイ ッ独 立 社 会 民 主 党(USPD)が 結 成 さ れ た 。彼 は この 党 に属 す るの で, 簡 単 に この 事 情 に触 れ て お きた い 。
政 府 とSPDの 戦 争 政 策 に対 して,戦 争 反 対 勢 力 が 徐 々 に増 大 して き た。 ド イ ッ 国民 も戦 争 熱 か ら 目を覚 ま し始 め た 。 ドイ ッ帝 国 議 会 内 で,つ い に戦 争 非 協 力 の社 会 民 主 党 共 同 行 動 団(dieSozialdemokratischeArbeitsgemeinschaft) が,1916年3月24日 に結 成 され た18)。 こ う し て ドイ ッ社 会 民 主 主 義 者 は,議 会 内 で 三 つ の 派 に分 か れ た。1,多 数 派 社 会 民 主 党 。2,社 会 民 主 党 共 同行 動 団(32 名)。3,ス パ ル タ ク ス 団(カ ー ル ・リー プ ク ネ ヒ ト と オ ッ トー ・リ ュー レ
(OttoRUhle,1874‑1943.)の2名)で あ る。1,は,戦 争 協 力 で,2・3は, 平 和 主 義 ・戦 争 反 対 派 で あ る。 こ れ らの セ ク ト分 裂 は,ド イ ッ 国 民 の 戦 争 反 対 感 情 の 反 映 で もあ っ た 。 ま た こ の 分 裂 は,戦 争 協 力 勢 力 で あ る多 数 派SPDの 抑 圧 的 態 度 か ら,や む な く行 われ た こ とで もあ っ た 。 こ れ は,ド イ ッ社 会 主 義 運 動 の分 裂 の 第 一 歩 で あ っ た 。 しか し これ は,帝 国 議 会 議 員 内 部 の 分 裂 に 過 ぎ ず,ま だ 全 党 組 織 の 分 裂 に は い た っ て い なか っ た 。 社 会 民 主 党 系 の 新 聞 は,殆
ど多 数 派 に握 られ て い た。 戦 争 反 対 派 の 活 動 は,非 合 法 に行 わ れ た 。 そ して こ れ を,共 同 行 動 団 は精 力 的 に押 し進 め た。 共 同行 動 団 に 加 わ っ た 議 員 は,「 マ ル ク ス 主 義 的 中 央 派 」 の 人 々で あ っ た 。 彼 らは,党 の 規 律 と団 結 を破 っ て も, 緊 急 予 算 に反 対 す る覚 悟 を持 つ よ うに な っ た。 そ の 理 由 の 一 つ は,国 民 の 反 戦 感 情 の増 大 に対 応 す る こ とで あ っ た 。 そ れ が また,中 央 派=行 動 団 の大 衆 に対 す る 影 響 力 を 増 大 させ 始 め る の で あ っ た19)。 ベ ル リ ン と近 郊 の 社 会 民 主 党 選
18)前 掲 拙 稿,お よ び 拙 書 『若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ』 参 照 。 19)例 え ば,ベ ル リ ン選 挙 区,デ ュ イ ス ブ ル グ組 織 。
6 商 学 討 究 第48巻 第1号
挙 連 盟 中 央 幹 部 会 は,社 会 民 主 党 共 同行 動 団 の 創 立 にあ た り,1916年3月31日 に決 議 を 出 して,多 数 派 社 会 民 主 党 が フー ゴ ー ・ハ ー ゼ20)を 追 い 出 した こ と を非 難 し,共 同行 動 団 の結 成 に賛 成 した21)。この 決 議 案 は42対28で 採 択 され た。
共 同行 動 団 は,社 会 民 主 党 内 で か な り同情 を持 た れ て い た の で あ る 。
社 会 民 主 党 共 同行 動 団 は,3月31日,そ の 団長 ハ ー ゼ か ら,リ ー プ ク ネ ヒ ト と リ ュ ー レ に対 し,同 団 に加 盟 す る よ う要 請 した。 リー プ ク ネ ヒ トは そ れ に 対 し,も しそ の 新 しい 議 員 団 が 革 命 的 綱 領 を持 ち,革 命 的 反 戦 運 動 を組 織 す る な ら ば 入 ろ う,22)と 答 え が 。 だ が 結 局,加 盟 しな か っ た 。 彼 の 考 え は,共 同 行 動 団 が 成 立 した 時 に 書 い た 作 品 「冷 静 な 吟 味 と鋭 い 決 断」23)に 現 れ て い る。
そ れ に よ れ ば,中 央 派 を批 判 しつ つ,分 裂 す る の で は な く,下 部 か らの反 乱 に よ っ て党 組 織 を握 るべ き だ,と し て い る 。 この 説 は,政 治 の実 情 か らは無 理 が あ る。 共 同 行 動 団 とス パ ル タ クス 派 は,と も に戦 争 反 対 グ ル ー プ で あ っ た が, 重 要 な相 違 が あ っ た 。 共 同行 動 団 は,戦 争 を止 め て 平 和 を望 む とい う停 戦 ・平 和 主 義 で あ っ た 。 そ れ に対 し,ス パ ル タ クス 派 は,同 じ反 戦 で も意 味 が 違 って
い て,戦 争 を革 命 に よっ て 終 らせ よ う とい う戦 術 を立 て て い た。
こ の こ ろ,国 の 内外 で,反 戦 会 議 が 行 わ れ始 め た 。国 内 で は,1916年4月23・
24日 に イ エ ナ で,反 戦 派 社 会 主 義 青 年 会 議 が 非 合 法 に開 か れ,30名 の 代 議 員 が 集 ま り,リ ー フ.クネ ヒ トが 報 告 し た。 ス イ ス の キ エ ン タ ー ル で4月24日 か ら30 日 に か け て,国 際 社 会 主 義 会 議 が 開 か れ た 。 こ れ は 前 年9月 の ツ ィ ンメ ル ヴ ァ ル ト会 議 に 次 ぐ もの で,9力 国43名 の代 議 員 が 集 ま り,ド イ ツ は3名 で,そ の う ち スパ ル タ ク ス 団 が2名,ド イ ツ左 派 が1名 参 加 した 。
1916年 に は,リ ー プ ク ネ ヒ トが 逮 捕 され,ベ ル リ ンで リー プ ク ネ ヒ ト ・デ モ
20)Haase,1863‑1919.ハ ー ゼ の 伝 記 と し て,Calkins,HugoHaase.Berlin1976.
21)DokumenteundMaterialienzurGeschichtederdeutschenArbeiterbewegung, ReiheII;1914‑1945,Band1.Hrsg.vonI.M.L.beimZKd.SED.Berlinl95&
(以 下,Dokumenteと 略 す)S.334‑335.
22)GeschichtederdeutschenArbeiterbewegung.Chronik.Teil1.Berlin1965.
23)NUchternePrUfungundscharfeEntscheidung(anon.)in:Sl)artakusBriefe.Berlin 1958,S.127‑133.
