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考 柳 田 春 夫

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(1)

A   S t u d y   o n   N i e t z s c h e

Haruo Yanagida l

Dasswi runsaufNiet2;SChesMetaphysikbesinnen,heisst:dasswirversuchen, NietzschealsDenkerernst2;unehmen.

Versuchennur,ausderBesinnungeineBelehrung2;uemPfangenundaufden WegederBelehrungunsbesinnenzulernen.

Heidegger,Holzwege.より ‑ DiegrosseSynthesisdesScIlaffenden,Liebenden,Verniclltenden.

DieUnscIlulddesWerdensより ‑

1

『悦ば しき知識』の再刊に当 って(1886年),第五巻が 「我 ら恐れなき老」(WirFurclltlosen) と題 して付加 されたが,その最初の節でニーチェは次のように言 っている。 「近代最大の出来事

‑ 『神が死 んだ』 とい うこと,キ リス ト教の神への信仰が信ず るに足 らな くなった とい うこと‑

は,既にその最初の影 を ヨ‑Pッパの上に投げ始めている。少 くとも,この見世物を見て とるだ けの強い繊細な眼 と,眼の うちなる疑心を もつ少数者は とっては,まさに何か或 る太陽が沈んだ かのような,何か或 る旧い深い信顕が疑惑に転換 したかの ような気がする。彼 らに とって,我 々 の旧い世界が一 日一 日とより暮れてゆき,不信に,疎遠に, 『旧 く』なってゆ くように思えるに 違いない。・‑・「この信仰が掘 りくず された後では,すべてその上に建てられ,それによ りかか り,それの中へ伸び入 って成長 してい ったいかなるものが,例えば我 々の ヨ‑ Pッパ的モ ラルの 全体の如 きものが,今や くずれ落ちなければな らないか」は人 々には解 っていない。 しか しその 崩壊を見ている筈の 「我 々でさえ も, この暗さに対する正 しい関心 もな しに,就中我 々に対す る 心配や恐怖 もな しに,かの影の出現を迎えるとい うのはどうい うわけなのか.」‑・・「実際,我 々 哲学者や 『自由な精神』は, 『老いたる神が死 んだ』 とい う報知に接 して,恰 も新 しい曙光に照 らされた ように感 じる。我 々の心は感謝,驚異,予感,期待にあふれる。‑⊥遂に地平線が再び 自由な姿で現れて来た,まだ明るくはないにしても。遂 に我 々の船は再び出航す るこ とが 出 来 る。 どんな危険を も冒 して出航することが出来る。認識者のどんな冒険 も再び許された もの とな った.藩が,我 ・●●●kの海が再び開けて前に横 たわ っている.恐 らくこれ程の 『開けた海』はいまだ 一皮 もなか ったのである。

ェ‑チェの哲学的探求の試みは,キ リス ト教的神の死に よってかつてなし、程 廿と開かれた生の大 海へ と,神 の死 とともに露わ とな ったニヒT)ズムの超克を 目指 して,危険な航海に乗出す 「新 し

*

社会科(哲学)

(2)

きコ Pン ブス」の態度をその本質 とす るものであ T;たO

『悦ば しき知識』 は,『ツ ァラツス トラ』 に始 まる独創哲学の時代‑の橋渡 しをな している見 ら れ るが,その第三巻 にある 「狂人」(dertolleMensch)の一節 こそ,認識者 としての‑‑チ ェ.

の情熱 を物語 るものである。 白昼,市場で,提灯を提げて神 の死 を告げる と同時に神を探す狂人 の姿 は,広場で群衆に 「人間の超克」を説 くツ ァラツス トラを思わせ るものがあ る。 この両者に おいて,神 の克服老たると何時に神 の探求者た るニ‑チ ェの二義性を見出 しうると思 う。 ‑‑チ ェは 「神を信 じない」 とも,神 は存在 しない」 とも言わない。「狂人」の言 う 「神 は 死 ん だ」

紘,元 々信仰を持たない弥次馬的な傍観者 の立場 とは無関係である。丁度 ,超人を説 くツ ァラツ ス トラが群衆に理解 されず,最後の人」を教えるに至 って歓呼を もって迎 え られたにす ぎ な い よ うに。

Slit

‑ イデ ッガ一に よれば, 「神 の死 におけ る神 とは,先ず キ リス ト教 の神 を指す ものであるが, それに止 まらず して,超感性的世界一般の呼称 として用い られている。」のであ って,神 の 死 を 単 にキ リス ト教信仰 の雫矢 とのみ解 さぬことが, ヨー ロッパの精神史を全体 として考察す る上に

(2)

重要 な ことである と注意 され る。更に, 「この超感性的世界は プラ トン以来の形而上学的世界で あ り, さまざまな理念 と理想 の領域を表わす名前である。 『神は死 んだ』 とい う言葉 は, 超感性 的世界すなわち形而上学的世界は影響 力を失 っている, とい うことを意味す る。それは もはや生 を恵 まない。形而上学すなわち ニーチ ェに とってプラ トユズムと解 された ヨー ロッパ哲学は終 り を告げた。」のであ る。 この神 の死 こそニ ヒリズムの到来を意味する。「すべての現実的な ものの 超感性的板拠であ りその 目標 である神 が死 んでいるな らば,諸理念の超感性的世界がその拘束力 と,なかんず くその喚起 力 と建設力 とを喪失 したのであるな らば,その時には人間が 自己を支え 自己の 目標 とすべ き何 もの ももほや凍 らな くなる。『我 々は涯 しない無の中を さ迷 ってい る よ う な ものではないのか』 と問われ る所以であ る。 『神は死 んだ』 とい う言葉 は, この無が鉱が りつ つ あ るとい う確認を含 んでいる。 ここでい う無 とは,超感性的な拘束的な世界の不在 を 意 味 す

