――目次――
1,
米国宗教学の展望(下), 北川三夫, A View on the Science of Religion in America, J. Mitsuo
KITAGAWA, pp.1-18.
2,
八幡神と仏教との習合, 竹園賢了, The Syncretism of Hachiman-god and Buddhism, Kenryo
TAKEZONO, pp.19-47.
3,
道元の時間論とその意義, 高橋賢陳, Dogen’s Theory of Time and its Significance, Masanobu
TAKAHASHI, pp.48-63.
4,
宋廷の封賜から見た媽祖信仰の発達, 李献璋, The Development of “Ma-tsu” worship (媽祖信仰) of Sung
age in China, Hsien-Chang LI, pp.64-84.
5,
旧約聖書における漂泊の意義, 植田重雄, On the Meaning of the Wandering in the Old Testament,
Shigeo UEDA, pp.85-99.
米国宗教学の 展望 部 る の 、 -
白 ホ d @ y ブ 」 -
では
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(353)
くない。回教の大学に学んだキリスト教徒の
学生は、回教 た 。当然、彼 の結果は アク ・神学的に 纏 平にみようと の神学者に
らはそれ
イナスの めるという する学風は ある。中世の歴史 、最近の研究による イベリヤ半島が回教 絢燗 眼 な 奪 う がごとラヱル
の宗教を展開して行った。一つの宗教が
他の宗教と触れ合う場
細め
ギリシャで
は、
糾が避
げられなかっ
︵ 2
︶
いで、むしろ他の宗
努力が払われたので
的な﹁同情的理解しを
見出すことは出来ない。
(3 駅 ) 2米国宗教学の 展望
3 (3 品 ) う ﹁科学的態度﹂と
した学風は啓蒙時代
族の文化・宗教・ 習 ロック・ヒュームの 本質を探究しょう と もまた神から与え ろ ホ された宗教の真理と 0% 巴 宙良ゴ とコ鰻 9.
、宗教現象を歴史的
ことである。これを 盤 とする哲学と﹁ 科 はこのような﹁科学
宗教学の体系化
れる。しかし、 彼 れる学的要素がいろいろとあった。
り ろ 似 れ 同 で を の 3 5 つ ば 様 あ 目 ご こ
で か ち な 特 ま す 感 ぅ あ し に い 定 た る じ に る " " ヨ 打て 。 の 現 学 を 。 そ 数 票 宋 代 間 字 家 の
学教
教 社 で え 教資 ぶ し
理路
と 。 諸 料 こ ば佳宴
い 綿 種救 出 各 誌 の 。 い れ
学来宗
し で し え を 的 な 教 た あ た ば 受 に い の 研 っ が 、 継 取 。 研 究 て っ 宗 い否 に
学定
え で 、 い い る 的 の ら に 宗 3 6 か労宗
九宗教
こ 薫 ら件数
とも
易 教 学 と 味のか手のは
研がか分、
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やや " 究 " ら 野 そ い も 似 を こ 離 を れ て す て 更 の れ 越 が の れ 非 に ょ た え い 宗 は な 進 ぅ も る か 教 統 る め な の も に の 』な あ を げ 。 の 目 か
この著、 H 倖のの 目ど Ⅰ
九世紀後半、欧州 諸
ず 匹目妻 屈口 自などの
文化的・民俗的な グ
めには、少なくとも 右の五つの要素を考慮に入れる必要がある。 考えた。め空 二は、ド
宗教現象の研究に適用しょうとした。第二は
、
第 は イ エ /L, ノ マ / 正 @ ノ な ど v ブ し よ て 代 表 さ れ る派 で あ る 彼 ら ほ 不ヰ ㌍ 及 び 示教 体 験 の 桂 格 V ブ し 関 す る 学 的
米国宗教学の 展望 宗教学は成立以来、
その学説は学者たちの 宙山 08 せコ era のせによるた
すめ ︵︵を い う 意味 素を含ん
注意され
の 立場か
であると ある。例えば、ある教団を研究するにしても、 社会組織
目的があ
、宗教学
あること ある。 由 由の︵ 0q 田 o ︵ である。一 でいる。 最 なければな らの宗教の いうことで の中でいか ろ のではな のそうした は明らかで
は 、この両面を取り
のために、両者の。 ハ ラソス をとることは甚だ難しいようである。 研究方法に具体的 のである。宗教の研 5@ (357)
いくつかの例を挙げ てみることにする。
法論の基盤とした。
説の特徴は、その 言
ある。彼の言語学的
展的 類型を組織だて
毛 の 日 F 降ヰ才 。㍉。 E 的 ゴぞ
よってそれらの類似
すべ き ことを主張し ︵ 4 ︶ たのは興味深いことである。
宗教そのものの性
る 。二人はシュライ
いては宗教社会学の
のに反し、社会学の
究 によって著名にな ぬ 八円 し 0 コ ︵ 田コぬ ハリロの
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までもの
0 ロ 片田 コ ㏄の コ ︵ 性 によって到達され人類の歴史そのもの (358) 6
米国
宗教学の展望 いないけれども。 |は毛ぃ 日色日車・ u コ
臼のく
ぴ好印口 のせの ダ軋 om ず に 対する批判の中で、 あらゆる宗教史を発 彼は蝸の 9 の ﹁ す ac ずや 宗教学は宗教の﹁ 意 日の宗教学の成長に に 広く理解されては生
たちは彼にしの﹁
がりについても深い
たが、なかでも彼の
比較宗教学及び宗教
れる創造神の功きで
︵
9
︶
あるとともに、人間の信仰兜であると信じた。
仰を裏付けるもので
︵ ク 0 ︶教 でありながら、 が 宗教史学・宗教学の資料なのであった。
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、一九五五年に
