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日本人英語学習者のための文法指導を考える(2)

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

日本人英語学習者のための文法指導を考える(2)

 −入門期における文型指導のすすめ−

著者 伊東 治己

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 42

号 1

ページ 1‑19

発行年 1993‑11‑25

その他のタイトル On Grammar Teaching for Japanese Learners of English as a Foreign Language (2) : A Case for Teaching Sentence Patterns in the Beginning Stages of Learning

URL http://hdl.handle.net/10105/1694

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日本人英語学習者のための文法指導を考える(2)

‑入門期における文型指導のすすめ‑

伊 東 治 己 (奈良教育大学英語教室) (平成5年4月30日受理)

外国語教育における文法指導の是非をめぐっては、賛成論にしろ反対論にしろ、これまで実に 様々な意見が提出されており、まさに、百家争鳴の観がある。外国語教育の長い歴史においては 数多くの教授法が提唱されてきているが、個々の教授法問の違いも、ある意味では、この文法指 導へのスタンスの違いとして把握することができるであろう。文法指導に対して最も肯定的なス タンスを取っているのは、言うまでもなく、教師によって明示的に提示された文法規則を母国語 や外国語への翻訳練習において意識的に運用することを通して外国語の習得を目指した文法翻訳 教授法(Grammar‑Translation Method)である。反対に、極めて否定的なスタンスを取って いる教授法としては、 Krashen & Terrell (1983)によって提唱されているナチュラル・アプ ローチ(Natural Approach)が挙げられる。この教授法は、文法に対して、意識的言語学習 (learning)において発話の文法性を確認するためのモニターとしての消極的機能しか付与して おらず、教室での明示的な文法指導はこの教授法が目指す有意味なインプット(comprehensi‑

ble input)の下での自然な言語習得(acquisition)に有害な影響を及ぼすものであると規定し ている。また、対照言語学の手順を踏んで意識的に選択された文型を多様な置換練習や変換練習 を通して学習者の中に習慣として内在化させようとしたFriesのオーラル・アプローチ(Oral Approach)などは、その中間に位置していると考えられる。

さて、日本の中学校や高等学校で行われる英語教育においては、文法指導に対していかなるス タンスで臨めばよいのであろうか。当然のことながら、これは、決して肯定派と否定派のどちら が、より貝体的には、文法翻訳教授法とナチュラル・アプローチのどちらが言語学習の真理をつ いているかを一元論的かっ包括的に判断する問題ではない。日本の中・高等学校における英語教 育を取り巻く様々な言語的・教育的・社会的条件を考慮した上で、明示的文法指導の必要性を慎 重に判断することが求められている。この点、学習者変数と教授変数に応じて明示的文法指導の 有効性の度合を示したCelce‑Murcia (1985: 297)の文法指導マトリックス(表1)は参考資料 として貴重である。

このマトリックスが示すように、一般に、外国語学習の入門期においては、明示的文法指導の 下での意識的な文法学習は好ましくないものとして規定されている。 E]本の中学校での英語教育 においても、この考え方が支配的なパラダイム(cf. Kuhn 1962)を形成している。しかし、こ のパラダイムは、決して何か科学的な根拠に裏付けられているという性質のものではない。多分 に、文法に対する偏見や恩い入れに基づいている可能性もある。本論は、その副題が示す通り、

この入門期での明示的文法指導を問題視するパラダイムへの挑戦である。言語や言語学習につい ての理論的考察および中学教師時代の私の個人的経験と実践に基づいて、英語学習入門期におけ

1

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lJI 心i'i]己

表l 文法指導マトリックス(Celce‑Murcia1985)

Less Important

Focus on Form More Important Learner Variables

1. Age children adolescents adults

2. Proficiency Level beginning intermediate advanced 3. Educational pre‑literate ;    semi‑literate ;    literate ;

no formal some formal well educated education education

Instructional Variables 4. Skill

5. Register 6. Need/Use

listening, reading speaking writing informal consultative formal survival vocational professional

communication

る文法学習、その中でも特に、文型を中心とした認知的学習の意義を論ずるものである。

1.なぜ入門期から文法指導か (1)言語本質論の立場から

よく「言語は音声だ」と言われる。国内・国外を問わず、教授法の研究者の多くがこの点を力 説している。例えば、 "The speech is language. The written record is but a secondary re‑

presentation of the language." (Fries 1945: 6)という主張がまるで金科玉条のごとく、今も なお強い支持を受けている。この「言語は音声だ」という考え方からは、ごく当然に、 「言語の 学習はまず音声から始めるべきだ」という考え、いわゆるSpeech Primacyの恩憩が生まれて くる。 4技能で言えば、まずIisteningとspeakingの指導から始め、ある程度その学習が進ん でからreadingやwritingの指導に移るべきだという主張である。さらに、この音声言語から 文字言語へという学習の順序は、たとえ、当該言語の教育目的が単に読む能力の育成にある場合 でも、尊重されることになる。なぜなら、 「hearingが出来てはじめて本当の意味でのreading が可能になるのであり、 readingの基礎はhearingである」 (山家1972: 24)と考えられてい

るからである。このSpeech Primacyの思想を実際の教室での指導技術の面に実現させたのが、

いわゆる口頭導入(Oral Introduction)であり、外国語学習入門期におけるPrereading Periodである。当然の帰結として、英語学習入門期での教師の関心は文法よりも音声に集まる。

しかしながら、この「言語は音声」という主張は、決して科学的に実証された原理ではない。

日本語の表現形式に注目すれば、 「奈良は大仏」とか「牡蛸は広島」とか「野球はカープ」など の表現と心理的には同じレベルにある。あくまで、言語に対する話者の「思い入れ」を述べたも のに過ぎない。宗教的な教義と同様に、信ずるかどうかの問題である。あいにく、本論ではこの 立場を取らない。つまり、言語の本質を音声とは考えない。ここでは、言語の本質を、音声のよ うな言語の表層部の背後に隠されている関係概念の体系として捉える。近代言語学の生みの親と も言われるスイスの言語学者ソシュール(1940, 1977: 171)も、 「言語は形態であって実体では ない」と述べている。ソシュ‑ル研究の第1人者である丸山(1975:44)の言葉を借りるならば、

