• 検索結果がありません。

『宗教研究』159号(32巻4輯)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "『宗教研究』159号(32巻4輯)"

Copied!
109
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

――目次――

1,

米国宗教学の展望(下), 北川三夫, A View on the Science of Religion in America, J. Mitsuo

KITAGAWA, pp.1-18.

2,

八幡神と仏教との習合, 竹園賢了, The Syncretism of Hachiman-god and Buddhism, Kenryo

TAKEZONO, pp.19-47.

3,

道元の時間論とその意義, 高橋賢陳, Dogen’s Theory of Time and its Significance, Masanobu

TAKAHASHI, pp.48-63.

4,

宋廷の封賜から見た媽祖信仰の発達, 李献璋, The Development of “Ma-tsu” worship (媽祖信仰) of Sung

age in China, Hsien-Chang LI, pp.64-84.

5,

旧約聖書における漂泊の意義, 植田重雄, On the Meaning of the Wandering in the Old Testament,

Shigeo UEDA, pp.85-99.

(2)

米国宗教学の 展望 部 る の 、 -

白 ホ d @ y ブ 」 -

では

教 つ く現 究に ばな を

%

そ 5

こ の

っ も ろ う 徳 性 一

れ触た

た な ん 。 事 特 い 、 し す 枯 葦

しは 宗 た

少教

士 国 こ な 以

刀 。 と く 外 も 宗 げ こ べ

っ 教 が こ て

の 将 こ

史研 家老

帥先

散 で 来 で ソ て に 発 を 学 あ あ ド 「

触展

す と る る に 同 れ ば ろ は か 。 ア 情 て つ と 、 の 4 @ 日付 み か い 狭 ょ ス リ 理 ラ

ェソ

ア解

」 ル 民 を

れ つ は の ら

大族

がが

必 要 力 移 と ナ 住 す (

ン し るこ の た

し は 史 た 土 を

ゴヒ Ⅰ『Ⅰ

(353)

(3)

くない。回教の大学に学んだキリスト教徒の

学生は、回教 た 。当然、彼 の結果は アク ・神学的に 纏 平にみようと の神学者に

らはそれ

イナスの めるという する学風は ある。中世の歴史 、最近の研究による イベリヤ半島が回教 絢燗 眼 な 奪 う がごと

ラヱル

の宗教を展開して行った。一つの宗教が

他の宗教と触れ合う場

細め

ギリシャで

は、

糾が避

げられなかっ

︵ 2

いで、むしろ他の宗

努力が払われたので

的な﹁同情的理解しを

見出すことは出来ない。

(3 駅 ) 2

(4)

米国宗教学の 展望

3 (3 品 ) う ﹁科学的態度﹂と

した学風は啓蒙時代

族の文化・宗教・ 習 ロック・ヒュームの 本質を探究しょう と もまた神から与え ろ ホ された宗教の真理と 0% 巴 宙良ゴ とコ鰻 9.

、宗教現象を歴史的

ことである。これを 盤 とする哲学と﹁ 科 はこのような﹁科学

宗教学の体系化

れる。しかし、 彼 れる学的要素がいろいろとあった。

(5)

り ろ 似 れ 同 で を の 3 5 つ ば 様 あ 目 ご こ

で か ち な 特 ま す 感 ぅ あ し に い 定 た る じ に る " " ヨ 打て 。 の 現 学 を 。 そ 数 票 宋 代 間 字 家 の

学教

教 社 で え 教

資 ぶ し

理路

と 。 諸 料 こ ば

佳宴

い 綿 種

救 出 各 誌 の 。 い れ

学来宗

し で し え を 的 な 教 た あ た ば 受 に い の 研 っ が 、 継 取 。 研 究 て っ 宗 い

否 に

学定

え で 、 い い る 的 の ら に 宗 3 6 か

労宗

宗教

こ 薫 ら

件数

とも

易 教 学 と 味

のか手のは

研がか分、

こ お

@,

やや " 究 " ら 野 そ い も 似 を こ 離 を れ て す て 更 の れ 越 が の れ 非 に ょ た え い 宗 は な 進 ぅ も る か 教 統 る め な の も に の 』