学生を集め、米国では特異な存
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わし、一生の間
教学者使臣。
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咄からはついに労作 えはしたが、米国の 意味の比較宗教学で基 較 著
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象と せ ロ口 由 er ︵・の 空圭 ・ は宗教の詩的所 った 意味での 組 の 関係を、宗教 は 安房 ぉ ユや 究でも、宗教史 織的 探究である 現象の立場から ︶ ゅ 0 つのあ 乃至宗教 彼は神 研究する などの影響 心理学でも 学を神にっ ことである と い な を 主 て い 受 張 語 。 げ す
る 彼 (360)@ g
米国宗教学の将来
望
あることを見逃してはな
がシヵゴ 大学に招かれた 白い対照である。彼はギリシ ムに 興味をもつよさになった
いる。 朴収 はまた 0. ︶・ 4% コ % はあるが、仝 日 世界を通じて 体系化に貢献するであろうこ と 最 と の ャ 東欧 大 で ブ ラ ソス 正教会の雰囲気に をみてもわかるよ も親しく、宗教す もトョリ礎ヨ巴 毛の中 は 大いに期待され 宗教学の伝統に 生を受け、若く う に 、 彼の唱・ る 人の内的態度 、 笘 。 田 O ︵ w4 のな ︵ 向 Ⅱ ノ ている。 学 を え
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若 者 る て っ 自身が考えた 種 社会 ある ハ 6 l Ⅰ o ︶ し口の
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のである。ただ残念
岸コ し い
り 高 る ㏄ し 相 で
説学
甜 て 達わ げではない。 社
、封建性の余香が漂 てくれる。 圭片ザ いる。
た、 国が小さいため 照
に 親しみ、大学志望
学 についてみても、 ぅ かは別として、 い
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げる教育の理想
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げではないが、
卒
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レッジにおいても
、学生の天分を引き出す
が 一緒に食事しなが 0 口が理想とされてい 目の c に きの学者たち
学者の中で、 詩 ・ 文
なくない。
たがって、宗教現象の実地調査は、宣教師や の三 ︵ 目 Ⅰ主菜 厨臼 0 と,し なか完備している。
の 宗教学博物館は小
門の学者の意見の交
府の補助を受けて
(33 ㏄ ) tZ に 教 教 多 は 較 足 半 ら い 、 宗 こ を 人 理 。 た 救 う 踏 門
学社
い の し み 書 」 全 て コ た 入 や 関 料 ぃ , 文 ね 、 休 学 哲 ス 化 て 優 の を 学 に 的 は れ 研 学 ・ 興 背 じ た 究 び 神 床 景の中
宗教めてに入 方力 ょ 三 学 ・ をも 二 字 つ ら 歴 つ か幅 こ て に れ そ 備 広 と く な か れ 知 ぎ も る っ を を 識 学 そ 着 て 忠 一 を 間 の は も し ・生 宮 で 原 少 、 て の 然 あ 因 な 大 、 専 に る で い 抵 途 円 堂 か あ ょ は 申 に げ に る う そ で し る 気 に で れ だ ょ こ づ
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子 ま も 学 経 が 、 れ ビ 校 く 成 ま 帰 清 夏 木 は ジ の 教 さ た 化 的 や 国 赤 ネ 課 謀 れ 近 市 れ こ 通 人 望 ス 目 に た 所 民 自 末 は す コ も 取 米 の で 立 ・ こ 幼 る l 全 9 国 親 あ
こ こ 時 は 選 一 だ 外 に と と か 甚 択 さ
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独 歩 目 ず げ を て 風 生 励 立 な で に れ 廣 田 俗 の す む い あ ど む 舎 ・ 埋 る が つ あ も 気 臭 習 想 よ 強 ま て る 、 風 く ,賈ャ つ 親 の ・ げ が 香 う た 家 を テ の で 残 ゴオ は ィ ソ か 話 し な 知 言 い ど れ 葉 る は な を の ん 。 か 当 み は と あ 役 経
終 的 師 段 ぃ っ 三 る 子 , え ・ に ,ブ 0 丁 わ て 語 。 供 て 余 子 つ れ よ な そ た " 裕 供 て る い ハ う ち 自 の く・ ナ " Ⅰ 程 々 し に 分 あ ら 歴 げ で ス た と の る い 史 に あ ク こ っ 家 家 で ・ 6 @ と て 庭 庭 あ 哲 自 め が は で 移 な 拝
でる
も。
学然
と神
も 民 そ師弟の関係についてみても、宗教学の教授が 、
る 念が薄い。また
受け継ぐ人はあって
が 社交的に他の学科
0 部門の同僚だけで
特徴の少ない学問は 不教学の研究に没頭す
な 米国人の学生が宗
に 、苦労を厭わずに 皿 ・
学 に少なからぬ貢献の出 学 来る者が多 い のである。 教 七本
は 宗教を宗教学的に研究 13 のないことを嘆くのである こなし、特定の宗教研究に 人の学生で、宗教学に心惹 ぅ 。かりに十年の歳月をか たような コ一ス をもつ カレ に 興味のあるものに担当さ 以上は結婚している・、独仏の専門書を 必要な語学力をマスターしょうとすることは、 日暮れて道遠しの感があるのである。米国 めるのは、こうした失望感に ょ るのであろ 定は保証されていない。比較宗教学といっ