(3) 『すべての訪客 の うち最 も気味の悪い訪客』 たるニ ヒリズムが戸 口に立 っている。

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レヴイ ッ トに よれば,神 の死 は同時に,人間 自身において自らを意志す る意志の原理である。

神 の死 とは,自己 自らに引渡 され 自己 自らに命令す る人間の復活を意味す るのである。」以 上 の 二考察に よって も解 るよ うに,神 の死 における 「神」について,立入 った心理学的説 明を施す必 要 は さ程 ないよ うであ る。人間の もつ神意識に鋭 い メスを入れた フォイェルバ ッ‑を引合いに出 す まで もあるまい。それ よ りも,神 の死 と,それか ら生 じたるニ ヒリズムと, ニ ヒリズムの克服

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とい う観点か らして, ニーチ ェ哲学を 「ア フォ リズムの形 における体系」 として全体的に把撞す る努 力が大切であろ う。「神 の死 とい う洞察 こそ ニーチ ェの後期 の全作品を 支 配 しているもので

(6) あ り, ユ‑チ ェのすべての後期の哲学はニ ヒ1)ズAに対のる反動 として理解 され るのである。

(1)Holzwege,S.200 (2)ibid.

(3)ibid.

(4)NietzschesPhilosophiederewi gen、WiederkehrdesGleichen,S.40 (5)ibid.,S.15

(6)Jaspers,Nietzcshe,邦訳260

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2

神の死んだ世界において始めて人間存在の無意味性 と怪奇性が漂わ とな り,ニヒリズムが到来 したのである。 ニーチ ェ哲学の本建築たる 『力への意志』にきこ う。「私は, 来 るものを, もは や釆 らざるをえない ものを, ニヒ1)ズムの到来を述べる.今やこの歴史が語 られて しかるべき時●●●●●●

である。 ここでは必然その ものが働いているのであるか ら。.この未来は既に首の徴候に現れてい る. この運命は至 る所に示 され七いる。未来のこの音楽を聞 くためにすべての耳はそばだて られ

31il(

ているO」ニーチ ェは,「ヨ‑Pッパの最初の完全なェヒリス トとして,ヱヒ1)ズムそのものを 自 (2) 分の中で生 きつ くし,‑ ニヒ1)ズAを 自分の背後に, 自分の下に, 自分の外に もっている」 も の として叙述する。 ニーチ ェの態度は,いわば回顧的予見のそれであ って, ヨ‑ Pッパの歴史的 運命をふ り返 りつつ未来に向いて立つ ものである。

ニヒリズムの到来は神 の死によって出現 したのであるが,その歴史的由来 として,ニ‑チ ェは キ リス ト教にその起源を認識 しうると考える.「キ リス ト教的な‑道徳的な世界解釈の中にニ ヒ

5gl

リズムがか くされている。」キ リス ト教的プラ トン的世界観が,超越界なる 「虚構」を案出 し た のであるが,そのキ リス ト教のもつ誠実衝動によって,虚構世界 (真実の意味では有 らぬ もの) が崩壊せ しめ られた結果,現在では もはや何 も後に茂 らな くな った。途方 もない ニ ヒツの深 淵が

4) 開けてきたのである。「すべてのものがなん らの意義 ももたない。」

占ヒ9ズムとは,最高の諸価値が価値を喪失す ることを意味す るO目標が欠けている。『なぜ』

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に対す る答が欠けている。」最高価値が価値喪失 したる今, つま りキ リス ト教的信仰の没落, 荏 って道徳の没落 した今,何 ものももはや真実でな く」,すべてが許 されている」状況 とな った のであるo正に WozuMenschinduerftigerZeit?〝なる時代である。

此の人を見 よ』はい う。「デカンであると同時に初めであるとい うこと‑●● ‑‑私は発端 と 没落の徴候に対 して,今 まで どんな人間 ももっていなか った ような鋭い嘆党を もっている。私は

316g

両者を知 っている,私は両者だO」 この両者性, 二義性についてのニ‑チェ 本人な らびにニヒ リ ズムの教説の特徴を認識せねばならぬO ニーチェ哲学の二重の意義即ち 「今 日及び過去」の もの であ り,同時に 「明 日,明後 日」のものである意義 に注 目しよう。『力への意志』22は ニヒリズ ムの二義性の考察をなす節である。「A.精神の上昇する力の印 としてのニヒリズム即わち能動的 ニヒリズム。B.精神の力の下降ならびに後退 としてのニヒリズム。」 ニヒリズムはそれ故に, 強 さのニ ヒリズムと弱 さのニ ヒリズムとい う二様の意味を もつ,ちようど強 さのペシ ミズムと弱 きのペシ ミズムが考えられた ように。 ニ ヒリズムは没落 と生活嫌悪の徴候(印)で もあ りうるし, 生への新たな意志 と強化への徴候 としての能動的 ニヒリズムで もあ りうる。‑ イヂ ッガ‑もニ ヒ

リズムの二義性に注 目してい う。「ニヒリズムは, 従来の 最高価値の価値喪失を意味す ると同時 に,従来のすべての価値 の顕例を意味す る。後者は最高価値 の価値襲矢に対する妥協の余地ない

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反対運動を意味する.」‑ イデ ッガ‑は続けて, 価値置例 としてのニヒリズムは, 古い価値を新 しい価値 と取換えるだけでな く,価値づけの様式の●転廻 とな り革命 となる。価値定立は新 しい原 理 と領域を必要 とす るものであ って,この原理は既に生命あせた超 感性界ではあ りえず, ニヒ リ

