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こぺる No.041(1996)

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?5日(毎月 1回25日発行)ISSN凹19-4剖3

8

1996

こべる刊行会

NO.

41

瀬川丑松、テキサスへ行かず(下) 一 一 『破戒

J

のキーワード「隠す」と 「ヲ|き受ける」について一一 灘本昌久 時評⑫ 正義なるものの相対性について 一 一三重県立図書館の焚書事件から考える

城弘敬

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12年前、わずか50人で始めたささやかな集まり。出発点は、部落差別 にかかわって、身のうち・そとに漂う冴えない雰囲気を見つめ、人間 と差別について考えたいということでした。これまで「自分以外の何 者をも代表しない。結論や方針を求めない。多数をめざさない」を唯 一の了解事項として、自由閥達な議論をしてきました。 吹けば飛ぶような小集会ですが、自分の言葉で考え表現する人との出 会いの場になるはず。使いなれた言葉を聞い直し、新たな関係をつく りだすきっかけになればうれしい。みなさんの参加を心からお待ちし ております。 講 演/大賀正行(大阪府同和事業促進協議会会長) 「部落解放運動第三期論の今目的意味」 *コメンテ}ター:藤岡敬一 日 程/ 8月24日出 14時 開 会 ・ 講 演 16時 分 散 会 21時 懇 親 会 8月25日(日) 9時 分 散 会 11時 全 体 会 12時 解 散 *第l分科会:社会啓発の課題(話題提供吉田智弥) 第 2分科会:解放教育の終定(向上住田一郎) 第3分科会:運動/行政/市民(同上鈴木マサホ)

人間と差別をめぐって

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ー,ーーー

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回 部 落 問 題 全 国 交 流 会

日 時/ 8月24日出午後 2時∼2沼田(日)正午 場 所/本願寺門徒会館(西本願寺の北側) 京都市下京区花屋町通り堀川西入ル柿本町 Tel 075-361-4436 交 通/JR京都駅より市バス9・28・75系統 西本願寺前下車 費 用/ A 8,000円(夕食・宿泊・朝食・参加費込み) B 4,000円(夕食・参加費込み) 申込み/何件社 602京都市上京区寺町通今出川上ル四丁目鶴山町14 Tel (075) 256-1364 FAX (075) 211-4870 葉書か封書に住所・氏名(フリガナ付) ・電話・参加の形 (上記A・Bのいずれか)を書いて、申し込んで下さい。 締 切 り /8月9日(剣 五条通

会館 1 通堀II 西 本 願 寺 七条過 ーーーーーーーーーー

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-・各地で発行されたビラ・パン フなどを多数ご持参ください。 また第1日目の夜には恒例の 懇親会を予定しています。各 地の名産・特産の持ち込み大 歓迎ですので、よろしく。

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1 1 1 ﹃破戒﹄のキーワード﹁隠す﹂と﹁引き受ける﹂について|| 灘本昌久︵京都産業大学︶ 大江磯吉の生涯 この告白シ l ンに関連して、﹃破戒﹂のモデルである 大江磯吉について触れておかなくてはならないだろ旬。 大江磯吉は一八六八年︵明治一︶に長野県下伊那郡伊賀 村に械多の子どもとして生まれた。飯田小学校卒業時に は成績優秀で表彰され、わずか一四歳にして同小学校の 代用教員として採用されたが、その出身ゆえに排斥を受 け一年で放逐された。磯士口は、それにくじけず、飯田 中 学 校 に 入 学 し 、 一

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キ ロ の 道 の り を 草 履 に 脚 粋 掛 け 、 粗 末 な 弁 当 を さ げ て 通 学 し 、 一八八五年︵明治一八︶見 事首席で卒業する。さらに難関を突破して長野県立尋常 師範学校に入学し、成績優秀につき寄宿費などを官費支 給 さ れ る 給 付 生 と な っ た 。 彼 は 、 一 八 八 六 年 卒 業 に あ た り模範授業披露の栄誉が与えられている。磯吉は、九月 の新学期より諏訪郡平野小学校に赴任するが、たちまち 部落民の素性が露見し、同僚や地域社会の排斥によりわ ずか七日間で追放される。そして長野師範学校にかくま われるように引き取られた。しかし、 一 八 八 八 年 に 東 京 高 等 師 範 学 校 に 入 学 。 一八九一年に首席で卒業するや母 校長野師範学校教諭に迎えられる。職多として追放され た大江が、どこに赴任するかは信州教育界の注目すると ころであったが、彼を陰になり日なたになりしてかばっ こべる てきた長野師範校長浅岡一が文部省に直談判して迎え、 1

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最重要科目﹁教育学﹂﹁心理学﹂を担当させたのである。 しかし、世間の風当たりはやはり強く、この度は、浅岡 をけむたがる県有力者たちの反感も増幅させて、政争に も発展しそうであった。磯吉は長野師範を去って一人九 育 三 学 年

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の こ 前 で 後 も 旧 教 士族の娘つまに自分の素性を打ち明けた上で結婚してい る。大阪時代の彼は教育者としての力量を遺憾なく発揮 して、自らの翻訳書を授業に取り入れるなど、意気盛ん であった。しかし、ここでも彼の素性はあばかれた。用 事で学校に立ち寄った母親の風采・言葉づかいに違和感 をいだいた生徒がわざわざ信州にまで身元調査にでかけ て、彼の身分を確かめるや、排斥の火の手をあげたので ある。磯古は、自ら志願して今度は鳥取県立尋常師範学 校に転出した。彼を呼び寄せたのは、鳥取県教育界最高 位にあった師範学校長小早川潔である。彼は長野師範の 先輩で、浅岡とも旧知の間柄である。磯吉はこのたびは 心に期するところがあったのであろう、教職員・生徒の 前で自分の生まれを明かし、堂々と着任したとされてい る。ここでは六年間勤め、後れをとる鳥取県の教育を近 代化するのに多大の貢献をしたが、校長と学校経営をめ ぐって衝突し、四名の仲間の教員とともに休職を命じら れた。それでも磯吉は教育の場を去らなかった。 九 千