なく、哲学や社会科学の出身者で、宗教 せるところが多いからである。
学者は多面的な性
で
、近頃少しず つ 宗教学者の実地研究が行われ る
リヵ に赴く日も遠からず来るであろう。実際、 米
を 二流 規 する傾向が抜 け 切れない。そのため、 よ
が , ろ う 。 宗教学に比するもの アメリカ・インデ フ よ う になった。宗教 国人の学者は ョ 一口 世界の文明の最高塁 ほど東洋の好きな 学 この点、単純なくら あるといい得るであ
かも知れない。
取り上げられ易いの
宗教学と称しても、
そ瑚
﹁宗教科学的﹂︵︵ S. Ⅱ
米国宗教学の 展望 学 はみ不教官 舷 wmpo コ ︶
われる。この点にっ
また印度教を仏教の
のである。そのため
の 実証的研究が進む
大学のイスラム研究
効果を挙げている。
お けるイ ソ ド教 研究
いまでも、﹁宗教的 し
が イソ ド教 研究から
てなされることが 望 ましいのである。 ( 臥沖 蝸
人 かのものが ||
不教学者のように、 の 学者のように、 他 い う 態度は、たとえ 進歩のためには不可欠のものである。 同僚の間でも、教授と学生 個人的に多くの学問的素養 人の学説を遠慮しながら 批 一時的には感情を生口するこ の間でも11共同研究 に恵まれていない人々 評するのでなく、お 互 とがあっても、学問 の
でもないが、それ
係 で、ヨーロッパの 。各地の大学・研究所の定期発表 必要である。さらに重要なのは、宗教
注目のは昔の面影も失われてしまい
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監オ
四打 円 0 ロ という雑誌は 、カ れども、専門的な学術雑誌ではない巴の 。 住史 ドニ 下 0
どや︶
oE ョ田 0 ︵ す 性質のものではない。 、 学の専門的な学術雑誌であろう。 もなければならないが、学者個人 の すざ 曲の 0 の 目 。 目 Ⅰ下血トハみオ 田よ Wpo 臣 レッジの教師の間に広く読まれ なるほど、宗教学に間接的に関 レの wp コの % まののにも現われているりであるが、これか
然 的に著名な学者、
ハが
置かれて
い て
、そ
る 。このことは各大
研究機関が生まれた
らの学者も短期間招くことも望まれる。
㏄㏄ ] Ⅰ 6米国宗教学の 展望
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こととことと
げ 期 目 い の 0 % 示教 学 界 の 展 望 を す る Ⅴ フ p し あ ナ, Ⅰ り、 同 じ @ 過 渡 期 ゲプ し あ る 東 洋 の示教 学 の ㌧ 」 の 0 ヰヰ ) Ⅰ今 j 参 発 旨目 の ・ 鴇 展 刃 ヨ を り臣
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祈 る ⅠⅠヰ中o
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かし、日本の姉崎博
だし、東洋の宗教学
よう とする傾向がな
く 、東洋の宗教学も ョ一 ロッパ と 米国と
て 真の noo っの ra ︵ ぎの ぃ口 pE ロ ︵せの実を結ぶことが出来よう。
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( ) 5 ( ) ユ 4 ( ⅠⅠ ) 3 (ⅠⅠ)( ) セ ユ ム ) Ⅰ ( ・ ハリ ( ) 9 ( )90
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序 まったと見てよい には 生産神として 全 他方修験道による 習 のである。 修せられ、東大寺 た 点など、この神が たいと思 う 。八幡神の石 に 生れる本地の決定等、 を 別にしたい。 、現今千万の神社の内 三 何の神であったのか不明
口
竹
園
賢
了
19 (871)立者の口を通して 神
間の心理や集団の生
に 達した 巫 者の言葉は即ち神の言 地 直一博士も八幡信仰は原始 、一種のシャマニズ 、 神と集団員とが 結 ︵ I 0 ノ
れて宇佐
われて ぃ
小山田社
祀ったの
われ、 八幡宮とな たが、その であり、遂 である。
事ある
毎 白 5 ︶ほ ついてもこれを 古 円 8 ︶ 円 7 ︶ Ⅰ 6 ︶
代の巫女神人集団の活 目 9 ︶
神は古くから宇佐 地 ︵ⅠⅠ︶
或る句から朝鮮の神 ︵ 3 Ⅰ
補 説を原初の八幡神
は
、この神の由来を㈱
八幡神と 仏教
合
習 の 近 に大殿堂が建て 発展した。貴族も競 c3 旭 儀礼が神前でも行わぬ一八幡神の神宮寺
態
(に
)Ⅰ ム 0 ( ) 9 ( )8
( ) 7 ( ) 6 ) ( 5 ( ) 4 ( ) 3 ( ) ウ 4 ( ) 1 たの 附加 的に 神主殿を建てた
0 代表者が
た 仏教の思
することに である。 境野 黄洋 博士、八幡菩薩︵東洋哲学二 セ編 ︶ 肥後和男博士、八幡神について︵日本神話研究六︶
一 仮設︵現代仏教五四号︶ 宮地直一博士、八幡宮の研究 一セ頁 栗田寛博士、八幡の神の考︵英里先生雑著 巻 一︶
柱根源 記 ︶ 等 宮地博士、前記八八1元 0 頁
柳田国男氏、玉依姫 者 ︵妹の力六五 |一 0 六頁︶
道に 於ける 巫 なの位置︵日本巫女史、第一篇第一章︶ 参照
造 がこの新宗教を 3 げ入れない筈はなかった。 っていたために、 申 いては続紀三、大 圭 三年九月 廿 五日の条に 施 ・ @ 浅薄豊前回 野 四十 灯 - 褒 二 %
術也
、 とあり、また同八、養老五年六月二日の詔に ,宇佐 君姓 ︵ れて、 田 四十灯 る賜 廷 にまでその名を知 との関係も与って 力 ている。例えば彦山 れているが、何れも 国東半島の六細山を 満 等と共に修行して ︵ Ⅰ︶ l 網 に建てた漢鏡手筆 も 奈良朝初期から太宰 見されて、これらが ていたことを知るこ (374) 22八幡神と仏教との 習合 の と