ドイ ッ 独 立 社 会 民 主 党 と ヒ ル フ ァデ ィ ン グ 外 伝 、1918年 ま で 7 が7月27日 に,2万5千 人 に よ っ て 行 わ れ た 。 リ ー プ ク ネ ヒ トの 裁 判 の 日 で あ る28日 に は5万5千 人 の ス トが 起 き,29日 に は 他 都 市 に も広 が り,戦 時 中 初 め て の 政 治 的 大 衆 ス トが 起 き た 。7月10日 か ら1918年11月8日 ま で,ロ ー ザ ・ル ク セ ン ブ ル グ が 入 獄 し,メ ー リ ン グ(FranzMehring,1846‑1919)も 捕 ま っ た 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ が 勤 め て い た 社 会 民 主 党 機 関 紙 『フ ォ ル ヴ ェ ル ッ 』 は,反 戦 発 言 と 記 事 は す で に 書 け な い 状 態 に あ っ た が,1916年10月17日,ベ ル リ ン の 党 プ レ ス 委 員 会 は,『 フ ォ ル ヴ ェ ル ツ 』 を フ リ ー ト リ ヒ ・シ ュ タ ム プ フ ァ ー (F.Stampfer,1874‑1957)の 指 導 に お く こ と に し,11月9日,シ ュ タ ム プ フ ァ ー が 党 幹 部 会 か ら編 集 長 に 任 命 さ れ,そ の 後,批 判 的 な 編 集 局 員 が 解 任 さ れ た り 辞 任 し た24)。 こ う し て,党 幹 部 会 の 指 導 の ま ま に 運 営 さ れ た 。 し か し,こ の 『フ ォ ル ヴ ェ ル ッ 』 争 奪 戦 の 時 に,す で に ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 に 戻 っ て お り,ベ ル リ ン に は い な い 。
1917年1月7日 に,社 会 民 主 党 内 の 反 対 派 の 全 国 会 議 が 開 か れ,同18日 に 党 幹 部 会 は,社 会 民 主 共 同 行 動 団 と左 派 を,党 か ら 放 出 す る こ と を 決 議 し た 。 こ こ で 初 め てSPDは 組 織 的 に 分 裂 し た の で あ っ た 。20日 に は,党 幹 部 会 が 同 じ 呼 び 掛 け を 発 し た 。 こ れ を も っ て,ゴ ー タ 大 会 以 来 長 い 伝 統 を 持 つSPDの 組 織 分 裂 が 始 ま っ た 。SPDは 戦 争 維 持 派 と 戦 争 反 対 派 と に 分 か れ,党 機 関 の 多 く を 握 る 多 数 派 は,組 織 の 防 衛 に 必 死 と な り,反 対 派 は 彼 ら の 地 方 組 織 を 結 集 し よ う と し,社 会 民 主 党 共 同 行 動 団 は ゴ ー タ に 全 国 大 会 を 召 集 し た 。 ス パ ル タ ク ス 団 は,こ の ゴ ー タ に 結 集 す る こ と を 決 め た 。
SPD内 の オ ス ト ロ イ テ(=東 方 派),ロ ー ザ ・ル ク セ ン ブ ル グ,ヨ ギ ヘ ス (1867‑1919),カ ル ス キ(JulianMarchlewskiKarski),ワ ル ス キ,パ ル ブ ス, ラ デ ッ ク(1855‑1939),ポ ー ラ ン ド 出 身 が 多 い は,生 来 の ドイ ツ 人 で は な く,ド イ ツ 人 以 上 に,ド イ ツ 軍 国 主 義 に 嫌 悪 感 を も っ て い た 。 彼 ら はSPD左 派 で,そ の 多 く は ス パ ル タ ク ス 団,あ る い は そ れ に 近 い 。
24)ゴ ッ ト シ ャ ル ビ 『ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』6ペ ー ジ 。
8 商 学 討 究 第48巻 第1号
プ ロ イ セ ン 国家 か ら ドイ ツ 帝 国 が う まれ た 。 宰 相 ビス マ ル ク は 将 官 に優 位 を 持 っ て い た 。 しか しそ の 後,軍 部 が 優 位 を持 つ よ うに な って きた 。 参 謀 総 長 モ ル トケ や フ ァ ル ケ ンハ イ ンは 政 治 家 に反 抗 で き な か っ た 。 宰 相 ベ ー トマ ン=ホ ル ヴ ェ ー ク(1847‑1934)が ヒ ン デ ン ブ ル グ(1847‑1934)と ル ー デ ン ドル フ
(1865‑1937)を 参 謀 総 長 と次 長 に推 挙 した が,こ の2人 は 政 治 家 に抵 抗 が で き る よ うに な っ た。 ドイ ツ帝 国 で は あ らゆ る権 限 が 皇 帝 に統 合 され た 。 しか し ウ ィル ヘ ル ム2世 皇 帝(1859‑1941)は 性 格 が 弱 く,政 治 家,将 師 の器 で は な か っ た。 ベ ー トマ ン ニホ ル ヴ ェ ー ク宰 相 は,第1次 世 界 戦 争 で,Uボ ー ト戦 に 反 対 した。しか しヒ ンデ ン ブ ル グ と ル ー デ ン ドル フ に押 し切 られ,皇 帝 は,1917 年1月9日 にUボ ー ト戦 の 命 令 を 出 した の だ っ た 。 次 い で ベ ー トマ ン=ホ ル ヴ ェ ー ク宰 相 は ロ シ ア2月 革 命 後,平 等 選 挙 権 に賛 成 した 。 だ が 軍 と皇 帝 が そ れ に 反 対 し,成 立 し な か っ た 。1917年7月 の 帝 国 議 会 で 中央 党 の エ ル ッ ベ ル ガ ー が 演 説 し,進 歩 人 民 党,社 会 民 主 党,中 央 党,国 民 自由 党 の 協 議 会 が で き,前
3党 が 講 和 決 議 案 を 出 した25)。 ヒ ンデ ンブ ル グ と ル ー デ ン ドル フ は,参 謀 総 長 フ ァル ケ ンハ イ ンの 政 策 に合 わ な い と言 っ て,辞 表 す る と脅 か した 。 皇 帝 は 1917年7月12日,反 対 にベ ー トマ ン=ホ ル ヴ ェ ー ク 宰 相 の 辞 表 を 受 け取 っ た 。 こ こで 本 来 の ドイ ツ帝 政 が終 っ た26)の で あ っ た。 ドイ ッ立 憲 政 体 の 根 本 が揺 ら い だ 。 そ れ は,シ ュ ター ル(Stahl,1802‑61)が 構 想 をね り,ビ ス マ ル ク が作 っ た物,つ ま り,宰 相 は皇 帝 に よ って の み任 免 され る,と い う もの で あ った 。 戦 前 の ドイ ツ に は,憲 法 と選 挙 に も とつ く議 会 が あ っ た。 しか し,宰 相 以 下 大 臣 は 皇 帝 に任 命 さ れ,皇 帝 に対 して 責任 を負 っ た。議 員 が大 臣 に任 命 され るの で は な く, ほ とん ど官 僚 か ら議 員 が 選 ばれ た 。 皇 帝 は 軍事 と外 交 の権 限 を握 って い た 。 第 二 帝 政 を 支 配 した ドイ ツ軍 部,エ ー リ ヒ ・ル ー デ ン ドル フが 内政 ・外 交 の 全 権 を握 っ て い た。そ れ は軍 部独 裁 で あ っ た。そ の 支柱 は重 工 業 と保 守 勢力,対 立 す るの は, 議 会 多 数 派,つ ま りSPD,進 歩 人 民 党,中 央 党,国 民 自由党 左 派 だ っ た 。