(4)

ズムは最 も生命あるものを探求する,と述べているoそ もそ も,Ho12;Wege'′における‑ イデ ガーの論文 「ニーチェの言葉 『神は死せ り」は, この 「言葉」ノの理解のための論述で な く,存 在者の存在を探求する彼 の哲学圏へ と, この 『言葉』の解明を手段 として連れてゆこうとする試 みなのであって,‑ イヂ ッガーは,近代形而上学の晩 酌 こあるニーチ ェ哲学 も存在者の哲学であ って存在者の存在の問題が忘却 されていることを指摘 し,それを通 じて彼独 自の存在探求を試み ようとす る。‑イデ ッガーは 「存在」の問題 として語 り, ニーチ ェは 「人間」の問題 と‑して語 っ たのであるか ら,我 々は必ず しも‑イデ ッガーのニ‑チ ェ解釈にそのまま全 く同感するものでは ないが,‑イデ ッガ‑が ニ‑チェの言わなか った ことを も把撞せん として,それ と自己の哲学 と の内的関連を追求 してゆ く姿勢は注 目に伍 しよう.少 くとも,神 の死, ニヒリズム, 力 へ の 意 志,超人,永劫回帰, とい ったニーチェ哲学の板本的諸概念 (要素)を全体的につかむ とい う努 力に対 しては同感 しないではい られない と思 う。 さらに見落 してならない彼の視点は,ニ ヒリズ ムをひ とつの歴史的運動 として, ヨーロッパの歴史の根本的運動 として,歴運 (Geschick) して とらえるそれであるO もっとも,それが存在忘却つま り,JHeimatlosigkeit〟とい う歴運 と.

して把え られ るのであるが。

さて, ニヒ リズムは最高価値の価値喪失な らびに価値の転倒の二義性を有す るとされた。従来 の最高価値 とは,棉,理想,理念, 目標,根拠,一括 して超感性的世界を意味するとノ、イデッガ

‑はみるのであるが, このすべてがI,Wertlos汀であ り J,Sinnlos〟 とな った状態を能動的に打 返す ニヒリズムこそニヒリズムへの 「反対運動」であ って,これは強 さのペシミズムの発展 した もの とみ ることができよう。価値の崩例は新 しい価値の探求を促が し, ここにニヒリズ ム の 克 脂,む しろ自己克服が展望 されて くる. 三・とリズムの弁証法的展開である.価値の喪失を見出 し てその事実を指摘す るのみでは,いまだ真のニヒリズムに達 した とはいえないであろ う。価値 の 喪失 とい う深い否定 と,新価値樹立への努力 とい う肯定 (能動) と相侯 って,主体的なェヒリズ A(ニヒリス ト)がいわれ る所以である。否定面の認識 と肯定面‑の努力 とい う観点からすれば, 今 ここで我 々が主張 していることは,弁証法についても該当 しうると考えてよい.

ニーチ ェと‑‑ゲル との関係については後にふれ るが,今 ここで弁証法について若干の考察を 施 しておきたい。弁証法 といえば,す ぐにも 「正 ・反 ・合」ない し 「否定の否定」 といった図式 を もち出 して得 々と語 るような場合ほ とも角 として も,弁証法 とい うとなんで も 「矛盾」の論理

と解 して,矛眉を発見 しさえすれば満足 してそこに止 まって しま う立場が多い と思われる。矛盾 の前に立止 って 「弁証法」だ と思 っている立場は,その矛盾を克服 して進 もうとす真の学問的精 神 の前段階で終 って しま うことになる。 もっと悪いことには,いわゆる見せかけの矛盾 と真の矛 盾を取違えた り,或 いは矛眉律に対する誤解から,ゼノン (ェレアの)に対する論駁即矛盾律打 破 とみな した りす る。 さらに,矛盾が存する」 とい う命題が成立するに しても,その 「矛眉」が 果 して存在その ものの中にあるのか,それ とも存在 (世界)を把撞する思惟の認識の過程が矛盾 を有す るのか も大問題である。以上の所論は,岩崎武雄教授の 『弁証法』に依 った も の で あ る が,主体的弁証法か客体的弁証法 (自然弁証法)かの問題はさておき,弁証法が矛眉の発見 とそ の克服への試行錯誤の過程であることには同意 しうるであろ うO ことさらに弁証法を持出 したの 紘,現代のマル クス主義哲学ならびに実存主義 (哲学)が,痕本において弁証法的な思考をな し

(5)

てお り,‑‑チ ェにおいても例外でないので,この際弁証法について多少考えてみたまでのこと である。‑ ‑ゲルに対するアンテ ィテーゼとしてのキルケゴール とフォイェルバ ッ‑に発する現 代哲学を弁証法的 として特色づけ うるであろ うが,‑‑ゲルの反対者たち も‑ ‑ゲルを予想 して いるとして,‑‑ルを余 りに偉大視す るまでもあるまいが,確 に近代哲学の綜合であ りコ頁点 と しての‑‑ゲル (の弁証法)には絶えずそこから出発 してこなければならない偉大な論理 と超論 理 との綜合があ ったこともまた真実である‑‑ゲル とヱ‑チ ェ」 とは余 り言われない関係の 言葉であろ うが,一歩立入 って比較 してみると,意外な程に塀禄性を有 L.ていることが解 る.

