韓国における保険詐欺に対する取り組み と課題
⎜⎜ 道徳問題としての保険詐欺 ⎜⎜
李 潤 浩
■アブストラクト
韓国において最近10年の間,保険詐欺問題は当局と業界のもっともホット なイシューの一つであった。この間,保険詐欺を実証する研究方法と詐欺摘 発技術が進展し,法整備を含め保険詐欺防止体制が構築される等,保険制度 の多くの資源が保険詐欺防止に割り当てられた。その結果,保険詐欺は公序 良俗に反するということへの理解と共感が広がったほか,保険詐欺の摘発率 が高まってきた。しかし一方では,保険コストの引き上げや正当な理由なし に支払いを拒否したりするなど,保険制度の社会的効用を引き下げ,保険制 度に対する大衆の否定的認識を助長し,保険詐欺を容認する風潮を創り出す という悪循環を繰り返してきた。この事実は,保険経済学と犯罪学の観点か らのみ講じられてきた取り組みの限界を露呈していることを示唆する。特に 保険詐欺問題のほとんど全部と言っても過言ではない 出来心詐欺 問題に 対してはこうしたアプローチは限界を露呈し,例えば,社会心理学など新た なアプローチが要求される状況にきている。
■キーワード
保険詐欺,保険経済学,心理学
*平成21年10月24日の日本保険学会大会(龍谷大学)記念報告による。
/平成22年10月11日原稿受領。
1.はじめに
韓国のあるポータル・サイト の条件検索によれば一年間で約128件の保 険関連の犯罪ニュースが報じられた。犯罪ニュースというものは大規模で凶 暴事件として警察により摘発されたものであることを勘案すれば,韓国にお いて保険犯罪問題がどれほど蔓延っているかを端的に示している 。
韓国金融監督院の推計によれば,2009年度の保険詐欺摘発金額と被疑者数 はそれぞれ3305億ウォン,5万4千件であり,2008年の2000億ウォン,3万 件を大幅に上回っている。内容においても,インターネットを通じ共謀者を 募集する専門詐欺組織が登場し,10人から200人で構成された専門ブローカ ーが登場するなど,大規模化・組織化しており,その手口も益々凶暴化して いる。
こうした状況の中,1990年代後半から保険詐欺に関する研究が始まり,学 界と金融監督院,保険業界などが中心となって法制度の整備及び保険詐欺認 知システムの導入など積極的な保険詐欺への対策を打ち出し,努力している が,事態は一段と深刻化しているようである。
保険詐欺による費用はまず保険金の支払増として表面化し,それが順次保 険料に反映され,最終的には保険団体全体で負担することになり,善良な多 数の契約者に不公正な契約を招来することになる。また,保険詐欺による不 正利得の可能性は保険購入や損害防止意思決定を歪め,保険市場に非効率を 招く。さらにそれへの対策として設けられる免責や一部保険など,付保範囲 を制限する契約条項はリスク処理手段としての保険の効用を引き下げる。こ のように保険制度の根幹を揺るがす保険詐欺に対して,保険企業はどのよう に対応していくべきか,という課題に直面している。
1)
Googleにおいて2009年8月から2010年9月まで保険詐欺関連ニュース。
2) 勿論,これに対して保険犯罪は警察の立証によって初めて犯罪として摘発さ れるから,詐欺的行為の増加とともに大検察庁などの司法機関の積極的な取り 締まりと摘発体系の強化の結果的現象であるとの見方もある。
保険詐欺と言えば,保険者を騙して保険金を請求するため放火,殺人など の悪質な犯罪行為 を浮かべるが,それよりも多いのは,被害額の誇大請求 や不実告示など,一定条件が充足されれば金銭的給付が支払われるという保 険の性質を悪用して行われるものであり,脱税や横領,窃盗のような犯罪行 為とは異なる。そのために,対策においてもこうした特徴を考慮すべきであ ろう。例えば,他の犯罪のように,その摘発を警察に過度に依存すれば,保 険者と消費者との信頼関係を揺るがすような問題を引き起こすかも知れない。
こうした状況は,消費者の保険に対するネガティブなイメージを広め,それ がまた更に保険詐欺に寛大な風潮を助長しやすいからである。