一年今度は兵庫県立柏原中学校︵現柏原高校︶二代め校 長として赴任し、﹁理想の学校﹂をめざして数々の改草に 取り組む。しかし、志なかばにして病にたおれ、 一 九

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二年︵明治三五︶九月五日、二一四歳の若さで亡くなった。 大江磯吉の経歴は以上のようなものであるが、彼が ﹃破戒﹂において、長野師範を追われた猪子蓮太郎や穣 多であることを告白する丑松のモデルになっていること は、すでに通説となっている。藤村は、大江磯吉の話を 聞いて義憤にかられ、彼のことを詳しく取材して﹃破 戒﹄を書いているのだが、磯士ロのことを詳しく聞いた藤 村が、丑松に屈辱的で卑屈な告白をさせる必要があるの だろうか。追われでも追われでも、 ついに教師という職 を守り通した磯吉。堂々の部落民宣言をして赴任した磯 吉。丑松の告白シ l ンを卑屈にしかとれなかったならば、 その丑松像はあまりに大江磯吉とがけはなれたものと言

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わ ざ る を 得 な い の で あ る 。 む ろ ん 、 モデルと作品の登場 人物はおのずと別物ではあるが、丑松は素性を告白する 前日﹁いよいよ明日は、学校へ行って告白けよう。教員 す 仲間にも、生徒にも、・話そう。そうだ、それを為るにし ても、後々までの笑草なぞには成らないように。なるべ く他に迷惑を掛けないように﹂︵三

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五頁︶と決心して いる。これなど、大阪の師範学校を去るときの、磯吉の 身の処しようとそっくりなのであ旬。 師範学校生の参観 ところで、丑松が生徒たちに告白するその日、小学校 には長野師範学校の生徒がこ

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人ほど参観のため朝から うろうろしていた。丑松追い落としの作戦をねるために 集まっていた郡視学や町会議員が帰ってからも、師範校 の生徒は﹁猶残って午後の授業をも観たい﹂と残留して いた。そして、告白の騒ぎに巻き込まれ、騒然となった 教室を見て呆然としているのである。どうして藤村はわ ざわざ丑松の告白の場面に師範学校の生徒たちを引きと めたのだろうか。長野師範学校といえば、蓮太郎がかっ て心理学を講じ、素性がばれて追放されたところである。 ﹁いよいよ蓮太郎が身の素性を自白して、多くの校友に 別離を告げて行く時、この講師の為に同情の涙を流すも のは一人もなかった。蓮太郎は師範校の門を出て、﹃学 聞の為の学問﹄を捨てた﹂のである︵一六頁︶。また、 先 に 述 べ た よ う に 、 モデルとなった大江磯吉も実際に追 放された、あの長野師範学校である。藤村はいいたかっ たのだろう。﹁君たちの先輩は磯吉︵ H 蓮太郎︶を石も て追うた。諸君はどうするのか。いやしくも教師は、生 徒の未来をあずかる職業である。丑松を見ょ。生きる意 味さえ見失うほどの屈辱と恐怖を味あわされても、なお 社会を恨むことなく、ただ教師としての自分の資格を白 ら問うているではないか。自分は、強く生きたか?真 つ正直に生きたかと。そして、職多であることを隠して きた自分の生き方をただ詫びているのだ。君たちは、追 放された丑松と同じ教壇に立つことに人として一点の恥 こベる じる事なきゃ﹂と。藤村が、丑松に卑屈な告白をさせた かったのなら、長野師範の生徒を立ち会わせることなど 3

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無用のはずである。このことからしでも、丑松が差別社 会に屈して憐悔しているなどという解釈はなりたたない の で あ る 。 告白の結果 ただ自分の非を詫びる丑松の姿に、まわり はどう反応したか。丑松の生徒たちは丑松の﹁私はその い や 卑賎しい積多の一人です﹂という告白にたいして嫌悪感 こ 、 つ し て 、 をしめすどころか﹁熱心な昨を注いだ﹂のである。そし て、﹁高等四年の生徒は教室に居残って、日頃慕ってい る 教 師 の 為 に 相 談 の 会 を 開 い た 。 未 だ 初 、 い で 、 複 雑 っ た 社会のことは一向解らないものばかりの集合ではあるが、 さすが正直なは少年の心、鋭い神経に丑松の心情を汲取 って、何とかして引止める工夫を

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た い と 考 え た の で あ − る 。 黙 っ て 視 て い る 時 で は 無 い 、 一 同 揃 っ て 校 長 の と こ ろへ歎願に行こう、とこう十六ばかりの級長が言出し た と え た﹂。そして、校長室に押しかけてこう言った。﹁仮令糠 多であろうと、そんなことは厭わん。現に生徒として新 平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があ ろう。これはもう生徒一同の心からの願いである﹂。現 実の大江磯吉が、生徒に裏切られるように追放されたこ とにたいし、藤村は﹁かくあれかし﹂との気持ちで生徒 たちに行動を起こさせたのであろう。また、丑松の前で たびたび差別的な会話をしたり、﹁あの瀬川君が新平民 だ な ん て 、 そ ん な こ と が 有 っ て 堪 る も の か ﹂ ︵ 二 六 八 頁 ︶ としかかばわなかった銀之助が、丑松の告白をまのあた りにして、﹁どうして世の中はこう思うように成らない ものなんでしょう。僕は瀬川君のことを考えると、実際 突きたいような気が起ります。まあ、考えて見て下さい。 唯あの男は素性が違うというだけでしょう。それで職業 も捨でなければならん、名誉も捨でなければならん|| これ程残酷な話が有ましょうか﹂︵三三

