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護 国神 社 を事 例 とす る,

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護 国神 社 を事 例 とす る,

都 市 の シ ン ボ ル 的 施 設 に対 す る イメー ジ の 変 遷 森 幸雄

TheSpatxalSymbolismincases ofGokoku‑JinjaShrines.

MoRIYukio

護 国神 社 は,1939(昭 和14)年 に内 務 省 に よっ て 制 定 され た,東 京都 を 除 く0府 県 一 社 を原 則 に す る指 定 護 国 神 社 の 制 度 に も とつ い て い る。 た だ し, 伝 統 的 に県 内 に複 数 の 陸軍 聯 隊 区 が あ る 県 の な か に はs県 内1カ 所 にす る の が 難 しか った と こ ろ もあ る。 岐 阜 県 が 岐 阜 ・大 垣 ・高 山 の3ヶ 所,兵 庫 県 が 神 戸 ・姫 路,広 島 県 が 広 島 ・福 山,島 根 県 が 松 江 ・浜 田 の そ れ ぞ れ2ヶ 所 が 指 定 護 国 神 社 とな っ た 。 また,北 海 道 は 函 館 ・札 幌 ・旭 川 の3ヵ 所 が 指 定 護

国神 社 とな った 。

ひ とた び,一 府 県 一 一社 の 指 定 護 国神 社 が で きる と,以 前 か らあ っ た 県 内 の 招 魂 社 や 招 魂 碑 ・招 魂 標 な どの 一 部 は,指 定 護 国神 社 へ とつ な が る系 譜 で 語 られ る よ う に な る 。 この た め,招 魂 社 な どが そ の 設 立 時 点 で付 与 さ れ て い た 意 味 が 変 容 して い くこ とに 充 分 留 意 す る 必 要 が あ る。 招 魂 社 あ る い は招 魂 場 が つ く られ,そ れ が 護 国 神 社 へ と発 展 して い く経 緯 や,戦 後,護 国 神 社 を さ

さ え た制 度 が な くな っ た な か で,護i国 神 社 が 保 持 され て きた 点 な ど,地 域 シ ンボ ル施 設 と して各 地 の 護 国 神 社 の 変 遷 の事 例 を 詳 し くた ど っ て い くと,興 味 深 い こ とが み え て くる。

本 稿 は,護 国 神 社(招 魂 社)を ひ とつ の 手 が か り と しなが ら,都 市 の シ ン ボ ル 的 施 設 に対 す る イ メ ー ジの 変 遷 を,明 治 維 新 後 の 近 代 日本 の都 市 の変 化 の な か で考 え る もの で あ る。 な お,本 稿 で は護 国神 社 成 立 以 前 の招 魂 社 時 代

も含 め て,個 々 の事 例 を示 す 場 合 に護 国 神 社 の名 称 を用 い る こ と もあ る。

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1官 軍 兵士 慰霊施 設 としての明 治初 期招 魂社

明 治 初 期 に は,幕 末 ・明 治 維 新 期 に戦 死 した 官 軍 兵 士 の 慰 霊 儀 式 の場 が 招 魂 社 とな っ た 。 こ の慰 霊 儀 式 の対 象 に は 反 新 政 府 側 の死 者 は含 まれ ず,死 者 を 選 別 した う え で の 慰 霊 儀 式 とい う,日 本 の 慰 霊 の な か で は特 異 な もの で あ っ た 。 戦 死 した官 軍 兵 士 の慰 霊 儀 式 は明 治 政 府 が 指 示 した もの で あ り,東 北 地 方 で 反 新 政 府 側 に つ い た 藩 で は 自藩 の 死 者 の 慰 霊 が で きず,外 部 か らの

「 侵 入 者 」 で あ っ た官 軍 兵 士 の死 者 を厚 く祀 っ た と こ ろ もあ る。

招 魂 社 が 制 度 的 に整 え られ る の が,1875(明 治8)年 の 招 魂 社 の 制 度 で あ る 。 各 地 の招 魂 場 で 旧 藩 主 な どが お こ な っ て きた祭 祀 が,廃 藩 置 県 後,財 政 的 な後 ろ盾 を失 っ て で き な くな り,荒 廃 す る招 魂 施 設 も あ っ た 。 こ の た め, 政 府 は官 費 を もっ て 維 持 す る こ と と し,1874(明 治7)年 これ らの 招 魂 場 を 招 魂 社 と した 。 この 意 味 で は,招 魂 社 は幕 末 か ら明 治 維 新 期 とい う歴 史 の あ る 時 点 の記 憶 の 場 と も な っ た 。

以 後 も各 地 に招 魂 社 が つ く られ て き た の で,1901(明 治34)年,明 治7年 時 点 で の招 魂 社 を官 祭 招 魂 社 と称 す る こ と に し,官 祭 招 魂 社 以 降 の 招 魂 社 は す べ て私 祭 招 魂 社 と称 した。 官 祭 招 魂 社 に は,明 治7年 ま で の 祭 神 以 外 の 祭 神 もい た が,そ れ らは私 祭 祭 神 と され,官 費 の 交 付 を う け られ な か っ た 。 靖 国神 社 は遠 い の で,近 隣 で参 拝 した い とい う気 持 ち か らつ く られ た 私 祭 祭 神

も少 な くな か っ た 。

護 国神 社 と して 整 備 され る以 前,招 魂 社 は そ れ ぞ れ の 地 域 性 や 都 市 の 幕 末 か ら の歴 史 を反 映 し,い ろ い ろ な経 緯 を経 て い る。 指 定 護 国神 社 とな っ た も の につ い て,系 譜 的 に さ か の ぼ っ た 先 行 研 究 に よ る と1),表1の よ うな パ タ

04rOρ0

表1護 国 神 社 の 系 譜 楠 公祭 → 招 魂祭 → 招魂社 → 靖 国神社 招 魂墳墓 → 招魂場 → 招 魂社 → 護 国神社 境 内社 → 招魂 社 → 護 国神 社

招 魂碑(忠 魂碑 ・忠 霊塔)→ 招魂社 → 護 国神 社 招 魂社 → 護 国神社

護 国神社

小 林 健 三 ・照 沼 好 文 著,1969i『 招 魂 社 成 立 史 の 研 究 』 錦 正 社,106頁

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護 国神社 を事 例 とす る,都 市 の シ ンボル的施 設 に対 す るイメー ジの変遷27

一 ンに ま とめ られ る。 明 治 初 期 の 招 魂 社 を み る う えで は,官 軍 墳 墓 に 併 設 さ れ る タ イ プ と墳 墓 の な い タ イ プ とに 区 分 して み て い くと,設 立 事 情 が わ か り や す い。 明 治 初 期 の 招 魂 社 に特 徴 的 なの は 官 軍 墳 墓 に併 設 され る タイ プが 多

い こ とで あ る。 また,幕 末 か らの0連 の 内 戦 の 中 で,戦 没 者 の 区 分 が お こ な わ れ,官 軍 側 の 戦 死 者 の み が 招 魂 社 で 祀 られ て い る 。

(1)官 軍墳 墓 に併 設 され る タイ プ

① 官 軍 と な っ た 藩

官 軍 側 の 長 州 藩 や 薩 摩 藩 な どで は墳 墓 に 併 設 す る か た ち で 多 くの 招 魂 社 が つ く られ て い る。

長 州 藩 で は,幕 末 か ら多 くの招 魂 社 が つ く られ た 。 明 治 改 元 まで に 長 州 で は,1864(元 治 元)年 に創 建 され た赤 妻 招 魂 社 を は じめ,14の 招 魂 社 が つ く られ た 。 さ らに 明 治 の もの を合 わ せ る と,20以 上 に な る。 これ らの 招 魂 社 は, 明 治維 新 の 一 連 の 戦 い の 死 者 を,地 域 ご と に葬 っ た墓 地 に 併 設 さ れ て い る。

また,薩 摩 藩 で は,1868(明 治 元)年 に創 建 さ れ た鹿 児 島 招 魂 社 を は じめ と して}1875(明 治8)年 の 高 山招 魂 社 ま で に18の 招 魂 社 が 創 建 さ れ た 。 こ の よ う に,官 軍 と な っ た 諸 藩 は そ れ ぞ れ 藩 ご とに 自藩 の 戦 没 者 を 祀 る た め の 招 魂 社 をつ くっ て い る。

官 軍 諸 藩 の招 魂 社 は,の ち に 指 定 護 国神 社 が つ く られ て も廃iLさ れ る こ と な く,指 定 外 の 護 国 神 社 と して存 続 して い る。 表2に み る よ うに,指 定 外 の 護 国神 社 の 多 くは 明 治10年 以 前 の創 建 で あ るが,そ れ らは官 軍 の墓 所 に併 設

され た もの が 多 い。

② 戦 地

戊 辰 戦 争 で転 戦 した先 々 で,官 軍 兵 士 の 墓 が つ く られ,後 に兵 士 を祀 る た め に招 魂 社 が つ く られ て い る。

山 形 藩 で は,1869(明 治2)年 に,薩 摩 藩 二 番 大 砲 長 ・久 永 龍 助 以 下10名

の 慰 霊 の 祭 典 をお こ な っ て い る 。 これ が 後 に官 祭 山 形 招 魂 社 とな り,山 形 県

護 国神 社 とな っ た 。

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表2招 魂社 の創立 年代

明 治10年 以 前

明 治11年 〜 明 治20年 明 治21年 〜 明 治30年 明 治3ユ年 〜 明 治40年 明 治41年 〜 大 正5年 大 正6年 〜 大 正15年 昭 和 元 年 〜 昭 和10年 昭 和11年 〜 昭 和20年