レグ ィッ トは次のよ うに述べている。「壬ヒリズムは二重の意義を有する。第一に無(nichtig) となった現存在の意志 の弛緩で もあ りうるし,また意志 の強化ならびに意欲 されたる絶滅(否定)

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の徴候でもあ りうる。受動的な弱 さのニヒリズムと,能動的な強 さのそれ とであるニヒ リズム はその中に,価値の崩壊 と新価値の樹立 との二義性を併せ もつのであ り, ニヒ リズムに直面 した 人間は,可能的な上昇か下降かへの択一を迫 られ る,即ち 『最後の人間』 へ と落込むか, ある いは 『超人』へ と上昇 してゆ くかの岐路を 目前に して立つ ものである。自己克己 と自 己 滞 足 と

(9) 紘,神から脱 した (Gottlosgeworden)人間に共属す る二つの可能性なのである。

'樫 山欽四郎教授によれば, ニヒリズムとは,何のために」 とい うことのな くな った)打態 であ り,この世界はそれ 自体 としては,超越なき純粋内在 としてニヒルである.(これが永劫回帰であ る)と同時に,このニヒ/i:を肯定 してこれを生 き抜 く原理(これが力への意志である)を意味す る.

ill( この意味で ニヒ リズムの教説は積極的肯定の論理で もある。

諸家のニヒリズム解釈に共通な点は, ニt='1)ズムの二義性に着 日しつつ,ニヒ リズムの克服 と い う積極的肯定の立場を指摘すると同時に,超人,刀‑の意志,永劫回帰,さらには運命愛へ と 関連づける態度であろ う。 この場合にも,弁証法的考察が基本 となるのであろ うが,警戒Lな く てはならぬ ことは,あ らか じめ弁証法 とい った思考方法を もって臨んではいけない とい うことで ある。体系(衣)に対 して,論理(慕)に対 して批判的たることを 自己の核 とするニーチ ェを考究す るに際 しては, とくに琵意を要することである. ニ‑チ ェそれ 自体に従 って哲学することが弁証 法的思考を見出す とい う過程的な意味を もつ立場が正 しい。それが 「アフォリズムの形における 体系」を把握す る方法でもあ りうる。

『力への意志』585は言 う。「ニヒリス トとは,あるがままの世界について,かかミる世界は存在 すべか らず と判断する者であ り,あるべ き世界について,かか る世界は存在 しない と判断する人 間である。彼 らに従えば現存在は意味を もたない。」む しろ,すべては虚偽であ り,すべてが許

31iflE

されている。」のである。 ニヒルにぶつか ったところで,た じろがず して,填すべ きものは 進 ん で壊 し,超人として企投するためには,勇気がいるoMutを もつ人間は ニヒ T)ズムに直面 して も 「保儒」に向 って次のように呼ぶ ことができるo保儒 よ,・お前か然ちぎれば自分か。勇鬼だ, それは深淵に臨んでの 日まいを も打殺 し,苦悩 と同情を も,死 をさえ一も打殺する ことがで きる,

31E

次の如 く言 うことによって,『これ こそ人生であったか,いざ, もう一度./「シ ョ‑ペソハ ウェル 的なペシミズムの徹底化を顕倒 させたところに,「いざ, もう一皮/」が出現す る. 人間の現存 在は怪奇に して意味を もたない;すべてが虚偽であるだけにすべてが許されているのがさヒリズ

ムの本質であるが,その人問にかれの存在の意味を教え・よ うとす るのがツァラッス トラの教説の

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目標であ り,彼 の告知するものが超人であ り,永劫回帰である。

(I)perWille2:.JLrMacllt,Vorrede.(Kr6ner‑Taschenausgabe.) (2)ibid.

(3)ibid.,S.7 (4)ibid.

(5)ibid‥ S.10 (6)EcceI10mO,S,299 (7)Holzwege,S.205 (8) N.P.d.e.W.d.G‥ S.54 (9)ibid‥ S.47

8母 校山欽四郎,哲学叙説

的 DerWillezurMacht,S.414

的 Zarathustra,Vom GesichtundR色tsel.

3

超人 とは 「人間にその存在の急味を教える者」の謁である。超人 と紘, ユヒ リズムとい う歴史 的運動の展開を場 の媒介 として自らを実存的に意識 した人間である。 この人問における実存 とし ての自党の 「場」が ととりもなお きず永劫回帰で,超人 とはニヒルをそのままに受け容れて敢て これに堪えてゆ こうとする人間であるO回帰 に堪えて生 きる超人 とは,「その本質が 『力へ の 意

3f]E

志』か ら意志 され る如 き人間」である超人 とは, 神 と無の征服者である。 神の死 と人間の克 (2)

服即 ち占ヒgズAの自己克服が 昌‑チ ェの根本イデ‑である

」 とレ グィットは 言 って い る.

r力への意志」 と 「超人」の関係は存在 と現存在(自覚存在者)の関係 とみてよいと思われ る.‑

イデ ッガ‑によれば,超人 とはユヒリズム克服を 目指す戦士であ り,従来的な人間の型 を 越え てゆ く人間の本質的形相を表わす名称である. 『超人』 と三‑チェが解 しているのほ, 普通に知 られている人間の能力や意図が巨大に拡大 され高揚 されているような人間の個 々の範刺のことで はないC,また, ‑‑チ ェの哲学の応用 とい う道程においてはじめて生に発生す る (向って立つ

entstehen)よ うな人間のことで もないo 『超人』 とい う名前は, 近世的人間類型 としてその時 代の本質的完成の中へ入 りはじめる人間の本 質 を さすのである。『超人』 とは力への意志によっ て規定 された現実の中か ら且つ この現実のために人間であるところの人間で あるO彼の本質が力