25)エ ー リ ッ ヒ ・ア イ ク 『ワ イ マ ー ル 共 和 国 史 』 ぺ り か ん 社1983年 。 26)同,33ペ ー ジ 。
ドイ ッ独 立 社 会 民 主 党 と ヒ ル フ ァ デ ィ ング 外 伝 、1918年 ま で 9
2ド イ ツ独 立社 会 民 主 党 の 成 立
1917年4月6〜8日 の ゴ ー タ大 会 が,ド イ ツ独 立 社 会 民 主 党 の 創 立 大 会 とな っ た。 参 加 者143名,そ の う ち91の 社 会 民 主 党 選 挙 区 組 織 か ら選 出 さ れ た 代 議 員 が124名 で,国 会 議 員 が15名 で あ っ た 。議 事 日程 は,党 内状 況(ハ ー ゼ),組 織(デ
ィ ッ トマ ンWilhelmDittmann,1874‑1954.),我 々 の 任 務(レ ー デ ブ ー ル Ledebour,1850‑1947.)で あ っ た。 新 党 の組 織 規 約 は,以 前 のSPDの そ れ と 殆 ど同 じで あ っ た が,党 綱 領 は採 択 さ れ な か っ た。 そ こで カ ー ル ・カ ウ ッ キ ー の 起 草 した 宣 言 が 採 択 さ れ た 。
こ のUSPD創 立 大 会 宣 言 の 内 容 を 以 下 にあ げ る 。
「プ ロ レ タ リア ー トの 隊 列 に並 ぶ 数 千 の 戦 う人 々 の 渇 望 は ,満 た され た。反 対 派 に立 つ ドイ ツ社 会 民 主 党 の 諸 地 区 や グ ル ー プ は,ゴ ー タ で1917年 の 復 活 祭 に,そ の力 を空 費 しな い た め,プ ロ レ タ リ ア解 放 闘 争 に も っ と強 力 に参 加 す る 力 を結 集 す る た め に,統 一 組 織 を作 りあ げ た 。
こ の 闘 い は,政 府 側 の 社 会 主 義 者,党 幹 部 会,労 働 組 合27)総 務 委 員 会,社 会 民 主 党 帝 国 議 会 議 員 団 に よっ て,最 もひ ど く損 な わ れ て い た。
す で に戦 前,党 内 に,社 会 民 主 党 の古 い 性 質 に 固執 して い た 同志 と,プ ロ レ タ リ ア の 国 際 的 団結 の 思 想 に対 し国 民 的社 会 目的 を対 置 し,非 和 解 的 反 対 派 の 戦 術 に対 し国 民 自 由 党 の 戦 術 を対 置 しよ う と した新 登 場 勢 力 との 問 に,鋭 い対 立 が あ っ た 。 世 界 戦 争 は こ の対 立 を非 常 に 深 化 させ た し,ド イ ツ社 会 民 主 党 の 公 式 代 表 や組 織 で,国 民 社 会 的,国 民 自 由 党 的 勢 力 を 支 配 させ て し ま った 。
社 会 民 主 主 義 的政 策 を放 棄 す る報 酬 と して,大 衆 に多 大 な物 質 的 成 果 が 予 期 され た 。 す べ て こ の 手 品 の よ うな希 望 は,残 酷 に欺 か れ て 終 っ た 。
この 新 政 策 は,帝 国 政 府 とそ れ ゆ え戦 争 の 短 期 化 へ 向 けて,社 会 民 主 党 の影 響 力 を増 大 させ る は ず で あ っ た 。 そ れ は実 際 に は対 外 政 策 で 何 も変 え な か っ た
し,国 内 政 策 の 悪 化 を 防 が な か っ た 。
27)自 由 労 働 組 合 の 。
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新 しい 時代 は,そ の 重 圧 が 最 も苛 烈 に広 汎 な 大 衆 に か か る,最 も不 安 定 で 最 も不 公 正 な租 税 負 担 に よっ て 特 徴 づ け られ る28)。」
つ い で 宣 言 は,新 しい 統 一 組 織 が で きあ が っ た こ と,SPD内 に対 立 が あ っ た こ と,社 会 主 義 的 政 策 を 放 棄 して も報 酬 が な か っ た し欺 か れ た こ と,を 言 明 す る 。 そ して戦 後 に,物 価 騰 貴 ・失 業 ・租 税 負 担 に 反 対 す る 闘 争 が 行 わ れ ね ば な らな い と し,す べ て の政 治 的 理 由 に よる 逮 捕 者 ・罪 人 の 恩 赦,検 閲 の 廃 止, 集 会 ・結 社 ・原 論 の 無 制 限 の 自 由,団 結 権 の確 保,例 外 法 の撤 廃,8時 間労 働 制, 普 通 ・平 等 ・秘 密 ・直 接 選 挙 権,女 性 選 挙 権 を要 求 した 。
宣 言 は,ロ シ ア2月 革 命 を 支 持 し,他 国 の 社 会 民 主 党 と平 和 の 了解 で は 困難 は な く,ッ ィ ン メ ル ヴ ァ ル トとキ エ ン タ ー ル の 会 議 は そ れ を な した,と 書 く。
そ して,諸 民 族 の 了 解 に よる 平 和 と,プ ロ レ タ リ アー トの 国 際 的 団結 を 求 め,「す べ て の 人 にパ ン と知 識 を1す べ て の 民 族 に平 和 と 自 由 を!」 で 結 ん で い る。
USPDの 結 成 に よ っ て,戦 前 のSPD内 の 広 い 意 味 で の 左 派 が 同 一 組 織 に結 集 され る こ とに な っ た。 しか しそ れ で もそ の 内 部 は 様 々 な グ ル ー プ に分 か れ て い た 。ドイ ッで 戦 争 に 反 対 して い た 政 治 的 グ ル ー プ は,ド イ ッ社 会 民 主 党(SPD) の最 左 翼 だ っ た 。 大 戦 中 の ドイ ッ社 会 主 義 運 動 は,2つ の 政 党 に 分 裂 した 。 古 い ドイ ッ社 会 民 主 党 が 開戦 と と もに戦 争 協 力 政 策 を と り,そ の後,そ れ に 反 対 して,平 和 主 義=戦 争 反 対 勢 力 が 分 裂 し,ド イ ツ独 立社 会 民 主 党 が創 立 さ れ た の で あ る。 戦 争 が 進 む につ れ て,新 党 の 影響 力 が 増 大 した 。 そ して こ こ に は, ス パ ル タ クス 団 と中 央 派 の 人 々 が 属 した 。 ス パ ル タ ク ス 団 は,急 進 的左 派 で, ロ ーザ ・ル ク セ ンブ ル グ,カ ー ル ・リー プ ク ネ ヒ トら を指 導 者 と し,1916年 に
「ス パ ル タ クス ・グ ル ッペ 」 を名 乗 っ た 。中央 派は,急 進 的左 派の登場 によ り, 1910年 ころ 成 立 しあ るい は名 づ け られ た左 派 で あ り,ハ ー ゼ,カ ウ ッキ ー らを 指 導 者 と し,ヒ ル フ ァデ ィ ン グ も こ こ に属 す る 。 ドイ ツ社 会 主 義 は,こ う して, 終 戦 を迎 え る時 に,左 右 両 党 が並 立 して い た 。 ドイ ツ社 会 民 主 党 が 分 裂 して,
28)ManifestdesGrUndungsparteitagsderUSPDvom6.bis8.April1917.in:
Dokumente,S.594.