言語は「その現れである物理的材質(‑実質)ではなく、各要素間の対立関係の網(‑形相)か

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ら生まれる機能の体系」なのである。このように目に見えない形で言語に本来備わっている関係 概念の体系を学習者に理解させることは、外国語としての英語教育の重要な目的の一つと考えら れる。そこに入門期からの文法指導の存在理由がある。だからと言って、これは文法書に記され ているような文法規則をそのまま学習者に提示して行くことを意味しない。既に「日本人英語学 習者のための文法指導を考える(l):教育英文法に求められる三つの条件」 (伊東1992)で指 摘したように、学習者にやさしい文法(learner‑friendly grammar)という観点から文法指導 の中身を慎重に吟味して行くことが求められる。この点は、後程詳しく触れることにする。

(2)学習者論の立場から

日本の学校英語教育というコンテクストにおいて入門期での文法指導の是非を論ずる場合、入 門期と言っても学習者は12歳の年齢に達しているということを考慮に入れる必要がある。なぜ なら、 12歳という年齢は文法指導の是非を考える上で次のような重要な意味を持っているから である。まず、 12歳と言えば、いわゆる臨界期が終わろうとしている時期である。これは、生 来人間に備わっていると仮定されている言語習得装置(Language Acquisition Device‑LAD) の機能の低下を意味している。つまり、日本の中学生が、英語でのコミュニケーション活動に従 事する中で、自然に無意識的に英語の文法体系を習得してしまう確率が少なくなっているのであ る。しかし、 12歳という年齢は外国語学習にとってそう悪いことだけではない。ピアジェの知 的発達段階説によれば、 12歳という年齢は、既に学習者の中にかなり抽象度の高い操作的学習 へのレディネスが形成されていることを意味する。そして、知的に成熱していることが、言語習 得装置の機能低下を十分に捕えるのである。このことは、日本の中学校における英語教育におい ては、たとえ入門期と言えども、このように知的成熟度の高い学習者の生理的傾向に訴えるよう な明示的文法指導が可能であることを示唆している。

しかし、いくら知的に成熟していると言っても、中学1年生にとっては、英語の文型や文法規 則はまだまだ抽象的すぎるという反論や、文法指導は具体的であるはずの英語の学習を抽象化し てしまうという危悦の念が研究者や現場教師から発せられる。そういう方々には、是非、中学1 年生用の数学の教科書の中身を見ていただきたい。 「公約数・公倍数」、 「正の数・負の数」、 「方 程式」、 「比例と反比例」など、かなり抽象的な形式的操作が要求される学習内容となっている。

「文法規則‑抽象的」と考える人々は、中学1年生の知的レベルを過小評価していると言わざる を得ない。方程式において求められる変数処理などは、英語の文型の理解と運用とも一脈通ずる ところがあり、英語の学習においても有効に活用できそうである。とにかく、文法指導即抽象的、

即分かりにくいという短絡的発想は改めなければならない。

学習者が12歳ということは、知的に成熟していることに加えて、母国語を完全に習得してい るということを意味する。日本語の習得過程で実に豊富な言語学習経験を積んでおり、異体的な 日本語の表現の背後にある抽象的な概念や言語処理能力をかなり獲得している。これらの概念や 言語処理能力が、外国語の学習においても大きな力となることは、次のStern (1983: 346)の

2言語使用能力についてのDuaLIcebergモデル(図1)からも明らかである。

このモデルによれば、海面下に隠れている合体氷山の基底部よろしく、日本語を既に習得して いる学習者が英語の学習を始める場合、英語の習得に必要な言語知識・能力の実に3分の2は既 に獲得していることになる。中学校での英語教育においても、日本語と英語の共通基盤を形成し ている言語知識や言語能力を生かした指導が求められることになる。問題は、水面下に隠されて

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伊 東 治 己

図1 ̀Dual‑Iceberg'representation of bilingual proficiency (Stern 1983)

いる共通部分をどう活性化するかである。英語にさらされるだけで自然に活性化される部分もあ るかもしれないが、やはりそこに、明示的な文法指導の可能性、しかも、既に伊東(1992)で指 摘したような日本語との比較を意識した文法指導の可能性が示唆されていると考えたい。

(3)コミュニケーション能力論の立場から

社会の国際化が急速に進行していく中で、外国語で自由にコミュニケーションができる能力、

いわゆるcommunicative competenceの育成が世界的な規模において外国語教育の中心的課題 になってきた。それにつれて、外国語の指導法も、従来の目標言語の文法体系の正確な理解と運 用に力点を置く文法中心的なものから、意味のある情報のやり取りに力点を置く言語活動中心的 なものへと移行しつつある。このように、外国語教育の分野においてコミュニケーション志向が 急速に拡がっていく中で、いっしか文法指導はコミュニケーション能力の育成にとって必ずしも 有効ではない、いやむしろ、それを阻害するものであるという考え方が台頭してきた。この点、

日本の学校における外国語としての英語教育も例外ではなかった。このように文法をコミュニ ケーションの阻害要因として見る傾向は、英語教育の専門家だけでなく、次に示す新聞の投書に 象徴されているように、実際に日本の中学や高校で英語教育を経験した一般の人々の中にも蔓延

している。

文法は会話が出来るようになってからでも遅くありません。私たちの日本語も話せるように なってから文法を習うので、頑に入って行くのだと思います。四、五歳の子供にこれが主語 で、これが関係代名詞、と教えても分からないように、中学で言葉の意味が体にしみ込んで いないうちに文法を教えても、混乱するばかりではないでしょうか。 (1992. 1.29 朝日)

「学習活動」から「言語活動」 ‑、そしてさらには「コミュニケーション」へというキーワード の変化が物語るここ数10年来の学習指導要領改訂の経緯も、明かに世界的な規模で進行してい るコミュニケーション志向の高まりを反映したものであるが、それは同時に中学校や高等学校に おける文法指導の縮小を伴ってきた。このような状況を目の前にして考えるに、国家的な規模で、

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文法を教えないことがコミ.1ニケ‑ションへの早通だと思われている節がある。しかし、それは、

多分に、上の新聞の投書の中にもよく現れているように、文法への誤解に基づいているように思 えてならない。もし、文法を生徒達が日頃使っている日本語の表現とはかけ離れている難解で抽 象的な文法用語や、文法書に記載されているような極めて形式的な文法規則や文法理論と同一視 する場合には、文法はコミュニケーションにとって有害という主張も一理ある。しかし、文法を 英語という言葉を動かしている仕組みとして捉えた場合、文法はコミュニケーションにとってな くてはならない存在となる。英国でのCommunicative Language Teachingの中心的人物の一 人であるWilkins (1976:66)も、コミュニケーションにおける文法の重要性を次のように指摘

している。

It is taken here to be almost axiomatic that the acquisition of the grammatical system of a language remains a most important element in language learning. The grammar is the means through which linguistic creativity is ultimately achieved and an inadequate knowledge of the grammar would lead to a serious limitation on the capacity for communication.