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頁 V と同情し ている。安物の同和啓発映画なら、いきなり過去の自分 を謝罪でもしかねないところであるが、ただただ変わら ぬ友情を淡々と描いているところが、かえって真実味を 感じるのである。また、丑松が密かに思いをよせるお志 保も、銀之助の問いかけに、丑松への思いが変わらない

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こん﹂を告げ、生涯を誓っている。このように、丑松は告 白により世の中全体を敵にまわすかのごとくであるが、 もっとも身近な人間関係において、より多くを得たので あ る 。 瀬川丑松テキサスへ行かず さて、ここでやっと本題に近づいてきた。丑松は、告 白のあとテキサスへ行ったのだろうか。こんな聞いは今 さら馬鹿げているように聞こえるだろう。たしかに、例 えば新潮文庫版﹃破戒﹄ のカバーには、﹁部落出身の教 員瀬川丑松は父親から身分を隠せと堅く戒められていた にもかかわらず、同じ宿命を持つ解放運動家、猪子蓮太 郎 の 壮 烈 な 死 に 心 を 動 か さ れ 、 ついに父の戒めを破って しまう。その結果偽善にみちた社会は丑松を追放し、彼 はテキサスをきして旅立つ﹂とテキサス行きを自明のこ ととして書いている。しかし、実は﹃破戒﹄の結末で、 丑松がテキサスに旅立つなどということは、まったく書 かれておらず、丑松が東京に出立するところで物語は終 わ つ で い る の で あ る 。 丑松告白の時からラストシ l ンまでの経過を追ってみ ょ う 。 丑 松 の 生 徒 へ の 素 性 の 告 白 が 、 一 一 一 月 一 日 の 午 後 一時過ぎ。土屋銀之助は丑松を学校から引き上げさせ、 お志保に事態の報告をし、市村弁護士が泊まっている ﹁扇屋﹂に行った。そこには、蓮太郎未亡人と丑松もい る。市村弁護士は銀之助を部屋の片隅に招いて、﹁あの 蓮 太 郎 の 遺 骨 を 護 っ て 、 一緒に東京へ行って貰いたいが どうだろう| ll 選挙を眼前にひかえさえしなければ、無 論自身で随いて行くべきでは有るが、それは未亡人が強 いて辞退する。せめてこの際選挙の方に尽力して夫の霊 魂を慰めてくれという。聞いて見れば未亡人の志も、 も っ と も 尤。いっそこれは丑松を煩したい||一切の費用は白 分 の 方 で 持 つ | | 是 非 ﹂ ︵ 一 二 三 六 頁 ︶ と 頼 ん だ 。 丑 松 は 、 市村弁護士の頼みで未亡人の付き添いをして東京に行く こ と に な っ た の で あ る 。 つまり丑松の東京行きは、﹁破 戒﹂の冒頭で下宿を放逐された大日向が再登場してテキ サスへ誘うこととは何ら関係なく決まっていたことを確 こぺる 認しておこう。大日向が再登場しなくても、丑松は東京 5

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に 行 く に は 行 っ た の で あ る 。 そして、焼き場から帰ったあと、火鉢を囲んで市村弁 護士、銀之助、丑松は話をする。この時、市村弁護士が、 約 一 ヶ 月 前 の 一

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月二六日に丑松の下宿から放逐された 大日向の話を銀之助と丑松に持ち出す。放逐事件がかえ って発奮のきっかけとなって、大日向はテキサスでの農 業経営を計画しており、市村は人材の紹介を依頼されて いるというのである。ここで重要なことは、銀之助は大 乗り気であるが、丑松はそれほど心を動かされたわけで つ れ な はないということである。たしかに、﹁無情い運命も、 す こ 今は丑松の方へ向いて、微し笑って見せるように成った。 : : :

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米利加の﹁テキサス﹂で農業に従事しようという 新しい計画は、意外にも市村弁護士の口を通して、丑松 ささや の耳ーに希望を眠いた﹂︵三三七頁︶とあり、テキサス行 きが丑松の前途に光明をもたらしたかのようにも書いて あるし、銀之助は﹁見給え||捨てる神あれば、助ける 神ありさ﹂とすすめるのだが、当人にとっては、この話 ’ レ 一 お が﹁枯れ萎れた丑松の心を励して、様子によっては頼ん で見ょう、働いて見ょうという気を起させた﹂に過ぎな い の で あ る ︵ 三 三 八 頁 ︶ 0 そもそもこのテキサス行きの話は、まだ計画以前の詰 漠としたものである。﹃日本文学鑑賞辞典﹄には、﹁大日 向の経営するテキサスの農場に新しい天地をもとめてわ たっていく﹂などと書いてある向、﹁大日向の経営する テキサスの農場﹂など存在しない。素直に読めば当たり 前 な の だ が 、 こ の 計 画 は 、 一ヶ月前の放逐事件の時には 入院するほどの病人であった大日向が、事件をきっかけ に発奮し、丑松が東京に出発するつい二、三週間前に病 み上がりで思いついた計画に過ぎないのである。アメリ カまでの往復に船で何週間もかかる当時にあっては、 I t

うまでもないことだが大日向はまだ一度もテキサスへ行 つ て は い な い 。 告 白 の 翌 々 日 の 一 一 一 月 三 日 刊 丑 松 た ち の 一 行 が 東 京 へ 出発する支度をしているコ扇屋﹂へ大日向が市村弁護士 に会いにやってきた。大日向がそそくさと市村弁護士と の用件をすませて行ってしまおうとしたので、市村はこ こではじめて大日向に丑松のことを話す。近いうちに東 京に行くから丑松にはその時に会おうという大日向を市

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村がなんとか引きとめて、見送りの人たちの待ち合わせ る 休 茶 屋 で 丑 松 を 紹 介 す る 。 つまり、丑松が大日向に出 会うのは、東京に出発するほんの二、三時間前のことな のである。そして、大日向にたいする丑松の第一印象は ﹁見たところ余り価値の無さそうな