韓国においてこれまでの保険詐欺への取り組みは保険経済学や犯罪学から のアプローチが中心となっていた。つまり,インセンティブ問題やモニタリ ング・コスト,刑罰や摘発確率,そして犯罪化に焦点をあててきた。こうし たアプローチは悪質な保険犯罪の防止と,保険犯罪は常識に反するものであ り容認できない罪である,との消費者の信念の形成に確かに役立ったはずで ある。しかしこうしたアプローチは保険詐欺の中心問題としての機会主義的 不正請求問題の改善には殆ど役に立たず , 根本的に見直すべき状況にき ている。こうした観点から,以下,韓国における保険詐欺の現況とそれへの 取り組み実態を概括した上,経済学と犯罪学そして道徳心理学の観点から今 までの対策を検証し今後の課題を言及していく。なお,通常保険詐欺といえ ば保険会社が被保険者を騙すことも含まれるが,本稿では被保険者や契約者 による詐欺に限定する。
3) これを総称して保険犯罪という。保険詐欺の一般的な意義は保険者に対する 全ての詐欺的行為を含むので,保険犯罪より広い意味で使用されている。例え ば,告示義務に違反して,疾病を隠したまま疾病保険契約を成立させた場合,
広義の保険詐欺になるが,これは保険犯罪ではない。尤も,このような広義の 保険詐欺は保険者を騙し,自己または第三者が保険金を騙し取ったり,財産上 不法な利益を得たりすることが立証されることで犯罪となる。
4) 宋允 (2010) の実態調査によれば,韓国の消費者は,保険金を少し多めに 請求する程度は不公平を修正するのであって罪ではないと考えていることが分 かった。
2.保険詐欺の実態
2‑1. 保険詐欺の概念定義と種類
保険詐欺とは,広義では保険金を騙し取るために保険会社を欺瞞する行為 として定義されるが,狭義では保険者を騙し,故意に経済的利益をもくろむ 違法行為として立証された犯罪行為を言う。韓国の大部分の文献や保険業界 は広義として捉え,保険契約者や被保険者による保険金の不正請求のほか,
意図的な不実告知による保険料のごまかし,保険代理店・ブローカー,保険 会社役員・社員その他の第三者が保険契約者・被保険者または保険会社を騙 すことによる保険金または保険料の不正取得を含めている。
保険詐欺を直接に規制できる特別の規定は存在せず,保険詐欺を解釈論ま たは約款規定により処理する場合が多い。また,契約法的な問題については,
民法または商法の関連規定を適用して解決している。
このように保険詐欺を明確に規定する法律がないことから,保険業界と一 般人の保険詐欺の概念が違う場合もある。特に保険会社の保険詐欺の範囲外 見は広く,損害調査の慣行や特別な文脈に依存する場合が多い。例えば損害 率もしくは営業活動の文脈で保険詐欺が定義されたり,場合によっては保険 詐欺の容疑が明白であるときでさえ,刑事告発するよりも会社内部で処理さ れたりする傾向がみられる。一般人にしても保険金の不正請求を犯罪行為と 見ず,数年間にかけて支払った保険料の一部を取り戻すための手段として理 解したり,あるいは保険料が不公平であるから,機会があれば実行してもか まわないと考えたりする性向がある 。
こうした状況を背景に,韓国政府は保険詐欺を具体的に規定する法案を国 会に提出したが,2008年3月国会では定義条項は削除され,保険詐欺禁止の 義務のみを規定する法律が通過した経緯がある。
保険詐欺はいわゆる悪質詐欺(hard fraud)と出来心詐欺(opportunistic
5) 宋允 (2010)と李芝 (2007)を参考。
fraud
) に分けられる。悪質詐欺は,保険金を不正取得するために架空の事 故報告をしたり偽装事故を起こしたりするものであるが,出来心詐欺は,善 良な人が保険事故が起きた時に,免責金額や支払った保険料分を取り戻そう として損害物の価額を実際より高く申告して請求金額を膨らませたり,保険 事故の発生時に付保していない財物を付保したものと偽ったり,契約申込時 に自動車の走行距離や保管場所または従業員数などを不実申告して正規の保 険料より安い保険料を適用させたりするものである。2‑2. 保険詐欺の規模と傾向
保険詐欺の件数や被害額等に関する正確な統計はなく,推計数字が出され ているのみであるが,これらによると年間2兆4000億ウォン(生命保険:1 兆723億,損害保険:1兆1580億)で,一世帯当り年間15万ウォンに達する と推計されている 。損害保険と生命保険の保険金の年間支払い金額がそれ ぞれ9兆7,548億と6兆2750億であるから,それぞれ支払い保険金の17.1