コミュニケーションを目指した外国語教育の必要性を説いたWilkins自身、コミュニケーショ ン‑の患い入れが文法指導の軽視を意味してはならないことを強く示唆しているのである。なる ほど、社会言語学者Hymes (1972 : 278)の"There are rules of use without which the rules of grammar would be useless."という指摘は、文法規則以外の要因(例えば、発話の適切さ)

もコミュニケーションの成立に深く関与している点を我々に教えてくれた。しかし、それがあま りに新鮮であったために、我々の関心が文法以外の要素の方に必要以上に引きずられ過ぎた観も 否めない。それを是正する意味で、 "There are rules of grammar without which the rules of use would be inoperable."というCarroll (1980: 8)の指摘は貴重である。外国語でのcom‑

municative competenceの構成要素に関する研究においても、文法能力がコミュニケーション 能力の中核を形成するという点でかなりの共通理解が得られている(Canale 1983)。つまり、

文法的であることが、コミュニケーションを成立させるための必要十分条件ではないが、かなり 重要な必要条件になっているのである。さらに、文法能力がコミュニケーション能力の中核を形 成する度合、あるいは、コミュニケ‑ションにおける文法の相対的重要性の度合は、外国語の学 習の初期においてはど高まると考えられる(伊東1987)。そこに、入門期での文法指導を支持 するもう一つの理由がある。

(4)現実論の立場から

母国語習得と第2言語習得の基本的同一性を支持する最近の研究報告をもとに明示的文法指導 に対して否定的あるいは消極的な立場を取る人々(e.g. Krashen 1982)は、目標言語の文法の 内在化は本来学習者に備わっている言語の分析能力(analytic capacity)あるいは言語習得装 置(LAD)に任せるべきであり、外国語教師の中心、的役割はその言語分析能力が正常に機能す るように、学習者にとって有意味な言語材料(comprehensible input)を十分に提供すること にあると考えている。要するに、外国語も母国語習得と同様、自然な形で習得されるべきだとい う主張である。しかしながら、日本の中学校での英語教育を取り巻く様々な教育条件や社会的状 況はこの自然主義的アプローチを遂行することを不可能ではないとしても非常に困難にしている

と言わざるを得ない。例えば、学校での英語の学習時間は過に3‑4時間程度で、しかも、教室

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ftt l*i in 己

という極めて人為性の高い学習環境の中で行われる。教室の中には40名程度の学習者、しかも、

全員日本語を話し、同じ文化を共有する極めて等質的な学習者が詰め込まれている。英語を使っ ての自然なコミュニケ‑ション活動に生徒を従事させようとしても、一つの教室に40人もの坐 徒がいれば、教師がどんなに工夫を凝らしたところで、生徒一人一人に割り当てられるコミュニ ケーションのため時間はごく限られてくる。加えて、教室から一歩外に足を踏み出せば、そこは もう日本語だけで生活できる世界で、英語を使用しなければならない社会的要請は存在しない。

さらに、生徒が使用しているテキストは、学習指導要領の制約(特に語嚢制限)を受け、語法的 にも内容的にも実に貧相である。結果的に、生徒に提示される英語のインプットは、自然な環境 の中での第2言語としての英語学習の場合と比較して、質的にも量的にも非常に貧弱になってい る。参考までに、 Krashenたちが提唱しているナチュラル・アプローチに基づいて実施される 外国語としての英語教育における最初の授業で学習者に提示されるインプットを下に示してみる

(Krashen ¢紬J. 1984 : 266)。

What is your name? Look at Lisa, class. Lisa has blond hair. Hair, blond hair.

Look at my hair. Is my hair blond? No, my hair is brown. Look at my eyes. Are my eyes brown? Are they blue? Yes, I ha★e blue eyes. Does Lisa have blue eyes?

Look at Lisa's eyes. Are they blue? Are they brown? OK, what is the name then of the student in this class who has blond hair and brown eyes?

英語学習の最初の時間に提示されるインプットとして、これが日本の中学校での英語学習の場合 と比較して、質的にも量的にもいかにかけ離れているかは一目瞭然であろう。要するに、週3‑

4時間という限られた学習時問、教室という人為的な学習環境、さらに、学習者に提示されるイ ンプットの貧弱さなど、これらの現実を考慮すれば、とても中学生が英語の授業の中だけで英語 の文法規則を無意識のうちに習得するとは期待できない。むしろ、教室という不自然な学習環境 の中では、外国語を不自然な形で、つまり、明示的な文法指導を通して教える方が自然なのでは なかろうか。今日、教育の分野では自然であることが無条件に歓迎される傾向にある。そのせい か、教師が意識的な文法指導などを通して学習者内部で起こっている学習過程に積極的に介入す ることは否定的に捉えられがちである。しかし、教育とは本来不自然な営みである。さらに、教 授法そのものも、 Gouin (1892:85)が示しているように、本来、学習の効率化の追求から生ま れた極めて人為的なものなのである。

A method can never, and must never, repeat Nature, or it is no longer a method‥.

A method cannot be other than artificial, and it is so much the better the more it is artificial, that is, the more it resembles an art, the more it is endowed with the means proper to vanquish Nature itself.

なるほど、母国語習得は、母親というすばらしい教師がいるものの、学習自体は自然な形で進行 する。しかし、母国語習得には、中学校での英語の授業とは比べものにならない程の時間と労力 が費やされていることも忘れてはならない。とにかく、自然体は手間暇がかかるのである。中学 校での英語授業のように時間的に限られた教育活動のなかでたやすく実現できるようなものでは 決してない。この点、 "The impossibility of recreating natural language conditions in the classroom means that any claims to success by naturalistic methods should be viewed with great caution."という具合に、教室の中に自然な学習環境を作り出すことの可能性を否定 した上で、安易な自然信奉を戒めているHammerly (1985: 15)に共感を覚える。入門期と言

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えども、ある程度の効率化は避けれない、というより必要である。文法指導は、英語学習の効率 化を図るための重要な手段である。