ぅ こ か を ら も っ 併 し の 満 に
遂行
も 神 た 氏年 て
でた
こ 。にが年い
建 り る 立 は と の ら 拡 奉 と 神
23 ㏄ 75)
(376)
羊一二八、九号︶
ゆ 世一のⅠ ハ ︶
の 処に建てたと
てられていた ︵ 4 ︶続紀 四 、︵ 5 ︶、同九、︵ 6 ︶、同一四
一八号︶
三重塔を建てて、
神
建立を記録すること
神宮寺を、
報
養の意で拡張したのであった。
らない。
っ たのである。
八
は
大仏建立以後であ
我様式を取り入れた
が
そ
う
させたのであった。
明から神宮寺があった
田
八幡神と仏教との 習合
二八幡放生ム万
にここで放生会の 他の八幡宮に 掩 いて この宮で放生会が 催 されるよさになったのであろうか。 生の
法 とならねば が 父母を殺し、また 便 救護してその苦難 若子品に、
仏が往昔 流 第三に、往昔 仏が大 ものである。中国で 撫さ 業とするを悲し 唐 の南宗は乾元二年 五月五日、聖徳太子 子伝暦 上に 殺生、外典之 仁也、
自レ
合目 後為二 太子-
断レ之 25 (3 打 )に ま と た 生 を 九 と 欝
嘉義荒聖ニ
%
彊悪露
こ充たを神を置目
あ高年
宕ぢ尋隻芝
て%
歪緯
三% 毛蚕 奄黙 七仏
坐礼
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席祭司
っ皇のし放や姉
%
な は し の 清 レ 儀 の 行 い な て
散水 此礼
も の 聖 ま 段 歩 十 く 373) 26
八幡神と仏教との 習合 註 ︵ 1 ︶石清水放生会 記 、鶴岡放生会歌会参照 ︵ 2 ︶大正蔵経二四巻、一四八四
品 、奈良朝ではこの方が話まれた︶ ︵ 4 ︶同三巻、一五二 仏僧が神前で儀礼 して堪えられぬもの 魚鳥を神に供えるこ 戒律とこの習慣との な 行って 、 心の痛み 戒に基 くのである げ 宇佐八幡 社 ではこの のである。尤も後に るけれども、それで 金光明経または最勝王経が よ まれていた。 障を消滅せしめよ れている、 と讃,ぇ、日 は 放生の思想を誤解 もつことを強調する は 思われない。 27 ( 繍 9)
当 重 ん じ ら れ て い なげ れ , Ⅴ 七ま ニ な ら な か ナ, Ⅰ 古 典 ケア し 神 名 た 鎮 と あ さ か 守 を っ 八
幡 神 幡 と こ が 神 仏 宮 し の 大 が 習 が た 一 仏 大 会 造 も 仲 達 仏 を 営 の は 立 建 著 せ で 八 を 二 立 し ら あ 幡 援 一
申 た 院
、 る い 寺
。 建 企 の 上 立 廷
診ら
先例から
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上 ) ), ⅠⅠⅠⅠⅠユ・ )月 , 6 ) 5 ) 4 ) 上 3 ) 工 2 ユ エ ) ・ ) ヰュ 0 ) 9 ) 8 ) 7 ) 6 丸子新一外
全 英一
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二冊
セ 巻、 頁 O 頁 っ は て いさ
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た 的 あ ぼ り に げ 中 後 れ 央 ま に ど に た 憎 も 進 神 形 そ 出 仏 八 の し 習 幡 結 て 合 像 果 、 の が に そ 上 造 船 の で ら い 勢 も れ て 九 割 ろ は を 期 端 、 拡 的 緒東大
な と 大 す 事 な 手 6 件 っ に こ で (380) 28八幡神と仏教との 習合
ことであった。けれど
達 が太宰府にあった
の 努力やその神を奉
大きな影響を与えた
社は官幣を受けて ぃ
午 八月の夢 去 まで 兼 躍進の素地を固めたのである。 み れ
、筑紫の住吉 社 、 ︵ 2 ︶
筑紫で謀反した藤原 ︵ 4 ︶ 円 3 ︶
同十七年九月二十日 ︵ ニリ ︶
ら 重んじられる よう になったのである。
9 度いと考えて、 ︵ 6 ︶
拾 いて容易なことで
ば 到底完成の見込み
ことであった。橋詰 ︵ 今ソ ︶
あった。已に伊勢に
﹂のことは正史に記録
儀礼が好まれていな 29@ (381)
ぅ肯
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大 と の 翌 た べ 女 に っ 力 国 宣 夫 を は る そ と
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の 想 懇 て を 一 " 如 神 だ 蒙 っ " 口 砥 出 を あ 方 さ 田 こ幾年
こ 何 社 曽 の た 杜 に を の 内 二 の に 丈 て 総 、 の か ょ あ ら ぅ る く に か は の レ 朝 廷らこ
" の 播 仰 る ( の援た
御 た の の 原 を で @ 氏 得 あ な る る奉侍
奉 を て で 宇 つ 見 つの た ら た 功 補 ら 非 ど あ っ 逐 っ 遂 が 時 の れ こ
拘 ろ 首 関 C3 ㏄ ) 30
八話神と仏教 ほ の い 於 漁 し い 代 め
神 の 原 に 何 宮 仏 か で 教 ・を は
儀奉僧
申し じ 日日 さ て 十 捧い人
げ た に て に 七 お 連 日間悔
り、しえ、よ
合 い 過 度 か せ大 に は 仏 対 を し 明 拝 て ら す 仏 か る 教 に た
儀仏
め 礼 に で を 対 あ 挿 す つ げ ろ た た 態 か の 度こ ろ っ
のがた
ょ、 。
う こ 禰 な の 宜 儀 こ や 礼 と 神 を は 主 捧 已 は げ に 八 た 手 幡 と 佐 神 31 ( ㌍ 3)せしめた︵
,
9
Ⅰ
O
︶
生を禁じ、従者に酒肉を用
って一層朝廷の崇敬
入京というので、 そ
神使と定め、路次の
供給には酒、宍を用
、舎人各二十人を出 こュ を神宮とし、 こ 、この賜姓によってもうかがうことができる。
、八幡大神が京に