ドイ ッ 独 立 社 会 民 主 党 と ヒ ル フ ァデ ィ ン グ外 伝 、1918年 ま で 11 一 方 に ドイ ッ独 立 社 会 民 主 党 が 成 立 した 原 因 は,第1次 世 界 戦 争 で あ っ た。 戦 争 がSPD内 の 思想 的 亀 裂 を 深 め た 。す で に 党 内 は,5つ の 派 閥 に 分 か れ て い た 。 極 端 左 派,中 央 派=左 派,右 派,修 正 主 義 派,帝 国主 義 的 社 会 主 義 者 で あ る 。
1917年7月17日 に ミハ エ リス(1857‑1936)が 首 相 に な り,11月2日 に は ヘ ル トリ ン グ(1843‑1919)(申 央 党)が 首 相 とな り,そ の後,マ ック ス ・フ ォ ン ・ バ ー デ ン(MaxvonBaden,1867‑1929)が 首 相 に な る 。
1917年11月(露 歴10月)に ロ シ ア革 命 が 起 きた 。 この ロ シ ア10月 革 命 につ い て は,カ ー ル ・カ ウ ツ キ ー著 『無 産 階 級 の 独 裁 政 治』(ウ イ ー ン)が 有 名 で あ る。
カ ウ ッ キ ー は,他 の作 『民 主 主 義 か 独 裁 か』 で 論 ず る。
「こ の著 の 大 部 分 は ロ シ ア の 関 係 を取 り扱 って い る。 私 が そ れ に つ い て 論 じ た こ とは,不 幸 に も事 実 に よっ て確 か め られ て い る。」29)
「軍 国 的 君 主 制 の清 算 が,平 和 的 方 法 で な くて,た だ暴 力 に よ っ て の み 行 わ れ た こ とは,最 近 の事 件 の 明 らか に示 した こ とで あ っ た 。」30)
ボ ル シ ェ ヴ ィ キ の 政 権 奪 取 は 「国 民 の大 多 数 を 占 め る 農 民 の 政 治 的 無 関 心 の お 蔭 で あ る 。」31)
「彼 らの 目的 を貫 徹 す る た め の 一 切 の予 備 条 件 は,こ の国の経済 的未発達状 態 の た め に 欠 如 して い た の で あ る。」
「こ こ に お い て ,彼 らは民主 主義的方法 に よって実行 す るこ とに絶 望 したの で あ る。」32)
ド イ ツ 軍 は,情 勢 が 不 利 に な る の を 見 越 し,攻 勢 に 出 る こ と を 決 定 し た 。1918 年3月21日,西 部 戦 線 攻 撃 を し た 。5月27日 か ら6月 初 め,お よ び7月15日 に 攻 撃 し,18日 に 形 勢 が 逆 転 し た 。8月 に,連 合 国 が 総 攻 撃 を し た 。9月12・15日,
29)カ ウ ッ キ ー 「民 主 主 義 か 独 裁 か 」 社 会 思 想 全 集,平 凡 社 ペ ー ジ 。
30)同,286ペ ー ジ 。 31)同,287ペ ー ジ 。 32)同,287ペ ー ジ 。
1929年,赤 松 訳,289
ヱ2 商 学 討 究 第48巻 第1号
9月26,28日 に も総 攻 撃 を加 え,ド イ ツ軍 が 退 却 した。9月29日,ド イ ッ 政 府 ・ 軍 部 首脳 会 議 で,休 戦 協 定 案 が 出 され た 。
オ ー ス トリア で は,1917年11月 に ロ シ ア連 帯 デ モ が,翌 年1月 に は ゼ ネ ス ト が 起 きた 。 ハ ンガ リー で もそ うだ っ た 。 ブ ル ガ リア も,1917年12月 に,ロ シ ア 革 命 を歓 迎 した。 ドイ ツ 国 内 で,1917年 の ロ シ ア 革 命 の 影 響 が あ った 。1918年
1月 に,ベ ル リ ンの 大 ス トラ イ キ が あ っ た 。8月 に 国 内 の 食 糧 が 悪 化 し,夏 に 大 ス トラ イ キが 起 きた 。
1918年8月,ド イ ツ軍 は西 部 戦 線 の大 攻 勢 に失 敗 し,敗 北 が 決 定 的 とな っ た 。 そ こ で,ド イ ッ参 謀 総 長 ヒ ンデ ン ブ ル グ と副 官 ル ー デ ン ドル フ は,9月28日, 休 戦 を 決 意 した。 つ ま り敗 亡 を 回 避 し よ う と した。 協 商 諸 国 は対 ブ ル ガ リア 戦
に勝 ち,ブ ル ガ リ ア は 降伏 し,9月29日 に休 戦 調 印 を お した 。これ に よ っ て まず, ドイ ツ の 同 盟 国 オ ー ス トリ ア=ハ ン ガ リ ー を南 か ら直 接 攻 撃 す る道 が 開 か れ た 。 そ して,ド イ ツ に 本 気 で講 和 を求 め ざ る を え な く させ た 。
ドイ ツ 軍 部 実 権 は ル ー デ ン ドル フが 握 っ て い た は,ウ ィ ル ソ ン米 大 統 領(WoodrowWilson,1858‑1924)の 一 四 力 条 の 休 戦 条 約 を 受 諾 す るた め に,議 会 主 義 的 で平 和 主 義 的 な装 い を もつ 新 政 権 を作 る よ う要 求 した 。
この 要 請 に よ って,ヘ ル トリ ング 首 相 の 後 継 と して,自 由 主 義 的 貴 族 とい わ れ た マ ッ クス ・フ ォ ン ・バ ー デ ンを首 相 と し,社 会 民 主 党,中 央 党,進 歩 人 民 党 の3党 か ら閣僚 を選 ん た,新 内 閣 が10月5日 に で き た。 ドイ ツ史 上 初 め て の政 党 内 閣 で あ っ た 。 つ ま り 閣 僚 が 議 員 か ら な っ た 。SPD代 表 シ ャ イ デ マ ン
(1865‑1939),中 央 党 代 表 エ ル ッ ベ ル ガー(1875‑1921),進 歩 人 民 党 の 連 立 の 内 閣 で あ っ た 。 この3党 は,す で に 戦 争 中1917年,ド イ ッ議 会 で 平 和 決 議 を共 同提 案 して い た33)。3党 は合 計 で,議 会 で 過 半 数 とな った 。マ ッ クス ・フ ォ ン ・ バ ー デ ン は14力 条 へ の交 渉 を始 め た 。10月,新 首 相 は,ウ ィル ス ンに休 戦 の 訴 え を 送 っ た。これ に対 して ウ ィ ル ス ンは,10月26日 ドイ ツ に対 して 覚 書 を送 り, 無 条 件 降 伏 を 求 め た。
33)『 若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』。
ドイ ッ独 立 社 会 民 主 党 と ヒ ル フ ァデ ィ ン グ外 伝 、1918年 ま で 13 同 盟 国 オ ー ス トリア は,10月27日,協 商 国 軍 に イ タ リア 戦 線 ヒ ル フ ァ デ ィ ング は こ こ に従 軍 し て い た で攻 撃 を受 け,つ い に30日,休 戦 を 求 め た 。 同 じ30日 に 同盟 国 トル コ も,協 商 国 軍 の 前 に屈 服 した 。11月3日,協 商 国 と オ ー ス トリ ア は休 戦 調 印 を行 っ た。こ う して ドイ ツ以 外 の 中 央 列 強 諸 国 は, す べ て休 戦=敗 北 した の で あ る 。 多 年 の辛 酸 を嘗 め尽 くした ドイ ツ 国 民 は,食 料 に窮 し,平 和 を望 ん で い た。 ウ ィ ルス ンの 要 求 に対 して,ド イ ツ は 休 戦 を 決