%
と11.9%を占めている。また,2008年の保険詐欺の摘発金額は2,549億ウォン,被疑者数は41,019 名で前年度に比べてそれぞれ24.6
%(504億ウォン)と32.7%(10,097名)
へ増加した。この中で自動車保険関連の保険詐欺が大きな割合を占め,金額 基準で69.8%(1779億ウォン),被疑者基準では87.4
%(35,852名)に達し
ている。保険詐欺の類型別に細分化してみれば,架空の事故報告や偽装事故 が25.6%(654億ウォン)と最も大きく,保険事故の発生時に付保していな い財物を付保したものへの偽装,18.9%(483億ウォン),故意の保険事故の 誘発,18.7%(476億ウォン)などがその次にくる。このなかで故意の事故 誘発や偽装・架空事故など,悪質な詐欺類型の割合は被疑者数の基準で43.36) この表現は損害保険事業総合研究所 (2005) の13ページによるものであるが,
韓国では前者を硬性詐欺,後者を軟性詐欺という。
7) 朴一用・安哲京(1999)による。毎年,保険開発院はその推移値を発表して いる。
%を占めている。
最近摘発される保険詐欺の傾向を見ると,インターネットを通じて共謀者 を募集する専門詐欺組織が登場し,10人から200人で構成される専門ブロー カーが登場するなど,大規模化・組織化しているほか,高額の保険金を騙し 取るためには放火や殺人も憚らないなど,その手口が益々凶暴化している。
さらに病院など関連の専門家と共謀し,保険詐欺を隠蔽する事例が増加する など様々な形で広く浸透し,脱税に次いでもっとも被害額の大きなホワイト カラー犯罪であると言われている。
こうして保険詐欺が蔓延ってくると,当然ながら保険会社の対応も益々厳 しくなり,保険金支給の遅延や正当な理由なしに保険金支払いを拒絶(bad
faith
)する可能性がある。こうした事情は監督機関が受け付けた消費者の保険関連の苦情の推移に現れている。保険関連の苦情件数は2000年の9千件 から2006年の2万7千件へ増加し,その中,保険金支払いに関する苦情は同 期間に2千件から4千件へ急増しており ,保険詐欺に対する厳格な対応が かえって保険に対する否定的認識を拡大生産するのではないかとの恐れが出 ている。
3.保険詐欺防止の実態
3‑1. 保険詐欺に関する法規制の状況と量刑の実態
2003年に改定された保険業法において 関係者の調査 条項 の新設によ り初めて保険詐欺調査の法的根拠が設けられ,2006年9月には金融委員会に 8) これに関して保険消費者の不満を伝えるオンライン・メディアの見出しを紹 介すると, 契約者を絞り上げる保険会社 病気にかかり保険金を請求したら 保険会社が尾行,それを阻止しようとしたら暴行嫌疑で告発される 保険金 のかわりに告訴状? 病院と警察と共謀して顧客内査 病院と警察の記録を 引き抜き保険金支払い拒絶に悪用する保険会社 等,その事例は数えられない ほど多い。
9) 保険業法第162条において, 金融委員会はこの法律を違反もしくは共益と健 全な保険取引のために必要とされる場合,利害関係者にあるものを調査でき,
また調査に必要な書類などを要求できる。 と規定している。
国民健康保険管理公団の個人診療情報要請権を与える保険業法改定案が発議 されたが,保健福祉部と市民団体の反対に直面し,立法に失敗した。その後,
2008年3月に改定された保険業法で 保険詐欺禁止の義務 が規定され,保 険詐欺が法律上用語として確立した。法案の発議の時には保険詐欺が具体的 に定められていたが,最終的に定義は削除されて立法化された。
民法においては保険契約者が保険金の不正取得を目的として保険契約を締 結した場合,その契約を無効とする条項が保険詐欺に関連する。また,商法 における 保険者の免責事項 , 15才未満などに対する契約の禁止 , 告知 義務違反による契約解除 , 危険変更増加の通知と契約解除 , 損害保険に おける重複保険の通知義務 などの規定が保険詐欺の解釈論として適用され ている。
しかし最近,一層深刻化する保険詐欺問題を背景に,当局は詐欺的保険契 約および保険金請求に対する多様な法律案の立法を予告している。まず,商 法改定案第655条において,告知義務違反と因果関係のない保険事故に対し ても契約解除を可能とする一方,その2項では詐欺による契約は無効となり,
