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「音のききかた」から考える「音」と「音楽」の境界

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研究ノート

「音のききかた」から考える「音」と「音楽」の境界

阪 井

,恵

はじめに

 音楽を学ぶことを考えるとき,音の事象をどのようにきくかという問題を避けて通るこ とはできない。日本の公教育における音楽教育の場合,この問題は一般的に「鑑賞指導」

という枠組の中で論じられてきた。その中で問題にされる音の事象とは,すでに形を成し た「音楽作品」を指しており,「きく」こともまた,19世紀から20世紀前半にかけての音 楽美学の成果をくんだ「構造的聴取」や,コンサートホールにおける「集中的聴取」をモ デルとして考えられている。「きく」ことに関するこの枠組は,公教育においてはいまだ 変わらず,学習指導要領は一貫して音楽科の指導内容に「鑑賞」という文言を用いている。

 しかし「音をきく」ことに関しては,実はむしろ別の角度から,一石が投じられた経緯 があると言えよう。1989年告示の第六次学習指導要領で,「創作」活動にかかわる指導内 容に「即興的に音を探して(選んで)表現する1」という項目が設けられたのだが,ここ

でいう「音」は身近な環境にある音,自然の中の音など,楽音に限られない広い意味での 音をさすということが解説書に明文化されたのである。学習指導要領の文面上は明確でな いことだが,これは20世紀半ば以降「音楽」という概念が一様ではなくなり,音楽の素材 が楽音だけではなくなってきた動向を反映するものであった。このような動向は,いわゆ る芸術音楽の世界が「きく」ことに関しても,集中的聴取や構造的聴取を求めたり想定し たりするのではなく,新しいききかたを模索するような作品を生み出すようになっていた2 ことと重なっている。1980年代は,サウンドスケープの概念も日本に浸透しつつあり,ま た社会学的にはすでに,古典的な音楽聴取の解体も指摘されていた3。

 音楽科教育においては現在も「鑑賞」という枠組みが保たれているが,その中で「音を きく」ことについての考察が,深まっているとは言いがたい。本稿は,これまでの音楽科 教育研究で問題にされていない「ききかた」の根幹部分について,発生史的な観点も交え ながら,問題提起をしていく。そして,「ききかた」の面から,音と音楽の境界はどのよ うにとらえられるか,音楽教育に資するための考察の端緒を探るものである。

1.音のききかたの原初的な段階についての考察

 最近の拙稿「音を聴くというごピ」では,私たちが「音を聴く」というとき,その意 識に通底していると思われる「音をどこまでも対象化する」態度への疑義を呈した。その 中で,具体的な考察事例として挙げたものに,参与観察をしている音楽授業における子ど もたちの様子や,打楽器奏者エヴリン・グレニーのドキュメンタリーからの引用がある。

彼らの「音のききかた」(あるいは感じかた,と言うべきかもしれない)には,音を対象

化するのとは異なった方向性があった。ここで言う「対象化する」とは,ドイッ語なら

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vor+stelIenと表されるような,何かを自分とは一定の距離をおいたところに据え,その 上で見る・とらえる,という意味である。あるいは,自分を何かからあえて引き離し,距 離をおいて見ることだと言ってもよいだろう。私たちの音の感じかた・ききかたを考える とき,実は音を対象化「しない」から「する」にわたる,さまざまの段階があると言えよ う。まずは最も原初的な段階について考えてみたい。

 キャンベルはTeaching Music Globally(2004)の中で,「胎児として,私たちは母親が 歌ってくれるものを通して最初の経験をする。そして母親を通して私たちの親が好んで聞

き,彼らがともに歌ったり演奏したりしてきたものをきく。聴覚は最初に発達し,乳幼児 期を通じて整えられていく。…   しかし,子ども時代の半ばから思春期になる頃まで

に,世界がごたごた込み合ったものになるに従い,私たちの音響に対する認識は少々騎っ たり弱まったりし,私たちの音楽経験の範囲(scope)は,私たちの周囲で普通に鳴ってい て,それゆえ簡単に手に入る音楽だけに,限定されてくることは驚くにあたらない。5」

