?5日(毎月 1回25日発行)ISSN凹19-4剖3
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1996
こべる刊行会NO.
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瀬川丑松、テキサスへ行かず(下) 一 一 『破戒J
のキーワード「隠す」と 「ヲ|き受ける」について一一 灘本昌久 時評⑫ 正義なるものの相対性について 一 一三重県立図書館の焚書事件から考える山
城弘敬
12年前、わずか50人で始めたささやかな集まり。出発点は、部落差別 にかかわって、身のうち・そとに漂う冴えない雰囲気を見つめ、人間 と差別について考えたいということでした。これまで「自分以外の何 者をも代表しない。結論や方針を求めない。多数をめざさない」を唯 一の了解事項として、自由閥達な議論をしてきました。 吹けば飛ぶような小集会ですが、自分の言葉で考え表現する人との出 会いの場になるはず。使いなれた言葉を聞い直し、新たな関係をつく りだすきっかけになればうれしい。みなさんの参加を心からお待ちし ております。 講 演/大賀正行(大阪府同和事業促進協議会会長) 「部落解放運動第三期論の今目的意味」 *コメンテ}ター:藤岡敬一 日 程/ 8月24日出 14時 開 会 ・ 講 演 16時 分 散 会 21時 懇 親 会 8月25日(日) 9時 分 散 会 11時 全 体 会 12時 解 散 *第l分科会:社会啓発の課題(話題提供吉田智弥) 第 2分科会:解放教育の終定(向上住田一郎) 第3分科会:運動/行政/市民(同上鈴木マサホ)
人間と差別をめぐって
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回 部 落 問 題 全 国 交 流 会
日 時/ 8月24日出午後 2時∼2沼田(日)正午 場 所/本願寺門徒会館(西本願寺の北側) 京都市下京区花屋町通り堀川西入ル柿本町 Tel 075-361-4436 交 通/JR京都駅より市バス9・28・75系統 西本願寺前下車 費 用/ A 8,000円(夕食・宿泊・朝食・参加費込み) B 4,000円(夕食・参加費込み) 申込み/何件社 602京都市上京区寺町通今出川上ル四丁目鶴山町14 Tel (075) 256-1364 FAX (075) 211-4870 葉書か封書に住所・氏名(フリガナ付) ・電話・参加の形 (上記A・Bのいずれか)を書いて、申し込んで下さい。 締 切 り /8月9日(剣 五条通門
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会館 1 通堀II 西 本 願 寺 七条過 ーーーーーーーーーー-
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-・各地で発行されたビラ・パン フなどを多数ご持参ください。 また第1日目の夜には恒例の 懇親会を予定しています。各 地の名産・特産の持ち込み大 歓迎ですので、よろしく。瀬
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1 1 1 ﹃破戒﹄のキーワード﹁隠す﹂と﹁引き受ける﹂について|| 灘本昌久︵京都産業大学︶ 大江磯吉の生涯 この告白シ l ンに関連して、﹃破戒﹂のモデルである 大江磯吉について触れておかなくてはならないだろ旬。 大江磯吉は一八六八年︵明治一︶に長野県下伊那郡伊賀 村に械多の子どもとして生まれた。飯田小学校卒業時に は成績優秀で表彰され、わずか一四歳にして同小学校の 代用教員として採用されたが、その出身ゆえに排斥を受 け一年で放逐された。磯士口は、それにくじけず、飯田 中 学 校 に 入 学 し 、 一0
キ ロ の 道 の り を 草 履 に 脚 粋 掛 け 、 粗 末 な 弁 当 を さ げ て 通 学 し 、 一八八五年︵明治一八︶見 事首席で卒業する。さらに難関を突破して長野県立尋常 師範学校に入学し、成績優秀につき寄宿費などを官費支 給 さ れ る 給 付 生 と な っ た 。 彼 は 、 一 八 八 六 年 卒 業 に あ た り模範授業披露の栄誉が与えられている。磯吉は、九月 の新学期より諏訪郡平野小学校に赴任するが、たちまち 部落民の素性が露見し、同僚や地域社会の排斥によりわ ずか七日間で追放される。そして長野師範学校にかくま われるように引き取られた。しかし、 一 八 八 八 年 に 東 京 高 等 師 範 学 校 に 入 学 。 一八九一年に首席で卒業するや母 校長野師範学校教諭に迎えられる。職多として追放され た大江が、どこに赴任するかは信州教育界の注目すると ころであったが、彼を陰になり日なたになりしてかばっ こべる てきた長野師範校長浅岡一が文部省に直談判して迎え、 1最重要科目﹁教育学﹂﹁心理学﹂を担当させたのである。 しかし、世間の風当たりはやはり強く、この度は、浅岡 をけむたがる県有力者たちの反感も増幅させて、政争に も発展しそうであった。磯吉は長野師範を去って一人九 育 三 学 年