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|丁度田舎の漢方 医者とでも言ったような、平凡な容貌で、これが亜米利 加 の ﹁テキサス﹄あたり引渡って新事業を起そうとする 人 物 と は 、 いかにしても受取れなかった﹂という芳しく な い も の で あ っ た 。 つまり、出発のぎりぎりまで、丑松 がテキサスへ行くようなそぶりはないのである。ただ話 すうちに﹁この人の堅実な、、引締った、どうやら底の知 かんづ れないところもある性質を感得くように成った﹂︵三四 三 頁 ︶ のである。この時の大日向と丑松の会話の場面は、 こ う で あ る 。 大日向は﹁テキサス﹂にあるという日本村のことを 丑松に語り間せた。北佐久の地方から出て遠くその 日本村へ渡った人々のことを語り聞せた。 一 人 、 相 応の資産ある家に生れて、東京麻布の中学を卒業し た青年も、矢張その渡航者の群に交ったことなぞを 語 り 聞 せ た 。 ﹁へえ、そうでしたか﹂と大日向は鷹匠町の宿のこ とを言出して笑った。﹁貴方も彼処の家に泊ってお に え ゆ いででしたか。いや、あの時は酷い熱湯を浴せかけ られましたよ。実は、私も、ああいう目に逢わせら GULF ﹄ れたもんですから、それが深因で今度の事業を思立 ったような訳なんです。今でこそこうして笑って御 話するようなものの、どうしてあの時は||全く、 も 残 念 に 思 い ま し た か ら な あ ﹂ ︵ 三 四 三 頁 ︶ 。 大日向は、丑松にあれこれとテキサスの話を聞かせる が、これはあくまで伝聞をつたえているに過ぎない。大 日向にとって、まだ見ぬテキサスでの事業は海のものと も山のものともつかない段階の話であった。丑松が何も 反応しないうちに、大日向は﹁へえ、そうでしたか﹂と、 例の放逐事件に話を移してしまって、 テキサスの話は立 こぺる ち消えである。これ以後、丑松が東京に出発する物語の 最後までテキサスのテの字も出てこないのである。 7

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それどころか、別れの杯を交わしながら、丑松は銀之 助に﹁いずれ復た東京で逢おう﹂と熱心にいうのである。 この場面は、東京経由でテキサスにさっさと行ってしま う人間の会話とは受け取りにくい。テキサスに行くのな ら、﹁世話になったな、もう会うこともないだろう﹂と でも言、つしかあるまい。さらに丑松は銀之助に﹁﹃憐悔 録﹂はいずれ東京へ着いた上、新本を求めて、お志保の ところへ送り届けることにしよう﹂︵三四四頁︶と約束 し て い i るのだが、これも心に期するところがあるからこ そのセリフであり、テキサスに﹁逃亡﹂するなら、冒頭 に﹁我は械多なり﹂などと書いてある本を、恋人に送る 必要もないだろう。最後のシ l ンを素直に読めば、丑松 はテキサスへ行くのではなく、単に猪子蓮太郎の遺骨を 抱いた未亡人に付き添って、東京に向けて出発するにす ぎ な い 。 藤村は、丑松の未来については何も語っていない。蓮 太郎の死をきっかけに自分を偽る生き方を捨てた丑松。 それによって、・﹁隠す﹂という人生に別れを告げ、械多 である自分を真正面から引き受けることにした丑松。ニ こまで、説得力にとむ筆使いで丑松の慎悩する心を描い てきた藤村であったが、穣多であることを公言した丑松 がどうなるのかは書いていない。水平社運動が姿を現わ す一六年以前、丑松が小学校にとどまることはむずかし かったに違いない。だから、ともかく学校を去り、さし あたり猪子未亡人を送って東京に行くのである。 私 が 思 う に は 、 藤村は丑松の将来を読者に問いかけた のではなかろうか。自分に正直に生きようとする部落民 はどうすればいいのかと。丑松の生徒への告白を差別杜 会への屈服と誤解した人が、﹃破戒﹄の中に部落民のあ るべき姿を無理に探し出そうとして探し出せず、その苛 立ちを藤村と丑松に責任転嫁しているのが﹁テキサス行 き ﹂ の 神 話 な の で あ 旬 。 大日向が再登場する意味 では、丑松がテキサスに行かなかったとすると、大日 向が﹃破戒﹄の最後にふたたび登場する意味はなんだろ h っか。従来、大日向が放逐される事件は伏線であり、大

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日向の真の仕事は、丑松をテキサスに導くことにあると 解釈され、その筋立てが唐突で、必然性に欠けるといわ れてきている。確かに、大日向の放逐事件が伏線で、テ キサスへの誘導が本命ならば、とってつけたような筋書 きと言われでもしかたのない面はあるが、それは丑松の 告白を卑屈で敗北とマイナスに評価した結果、テキサス への﹁逃亡﹂という思いこみが生まれ、そこから派生し た大日向の救世主役という誤解なのである。 し z 破

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主 定 と 的 し で て あ で る は 。 な し く か 父親の戒めを軽く考えていた丑松に、部落差別の厳しい 現実をたたきつけるための、強烈なはじめの一撃として。 その限りにおいて、大日向の役割は、病院・下宿からの 非道な追放で果たされていたわけである。しかし、もし 大日向が追放されたままで、二度と姿を現わさないよう な筋書きだと、﹃破戒﹂はかなり暗い影を引きずること になる。読者の側からすれば﹁あの大日向はその後どう なったんだろう。入院先の病院からタ聞に紛れて龍に乗 せられ脱出し、さらに下宿からも追われて、なんと気の 毒な﹂と。放逐されて、消息のわからなくなった械多の お大尽。それでは余りに希望がないではないか。そこで、 照 で あ る 。 の 書 か れ た 当 時 の 状 況 を 考 え る と 丑 松 は 9 藤村は再ぴ読者に大日向の元気な姿を見せたかったのだ。