と述べている。キャンベルの言う通り,小学生でも通常,「音楽」と言えば「このような もの」という範囲(scope)を持っているし,一般に高校生にもなれば,自分にとっての 音楽の範囲は,ある一定のジャンルに限定された状態になっているほどである。

 しかしあえて,キャンベルも言う胎児から乳幼児期,子ども期の初期までの音楽経験を 考えてみよう。三木成夫(1983)によれば,音を受容する聴覚器である「耳」は,受胎後

      さい

32日目の胎児においては魚類の「鯉孔」にあたり,受胎後40日目になって次第に外耳の耳 介の形状へと近づいてゆく。実際に音を知覚する器官である内耳は,かつて魚類の皮膚上 に並んでいた側線器官にあたる。魚類は,側線で海水の圧力や速度や方向を感じていたと いう6。デュフレンヌ(1995)も,発生史的観点から「魚の聴覚は,或る物体が近づいて きて,接触による圧力が予料されると,水の移動によって起こる水圧[の変化]を記録す る。魚から哺乳類へ進むと,器官は複雑になり,無限に多様な空気振動を受信することに も適応するようになる。そこで物音(bruit)が,やがては音(son)が現れ,その音の響 きに応じて,音を出すものを識別したり,個別化したりすることが可能になる。7」と述べ ている。このように,発生史的にみれば,音の感覚は聴覚だけの問題なのではなく,距離 をおいた触覚ということになり,私たちは実際に身体に触れてくるものとしても音を受け 止めるのである。人間の可聴範囲は16ヘルツから20000ヘルッくらいで,その範囲外の振 動を「音」として聴覚で感じることはできない。しかし触覚的には感じていないと,どう

して言えるだろう。(人間以外の動物では,たとえばコウモリが超高音を感じて行動して いることや,ゾウが超低音を用いて交信していることなどは,よく知られている。)

 私は,小学校の授業への参与観察から,子どもたちが音を文字通り身体で受け止め,感

じている事例を報告しているS。子どもたちは,たとえば耳元で工作用紙がポワンポワン

と鳴るのをきき,「耳が笑った」「身体がふるえる」と述べる。また,音楽室の膜鳴楽器類

が共鳴して響くのを,タイコの胴の部分に身体をもたせかけて感じる子,タイコの膜の振

動をそっと指で触れる子もいて,そういう「楽しみかた」も見られるのである。拙稿で紹

介した,聴覚障がいがありながら素晴らしい打楽器奏者であるエヴリン・グレニーは,8

歳くらいから聞こえが悪くなった。しかし彼女は良き師を得て,音を身体の響きとして感

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じる力を完壁に身につけたそうである。「Ihear basically through my body.」あるいは,

「Hearing is a form of touch. It sometimes hits my face.9」などという彼女の表現から,

エヴリンが身体で感じる音の属性は単に私たちがピッチ(音高)と呼ぶものに留まらず,

音の物質的な質感も含んだ総合的なものなのだろうということがうかがわれる。

 私の音楽科教育法のクラスでこのようなことを学生に投げかけてみたところ,大学生も また,身体が受け止める音の実感に注意を向けるようになった。音は確かに,頭部にぴり ぴり響いたり,胸部を圧してきたりするのである。このことを私たちは忘れており,普段 は気にも留めないが,無意識の領域ではこのような作用を受けていないということはでき

ないだろう。

2.「きこえる」から「きく」ヘー対象化のグラデーション

 必ずしも発生史的に考えなくても,私たちは「きく」以前に「きこえる」という経験が

あることも知っている。

 現代日本語には「聴く」「聞く」という2つの漢字がある。『漢字源』によれば,

聞く ①へだたりをとおして耳にする。人の話やよそからの音をきく。 ②きく。きいて   関係する。あずかりきく。 ③きこえる(キコユ)。へだたりをこえてきこえる。

聴く①きく。まともに耳を向けてきく。耳を澄ましてきく。転じて,広くきくこと。き   きとる感覚。 ②きく。しがたう(シタガフ)。いうことをきく。また,きき入れる。