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の こ 前 で 後 も 旧 教 士族の娘つまに自分の素性を打ち明けた上で結婚してい る。大阪時代の彼は教育者としての力量を遺憾なく発揮 して、自らの翻訳書を授業に取り入れるなど、意気盛ん であった。しかし、ここでも彼の素性はあばかれた。用 事で学校に立ち寄った母親の風采・言葉づかいに違和感 をいだいた生徒がわざわざ信州にまで身元調査にでかけ て、彼の身分を確かめるや、排斥の火の手をあげたので ある。磯古は、自ら志願して今度は鳥取県立尋常師範学 校に転出した。彼を呼び寄せたのは、鳥取県教育界最高 位にあった師範学校長小早川潔である。彼は長野師範の 先輩で、浅岡とも旧知の間柄である。磯吉はこのたびは 心に期するところがあったのであろう、教職員・生徒の 前で自分の生まれを明かし、堂々と着任したとされてい る。ここでは六年間勤め、後れをとる鳥取県の教育を近 代化するのに多大の貢献をしたが、校長と学校経営をめ ぐって衝突し、四名の仲間の教員とともに休職を命じら れた。それでも磯吉は教育の場を去らなかった。 九 千。
一年今度は兵庫県立柏原中学校︵現柏原高校︶二代め校 長として赴任し、﹁理想の学校﹂をめざして数々の改草に 取り組む。しかし、志なかばにして病にたおれ、 一 九O
二年︵明治三五︶九月五日、二一四歳の若さで亡くなった。 大江磯吉の経歴は以上のようなものであるが、彼が ﹃破戒﹂において、長野師範を追われた猪子蓮太郎や穣 多であることを告白する丑松のモデルになっていること は、すでに通説となっている。藤村は、大江磯吉の話を 聞いて義憤にかられ、彼のことを詳しく取材して﹃破 戒﹄を書いているのだが、磯士ロのことを詳しく聞いた藤 村が、丑松に屈辱的で卑屈な告白をさせる必要があるの だろうか。追われでも追われでも、 ついに教師という職 を守り通した磯吉。堂々の部落民宣言をして赴任した磯 吉。丑松の告白シ l ンを卑屈にしかとれなかったならば、 その丑松像はあまりに大江磯吉とがけはなれたものと言わ ざ る を 得 な い の で あ る 。 む ろ ん 、 モデルと作品の登場 人物はおのずと別物ではあるが、丑松は素性を告白する 前日﹁いよいよ明日は、学校へ行って告白けよう。教員 す 仲間にも、生徒にも、・話そう。そうだ、それを為るにし ても、後々までの笑草なぞには成らないように。なるべ く他に迷惑を掛けないように﹂︵三
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五頁︶と決心して いる。これなど、大阪の師範学校を去るときの、磯吉の 身の処しようとそっくりなのであ旬。 師範学校生の参観 ところで、丑松が生徒たちに告白するその日、小学校 には長野師範学校の生徒がこO
人ほど参観のため朝から うろうろしていた。丑松追い落としの作戦をねるために 集まっていた郡視学や町会議員が帰ってからも、師範校 の生徒は﹁猶残って午後の授業をも観たい﹂と残留して いた。そして、告白の騒ぎに巻き込まれ、騒然となった 教室を見て呆然としているのである。どうして藤村はわ ざわざ丑松の告白の場面に師範学校の生徒たちを引きと めたのだろうか。長野師範学校といえば、蓮太郎がかっ て心理学を講じ、素性がばれて追放されたところである。 ﹁いよいよ蓮太郎が身の素性を自白して、多くの校友に 別離を告げて行く時、この講師の為に同情の涙を流すも のは一人もなかった。蓮太郎は師範校の門を出て、﹃学 聞の為の学問﹄を捨てた﹂のである︵一六頁︶。また、 先 に 述 べ た よ う に 、 モデルとなった大江磯吉も実際に追 放された、あの長野師範学校である。藤村はいいたかっ たのだろう。﹁君たちの先輩は磯吉︵ H 蓮太郎︶を石も て追うた。諸君はどうするのか。いやしくも教師は、生 徒の未来をあずかる職業である。丑松を見ょ。生きる意 味さえ見失うほどの屈辱と恐怖を味あわされても、なお 社会を恨むことなく、ただ教師としての自分の資格を白 ら問うているではないか。自分は、強く生きたか?真 つ正直に生きたかと。そして、職多であることを隠して きた自分の生き方をただ詫びているのだ。君たちは、追 放された丑松と同じ教壇に立つことに人として一点の恥 こベる じる事なきゃ﹂と。