保険者はそれを認識するまでは保険料を請求できると明示している。第655 条の2項(詐欺による保険金の請求)においては,請求された保険金のうち,
一部でも詐欺があれば,その契約全体に対して保険者の保険金支払い責任は 免れるように規定されている。これに対しては保険者の恣意的解釈による一 方的な保険金不支払いが頻発する可能性があるとの意見があり ,実際に立 法化されるかは不明である。
韓国においてはドイツの立法例で見られるような刑法上の保険詐欺に対す る処罰規定はなく,一般の詐欺罪の範疇として取り扱われている。これに関 して2003年から2009年までの判決を分析した韓国刑事政策研究院(2007)の 10) 例えば,被保険者が保険金を請求するとき,実際の損失金額に関する証拠書 類の提出が難しいことから,保険目的物の価値を実際より高く報告するような 一部事実と異なる書類を提出し,それをもって保険会社が,保険詐欺として追 求することもありうる。こうしたときに,この条項を理由に保険支払いを拒絶 できる,という問題がある。
調査によれば,保険犯罪として分類される494の判決において執行猶予が 46.5%を占め一番多く,その次に罰金刑28.4%(この内73%が500万ウォン 未満),懲役刑が24.7%(この内71%が一年未満刑)であり,実刑を言い渡 されるのは4分の1に過ぎない。
3‑2. 調査体制
保険会社をはじめ金融監督院,保険協会と保険開発院,検察および警察が 協同体制を構築し,保険詐欺の防止・調査業務を行っている。
<金融監督院>
1999年に初めて設置された調査部が他の調査業務とともに保険詐欺の調査 業務を行っていたが,2007年に保険詐欺特別調査チームが別の部署として設 けられ ,保険詐欺の企画調査や社会保険と類似保険などとの協同調査機能 が強化された。ここでは保険詐欺調査業務を効率的に行うため,保険契約,
保険事故および保険金の支給資料など,保険詐欺調査に必要な全ての情報を 総合的に分析し,被疑者を割り出し,被疑者間の共謀関係まで追跡できる保 険詐欺認知システ ム(IFRS:Insurance Fraud Recognition System)を 開発し,運営している。保険会社が疑いのある契約を報告すれば,IFRSを 通じ被疑者を割り出し,証拠分析結果をもって捜査機関に捜査依頼をしたり 起訴したりすることができる。
しかし契約内容のみで被疑可能性を判断することは難しく,2008年に報告 された12,695件の中,本格捜査に着手したのは111件に過ぎず,その効果は 今ひとつであると評価されている。その理由としては,このシステムが保険 契約と保険事故中心の状況証拠に依存する反面,捜査機関は事実中心の客観 的証拠を重要視するため,捜査機関の資料収集や業務負担などにより保険詐 欺捜査の順番が後回しにされることが多く,それが保険金支給遅延につなが
11) しかしアメリカなどで見られる保険詐欺に対する直接捜査権は与えられてい ない。
り,消費者から誰のための保険監督かと非難される恐れがあるため,よほど 自信がない限り捜査依頼をしにくいからであろう。
<保険協会>
保険協会は調査業務と捜査機関の捜査支援,関連教育および広報を担当す る。損害保険協会は保険詐欺の調査・研究・教育のために自動車保険詐欺防 止対策委員会を運営しており,ここで自動車保険事故被害者調査システムと 長期積立型保険の多数契約調査および高額保険チェックシステムを運営して いる。
生命保険協会も保険犯罪防止チームを設け,保険会社間保険詐欺に対する 共同調査と関連情報を提供している。2007年,生命保険協会は,保険契約情 報管理システム(Korea Life Insurance Check System)を構築し各保険 会社の契約情報をまとめて保存し,このデータを通じて保険詐欺調査を行っ ている。各保険会社は保険金支給拒絶状況,保険加入拒絶事項,高額保険金 支給状況,多数契約事故調査および高額保険契約に関する情報を交換し,異 常な契約のリストを生命保険協会に知らせ,これにより協会は保険詐欺容疑 者リストを作成する。1999年には,生命保険協会は類似保険機関と生命保険 金審査協議会を結成し,保険詐欺防止のための情報交換をしているが,これ に損害保険会社も参加し,以後は,韓国保険金審査協議会と名称変更された。