全 國 護 國 神 社 會(1972年)

指 定 19

2

2199QOρ014

指 定 外 56 12 1 2 1

000007

合 計 75 14 1 4 2 2 5 21 124

『 全國護 國神社 二十 五年 史』27‑28頁

福 島 で は,戊 辰 戦 争 の 激 戦 地 で あ っ た,会 津 若 松,三 春,中 村 に そ れ ぞ れ 官 軍 兵 士 の た め の 墓 所 と招 魂 社 が つ く られ た。1879(明 治12)年 に,3つ の 招 魂 社 が 合 祀 され,戦 場 と は無 縁 で あ っ た福 島 市 につ く られ た 官 祭 信 夫 山招 魂 社 と な っ た 。

函 館 で は,官 軍 兵 士 墓 地 の わ きに つ く られ た招 魂 場 が,1874(明 治7)年 に函 館 区 潮 見 町 官 祭 招 魂 社 とな り,後 に函 館 護 国 神 社 とな っ て い る 。

新 潟 で は,1868(明 治 元)年 に新 潟 府 が 中心 とな り,常 盤 岡 で,戊 辰 戦 争 で 戦 死 した 官 軍 将 士606名 の 慰 霊 祭 をお こ な っ た 。 こ こが 後 の 官 祭 新 潟 招 魂 社 と な り,新 た に 別 の場 所 につ く られ た新 潟 県 護 国神 社 に合 祀 さ れ る よ うに

な る。

函 館 で は 旧 幕 府 軍 側 の 兵 士 を葬 っ た 地 に 碧 血 碑 の墓 標 が 建 て られ 現 在 は 史 跡 とな って い る が,そ う した 事 例 は例 外 的 で,反 新 政 府 側 の 戦 没 者 は,ひ っ そ り と葬 られ,埋 葬 地 が わ か らな くな っ て い る。

③ 反 新 政 府 側 の 藩

反 新 政 府 側 の 藩 の 中 に は,藩 論 に反 して 尊 王 運 動 に参 加 した 藩 士 の事 跡 を 掘 り起 こ して,そ の 人 物 を祀 る招 魂 社 をつ くる と こ ろ もあ っ た。

た とえ ば,盛 岡 藩 は,戊 辰 戦 争 に際 して賊 軍 と され た 藩 で あ る。 た だ,藩 内 に は尊 王 運 動 に参 加 した もの もあ り,藩 内 の尊 王 運 動 参 加 者 を祀 る こ とで, 戊 辰 戦 争 の 賊 軍 の ラベ ル を消 そ う と した もの で あ った 。

1869(明 治2)年 に,盛 岡 藩 知 事 と な っ た 旧藩 主 の 南 部 利 恭 は,尊 王 運 動

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護 国神社 を事例 とす る,都 市 の シ ンボル的施 設 に対 す るイメー ジの変遷29

に参 加 し,自 裁 した 目時 隆 之 進 ・巾 島 源 蔵 の2人 を祭 神 と して 盛 岡 市 東 中野 茶 畑 に招 魂 社 を創 建 した0そ の 後,明 治9年,県 令 ・島惟 精 は,県 下 に埋 葬 さ れ て い た 仙 台 藩 士 ・三 好 監 物 ら戊 辰 戦 争 の 官 軍 側 戦 没 者8名 の 霊 を合 祀, 官 祭 岩 手 招 魂 社 とな っ た。

④ 引 き取 り手 の な い志 士 の墓

幕 末 に弊 れ た 「勤 王 の志 士 」 は 国 事 犯 で あ る た め,出 身 藩 に戻 っ て も埋 葬 場 所 が な く,京 都 の寺 院 で も埋 葬 しな か っ た 。 そ こ で神 社 の 境 内 で あ っ た 現 在 の 京 都 霊 山護 国 神 社 の場 所 が 墓 所 とな っ た 。 こ こが1868(明 治 元)年5月 10日 太 政 官 布 告 第 一・ 号 を もっ て,霊 山官 祭 招 魂 社 とな る。 霊 山 山上 の 各所 に, 京 都 府 や 鳥 取 ・高 知 ・山 口 ・熊 本 な ど::1の 招 魂 社 殿 が建 ち 祀 られ た 。 さ ら

に明 治12年,現 在 の境 内 に 霊 山 表 忠 之 碑 が 建 て られ,碑 前 で 招 魂 祭 が 行 わ れ る よ う に な る。 こ の 意 味 で は,招 魂 の 形 式 を と りなが ら も,墓 所 に併 設 した 招 魂 社 の 形 式 で あ る。

(2)墳 墓 の な い タ イ プ

① 招 魂 祭 の会 場 か ら

招 魂 祭 を挙 行 す る場 と して 招 魂 碑 や 招 魂 塔 が あ り,そ の場 所 が招 魂 社 と な っ た タイ プ で あ る。

た と え ば,愛 知 県 護 国 神 社 は そ の 由 来 を次 の よ う に して い る。1868(明 治 元)年1月,戊 辰 戦 没 者 の招 魂 祭 が 尾 張 藩 主 徳 川 慶 勝 に よ り下 屋 敷 脇 の 練 武 場 で お こ な わ れ た 。 翌 年5月,徳 川 慶 勝 が 愛 知 郡 川 菜 村 元 香 積 院 山 に,直 筆

せ い ち ゅう しゃ

の 「哀 些 忠 勇 戦 死 碑 」 を建 立,方 笙忠 社 と し て,戊 辰 戦 争 の 戦 没 藩 士 を 祀 っ た 。 この施 忠 社 が 招 魂 社 と な っ た 。

② 招 魂 施 設 の新 設

墓 所 とは 別 に招 魂 の 施 設 が つ くられ た の が,東 京 招 魂 社 で あ る。 京 都 の;,

山招 魂 社 が 明 治 維 新 で 艶 れ た 人 々 に有 縁 の 場 所 で あ っ た の に対 して,東 京 招

魂 社 は 中 央 で の 招 魂 儀 式 に ふ さわ しい 場 所 と して つ く られ た 。 東 京 招 魂 社 の

招 魂 儀 式 に は,楠 正 成 を追 慕 す る楠 公 祭 が 影 響 を与 え て い る 。 楠 公 祭 は幕 末

か らお こ な わ れ る よ う に な り,楠 正 成 の 墓 所 や 有 縁 の地 だ け で は な く,さ ま

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ざ まな 場 で お こ な わ れ て い た もの で あ る 。

2郷 土 出身者 慰霊施 設 への変化

明 治 中 期 以 降,招 魂 社 を め ぐる状 況 が 変 わ っ て くる 。 佐 賀 の 乱,萩 の 乱, 熊 本 神 風 連 の 乱,西 南 戦 争 な どの 内 戦 が 次 々 とお き る と,反 新 政 府 側 で あ っ

た 地 域 か ら多 くの 兵 士 が 「官 軍 」・で あ る政 府 軍 と して 参 加 し,戦 死 者 も少 な くな か っ た 。 国 家 に よっ て聖 別 され,招 魂 され るべ き 「官 軍 の戦 没 兵 士 」 が 増 え て い く状 況 とな っ て くる 。 ま た 同 時 に,軍 事 制 度 の 整 備 に と も な い,兵 士 の墓 所 が 「官 軍 墓 地 」 で は な く 「軍 人 墓 地 」 に な って い く。 こ の た め,さ

らに そ の後 の 台 湾 出 兵 や そ の後 の 日清 戦 争,日 露 戦 争 な どの 対 外 戦 争 が つ づ くな か で,招 魂 社 の性 質 の 変 化 が 求 め られ る こ と に な る。

(1)二 種 類 の祭 神 と二種 類 の招 魂 社

この な か で,旧 来 の 招 魂 社 の な か に は,新 た な祭 神 と して 戦 没 者 を加 え て い く もの もあ っ た が,な か で も興 味 深 い の は,長 崎 の事 例 で あ る。

長 崎 の事 例2)

長 崎 で は,幕 末 ・維 新 時 に,旧 長 崎 奉 行 配 下 の 地 役 人 が 官 軍 の 振 遠 隊 と して奥 羽 戦 争 で 秋 田 に 出征 し,戦 死 者 を 出 して い る。 そ の戦 死 者 を 葬 る振 遠 隊 墓 地 が 設 け られ,大 楠 神 社 脇 を招 魂 場 と して招 魂 祭 が 行 な わ れ た の は1868

(明 治 元)年 で あ る。 翌 年,函 館 戦 争 で の 長 崎 出 身 戦 没 者 を加 え て,大 楠 神 社 に合 祀 さ れ,招 魂 社 と呼 ば れ る よ う に な る 。1875(明 治8)年 に官 祭 招 魂 社 と な る。