な あ を げ 。 の 目 か

この著、 H 倖のの 目ど Ⅰ

九世紀後半、欧州 諸

ず 匹目妻 屈口 自などの

文化的・民俗的な グ

めには、少なくとも 右の五つの要素を考慮に入れる必要がある。 考えた。め空 二は、ド

宗教現象の研究に適用しょうとした。第二は

第 は イ エ /L, ノ マ / 正 @ ノ な ど v ブ し よ て 代 表 さ れ る

派 で あ る 彼 ら ほ 不ヰ ㌍ 及 び 示教 体 験 の 桂 格 V ブ し 関 す る 学 的

(6)

米国宗教学の 展望 宗教学は成立以来、

その学説は学者たちの 宙山 08 せコ era のせによるた

すめ ︵︵を い う 意味 素を含ん

注意され

の 立場か

であると ある。例えば、ある教団を研究するにしても、 社会組織

目的があ

、宗教学

あること ある。 由 由の︵ 0q 田 o ︵ である。一 でいる。 最 なければな らの宗教の いうことで の中でいか ろ のではな のそうした は明らかで

は 、この両面を取り

のために、両者の。 ハ ラソス をとることは甚だ難しいようである。 研究方法に具体的 のである。宗教の研 5@ (357)

(7)

いくつかの例を挙げ てみることにする。

法論の基盤とした。

説の特徴は、その 言

ある。彼の言語学的

展的 類型を組織だて

毛 の 日 F 降ヰ才 。㍉。 E 的 ゴぞ

よってそれらの類似

すべ き ことを主張し ︵ 4 ︶ たのは興味深いことである。

宗教そのものの性

る 。二人はシュライ

いては宗教社会学の

のに反し、社会学の

究 によって著名にな ぬ 八円 し 0 コ ︵ 田コぬ ハリロの

セや

までもの

0 ロ 片田 コ ㏄の コ ︵ 性 によって到達され

人類の歴史そのもの (358) 6

(8)

米国

宗教学の展望 いないけれども。 |は毛ぃ 日色日車・ u コ

臼のく

ぴ好印口 のせの ダ軋 om ず に 対する批判の中で、 あらゆる宗教史を発 彼は蝸の 9 の ﹁ す ac ずや 宗教学は宗教の﹁ 意 日の宗教学の成長に に 広く理解されては

たちは彼にしの﹁

がりについても深い

たが、なかでも彼の

比較宗教学及び宗教

れる創造神の功きで

9

あるとともに、人間の信仰兜であると信じた。

仰を裏付けるもので

︵ ク 0 ︶

教 でありながら、 が 宗教史学・宗教学の資料なのであった。

(9)

︶ Opn

円目

毛お

ずは、一九三

0

年代にⅠの

い っ

Nwm

、一九五五年に

学生を集め、米国では特異な存

残した﹁

シヵゴ

学派﹂が

、米

を著

わし、一生の間

教学者使臣。

キ、

るとさえし

石 ︵ 4

O ︶

咄からはついに労作 えはしたが、米国の 意味の比較宗教学で

基 較 著

げ 単 離 も と す 縛

漁色

雀 ぎ 7 校 ゐ

ると

神は

判 学 こ さ は の れ 地 三

それ

異な

象と せ ロ口 由 er ︵・の 空圭 ・ は宗教の詩的所 った 意味での 組 の 関係を、宗教 は 安房 ぉ ユや 究でも、宗教史 織的 探究である 現象の立場から ︶ ゅ 0 つのあ 乃至宗教 彼は神 研究する などの影響 心理学でも 学を神にっ ことである と い な を 主 て い 受 張 語 。 げ す

る 彼 (360)@ g

(10)