2.な ぜ 文 型 か

(1)文型の中に基本的関係概念が集約されている

既に述べたように、本論では、言語を関係概念の体系として捉える。しかも、この体系は一元 的ではなく多元的で、複数の体系が縦横に絡み合って、なおかつ、ひとつのまとまりを形成して いるのである。まさにa system of systems (Breenetal. 1979: 2)として存在しているので ある。このように極めて複雑な体系をなしている関係概念の内、日本の中学校における外国語と しての英語教育においては、いかなる言語的関係が学習の対象になるのであろうか。近代言語学 の祖として仰がれるソシュール(1940, 1977)によれば、言語には、範列関係と連辞関係という 二つの基本的な関係が含まれている。例えば、 Mike plays tennis.という英文を例に取れば、

tennisという単語は、 baseballやsoccerなど他のスポーツの名称を表す単語と置き換えられる。

この場合、 tennisは、 baseballやsoccerと範列関係(paradigmatic relation)を構成している と言われる。一方、上の英文中のMike, plays, tennisの三語は、でたらめに並んでいるわけで はない。並び方に、重要な意味が付与されている。この場合、 Mike, likes, tennisの三語は通辞 関係(syntagmatic relation)を構成していると言われる。前者の範列関係においては、置き換 え可能な語句で構成される言葉の範噂(category)が問題になり、後者の通辞関係では、同一 の文中に含まれる語句の並び方(sequence)が問題になる。このように、全ての英文は、範列 関係を縦軸、通辞関係を横軸とした言語的関係の座標として存在していると言える。言語能力と

の関係で言えば、範列関係は英単語の選択能力に関わり、一方連辞関係は英単語の整列能力に関 わっている。範列関係にしろ、連辞関係にしろ、貝体的な英文の中に位置付けられると、関係と いう言葉が示しているように、英語特有の制約なり制限を伴う。そして、これらの制約なり制限 を、動詞中心に集約し、類型化したのが、文型である。このように、文型は、言わば基本的関係 概念の束として機能しており、たとえ入門期と言えども、基本的で重要な学習材を形成している

と考える。

(2)文型自体か学習を予期している

英語の文型としては、すぐに、伝統文法における基本5文型(cf.細江1971)やQuirketal.

(1985)の7文型、さらには、 Hornby (1954)の25動詞型が想起される。そのせいか、つい文 型を言語学者の仮説や理論的構築物としてのみ考えがちである。本論では、文型を単なる言語学 者のフィクションとしては捉えない。文中における単語の使い方に関する制約・制限を集約した

ものとして、言語の重要な特性を形成していると考える。これらの制約・制限の具体的中身につ いては、個々の言語において異なるが、当該言語を話す人々の間では共通に理解されている。だ からこそ、異なった人間の問での言葉によるコミュニケーションが可能なのである。もし仮に、

言葉の置き換えにしろ、整列にしろ、なんら制約・制限がなく、全く個人個人の自由に任されて しまうと、コミュニケーションはとうてい成立できなくなる。この意味で、文型は、個人による ことば使いの自由度を制限する力として機能していると言える。英語学習というコンテクストの 中で文型について考察を巡らす場合、とかくこの制約・制限としての機能が全面に出がちである

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¥m 悶 nsmat

が、文型にはもう一つ大切な働きが備わっている。それは、関係概念の類型としての文型の存在 が、幼児による母国語の学習を可能にしているという点である。つまり、幼児にとっては文型が 学習の手がかりになっているのである。この意味で、文型それ自体が学習を予期していると言え

る。

一般に、学習は、混沌とした対象の中に規則性を発見することから始まると言われている。言 語現象の規則性を表現することばとして、パターンとルールがよく使われる。同じ言語現象でも、

構造言語学の場合のようにパターンとして表現することもできれば、変形文法の場合のように ルールとして表現することも可能である。違いは、ルールの方がより抽象度が高いという点であ ろう。そこに、構造言語学と変形文法の根本的な違いが反映されていると理解することも可能で ある。つまり、ともに、言語の規則性の科学的記述を目指しているが、後者の場合の方が、より 抽象度の高い記述が用いられる傾向にある。その点は兎も角として、パターンにしろ、ルールに しろ、どちらも規則性を包含するという性格上、言語の使用を制限する働きとともに、言語の学 習を促進するという働きも有する。問題は、言語の学習を促進する上で、どちらの方がより効果 的か、である。この問題は一概に答えられない。おそらく学習者の知的成熟度に応じて答も変化 してくるであろうが、一般的に言って、入門期においては比較的抽象度の低いパターン、つまり、

文型の方が有効だと思われる。これは、主に、中学教師時代の私の個人的経験に基づいての判断 であるが(伊東1987)、第2言語習得研究の分野においても、学習当初は対象言語の文型的理 解が重要な役割を演じていることが報告されている(Ellis 1985)。

(3)文型理解か関係学習を促進する

言語学習に限らず、学習には連合学習と関係学習の二つの類型が認められる。連合学習とは、

個々の学習項目に一つずつ独立した意味を付与した上で、一方が他方を瞬間的・習慣的に想起で きるようにする学習形態である。一方、関係学習は、個々の学習項目の問に存在する見えない関 係を理解し、運用できるようになる学習形態である。要するに、連合学習とは、基本的に「覚え る」ための学習であり、関係学習は「分かる」ための学習である。この連合学習と関係学習の区 別は、 Cruttenden (1981)のitem‑learningとsystem‑learningの区別と同質である。どちら のタイプの学習も英語学習に必要であるが、その守備範囲にはかなりの違いがある。例えば、連 合学習は、その性格上、単語とその語義との問の懇意的な繋がりを理屈無しで覚えるような場合 に適している。一方、関係学習は、文の意味をその構成要素の間の相互関係から推察するような 場合に適している。

しかし、入門期、それも特に日本の中学校での英語教育の入門期においては、取り扱われる言 語材料が質的にも量的にも非常に限定されていて、学習の目標となる個々の英文も比較的短いの で、ともすれば、本来論理性を重視する関係学習に適しているはずの学習内容までも暗記を中心 とする連合学習で消化してしまう傾向が、学習者の間にしばしば見られる。教師の側も、指導の 対象となる英文が比較的短くて簡単なため、文の構成要素の間の隠された関係に気付かせるとい

う指導よりも、 「全体から個へ」とか「音声から文字へ」という指導方針の下、個々の英文をひ と続きの音として全体的に把握させる方向での指導へ傾斜しがちである。特に、いわゆるPre‑

reading Periodが実行されている場合には、この傾向が一層顕著になる。

日本の中学校での英語教育のように、言語材料が比較的限定されている問は、教材を丸暗記し てしまう連合学習でも短期的にはかなりの学習効果が期待できる。高校入試という目先の利益に