1874(明 治7)年 の 台 湾 出兵 で は 長 崎 が 将 兵 の 出 発 地 ・帰 還 地 と な っ た 。

こ の 戦 役 で は病 気 に か か る もの が 多 く,戦 死 者12人 に対 して 病 死 者300名 以

上 で,罹 病 者 は さ らに多 か っ た 。 戦 病 死 者 は長 崎 に搬 送 され,ま た 罹 病 者 は

長 崎 の 第 六 大 区 医 学 校 で 治 療 さ れ た が,こ の 中 か ら も死 者 が 出 て,こ の戦 役

で の 戦 死 ・病 没 者 は552人 と な っ た 。 これ らの 戦 没 者 の た め に病 院 の 一 隅 で

招 魂 祭 が お こ な わ れ た 。 ま た,梅 香 崎 神 社 境 内 に招 魂 社 が 設 け られ,招 魂 社

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護 国神社 を事 例 とす る,都 市 の シ ンボル的施 設 に対 す るイメ ージの変遷31

境 内 に死 者 が埋 葬 さ れ た 。 次 い で お き た,西 南 戦 争 で の 戦 死 者 も同 様 に梅 香 崎 招 魂 社 の 境 内 に埋 葬 され て い た がs墓 域 が 狭 くな り,新 た に佐 古 に墓 地 を 造 っ た 。1879(明 治12)年 長 崎 病 院拡 張 の た め,隣 接 す る梅 香 崎 招 魂 社 の 墓 の 一 部 が,拡 張 され た 佐 古 墓 地 へ 移 葬 され る こ と に な る 。 と こ ろ が この 際 遺 骨 の 一 部 が 中 国 人 に売 られ た り,さ ら に は ごみ 捨 て 場 に棄 て られ る事 件 が

お き る。 遺 骨 の あ ま りの 多 さ に一 部 を投 棄 した もの で あ っ た が,こ の た め 責 任 者 は1年 の丁 役 刑 を受 け た 。 陸 軍 で は,こ の事 件 へ の対 応 と して,投 棄 さ

れ て い た遺 骨 をす べ て収 容 し,梅 香 崎 招 魂 社 に埋 葬 さ れ て い た 台 湾 出兵,西 南 戦 争 の両 戦 没 者 をす べ て 佐 古 の墳 墓 地 に埋 葬 す る こ と を決 め た 。 佐 古 の 墳 墓 地 は大 幅 に整 備 され,合 わせ て招 魂 場 表 口 まで の 道 路300間 も改 修 され た 。

こ の佐 古 の招 魂 場 も1877(明 治10)年 に招 魂 社 と な り,同 じ市 内 に2ヶ 所 の 招 魂 社 が あ る こ と に な っ た が,梅 香 崎 招 魂 社 は維 新 の官 軍 兵 士 を祀 る もの, 佐 古 招 魂 社 は 明 治 期 の 戦 没 軍 人 を祀 る もの と区分 され て い る。 そ の後,佐 古 招 魂 社 は靖 国神 社 か らの 分 祀 を う け る 長 崎 県 全 体 の 招 魂 社 と な る。 しか しな が ら,梅 香 崎 招 魂 社 も官 祭 招 魂 社 で あ り続 け る 。1939(昭 和14)年 に と も に 護 国神 社 とな り,1942(昭 和17)年 に両 護i国神 社 が 合 併 して長 崎 県 護 国神 社

とな っ てy・る。

(2)郷 土 出 身兵 士 の た め の 招 魂 社 の 新 設

明 治 維 新 期 の 官 軍 兵 士 を祀 る施 設 と は無 縁 の,郷 土 出 身 の 兵 士 の慰 霊 施 設 の た め の招 魂 施 設 もつ く られ て い く。

そ の ひ とつ は札 幌 護 国神 社 の 事 例 で あ る。1879(明 治12)年,西 南 戦 争 の 戦 没 屯 田兵 の招 魂 碑 が 札 幌 市 北 六 条 の楷 楽 園 前 に建 て られ,招 魂 祭 が お こ な

わ れ た 。 札 幌 護 国神 社 で は これ を招 魂 社 の始 ま り と して い る。 以 後 毎 年,屯 田兵 司 令 部 で祭 典 が 執 行 さ れ る。1907(明 治42)年 に招 魂 碑 は 中 島遊 園 地 に 移 転 し,後 に招 魂 社,さ らに護 国神 社 と な っ た 。

また,明 治 維 新 の 主 力 とな っ た 藩 で あ り,官 軍 兵 士 を祀 る多 くの招 魂 社 が

あ っ た 山 口県 で も,1903(明 治36)年 に 防 長 靖 献 会 を設 立 し,県 下 の 招 魂 祭

を 山 口市 桜 畠練 兵 場 で お こ な う よ うに な っ た 。 明 治 維 新 の 官 軍 兵 士 の 慰 霊 施

設 と は切 り離 した,郷 土 出 身 の兵 士 の慰 霊 の 場 で あ る。 山 口県 護 国神 社 は こ

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の桜 畠 の 地 に位 置 す る こ と とな った 。

仙 台 の 事 例3)

仙 台 の 宮 城 県 護 国 神 社 は,明 治 維 新 時 の 官 軍 兵 士 の 招 魂 施 設 とつ な が りを 持 た ず,郷 土 出 身 兵 士 の 慰 霊 施 設 と して の 招 魂 施 設 の 性 質 を示 す 事 例 で あ る 。

仙 台 に は1871(明 治4)年 か ら鎮 台 が お か れ,東 北 の 軍 事 的 中心,軍 都 で あ っ た 。 当然,そ こ に は戦 没 者 に対 す る 施 設 が お か れ た 。 まず 墓 所 が つ く ら れ,そ の後 招 魂 施 設 が つ く られ た が,墓 所 と招 魂 祭 場 とは 別 に 設 け られ た 。

招 魂 祭 に は,特 定 の招 魂 施 設 は造 らず,宮 城 野 原 頭,あ る い は 川 内 練 兵 場 に祭 場 を設 け,神 官 ・僧 侶 を招 請 し,仙 台 に あ る軍 隊 ・学 生 参 列 の も と に お こ な っ て い た 。 招 魂 祭 の 規 模 は毎 年 の 募 金 状 況 に左 右 され た た め,永 久 に相 当規 模 を以 て 忠 魂 を慰 め る こ と はで きな い と して,1899(明 治32)年,地 方 の有 志 及 び第 二 師 団 の有 志 が 相 談 して 昭 忠 会 が 組 織 さ れ た 。 招 魂 の た め の 施 設 は この 昭 忠 会 が つ くっ た もの で あ る 。

昭 忠 会 の 会 長 は,は じめ は 師 団所 在 地 の旅 団 長 も し くは知 事 と さ れ た が, の ち に は宮 城 県 知 事 が 就 任 す る よ う に な っ た。 副 会 長 は 宮 城 県 学 務 部 長,仙 台 市 長,第 二 師 団 参 謀 長 の そ れ ぞ れ が 就 任 す る とい う よ うに,昭 忠 会 は 宮 城 県 ・仙 台市 とい う行 政 と陸 軍 に よ る 団体 で あ っ た 。

昭 忠 会 は,陸 軍 が 管 理 して い た仙 台 城 旧本 丸 肚 の 一一 部 の 使 用 許 可 を得 て, 昭 忠標(金 鶉 塔二)と 常 設 招 魂 祭 殿 を建 設 した 。 昭 忠 標 は頂 上 に 銅 製 大 金 鶉 を お くゴ ジ ッ ク式 の石 標 で あ る。 頂 上 の 銅 製 大 金 鶏 の 高 さ は台 共 で15尺,地 面 よ り66尺 で あ っ た 。 前 面 中央 に長 さ11尺 幅4尺 の 銅 脾 を嵌 入 し,小 松 宮 彰 仁 親 王 の 親 書 「昭 忠 」 の 二 大 文 字 を彫 刻 して あ る。1902(明 治35)年 に竣 工 式 な らび に 臨 時 招 魂 祭 を挙 行 した。 常 設 招 魂 祭 殿 は昭 忠 標 の う しろ につ く られ る 。 工 費 総 額6511円 をか け,1904(明 治37)年 に完 成 した 。 祭 神 は明 治7年

2月 の佐 賀 の 乱 以 後 に 第 二 師 管 の 従 軍 軍 人 軍 属 で 戦 死 病 没 し,靖 国神 社 に合

祀 さ れ た 人 々 と され た 。 明治 初 期 の 招 魂 社 の よ うな 明 治 維 新 時 の 官 軍 兵 士 で

は な く,郷 土 出 身 者 の 慰 霊 施 設 の性 格 を持 っ て い た 。 さ ら に1906(明 治39)

年4月 に は仙 台 市 兵 事 義 会 が 記 念 館(威 揚 館)を 招 魂 社 脇 に建 立 寄 附 し,戦

利 品 等 を陳 列 した 。 さ らに,市 内 有 志 が 拝 殿 の扁 額 と常 夜 燈 を奉 納 し,社 殿

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護 国神社 を事例 とす る,都 市 の シ ンボル 的施設 に対す るイ メー ジの変 遷33