藤村が、丑松に卑屈な告白をさせた かったのなら、長野師範の生徒を立ち会わせることなど 3無用のはずである。このことからしでも、丑松が差別社 会に屈して憐悔しているなどという解釈はなりたたない の で あ る 。 告白の結果 ただ自分の非を詫びる丑松の姿に、まわり はどう反応したか。丑松の生徒たちは丑松の﹁私はその い や 卑賎しい積多の一人です﹂という告白にたいして嫌悪感 こ 、 つ し て 、 をしめすどころか﹁熱心な昨を注いだ﹂のである。そし て、﹁高等四年の生徒は教室に居残って、日頃慕ってい る 教 師 の 為 に 相 談 の 会 を 開 い た 。 未 だ 初 、 い で 、 複 雑 っ た 社会のことは一向解らないものばかりの集合ではあるが、 さすが正直なは少年の心、鋭い神経に丑松の心情を汲取 って、何とかして引止める工夫を
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た い と 考 え た の で あ − る 。 黙 っ て 視 て い る 時 で は 無 い 、 一 同 揃 っ て 校 長 の と こ ろへ歎願に行こう、とこう十六ばかりの級長が言出し た と え た﹂。そして、校長室に押しかけてこう言った。﹁仮令糠 多であろうと、そんなことは厭わん。現に生徒として新 平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があ ろう。これはもう生徒一同の心からの願いである﹂。現 実の大江磯吉が、生徒に裏切られるように追放されたこ とにたいし、藤村は﹁かくあれかし﹂との気持ちで生徒 たちに行動を起こさせたのであろう。また、丑松の前で たびたび差別的な会話をしたり、﹁あの瀬川君が新平民 だ な ん て 、 そ ん な こ と が 有 っ て 堪 る も の か ﹂ ︵ 二 六 八 頁 ︶ としかかばわなかった銀之助が、丑松の告白をまのあた りにして、﹁どうして世の中はこう思うように成らない ものなんでしょう。僕は瀬川君のことを考えると、実際 突きたいような気が起ります。まあ、考えて見て下さい。 唯あの男は素性が違うというだけでしょう。それで職業 も捨でなければならん、名誉も捨でなければならん|| これ程残酷な話が有ましょうか﹂︵三三O
頁 V と同情し ている。安物の同和啓発映画なら、いきなり過去の自分 を謝罪でもしかねないところであるが、ただただ変わら ぬ友情を淡々と描いているところが、かえって真実味を 感じるのである。また、丑松が密かに思いをよせるお志 保も、銀之助の問いかけに、丑松への思いが変わらないこん﹂を告げ、生涯を誓っている。このように、丑松は告 白により世の中全体を敵にまわすかのごとくであるが、 もっとも身近な人間関係において、より多くを得たので あ る 。 瀬川丑松テキサスへ行かず さて、ここでやっと本題に近づいてきた。丑松は、告 白のあとテキサスへ行ったのだろうか。こんな聞いは今 さら馬鹿げているように聞こえるだろう。たしかに、例 えば新潮文庫版﹃破戒﹄ のカバーには、﹁部落出身の教 員瀬川丑松は父親から身分を隠せと堅く戒められていた にもかかわらず、同じ宿命を持つ解放運動家、猪子蓮太 郎 の 壮 烈 な 死 に 心 を 動 か さ れ 、 ついに父の戒めを破って しまう。その結果偽善にみちた社会は丑松を追放し、彼 はテキサスをきして旅立つ﹂とテキサス行きを自明のこ ととして書いている。しかし、実は﹃破戒﹄の結末で、 丑松がテキサスに旅立つなどということは、まったく書 かれておらず、丑松が東京に出立するところで物語は終 わ つ で い る の で あ る 。 丑松告白の時からラストシ l ンまでの経過を追ってみ ょ う 。 丑 松 の 生 徒 へ の 素 性 の 告 白 が 、 一 一 一 月 一 日 の 午 後 一時過ぎ。土屋銀之助は丑松を学校から引き上げさせ、 お志保に事態の報告をし、市村弁護士が泊まっている ﹁扇屋﹂に行った。そこには、蓮太郎未亡人と丑松もい る。市村弁護士は銀之助を部屋の片隅に招いて、﹁あの 蓮 太 郎 の 遺 骨 を 護 っ て 、 一緒に東京へ行って貰いたいが どうだろう| ll 選挙を眼前にひかえさえしなければ、無 論自身で随いて行くべきでは有るが、それは未亡人が強 いて辞退する。せめてこの際選挙の方に尽力して夫の霊 魂を慰めてくれという。聞いて見れば未亡人の志も、 も っ と も 尤。いっそこれは丑松を煩したい||一切の費用は白 分 の 方 で 持 つ | | 是 非 ﹂ ︵ 一 二 三 六 頁 ︶ と 頼 ん だ 。 丑 松 は 、 市村弁護士の頼みで未亡人の付き添いをして東京に行く こ と に な っ た の で あ る 。 つまり丑松の東京行きは、﹁破 戒﹂の冒頭で下宿を放逐された大日向が再登場してテキ サスへ誘うこととは何ら関係なく決まっていたことを確 こぺる 認しておこう。大日向が再登場しなくても、丑松は東京 5