(3) ●●●

への意志か ら意志 されている人間が超人であるイ存在の最 も内的な本質」・たる力への意志か ら 規定 され る人間の本質が超人 とされ るので,超人 と力への意志 とを杭,一脚 こ考 えることが基本 と され るoF超人Jを,ツア ラッス トラの教説を文字通 りに とって,猿か ら進 化 してきた人間 が 次 に進化 してゆ く洪塾 と解す る立場は論外 として,普通に超人 とは人間の日精すべきより高い理想 像 の如 く考えられ るのであるが,これ も不充分で,力への意志をすべての存在者の基調 として経 し引受けるに至 った人間 として考えるべ きであると‑ イヂ ッガーほ述べているor彼の立場は, 歴史的に思索す ることによって,人間解釈における 「従来的な」・立場を批判 し,神 の死か ら到来 した ‑ヒルの世界における人間が存在の本質を忘却 している不充分 さを指摘す るも の で あ る

F近 代形而上学の完成者」たる占‑チエも,その点では彼以前の・F従 来的な」菅学説 と軌 を一に す るものとされ るび ‑ イデ ッガーによれば, 存在者の本質 (essentia).即ちカへの意志に属す

(7)

る現存在(existentia)は,等 しきものの永劫回帰やあ り,その現存在の中で考え られた存在は, 超 人の本質‑の関連を含んでいるけれ ども,(ニーチ ェにおいては)この関連がその存在的な本資

(4)

において必然的に思惟 されないでいる。」 とされる。彼に よると, ニーチ ェは, 力への意志 とい う存在の歴運の中で地上の支配を引受けるべ く定め られ る人間煩型の本質を,高 き責任か ら考慮 したのであるけれ ども,そ こにおける存在論的思索の意識化において不充分だったの7:ある。‑

イヂ ッガ‑は,超人」 とは存在の呼びかけに応じ うるだけに熟 した人間のことであるが, ニーチ ェにはその点 まで明確 に自覚 されていなか った, と述べている.我 々はノーイデ ッガ〜の存在論的 かつ歴史的解釈に接 して,ノ、イヂ ッガ‑語 りした く感ずることのないまで も,近 代か ら現代への 哲学的探求の深化 と問題の難か しさとを,彼を通じて改めて考え させ られ る。 日常性的dasMan の立場を脱す るだけでは未だ充分 とはいえないのである。

近代観念論の父なるcogitoのデカル トに始まって, ライブ三ッツ,ソ ト,〜‑ゲル, シ ョ

ーペソ‑ ウェル, フォイルバ ッ‑,そ してニーチ ェと,存在そのものに代 って存在者全体の基体 とな った人間 とその主体性が存在者を支配 し,あらゆるものの根拠 としての存在は見失われた。

主観的理性が哲学の中心におかれ,「自我」か ら発 襲して 「絶対療柚」に至 り, 遂 には 「力への 意志」が存在その もの と取違えられるに至 った。 この存在忘却 こそ ニヒリズムに他な らず,か く て技術 の支配する時代が,精神のない時代が,政局的な 「原子力の時代」が到来 したのである。

ヨーロッパ精神史の総決算をすべ き時代が。‑ イデ ッガーほ,原水爆の問題を存在忘却時代の象 徴的問題 として考え,市 もその重大性に留保をうけて,・次のよ うに言は放 った と伝 え られ るo

存在忘却 とい う致命的な重大事か らみれば,原水爆など問題ではない。」 と.我 々は この 表 白 を もー弓 の象徴的なるそれ として受止めるべ きではあろ うか. ともあれ,今やここで原初のあの

初期のいつか」をやがて 「到来する日のいつか」 として取戻 し,存在忘却か ら飛躍 して存在の 故郷へ と帰 らなければならない と鑑は考える.ルデル リL‑ン'の詩を解明 し,或 いはアナクシャ

/ ドロスの断片の考察 と,‑ イヂ サガ‑は遂には,存在 との神秘な出会いを,哲学 と詩 との交錯 において直観する現代の哲学者 .詩人 と称すべきで もあろ うか.序,実存主義 とか実存哲学 と か よばれる場合,人 々はやや もす ると単なる倫理学 ない し道徳論 と解 して,存在論たる 「実存」

の本質を見逃 しがちで ある ことを注意 しておきたい。勿論強い意味で倫理的なのであ る け れ ど●●●

ち,‑ イヂ ッガー(など)の場合は存在論か らする呼びかけ と見倣すべ きなのである。彼の場合,●●●

存在の問題に没頭 しつつ 「故郷喪失」を指摘 して,・時代に警告を発 しようとしている。存在の問■●

題 として語 ることを通 じて,人間の在 り方に対 して訴えるものを見て とることがで き る。 常 に●●

存在」に聞き耳をたてるその うらには 「人間」への情熱が もえているのである.‑ヤスバ‑スの 場 令 も,現代への警告 と訴えが強 く働 きかけ て くるが, しか も 「包括者」の メタフイジクであろ うとし,哲学」であろ 5.とは しているが, 倫理学ない し道徳論であろ うとは していないO サル

トルの主著が 『存在 と無』 と題 され る存在論哲学であることは指摘するまで もあるまい。

ツァラツス トラは,超人そのものではない.‑超人 と永劫回帰 の教説を人 々に告知す る 者 で あ る.・超人の教説 こそ,一永劫回帰説 とともに 『ツプラツス、トラ』 の根本思想を形成す る.それは,. 自己自らを克服 しえた人間が,またそれのみが,あ らゆる存在するものの永劫回帰を意欲す るこ

(5)