と境 内 を整 え た の で あ っ た 。

(3)招 魂社 と墓所 との分 離

官軍兵 士 の墓所 とと もにあ った招魂 社 が移動 して墓所 と分 離す る事例 は金 沢 でみ るこ とが で きる。

金 沢 の 事例

戊 辰 戦 争 に 官 軍 と して 参 加 した加 賀 藩 で は,戊 辰 戦 争 戦 没 官 軍 兵 士 へ の祭 祀 の 太 政 官 布 告 に さ きだ っ て,1868(明 治 元)年10月 に 藩 主 ・前 田慶 寧 が 戦 没 藩士 を まつ る た め,卯 辰 山 で招 魂 祭 をお こ な っ た 。 さ ら に,1870(明 治3) 年12月 に,金 沢 藩 知 事 とな っ た前 国慶 寧 が 卯 辰 山 に招 魂 社 を創 建 し,戊 辰 戦 争 に戦 没 した 藩 士108名 を祀 っ た 。 卯 辰 山 はs金 沢 城 の 東 に あ る 丘 陵 で,城 下 と は 浅 野 川 をへ だ て て い る 。 藩 政 時 代 か ら,金 沢 の 宗 教 的 な 空 間 で あ り, 死 者 の 再 生 との か か わ りが 深 い 地 域 と さ れ て い る。

招 魂 の 祭 祀 は卯 辰 山 で お こ な わ れ て い た が,明 治 中 期 か ら は市 内 中心 部 に 移 り,兼 六 園 や 旧金 沢 城 近 辺 の 出 羽 町 練 兵 場 で 行 わ れ る よ う に な っ た。 現 在 地 の 出羽 町 に移 動 す る の は1935(昭 和10)年 で あ る が,実 質 的 に は明 治 中期 か ら招 魂 祭 の 場 は卯 辰 山 か ら移 動 して い る4)。 こ の よ う に金 沢 で は か な り早

い 時期 か ら,実 質 的 に招 魂 祭 会 場 は 墓 所 と分 離 して い る。

陸 軍 墓 地 が つ く られ た の は,招 魂 社 が あ る卯 辰 山 とは 旧 城 下 を挟 ん で 西 側 に あ る野 田 山 で あ っ た5)。 この 地 は藩 政 時代 に は 藩 主 とそ の 一 族 の 墓 が あ り, 武 士 ・町 民 に は埋 葬 制 限 が あ っ た 。 卯 辰 山 に葬 られ た 西 南 戦 争 の 戦 死 者 は, 1892(明 治26)年 に戊 辰 戦 争 の 死 者 と と も に卯 辰 山 か ら改 葬 され,野 田 山 に

「陸 軍 軍 人 合 葬 之 墓 」 と して 合 葬 さ れ た 。

3国 家動 員 の施 設 と しての護 国神社 へ

昭 和 に 入 り,満 州 事 変 か ら太 平 洋 戦 争 の 時 期 に は,多 くの 国 民 が 身 近 な

人 々 を戦 場 で 失 っ て い る 。 そ う した 戦 死 者 を祀 る施 設 を 身 近 に求 め る よ うに

な る。 官 祭 招 魂 社 は こ う した欲 求 をみ た す もの と は い え な か っ た 。 戦 死 者 は

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靖 国神 社 の 祭 神 とな り,そ れ が 分 祀 され て は じめ て 官 祭 招 魂 社 の 祭 神 とな る 。 靖 国神 社 の 合 祀 と一 般 用 語 にお け る合 祀 は意 味 が 異 な り,靖 国神 社 の 合 祀 に 対 して は 定 め られ た 儀 式 を 必 要 とす る6)。 こ の 時 期 に 人 々 が 求 め て い た の は, 厳 密 な意 味 で の合 祀 され た施 設 よ り もむ し ろ,一 般 的 な感 覚 で の 戦 死 者 の 慰 霊 施 設 で あ っ た 。 ま た,靖 国神 社 は遠 隔 地 で あ った 。 さ ら に祭 神 は 戦 病 死 者 な どが 含 まれ な い こ とが あ る。 この た め,よ り身 近 な慰 霊 施 設 と して,市 町 村 レベ ル で の 招 魂 社 や 忠 魂 碑 の 設 立 の 動 きが み られ る。

こ う した 動 き に対 し,国 家 は強 い 統 制 の も とで コ ン トロー ル し よ う とす る 。 戦 没 兵 士 に対 す る統 制,死 者 に対 す る統 制 を し よ う とす る の で あ る。

1934(昭 和9)年 ご ろ か ら,一 府 県 一社 の招 魂 社 制 度 へ の 大 枠 が つ く られ る。 こ の なか で,祭 神 を靖 国神 社 の 祭 神 に か ぎ り,府 県 を単 位 とす る招 魂 社 制 度 に よ る コ ン トロ ー ル が お こ な われ る よ う に な る。 そ れ ま で招 魂 社 の なか

っ た 和 歌 山 ・姫 路 ・徳 島 ・長 野 ・香 川 な どで 招 魂 社 の創 建 が 許 可 さ れ,秋 田 ・栃 木 ・愛 媛 ・熊 本 な どで 官 祭 ・私 祭 招 魂 社 が 移 転 ・改 築 さ れ は じめ た 。

こ の招 魂 社 が 後 の護 国 神 社 とな っ て い く。

護 国 神 社 の 建 設 は神 祇 院 の指 導 下 で お こ な わ れ,社 殿 の 規 模 や 諸 施 設 は各 地 と も あ ま り違 い が な い 。 ど こ の護 国神 社 で も,実 際 に工 事 をす る の は大 阪 の社 寺 建 設 の 専 門会 社 山 田組 で あ り,護 国神 社 の 差 異 は よ り少 な くな っ て い く。 ま た,護 国神 社 の 参 道 周 辺 を公 園 にす る とか,外 苑 を整 備 す る な どの 方 針 もあ り,護 国神 社 は,多 少 の 規 模 の 違 い は あ って も,か な り似 た構 成 とな っ て い る7)。 この よ う に護 国 神 社 の 規 格 化 が お こ な わ れ,靖 国神 社 の 府 県 分 社 と して の性 格 が は っ き り して い く。

護 国 神 社 制 度 の整 備 に よっ て,招 魂 社 をつ くろ う とす る運 動 よ り も 「 市 町 村 内全 戦 死 者 合 同之 記 念 碑 」 と して 忠 霊 塔 をつ くろ う とす る運 動 が 盛 ん に な っ て くる。 陸 軍 墳 墓 の 荒 廃 をみ た 陸 軍 軍 人 の 力 も加 わ り,忠 霊 塔 に は,墓 碑 と して の 性 格 も付 与 さ れ て い く。

府 県 とい う広 い範 囲 に1つ しか 設 け られ ない 護 国 神 社 と は異 な り,市 町村

に1つ とい う規 模 の 忠 霊 塔 建 設 は全 国 的 に盛 り上 が りを み せ た 。 た だ し,忠

霊 塔 は1市 町 村 に1つ とい う制 限 が あ り,国 家 の 管 理 が 及 ぶ もの で あ っ た 。

最 終 的 に は,護 国神 社 との 差 異 化 が は か られ る な か で,神 社 形 式 で は な い こ

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護 国神社 を事 例 とす る,都 市 の シ ンボル 的施 設 に対 す るイメ ー ジの変遷35

と,陸 軍墓 地 が あ れ ば そ の 中 に つ くる こ と,な るべ く簡 素 な もの とす る こ と な どが 条 件 とな っ た た め,忠 霊 塔 の ほ とん どは仏 教 的 な イ メ ー ジ を もつ伝 統 的 な墓 石 に 近 い デ ザ イ ン と な っ て い っ た8)。 こ の デ ザ イ ンの た め,戦 後 に な っ て,忠 魂 塔 は 軍 人 に 限 らず 戦 没 者 一 般 の慰 霊 塔 と な っ た り,他 の 仏 教 的 な イ メ ー ジ の 施 設 に な る もの が あ っ た 。 弘 前 で は,勤 労 奉 仕 に よ っ て つ く られ た 忠 霊 塔 が,「 忠 」 の 部 分 に梵 字 をか ぶ せ た 「霊 塔 」 の 文 字 を正 面 に し,仏 舎 利 を奉 納 した仏 舎 利 塔 と な っ て,現 在 も残 っ て い る9)。

招 魂 社 は 戦 死 者 を 慰 霊 す る場 と して だ け で は で な く,戦 死 者 を媒 介 に した さ ま ざ ま 国家 動 員 の場 と して の 意 味 合 い も強 くな る。 招 魂 社 とい う名 称 が 護 国神 社 と改 め られ る の は,そ う した 意 味付 与 の 変 質 が 大 きい 。 さ ら にr兵 士 の 出征 や 学 生 ・生 徒,一 般 国 民 の行 事 参 加 を可 能 にす る た め,広 い参 拝 ス ペ ー ス を周 辺 に もつ よ う に指 定 護 国 神 社 が 建 て替 え られ る よ う に な る。