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堂々たる部落民宣言をしたことで十分にその役割を果た している。あの生徒たちへの語りかけでどれだけ部落の 内外の人々の心を揺さぶったか計り知れないと思う。む しろ私は、丑松を敗残者のごとく否定する人に聞いたい。 ﹁あんたはそれほど立派な人なのか﹂と。丑松の境遇に 置かれて、なお彼以上に勇気を持。て誠実に生き抜ける という人がいるなら、是非お目にかかって教えを乞いた い も の で あ る 。 ただ、自己の素性を告白して械多であることを引き受 けんとした丑松が、そのまま小学校に留まるのは困難で あったに違いない。だから丑松がたとえテキサスに行つ てもそれを﹁逃亡だ、逃避だ﹂と非難することはできな ぃ。私は信州に留まることができなくなった丑松が、テ キサスに行こうが他の地で再出発しょうが、それを非難 す る 気 に は な れ な い 。 し か し 、 いままで緯々述べてきたように、物語を素直 に読む限りは、丑松がテキサスをめざしているような素 振りは、私にはまったく感じられなかった。百歩譲って、 丑松がテキサスへ行く可能性を物語が残していたとして も、丑松が東京に行ってからのことはまったく読者の想 像の産物であり、丑松が意図していることではないので あ る o −私にとって丑松のテキサス行きなどというのはま ったく想像外であり、むしろ現実の全国水平社創立のプ ロセスのあちこちに丑松と蓮太郎の姿を見てしまうので あ る 。 水 平 社 創 立 の 四 年 前 、 一九一八年の米騒動に部落民が 多く参加していたことに驚いた政府や世間は、部落に同 情をもって接するべきだと言い始めた。その同情の裏に 隠された優越感を見抜いた部落の青年は喝破した。﹁俺 ⑫ は械多だ。犠多でたくさんだ﹂と。こうして穣多である ことを引き受けるというスタンスが生まれた。これは、 ﹁死んだ先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて 行かれるような心地﹂がし、急に﹁新しい勇気を掴ん だ﹂ときの丑松の発言﹁一新平民 ll |先輩がそれだ|| 自分もまたそれで沢山だ﹂と瓜二つではないか。 また、水平社宣言の中の﹁我々がエタを誇り得る時が 来たのだ﹂は猪子の言葉﹁我は械多なり﹂をアレンジし で挿入したといえば、妄想に過ぎるだろうか。

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また勝野文平との論争で、丑松は猪子の生涯をさして あ こ あ う しミ Uミ

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の社会だ。その社会の為に涙を流して、満腔の熱情を注 いだ著述をしたり、演説をしたりして、筆は折れ舌は慨 おおたわけ れるまでも思い焦れ

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いるなんて||こんな大白痴が世 の中に有ろうか﹂︵二七七頁︶。自分を差別している社会 のために涙を流す。水平社宣言もまた然り。自分たちを 差別する社会に一﹂一吉の恨みもいわず、ただ﹁人の世に熱 あれ、人間に光あれ﹂と祈るのである。水平杜もまた、 猪子同様の大白痴でなくでなんであろうか。 そういえば蓮太郎はこんなことをいっていた。﹁まあ、 後日新平民のなかに面白い人物でも生れて来て、ああ猪 子という男はこんなものを書いたかと、見てくれるよう な時が有ったら、それでもう僕なぞは満足するんだねえ。 むむ、その踏台さ||それが僕の生涯でもあり、又希望 で も あ る の だ か ら 。 ﹂ ︵ 一 三 六 頁 ︶ 。 tョ 日

Eコ 全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。 長い間虐められて来た兄弟よ、過去半世紀聞に種々な る方法と、多くの人々とによってなされた吾等の為めの 運動が、何等の有難い効果を膏らさなかった事実は、夫 等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人 聞を冒漬されてゐた罰であったのだ。そしてこれ等の人 聞を勅るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落さ せた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事に よって自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、宙 T ろ 必 然 で あ る 。 兄弟ょ、五日々の祖先は自由、平等の渇仰者であ h ソ 、 実 行者であった。阻劣なる階級政策の犠牲者であり男らし き産業的殉教者であったのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬とし て、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂 く代価として、暖い人間の心臓を引裂かれ、そこへ下ら こべる ない瑚笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のう ちにも、なほ誇り得る人間の血は、澗れずにあった。そ 11

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うだ、そして吾々は、この血を享けて人聞が神にかわら うとする時代にあうたのだ。犠牲者がその熔印を投げ返 す時が来たのだ。殉教者が、その刑冠を祝福される時が 来 た の だ 。 吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ。 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯情なる行為によっ て、祖先を辱しめ、人聞を冒漬しではならぬ。そうして 人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人聞を勅る事が 何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と 光を願求礼賛するものである。 水平社は、かくして生れた。 人の世に熱あれ、人間に光あれ。 大正十一年三月三日 全国水平社 ︻注︼ ③ 大 江 磯 土 口 に つ い て は 、 小 林 郊 人 ﹁ ﹃ 破 戒 ﹄ の モ デ ル | | 猪 子 蓮 太 郎 こ と 大 江 磯 吉 ﹂ ︵ ﹁ 信 州 及 信 州 人 ﹄ 一 九 四 七 年 ︶ 以 来 の 研 究 が あ る が 、 最 近 の ま と め と し て は 東 栄 蔵 ﹁ ﹃ 破 戒 ﹄ と 部 落 解 放 ﹂ ﹃ 国 文 学 ﹂ 一 九 八 九 年 三 月 臨 時 増 刊 号 、 学 燈 社 ︶ を 参 照 の こ と 。 ま た 、 大 江 磯 士 口 が 最 後 に つ と め た 兵 庫 県 立 柏 、 原 高 等 学 校 の 荒 木 謙 教 諭 に よ る 決 定 版 と も い え る 労 作 ﹃ 大 江 磁 吉 の 生 涯 ﹄ ︵ 自 費 出 版 、 一 九 九 六 年 ︶ が あ る 。 本 稿 の 記 述 は 大 部 分 こ れ に 拠 っ て お り 、 こ こ に 記 し て 謝 意 を あ ら わ す 。 な お 、 大 江 は 、 二 五 歳 の 時 に ﹁ 磯 土 口 ﹂ か ら ﹁ 議 吉 ﹂ に 改 名 し て い る が 、 本 稿 で は 通 例 呼 ぴ 慣 わ さ れ て い る ﹁ 磯 土 口 ﹂ に 統 一 し た 。 ⑨ 、 注 @ の 荒 木 著 、 七 二 頁 参 照 。 ⑬吉田精一編﹃日本文学鑑賞辞典﹄東京堂出版、一九六 O 年 刊 、 五 四 五 頁 。 ⑪私は、﹃アンクルトムの小屋﹂の主人公である奴隷のトム に も 丑 松 と 同 様 の 運 命 を 見 て し ま う 。 ア メ リ カ に お け る 奴 隷 廃 止 の 世 論 を 喚 起 し た ト ム も 今 や 黒 人 解 放 運 動 の 中 で は 白 人 に 従 順 な 軟 弱 黒 人 の 代 名 詞 に さ れ て い る の だ が 、 物 語 を 素 直 に 読 め ば 、 本 稿 に お け る 丑 松 と 同 様 に 、 凍 と し て 生 き た 誠 実 な 生 涯 を そ こ に 見 る の で あ る 。 ⑫注⑦を参照のこと。