とができるとい・5割 和こ於 でそ うなのであるとt,ィッ トは返 べているO一続いて彼は言 うO‑自己

(8)

自らを克服することによるニヒリズムの克服は,永劫回帰の予言 (真理告知)にとってての前提 である, と。

超人 も,力への意志 も,永劫回帰 も,すべてヱ‑チ ェにおいて見出され る教説で,彼 自らがそ れ に服従するよ うなものはない。彼はどんな教説で もそれを自己の自由に し,他の教説 と均衡的 に取扱 うのである.以上はヤスパ‑スが 『ニーチ ェ』において主張するところであるが,これは ニーチ ェの哲学が,絶 えずヤスパースのい う 「超越」‑の姿勢をとっているもので, 「体系家」

の完結 した とい う意味での固定化を排除するものであると解 して宜 しい。 とすれば,超人」に ついてみても,概念規定をそれだけ として試みるのは大 して意義あるものともいえない ようであ る. 神 と無の克服者たる超人 も, ニーチ ェの探求の全体における一つの企投 として,体系なき 体系」の全体か ら考察 さるべきなのであろ う。

(1)Heidegger,Holzwege,S.232 (2)L6with,VonHege1才uNietzsche,邦訳260 (3)Holzwege,ibid

(4)ibid.,S.233f

(5)L6with,N.P.d.e.W.d.G.,S.59f

4

『ツァラツス トラ』の冒頭に記 されたる 「三態の変化」は有名である0『力への意志』には次の よ うに述べてあるDusollst〟は,ス トア派,キ リス ト教徒 とアラブ人の教団,カン ト哲学 における無制約的な従順である。〟Dusollst〟 よりも高い境地に立つのは,英雄 (半神)のIcIl

(1) will′であ り,,,Ichwi 1lr′よりも高 く立つのが I,Ichbin〟である (ギ リシァの神 々のそれ). 遺稿 J,UnschulddesWerdensr′に次の如 く記 され る.,,Dusollstr′は多数者に とって,Jch

(2) will〟 よりも快 よ くひび く。彼等の耳には骨に群畜本能が存す る。

精神 の三態の変化の第一段階は,従がい学ぶ こと,あ らゆる重荷をらくだの如 く従順に荷 うこ と0第二の段階は沙漠の時期 (ニ ヒ1)ズムである)で, 自由精神の (道徳的命法 よりの)独立期 である。tのニ ヒリズムを通過 した第三の段階が, 自らの上に もはやいかなる神 も,いかなる人 間 もいない状態で,これ こそ 「無垢」の立場であ り,倫理的規制 よ り自由とな った天空開閉の境 地である。勿論,その裏付けに大いなる責任 (への意志)がある1のを見落 してはな らないO ここ には決然たるImmoralistが語 っている.過去 (の道徐)に向 って'JNein′を叫ぶだけ?それ でな くして,未来 (の新 しき道徳価値)に向 って大いなる展望 を試みる 「超道徒主義者」が。そ の場合,必 らず ニ ヒリズムの沙漠を経過 しなければならぬ ことを注 目すべきである。Immora1 istが,単なる否定主義者でな く, 香定を媒介 として大いなる肯定即ち 「たわむれ る小児」の境 に重 iているところに ニーチ ェの 「前向きの状態」があるが,それ も彼独特の 「古代性の復活を 要素 としたる近代性」である.「たわむれる小児」 とは,かのエフェソスの哲人に見出され′る表 現なのであ り, ニ‑チ ェと‑ ラクレイ 〔スとの類縁関係について,ここで一考を施 しておか ねば な らない。

ニーチ ェは,‑ ラクレイ トスを自らわ 「祖先」 として数え,『悲劇時代のギ リシァ哲学』も,‑

(9)

ラクレイ トスの叙述を もってその筑 点としている。庁この人を見 よ』に日 く。「‑ ラクレイ トス, この人のそばにいると,他の どこにいるよりも暖かい気分にな1る。無常 と絶滅 との肯定,デ ィオ ニュソス哲学における決定的なもの即ち対立 と戦争に対す る是認,IJSein''、とい う概念 さえ も徹

5Bl( 底的に拒否す る生成,これ らにおいて自分は最 も親近的な ものを認めずにはい られない。」とO固 箇所に続けて言 う。「永劫回帰』 の教説,即 ちあ らゆる事物の絶対的に無限に繰返 さ れ る 循 環

このツァラツス トラの教説は,結局‑ ラクレイ トスに よって既に教えられて しまっているか もしれない。

循環 (回帰)の説に関する先駆者 として・‑ ラクレイ トス・Tピュクゴラス(派)・な らびにエソ ペ ドクレスが盲代ギ 1)シ了の哲人 として存在 した。ソペ ドクレスの歴史哲学‑ 人摂史を四時 期に分ち,愛 と憎 の結合 (牽引) と分離 (反環)に よって各時期が次 々と無限に循環す ると説い た‑ もまた 壬‑チェの先駆をな した ものとみてよいO所伝に,エソペ ドクレスは,緋砲をまと い,金の帯を締め,青銅の靴をはき,ヂ/レフィの冠をかぶ って歩 き廻 った とい う。 この詩人哲学 者は,民衆に囲まれて狂気にな り,再生の真理を告げなが らェ トナ山の火 口に身を投 じた といわ れ る。白昼提灯を提げて神を探 した狂人の姿は,ソペ ドクレスに ヒン トを得ているとも考え ら れ る。‑/レデル リーンの トル ソーとして 『悲劇ソペ ドクレス』があるの も意味深い。