ま た,軍 人 墓 地 も同様二 に社 会 状 況 に合 わ せ て 再 構 成 され て い く。

た と え ば,金 沢 の 陸 軍 墓 地 で は 日清 戦 争,日 露 戦 争,上 海 事 変,満 洲 事 変 な どの合 葬 碑 が な らび,中 心 に大 き く 「支 那 事 変 戦 妓 者 忠 霊 塔 」 が 位 置 して い る。 これ は死 者 に対 す る 軍 の 取 り扱 い を示 して い る。 日清 戦 争 の戦 没 者 の 合 葬碑 は,戦 没 者 合 葬碑 と戦 病 没 者 合 葬 碑 とが な らん で い る。 戦 病 没 者 を戦 死 者 に ふ くめ る こ とに よ り国 家 の 戦 争 で 命 を落 と した もの へ の 処 遇 の 差 を埋 め て い る。 ま た,日 露 戦 争 の 戦 死 者 の 合 葬 碑 「日露 役 陣彼 者 合 葬 碑 」 は 日露 戦 争 直 後 の1907(明 治40)年 に建 立 され た 将 校 同相 当官,準 士 官,軍 曹』,兵 卒 並 軍 属 に 区 分 さ れ た4つ の合 葬碑 を,1937(昭 和12)年 に 改 修 し一 基 に し た もの で,階 級 を こ え た 戦 死 者 の扱 い の 平 等 を示 そ う と した 。 さ ら に1939 (昭 和14)年 につ く られ た 「支 那 事 変 戦 妓 者 忠 霊 塔 」 は,当 時 急 激 に た か ま っ た 忠 霊 塔 建 設 運 動 の 流 れ の 一 環 で 石 川 県 下 の 支 那 事 変 戦 没 者 の 忠 霊 を 顕 彰 す る も の と し て つ く られ,陸 軍 墓 地 が 慰 霊 の 空 間 と して の 性 格 を 強 く し て い る10)。

こ う した 指 定 護 国 神 社 や 忠 霊 塔 の 建 設 に お け る住 民 の負 担 は 少 な くなか っ

た 。 整 地 や 周 辺 施 設 整 備 の勤 労 奉 仕 が 当 然 とな り,施 設 の 建 設 費 用 の 少 な か

らぬ 部 分 は,地 域 住 民 の 寄 付 に よ っ た 。 関係 す る市 町村 や 各 種 団体 か らの寄

付 が 割 当 の よ う に課 さ れ る こ と も少 な くな か っ た 。

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多 くの 人 々 が 勤 労 奉 仕 を して い る。 護 国神 社 や 忠 霊 塔 の 敷 地 整 備 や,玉 石 拾 い な どに,官 吏 や そ の 家 族,学 校 生 徒,青 年 団 体,そ の 他 多 くの 団体 が 参 加 して い る 。 そ う した 参 加 は好 ま しい 姿 と して 紹 介 さ れ,各 地 で 「自発 的参 加 」 が 強 制 され た 。

た と え ば 岩 手 護 国 神 社 で は,次 の よ う に 整 備 さ れ て い る 。1933(昭 和8) 年 に 満 州 事 変 記 念 事 業 と して 新 社 殿 造 営 が 計 画 さ れ た が,凶 作 の た め延 期 し, 1936(昭 和11)年 よ り造 営 の 作 業 を始 め る 。1939(昭 和14)年 内務 大 臣 指 定 の 岩 手 護 国 神 社 と な り,新 社 殿 が 完 成 した。

境 内 が 拡 張 さ れ,12戸 が 移 転 した。 造 営 費 用 は9万 円 で,う ち5万 円 は盛 岡 市 と県 内 町 村 が 募 集 し,残 りを篤 志 家 と鉱 山 が 寄 付 した 。 さ らに,こ の作 業 に は 多 くの 勤 労 奉 仕 が 動 員 さ れ た 。 そ の 規 模 は,215日 間 で 延 べ3万2千 人 に及 ん だ 。

ま た秋 田 県 護 国神 社 で は 次 の よ うで あ っ た 。1939(昭 和14)年4月1日,

内 務 大 臣指 定 の 秋 田 県 護 国 神 社 と な る と,旧 社 地,高 清 水 丘 に社 殿 造 営 し, 1940(昭 和15)年 工1月15日 に移 転 した 。 そ の 費 用 は25万 円 で あ っ た が,う ち 9万 円 は秋 田県 銃 後 資 金 募 集 委 員 会 寄 進 金 で まか な わ れ,市 町村 の 寄 付 金 が 9万 円,残 りは官 吏 や 学 生 ・生徒,篤 志 家 の 寄 進 金 に よ っ たll)。

この よ う に して み る と,護 国 神 社 は,戦 時 体 制 下 で 新 しい空 間 と して再 構 成 され た もの で あ る こ とが わ か る 。 国家 総 動 員 体 制 の た め の さ ま ざ ま な新 し い 行 事 の 中心 的 な 施 設 の ひ とつ に な っ て い る。 人 々 の 記 憶 の なか で,護 国神 社 や 忠 霊 塔 は戦 中 の 記 憶 と分 か ち が た く結 びつ くもの で あ っ た 。 系 譜 的 に は 護 国神 社 へ とつ な が る招 魂 社 が,明 治 の あ る時 期 か ら大 正 ま で のハ イ カ ラか

らモ ダ ンな 時 代 と重 な る部 分 を持 つ の とは異 な る イ メ ー ジ で あ る。

4戦 後 の護 国神社

戦 時 体 制 の も とで つ く られ る護 国 神 社 の なか に,戦 後 に な っ てつ く られ た もの もあ る 。 第 二 次 大 戦 終 了 時 まで に 内 務 省 の 指 定 護 国 神 社 が なか っ た の は 神 奈 川 ・宮 崎 ・熊 本 の3県 で あ っ た 。

戦 前,宮 崎 県 は県 内7つ の招 魂 社 が あ り,そ れ ぞ れ が 護 国神 社 と な っ て い

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護 国 神 社 を事 例 とす る,都 市 の シ ンボ ル 的施 設 に対 す る イ メ.̲.̲ジの 変 遷37

た 。 特 に都 城 市 は多 くの 部 隊 が 立 地 す る 軍都 で あ る た め,指 定 護 国神 社 の 誘 致 に熱 心 で あ っ た が,最 終 的 に は,県 の 中枢 で あ る とい う こ とで 護 国神 社 を 持 た な い 宮 崎 市 に場 所 が よ うや く決 ま っ た 。1943(昭 和18)年 に宮 崎 県 護 国 神 社 創xの 許 可 を得 て,勤 労 奉 仕 に よ っ て 整 地作 業 を行 い,用 材 の 準 備 を終 え,建 設 資 金 が で きた と こ ろ で終 戦 を迎 え た。 戦 後,用 地 は 学 校 に,用 材 は 病 院 に使 わ れ,集 め られ た 資 金 は返 還 さ れ た。 の ち に県 知 事 を代 表 と して再 び建 設 運 動 が 起 こ り,建 設 資 金 を集 め,宮 崎 神 宮 の境 内 に建 設 され た。1955

(昭 和30)年 の 完 成 後,す ぐに 宮 崎 神 宮 か ら別 れ た 別 個 の 宗 教 法 人 と な っ て い る12)。

熊 本 県 は,花 岡 山招 魂 社 を熊 本 県 護 国神 社 と改 称 し,社 殿 を改 築 して 内務 大 臣 の 指 定 を受 け る予 定 で あ っ た が,終 戦 に よ り工 事 を中 止 し,1957(昭 和 32)年 に別 の場 所 に完 成 した 。

神 奈 川 県 は 指 定 護 国 神 社 の 内 諾 を得 て 造 営 を 進 め た が,完 成 間 近 の1945 (昭 和20)年5月29日 の横 浜 大 空 襲 で 焼 失 し た。 戦 後 は 護 国 神 社 は再 建 さ れ ず,か わ りに神 奈 川 県 戦 没 者 慰 霊 堂 が1953(昭 和28)年 に建 設 され,慰 霊 祭 が 行 わ れ て い る13)。

こ う して,3県 の 指 定 護 国神 社 は,神 奈 川 県 を 除 き,計 画 通 りに建 設 され た 。

戦 後,護 国神 社 を成 り立 た せ て い た 制 度 が 失 わ れ て,護 国 神 社 は独 立 した 宗 教 法 人 と な っ た。 そ の 際,青 森 県 護 国神 社 ・和 歌 山 県 護i国神 社 ・徳 島県 護 国神 社 の3つ を 除 き,護 国神 社 は名 称 を変 えて い る。

国家 の庇 護 を受 け られ な くな っ た た め,護 国神 社 は積 極 的 に 「 崇 敬 者 」 を 募 る必 要 が あ った 。 護 国神 社 ご と に さ ま ざ ま な や り方 で,神 社 を維 持 して い く よ う に な る。 結 婚 式 場 と も な る よ う な集 会 施 設 をつ くっ た り,立 地 の 良 さ を生 か して観 光 施 設 を併 設 す る もの もあ る。