  また,ききしたがう。 ③きく。いうとおりにまかせる。なりゆきにまかせる。

ということである。

 古来の用法1°を事典で調べると,「聴く」と「聞く」の境界はそれほど明確なものではな いこともわかる。一般に胎児の聴覚器官は早い時期の5ヶ月目くらいから働くと言われて いるが,実際に胎児は聞いている,というより,胎児には聞こえている,というべきであ ろう。そしてもちろん生まれ出た乳児には,外界が聞こえ,そのうち特に母親などから自 分に向かって語りかけられる音声を中心に,より「注聴する」「傾聴する」というききか たを身につけていくのであろう。このように「きこえる」経験から「きく」経験への移行 は,換言すれば,対象化を「しない」から「する」への連続的な変化であるととらえられ

るだろう。

 「きく」ことを表すのに,独語はh6renを用いるが,独語の場合についてグルーン

(2004)は次のように述べている。

 「聴取」(古高ドイツ語のh6ran,ゴート語のhausjan)というコトバは,語源的には,

インド=ヨーロッパ語族の源である〈s−keu>(何かに注意を払う,何かに気づくの意)に

までさかのぼる。またギリシャ語のakouein,ラテン語のcavere,そして古高ドイツ語の

skouwon(見る)にも通じている。さらに危険に対する警告の意味と根源的にまだ分化し

ていなかった意味も表している。その後,直観(Schauen)と概念的に区別されることに

より,(傾聴)Horchenにはまったく別の意味が生まれる。すなわち「〜に属する」

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(geh6ren)や「服従」(gehorsam)は言葉と声による緊密な結びつきや服従を示してい

る11。 (後略)

 このように,独語と日本語の「きく」には「従う」というニュアンスの共通性があるこ とは興味深い。また英語にはlistenとhear,仏語には6couterとentendre,という2つの動 詞があり,日本語の「聴く」「聞く」と全く同じような意味区分を持っている。英語の hearと仏語のentendreは,日本語の「聞こえる」と同様,きくことに含まれる受動性の 意味合いが含まれている。

 「音を感じる」「音が聞こえる」感覚は,乳児が母親などに抱かれてその体温や鼓動や 呼吸のうねりを直接感じたり,語りかけられる音声を,密着させた身体を通して受け取っ たりすることとつながっており,その延長上にあるものであろう。このようなとき,私た ちはまだ音を対象化して認識する態度を取ってはいない。たとえば私が参与している授業 実践では,「音をきく時間」がルーティンとして設けられている。そこでは当番の子ども たちが皆の間をぬって,さまざまの音を聞かせて歩き,皆は目を閉じてリラックスした状 態でそれをきく。このとき,どのようなことが起こっているのだろうか。このとき起こっ ていることは,傾聴するというのとは少し異なっている。音はいろいろな方向から聞こえ てくるのであり,きき手はある音に始めからターゲットを絞って,完全に対象化すること はできない。音は到来するのである。この,能動と受動の両方をあわせもった認識のしか たが,発生的な観点から言えば音や音楽と出会うときの根底にあるものである。

 先に述べたキャンベルの記述は,人にはそのような時代があるのだが,次第にいわば文 化的に規定された「音楽」を,音楽というものとして限定的に受け止めるようになる,と いうことを意味している。私たちにはそのような文化的に規定された音楽のききかた,音 楽との接しかた,音楽のありかた,音楽活動のしかた,などのあることを認識した上で,

キャンベルのTeaching Music Globallyは,世界の多様な音楽のありようや特質を対象化 して捉える視点を促し,その相違性と共通性を把握させる意図を持ったものである。キャ ンベルは多様な様式にわたる音楽の学びを,①attentive listening②engaged listening③ enactive listening という3つのステージのききかたに分けて,きくことが演奏や創作を 含むすべての音楽活動に通底していることを強調している。①attentive listeningは,と にかく注意深く傾聴して,音楽のさまざまの要素を知覚する,意識化できるようにするき きかた。②engaged listeningは,①のききかたを生かしながら,自ら演奏活動に従事する ときのききかた。③enactive listeningは,①②を生かしながら自ら音楽をつくり出すとき のききかた。この3段階には,音楽の知覚から理解へ,そしてさらに運用へ,という学習 の深まりがデザインされている。