定 し,11月6日,ド イ ツ休 戦 交 渉代 表 団 は ベ ル リ ンを た っ た 。 第1次 世 界 戦 争 に お け る ドイ ツ敗 北 の 原 因 は,軍 ・民 の物 資 欠 乏 で あ っ た 。1918年 に は,ド イ ツ 帝 国 主 義 は 軍 事 的 休 戦 に調 印 し,こ の戦 争 が 枢 軸 国 の敗 北 と と もに 終 っ た。
3ド イ ツ革 命
1918年9月29日,ブ ル ガ リ ア が休 戦 し,続 い て10月30日 に トル コ が休 戦 した。
10月30日,ウ ィ ー ンで ハ プ ス ブ ル ク王 朝 が 滅 び,オ ー ス トリ ア=ハ ン ガ リー は11 月3日 に休 戦 した 。
キ ー ル の軍 港 ウ ィ ル ヘ ル ム ス ・ハ ー フ ェ ンで 革 命 が 起 きた 。 こ の 下 か らの革 命 が 上 か らの 革 命 を追 い 越 す こ と に な る。11月3日,キ ー ル 軍 港 で,対 英 出撃 命 令 を水 兵 が拒 否 して暴 動 が 起 き,血 の 弾 圧 が な さ れ た 。 そ の た め市 内 で 蜂 起 が 始 ま っ た。 こ れ が ドイ ツ 革 命34)の 合 図 に な っ た 。 数 日の う ち に 全 国 主 要 都 市 で,労 兵 協 議 会(レ ー テ)が 組 織 され た。11月8日,バ イエ ル ンで 共 和 国 が で きた 。 こ れ を レ ー テ ・共 和 国 と宣 し た。首 班 にUSPDの ク ル ト ・ア イス ナ ー
(1967‑1919)が な った 。
社 会 民 主 党 は,も し9日 ま で に 皇 帝 が 退 位 し な け れ ば 政 府 か ら脱 退 す る と通 告 し,9日 に は,党 議 に よ っ て 自 ら政 権 を取 る と決 定 した 。 革 命 の 日,9日,
マ ッ クス ・フ ォ ン ・バ ー デ ン首 相 は,皇 帝 退 位 を独 断 で 発 表 した 。ドイ ツの 反 戦
34)ド イ ツ 革 命 に つ い て,篠 原 一 『ドイ ツ革 命 史 序 説 』 岩 波 書 店1956年;A.ロ ■一・一一 ゼ ン ベ ル グ 『ヴ ァ イ マ ー ル 共 和 国 成 立 史 』 み す ず 書 房1969年 。
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国民 大 衆 が,皇 帝 が 戦 争 責 任 者 で あ る こ とを 知 り,そ の 退 位 を望 ん で い た か らで あ り,ま た ウ ィル ス ン大 統 領 が,皇 帝 の 退 位 を前 提 と して い た か らで あ る。 これ に よ り皇 帝 は退 位 した 。ホ ー エ ン ツ ォ ル レル ン家 が 崩 壊 した 。そ して マ ック ス ・ フ ォ ン ・バ ー デ ン は,SPD党 首 工 一 ベ ル トに首 相 の 地 位 を譲 っ た。9日,ベ ル リ ンで 労 働 者 は 街 頭 に 出 た 。 こ の 革 命 を押 し進 め た 政 治 グ ル ー プ は,USPD で あ っ た 。 そ の う ち と りわ け 「ス パ ル タ ク ス 団」 と 「革 命 的 オ ップ ロ イ テ 」35) で あ っ た 。 革 命 を 計 画 した の は,2つ の グ ル ー プ を 中 心 と したUSPD左 派 の 人 々 で あ っ た。彼 らは レー テ革 命 を望 ん だ が,SPDは 革 命 を望 ま な か っ た 。11 月9日,ド イ ツ 共和 国 が 宣 言 され た 。 シ ャ イ デ マ ンが,こ れ も独 断 で,共 和 国 を宣 言 した 。 カ ー ル ・リー プ ク ネ ヒ ト(ス パ ル タク ス 団)が 社 会 主 義 共 和 国 の 宣 言 をす る 機 先 を制 す る必 要 が あ っ た か ら で あ る。 政 権 がSPDに 不 意 に転 げ 込 ん だ 。 彼 らは 自分 達 が 起 こ した の で は ない 大 衆 運 動 に よ っ て,権 力 の座 に押
し上 げ ら れ た 。10日,人 民 代 表 委 員 会 に,エ ー ベ ル ト(FriedrichEbert, 1871‑1925),シ ャ イデ マ ン(PhilippScheidemann),ラ ンヅベ ル グ(Landsberg)
(以上,SPD),ハ ー ゼ,デ ィ ッ トマ ン(Dittmann,1874‑1954),バ ル ト(以 上, USPD)が 選 ば れ た 。11月10日,SPD・USPDの 仮 政 府=人 民 委 員 会 議 が 認 め ら れ た 。6人 が 仮 政 府 を構 成 し た 。SPDは 単 独 で 権 力 を 握 れ な か っ た 。 SPDは 革 命 の た め に 努 力 を尽 く さ な か っ た ば か りか,革 命 をお し と どめ よ う
と し,帝 政 の維 持 さ え考 え た 。そ して ボ ル シ ェ ヴ ィ キ革 命 を恐 れ た。USPDは, 特 に 革命 的 オ ップ ロ イ テ(お も にベ ル リ ンの 金 属 労 働 者 組 合 員)と ス パ ル タ ク ス が,下 部 か ら革 命 を 起 こ し,レ ー テ を 望 ん だ 。USPDの 主 流=幹 部 会 は, ベ ル リ ンの 革 命 で 指 導 性 を発 揮 で き な か っ た。SPDは 単 独 で は政 権 を握 れ な か っ た の で,USPDに 対 して組 閣 交 渉 を した 。エ ー ベ ル トは 内務 ・軍 事,シ ャ イ デ マ ン は財 務,ラ ンズ ベ ル グ は新 聞 ・情 報 を担 当 した 。 政 府 の 要 職 はSPD に握 られ た。 エ ー ベ ル トは そ の 議 長 役 を演 じた 。
35)ベ ル リ ン の 大 企 業 の 金 属 労 働 者 連 合 が 分 裂 し て,1916年 に 反 対 派 と し て 成 立 し た 。 こ の 指 導 者 は,リ ヒ ャ ル ト ・ミ ュ ラ ー(委 員 長),エ ミー ル ・バ ル ト,ド イ ミ ヒ, レー デ ブ ー ル らで あ る。USPDに 属 す る 。
ドイ ツ独 立 社 会 民 主 党 と ヒ ル フ ァデ ィ ン グ外 伝 、1918年 まで ヱ5
こ の 日,10日,ベ ル リ ン労 兵 協 議 会 大 会 が 召 集 さ れ,こ こ で人 民 委 員 会 議 を 新 政 府=仮 政 府 と して 認 め た。 この 仮 政 府 は,11月12日,初 め て の 施 政 方 針=