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とらわれ、多くの中学生が教科書の暗記、つまり、連合学習に精進しているのが現実である。し かし、連合学習には応用力が育ちにくいという欠点がある。故に、中学時代に暗記中心の連合学 習に終始することは、長期的に由々しき問題を提示する危険性をはらんでいる。中学時代は英語 の成績が比較的良かったのに、高校に入学した途端、英語が苦手教科になってしまったという生 徒の話をよく耳にする。思うに、その多くは、決して本人の努力不足ではない。中学時代の暗記 中心の学習方法が、教材が質的にも量的にも豊富になる高校での英語学習に功を奏さなくなって しまったのである。さらに深刻な問題は、中学時代、連合学習に終始してきた生徒の場合、この 壁を乗り越えるための他の術を知らないということである。最初の間は、より密度の高い連合学 習でこの壁を乗り越えようとするが、努力の割には好結果が得られず、いっしか連合学習だけで なく、英語の学習それ自体も放棄してしまうというシナリオが、容易に推定されてしまう。

英語学習における連合学習の価値を否定するつもりは毛頭無い。上で述べたように、単語とそ の語義の問の窓意的繋がりなどは、明らかに連合学習の守備範囲である。本論で強調したいのは、

英語の学習には、たとえ入門期と言えども、連合学習に加えて、関係学習も必要であり、特に、

文のレベルでの学習では、たとえ対象が比較的簡単な短文であっても、連合学習よりも関係学習 の方が優先される必要があるという点である。既に述べたように、言語の本質は、実体ではなく 形態、つまり、表面的な言葉の背後に隠された関係にある。この関係は、入門期で扱われる3‑

6語からなる短文の場合でも、歴然としてそこに存在している。その関係に早くから気付かせる ことによって、長期的には、中学から高校への移行もスムーズに行われ、好結果が期待できると 信ずる。

最近は、チンパンジーやボノボなど、比較的人間に近い動物に人間のことばを教える試みが盛 んに行われている。しかし、その多くが必ずしも期待どおりの成果を得るに至っていないのが現 状である。それは、動物には貝体的な言葉と異体的な物とを結び付ける連合学習の素質が備わっ ていても、言葉の背後に隠された抽象的な関係を見抜くための関係学習の素質は、仮にあっても 極僅かだからであると容易に推察される。最近(1993.3.31)放映されたNHKテレビの特集に よれば、ボノボを対象にした研究などにおいては、かなり複雑な人間のことばも理解できること が報告されているが、ボノボが使っている学習ストラテジーが関係学習であるとは言い切れない。

複雑な文も、単語の場合と同じ様に、一つの塊として理解している可能性は否定し難い。このよ うに考えてくると、関係学習こそ、極めて人間的な学習ストラテジーであることがわかる。

(4)文型理解が基礎学力に繋がる

教育英文法の内容は、主に、文型と文法事項から構成されるが、従来の文法指導においては、

文型と文法事項が相互に関連付けられることなく、それぞれ独自に並行的に指導される傾向に あったと言える。我が国の学習指導要領においても、文型と文法事項は、学習すべき言語材料と

して音声や語及び連語などと一緒にただ併記されているだけで、その関係は必ずしも明記されて いない。本論では、英語の文法の基本は語順を中心とした文型にあり、数や時制といった細かい 文法事項がそれをサポートするという構図を採用する。特に、入門期においては、この文型の基 本性を重視した指導を心がけたい。この文型優先の原則は、伊東(1992)でも指摘したように、

最近の第2言語習得の研究成果によっても支持される。例えば、 Ellis (1985:63)によれば、第 2言語としての英語の文法は、語順を中心とした基本文型、疑問文や否定文にするための基本操 作、人称や数や時制による語形変化、複文や重文といった順に段階的に習得される。つまり、文

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伊 東 治 己

型が文法事項に先駆けて習得されるのである。

基礎としての文型を文法事項がサポートするという英文法の構図の当然の帰結として、本論で は、入門期での文型理解が英語の基礎学力を形成すると考える。第2言語習得における文型理解 の先行性も、単に子供に取っての学習難易度を反映したものとしてではなく、文型理解が後の学 習の基礎固めをしていると考える。自動車の運転に例えれば、 ‑ンドル操作やブレーキ操作など

自動車を動かすための基本的操作が文型に当たり、一方通行や進入禁止などの交通規則が文法事 項に当たる。交通規則を知っているだけでは車は運転できない。 ‑ツドル操作やブレーキ操作と いった車の制動に関する技術があれば、交通規則を知らなくても車は動かせる。ただ、交通規則 を知らなければ、すぐに事故を起こしてしまうだろう。交通規則の知識が、基礎となる車の制動 技術をサポートしているのである。これと同じ関係が文型と文法事項にも当てはまる。この例え をもう一歩押し進めれば、運転免許の取得時にだけ必要となる車の構造知識は、文法書に載って いる文法記述に例えることもできるであろう。英語教師としては、英語の文法の中で一体何が学 習者にとって必要とされ、また、必要とされないかを、正確に見極める必要がある。

しかしながら、ここ数回の学習指導要領の改訂は、英語の基礎学力をこのようには捉えていな い。特に中学校の場合は、改訂の度に、 「基礎的・基本的事項への精選」という名の下に、中学 校で扱う言語材料がかなり縮小されてきた。つまり、 「基礎」を語嚢と文法の軽量化として定義 しているのである。青木(1986: 19)も、学習指導要領における基礎学力観を、 「内容を構成す る言語活動と言語材料の精選が単に程度や分量の適切さを基準にしている点は、改善を必要とす る」と指摘しているが、全く同感である。本論では、次に示す冨田(1983:34)の基礎学力観を 強く支持するO

基礎というものはややもすると、一度通りすぎるだけでよいとか、本来レベルの低いことだ という安易な印象を学習者と教師に与えるが、これは強く戒めなければならない。真の基礎 というものは、発展のどの段階においてもくり返す価値のあるものである。基礎力というの は、それがなければさらに伸びゆくことが出来ないものである。

言うまでもなく、文型というものは、その性格上、英語学習の「どの段階においてもくり返す価 値のあるもの」であり、 「それがなければさらに伸びゆくことが出来ないもの」である。