生命保険協会と損害保険協会は,保険詐欺を申告すると,一定の報奨金を与 えているが,2008年度には1億3000万ウォンの報奨金が支給された。
<捜査機関>
警察は保険犯罪を経済犯罪として分類し,金融・通貨・公務員・選挙など 60種類の犯罪を担当する知能・麻薬捜査係で主に保険犯罪を捜査しているが,
組織暴力関連の保険犯罪は暴力係に,盗難車両および放火関連の保険犯罪は 強力係に割り当てられる。警察庁は保険業界および金融監督院と協同で保険 犯罪を摘発しているが,基本的に保険業界の告発により捜査が始まる。
<保険会社>
保険事故による保険金が請求されると,保険会社は一次的に事故の原因や 事実関係などを確認する。その後,被害者などの調査を通じて損害額決定や 免責の有無を調べる。その過程において保険犯罪の疑いがある場合,会社内 の特殊捜査チーム(SIU:Special Investigation Unit)で容疑立証のため の現場調査が行われる。SIUは保険詐欺を専門的に調査するために各会社 に設けられた部署として,業界全体として370名程度の専門家が活動してお り ,大半は捜査機関の職員出身である。
保険会社の保険詐欺への取り組みとして目立つ最近の傾向として,個別会 社が巨額を投入して独自の保険詐欺調査システムを導入したり,損害査定業 務を外部に委託したりして処理するケースが増えている。これは厳格な損害 査定による保険金支給遅延や不支払いに対する不満などから会社のイメージ 下落や営業への悪影響を緩和するためのものと理解される。
4.理論的考察
以上,保険詐欺への対策を強化し続けてきたにも関わらず,事態は一段と 深刻化していることを確認した。これは保険詐欺から提起される問題が単な る保険市場の効率性と法律の問題に留まらす,社会心理や道徳,そして企業 倫理など多方面と関わっており,その原因をモデル化するのに膨大な理論的 裏づけが必要であることを示している。
前章まで確認した韓国における保険詐欺問題への取り組みを見る限り,保 険経済学や犯罪学の視点が強く反映されている。こうしたアプローチが間違 っているわけではないが,複眼的アプローチが必要であるという点で不十分 であるといえる。以下,幾つかの理論的枠組みから保険詐欺に対する取り組 みを検証する。
12) 2002年導入当時約60名であったものが,2008年370名へ,約6倍以上増加と なっている。この期間に保険詐欺摘発件数は8,557件から41,019件へ約5倍へ と増加し,比例関係にあることが分かる。
4‑1. 保険経済学的アプローチ
保険経済学的観点からは,保険詐欺はモラル・ハザード(特に事後的モラ ル・ハザード)の問題として,普通の人間の単なる経済的反応に過ぎず,そ れは保険者が本質的に負担せざるを得ないビジネスリスクとみなされる。
これに対して保険会社は二つの対策を講じることができる。一つはモニタ リングである。韓国の多くの保険会社が導入している広大なデータ・ベース システムや
SIUがこれに当てはまる。これらの対策の実施を通じて保険者
は保険金支払い拒絶と保険金の減額支給,更にはこうした制度の存在自体が 脅しとなり潜在的詐欺を断念させる利益を得る。保険経済学が示唆するとこ ろによれば,特に後者の断念効果は非常に重要で,損害査定の最大の狙いは 詐欺的クレームを断念させることにある(Takao&Okura
,2001)。しか しこれには訴訟費用,調査費,管理費,評判の低下, 保険金請求に対して 正当な理由なしに支払いを拒否する保険者 (bad faith
) に課される損害 賠償費用など,潜在的費用を伴い,これが保険の社会的効用を引き下げる。もう一つは,自己負担契約や免責などのように付保を制限する契約設計で ある。これは特にモニタリング・コストが高く,疑義の立証が困難なリスク に対して有効な方法であり,コストをあまり掛けず契約者の保険詐欺のイン
13) アメリカの多くの州においては消費者が保険会社の不法行為,たとえば正当 な理由なしに保険金支払いを遅延・拒絶したり,不当に保険金を減額したりす る保険者を訴え,これに対して裁判所が損害賠償金の支払いを命じ,これは場 合によっては保険事故による被害額より多い金額を支払わされることもある。