米国宗教学の将来

あることを見逃してはな

がシヵゴ 大学に招かれた 白い対照である。彼はギリシ ムに 興味をもつよさになった

いる。 朴収 はまた 0. ︶・ 4% コ % はあるが、仝 日 世界を通じて 体系化に貢献するであろうこ と 最 と の ャ 東欧 大 で ブ ラ ソス 正教会の雰囲気に をみてもわかるよ も親しく、宗教す もトョリ礎ヨ巴 毛の中 は 大いに期待され 宗教学の伝統に 生を受け、若く う に 、 彼の唱・ る 人の内的態度 、 笘 。 田 O ︵ w4 のな ︵ 向 Ⅱ ノ ている。 学 を え

し有

若 者 る て っ 自身が考えた 種 社会 ある ハ 6 l Ⅰ o ︶ し

口の

裏にの

ot

(。

ず " 。

し 社

其彼と

9 ( ㏄ 1)

(11)

生 安楽に研究を 学界に似ているとい が、 師の学風が学生の全人格に深く 泌 みこみ、

のである。ただ残念

岸コ し い

り 高 る ㏄ し 相 で

説学

甜 て 達

わ げではない。 社

、封建性の余香が漂 てくれる。 圭片ザ いる。

た、 国が小さいため 照

に 親しみ、大学志望

学 についてみても、 ぅ かは別として、 い

(12)

げる教育の理想

いわ

げではないが、

|。共

レッジにおいても

、学生の天分を引き出す

が 一緒に食事しなが 0 口が理想とされてい 目の c に きの学者たち

学者の中で、 詩 ・ 文

なくない。

たがって、宗教現象の実地調査は、宣教師や の三 ︵ 目 Ⅰ主菜 厨臼 0 と,し なか完備している。

の 宗教学博物館は小

門の学者の意見の交

府の補助を受けて

(13)

(33 ㏄ ) tZ に 教 教 多 は 較 足 半 ら い 、 宗 こ を 人 理 。 た 救 う 踏 門

学社

い の し み 書 」 全 て コ た 入 や 関 料 ぃ , 文 ね 、 休 学 哲 ス 化 て 優 の を 学 に 的 は れ 研 学 ・ 興 背 じ た 究 び 神 床 景

の中

宗教めてに入 方力 ょ 三 学 ・ をも 二 字 つ ら 歴 つ か

幅 こ て に れ そ 備 広 と く な か れ 知 ぎ も る っ を を 識 学 そ 着 て 忠 一 を 間 の は も し ・生 宮 で 原 少 、 て の 然 あ 因 な 大 、 専 に る で い 抵 途 円 堂 か あ ょ は 申 に げ に る う そ で し る 気 に で れ だ ょ こ づ

は あ ぞ れ ぅ と か

い ち 野 に 者 稀

ろめ

ぎはな

学 て 英 、 m ど で

子 ま も 学 経 が 、 れ ビ 校 く 成 ま 帰 清 夏 木 は ジ の 教 さ た 化 的 や 国 赤 ネ 課 謀 れ 近 市 れ こ 通 人 望 ス 目 に た 所 民 自 末 は す コ も 取 米 の で 立 ・ こ 幼 る l 全 9 国 親 あ

こ こ 時 は 選 一 だ 外 に と と か 甚 択 さ

なな らだ

謀 れ し

た語

国止

べの

大笑

独 歩 目 ず げ を て 風 生 励 立 な で に れ 廣 田 俗 の す む い あ ど む 舎 ・ 埋 る が つ あ も 気 臭 習 想 よ 強 ま て る 、 風 く ,賈

ャ つ 親 の ・ げ が 香 う た 家 を テ の で 残 ゴオ は ィ ソ か 話 し な 知 言 い ど れ 葉 る は な を の ん 。 か 当 み は と あ 役 経

終 的 師 段 三 る 子 , え ・ に ,ブ 0 丁 わ て 語 。 供 て 余 子 つ れ よ な そ た " 裕 供 て る い ハ う ち 自 の く・ ナ " Ⅰ 程 々 し に 分 あ ら 歴 げ で ス た と の る い 史 に あ ク こ っ 家 家 で ・ 6 @ と て 庭 庭 あ 哲 自 め が は で 移 な 拝