‑ ラクレイ トスを始め として古代思想家とニ‑チ ェとの関連を考える場合,‑ イデ ッガーの解 釈 を顧みてお こう。 レグ ィッ トに よると,′、イデ ッガ‑は ェ‑チ ェが本質的に新 しい ものを考え たのではな くて,ただ盲代この方形而上学に とって導 きとなっていた ものを完成 したのであ り, ツァラツス トラの動物たちに対す る告知 も,必ず しも新 しい ものでな く,苗代 この方 より形而上 学によって考えられてきたものを意欲の近代的観点において反復 した ものにす ぎない と考えてい る。 この解釈 を推 し進めると,結局 ニーチェの独 自の意義 に否定的にならざるをえないので問題 であるけれ ども, 「反復」 とい う見方か らして, レグイッ トのい う 「近代性の筑 烏における古代 の反キ リス ト的反復」の意につな ぐことも可能ではあろ う。近代 とい う概念にアクセン トをおい●●

て受止めるべ きであろ う。

‑ ラクレイ トスの永劫生成 (Werden)なる根本発想は,高め られて永劫回帰の着想に至 るも ので,必然と公正 と生成 の無罪 (無垢) とについて喝破す る 「生成の哲人」は,世界を神的な遊 戯 と観 l=,善 と悪 との彼岸にあると見 る点において, ニ‑チ ェに よって(遺稿),ヴェ‑ダ‑/タ哲 学 と並んで先駆者 となされている。‑ ラクレイ トスの断片52に日 く, 「人生は小児の遊戯だ,将

(1)

棋遊びだ,主権は小児の手中にある。」この天才的直観は, ニーチ ェの主張する 「生成の無罪」を 観ず ることに他な らない。 『悲劇時代のギ リシァ哲学』における 「たわむれ る小児」は,海辺に おいて砂山を無心に築いては また無心につき崩す。それが しか も絶え間な く繰 り返 され る。 これ ほ とりもなお さず,永劫 回帰のギ リシァ (ソクラテス以前)的直観の詩的表現であ り,罪 と罰な るキ リス ト教的観念以前のものである。 「神 にとっては,すべてが美であ り,善であ り,正であ

(5)

る。 しか し人間は,そのあるものを不正 と考え,他の ものを正 と信 じた。」‑ ラクレイ トスは,盲 代的存在肯定を説いている。世界 (存在)を正当証明する (rechfertigen)立場であ り,戦いを

(6)

も 「万物の父であ り,万物の王である」 と見倣す。‑ ラクレイ トスの哲学は,いかなる 「倫理的 命法」 も知 らず,〟Dusollst〟 も意識 しなか った。万物流転 (但 し,パンク ・レイは彼 の言葉か

(10)

ど うか疑わ しい)の其只中に在 ってそこに見出され るロゴスを直観するのみ。その .7ゴス即 ち火 で・その世界をつ くるたわむれがいわば骨に築いてはまたこわす小児の準びなのである『悲劇 時代のギ リシァ哲学』は結論的に,「自分は全世界を公正の主宰する一つの済劇 として観ず る. とな し,「世界は永久に真理を必要 とする,従 って世界は永久に‑ ラクレイ トスを必要 とす る。 と叫んでいる。

ニ‑チェにとって,アナクシマン Fpス,‑ ラクレイ トス, エンべ ドクレスと続 くJJVgrSO‑

kratiker汀は侵すべか らざるものであって,彼等に続 く 「無知の知」を説いた巨人は, こ‑チェ に とっては,悲劇を殺著 した論理過剰家」 として断罪 さるべき存在なのである。 もっとも,ベ ル トラムあた りも指摘するように,最 も親縁ある者に対する敵意ある親密」であ って, ニ‑チェ (7) が ソクラテスの中に於て憎んでいたのは ニ‑チ ェの内なるソクラテス的本性なのではあ ったが。

侵すべか らざる‑群の うちで も,いやニーチ ェの 「先祖」全体を見渡 しても,‑ ラクレイ トスに 対す る程に無条件な賛同は発見できそ うもない,僅かにワイマールの賢者に対するそれを例外 と

して。

‑ イデ ッガー的に考えるならば,力‑の意志 と永劫回帰の形而上学は,存在 と存在者 とを取違 える近代形而上学の宿命的産物であ って,この点では 「存在」その ものへの探求の試みたる‑ ラ クレイ トス (等)への 「親近性」は,違 った角度か ら周 明されねばならな くなる.逆にい うと, この観点を一歩つき抜ければ,ニーチェ自身の自覚 していた よりも更に深い関連が包蔵 されてい たことにもなる。

生成の無罪」の境地は,〟Ichwill'′を媒介 として到達 された Ichbin〟の境地であ り,小

児 の聖 なる無心のたわむれにも比せられ るそれである./,JenseitsvonGutundB6se〟の立場 であ り,倫理的世界秩序」を超えた立場である。「生成 の無罪」 との関連か らして,ニーチ ェの 先虻の一人 スピノザを呼出 してみ よう。17世紀の 「神に酔える無神論者」は まず 『人間的余 りに 人間的』107節に引用 されている。「行為 ならびに自己の本質 に対 して人間は完全に責任がない。

自然や必然を賞孟賢した り非難 した りするのは不合理 である。(人はすべて 「人間的なるもの」

杏)愛せず,憎 まず,ただ理解せん とす る習慣を養 うべ きで,それがやがて力強い無垢な人間を つ くるのである。」 と。 この 「愛せず,憎 まず,ただ理解せん とす る」の立場がスピノザの そ れ であることは言 う迄 もない。書簡に もス ピノザ発見の歓書が見出される。(1881.7.30オーフェ ルペ ック宛),その要旨は,意志 の自由,倫理的世界秩序,悪の存在等の概念を否定 した とい う理 由に よってスピノザを 「先駆者」 とみているのである.『人間的余 りに人間的』475節に お い て は,スピノザを 「世界中で最 も純潔な賢人」 とよぶ.