(5)文型も言語的創造性に貢献できる

変形文法の立場から、 Audio‑Lingual Approachを批判した教授法学者達は、その目玉であ る文型練習が、全く無味乾燥な繰返し練習になりがちな点を鋭く突いた。文型練習は、基本的に は、言語行動を一定の型にはめるための学習であり、コミュニケーションの特徴である創造的言 語使用には繋がらないというのが、批判の中心であった。変形文法の立場からすれば、我々が日 常の言語活動で使用している文は、決して、過去に学習した文の繰返しでもなく、他人の物まね でもない。その都度、文法規則に則って新たに生み出されたものである。基になる文法規則の数 は有限であるが、それによって生み出される文の数は無限である。それは、規則の適用の仕方が 個人によってまちまちだからである。このように、変形文法の立場からすれば、言語的創造性は 文法規則の運用から生まれてくることになる。一方、制約・制限としての機能を有する文型は、

言語的創造性を阻むものとして捉えられる。例えば、 Dulay & Burt (1977:97)は、教育学や 心理学における創造性と区別される言語的創造性の本質を言語規則の運用に求め、次のように述 べている。

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Speakers can express an indefinite and infinite number of thoughts using sentences never heard before because they have internalized a system of rules that governs oト dinary language use. Because speakers regularly produce and understand sentences never heard before, they are said to use the language creatively, (emphasis added)

しかし、シンタックスに言語的創造性の源を求め、文型を創造性の阻害要因として見なす変形文 法の立場は、言語的創造性を一面的・表面的に捉え過ぎているように思えてならない。次に示す 引用でも示唆されているように、文型は決して言語的創造性を阻むものではなく、むしろ、それ

に大いに貢献できるものである。

The assertion that a child simply imitates that which he hears seems to be a mis‑

take. It is not uncommon for a child of two or three years of age to use such forms

as "He knowed it" or "They swimmed fast" or "three mans'or "two tooths. ‥. The

child, in his learning of language, like anyone else who learns a language, does not simply repeat what he has heard ; he soon learns the patterns of form and arrange‑

ment by which the "words" are put together and is then free to employ a great variety of content in these molds or frames. These patterns of form and arrange‑

ment are the grammar of the language and although a child or a native speaker is not conscious of them, they are nevertheless there, fashioning the utterances, and must be learned if the language is to be used.

一見、模倣と繰り返しを主たる練習形態とするAudio‑Lingual Approachを批判した指摘のよ うに思えるが、実は、 Audio‑Lingual Approachの基礎を築いたとも言えるFries (1945: 28) の言葉で、文型が言語の創造的使用に繋がり得ることを示唆したものである。この視点から、次 の三つの英文を検討してみよう。

( 1 ) Mike likes baseball.

(2) Nancy plays tennis.

(3) Mike studies Japanese.

この三つの英文は、全て名詞+動詞+名詞(仮にNVNとする)という文型に属しており、文型 の各構成要素は、それぞれが単語を置き換えるためのスロットを形成している。各構成要素間の 関係、つまりNVNという順番はこの場合固定され、変更は不可能であるが、各構成要素の具体 的中身はさほど規定されていない。つまり、各スロットにおける語量の選択にはかなりの自由度 が保証されているのである。理論的には、各スロットに入る単語の数を掛け合わせた数だけ文の 数があると言えるが、各スロットに入る単語の数には限度がある。よって、この文型によって生 み出される文の数にも限界がある。しかし、各スロットに入る単語の数にしてもこの文型によっ て生み出される文の数にしても、たとえ理論的に限りがあるとしても、一般の言語使用者、まし てや、英語の学習を開始したばかりの中学生にとっては、天文学的数字、ほぼ無限に近い数字と も言えるものである。要するに、文型が生み出す文の数の限定は、日常の言語使用においても、

学習場面においても、なんら問題にならない限界である。英語教育の立場からすれば、理論的限 界よりも、むしろ、文型が生み出す文の多様性の方を強調すべきである。その文型が生み出す多 様性は、主に、各スロットにおける単語選択の自由度に支えられたものである。その意味で、語 嚢が言語的創造性の主要な担い手になっていると言える。関係節がいくつも生め込まれた英文の 場合のような、規則のループ的適用によって生み出される言語的創造性よりも、こちらの文型の

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伊 東 治 己

枠内で語嚢が主役を努める言語的創造性の方が、言語を日常コミュニケーションの手段として使 用している我々の生活実感に近い。学習者にやさしい文法、コミュニケーションを意識した文法 を標梼する教育英文法の立場(伊東1992)からすれば、後者の創造性、つまり、文型から生ま れる創造性を大切にしたい Gutschow (1978: 58)も、文型を言語的創造性の基盤と考えてい る。

Patterns as understood in methodology are helpful indications of the working mech‑

anisms of a language and are the basis of linguistic creativity as far as it can be achieved by the non‑native speaker.

確かに、文型指導は、生徒の発話をある一定の枠や型にはめるための指導である。しかし、英語 学習の入門期においては、そのような文型が持っ制約・制限としての機能よりも、文型が生み出 す創造性を大いに尊重すべきであろう。文型の中に「創造的活動ができるようになるための基 礎」 (田島1990: 17)を培うための可能性が秘められていると考えたい。

3.どんな文型指導か (1)学習者の視点から文型表示の仕方を工夫する

英語の文型としては、既に述べたように、基本5文型(細江1971)や7文型(Quirk etal.

1985)、さらには25動詞型(Hornby 1954)等が、従来から広く認められている。しかしながら、

これらはいずれもあくまで完成品(end‑product)としての大人の文法を対象にしており、言語 学者の視点から、文の分類に力点が置かれている。学習者の視点、つまり、文型が英語の学習に

どのように貢献できるかという視点が欠如しており、 25動詞型は言うに及ばず、比較的おおま かな分類を志向している5文型や7文型においても、入門期の学習者にとっては不必要な分類も 含むことになる。当然、入門期における文型指導のモデルとしてそのまま採用するには問題が残

る。例えば、次の三つの英文について考えてみよう。

(1) ThisisNancy.

( 2) Our English teacher is an American.

(3) Our English teacher is from America.