でる

も。

学然

と神

も 民 そ

(14)

師弟の関係についてみても、宗教学の教授が 、

る 念が薄い。また

受け継ぐ人はあって

が 社交的に他の学科

0 部門の同僚だけで

特徴の少ない学問は 不教学の研究に没頭す

な 米国人の学生が宗

に 、苦労を厭わずに 皿 ・

学 に少なからぬ貢献の出 学 来る者が多 い のである。 教 七本

は 宗教を宗教学的に研究 13 のないことを嘆くのである こなし、特定の宗教研究に 人の学生で、宗教学に心惹 ぅ 。かりに十年の歳月をか たような コ一ス をもつ カレ に 興味のあるものに担当さ 以上は結婚している・、独仏の専門書を 必要な語学力をマスターしょうとすることは、 日暮れて道遠しの感があるのである。米国 めるのは、こうした失望感に ょ るのであろ 定は保証されていない。比較宗教学といっ

なく、哲学や社会科学の出身者で、宗教 せるところが多いからである。

(15)

学者は多面的な性

、近頃少しず つ 宗教学者の実地研究が行われ る

リヵ に赴く日も遠からず来るであろう。実際、 米

を 二流 規 する傾向が抜 け 切れない。そのため、 よ

が , ろ う 。 宗教学に比するもの アメリカ・インデ フ よ う になった。宗教 国人の学者は ョ 一口 世界の文明の最高塁 ほど東洋の好きな 学 この点、単純なくら あるといい得るであ

かも知れない。

取り上げられ易いの

宗教学と称しても、

そ瑚

﹁宗教科学的﹂︵︵ S. Ⅱ

(16)

米国宗教学の 展望 学 はみ不教官 舷 wmpo コ ︶

われる。この点にっ

また印度教を仏教の

のである。そのため

の 実証的研究が進む

大学のイスラム研究

効果を挙げている。

お けるイ ソ ド教 研究

いまでも、﹁宗教的 し

が イソ ド教 研究から

てなされることが 望 ましいのである。 ( 臥沖 蝸

人 かのものが ||

不教学者のように、 の 学者のように、 他 い う 態度は、たとえ 進歩のためには不可欠のものである。 同僚の間でも、教授と学生 個人的に多くの学問的素養 人の学説を遠慮しながら 批 一時的には感情を生口するこ の間でも11共同研究 に恵まれていない人々 評するのでなく、お 互 とがあっても、学問 の

(17)

でもないが、それ

係 で、ヨーロッパの 。各地の大学・研究所の定期発表 必要である。さらに重要なのは、宗教

注目のは昔の面影も失われてしまい

ea

監オ

四打 円 0 ロ という雑誌は 、カ れども、専門的な学術雑誌ではない

巴の 。 住史 ドニ 下 0

どや︶

oE ョ田 0 ︵ す 性質のものではない。 、 学の専門的な学術雑誌であろう。 もなければならないが、学者個人 の すざ 曲の 0 の 目 。 目 Ⅰ下血トハみオ 田よ Wpo 臣 レッジの教師の間に広く読まれ なるほど、宗教学に間接的に関 レの wp コの % まののにも現われている

りであるが、これか

然 的に著名な学者、

ハが

置かれて

い て

、そ

る 。このことは各大

研究機関が生まれた

らの学者も短期間招くことも望まれる。

㏄㏄ ] Ⅰ 6

(18)

米国宗教学の 展望

だ 渡

こととことと

げ 期 目 い の 0 % 示教 学 界 の 展 望 を す る Ⅴ フ p し あ ナ, Ⅰ り、 同 じ @ 過 渡 期 ゲプ し あ る 東 洋 の

示教 学 の ㌧ 」 の 0 ヰヰ ) Ⅰ今 j 参 発 旨目 の ・ 鴇 展 刃 ヨ を り臣

eli

祈 る ⅠⅠヰ中

o

ト コ " コ ⅠⅠ " の

億字

は ⅠⅠ @ ""'"" """'"" ひ ゴずプ

です

0

0

@ Ⅰ 7 (369)

携 ということであ

の 教学とでもい うべ

かし、日本の姉崎博

だし、東洋の宗教学

よう とする傾向がな

く 、東洋の宗教学も ョ一 ロッパ と 米国と

て 真の noo っの ra ︵ ぎの ぃ口 pE ロ ︵せの実を結ぶことが出来よう。

(19)

(ⅠⅠ)

)(

)・Ⅰ ユ 8 (

)ⅠⅠ

1 7 ( ⅠⅠ

6.