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時評⑫

正義なるものの

相対性について

三 重 県 立 図 書 館 の 焚 書 事 件 か ら 考 え る 山城弘敬︵児童厚生員︶ 本年四月に明らかになった、三重県立図書館の焚書事 件は、基本的に解決した。閉架にされた本は、開架に戻 さ れ た と い う 。 何ともお粗末な事件は、それに似つかわしい常識的な 決着をしたということだろうか。いや、そのような榔撤 はすべきでない。なぜなら、この解決に真に尽力したの は、私たちのように外から騒ぎ立でた存在でなく、内部 の人目に付かぬところで苦悩し、苦闘した人々によるも の だ か ら 。 今回の焚書事件とその解決への取り組みは、様々な 人々に、それぞれの大きな課題を明らかにした。ここで は部落問題にかかわるものとしての私の課題について考 え て み た い 。 f 細かな事実関係の問題でなく、今回の事件についての 責任の少なからぬ部分は、部落解放運動にある。それは 外在的な存在としての﹁解放運動﹂ではなく、私自身が 参加してきた運動であると同時に、私自身の言動や思想 に も あ る と 思 っ て い る 。 この断定の理由は、﹁図書館の自由﹂の中にある。私 にとっての﹁図書館の自由﹂とは、﹁異なる正義の体系 を並列する正義﹂だ。﹁社会的に議論が分かれることに ついては、その両論を提起すべき﹂という﹁図書館の自 由﹂は、正義の問題についてきわめで重要な提起を含ん でいる。すなわち、普遍的で、絶対的な正義の存在を否 定 し て い る の だ 。 もちろんこれは、正義という価値の体系に限ったこと でなく、例えば学説のように認識や理解の正しさをめぐ る問題も含めているのだが、ここでは正義の問題に絞ろ 、 ﹁ ノ 。 これに対し部落解放運動は、絶対的正義の存在を信じ てきたのではないか。少なくとも私はそうであった。政 治的、あるいは思想的に異なる主張の人々の存在につい て、基本的に思いを馳せることはなかった。何らかの理 こぺる 13

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由で行動をともにすることはあっても、複数の正義を並 立させるという考えなど毛頭なかった。それは政治技術 的な妥協の産物であり、あるいは共通の正義の実現でし か な か っ た の だ 。 昔話からマンガの世界まで、勧善懲悪に貫かれた物語 に浸って自己形成してきた私たちの世代特有の世界観で もあるまい。どこかに確固として存在する正義。必ず報 われる正義なるものへの幻想が、私たちの運動の理念の 根底に存在しているのではないだろうか。 少なくとも部落解放運動は、差別の前に正義として存 在してきたし、それが時としてその対象物としての悪の 範囲を驚くほど広げても来た。誤った思想、誤った認識 は、差別を拡大助長するものとして、断固として排撃し て き た 。 その延長上に、今回の事件があったとしても、まった く不思議ではない。ここで先ほどの、﹁異なる正義乞並 立﹂させる意味を考えてみよう。なおわかりやすくする ため、具体性を持たせた話にする。 最近では宗教者が、部落解放運動に多く参加するよう になった。それらの人々を除くなら、そもそも宗教者と いうのは、人間の悩みについて、その原因を問わず、悩 める人の心の内面からそれを癒すことを本分にしていた ように思う。すなわち悩みや苦しみが、天意であるか、 入為であるかを問いはしなかった。 死の淵にあり、その恐怖から逃れようとする人に対し て、どう接したのか。その死に至らんとする理由を、宗 教者が問うなどという話を、聞いたことがない。宗教者 とは、人々の苦悩をその内面から救うことを目指してい た 。 これが部落問題と絡むとどうなるか。少なくとも私が 目指してきた部落解放運動からすれば、敵でしかない。 差別によって傷つき、苦

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む人々を、その内面 H 心の持 ちようによって救おうとするのであれば、まったく違う 方向である。差別する人や社会を変革しようという運動 にとって、阻害物としか見ることができない。 ここで﹁二つの正義を並立させること﹂を、試みてみ よう。差別に傷ついた人々の心を癒すことと、差別する 人や社会を変革することとは、決して対立しないのでは ないか。むしろ有効に結合する可能性すらある。 もちろん現実的な問題としては、解放運動が人や社会