これは保険者を牽制し,効率的で公正な保険金支払いをさせることがその趣旨 である (
Sykes
,1996)。しかしこのルールが法廷においてあまりにもゆるく 適用されたり,損害賠償金が高くなりすぎたりすると,結果的にそれは保険者 に対するプレッシャーになりかねない。その結果,保険詐欺費用は増加し,こ れら費用は契約者に転嫁される(Abraham,1986)。このようにbad faithル
ールは,保険会社が,論争の余地のある保険請求を積極的に管理しようとする イ ン セ ン テ ィ ブ を 弱 め,保 険 金 コ ス ト を 高 め る こ と が 実 証 さ れ て い る (Barowne他,2004:Tennyson and Werfel
,2008)。こうし て 保 険 金 支 払 い過程における消費者保護の名目で行われる当局の努力はかえって保険詐欺に よる費用を高めるように作用する。センティブを弱めるのが長点である。しかしこれは,契約者が損害を膨らま せて報告する誘惑をもたらすという点で,両刃の剣である。これに関しては,
Hyman
(2001,2002)とDionne and Gane
(2001)の実証研究によれば,自己負担額が高いほど,保険詐欺の可能性が高いことが確認されている。
4‑2. 犯罪学的アプローチ
保険詐欺を犯罪問題として取り扱うときは,犯罪に対する罰則(罰金,懲 役,評判損失)が重要となる。犯罪経済理論によれば,個人が詐欺的請求を 行うかどうかは,失敗の可能性やそのときの罰則と,成功のときに期待され る便益により決定される。期待便益が罰則より十分大きい時,保険詐欺は実 行される。もし罰則と便益が一定であれば,個人の性向,リスク回避,時間 選好率,詐欺の主観的成功確率,評判損失に対する敏感度などに影響され る 。
Takao
&Okura
(2001)が確認しているように,保険詐欺摘発確率が 小さいときでもペナルティを十分大きくして犯罪インセンティブを弱めるこ とが出来るし,もしペナルティを十分大きく出来なければ,摘発確率を高め ればよいわけである。このアイディアは, 立証困難で摘発率の低い ,保 険詐欺の防止を考える上で重要であろう。こうした観点から見れば,韓国の個別会社が
SIU
を導入し,それを拡大 し,比例して摘発件数を増やしていることは非常に有効な方法であろう。こ れはペナルティを高めることが出来ないのであれば,強力な捜査体制を構築 することで,保険詐欺を相当阻止できることを意味する。最近の実験 に よれば,ペナルティを高めるより,摘発率を高める方が虚偽陳述の抑制に利 くことが知られている。これにはいわゆる評判の低下や汚名など,社会的制14)
Becker
(1969)を参考。15) 生損保協会によれば,全体保険金支払いのなかで14%が保険詐欺によると推 定されるが,そのうち摘発されるのはわずか約10%である。
16)
Nagin and Pogarsky
(2003)を参考。裁メカニズムが作用するもので,刑罰が無くても摘発その自体が個人に社会 的制裁を与えられるから,それを忌避したいわけである。この事実は保険詐 欺防止の理論的枠組を社会学的次元まで拡張することを要求する。
4‑3. 社会学的アプローチ
社会学的考察によると,社会は社会的制裁を通じて個人の行動を統制し,
個人の信念と行動には社会的規範が反映されている。これを保険詐欺に対す る大衆の態度と個人の保険詐欺意思決定問題に適用してみると,次のとおり となる。つまり,保険詐欺の決行に伴う費用と便益が一定であるとすれば,
汚名もしくは心理的葛藤費用などの社会的制裁が弱いほど保険詐欺が蔓延し,
これはさらに社会的制裁を弱める。自分の属する集団で保険詐欺が寛容に扱 われていれば,個人も保険詐欺を容認しやすくなり,保険詐欺に関する高い 容認度はさらなる保険詐欺を招き,詐欺に対する社会的制裁費用を低めるか らである。また,保険詐欺に対する大衆の寛容的態度は個人の信念と行動に 影響し,主観的摘発確率を低く評価するようにする。この点は今日の保険詐 欺の蔓延には保険詐欺を社会的に容認する何らかの歴史的理由があったこと を示唆する。
過去数十年間,保険産業は政府の規制により保護されていた。このため,