政 府 綱 領 を発 表 した 。 「革 命 か ら生 まれ,政 治 指 導 が 純 粋 に社 会 主 義 的 で あ る 政 府 は,社 会 主 義 的綱 領 を実 現 す る任 務 を持 つ」36)と 冒頭 に あ る が,内 容 は 一 般 民 主 主 義 的 で あ っ た。す な わ ち,一,戒 厳 令 の 停 止,二,集 会 ・結 社 の 自 由, 三,検 閲 の 廃 止,四,表 現 の 自由,五,信 仰 の 自 由,六,政 治 犯 の 恩 赦,七, 戦 時 徴 用 法 廃 止,八,僕 碑 条 件 の 無 効,九,労 働 者 保 護 法 の 復 活,そ して,予 定 す る もの と して,社 会 政 策 の 拡 充,最 低8時 間 労 働,雇 用 安 定,失 業 者 救 済, 疾 病 保 険,住 宅 建 設,食 料 確 保,生 産 と財 産 の 保 護,20才 以 上 男 女 の 比 例 代 表 制 に よ る 平 等 ・秘 密 ・直 接 ・普 通 選 挙 権,立 憲 議 会,で あ っ た 。
す で に1918年10月9日(ド イ ツ 革 命1カ 月 前)に,鉄 鉱 業 の 支 配 者 が 会 合 を も ち,工 業 を救 うべ く,労 働 組 合 と協 定 を 結 ぶ 決 議 を した 。11月10日,第1回 ベ ル リ ン労 兵 協 議 会 大 会 が あ り,生 産 手 段 の 即 時 ・徹 底 的 な社 会化 が 決 議 され た 。11月15日 に は,経 営 者 同 盟 と 自由 労 働 組 合(翌 年 に全 ドイ ッ 労 働 組 合 同 盟) の 中央 労 働 協 約 が な っ た 。Zentralarbeitsgemeinschaft(中 央 共 同作 業 体)と い う労 資 の 全 国組 織 が で きる 。
1918年 の ド イ ツ の 画 期 的 な 出 来 事 は,帝 政 の 崩 壊 で あ っ た 。ド イ ッ 国 民 は,1848年 に ほ ん の しば し共 和 制 の 経 験 を持 っ た こ と を 除 け ば,君 主 制 しか 知 ら なか っ た 。革 命 に 心 を 寄 せ た 人 は帝 政 の 廃 止 を望 ん だ が,君 主 制 が 滅 び て も,多 くの 国民 は 新 しい秩 序 に 同化 す るの は容 易 で は な か っ た 。そ れ に こ の 革命 は,地 主 とブ ル ジ ョ ア ジ ー の 経 済 支 配 と軍 国 主 義 を 変 え られ ず,君 主 制 の打 倒 と民 主 的 経 済 改 革 にお わ る の だ っ た。「共 和 国 の 宣 言 は,結 局 の と ころ,単 に王 党 派 に 向 け られ た もの で は な く,極左 の スパ ル タ ク ス 団 に も 向 け られ た も の だ っ た 。」37)
ドイ ツ は11月11日 に 休 戦 し,休 戦 条 約 に 調 印 した 。 ドイ ツ 第2帝 政 は,敗 戦 と物 資 の 極 端 な欠 乏 と国 民 の厭 戦 気 分 に よ っ て,崩 れ 去 っ た 。 この ドイ ツ 革 命
36)PhilippScheidemann,MemoireneinesSozialde〃zokraten.Dresden1930,S.
324‑325.
37)P.ゲ イ 『ワ イ マ ー ル 文 化 』27ペ ー ジ 。
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に よ っ て 成 立 し た政 府 は,外 見 上 は社 会 主 義 政 府 で あ っ た。6名 と も 「社 会 民 主 主 義 者 」 で あ っ た か らで あ る。 しか し現 実 に は ドイ ッ は 全 体 と して 政 治 構 成 は,1918年11月19日 以 後 も ブ ル ジ ョア民 主 国 家 に と ど まっ た 。11月 革 命 は,帝 政 こ そ 排 除 し た が,国 家 機 構 は 決 定 的 な もの が 何 等 変 わ ら な か っ た38)。1918 年 の 革 命 は,社 会 主 義 政 党 と労 働 組 合 が 行 っ た もの で あ っ た 。 だ が そ れ は確 か
に 社 会 主 義 革 命 で は な か っ た39)。 東 ドイ ツ の ユ ン カ ー勢 力(半 封 建 的 大 土 地 所 有 者),官 僚,軍 部 は,温 存 され た 。後 年,ド イ ツ革 命 に よ っ て背 後 を刺 さ れ,
ドイ ッ は戦 争 に負 け た,と い う合 口伝 説 が 流 布 され たが,ド イ ツ で は 実 際 に は そ の 流 言 とは 反 対 に,休 戦 の 決 定 後 に革 命 が起 きた 。
一 般 に
,国 民 的規 模 の 政 治 革 命 が 失 敗 す る原 因 は,軍 事 力 に よ る 反 革 命 に よっ て鎮 圧 され る こ とで あ る 。 ドイ ツ で は,兵 士 も革 命 に参 加 した の で あ っ て,こ れ が 革 命 成 功 の 一 因 とな っ た 。 軍 部 が 革 命 を転 覆 し な か っ た 他 の理 由 は,エ ー ベ ル トが,軍 部 つ ま りグ レー ナ ー 将 軍(WilhelmGroener,1867‑1939)に,
秘 密 電 話 で,新 政 府 が社 会 主 義 に 向 か わ な い こ と,軍 部 を温 存 す る こ と を約 束 した か らで もあ っ た 。 ドイ ッ革 命 に よ っ て 権 力 を握 っ たSPDは,真 に社 会 主 義 革 命 を実 行 す る の で あ れ ば,ユ ン カー,大 資 本 家,高 級 官 僚,軍 部 な どの諸 勢 力 を制 圧 す る べ きで あ っ た 。 しか しSPDの 大 部 分 が 労 働 組 合 主 義 者 で,古
い権 威 を重 んず る ドイ ツ 人 の 習 性 に染 ま っ て お り,思 い切 っ た こ とが で き な か っ た 。 人 民 委 員 会 議 は,ド イ ツ経 済 の 改 革 を行 わ なか っ た 。 当 時 ドイ ッ民 主 主 義 の た め に は少 な くて も2つ の分 野 で 必 要 で あ った の は,大 土 地 所 有 と鉱 山 の 改 革 で あ っ た。 ドイ ツ の 時 代 遅 れ の大 土 地 所 有=ユ ンカ ー 制 は,エ ル ベ 河 以 東
の プ ロ イ セ ンで は無 条 件 に 必 要 だ っ た 。
第1次 世 界 戦 争40)は,世 界 史 の 近 代 と現 代 の 分 水 嶺 と な っ た 。 戦 争 の 終 結 に よっ て,ほ ぼ,現 在 の 国 家 と領 土 の枠 組 み が 出 来 あ が っ た 。 新 しい 思 想,民
38)A.ロ ー ゼ ンベ ル グ 『ヴ ァ イ マ ー ル 共 和 国 史』 思 想 社1964年,10ペ ー ジ。
39)ノ イ マ ン 『ビ ヒモ ス』 み す ず 書 房1970年,18ペ ー ジ。
40)テ イ ラ ー 『第1次 世 界 大 戦 』 新 評 論1994年 新 版 。 リ デ ル ・ハ ー ト,フ ジ 出 版 。 尾 鍋 輝 彦,中 央 公 論 。
ドイ ッ 独 立 社 会 民 主 党 と ヒ ル フ ァデ ィ ン グ外 伝 、1918年 まで 17 族 自決 主 義 と ボ ル シ ェ ヴ ィズ ム が 実 現 され は じめ た 。 戦 争 は,休 戦 とい う形 式 で は あ っ た が,事 実 上,中 央 列 強(ド イ ツ,オ ー ス トリア=ハ ンガ リー,ト ル コ) の,協 商 国 側 に対 す る 軍 事 的敗 北 を もっ て 終 わ りを告 げ た 。勝 利 した 側 の 一 角,