また,神 社 の 敷 地 は 国有 財 産 の 払 い 下 げ を うけ る こ とが で きた が,こ の た

め に容 易 に は移 動 で きな くな る。 そ こで,地 域 との 強 い 結 び つ き をつ くる必

要 が で きて きた 。 各 種 の記 念 碑 を境 内 に建 設 す る こ と は指 定 護 国 神 社 時 代 は

認 め られ なか っ た 。 現 在 で は,部 隊 や 艦 艇 を単 位 と した 招 魂 碑 や 記 念 碑,満

洲 開拓 団 の 記 念 碑 な ど,さ ま ざ ま な石 碑 が み られ る。 神 社 の 祭 神 も靖 国神 社

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の 祭 神 の み で は な く,公 共 殉 職 者 に拡 げ られ た と こ ろ もあ り,公 務 殉 職 者 の 碑,災 害 の慰 霊 碑 な ど も建 て られ て い る。 た だ し,こ う した 記 念 碑 の 中 に は か な り古 い もの もあ り,も と も との設 立 地 が 不 明 で あ る た め,戦 後 の現 象 と み て い い か ど うか は不 明 な 点 もあ る。

護 国神 社 は,制 度 的 な支 えが 失 わ れ た こ と に よ り,あ る時 代 や あ る集 団 の 記 憶 の場 と して,地 域 と結 びつ い た シ ンボ ル性 を もつ よ う に な っ た とい う こ

と もで き よ う。

5イ ベ ン トの 場 と して の 招 魂 社

東 京 招 魂 社 時 代 の靖 国神 社 は,新 しい 欧 風 文 化 に接 す る こ とが で き る た い へ ん モ ダ ン な場 で もあ っ た 。

1871(明 治4)年 に は,九 段 坂 上 の 灯 明 台 が つ く られ,東 京 湾 の漁 民 の 目 印 が,従 来 の 神 田 明 神 の 灯 明 に代 わ っ た ほ どの 施 設 で あ る。1881(明 治14) 年 に完 成 した 武 器 陳列 施 設 で あ る遊 就 館 は イ タ リ ア の古 城 が モ チ ー フ と され,

当 時 の 東 京 で も有 数 の 洋 風 建 築 で あ っ た 。 さ らに,明 治20年 代 に は新 しい 商 品展 示 施 設 で あ る勧 工 場 も上 野 と と も に九 段 下 につ く られ て い る。

ま た,例 大 祭 で は さ ま ざ ま な イベ ン トが 開催 され た。1871(明 治4)年 の 例 大 祭 で は,ス リエ 曲 馬 団 の サ ー カス が 興 行 し,九 段 競 馬 と して 知 られ た競 馬 が 行 わ れ る。 ま た,招 魂 社 境 内 で 日本 で 最 初 の博 覧 会 で あ る 内 国博 覧 会 が 開 か れ た 。 後 に も,1887(明 治20)年 の例 大 祭 に は イ タ リ ア の チ ャ ネ リ曲 馬 団 が 来 日興 行 し,以 来,日 本 人 一 座 の 曲馬 団 が 興 行 し続 け る。1896(明 治29) 年 の 例 大 祭 の 競 馬 は268頭 もの 馬 が 出場 す る大 イ ベ ン トとな っ て い た14)。 そ う した 様 子 は川 端 康 成 の 『招 魂 祭 一 景 』 や 吉 行 淳 之 介 の 『祭 礼 の 日』,安 岡 章 太 郎 の 『サ ア カ ス の 馬 』 な どで 知 られ る15>。

招 魂 社 や 招 魂 祭 に み られ る イ ベ ン ト性 は各 地 の招 魂 社 に も広 が っ て い っ た 。

日清 戦 争 や 日露 戦 争 の 戦 没 兵 士 慰 霊 と戦 勝 記 念 を合 わせ た イ ベ ン トと し て,

各 地 で 盛 ん に招 魂 祭 が お こ な わ れ る よ う に な っ た 。 この 際,明 治 初 期 に途 絶

え て い た 各 都 市 の伝 統 的 な祭 りの 復 活 もみ られ,地 域 の 大 きな イ ベ ン トと な

っ て い る。 特 に招 魂 祭 は,正 規 の 祭 礼 で あ る例 大 祭 とは 異 な る祭 事 で あ る た

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護 国神 社 を事例 とす る,都 市 の シ ンボ ル的施設 に対す るイ メー ジの変 遷39

め,軍 の 主 催 の も と,神 式 の み な らず,仏 式 で の祭 事 も行 わ れ た り,地 元 の 人 び との さ ま ざ ま な催 し物 もお こ な え る もの で あ っ た ユ6)。

明 治 維 新 に よ っ て 断 絶 した祭 りが招 魂 祭 と して復 活 した例 の ひ とつ と して, 仙 台 の 東 照 宮 祭 礼 が あ る。 東 照 宮 祭 礼 は仙 台 祭 と も よば れ東 日本 で も屈 指 の 祭 礼 で あ っ た 。1654(承 応3)年,2代 藩 主 忠 宗 が東 照 宮 を仙 台 に勧 請 し, 翌1655(明 暦 元)年 よ り祭 礼 は 始 ま っ た。 祭 礼 は,ほ ぼ1年 お き に藩 主 が 在 国 中 に お こ な わ れ,1852(嘉 永5)年 ま で114回 続 い た が 幕 末 ・明 治 維 新 に

よっ て 断絶 した 。 そ の後,1871(明 治4)年 に天 長 節 奉 祝 祭 祭 礼 に,仙 台 祭 の 山鉾 が練 り廻 っ た 。 そ の後,桜 ケ 岡神 明 宮 祭 礼,青 葉 神 社 祭 礼 な ど に,東 照 宮 祭 の 山鉾 が 練 り廻 っ た が,1887(明 治20)年 の招 魂 祭 以 降,山 鉾 は招 魂 祭 に練 りま わ る よ う に な っ た17)。

仙 台 祭 の 山鉾 は,当 初 は車 で曳 く様 式 で あ っ た が,の ち に 人 々 が担 ぐ様 式 とな っ た 。 旧 藩 時 代 に 山鉾 を 出 して い た大 町 に加 え,招 魂 祭 で は新 た に常 磐 丁 ・東 一 番 丁 ・名 掛 丁 が 山鉾 を 出 す よ う に な り,新 興 商 店 街 の 力 が 強 くな っ た こ とが わ か る。 明 治 後 期 に は電 線 が多 くな り,1899(明 治32)年 を最 後 に 山鉾 巡 行 は な くな っ たが,招 魂 祭 とい う新 しい祭 りが,伝 統 的 な祭 りの 復 活 の 機 会 とな っ た18)。

また,石 川 護 国神 社 で も,招 魂 祭 で は,花 火 や 花 街 の芸 者 衆 の 手 踊 り,相 撲,競 馬,撃 剣 な どが あ り,多 くの 物 売 り も 出 て,市 中 ご っ た 返 す とい う, 祝 祭 的 な イベ ン トで あ った 。 昭 和 に入 る と規 模 は大 き くな り,人 出 は3万 人

や5万 人 と報 道 さ れ て い る19)。

弘 前 で は,1882(明 治15)年 か ら途 絶 え て い た 弘 前 八 幡 宮 祭 礼 の 山 車 が 招 魂 祭 で 曳 か れ た 。 八 幡 宮 祭 礼 は,四 代 藩 主 津 軽 信 政 の 時 代 の1682(天 和2) 年 か ら始 ま る もの で,弘 前 で も っ と も盛 ん な 祭 礼 で あ っ た 。 神 興 の露 払 い と

して各 町 内 の若 衆 達 に よ っ て繰 り出 され 山車 は,人 形 を 中 心 と した 高 欄 付 き で,弘 前 組 ね ぶ た に 影 響 を与 え た と言 わ れ る。 これ が,一 一時 的 にせ よ復 活 し, 弘 前 の 人 び とに大 きな 印 象 を残 した20)。

招 魂 社 の祭 礼 に と もな う イ ベ ン トが,現 在 で も地 域 の 大 きな イ ベ ン ト とな っ て い る もの もあ る。

旭 川 の 旭 川 護 国神 社 例 大 祭 の 北 海 道 音 楽 大 行 進 で あ る 。1984(昭 和54)

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年 の参 加 団 体 が 学 校 が34校,自 衛 隊 が11隊 な どで58団 体,参 加 者 が5300人, 沿 道 の 観 衆 は27万 人 とい う大 きな も の で あ る21)。2000(平 成12)年 の 第68 回 音 楽 大 行 進 で は,参 加 団体 が70団 体,参 加 者 が2661人 で あ っ た 。 内訳 は幼 稚 園 ・保 育 園10,小 学 校10,中 学 校18,高 等 学 校13,大 学 ・0般11,カ ラ ー一

ガ ー ド ・バ トン トワ リ ン グ8で あ り一 般 の な か に 自衛 隊 が5隊 が 含 まれ る22)。

北 海 道 音 楽 大 行 進 は,1929(昭 和4)年,戸 山軍 楽 隊 が 銀 座 を行 進 した こ と を新 聞 記 事 で 知 っ た 北 海 タ イ ム ス 社 旭 川 支 局 長 の竹 内 武 夫 が,地 元 の 有 志 に 呼 び か け て お こ な っ た も の で,同 年6月5日 の 北 海 道 招 魂 社 例 大 祭 に 第1 回 が ス ター トした。10団 体 ・200人 とい う規 模 で あ っ た23)。

ま た,熊 本 県 本 渡 市 で は,毎 年,天 草 招 魂 祭 が 開 か れ て い る。 た と え ば, 2000(平 成12)年 は4月1日(土)〜4月3日(月)に 開催 され た 。1日 は,