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を変える内実を持っているかという疑問と、現在の宗教 がどれほど人の心を癒すのかという不安があるが、それ を問える関係を作ることが望まれる。 ことは宗教者との関係だけではない。これまで部落解 放運動が否定してきた様々な主張を、同じ土俵に上げる ことの有益さも見えてくるのではないか。 ここまで来ると、県立図書館の焚害事件のもう一つの 責任が明らかになる。﹁図書館の自由﹂の理念は、社会 教育全般に結びつくものである。すなわち、﹁何が正し いか、行政が押しつけるのではなく、市民が判断する。 その材料を提供するのが社会教育であり図書館である﹂ と い う 理 念 で あ る 。 図書館問題では決着済みであるが、社会教育では依然 としてこの原則は踏みにじられている。同和啓発が社会 教育の名のもとに大々的に進められ、行政の市民に対す る一方的な説教が繰り返されている。もちろんこれは、 部落解放運動が作り上げた姿だ。 ﹁部落差別はまだあるのか﹂﹁本当にそんな深刻な問題 か﹂﹁なぜ差別はいけないのか﹂﹁何が差別か﹂などとい う、市民の声は押さえつけられ、あるいは袋叩きにする ことを、当然のこととしてきた。 しかし部落解放運動が展望を失い、活力も失っている 現実を考えあわせるなら、これはまったく不当なことで。 ある。むしろ積極的に、このような声を上げてもらい、 正面から議論をし続けることが求められているだろう。 これらを全てひっくるめて、部落解放運動として存在さ せることができないだろうか。夢想にすぎないかも知れ ないが、私は真剣にそれを実現しようと考えている。 三重県立図書館の事件は、行政無限責任論の仮面をか ぶった行政無限権力論とそれが行きつく危険な姿をあら わした事件であった。だがそれを批判するだけでは、本 質的には解決しない。個別問題としてであれ、事件を解 決することができた図書館関係者の英知を、部落解放運 動がどれほど学ぶことができるのか。そこが問われてい る だ ろ 、 っ 。 さらに議論と思索を深めていきたい。 こべる 15

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部落の歴史はいま?

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﹃ 京 都 の 部 落 史 ﹂ 全 一 O 巻のうち最後まで残っていた第一巻 を刊行してから半年が経ちました。ご好評をいただき、売行き もよくセットも残り少なくなりました。厚く御礼射し上げます。 京都部落史研究所では、読者からのご要望もあり、たんにお 買い求め願うだけでなく、勉強し合うことをめざして、この秋 から﹁﹃京都の部落史﹂を読む会﹂を聞くことを計画しました。 さしあたっては、通史篇である第一巻、一第二巻を中心にすすめ たいと考えています。 ﹃京都の部落史﹄は、これまで部落史の研究や学習、あるい は部落問題を考えるうえで常識とされてきた部落の近世政治起 源説を否定し、新たな立場から編さんされています。これによ って今まで知られなかった多くの史実を紹介することができ、 賎祝された人ぴとが屈辱と貧困のなかに生活を送っただけでな いことを明らかにしました。 部落史が大きく転換したといっても過言ではありません。 光か聞か。さだかではありませんが、二十一世紀にむけて時 代は大きく変わりつつあります。ベルリンの壁が崩され、ソビ エトが消失じました。現状や未来についての考えもいままで通 りでは通用しなくなりました。常識が通らなくなったのです。 ﹃京都の部落史﹄を部落史の常識を否定して、新しい部落史と して書き上げたのも、まことにささやかでおこがましいですが、 それなりにこの点をとらえたからです。 部落史や部落問題、いや限りなく不透明なこの時代に向き合 っておられる多くの方がたの参 J加をこころから期待しています。 京都部落史研究所 実施要綱 日程・内容 第一回 九 月 一 一 一 一 日 ︵ 金 ︶ 一 O 月 一 一 日 ︵ 金 ︶ 二月八日︵金︶ 一 一 一 月 二 二 日 ︵ 金 ︶ 近代 現代・まとめ 一 九 九 六 年 はじめに・原始古代 第二回 中 世 第三回 近 世 第四回 第五回 一 九 九 七 年 一 月 一 一 一 日 ︵ 金 ︶ 時 間 午後六時 l 九時 師同佑行︵京都部落史研究所所長︶ 各 国 二 五 OO 円 ︵ 資 料 代 込 ︶ 京都部落解放センター︵京都市北区小山下総町五|一︶ 講 師 参加費 場 所 ※ 参加等の問い合わせば左記までお願いいたします。 京都部落史研究所︵ EO 七五|四一五|一 O 一 一 一 一 一 ︶

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鴨水記 マ第出回﹃こぺる﹂合評会︵6 −

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︶ は前川修さんの﹁﹃オ l ル・ロマン ス伝説﹂と私﹂︵6月号︶をとりあ げました。オール・ロマンス事件と オ 1 ル ・ ロ マ ン ス 闘 争 は 、 一 吉 う ま で もなく戦後部落解放運動の画期をな したものですが、いま、その史実が あらためて問われています。教科書 や概説書に書かれ、啓発の場で語ら れている﹁事件と闘争﹂はほんとう に事実にもとづくものなのかどうか、 と。前川さんは、師岡佑行さん執筆 の﹃京都の部落史﹄第二巻近現代概 説の当該箇所や瀧本昌久さんの﹁不 利益 H 差別論の再検討﹂︵﹃部落の過 去・現在・そして:・﹄阿昨社刊所 収︶といったこれまでの研究成果を 踏まえ、小説﹁特殊部落﹂の舞台は 被差別部落そのものではなく、在日 朝鮮人の生活風景が描かれており、 部落解放委員会京都府連と京都市と の交渉についても事実に反する部分 があることを考証したうえで、通説 は﹁伝説﹂であると断定する。詳し くは、前川修﹁﹃オ l ル・ロマンス 事件﹂と﹃オ 1 ル・ロマンス行政闘 争﹄の史実を求めて﹂﹃部落解放史 ふ く お か ﹄ 恥 加 、 回 / ロ 参 照 。 合評会では、かりに書かれ語られ てきた﹁事件と闘争﹂像がフィクシ ョンにもとづくとして、それを現在 指摘することにどんな意味があるの か、事実に反する像が意図的作為的 に作られたとまで言いうるのかどう か、などの意見が出されました。前 川さんは﹁事件と闘争﹂がその後の 運動と行政に大きな影響を与えたこ とはまちがいないにしても、事実に 反する﹁事件と闘争﹂像の是正は不 可避であると返答しておられました が、意図的かどうかは別にしてフィ クションがいつのまにか史実として まぎれ込むのはよくある話で、 問 題 はフィクションがまぎれ込み、それ を肥大化させてしまう集団的な無意 識、心性でしょう。有名なわりには ほとんど読まれていない小説﹁特殊 部落﹂。なにはともあれ、それを読 まないことには。﹃京都の部落史﹄ 第九巻および前掲﹃部落解放史ふく おか﹄に収録されて、ずいぶん手に 入りやすくなっています。ぜひ自分 の日で確かめてください。 マ﹃京都の部落史﹄全一