幡 神の禰宜、主神津
仏教儀礼を捧げて ぃ
二十四日、大仏は成 ︵㏄ 膝 ︶ 金の出土を喜び歌っ
授け、その他諸臣に
︶、太后︵光明︶も 行
舞 、久米舞を奏せし めた大法要であった。 援助を謝した。 ま この位階は親王に授
ものでもないし、 ま
いたのならば、ど う
ような尊厳な宣命を 北 洋神に 封 六百戸、
のである。従って こ
、 決して神を人間と 同列と見て位階を贈ったのではなかった。
、人間と同列 と解
その ょ 3 な考えで 拝
輿は朝廷から丁重に
仏を拝したのであっ
拝したと解すべ き で
ではない。しかし 杜 ﹂とを 以 って、八幡神 ( 鍵 4) 32
八幡神と仏教との 習合 田 ( 叢 ) に た 仰 示 。 を 聖 す 奉 文
武
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盧舎 宇 は たの 那 由 は 教 仏 の 、 信 ( あ 大 御 修 ら 陸 は 四 行 ゆ か 中 る ら 主聖
の 存 渡 と武
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小い)正
宮 仰 釈 ぅ 、 場 迦 重 鑑 か が 々 真 ら 田 無 ( でん尺
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唐 あ " 法 " て 」 界 審致縁 祥華
調 起 ( 巌 和 を 新 経 し と 羅 の て い ) 所 い て や 説 る い 義 に姿る
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( 十 Ⅰ ) l 4 へⅠ) エ ( へ ) ( Ⅰ エ ( ) ハ Ⅱ ノ ( ) り71
( ) 4 ( ムノ ア 1 めこはな 地 博一
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二前五字
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武 の き ら、 博 条 天 関 な Ⅰ 皇 孫 い 人 0 @, こ こ 間 仏 つ と ) え))
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2 に与( 2 ( 工 9 ( Ⅰ 6 記 - ハ,
Ⅰ ) l 0 ( ) リ Ⅹ け ( ⅡⅤ) 允 ( )M
同る 同同丈司何回
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二勝
て 貴 の 階を 一 族 側 言 の で 贈 紀@
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Ⅱ 刀 - 一 触 者 は 六 - し ね え こて に の 平 ) 一 わ 勝 目 お 基 ょ れ こ く う ムこ ぅ も に
。 の 考 ( 一 四 で え 記 月 あ て 七 る い 四 か た 三万 の セ
らか
、
も 頁 ) そ 知 れ れ 程 な おど
い ろ そ < う べ と ぎ す こ れ(a86) 綴
総国分寺︵東大寺︶が
華厳世界の象徴とし
願の仏教儀礼を捧げ
っ たから、単に唐の
一年二八七五︶に造っ
上の威力とを唐にま
困難を克服して成就 されたのであった。
除去、国家泰平を ︵ I ︶
また大仏建立の発願
を 奉告した詔に﹁ 種 ︵ 3 ︶
は 、仏法の助げによるよ
な 信仰の立場から、
、仏説の和、平等、
家 的に盛んにしょう
将来しょうとせられ
つこ ヰハ 。
したことも度々 記
平を将来できるとい
八
%
神と仏教との 習合れた。神道は大宝 元
一 されていたのであ
って、なお原始宗教
は 元来排他主義を強
な 教義的根拠をもた ほこら
な謂経 儀礼と素朴 簡
と 一片の祝詞 文 とは
度 にすぎなかった 主
教義、祭司者に 於い
司 でありながら熱心
宗教的態度をもって
いていたが、唐の文
ホ教として対立してい
の 宗教的態度を非難
てこれを解釈したか ︵ 4 ︶ ︵ 5 ︶
は 対立的態度のあっ
、全般的には仏教が
経典にある護法の善
っ づいていた。 35 (387)
建立することになっ ︵ 騰 ︶
ると、神社に附属し
できた。即ち東大寺
を 造らなかった我が
かもこのことは大仏
また寛平年代の作 と
あったけれども、 朝
朝廷の崇敬は変らず、
年 四月には八幡大神宮と称していた。︵ 9 ︶
は、 神が仏法を守 た笛 詩味 女 、田 であったこ 麻呂は除名 ︵ 7 ︶ とが露顕して、 されて、社友 は 遂に大仏開眼式の翌々天平勝宝六年十一 ︵ 8 ︶ 日向 国 、田麻呂は多せっ島に配せられた。
ま児
行信は下野国の薬師寺 た翌 天平勝宝 セ 年三旦
に 配せら 一十八日、 - ね 、 杜 八幡神を貢 るために企て
びであったに違いな 天平年中に封戸一千
百セ 十六戸の三分の
なった。
が 神の代理者として大仏
鉾
八幡神 仏教 合
習
の思われる。
五八幡神の菩薩
号 ( 鞭 )仏 建立賛助によっ 窩 ︵ 5 ︶続紀天平神護元年十一月十三口 ︵ 6 ︶新砂 格 勅符 抄
心を不安ならしめ
姓を煽動 し
称して陰謀
禰宜宮司等
前後国司天 加札正 、 宰牧 Z 務 、豊如此 乎 ﹂とあるを 見ても、八幡
たことが推察できる。 ︵ 8 ︶続紀一九 ︵ 9 ︶ 同
儲宮の条には﹁ 婁
- 玄妙工御座
る 0 しかし
当のように の 論もあるから 別稿 に譲ることとする。
東大寺要録番一 ︵ 2 ︶続紀天平十五年十月十五日の条 ︵ 3 ︶同天平二十一年四月一日の条 ︵ 4 ︶文武二年十二月、宝亀三年八月、同十一年二月
るに際して
臣 Ⅰ フた も Ⅱりであ ハ が、こュ に護国思想が強く現われているのは、 朝廷との関係を密接にするためであった。
の後、和気精 麻
太政官符によると 清 麻呂が宇佐八幡神の神託を伺った時に 大神歌二目 威之難 で当、伸二仏力芝奇譚︵︵中略︶ 日工 固 , 社稜 万代 ハ 汝承二此 青 - 真。有坂遺失︵ 合本 レ錯 ,押手主日 -