′スピノザにあ っては,近世的機械観を徹底する一方において,神秘的 ・宗教的情熱が次第にせ り出 して,遂には一切を神 との必然的な関係においてみるとい う神秘的直観に至 っているo神の 知的愛 (amorDeiintellectualis)こそ,死せる犬」 として死後も長 く唾棄 され て い た こ の 「無神論者」が,いかに知性 と情熱の抱合を探 く体験 していたかを示す ものであろ う。棉の知 的愛 と運命愛 とは,両者 ともに愛の探大な境地であるが,前者が神か らの愛 と神への愛 との交錯 を意味 しえた ように,運命愛 も運命への愛 と運命か らの愛を意味す るものとすれば,その点で主 体的客体的愛 として結びついて くる。(汎神論的)神の探求者スピノザ と,永劫回帰を説 き神の死

(11)

を告げ るニーチェとは,一見す ると神の肯定者 と香走者 として正反対の立場にあるように も見え るが,Denssivenaturaの汎神論 も一重すれば無神論的一元論的世界把握 ともな り,悪 しき無 限を斥ける内在の立場 として;‑チ ェと関連づけることができよう.「生成の無罪」の境地におい ては両者 ともに‑ ラクレイ トスの 「子孫」である。「神は死せ り」が単なる神の否認でない こ と

も先にみた通 りである。 ニ‑チ ェが否定を説いたのに対 して,スピノザはど うか と反問され るな らば,思惟発展における否定のもつ意味をスピノザ もまた よく弁 まえていたことを指摘 してお こ う。「あらゆる限定 (規定)は否定である」 と記 した有名な第50書簡は,弁証法的思惟 展開におい て重要な もの とされているのは周知の通 りであるO ニーチ ェの意志的否定に対す る知的なそれで●●

'Aるに して も,幾何学的方法」を説 く拾得な知性家の内面には激 しい情熱 と強敵な意志 とが あ った。知性 と情熱 の高度の抱合がスピノザ習学の面 目であるが,運命愛の偉大な肯定は極度の意 志の緊張に よるものであ り, 永遠を熱愛するツァラツス トラが 自由息想家 (Freidenker)をそ の媒介 とす る点において,総括 してスピノザ もまた壬‑チ ェの先駆であ りえたのである.

レグ ィッ トによれば,三‑チ ェの思想体系は,神 の死 と,神の死か ら生 じた三ヒ1)ズムと,衣 (6)

劫 回帰をめざす ニヒ リズムの自己克服 とい う三つの段階的発展をなす全体であるが, これに対応 す るのが「精神の三重の変化」なるツァラツス トラの教説である.I,Dusollst〟か ら ,)Ichwi llrJ さらに I,IchbinrJへの三段階 こそ, 占ヒ1)ズムをめざす 自由が,永劫 回帰の必然性へ, 自

由に意欲 された必然性へ入 ってゆ くものであ り,その人間の egoはか くてその運命 (Fatum) し9)

となる.要す るに,エ‑チ ェの哲学は,,,wiemanwird,wasmanist〟の実践なのである。

人間は 「ある」 ものに しか 「成」らないO 三‑チ ェ愛詞の ビングpスの断片 genoioiosessi (werde,WasdubistI)の実践が三重の変化なのである。「三重 (態)の変化」については, 諸家の注視す るところであるが,特に重視するのは レグ ィッ トである。 『ニ‑チ ェの哲学』にき

ilE

こう.「信仰す る精神の,,Dusollst〟か ら,自由とな った精神の ,,Ichwi 11〟を経て,I,Ichbinu に至 り,常 にまた回帰すること,これが全体におけ るェ‑チ ェ哲学の体系を特色づけるものであ

る0,,IchwillFか ら,,Ichbin〟と名のる宇宙の子への最後の変態は,最 も静かなる時の第二の 危機に際 して生ず る。 これ よって始めて精神は, 『彼の自由の砂漠』を経て,失われた世界を再 び彼の もの として回復する.すべての存在するものの永劫 回帰に対 して神聖なる J,Ja〟を言 うこ

とによって。」 と。 この三重の変化 と神 の死 との関係については,神の死は, とりもなおきず 自 らを人間自利 こおいて意志する意志 の原理である。神 の死 とは, 自己自らに引渡 され 自己 自らに 命令する人間の復活を意味する。死せるキ リス ト教の神,無の前に立つ人間,そ して永劫回帰‑

の意志,これが全体 としてのニーチ ェ哲学を一つの運動 として特色づけるO最初は,,Dusollst か ら 〟Ichwill〟の誕生へ,そ してそれか ら,あらゆる存在者の自然的世界の只中における永遠 に回帰する現存在の第一 『運動』 としての運動 として。」 と述べている。回書78頁には,「ツァラ ツス トラの教説は,弱者には Dusollst付を与え,強者には JJIchwill〟を与える。そ して, 意欲か ら自由とな った存在には,か くあ って別様にはあ りえない もの‑ 存在の最高の星の単純 なる必然性に向 ってのJaundAmenけを与える。」 と記 される。 この第三の境地が,「運命の 上に運命 として立つ」 とい う運命(Fatum)としての運命 (Schicksal)それ 自体なのである。

レグ ィッ トのニ‑チ ェ解釈についてふれてお こう.彼は,ニーチ ェの哲学を 「7 フォ 1)ズムの

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