( ) 5 ( ) ユ 4 ( ⅠⅠ ) 3 (ⅠⅠ)( ) セ ユ ム ) Ⅰ ( ・ ハリ ( ) 9 ( )

90

) 臣 碩の 0 Ⅰ

下ィ

幅 @ 円 Ⅰ 援 Ⅱ 0

ず Ⅰ O0@ O 一 O

ヰア さ 悪 吋ト 田め つコ ・ め 0 ト く 370) Ⅰ 8

(20)

序 まったと見てよい には 生産神として 全 他方修験道による 習 のである。 修せられ、東大寺 た 点など、この神が たいと思 う 。八幡神の石 に 生れる本地の決定等、 を 別にしたい。 、現今千万の神社の内 三 何の神であったのか不明

19 (871)

(21)

立者の口を通して 神

間の心理や集団の生

に 達した 巫 者の言葉は即ち神の言 地 直一博士も八幡信仰は原始 、一種のシャマニズ 、 神と集団員とが 結 ︵ I 0 ノ

れて宇佐

われて ぃ

小山田社

祀ったの

われ、 八幡宮とな たが、その であり、遂 である。

事ある

毎 白 5 ︶

ほ ついてもこれを 古 円 8 ︶ 円 7 ︶ Ⅰ 6 ︶

代の巫女神人集団の活 目 9 ︶

神は古くから宇佐 地 ︵ⅠⅠ︶

或る句から朝鮮の神 ︵ 3 Ⅰ

補 説を原初の八幡神

、この神の由来を㈱

(22)

八幡神と 仏教

習 の 近 に大殿堂が建て 発展した。貴族も競 c3 旭 儀礼が神前でも行わぬ

一八幡神の神宮寺

)Ⅰ ム 0 ( ) 9 ( )

8

( ) 7 ( ) 6 ) ( 5 ( ) 4 ( ) 3 ( ) ウ 4 ( ) 1 たの 附加 的に 神主

殿を建てた

0 代表者が

た 仏教の思

することに である。 境野 黄洋 博士、八幡菩薩︵東洋哲学二 セ編 ︶ 肥後和男博士、八幡神について︵日本神話研究六︶

一 仮設︵現代仏教五四号︶ 宮地直一博士、八幡宮の研究 一セ頁 栗田寛博士、八幡の神の考︵英里先生雑著 巻 一︶

柱根源 記 ︶ 等 宮地博士、前記八八1元 0 頁

柳田国男氏、玉依姫 者 ︵妹の力六五 |一 0 六頁︶

道に 於ける 巫 なの位置︵日本巫女史、第一篇第一章︶ 参照

(23)

造 がこの新宗教を 3 げ入れない筈はなかった。 っていたために、 申 いては続紀三、大 圭 三年九月 廿 五日の条に 施 ・ @ 浅薄豊前回 野 四十 灯 - 褒 二 %

術也

、 とあり、また同八、養老五年六月二日の詔に ,宇佐 君姓 ︵ れて、 田 四十灯 る賜 廷 にまでその名を知 との関係も与って 力 ている。例えば彦山 れているが、何れも 国東半島の六細山を 満 等と共に修行して ︵ Ⅰ︶ l 網 に建てた漢鏡手筆 も 奈良朝初期から太宰 見されて、これらが ていたことを知るこ (374) 22

(24)