に 行 く に は 行 っ た の で あ る 。 そして、焼き場から帰ったあと、火鉢を囲んで市村弁 護士、銀之助、丑松は話をする。この時、市村弁護士が、 約 一 ヶ 月 前 の 一
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月二六日に丑松の下宿から放逐された 大日向の話を銀之助と丑松に持ち出す。放逐事件がかえ って発奮のきっかけとなって、大日向はテキサスでの農 業経営を計画しており、市村は人材の紹介を依頼されて いるというのである。ここで重要なことは、銀之助は大 乗り気であるが、丑松はそれほど心を動かされたわけで つ れ な はないということである。たしかに、﹁無情い運命も、 す こ 今は丑松の方へ向いて、微し笑って見せるように成った。 : : :E
米利加の﹁テキサス﹂で農業に従事しようという 新しい計画は、意外にも市村弁護士の口を通して、丑松 ささや の耳ーに希望を眠いた﹂︵三三七頁︶とあり、テキサス行 きが丑松の前途に光明をもたらしたかのようにも書いて あるし、銀之助は﹁見給え||捨てる神あれば、助ける 神ありさ﹂とすすめるのだが、当人にとっては、この話 ’ レ 一 お が﹁枯れ萎れた丑松の心を励して、様子によっては頼ん で見ょう、働いて見ょうという気を起させた﹂に過ぎな い の で あ る ︵ 三 三 八 頁 ︶ 0 そもそもこのテキサス行きの話は、まだ計画以前の詰 漠としたものである。﹃日本文学鑑賞辞典﹄には、﹁大日 向の経営するテキサスの農場に新しい天地をもとめてわ たっていく﹂などと書いてある向、﹁大日向の経営する テキサスの農場﹂など存在しない。素直に読めば当たり 前 な の だ が 、 こ の 計 画 は 、 一ヶ月前の放逐事件の時には 入院するほどの病人であった大日向が、事件をきっかけ に発奮し、丑松が東京に出発するつい二、三週間前に病 み上がりで思いついた計画に過ぎないのである。アメリ カまでの往復に船で何週間もかかる当時にあっては、 I t、
うまでもないことだが大日向はまだ一度もテキサスへ行 つ て は い な い 。 告 白 の 翌 々 日 の 一 一 一 月 三 日 刊 丑 松 た ち の 一 行 が 東 京 へ 出発する支度をしているコ扇屋﹂へ大日向が市村弁護士 に会いにやってきた。大日向がそそくさと市村弁護士と の用件をすませて行ってしまおうとしたので、市村はこ こではじめて大日向に丑松のことを話す。近いうちに東 京に行くから丑松にはその時に会おうという大日向を市村がなんとか引きとめて、見送りの人たちの待ち合わせ る 休 茶 屋 で 丑 松 を 紹 介 す る 。 つまり、丑松が大日向に出 会うのは、東京に出発するほんの二、三時間前のことな のである。そして、大日向にたいする丑松の第一印象は ﹁見たところ余り価値の無さそうな
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|丁度田舎の漢方 医者とでも言ったような、平凡な容貌で、これが亜米利 加 の ﹁テキサス﹄あたり引渡って新事業を起そうとする 人 物 と は 、 いかにしても受取れなかった﹂という芳しく な い も の で あ っ た 。 つまり、出発のぎりぎりまで、丑松 がテキサスへ行くようなそぶりはないのである。ただ話 すうちに﹁この人の堅実な、、引締った、どうやら底の知 かんづ れないところもある性質を感得くように成った﹂︵三四 三 頁 ︶ のである。この時の大日向と丑松の会話の場面は、 こ う で あ る 。 大日向は﹁テキサス﹂にあるという日本村のことを 丑松に語り間せた。北佐久の地方から出て遠くその 日本村へ渡った人々のことを語り聞せた。 一 人 、 相 応の資産ある家に生れて、東京麻布の中学を卒業し た青年も、矢張その渡航者の群に交ったことなぞを 語 り 聞 せ た 。 ﹁へえ、そうでしたか﹂と大日向は鷹匠町の宿のこ とを言出して笑った。﹁貴方も彼処の家に泊ってお に え ゆ いででしたか。いや、あの時は酷い熱湯を浴せかけ られましたよ。実は、私も、ああいう目に逢わせら GULF ﹄ れたもんですから、それが深因で今度の事業を思立 ったような訳なんです。今でこそこうして笑って御 話するようなものの、どうしてあの時は||全く、 も 残 念 に 思 い ま し た か ら な あ ﹂ ︵ 三 四 三 頁 ︶ 。 大日向は、丑松にあれこれとテキサスの話を聞かせる が、これはあくまで伝聞をつたえているに過ぎない。