 しかし私はキャンベルの言う①attentive listeningよりさらに前の段階として,音や音

楽について「この音をきく/この音楽をきく」という対象化には,まだ至らない段階のあ

ることに注意を喚起したい。なぜなら,本稿を書いている現在の時点で,私はこの理由を

明快に理論化できていないのであるが,キャンベルの②engaged listening③enactive

listeningなどのステージには,音楽を対象化する方向性と同時に,実は通底するものとし

て,音を対象化するのではなく,音の動きに同化したり,人やモノと文字通り響き合った

(5)

りするという,一見相反する方向性も含まれていると思うからである。またそれは,音楽 活動が固有に持っている特質と,その教育的な意味に深く関係していると思うからである。

このことについては今後,考察を進めて論じていきたい。

 拙稿(2006)ではまた,前述の「音をきく時問」の活動について,先生たちが子どもた ちに「大切なのは,何から音が出ているか,ではなく,音を聴いてどんな感じがするか,

どんなことを思い浮かべるかなどです。」と説明していることを報告した。このような指 示・説明は,キャンベルの言葉を借りれば,もうすでに身につけられてしまっている「文 化的に規定されたききかた」を少し揺さぶる契機となるのではないだろうか。子どもたち は,すでに持っている文化的な枠組をなるべくはずすという体験を迫られている。否,一 定の文化的枠組の中で,音源は何だろう,どのようにしてこの音が出ているのだろう,と 思いめぐらす一方で,もう1つの枠組を持つことを要求されている,ともいえる。目を閉

じて,音の事象を,遠く/近く,全体的に/部分的に,ある音に焦点化して/焦点化しな いで,きく,という経験を求められている  音を対象化する度合いを,強めたり弱めた りする体験が求められているのだといえよう。その揺さぶりは,音の感じかた・ききかた の原初体験への回帰を意図しており,それは1つには,文化的に捨象されてきた自らの内 なる感受性の可能性を問うことになる。そして2つには,乳児期に体験しているような,

受動的に音や振動や響きを被るききかたの再体験があるだろう。そのようにして音の質感 を味わうこと,また外界の人やものと,文字通り響きを分け持つこと,あるいは共に響く ことの確認をするのだともいえよう。

 そして,ここから次第に音の事象を対象化していく,すなわち自分から少しずつ引き離 し,距離をおいて見る力も養っていくという方向性とともに,音楽についての,次第にク リアになる知覚と,それに付与される意味の理解が展開するのである。本稿で例に挙げた キャンベルの著書は,多様な様式の音楽について,きき・演奏し・つくることを通じて,

このプロセスを手際よく促している。私たちは通常このようなプロセスを,音楽の学習と

呼ぶのである。

3.音から音楽へ一認識のグラデーション

 私が参与している実践12に関して,これほどまでに「音をきく」ことを重視するのはな ぜなのか,音をきくことは音楽教育に対して「どのように」基礎なのか,と問われること が多い。この問いは,「音」は「音楽」とは異なる,という暗黙の認識に裏打ちされてい るわけであるが,音と音楽の区別はそもそもどこにあるのだろうか。

 一般的には,「音は,何らかの組み合わせ(たとえば反復)によりその配列に,ある形 式・構造が与えられたとき音楽になる」という言説がある。この言説によれば,たとえば 単音は,音楽という全体の部品である。音楽をレンガづくりの建物にたとえれば,単音は レンガの1つ1つということになる。また,別の角度からの切り込みとしては,音楽はな んらか人間の思いや意図の表現であるはずで,そのような意図を含まないものは,芸術と か音楽などとは呼べない,という考え方もある。これによれば,雨だれ,寄せては返す波,

なき交わす鳥のさえずりなどは,音程やリズムがあっても音楽とは呼べない。また,グッ

(6)