(1)と(2)の英文は、 5文型においても7文型においても、共にSVCの文型の例文と見な される。しかし、 (3)の例文は、内容的には(2)とはば等価であるにもかかわらず、 5文型 においてはSV、 7文型においてはSVAに属するとされる。つまり、 from Americaの位置付 けが異なっているのである。 5文型においては、文型の基本的要素から外れる修飾語句と見なさ れているが、 7文型においては、修飾語句でも文型の必須要素と見なされているO ただ、 from Americaを修飾語句と見なしている点は共通している。しかし、主語のOurEnglish teacherの 補足説明になっているという点では、 (2)のan Americanと同じであり、 (3)をSVCの例 文と見なすことも可能かもしれない。実際、動詞を文の中核とする立場からすれば、 Sも0も Aもすべて動詞に付随する補語とみなす考え方も可能になる(Sugayama 1992)。いずれにして も、 (3)の文型がSVか、 SVAか、それともSVCか、という問題は、あくまで大人の論理で あり、入門期の学習者には無用な混乱を引き起こすだけであろう。

入門期の学習者にとって重要なことは、表示の仕方はどうであれ、 (2)も(3)も共に、

(1)と同じ文型に属するということを理解することである。このことは、入門期において文型

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指導を展開していく場合、文型の表示の仕方を学習者のレベルに合わせる工夫が必要であること を意味している。より具体的には、文型そのものを、従来の5文型や7文型よりはさらに包括的 で大まかな形で示すことが必要である。本論では、日本の中学生にとっての英語教育が、教科書 の都合上、多くの場合、 Be動詞文の学習から始まることを考慮し、入門期において学習者に最 初に提示する文型として、園is匿]というプロトタイプ的文型表示を採用する。この中に含まれる AとBは、従来型のSやCのような文法概念を内包した記号ではない。文型の構成要素を示す

ための便宜的な記号であり、数式の中に含まれる変数α)に例えることもできる。

もちろん、入門期と言えども、この文型だけでは間に合わない。この園is匿]という文型は、こ れから始まる文型学習の出発点、原点であり、学習が進展するにつれて、当然、文型の表示方法 を変化させて行かなければならない。生物が細胞分裂を繰返しながら成長していくように、学習 者に提示される文型も形を変えながら、成長し、深化していくのである。具体的には、従来型の

SVCとSVOを例に取れば、次のような成長過程を予測している。

(1)出 発 点:

(2) Be動詞の人称変化:

(3)一般動詞の導入:

(4)三単現のSの導入:

(5)動詞の変数化:

(6)文法概念の付与:

SIIS骨 可ami is areJ圏 園Iike匿]

可:霊sI園

丁V!iv:

B]Ⅴ固/圏Ⅴ団

従来の5文型や7文型では、成人の完成された文法を対象にしている関係上、文型そのものが固 定的に捉えられている。しかし、文型指導を学習者の立場に立って展開して行くためには、伊東 (1992)でも論じたように、文型を最初から固定的に捉えるのではなく、文型も学習の進展に合 わせて成長し、変化するという視点が是非必要になってくる。

(2)情報処理の視点から文型を捉える

文型学習の原点として位置付けた国is匿]という文型のAとBに主語や補語といった文法概念 を付与しない代わりに、本論では、園とEB]を情報理論でよく使われるチャンク(chunk)として 捉える。チャンクとは、本来、 「かたまり」という意味であるが、 Miller (1967:41)は、情報 処理におけるチャンクの役割を次のように説明している。

The process of memorizing may be simply the formation of chunks, or groups of items that go together, until there are few enough chunks so that we can recall all theitems.

例えば、 0742279163という数列を記憶しようとする場合、一度に全部の数字を順番に一つずつ 覚えることはなかなか難しい。 Miller (1956)によれば、人間が一度に処理できる項目の数は7

±2個で、上の数列はこの範囲をすでに越えているからである。そこで、多くの人は、例えば

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14

itf 央 ni 己

0742‑27‑9163のように、隣り合った数字を適当な塊にまとめることによって、無意味な数字 の羅列もパターン化し、全体を記憶しようとする。その塊がチャンクであり、チャンクを媒介と したパタ‑ン認識は、人間による情報処理の最も基本的な方略である。このチャンクを媒介とし たバク‑ン認識は、当然、言語の処理にも適用される。例えば、上記(3)の英文は、英語の学 習を開始したばかりの学習者にとっては、基本的には、すぐ上で触れた数字の羅列と同じく、六 つの単語の羅列に過ぎない。この単語の羅列から文の意味を理解するための第一歩は、下に示す ように、個々の単語の文中での機能を吟味し、互いに関連し合う単語をチャンクにまとめ、単語 の羅列の背後に隠されているパターンを認知することである。

(a) Our English teacher is from America.

(b)

Our English teacher from America

このように、チャンクは単語の羅列に秩序を付与する手段として機能しており、園is圏という文 型表示は、入門期において学習者に提示される英文に含まれる情報を処理していくための基本方 略を学習者に教えてくれているのである。文型指導の価値を高く評価しているGutschow (1978:56)も、外国語学習におけるチャンクの役割を次のように強調している。

We do not want our pupils either to memorize whole sentences or assemble simple

words into such constructions. It is our task to provide them with opportunities to acquire ̀chunks of language'(and discover their conditions of use) that can easily be reassembled and rearranged according to context, communicative needs, etc.

さらに、園is匿]という文型において、 isという動詞は、二つのチャンクを支える軸として機能 しており、統語的には極めて重要な単語である。しかし、情報伝達の観点からすれば、 isが伝 える情報量は極めて少ないと言わざるを得ない。 Thematic Structureの観点から園is匿という 文型を解析すれば、 Theme+Transition+Rhemeとなり(Firbas 1974)、園と国が、 'the two focal points in English sentences'(Brown and Miller 1980 : 357)を形成していると考えられ る。つまり、情報伝達の観点からすれば、園と圏のチャンクの中身が重要なのである。また、

チャンクに詰める情報量を多くすればするほど、たとえ同じ園is匿]の文型に属している発話で あっても、伝達できる情報量はそれだけ多くなる。例えば、次の英文はすべて園is匿]の文型に属 しているが、チャンクの中身の多様化と拡大に応じて、伝えられる情報量はかなり違っている。

(1) Thisisacamera.

(2) Thisisanicecamera.

(3) Thisisa camera made in Japan.

(4) Thisis the camera I bought in Japan.

( 5) This camera is very expensive.

(6) This new camera is very easy to handle.

(7) All you have to do isjust to push thisshutter.

(8) What I would like you to notice is that we are runningout of time and money.