大 日向にとって、まだ見ぬテキサスでの事業は海のものと も山のものともつかない段階の話であった。丑松が何も 反応しないうちに、大日向は﹁へえ、そうでしたか﹂と、 例の放逐事件に話を移してしまって、 テキサスの話は立 こぺる ち消えである。これ以後、丑松が東京に出発する物語の 最後までテキサスのテの字も出てこないのである。 7それどころか、別れの杯を交わしながら、丑松は銀之 助に﹁いずれ復た東京で逢おう﹂と熱心にいうのである。 この場面は、東京経由でテキサスにさっさと行ってしま う人間の会話とは受け取りにくい。テキサスに行くのな ら、﹁世話になったな、もう会うこともないだろう﹂と でも言、つしかあるまい。さらに丑松は銀之助に﹁﹃憐悔 録﹂はいずれ東京へ着いた上、新本を求めて、お志保の ところへ送り届けることにしよう﹂︵三四四頁︶と約束 し て い i るのだが、これも心に期するところがあるからこ そのセリフであり、テキサスに﹁逃亡﹂するなら、冒頭 に﹁我は械多なり﹂などと書いてある本を、恋人に送る 必要もないだろう。最後のシ l ンを素直に読めば、丑松 はテキサスへ行くのではなく、単に猪子蓮太郎の遺骨を 抱いた未亡人に付き添って、東京に向けて出発するにす ぎ な い 。 藤村は、丑松の未来については何も語っていない。蓮 太郎の死をきっかけに自分を偽る生き方を捨てた丑松。 それによって、・﹁隠す﹂という人生に別れを告げ、械多 である自分を真正面から引き受けることにした丑松。ニ こまで、説得力にとむ筆使いで丑松の慎悩する心を描い てきた藤村であったが、穣多であることを公言した丑松 がどうなるのかは書いていない。水平社運動が姿を現わ す一六年以前、丑松が小学校にとどまることはむずかし かったに違いない。だから、ともかく学校を去り、さし あたり猪子未亡人を送って東京に行くのである。 私 が 思 う に は 、 藤村は丑松の将来を読者に問いかけた のではなかろうか。自分に正直に生きようとする部落民 はどうすればいいのかと。丑松の生徒への告白を差別杜 会への屈服と誤解した人が、﹃破戒﹄の中に部落民のあ るべき姿を無理に探し出そうとして探し出せず、その苛 立ちを藤村と丑松に責任転嫁しているのが﹁テキサス行 き ﹂ の 神 話 な の で あ 旬 。 大日向が再登場する意味 では、丑松がテキサスに行かなかったとすると、大日 向が﹃破戒﹄の最後にふたたび登場する意味はなんだろ h っか。従来、大日向が放逐される事件は伏線であり、大
日向の真の仕事は、丑松をテキサスに導くことにあると 解釈され、その筋立てが唐突で、必然性に欠けるといわ れてきている。確かに、大日向の放逐事件が伏線で、テ キサスへの誘導が本命ならば、とってつけたような筋書 きと言われでもしかたのない面はあるが、それは丑松の 告白を卑屈で敗北とマイナスに評価した結果、テキサス への﹁逃亡﹂という思いこみが生まれ、そこから派生し た大日向の救世主役という誤解なのである。 し z 破
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主 定 と 的 し で て あ で る は 。 な し く か 父親の戒めを軽く考えていた丑松に、部落差別の厳しい 現実をたたきつけるための、強烈なはじめの一撃として。 その限りにおいて、大日向の役割は、病院・下宿からの 非道な追放で果たされていたわけである。しかし、もし 大日向が追放されたままで、二度と姿を現わさないよう な筋書きだと、﹃破戒﹂はかなり暗い影を引きずること になる。読者の側からすれば﹁あの大日向はその後どう なったんだろう。入院先の病院からタ聞に紛れて龍に乗 せられ脱出し、さらに下宿からも追われて、なんと気の 毒な﹂と。放逐されて、消息のわからなくなった械多の お大尽。それでは余りに希望がないではないか。そこで、 照 で あ る 。 の 書 か れ た 当 時 の 状 況 を 考 え る と 丑 松 は 9 藤村は再ぴ読者に大日向の元気な姿を見せたかったのだ。2
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また勝野文平との論争で、丑松は猪子の生涯をさして あ こ あ う しミ Uミ
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の社会だ。その社会の為に涙を流して、満腔の熱情を注 いだ著述をしたり、演説をしたりして、筆は折れ舌は慨 おおたわけ れるまでも思い焦れτ