ドマン(1987)のいうような「いつ音楽なのか」という問いもある。グッドマンの問いは,

「同一の事物があるときには芸術作品として機能し,別のときはそうは機能しない 3」とい う問題提起であり,たとえばネコがピアノの鍵盤の上を歩いて出る音は,コンテクスト次 第で,雑音になったり「音楽」として楽しめるものになったりするということになる。

  「ききかた」という視点から「音」と「音楽」,この2つの概念を区別するのは認識論 的な問題である。前述の「きこえる」から「きく」への論点を踏まえて,認識論的に音と 音楽の区別を考えてみよう。

 「ききかた」という面から音と音楽のあいだを考えるなら,「きこえる」「感じる」とい う原初的な段階から,次第に注聴する方向性を持ち,ある音や音声を選択的に聴くような 段階で,すでに音楽的な認識は始まっているといえるだろう。前述のグルーンは,「「聴取』

は,音響的な事象を受容するあらゆる方法であり,生理的な経過に基づき,心的反応を生 じさせる」と述べる。それに対して「『理解』は知覚された刺激により伝えられる意味を 把握することであり,そのような意味が常にどのようなものでありうるか,したがって何 が意図や意味として音の事象(音声,楽音,騒音)とむすびつけられるか,ということに 対する認識である。(中略)聴取と理解の両者は知覚するという行為においては互いに結 びついているものの,認識論の上では区別されなければならない14」と言う。グルーンの

「聴取」と「理解」の区別は,本稿が扱う認識論的な「音」と「音楽」の区別と重なる部

分が多い。

 ききかたという観点からは,グルーンの言うように,付与される「意味がどのようなも のでありうるか」ということへの問いかけや認識を強めていく過程が,ある音の事象を音 楽として認識するようになる過程と言えるのではないだろうか。ただし,合図や信号のよ うな音楽外的な意味ではなく,音楽には音楽固有の意味(あるいは内容)がある。音の現 象の意味(特に,一般的に音楽と呼ばれるものの意味)は,言語やその他の様々の記号で 伝達される意味に比べて非常に陵昧にしか規定できないものである。しかし,何がしかの 意味(内容),あるいは音楽内部での構造や統語論的な分節,といっても良いだろうが,

それが理解される方向にあるということは,「ききかた」という観点からはもはや単なる 音ではなく,音楽を感じることと言えるだろう。たとえばお寺の鐘が1回鳴った,という

ような音の事象にも,その響き(複雑な倍音の構造,その時間的な変化)を意識的に感じ とって味わう,ということを私たちはごく自然に行う。そんな時,私たちはこの鐘の音に 音楽と言いうるものを「聴き出して」いるのである。

 たとえば枯葉を踏む音にも独自の倍音構造があり,しかも,誰がどのような踏み方をし たかで明らかにそれは異なったものになる。尺八奏者であり作曲家でもある中村明一氏は,

尺八という極めて構造の単純な楽器をそのまま用い続けてきた先人たちは,そのような違 いを認識し,追究し,無限の音づくりをしてきたと言う15。音と音楽の境界は,認識論的 には,グルーンの言うように,音楽的な「意味がどのようなものでありうるか」を自覚的 にとらえ始めるところにある。たとえ1つの音であっても,そこには一定の情報が含まれ ており,私たちがもしそれをとらえられるならば,すでに音楽を体験していることになる。

 つまり,ある程度洗練された「音」(たとえば古典的な楽音)の組み合わせ,それらが

次々と織り成す展開のようなものだけを,音楽と考えればよいわけではないだろう。この

(7)

ことは,「音が,何らかの組み合わせ(たとえば反復)によりその配列に,ある形式・構 造が与えられたものが音楽」というような一般的な言説に従うと,始めの段階からすでに 捨象されているものがあるのではないか,という問題提起でもある。

 拙稿(1999)がこれまでに紹介している先生の1人は,音をきき,「君たちが音を楽し いと思ったらそれは音楽だ」という単純な投げかけを続けてきている。ここには,グッド マンが言っている「いつ芸術なのか」という問いと同質のものがある。しかし,また別の 要素もあるのではないだろうか。すなわち「1つの音にもすでに構造と呼べるような情報 があって,君たちがそれを受け止められれば(知覚できれば),それだけでも立派な音楽 なのだ」というメッセージが含まれているのである。これが「音」と「音楽」の境界を考