ここに示してあるのは、すべて中学校1年から高校レベルまでの園is圏の文型に属している英文 である。チャンクに含まれる情報は学年が進行するにつれて多様化し、より豊富になっているが、

チャンクの数自体は最初から変わらない。情報処理の観点からすれば、 (1)の英文も(8)の 英文も、ともに、園is匿]のサンプルとして、ほぼ同じような心理的負荷で理解され、運用される

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ことが望まれている。このように考えてくると、英語の学習過程全体を、情報処理の基本方略を 遵守しながら、文型の構成要素としてのチャンクの中身を多様化し拡大していくプロセスと見な すことも可能である。英語には、情報処理の基本方略にしろ、チャンクの中身の多様化と拡大に しろ、それぞれに対処するための文法装置が元々準備されている。それらの文法装置を機能させ ながら、どんなに複雑な構文でも、 His匿]のような基本的なチャンクに分節できる力こそ、英語 の基礎学力の重要な要素と考える。例えば、次の英文を検討してみよう。

All our children play cowboy and Indian; the brave and honest sheriff who with courage and a six‑gun brings law and order and civic virtue to a Western commu‑

nity is perhaps our most familiar hero, no doubt descended from the brave mailed knight of chivalry who battled and overcame evil with lance and sword. (John Steinbeck)

このようなかなり高度な英文でも、すばやく基本的なチャンクに分節化できる学習者には、英語 の基礎学力が備わっていると考えられる。文型指導も、この視点から捉え直す必要がある。

(3)文型の認知とその意識的活用を図る(認知主義の立場)

例えば、 OurEnglish teacher is an American.という英語の具体的サンプルから園is国のよう な文型に至るプロセスは、抽象化のプロセスである。母国語習得においては、この抽象化プロセ スが、豊富なインプットの下、長い年月をかけて、無意識的に行われる。この抽象化プロセスは、

基本的には、言語学者が言語サンプルから文型に至るまでのプロセスと同じであるが、われわれ 外国語教育に携わる者にとっての問題は、この無意識的抽象化プロセスを外国語の学習にも適用 するかどうかである。明示的な文法指導に否定的な立場を取っている研究者達は、外国語の学習 においても、無意識的な抽象化のプロセスを踏襲すべきだと考えている。例えば、 Krashen を始めとするナチュラル・アプローチの信奉者たちは、すでに指摘したように、母国語習得と第 二言語習得の基本的同一性を示唆する研究成果を踏まえ、サンプルからの抽象化は学習者に本来 備わっている分析能力(analytic capacity)に任せるべきだという立場から、外国語学習にお ける無意識的抽象化プロセスの適用を支持している。また、教師の側からの働きかけは、学習者 による無意識的抽象化のプロセスを側面から援助するために、 i+1という線に沿って、サンプ ルを学習者にとって理解可能なインプット(comprehensible input)に加工する程度に留める べきだと考えている。外国語学習における文型の価値を高く評価しているFriesも、基本的には、

サンプルから文型への無意識的抽象化プロセスの適用を支持している。ただ、 Krashen達と 違って、サンプルにi+ 1以上の加工を施し、学習者によるサンプルから文型への無意識的抽象

化プロセスのスピード・アップを図っている。

いずれにしても、このサンプルからの無意識的抽象化のプロセスを外国語の学習者にも迫体験 させるためには、莫大な変化に富んだサンプルがインプットとして必要になってくる。 Krashen にしろFriesにしろ、豊富なインプットの提示を前提にしている。しかし、日本の中学校におけ る英語教育を取り巻く教育・学習条件を考慮に入れると、無意識的抽象化プロセスを機能させる だけ十分なインプットを学習者に保証することは非常に困難であり、時間的にも厳しい制約を受 けている。その一方で、学習者は知的にかなり成熱しており、文型処理に求められる変数理解へ のレディネスも既に形成されている。このような場合には、母国語習得の場合と同じサンプルか ら文型への無意識的抽象化プロセスを繰り返す必然性はなく、むしろ、文型そのものを変数的に

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16

伊 東 治 己

認知させ、意識的に活用させる方向での指導の方が効果的だと考える。母国語習得に携わってい る幼児にとって、文型は学習の結果であり、文の類型化を目指す言語学者にとっては、分析の到 達点である。しかし、日本の中学生のように、既に母国語を習得し、知的にも形式的な操作への

レディネスが形成されている程に成熱している英語学習者にとっては、むしろ、文型を学習の出 発点として位置付け、その意識的活用を図ることが可能であり、その方が効率的であると判断さ

れる。つまり、サンプルから文型への抽象化プロセスよりも、文型からサンプルへという具体化 プロセスを重視する方が日本の中学生には学習効率の面から適切だと考えられる。

抽象化プロセス:

具体化プロセス:

sample sample sample samplè1...samplen

sentence pattern

sentence pattern

sample sample‑ sampleこ1 samplè1 ‥. sample"

「子どもは母語を無自覚・無意識的に習得するが、外国語の学習は自覚と意図からはじまる」と いうヴィゴツキー(1934, 1962: 113)の至言をここで今一度確認してみる必要がある。

4.お わ リ に

本論では、日本の中学校での英語教育を取り巻く様々な教育・学習条件を考慮に入れれば、た とえ入門期と言えども文法指導を実施することが必要であること、その中でも特に文型の教育的 価値を再確認することが必要であることを指摘すると同時に、発達論的視点ならびに認知主義的 視点から、英語学習入門期における文型指導の基本的ストラテジーを模索した Fries (1945)

も基礎学力形成との関連での文型の教育的意義を高く評価していた。しかし、文型そのものを学 習者に認知させずに、サンプル文に基づく豊富な文型練習を介して、文型を無意識的な習慣とし て学習者の中に定着させようとしたその方法論に問題があったと考える。文型練習を中核とし、

日本の英語教育にも多大な影響を及ぼした彼の教授法も、その基盤である構造言語学と行動主義 心理学が学問的に行き詰まるに及んで、英語教育の主流から外れることになった。文型練習も、

意味を無視した機械的練習に過ぎないという理由で、外国語の教室から徐々に姿を消していった。

残念なのは、文型練習とともに、文型も、その教育的価値を十分認知されることなく、捨て去ら れて行った点である。まさに、 「風呂の洗い場と一緒に中の赤子も捨ててしまった」 (英語の格 言)のである。コミュニケーション志向が年々強まる中、中学校の教育現場で文法離れ現象が顕 在化しつつあるが、今一度、文型学習の価値を再評価することが必要と考える。入門期における 文型指導の具体的展開方法については、稿を改めて詳しく論じる予定である。

引 用 文 献

青木昭六1986. 「基本的事項の徹底で基礎学力をっける」 『英語教育』 (大修館書店), 1986年2月弓(34,

12), 19‑21.

Breen, M.P., Candlin, C. and Waters, A. 1979. Communicative materials design: Some basic prin‑

ciples. RELC Journal, 10, 2, 1 ‑ 13.

Brown, E. K. and Miller, J. E. 1980. Syntax: A Linguistic Introduction to Sentence Structure. London :

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