呂
る神託に
護し 奉ること影の如 ︵Ⅰ 乙 ︶ し @ 引 逆 に
牢人
な れ 件 っ て 妹 た 口 目 々 等 例えま
守 陰謀に | 護 を 天 し 発 平 奉 て 神ば 十
月
押 入 三 目 二 日 ね め 木 記 誓 宣 V= と依稀
っ す て る 遷 も 座 の て に 天 朝 の 御@
叩を 守 @ 助 げ 奉 れ @ 今 も 又 五 が , 御 子 達 を (3 ㏄ )朝 守護を強調する ょ 38
なった。何故菩薩
いは神
願
寺に拠って
は
、仏教全盛の時代
であるが、仏のもっ
きる。そこで別当や
﹂とによって一層仏教全盛
同調したのだろう。
記
にある次の文である。
済
衆生﹁各日,大自在三苦
願 寺と称した︵後に
月廿
八日の条に
の奇
護を頼んだとあ
る 通り、仏の加護を得て国を守ることを約し、
である。当時盛んに
て
、護国ということ
を仏教的行為によって宣言したのである。
39 (391)
新砂 格 勅符砂中の延 暦十セ年 十二月什一日の官符がある。即ち 太政官符太宰府
、 ︵以下略︶ 延暦十七年十二月十一日
る 。さらに大同三年 ハ 5 ︶ セ月 十六日の官符にも大菩薩の称が見える。 太政官符 府令国司出納八幡大菩薩 宮 雑物事、︵以下略︶ また水鏡下、桓武天皇の条に
を 導く 、 名をぱ太 き
と 、延暦二年五月四
どには八幡大菩薩、 八幡大菩薩 宮と 称したのである。
波 羅門教の一派で
した作用のことで、 ︵ ム u ︶
自在、法自在を得 (392) 40
八幡神と 仏教との習合 菩薩経の如く 直ち 我が国に伝わって い 別当や社僧がこれら からその名をとって 鰻 ている箇処がある。Ⅱ
る
、 三には 智 自在、四には 慧 自在なり
具
き 自在と名づく とある。 ︵ 00 ︶
ことを得しむ、 足して 所欲無瞬 法無擬智等 の 四 ても、 旧 華厳経 ︵ 7 ︶ また自在 王 菩薩経巻上には 十 自在をのべている。即ち
す 。所謂衆生自在、 刹 自在、法自在、身自在、
足 れを菩薩摩 詞 薩の十種の自在と為す。 説いて、全て百種の自在を出している。 願 自在、境界自在、
は 仏、菩薩に祈祷 し
あって、奈良朝に流
何れも仏、菩薩のも
めに、この力を仏、
菩薩と称したのであ
八幡神の神威が 奔 れ 、
が 即ち菩薩であると
あった。従ってこの
徳 をもち、護国の威 あった。
てその供養を ぅげ
自在 王
菩薩と桁
府令大神宇佐二瓦 口為 八幡大菩薩宮司口車、E 、 吾 無量幼虫、
荘王菩薩者 ハ如レ此 左験不可 憐計 とある。
十五日の官符には
載 弘仁十二年八月 佗
博士も同様な意見を
︵のに︶
に
格付けておこうと
︵も︶
する意図で、神の地位を軽視するものである、
を
誤解しておられ
。菩薩は無上菩提を
のではない。また
神
﹂のような衆生に対し
間を越えた存在の観
の
経典を読んで国家
ぅ
のではなかった。
人間の行
う
儀礼によって神が昇格するならば、
ど
低級なる神はな
をもっていたとは思われないのである。
の
功徳に
拾
いては
﹂とさえある。従って
八幡神の菩薩
号
に用いた﹁自在﹂とか﹁神通﹂
よって示現する
無凝
区別を認めているのではない。
っているとか、神が衆生
に
八幡神を仏の下位に
格
教
国 霊験威力神通大昔
を 強調することがで きたのである。 件 大菩薩、 是 太上天皇御霊地
一年の文書に
の役が北九州にお け
たので、両社の祭神
神 帝の御霊と吹聴す ︵Ⅳ︶ の 宇佐神主 清 麻呂の解に
る 神の菩薩 肯 は 殆ん ︵ 騰 ︶
されたところから 始 菩薩 青な以 って神仏 とができるのである。
理由づけるために
% 仁 六年十二月十日
をつけたのである。
八幡神と仏教 上 述 べ ホ, Ⅰ 通 @ 宇佐
結
八幡 神 は 平 安 朝 初 期 ま で ンブ し 神 宮 寺、 鎮 守 の 社、 放 生会、
竺巨 薩 " テ 等 の ヤプ Ⅰ 於 い て 仏 教 化 を 率 先 45 Ⅰ 3 打 )十五日官符所司一八、︵㎎︶記録十三
︵
8
︶同一
セ
春木
セ一
︵
9
︶
同
三一巻一六
0
二
一八
セ
浅葉経、一二一二顕揚聖教論とある。
五︶前記八四頁
う
︶前記一八四頁
総
︶八幡神と仏教︵無尽灯
二
0
の一一︶
、菩薩
号
をつけた
当初に
掩
いてはこのような思想は見られない。
日
の
条
八幡
人
菩薩宮司⋮⋮:、同、弘仁十四年四月十四日の条
条
八幡
人
大菩薩
0
号があった。︵多産神宮寺伽藍縁起資財帳︶
合
の
註
大類統司同人
幡 正蔵 衆目 三木 宇縫代役
佐 大楢 紀 宮 春巻 二 託古 且 セ 集 九
なり、これに別当、
よさに単に仏僧だ
け
善之助博士は云われ、
斯様な思想が朝廷の
思わない。
業 に価値を与える
あった。この神が集
国家の統一にっ
れて
神には国家が五穀
豊
を守るものとして
尊
儀礼が成り立たない
のである。
らゆる存在のこと
ということが屡々
説
むしろ神を経典にあ
た
。
両 宗教の関係を
んで国家安穏を祈る
なかった。神を菩薩
と 同格と見るためであった。
尊厳性を附加しょ
である。神の来歴 や
を 高揚 し 、神社を著
地方で重きをなした
仏教化していた。仏教 と相侯 って各地に広
と 社僧との間には 対
たから、神仏の習合
を 率先進展させる 結
、神道と仏教とに 於
十分に理解できないのではなかろうか。
の 報告の一部であ
胎る
︶。 の 教 仏 ( 飴 神 播 八
Ⅰ存在と時間と自己
これ 有 なり、有は
間 論の性格を基本的
り 、存在は時間であ
はあり得ず、存在と
楽山の 言 ︵有時の巻
るあり方﹂であり﹁ そ
一体に把握されるべ
と時間とを相即的に
い て如何なる意義を
ものであろうか。 わ
思 う のである。
ではなくして、
義
高橋
賢陳
( 劫 0) 48法
住持的とのがるがの
の 元ま々
るあ 格る
策 想と時きを伎のさ
「動在
がる誠司「
一あ
す
本性