えるポイントになる。

 すなわち,「音のききかた」から考えるなら,私たちが何らか注聴・傾聴するという方 向性(構え)を持ち,音の事象の意味(内容)を次第に分節するようになるとき,「音」

は「音楽」に変わりうる。「ききかた」のグラデーションは,認識のグラデーションを導 いていくのである。しかしまた,音の現象に含まれる情報量自体も,私たちの音楽的な認 識には大いに関係がある。子どもたちは,たとえばさまざまな大きさや形状のガラス瓶を 集め,たたくバチを試しながら選び,それでアンサンブル作品をつくる。音探し・音選び をする最初の段階に,「1つの音が含む,構造と呼べるような情報を聴き出す」作業が行 われているのである。「ききかた」という認識論的な観点から追求していっても,最終的 には,情報量の豊かな音が,音楽として認識されることになるとは思うが,これは誰にで もわかる形態を備えたものだけが音楽,という考えかたとは根本的に異なるものである。

 音楽を生み出す内的な契機をとらえることが,教育的にはきわめて重要である。子ども たちの内部で,音が音楽に変わっていくとはどういうことなのか,考えるヒントにしてい

きたい。

1 1,2学年には「即興的に音を探して表現する」,3,4学年には「即興的に音を選ん  で表現する」という文言が用いられた。

2たとえば庄野進(1991)は,「既に作られてあるものがもつ「意味signification」を理 解するアプローチを要請する音楽ではなく,聴くということによってしか発見されない  「意味sens」と戯れる一連の音楽」(4ページ)という表現を用いている。

3たとえば細川周平(1990)は,複製技術,音楽の商品化,「弱い聴取」などを取り上げ,

 「聴き方」の変容を論じている。

4 阪井(2006)参考文献 5Campbell(2004),32ページ。

6三木成夫(1983)107〜117ページを参照した。

7デュフレンヌ(1995)18ページ。

8 阪井(2006)

9グレニーを取材したドキュメンタリー映画『Touch the S皿nd』の中で彼女が語った

 言葉。

(8)

1°たとえば白川静『字訓』には,「聴(く)」と「聞(く)」の古来の用例が多数掲載され

 ている。

llグルーン(2004)255〜256ページ。

12

阪井(2005)に概要が示されている。

13グッドマン(1987)116ページ。

14この箇所の3つの「」内引用は,すべてグルーン(2004)255ページ。

15

筆者は2007年1月30日,中村氏と直接会談する機会を得た。そのときの談話から引用し  ているが,同様の内容は,他にたとえば「日本人の身体が生んだ複雑系としての楽器  茂木健一郎と楽しむ科学のクオリア9,ゲスト中村明一」『日経サイエンス』2007年2月  号,中村(2006)などにみることができる。

【参考文献】

グッドマン(1987)『世界制作の方法』みすず書房。

グルーン(2004)「聴取と理解」(河口道朗訳)『音楽教育学要論』開成出版,255〜291ペ  ージ。

阪井恵(2000)「音楽の授業づくり過程にみる教師の「音楽的な学力』観」,『教育学研究  紀要』第15号,明星大学教育学研究室,66〜75ページ。

阪井恵(2005)「〈環楽器〉探究」『接続』第5号,ひつじ書房,176〜205ページ。

阪井恵(2006)「音を聴くということ」『接続』第6号,ひつじ書房,66〜85ページ。

庄野進(1991)『聴取の詩学』勤草書房。

白川静(1995)『字訓 普及版』平凡社。

デュフレンヌ(1995)『目と耳』みすず書房。

藤堂明保 他 編著「漢字源』学習研究社,2001年版。

中村明一(2006)『「密息」で身体が変わる』新潮選書。

細川周平(1990)『レコードの美学』勤草書房。

三木成夫(1983)『胎児の世界』中公新書。

Campbell, P. S.(2004)Teaching Music Globally, Oxford University Press.

『日経サイエンス』2007年2月号,日経サイエンス社。

参照

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