いるなんて||こんな大白痴が世 の中に有ろうか﹂︵二七七頁︶。自分を差別している社会 のために涙を流す。水平社宣言もまた然り。自分たちを 差別する社会に一﹂一吉の恨みもいわず、ただ﹁人の世に熱 あれ、人間に光あれ﹂と祈るのである。水平杜もまた、 猪子同様の大白痴でなくでなんであろうか。 そういえば蓮太郎はこんなことをいっていた。﹁まあ、 後日新平民のなかに面白い人物でも生れて来て、ああ猪 子という男はこんなものを書いたかと、見てくれるよう な時が有ったら、それでもう僕なぞは満足するんだねえ。 むむ、その踏台さ||それが僕の生涯でもあり、又希望 で も あ る の だ か ら 。 ﹂ ︵ 一 三 六 頁 ︶ 。 tョ 日−
Eコ 全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。 長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀聞に種々な る方法と、多くの人々とによってなされた吾等の為めの 運動が、何等の有難い効果を膏らさなかった事実は、夫 等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人 聞を冒漬されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人 聞を勅るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落さ せた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事に よって自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、宙 T ろ 必 然 で あ る 。 兄弟ょ、五日々の祖先は自由、平等の渇仰者であ h ソ 、 実 行者であった。阻劣なる階級政策の犠牲者であり男らし き産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬とし て、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂 く代価として、暖い人間の心臓を引裂かれ、そこへ下ら こべる ない瑚笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のう ちにも、なほ誇り得る人間の血は、澗れずにあった。そ 11うだ、そして吾々は、この血を享けて人聞が神にかわら うとする時代にあうたのだ。犠牲者がその熔印を投げ返 す時が来たのだ。殉教者が、その刑冠を祝福される時が 来 た の だ 。 吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯情なる行為によっ て、祖先を辱しめ、人聞を冒漬しではならぬ。そうして 人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人聞を勅る事が 何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と 光を願求礼賛するものである。 水平社は、かくして生れた。 人の世に熱あれ、人間に光あれ。 大正十一年三月三日 全国水平社 ︻注︼ ③ 大 江 磯 土 口 に つ い て は 、 小 林 郊 人 ﹁ ﹃ 破 戒 ﹄ の モ デ ル | | 猪 子 蓮 太 郎 こ と 大 江 磯 吉 ﹂ ︵ ﹁ 信 州 及 信 州 人 ﹄ 一 九 四 七 年 ︶ 以 来 の 研 究 が あ る が 、 最 近 の ま と め と し て は 東 栄 蔵 ﹁ ﹃ 破 戒 ﹄ と 部 落 解 放 ﹂ ﹃ 国 文 学 ﹂ 一 九 八 九 年 三 月 臨 時 増 刊 号 、 学 燈 社 ︶ を 参 照 の こ と 。 ま た 、 大 江 磯 士 口 が 最 後 に つ と め た 兵 庫 県 立 柏 、 原 高 等 学 校 の 荒 木 謙 教 諭 に よ る 決 定 版 と も い え る 労 作 ﹃ 大 江 磁 吉 の 生 涯 ﹄ ︵ 自 費 出 版 、 一 九 九 六 年 ︶ が あ る 。 本 稿 の 記 述 は 大 部 分 こ れ に 拠 っ て お り 、 こ こ に 記 し て 謝 意 を あ ら わ す 。 な お 、 大 江 は 、 二 五 歳 の 時 に ﹁ 磯 土 口 ﹂ か ら ﹁ 議 吉 ﹂ に 改 名 し て い る が 、 本 稿 で は 通 例 呼 ぴ 慣 わ さ れ て い る ﹁ 磯 土 口 ﹂ に 統 一 し た 。 ⑨ 、 注 @ の 荒 木 著 、 七 二 頁 参 照 。 ⑬吉田精一編﹃日本文学鑑賞辞典﹄東京堂出版、一九六 O 年 刊 、 五 四 五 頁 。 ⑪私は、﹃アンクルトムの小屋﹂の主人公である奴隷のトム に も 丑 松 と 同 様 の 運 命 を 見 て し ま う 。 ア メ リ カ に お け る 奴 隷 廃 止 の 世 論 を 喚 起 し た ト ム も 今 や 黒 人 解 放 運 動 の 中 で は 白 人 に 従 順 な 軟 弱 黒 人 の 代 名 詞 に さ れ て い る の だ が 、 物 語 を 素 直 に 読 め ば 、 本 稿 に お け る 丑 松 と 同 様 に 、 凍 と し て 生 き た 誠 実 な 生 涯 を そ こ に 見 る の で あ る 。 ⑫注⑦を参照のこと。