個 わ の い く か 在 の 離 げ 持 る 、 な味存
の な も 態 の か に な 侍 立 て 」と日 の あ 相 い の げ 法 る の
でが
ら よ も 間 性 丁 と 時 も る 即 のでな
( べであ
そ成
っ な の と解す
を の 。 性 で は の 存 ぎ あ る れ り て い住持
さ る 計 を こ か あ な で 在 は る かで立
物 が 格 間 れ 如 9 把 の ら る く な そ は る存在
の と の 性 いの そ の 在 と が す は 格 ぅ
法れでとい、
とそち
は ぅやば
れ元に
来ょ
こと し れ る 如 こ は 、 が っ で て の 。 何 と り物不
て あっ て 在 お 柄 を 一 で こ よ て 、 が い を 占 部 と っ 前 拝 不 て 意 め と 空 と て 後
在連
も 味 て し 間 な 時 か と 続 他す一
て の る 間 ら 共 で と る つ の 一 が ) 断 に あ 区 と の 学 部 そ ち 絶 あ る 別 し 単 元 を こ ろ し る が せ て 元 か 占 で の て の ら も も で も 有 時 で い で ば れ 、 も成す
間 ある
道に自
柄ゐて 的に間
住
住所学
の 個 れ で性あ
思、 が の存在れ意
に 道元の時間論とその 意義 49 ( Ⅰ 0 ⅠⅠ時間が区切 ある。それ その﹁ 時 ﹂ はこの ょぅ るべき永遠 それは時の 仏性の巻に な位置性と 5 な永遠の とで存在の 第四は 、 れなければ それは無我
﹂なので あいな
あるのは
る 。道元
着目され
のである。
﹂とか、
の よ う
はこのよ
というこ 決定が完成されるわけでもある。
が 考え ろ
もので、
尽 十方 界 ︵ 3 ︶
い う 空なるものの中に
白菜である。かくて 存
が 知られるのである。 黙考えられることで ある。存在は空間の中に位置するものであり、 時間もまた無限なるべ 後際 ︵現在より以後︶ (4 ㏄ )
道元の時間論とその 意義
それかくのごとし﹂
51 (4 ㏄ )
、直接的には自己と しているが、それは 要
である。それは存在
界は成立せず、個々
、しかしそ う 考える
のを意味するならば
り ﹂︵仏性の巻︶とか
わ げである。もし
が 濃厚であることは
存在が自己と一体で
てはならない。すな
融 即して自己意識 内
界の頭頭物物を時時
頭人甘も、すなは ち わが 有
彼処にあるににたれ
去も未来も共に即今の意
れ目覚されることによって﹁ある﹂のであり、 従って過去未来といえども を ﹁期待﹂ということ
でなくてはならな
げることが出来る。
のがそれで、これ
はずの時を包蔵︵ 呑
六 %. 丈六八尺の﹄
において過去を現在 時に見出そうとする見解とも考えられるから、
られるであろう。 か
ものとも見られるが、
後述する実践的自由
道元の時間思想が現
的に認めざるを得な
想 性格は、しばしば 駿
未来現在,
、︵
6︶いく千万な㈹
-
そのうち特に重点
間の位置性とは、
前
れ
不連続性へ含めて
らである。のみなら
るから︶ことからし
心
に更に立ち入った
考察を試みようとする者である。
的な叙述としては
い のである。存在は必ずその時
り 立ち、そのゆえに
ることを知り得たのである。 二
、時間の断絶性とその意義
53 W 何 6 Ⅰ
との見解が 、ょ 9 強
らなりながら﹂と 前
よりもむしろより 多
た ﹁有時の経歴﹂ な
り 明日に経歴 す 、今 目ょ り 昨日に経歴 す 、昨日より今日に経歴 す、
というのがそれであ
識の自在的性格に基
た ﹁経歴﹂というこ において経歴を説く 従って経歴とは時間
に 応じようとする 概
て 再び経歴の意味を
に 経歴すると参学す ︵ 47 ︶ 所以がそこに見られるのである。
の 連続性を無視するわけではないのであるが、 より以上に断絶を
はこれで終った ねげ
意義があるか、また
なくてはならないか
論 である。そこ (4C6)@ 54
( 田打 )
断絶の意味を虚実の
時の存在としてその することはやがて実践
もまず 繊 悔の意味を
、道元もその重要性 を 説くことは特に難声山色の巻で有名である︶
﹂となくしては成り 丈
実に立 卸 しなければ
て 、ごまかしも利か
あるとするのが有時
知られるのである。
も 断絶であって断滅
るのではなくして、
ある。有時の本来の
くものではあるが、 それを成り立たせているも
的な超越・解脱の原理と
すべてが虎ではあるが、論理的分析に従っ であって、その 各 時において存在をそれぞ はない。ある時は三頭入費ある時は丈六八 も 認め得ないことを意味する。それが 有 ︵ のもそれと同様で、そこに有時が現成公案 徳川、明治は明治と、それぞれその時にお にして滅する、みんな一時一時で、これが 意味される所以の大要は、お ょそ 伺 い 得 ろ しかしなお入念に見れば、右の如き考え ろん前後 際断 ・刹那生滅で宗教的主意は尽 説明を経なくては落ち付かないものがある 法位に住するのではあるが、実際としては がその実を断って 虎 となるには維新という なく直ちに断絶の意義が説かれているので の 宗教的特質を開示すべき所以の論理が潜 の場合がある。それは自然現象としての そ れば自然界における断絶は因果必然の自然 9 人為的努力がこれにあずかって創造的な ぅ のはなぜであろうか。それは一応不合理 間は不連続であり刹那生滅 れらは当然実在するもので をその前後において必ずし あって 灰ネ しなⅠ リと 舌口われる ︵ 00 ︶
趣きを例示して、徳川は ゆえ を﹁虚にして現われ 虚 われわれは、その 虚 として れるわけである。 すわげには行かない。もち
としては、その間に媒介的
は灰 としてそれぞれその を 媒介するのであり、徳川
だは
何等触れられること﹂ そ 超越・解脱・脱落など しては質を異にする二 つ 考える必要がある。何とな 界 には自由意志の介入があ 為 世界とを区別なく取り扱 に 考えれば真意を誤り恵壬 (408)@ 56