ロ シ ア と,敗 戦 諸 国 の 国 家 形 態,す な わ ち 半 絶 対 主 義 的 君 主 制 は,転 覆 した 。 ヒ ル フ ァデ ィ ング は,ハ プ ス ブ ル ク帝 国 の 崩 壊 と同 時 に除 隊 し,ウ ィ ー ン に 戻 った 。 新 し く結 成 され て い た ドイ ツ独 立 社 会 民 主 党 に既 に属 して い た と思 わ れ る。11月9日 の ドイ ツ革 命 に よ っ て,SPDとUSPDの そ れ ぞ れ 三 者 か らな る6名 の 人 民 委 員 が,ド イ ツ の 政 治 的 最 高 権 力 の地 位 に就 い た 。 こ のUSPD指 導 部 が 先 ず 行 っ た こ とは,党 中央 機 関 紙 『フ ラ イハ イ ト』 の 創 刊 の 決 定 と,ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ を そ の 編 集 長 に す るた め,可 及 的 速 や か に ウ ィ ー ンか らベ ル リ
ンへ 呼 び 戻 す こ とで あ っ た 。 古 いSPDの 『フ ォ ル ヴ ェ ル ツ』 編 集 局 員 と して の 経 歴 と,社 会 科 学 者 と して 有 名 で あ る こ とで,白 羽 の 矢 が あ た っ た 。ヒル フ ァ デ ィ ン グ は オ ー ス トリア=ハ ンガ リー 帝 国(ハ プ ス ブ ル ク)の 国民 軍 軍 医 と し て召 集 され て お り,終 戦 の 頃 に は,イ タ リア 戦 線 の 背 後 ク ロ イ ツ ナハ で 野 戦 病 院 に 勤 務 して い た 。しか しハ プ ス ブ ル ク 帝 国 が 崩 壊 し,任 を解 か れ た彼 は ウ ィ ー ンに戻 った 。だ が 新 任 務 の た め,ウ ィー ン に は 長 く留 ま らず,ベ ル リ ンへ 赴 い た 。 今 度 は,妻 マ ル ガ レ ー テ と二 人 の息 子(長 男 カ ー ル,次 男 ペ ー タ ー)は,彼 に つ い て 来 なか っ た 。ヒル フ ァデ ィ ン グ は単 身 で ベ ル リ ンへ 向 か っ た。マ ル ガ レー テが ベ ル リ ン行 き を好 ま な か っ た か,二 人 の 間 の 愛 情 問 題 か,ま た は人 生 の 方 針 の 問 題41)に よ っ て で あ ろ う。 マ ル ガ レー テ は ウ ィ ー ン で 医 師 と して 活 躍 し た か っ た 。 母 が ウ ィー ンに い れ ば,息 子 た ち は,ウ ィー ン に滞 ま る こ とを望 む だ ろ う。
『フ ライ ハ イ ト』 の 創 刊 号 は,11月15日 に 出 た 。 ヒル フ ァデ ィ ン グ は そ の 編 集 に 間 に 合 わ な か っ た 。 そ の 日か ら約1週 間後 に,彼 は 編 集 に加 わ り,采 配 を 振 る っ た の で あ る 。 こ の編 集 部 で 共 に働 い た ア レク サ ン ダ ー ・シ ュ タ イ ンは, 当 時 の ヒ ル フ ァ デ ィ ング につ い て こ う書 い て い る。 「ヒル フ ァデ ィ ング の 指 導
41)『 若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』。
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の 下 で 働 く こ とは,喜 び で あ っ た。 … 私[=シ ュ タ イ ン]は,組 織 者, ジ ャ ー ナ リス ト,党 の指 導 者 と して の 彼 の 能 力 が 初 め て よ く分 か っ た。そ れ は, 三 年 半42)も 前 線 にい て 政 治 活 動 が で きな か っ た の で,そ の エ ネ ル ギ ー が 目覚 め 始 め て,彼 の 中 で あ た か も突 発 した か の よ うで あ っ た。 また 革 命 的 な 大 衆 運 動 の 嵐 の よ う な 数 週 間 を,計 画 的 な民 主 主 義 的 社 会 主 義 運 動 の路 線 へ 導 き 入 れ よ う とす る か の よ うで あ っ た 。仕 事 で は疲 れ を知 らず,才 気 と機 知 に閃 き, い つ も新 しい 理 念 に 満 ち て い た 彼 は,我 々編 集 局 の仲 間 を,す ぐ さ ま素 晴 ら しい 同志 と し て,働 く集 団 に変 え て し ま う こ と を心 得 て い た 。彼 の 指 導 に よ っ て,初 め は 発 行 部 数 が3万 部 で あ っ た新 聞 が,半 年 の う ち に25万 部 に な っ た 。 ベ ル リ ン の 刊 行 物 で は,そ れ は 前 代 未 聞 で あ る 。」43)初 期 の 独 立 社 会 民 主 党 の 国 会 議 員 トニ ー ・ゼ ン ダ ー は書 い て い るが,当 時 の多 数 派 社 会 民 主 党 の 指 導 的 な編 集 者 が,『 フ ラ イハ イ ト』 の ジ ャー ナ リズ ム 上 の 成 功 を当 時 う らや ま しい と思 っ て い た,と 後 年,彼 に 語 っ た 。 こ の新 聞 は,新 共 和 国 の秩 序 の 弱 点 を生 き生 き と闘 争 的 に指 し示 した 。 特 に軍 部 の 陰 謀 を暴 い て 功 績 を立 て,
また 日常 政 治 で の ジ ャー ナ リズ ム の 闘 争 と,読 者 を最 教 育 す る 真 面 目 な努 力 と を結 びつ け た44)。
仮 政 府 の首 脳 は,フ リー トリ ヒ ・エ ー ベ ル ト(1871‑1925)が な っ た 。 仮 政 府 の社 会 政 策 が 法 令 化 され,そ の 内 容 は,8時 間 労 働 制,失 業 救 済,疾 病 保 険 な どで あ っ た 。
エ ー ベ ル トは,レ ー テ と妥 協 を試 み た 。そ してUSPDを 抱 き込 む の だ っ た 。 SPDは,エ ル フ ル ト綱 領 の 具 体 的 要 求 は 達 成 し,し か し社 会 改 革 は拒 否 す る と考 え た 。 そ して 急 進 革 命 派 の 武 装 解 除 をす す め る た め に,旧 帝 政 軍 隊 と将 校 を利 用 した 。 ま たUSPDの 社 会 主 義 的 綱 領 を拒 否 し た 。 そ こ で12月 末, USPDは 政 府 を 脱 退 す る こ と に な る 。
42)実 際 は2年 。
43)AlexanderStein,RudolfHilferdingunddiedeutscheArbeiterbewegung.Ham‑
burg[1947],S.10.邦 訳 『ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 伝 』 成 文 社 44)同,23ペ ー ジ 。