天 草 全 島 の 戦 没 者 の 慰 霊 祭 と 「 原 田悠 里 杯 天 草 の ど 自慢 大 会 」 が 南 公 園 で 開 催 さ れ た 。2日 はsRKKラ ジ オ 「出 前 放 送 局 ・天 草 招 魂 祭 の巻 」 の 公 開生 放 送 が お こ な わ れ,ま た,本 渡 港 で は 陸 上 自衛 隊 の 装 備 品展 示 や 海 上 自衛 隊 護 衛 艦 の 体 験 航 海 も実 施 され た24)。

この よ う に,と りわ け招 魂 社 時代 の招 魂 祭 は,郷 土 の 戦没 兵 士 の 慰 霊 とい う枠 組 み の な か で,多 くの住 民 が 参 加 で き る歳 時 イ ベ ン トの ひ とつ の よ うな 存 在 で もあ っ た 。 そ う した 住 民 の招 魂 の イ ベ ン トに各 種 の 国 家 運 動 的 な 要 素 が 入 り込 み,あ る 意 味 で は統 制 の とれ た,言 い換 え れ ば 官 製 の 行 事 とな っ て い く時 期 が 護 国 神社 時 代 を迎 え る 時 期 と な っ て くる の で あ る 。

6道 具 的 シ ンボ ル と フ ェ テ ィ ッ シ ュ ・シ ン ボ ル と して の 護 国 神 社

護 国 神 社 は,招 魂 社 か ら官 祭 招 魂 社,護 国 神 社 と社 会 的 な位 置 づ けが 変 わ っ て きて い る 。 施 設 の 改 築 や 移 動 な どの,目 に見 え る変 化 を と も な う場 合 も あ る 。 そ う した 変 化 の な か に,戦 前 期 の 護 国 神 社 の 持 っ て い た 道 具 的 シ ン ボ ル と して の性 質 が み え て くる。

招 魂 社 が 移 動 す る と,以 前 の 場 所 に は全 く痕 跡 を残 さず,な か に は別 の用

途 に用 い られ て い る とこ ろ もあ る。 こ れ は招 魂社 の 道 具 的 シ ンボ ル と して の

性 質 に よる 。 つ ま り,宗 教 的 な 施 設 の 多 くに み られ る よ うな,移 動 後 も空 間

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護 国神社 を事 例 とす る,都 市 の シ ンボ ル的施 設 に対 す るイメー ジの変遷41

に残 る何 らか の 痕 跡,つ ま り フ ェ テ ィ ッ シ ュ な空 間 性 を招 魂 社 は持 た なか っ た こ と を示 す 。 社 会 構 造 が 大 き く変 化 し,招 魂 社(護 国神 社)を 成 り立 たせ て い た よ うな価 値 観 が 変 化 した場 合 で あ れ ば不 思 議 は な い 。 しか しな が ら招 魂 社(護 国 神 社)を 成 り立 た せ て い る価 値 観 が継 続 さ れ,む しろ 強化 され て

い る に もか か わ らず,戦 前 期 に こ う した こ とが み られ る。

そ の た め,各 地 の 護 国神 社 の 実 地 調 査 す る と,位 置 が 移 動 した場 合,以 前 の 場 所 で痕 跡 を探 す こ と は難 しい 。 城 趾 に お か れ て い た 岩 手 や 秋 田 の 招 魂 社 の あ とは,城 祉 公 園 と して 使 わ れ て お り,招 魂 社 の あ っ た 時 代 の地 図 を さ が

して,よ うや くそ の場 所 を確 認 で きた 。

秋 田 県 護 国神 社 で は,そ の 始 ま りを,1869(明 治2)年 に,旧 秋 田藩 主 で 久 保 田 藩 知 事 ・佐 竹 義 尭 が 秋 田 郡 寺 内 高 清 水 丘 に戊 辰 戦 争 戦 没 者 を祀 る招 魂

25)

。 この 地 は,平 安 時 代 の 秋 田 城 堤 で あ っ た 。 祠 を建 て た こ と に お い て い る

1893(明 治26)年,招 魂 祠 は焼 失 した た め,翌 年 に仮 殿 を造 り,祭 祀 を お こ な っ て い る。1899(明 治32)年 に 秋 田千 秋 公 園 と な っ て い た 佐 竹 城 趾 に招 魂 社 は遷 座 し,県 出 身 軍 人 軍 属 を合 祀 した 。 秋 田千 秋 公 園 の招 魂 社 は 長 く続 い た が,1940(昭 和15)年 に平 安 時 代 の 秋 田城 垣 で あ る清 水 岡 に,護 国 神 社 と して 遷 座 して い る26)。 な お,護 国 神 社 の 位 置 は,明 治 前 期 の招 魂 社 と ほ ぼ 同 じで あ るが,参 道 の 位 置 が 逆 に な っ て い る。 参 道 は,招 魂社 時 代 は,羽 後 街道 か らで あ っ た もの が,護 国 神 社 で は秋 田 市 側 か らの 参 道 と な っ て い る の

は興 味 深 い 。

秋 田 千 秋 公 園 の 本 丸 趾 に は 旧 藩 時代 の 城 に とっ て か わ っ て,県 社 で あ る秋 田神 社 と招 魂 社 とが な らん で い た 。 こ の 地 を訪 れ た 皇 族 や 軍 人 の 記 念 植 樹 も 多 か っ た 。 と こ ろが,現 在,佐 竹 城 趾 に は招 魂 社 の あ っ た こ と を示 す もの は な い 。 根 元 に軍 人 ・皇 族 の 名 が 記 され た石 柱 の あ る松 が 多 く,第17聯 隊 の石 碑 な どが あ る点 が 気 に な る くら い で あ る。 ほ か に警 察 官 ・消 防士 の 殉 職 碑 や 八 幡 秋 田神 社 が あ る だ け で あ る 。

愛 知 の 場 合,1918(大 正7)年 か ら1935(昭 和10)年 ま で の 官 祭 招 魂 社 の 跡 は現 在 名 城 公 園 とな っ て お り,1989(平 成 元)年 に つ く られ た 時 計 塔 の 土 台 に 「官 祭 招 魂 社 跡 」 の 小 さ な プ レー トが あ るだ け で あ る。

弘 前 で は,1888(明 治21)年 か ら1910(明 治43)年 に か け て招 魂 社 が あ っ た

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場 所 が 地 元 の財 界 人 の 別 荘 と な り,現 在 は住 宅 と庭 園 を鑑 賞 す る観 光 施 設 と な っ て い る。旭 川 の よ うに,北 海 道 護 国 神 社 が 移 転 した 後,そ の 地 が 北 鎮 神 社 と して 軍 関係 者 が 居 住 す る地 域 の地 元 神 社 と な っ た よ う な場 合 も あ る27)。

い ず れ の 場 合 で も,戦 前 の招 魂 社(護 国神 社)の 移 動 は宗 教 的 な 空 間 を有 す る 施 設 の 移 動 とい う よ りも,行 政 機 関 の移 動 とい う よ う な感 覚 で あ り,空 間 へ の 関心 は 乏 し く,空 間 そ の もの に特 別 な 意 味 付 与 は され て い な い 。

こ う した 空 間 そ の もの へ の 関心 の低 さ は,招 魂 とい う形 式 に も よ っ て い る 。 招 魂 の 空 問 は,招 魂 され て い る期 間 だ け,あ る種 の意 味 を持 つ 空 間 とな るの で あ っ て,そ う で な い と き に は空 間 そ の もの に は特 別 の 意 味 を もた な い。 別 の 視 点 か らす れ ば,招 魂 に は特 別 な施 設 が 必 要 で は な く,ど の よ う な空 間 で あ っ て も招 魂 の 場 に な り う るの で あ る 。 で あ る か ら,別 の 空 間 に招 魂 の場 が 変 わ っ た と き に は,以 前 の招 魂 の 空 間 は,招 魂 の場 と して の 意 味 付 与 が な さ れ て い な い 空 間 と して,他 の用 途 に転 換 可 能 な もの と な る。

しか しな が ら,そ れ 以 上 に道 具 的 シ ンボ ル と して の 性 質 が 招 魂 社(護 国 神 社)の 性 格 に現 れ て い る と もみ る こ とが で きる 。 招 魂 社(護 国神 社)は 境 内 の 配 置 を新 た にす る こ と に,道 具 的 シ ンボ ル と して の 性 質 を よ り強 くあ らわ して い る。 た とえ ば,岩 手 護 国神 社 は 現 在 の 本 殿 の横 に 時 代 を遡 っ て招 魂 の 碑 を配 置 して,系 譜 的 に護 国 神 社 の歴 史 を示 そ う と して い る。 ま た,新 潟 県 護 国 神 社 は,1939(昭 和14)年 に指 定 護i国神 社 とな り,新 た に現 在 地 に社 殿 の造 営 をす る 際 に,招 魂 社 以 来 の さ ま ざ ま な招 魂 碑 や 墓 碑 な どを,空 間 的 に 整 備 して 再 配 置 して い る。