道元の時間論とそ に す ( 居 る こ ま ら も こ た
は
ず徳
、
ので に注 決 な 意 川 断 い な 明 し と 要 治 て い す ) 決 ぅ る な 断 こ こ ろ な と と 人 忘 で は 事 れ あ 、 界 る る そ と の 。 れ を 趣 む が 同 ぎ し 自 尊に説
を言 大 る 法 然 う い 爾 く の に と 所 で 決 し 以 あ 断 て が っ を 目 あな 力 味
然 現象ではないが、 義
﹂に薪炭なる自然界と生死
由
において見出すべきものと思
う
のである。
和合であるが、その
必然︵後述する如く
、
合しさえすれば必然
の
断絶には、上述のよ
しば抵抗が感ぜられ
定
したものしⅠは号目え
志
が交錯
し
、先覚
ある。人間世界の現実
しその決断や努力に
決断も努力も最初か
57 [ 仰 )尽有
はっらなりながら時時であ
ものなることに注意しなければな
く
、道元の時間論が意識的性格に
も
可能なのであり、心理的自由が
殺
もできないのであるが、因果は
現在性とその意義
- る 。換言すれば存在は連続しっ っ その因果とは実は因果が在るので らない。因果をもって認識のため おいて説かれる所以もまた是認 せ 実現される所以でもある。存在は 認識の型であり形式であるから、し
る
な
越
抹
て 、ここにおいても思い合わ 衝動・欲望・感情等︶に委せるのでなくして、 あくまで習 う のであり習練 りも、むしろ自然の如くで
じないはずのものである 進 という内容的実質がなく 。換言すれば、実の実たる れは実践的自由として次に あるので︶ によ るものと称すべ き ものである。 ただその実践なるものが、 せる趣きのものであって 、 すべては一如の世界と言 い得 べきものである。 換言すれば、実にして 虚な 結局そこにあると思われる されるべぎである。自己を自然性︵本能・ するのではあるが、ただそれに抵抗を感じ あり自然と一如の世界に悟入した境地であ 。そして、そこにまた実にして 虚 なる所以 ては、勝義において超然たるを得ず、その に 基づいてこそ虎が成り立っのであり、 ま 論考する所であるが、実際は不離の関係に 抵抗から脱落していること︵その点が心理 そこに至っては実践も脱落も同時であり、 るゆえに 畢克 空であり、差別に即して平等 のである。 穏 (41
道元の時間論とその 意義
それによって把握し
要する限りは因果を
違約如意識を言 う ので
でもある。かくて 意
可能である。因果の必
特性に生きる所に自
根拠なることが知ら れたのである。
在 に集約して考え
ることに着目したい
理 的なるのゆえに 意 識 性の範囲を出ないから当然言い得ることで、
には相違ないのである
ぇ 断絶にもまたがって
特色付げられる二方
自由なるものは、どの
は 自然界においても
いてであり、自然界
味 における自由︵ 過 去 的な必然に対しては超越が自由を可能にし、
にそ実践的自由であ 59 (4 Ⅰ ]1 )
(412) 60 性
べの
と と末次れい意か
言 し き の が な っい と の ら よ に 対 っ 得 お が れ る 方
で一
明 煮 には 保 え る て そ よ 一 の い 侍 る 所 そ
兄 山 も と わ 果 も 絶 が こ と サナ し ン ァ Ⅰ ま は
道元の時間論とその 意義
ることは出来ず
、ま
る 。人間も自然的存
を 必然的に受ける
しろその因果律のゆ
性 に意義が生じてくる
れるべ
き ものと言っ
61@ (413)
の 原因に よ るもので
あり、しかも偶然が 逆 方向の流れの会合す
であり、場合によっ
えに超越に よ る心理 的 自由の意義と価値とがあるのでもある。否、
然と 偶然︶ に 対処し
遊離となるから︶ 人 実践的自由の根拠たる 思わざるを得ないのである。 の 二つを挙げること 証 一等とは 証 得を未来
新しく 仏 因を選ぶ 所
己を実現するのが 修
釆への連続性を即今
ぎ 思想でなくてはな
完全に否定し尽した り、 X はそれを無視しょうというのではない。
から、やはり道元 と
超える所以があるこ
あるが︶。﹁大乗実教 (414)@ 62
道元の時間 諦 とその森 券
6 5
檜牡 義年
ふ暴昌鷺怯字
くはずの思想性格で あることを知り得るのである。
を 邪見として退け、
@O
春 と知り、 茂盛
のごとし、
得しやすい であろう。
ののありなしを そ
﹂とによって超えるの
話 の 巻 ︶で、 修証一
てほ ならない。かく ㏄
明言している。
究
紀要﹂
第セ集
︶参照。
冗の時間思想にお
い
ならない。何
ることが意図
主体的な現在としては
生
ずるものの
先づ 、その 祀二 0 之 六一神女桐の項に 、
ぎ ぬいたものである
要と 、 白湖廟碑を 宋会要に見える 嫡祖 の記事て 忽ち金箆 的 航海
が 進んだのにも よる
ぬ ることを見逃がす
料 として 嫡祖 信仰の 消長を解明して見たいと思ふ。
李
障
献
仰の発達
(416)@ 64宋廷 の 封 賜から見た な 白 女 例
い有廟
こ 封 へ は と 」 」 最 ュ の の 後推注
前 の祭文
へ 「せに 末乾
よ て き 年 5
。
8
名人戸
を・ ニ 略 れ 加しち
たが
討 の っ 普 で た 佑 あ も 眞 ってと
0
人 ピ 、 思 、 記 は の事ね
のる
」 句、
作 。 はと「
大本酒
順 差 廟 神 @65 く 4 Ⅰ 77) 篆祖 信仰の発達 廟 年 な 神 に い 宋 卒 業 。 会 に福す要
入 を な に れ 加 わ 載 ら 討 ち せ れ さ 、 ら た れ 神 れ、 に と
して ぬ るのが見えるが、次にそれ を 批判する。 加封霊恵 ・ 昭血 人 。 また、 祀二 0 之 五一張太師桐の項に 、 在 福州 福清煉 。::一往蒲田螺 岩 浸出征八 % ︶
加封妙蕪 二字。 ︵ 甫 ︶ 三十年十二月謝 威 宗 乾道三年二月 加 封 侯禧 ・ 妙底 ・ 普佑 真人。 それから 禧 三一之三一順 済 廟の項に 、 恵 ・昭恵・集福天 ・ 顕 忠衛 妃 。