保険会社の支出超過はいつでも保険料引き上げで埋められるので,保険会社 は,ひたすら円滑な保険金支払いと顧客関係を重視し,保険詐欺はしばしば 無視された。保険詐欺に対する保険会社の対応不足は詐欺の社会的受容を強 めた。しかし,規制緩和が進み,保険産業における競争圧力が強まり,コス ト削減の動機が増加するにつれて,保険詐欺の防止はそのための重要な手段 となり,厳格な摘発体制が構築され,摘発件数も増えた。しかし大衆は過去 の経験に照らして,保険料は不公平で保険会社は儲け過ぎ稼ぎだとして,保 険会社の突然の変化に拒否感を抱く 。保険会社に対して否定的認識をもつ
17)
Hyman
(2001)を参考。消費者ほど,また保険会社が不公平であると感じる消費者であるほど,保険 詐欺に対して寛容的な態度をとりやすいことを考えれば,この歴史的初期条 件に対する考察は非常に重要であろう。
以上の社会学的展望は,保険詐欺防止努力には詐欺に対する寛容的態度と 認知された蔓延の程度を如何に緩和するかが鍵となることを示す。そのため には保険会社のイメージを改善し,保険会社と消費者との信頼を回復する努 力が必要であるだろう。教育が保険知識を改善することはもちろん,保険機 関に対する好ましいイメージを形成するという点から,これは保険詐欺に対 する態度変化のための立派な方策となるかもしれない。しかし,韓国の保険 詐欺に対する現状の取り組みの実態を見る限り,こうした観点からのアプロ ーチは欠けている。
5.結びにかえて
最近10年の間,保険詐欺問題は,保険産業は勿論,学界,公共政策分野な どから最もホットなイシューの一つとして注目された。保険詐欺の実証研究 方法は進展し,これらの進展はクレーム分類と詐欺摘発技術を改善させた。
公共政策の場面では,保険詐欺防止体制が構築され,保険詐欺に対する法律 規定をめぐる活発な議論が重ねられてきた。
しかしこれらの議論や取り組みはもっぱら 保険詐欺は重大犯罪だ との 認識を大衆に如何に植えつけるかということ,そして保険詐欺の摘発に焦点 が置かれていた。例えば,保険詐欺の犯罪的特徴や摘発事例,刑罰の広報に より大衆の態度変化を訴え,保険詐欺との戦争での勝利は,摘発件数や有罪 宣告の数として測られた。しかし犯罪に焦点を当てる保険会社や保険関連機 関の対応は,消費者の保険に対するネガティブなイメージを広め,それがま た保険詐欺に寛大な風潮の形成を促進した。これを受けて政府はより厳しい 規制の導入の必要性を力説し,保険企業もその対策を強化し続けてきた。
しかし,その間も 出来心詐欺 には手が及ばず,これがまた一段とぶり 返している。保険詐欺の最も注目するべきこの 出来心詐欺問題 への対応
を考える際,保険経済学や犯罪学的アプローチはさほど役に立たないかもし れない。勿論,このアプローチが,保険詐欺は常識に反するものであり容認 できない罪であるとの消費者の信念形成に寄与したことも否定できない。し かし,現在の韓国の消費者は,保険金を多少水増しして請求する程度は不公 平を修正するものであって罪ではないと考えている。今までのアプローチで はこの問題は改善できず,新たなアプローチが必要なわけである。
この意味で,道徳心理学や社会心理学は我々に洞察を与える。それによる と,人間は意思決定の瞬間に,教育や社会的規範などにより自分の内面に形 成されている正直性モニタリング擬制が活性化されると,相手から利益を詐 取する意思決定の可能性が低くなる。これと同じ文脈であるが,保険詐欺に 対して内面的モニタリングが準備されている消費者は保険詐欺を容認しない 傾向があると報告されている。保険加入経験があるほど,また最近の保険金 請求経験がある人ほど過大請求を容認しない傾向があるといわれる 。保険 加入と保険金請求の経験が保険関連知識を改善し,それが内面的モニタリン グ装置として機能したのではないのか。社会的心理学,道徳理論からのアプ ローチの有用性がここにあるだろう。
(筆者は大邱大学金融保険学科教授)
参考 献
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18)
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韓国損害保険協会