時評⑫
正義なるものの
相対性について
三 重 県 立 図 書 館 の 焚 書 事 件 か ら 考 え る 山城弘敬︵児童厚生員︶ 本年四月に明らかになった、三重県立図書館の焚書事 件は、基本的に解決した。閉架にされた本は、開架に戻 さ れ た と い う 。 何ともお粗末な事件は、それに似つかわしい常識的な 決着をしたということだろうか。いや、そのような榔撤 はすべきでない。なぜなら、この解決に真に尽力したの は、私たちのように外から騒ぎ立でた存在でなく、内部 の人目に付かぬところで苦悩し、苦闘した人々によるも の だ か ら 。 今回の焚書事件とその解決への取り組みは、様々な 人々に、それぞれの大きな課題を明らかにした。ここで は部落問題にかかわるものとしての私の課題について考 え て み た い 。 f 細かな事実関係の問題でなく、今回の事件についての 責任の少なからぬ部分は、部落解放運動にある。それは 外在的な存在としての﹁解放運動﹂ではなく、私自身が 参加してきた運動であると同時に、私自身の言動や思想 に も あ る と 思 っ て い る 。 この断定の理由は、﹁図書館の自由﹂の中にある。私 にとっての﹁図書館の自由﹂とは、﹁異なる正義の体系 を並列する正義﹂だ。﹁社会的に議論が分かれることに ついては、その両論を提起すべき﹂という﹁図書館の自 由﹂は、正義の問題についてきわめで重要な提起を含ん でいる。すなわち、普遍的で、絶対的な正義の存在を否 定 し て い る の だ 。 もちろんこれは、正義という価値の体系に限ったこと でなく、例えば学説のように認識や理解の正しさをめぐ る問題も含めているのだが、ここでは正義の問題に絞ろ 、 ﹁ ノ 。 これに対し部落解放運動は、絶対的正義の存在を信じ てきたのではないか。少なくとも私はそうであった。政 治的、あるいは思想的に異なる主張の人々の存在につい て、基本的に思いを馳せることはなかった。何らかの理 こぺる 13由で行動をともにすることはあっても、複数の正義を並 立させるという考えなど毛頭なかった。それは政治技術 的な妥協の産物であり、あるいは共通の正義の実現でし か な か っ た の だ 。 昔話からマンガの世界まで、勧善懲悪に貫かれた物語 に浸って自己形成してきた私たちの世代特有の世界観で もあるまい。どこかに確固として存在する正義。必ず報 われる正義なるものへの幻想が、私たちの運動の理念の 根底に存在しているのではないだろうか。 少なくとも部落解放運動は、差別の前に正義として存 在してきたし、それが時としてその対象物としての悪の 範囲を驚くほど広げても来た。誤った思想、誤った認識 は、差別を拡大助長するものとして、断固として排撃し て き た 。 その延長上に、今回の事件があったとしても、まった く不思議ではない。ここで先ほどの、﹁異なる正義乞並 立﹂させる意味を考えてみよう。なおわかりやすくする ため、具体性を持たせた話にする。 最近では宗教者が、部落解放運動に多く参加するよう になった。それらの人々を除くなら、そもそも宗教者と いうのは、人間の悩みについて、その原因を問わず、悩 める人の心の内面からそれを癒すことを本分にしていた ように思う。すなわち悩みや苦しみが、天意であるか、 入為であるかを問いはしなかった。 死の淵にあり、その恐怖から逃れようとする人に対し て、どう接したのか。その死に至らんとする理由を、宗 教者が問うなどという話を、聞いたことがない。宗教者 とは、人々の苦悩をその内面から救うことを目指してい た 。 これが部落問題と絡むとどうなるか。少なくとも私が 目指してきた部落解放運動からすれば、敵でしかない。 差別によって傷つき、苦
L