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巻が完結 して半年余、好評をもって迎えられ ています。このほど本誌では網野善 彦さんを囲み、第一巻前近代概説を めぐって座談会をもちました。私も 素人ながら辞書を片手に通読し、大 胆にも司会を担当。秋には掲載でき る は ず で す 。 ︵ 藤 田 敬 こ お 知 ら せ ※ 七 月 、 八 月 の ﹁ こ ぺ る ﹄ 合 評 会 は お 休 み さ せ て い た だ き ま す 。 編集・発行者 こベる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区寺町通今出川上ル四丁目鶴山町14 阿昨社 Tel. 075-256-1364 Fax 075-211-4870 定価3(J円(税込)・年間4000円郵便振替 01010ー7-6141 第41号 1996年8月25日発行

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巻完結

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判・上製函入・各六

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定価各巻九一六七円︵税込︶

京都部落史研究所

− 編集委員 / 弁 上 清 ・ 上 田 正 昭 ・ 奈良本辰也 原 田 伴彦・渡部 徹 ・ 編集責任 / 秋 定 嘉 和 ・森谷魁久 ・ 師 岡 佑 行 − け か 村 ん / 梅 原 猛 ・ 林 屋 辰 三 郎 ・ 日 高 六 郎 ・ 水上勉 ・ 村井康彦

最新の調査と研究のうえに

しい部

像を

構築

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− 長い閥、政治の中心であった京都の地での、原始社 会における 人間の 営み、そして古代・中世社会における賎民像や近世賎民制の成立と解体、 近代社会における部落問題を歴史的に解明する初めての試み ・ 史 料 編 は 、 漢文はすべて読み下しを行い、内容の理解をたすける綱文を全史料に付 し て 、 一 般 読 者 に もわかる史料集をめざした . 八年間にわた っ て 京 都府 下全域を調査、しゅう集した新史料を収録 . 年表の項目はす べ て 原史料 に当たり、その出典を明示、今後の研究の基礎となること を期し た 。

#.' r l :・・京都市上京区寺町今幽川よル 4 丁目園山町川 町 刊 W 枠 制 仙 阻 O 七 五 ︷ ニ玉さ 一 三 六 回刷 ︵ ニ 二 ︸ 四 八 七 O 四 一 号 一 九 九 六 年 八 月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎 月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ 一 九 九 三 年 五 月 二 十七日第 三 種 郵 便 物 認 可 定価 三 百 円 ︵ 本 体 二 九 二 円 ︶ 賎 原 歯医 民 始 竺 制 社 ー の会 巻 成 で u今 立

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問 解活

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代 '

たのすっ な 腹 概 観民 制 点像 巴 で 解 近 明 世 第 二 巻 近 現 代 ︵ 概 説 ︶ 明治期より 金図 的中 心であ っ た、京都の 解放運動 の 歴 史 を は じめ て 解 明す る . 第 三 巻 史 料 古 代 中 世 3 天 正 九 年 三 五 八 二 第四巻 史 料 近 世

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天 正 一 O 年 ︵ 一 五 八 二 ︸3 享 和 三 年 ︵ 一 八 O 三 ︶ 第五巻 史 料 近 世

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文 化 元 年 ︵ 一 八 O 四 ︶ 3 慶 応 三 年 ︵ 一 八 六 七 ︸ 第六巻 史 料 近 代

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明 治 元 年 ︵ 一 八 六 八 ︸ 3 明 治 四 O 年 ︵ 一 九 O 七 ︶ 第 七 巻 史 料 近 代

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明 治 四 一 年 ︷ 一 九 O 八 ︸ S 大 正 一 O 年 三 九 二 一 ︸ 第 八 巻 史 料 近 代

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大 正 一 一 年 ︷ 一 九 二 二 ︶ 3 昭 和 二 O 年 ︵ 一 九 四 五 ︶ 第 九 巻 史 料 補 編 編年史料集にもれた重要史料により編成 ・ 第十巻 年 表 ・ 索 引 古代より現代までの本格的年表・ 史料編の利用に役立つ索引 .

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阿件社こぺる刊行会事務局

骨移転倒−お:;知::;協:骨骨

拝 啓

時下ますますご清栄のこととお喜び申し上げま

す。また平素は『こぺる』をご愛読いただきまして、

まことにありがとうございます。

さて、このたび弊社は、下記の通り移転することに

なりましたのでご案内申し上げます。

移転に伴いまして、こぺる刊行会事務局の電話番号

ならびに

F

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A

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番号も変わりますので、なにとぞよろ

しくお願い申し上げます。

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株 式 会 社 戸 可 ロ 牛 全 土

こぺる刊行会事務局

新 住 所

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京都市上京区衣棚遇上御霊前下ル

上 木 ノ 下 町

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締阿昨社気付

075-414-8951

X075-414-8952

業 務 開 始

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日(木)

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京都市上京区寺町通今出

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参照

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