ドイ ッ独 立 社 会 民 主 党 と ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ外 伝 、1918年 ま で 19 ドイ ツ革 命 にお け る重 要 な争 点 は,こ の 革 命 を民 主 共 和 制 の ま ま に と どめ て お くか,あ るい は そ れ を越 え て社 会 主 義 に まで 発 展 させ るか,と い う 問題 で あ っ た 。これ は2つ の 問 題 と して 現 れ た 。第1は,政 治 形 態 の 選 択 で あ り,第2は, 社 会化 の 可 否 で あ っ た。 社 会 化 に つ い て は,別 稿 で 論 ず る の で,先 ず,第1の 問題 を 取 り上 げ よ う。 こ れ は 議 会 主 義 を採 用 す る か ど うか,つ ま り立 憲 議 会=
国民 議 会 を作 る か ど う か で あ り,あ る い は労 兵 協 議 会(レ ー テ)制 度 を取 るか ど うか,で あ っ た 。 多 数 派SPDは,社 会 主 義 革 命 と レー テ制 度 に 反 対 し,す ぐに も 国 民 議 会 の 選 挙 を行 お う と した 。USPDは,二 つ の グ ル ー プ に 分 け て み る必 要 が あ る。 そ の 左 派 は,革 命 的 オ ッ プ ロ イ テ とス パ ル タ クス 団 で あ り, か れ ら急 進 派 は,社 会 主 義 革 命 と レー テ制 度 に 賛 成 し,SPDの よ うな 議 会 選 挙 を す ぐ行 う案 に は反 対 した 。USPDの 他 の グ ル ー プ は,党 内右 派 と幹 部 派 で あ る。 彼 らは 独 得 の 立 場 を と っ た 。 ち な み に 仮 政 府 に い る3名 のUSPDの う ち,バ ル トは革 命 的 オ ップ ロ イ テ,ハ ー ゼ と デ ィ ッ トマ ンは幹 部 派 で あ っ た 。 仮 政 府 の 方 針 は,前 述 の よ うに 立 憲 議 会 を作 る とい う もの で あ っ た 。
こ こ で レー テ に つ い て一 言 して お こ う。 レ ー テ は,ロ シ ア で い う ソ ヴ ィエ ト (評議 会)に 匹 敵 す る。 ま た 制 度 そ れ 自体 も ほ とん ど同 じで あ る 。 レー テ あ る い は ソ ヴ ィエ トは,民 衆 の下 か らの 代 議 機 関 で あ り,実 質 的 に民 主 的 議 会 が な い 国 で は,民 衆 の政 治 要 求 を汲 み 上 げ られ ない の で,出 現 す る可 能性 が あ る。
だ が2つ の 点 で,ソ ヴ ィエ トと レー テ を 区 別 して お く必 要 が あ る 。 第1に,ロ シ ア は ドゥー マ とい う形 式 的 な 議 会 が あ っ た が,事 実 上,議 会 とは 程 遠 い 国 で あ っ た。 ドイ ツ に は,普 通 選 挙 権 に基 づ い て い な い が,国 会 が あ っ た 。 第2に ロ シ ア の ボ ル シ ェ ヴ ィキ 党 は,ソ ヴ ィエ トを利 用 して 革命 を達 成 した 。 そ して そ の 後,ソ ヴ ィエ トを支 配 した 。 ドイ ツ に は か か る型 の 革 命 党 は な か った 。 ま た レー テ は,西 欧 で は 生 まれ え な い も の だ が,組 合 幹 部 が 戦 争 協 力 し,組 合 が 機 能 を失 っ た の で 生 じた 。
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革 命 の 推 進 力 は,USPDと ス パ ル タ ク ス 団 だ っ た,し か し革 命=民 主 共 和 制 が 成 立 す る と,大 衆 は,特 に農 村 で,旧 ・議 会 多 数 派 を支 持 す る。新 政 府 は, 軍 事 力 を持 た なか っ た 。革 命 は 軍 事 力 に よっ て 守 られ る の だ が,ド イ ツ革 命 は, ドイ ッ の レオ ン ・ トロ ツキ ー を 生 み 出 さ な か った 。革 命 の 当 初,ド イ ツ軍 部 は, 革 命 を覆 さな か っ た し,そ の力 は な か っ た 。 そ して政 府 は 軍 に手 を つ け なか っ た 。 そ の軍 部 が しか し息 を吹 き返 す の で あ る 。
物 心 つ い て 以 来,君 主 制 の秩 序 しか 知 らな か った 国民 に と って は,帝 制 の崩 壊 は 自分 の 意識 の 最 も深 い 層 ま で揺 り動 か さ れ る こ と を意 味 した 。 ほ ん の 少 数 の 人 しか,こ の 崩 壊 につ い て の心 構 えが で きて お らず,君 主 制 の 滅 亡 が 歴 史 的 な社 会 変 化 の避 け 難 い 帰 結 で あ る とい う こ とを理 解 で きな か っ た 。国 民 大 衆 は, 伝 統 的 な秩 序 の 崩 壊 を予 想 で き な か っ た 厄 災 と して 堪 え忍 ん だ が,新 しい秩 序 を作 る 責 任 を分 か ち 合 う とな る と,彼 ら は ほ とん ど無 力 だ っ た 。
制 度 は死 ん で も,そ れ に つ い て の記 憶 は長 く残 る。 君 主 制 の 制 度 が な くな っ た後 も,国 民 が 相 変 わ らず 意 識 の 申 で は,君 主 制 と結 び付 い た観 念 の 世 界 に生 き続 け る こ と もあ りう る。 変 化 した新 しい 秩 序 に 意 識 を適 応 させ る こ とは,緩 慢 で 困 難 な課 程 で あ る。 そ れ は ま た,過 去 の 思 考 習慣 に しが み つ くと か,何 か 分 か らな い が 漠 然 と した 明 日 を待 ち わ び る とか で,現 実 を 回避 した が る 人 間 の 傾 向 の た め,さ らに 一 層 困難 な もの に な る 。こ の よ うな 現 実 逃 避 の 空 気 の 中 に, ナ チ ズ ム が 発 生 した の で あ る45)。
12月6日,少 数 の 下 士 官 らの 謀 反 事 件 が 起 き た。 ベ ル リ ン協 議 会 の 執 行 会 議 を奇 襲 し,エ ー ベ ル トを共 和 国 大 統 領 と して 宣 言 し よ う とい う冒 険 で あ っ た 。 首 謀 者 た ち は逮 捕 さ れ た が,こ の 時,無 関 係 の 事 件 が起 き た。 ベ ル リ ン都 市 司 令 官(SPD党 員)は こ の 奇 襲 を 知 り,ベ ル リ ン の 政 府 部 隊 を用 い,市 内 の 道 路 を み な 遮 断 させ た 。 偶 然,ス パ ル タ ク ス 団 の デ モ 隊 が これ とぶ つ か り,兵 士 ら と もつ れ,発 砲 事 件 が 起 きた 。 デ モ 隊 の16名 が 死 ん だ 。 こ の事 件 に よ っ て, 急 進 的 労 働 者 は,政 府 ・SPDに 不 信 感 を持 っ た。 軍 部 と彼 らが 結 託 して い る
45)マ ウ,ク ラ ウ ス ニ ッ ク 『ナ チ ズ ム 』 岩 波 書 店37ペ ー ジ 。