こ う した招 魂 社(護 国神 社)の 移 転 に伴 う整 備 時 に意 図 的 に読 み 替 え られ た,道 具 的 シ ンボ ル 性 は,他 の慰 霊 施 設,た と え ば先 に み た金 沢 の 陸軍 墓 地 の合 葬 墓 碑 の 「整 備 」 にみ られ る の と 同様 で あ る。

護 国神 社 の 道 具 的 シ ンボ ル 性 が 変 化 す るの は,価 値 観 の 大 変 換 が お き,護

国神 社 を成 り立 た せ て い た枠 組 み そ の もの が 無 くな っ た戦 後 か らで あ る 。 護

国神 社 は,宗 教 施 設 と して 国 家 か ら分 離 さ れ,ま た 国 有 地 の払 い 下 げ を うけ

て,ま さ に あ る 空 間 に 固定 さ れ る ひ とつ の 宗 教 施 設 とな っ た。 ま た そ の こ と

に よ り,空 間 そ の もの に意 味 が 付 与 され フ ェ テ ィ ッ シ ュ ・シ ン ボ ル とな っ た

の で あ る。

(19)

護 国神 社 を事例 とす る,都 市 の シ ンボル的施設 に対 す るイ メー ジの変遷43

戦 災 で被 災 し本 殿 な ど を失 な っ た護 国 神 社 が,長 い 時 間 を か け て も以 前 の 場 所 に復 興 し よ う とす る の は,こ う した性 質 の 現 れ で あ ろ う。

た とえ ば,宮 城 県 護 国神 社 は,1945(昭 和20)年7月9日 夜 の 仙 台 市 空 襲 に よ り,本 殿 ・附 属 社 ・記 念 館 こ とご と く炎 上 した 。 そ の神 体 は軍 の 防 空 壕 な どに移 転 した後,9月 ユ5日に秋 保 神 社 に移 転 し,1953(昭 和28)年,8年 ぶ りで 秋 保 神 社 よ り仙 台 市 大 町 頭 に完 成 した奉 斎 殿 に移 転 した 。 さ らに1958 (昭 和33)年,仙 台 城 天 守 台 跡 に伊 勢 神 宮 の 外 宮 別 宮 「風 ノ宮 」 の 旧 正 殿 を 譲 り受 け,8月20日,社 名 を宮 城 県 護 国神 社 に復 元 し,仙 台 城 天 守 台 跡 に位 置 す る よ う に な った28)。

ま た,沖 縄県 護 国神 社 は,1945(昭 和20)年 の 戦 災 で す べ て を焼 失 した あ と に,同 じ地 に1959(昭 和34)年 に仮 社 殿 を建 立 し,1965(昭 和40)年 本 殿 を復 興,1972(昭 和47)年 の 本 土 復 帰 後,1973(昭 和48)年 に宗 教 法 人 の 認 可 を 受 け て い る29)。 現 在 で も境 内 に,本 殿 脇 に 本 殿 建 設 時 の 寄 付 者 の 掲 示 板 が あ り,小 学 生 の1セ ン ト寄 付 者 な どが 表 示 さ れ て い る 。

ま た,同 じ空 問 の利 用 の 変 化,た とえ ば,江 戸 時 代 の 城 郭 が,明 治 以 降 戦 前 まで は軍 事 施 設 とな り,戦 後 は大 学 な どの教 育 機 関 が 立 地 し,現 在 は歴 史 的 な城 の再 建 が 行 わ れ て い る とい っ た利 用 の変 化 は,「 文 明 」 「近 代 化 」 「軍 都 」 の イ メ ー ジ の 空 間 的 表 現 か ら,「 教 育 」 「文 化 」,そ して 「歴 史 」 「伝 統 」

の イ メ ー ジ の 空 間 的 表 現 と な って い る とい う,都 市 の 時代 に よ る 自己 イ メ ー ジの 変 遷 な ど も考 え させ て くれ る。

招 魂 社(護 国神 社)の もつ シ ンボ ル 性 とそ の 変 化 の研 究 は,招 魂 社(護 国 神 社)が 社 会 制 度 や 宗 教 領 域 の対 象 と して ば か りで は な く,都 市 にお け る 空 間 や 施 設 の もつ シ ンボ ル性 を考 え る うえ で ひ じ ょ うに興 味 深 い もの で あ る こ と を示 して い る。

〈注>

1)小 林 健 三 ・照 沼 好 文,1969,『 招 魂 社 成 立 史 の 研 究 』 錦 正 社,106頁 。 2)長 崎 市,1929,『 長 崎 市 史 地 誌 編 神 社 教 会 部 下 』。

3)宮 城 県,1952,『 宮 城 県 史 』。

4)本 康 宏 史,1992,「 招 魂 社 制 度 の 歴 史 的 展 開 と十 五 年 戦 争 」,高 澤 裕 一

(20)

編 『北 陸 社 会 の 歴 史 的 展 開 』,743‑792頁 。

5)野 田 山 陸 軍 墓 地 に つ い て は,本 康 宏 史,1996,「 『軍 都 』 と 民 俗 一 再 考 祈 願 と 慰 霊 を 中 心 に(二)」 石 川 県 立 歴 史 博 物 館 『石 川 県 立 歴 史 博 物 館 紀 要 』9,59‑76頁 を 参 考 に し た 。

6)大 原 康 男,1984,『 忠 魂 碑 の 研 究 』,暁 書 房,78頁 。

7)坂 井 久 能,1998,「 神 奈 川 県 護 国 神 社 の 創 建 と 戦 没 者 慰 霊 堂(下)」

『 神 道 宗 教 』175号,90頁 に よ れ ば,山 田 組 が 請 け 負 っ た 護 国 神 社 は, 昭 和14年 以 降 で,愛 媛 ・香 川 ・大 阪 ・岐 阜 ・群 馬 ・神 戸 ・函 館 ・岡 山 ・大 分 ・静 岡 ・長 野 ・福 山 ・新 潟 ・神 奈 川 ・宮 崎 を 数 え て い る 。 8)井 上 章 一,1987,『 ア ー ト ・キ ッ シ ュ ・ジ ャ パ ネ ス ク 』 青 土 社 。

9)笹 森 貞 二,1976,『 絵 と文 弘 前 』 津 軽 書 房 。 荒 井 清 明,1985,『 弘 前 今 昔 』 北 方 新 社 。 10)金 沢 市,1969,『 金 沢 市 史 現 代 編(中)』 。

11)秋 田 県 社 寺 兵 事 課s刊 行 年 不 明,『 秋 田 県 護 国 神 社 造 営 概 要 書 』。

12)宮 崎 県 護 国 神 社 責 任 役 員,1987,『 宮 崎 県 護 国 神 社 と県 民 の 奉 賛 』。

13)坂 井 久 能,1998,「 神 奈 川 県 護i国 神 社 の 創 建 と 戦 没 者 慰 霊 堂(上)」

『 神 道 宗 教174号 』,25‑48頁 。

,1998,「 神 奈 川 県 護i国 神 社 の 創 建 と 戦 没 者 慰 霊 堂(下)」

『神 道 宗 教175号 』,81‑108頁 。

14)坪 内 祐 三,1999,『 靖 国 』,新 潮 社,30‑‑31頁 。 15)同 上,69‑74頁 。

16)大 原 康 男,1984,『 忠 魂 碑 の 研 究 』 暁 書 房,57‑63頁 。

17)小 井 川 和 夫,2001,「 仙 台 祭 に つ い て の 覚 え 書 き」,『 東 北 歴 史 博 物 館 研 究 紀 要2』 東 北 歴 史 博 物 館

18)仙 台 市 史 編 纂 委 員 会,1954,『 仙 墓 市 史1本 編1』 仙 台 市 役 所 560‑561頁 。

19)本 康 宏 史,1992,「 招 魂 社 制 度 の 歴 史 的 展 開 と十 五 年 戦 争 」,高 澤 裕 一 編 『北 陸 社 会 の 歴 史 的 展 開 』,753‑758頁 。

20)荒 井 清 明,1985,『 弘 前 今 昔 』 北 方 新 社 。

21)土 方 美 雄,1985,『 靖 国 神 社 国 家 神 道 は よ み が え る か 』 社 会 評 論

(21)

護 国神 社 を事 例 とす る,都 市 の シ ンボ ル 的 施 設 に対 す る イ メ ー ジ の 変 遷

社 。

22)旭 川 地 区 吹 奏 楽 連 盟 の ホ ー ム ペ ー ジ jp/asa‑suiren

23)同 上 。

24)本 渡 商 工 会 議 所 の ホ ー ム ペ ー ジ hondo/

25)秋 田 県,1964,『 秋 田 県 史 資 料 明 治 編 下 』 は じ め を 明 治3年3月28日 と して い る 。

26)富 野 吉 松,1944,『 護 国 神 社 と勤 労 奉 仕 』 秋 田 県 立 図 書 館 所 蔵, 27)北 海 道 護 国 神 社,1995,『 北 海 道 護 国 神 社 誌 』。

28)全 国 護 国 神 社 会,1997,『 全 国 護 国 神 社 五 十 年 史 』。

29)同 上 。

45

http://www.hat.hi‑ho,ne.

http://www.amakusa.ne.jp/SH/

954頁 で は,招 魂 祭 の

8頁 。

参照

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