む人々を、その内面 H 心の持 ちようによって救おうとするのであれば、まったく違う 方向である。差別する人や社会を変革しようという運動 にとって、阻害物としか見ることができない。 ここで﹁二つの正義を並立させること﹂を、試みてみ よう。差別に傷ついた人々の心を癒すことと、差別する 人や社会を変革することとは、決して対立しないのでは ないか。むしろ有効に結合する可能性すらある。 もちろん現実的な問題としては、解放運動が人や社会を変える内実を持っているかという疑問と、現在の宗教 がどれほど人の心を癒すのかという不安があるが、それ を問える関係を作ることが望まれる。 ことは宗教者との関係だけではない。これまで部落解 放運動が否定してきた様々な主張を、同じ土俵に上げる ことの有益さも見えてくるのではないか。 ここまで来ると、県立図書館の焚害事件のもう一つの 責任が明らかになる。﹁図書館の自由﹂の理念は、社会 教育全般に結びつくものである。すなわち、﹁何が正し いか、行政が押しつけるのではなく、市民が判断する。 その材料を提供するのが社会教育であり図書館である﹂ と い う 理 念 で あ る 。 図書館問題では決着済みであるが、社会教育では依然 としてこの原則は踏みにじられている。同和啓発が社会 教育の名のもとに大々的に進められ、行政の市民に対す る一方的な説教が繰り返されている。もちろんこれは、 部落解放運動が作り上げた姿だ。 ﹁部落差別はまだあるのか﹂﹁本当にそんな深刻な問題 か﹂﹁なぜ差別はいけないのか﹂﹁何が差別か﹂などとい う、市民の声は押さえつけられ、あるいは袋叩きにする ことを、当然のこととしてきた。 しかし部落解放運動が展望を失い、活力も失っている 現実を考えあわせるなら、これはまったく不当なことで。 ある。むしろ積極的に、このような声を上げてもらい、 正面から議論をし続けることが求められているだろう。 これらを全てひっくるめて、部落解放運動として存在さ せることができないだろうか。夢想にすぎないかも知れ ないが、私は真剣にそれを実現しようと考えている。 三重県立図書館の事件は、行政無限責任論の仮面をか ぶった行政無限権力論とそれが行きつく危険な姿をあら わした事件であった。だがそれを批判するだけでは、本 質的には解決しない。個別問題としてであれ、事件を解 決することができた図書館関係者の英知を、部落解放運 動がどれほど学ぶことができるのか。そこが問われてい る だ ろ 、 っ 。 さらに議論と思索を深めていきたい。 こべる 15
部落の歴史はいま?
| | 1﹃
京
都
の
部
落
史
﹄
を
読
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会
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の
ご
案
内
﹃ 京 都 の 部 落 史 ﹂ 全 一 O 巻のうち最後まで残っていた第一巻 を刊行してから半年が経ちました。ご好評をいただき、売行き もよくセットも残り少なくなりました。厚く御礼射し上げます。 京都部落史研究所では、読者からのご要望もあり、たんにお 買い求め願うだけでなく、勉強し合うことをめざして、この秋 から﹁﹃京都の部落史﹂を読む会﹂を聞くことを計画しました。 さしあたっては、通史篇である第一巻、一第二巻を中心にすすめ たいと考えています。 ﹃京都の部落史﹄は、これまで部落史の研究や学習、あるい は部落問題を考えるうえで常識とされてきた部落の近世政治起 源説を否定し、新たな立場から編さんされています。これによ って今まで知られなかった多くの史実を紹介することができ、 賎祝された人ぴとが屈辱と貧困のなかに生活を送っただけでな いことを明らかにしました。 部落史が大きく転換したといっても過言ではありません。 光か聞か。さだかではありませんが、二十一世紀にむけて時 代は大きく変わりつつあります。ベルリンの壁が崩され、ソビ エトが消失じました。現状や未来についての考えもいままで通 りでは通用しなくなりました。常識が通らなくなったのです。 ﹃京都の部落史﹄を部落史の常識を否定して、新しい部落史と して書き上げたのも、まことにささやかでおこがましいですが、 それなりにこの点をとらえたからです。 部落史や部落問題、いや限りなく不透明なこの時代に向き合 っておられる多くの方がたの参 J加をこころから期待しています。 京都部落史研究所 実施要綱 日程・内容 第一回 九 月 一 一 一 一 日 ︵ 金 ︶ 一 O 月 一 一 日 ︵ 金 ︶ 二月八日︵金︶ 一 一 一 月 二 二 日 ︵ 金 ︶ 近代 現代・まとめ 一 九 九 六 年 はじめに・原始古代 第二回 中 世 第三回 近 世 第四回 第五回 一 九 九 七 年 一 月 一 一 一 日 ︵ 金 ︶ 時 間 午後六時 l 九時 師同佑行︵京都部落史研究所所長︶ 各 国 二 五 OO 円 ︵ 資 料 代 込 ︶ 京都部落解放センター︵京都市北区小山下総町五|一︶ 講 師 参加費 場 所 ※ 参加等の問い合わせば左記までお願いいたします。 京都部落史研究所︵ EO 七五|四一五|一 O 一 一 一 一 一 ︶鴨水記 マ第出回﹃こぺる﹂合評会︵6 −