八幡神と仏教との 習合 の と

ぅ こ か を ら も っ 併 し の 満 に

遂行

も 神 た 氏

年 て

でた

こ 。

にが年い

建 り る 立 は と の ら 拡 奉 と 神

23 ㏄ 75)

(25)

(376)

羊一二八、九号︶

ゆ 世一のⅠ ハ ︶

の 処に建てたと

てられていた ︵ 4 ︶続紀 四 、︵ 5 ︶、同九、︵ 6 ︶、同一四

一八号︶

三重塔を建てて、

建立を記録すること

神宮寺を、

養の意で拡張したのであった。

らない。

っ たのである。

大仏建立以後であ

我様式を取り入れた

させたのであった。

明から神宮寺があった

(26)

八幡神と仏教との 習合

二八幡放生ム万

にここで放生会の 他の八幡宮に 掩 いて この宮で放生会が 催 されるよさになったのであろうか。 生

法 とならねば が 父母を殺し、また 便 救護してその苦難 若子

品に、

仏が往昔 流 第三に、往昔 仏が大 ものである。中国で 撫さ 業とするを悲し 唐 の南宗は乾元二年 五月五日、聖徳太子 子伝暦 上に 殺生、外典之 仁也

自レ

合目 後為二 太子

-

断レ之 25 (3 打 )

(27)

に ま と た 生 を 九 と 欝

嘉義荒聖ニ

%

悪露

充たを神を置目

高年

宕ぢ尋隻芝

%

歪緯

% 毛蚕 奄黙 七仏

坐礼

9

席祭司

皇のし放や姉

%

な は し の 清 レ 儀 の 行 い な て

散水 此礼

も の 聖 ま 段 歩 十 く 373) 26

(28)

八幡神と仏教との 習合 註 ︵ 1 ︶石清水放生会 記 、鶴岡放生会歌会参照 ︵ 2 ︶大正蔵経二四巻、一四八四

品 、奈良朝ではこの方が話まれた︶ ︵ 4 ︶同三巻、一五二 仏僧が神前で儀礼 して堪えられぬもの 魚鳥を神に供えるこ 戒律とこの習慣との な 行って 、 心の痛み 戒に基 くのである げ 宇佐八幡 社 ではこの のである。尤も後に るけれども、それで 金光明経または最勝王経が よ まれていた。 障を消滅せしめよ れている、 と讃,ぇ、日 は 放生の思想を誤解 もつことを強調する は 思われない。 27 ( 繍 9)

(29)

当 重 ん じ ら れ て い なげ れ , Ⅴ 七ま ニ な ら な か ナ, Ⅰ 古 典 ケア し 神 名 た 鎮 と あ さ か 守 を っ 八

幡 神 幡 と こ が 神 仏 宮 し の 大 が 習 が た 一 仏 大 会 造 も 仲 達 仏 を 営 の は 立 建 著 せ で 八 を 二 立 し ら あ 幡 援 一

申 た 院

る い

。 建 企 の 上 立 廷

診ら

先例から

もの に よ 相 を で っ し

5

上 ) ), ⅠⅠⅠⅠⅠユ・ )月 , 6 ) 5 ) 4 ) 上 3 ) 工 2 ユ エ ) ・ ) ヰュ 0 ) 9 ) 8 ) 7 ) 6 丸子

新一外

全 英一

計一

二冊

セ 巻、 頁 O 頁 っ は て い

た 的 あ ぼ り に げ 中 後 れ 央 ま に ど に た 憎 も 進 神 形 そ 出 仏 八 の し 習 幡 結 て 合 像 果 、 の が に そ 上 造 船 の で ら い 勢 も れ て 九 割 ろ は を 期 端 、 拡 的 緒

東大

な と 大 す 事 な 手 6 件 っ に こ で (380) 28

(30)

八幡神と仏教との 習合

ことであった。けれど

達 が太宰府にあった

の 努力やその神を奉

大きな影響を与えた

社は官幣を受けて ぃ

午 八月の夢 去 まで 兼 躍進の素地を固めたのである。 み れ

、筑紫の住吉 社 、 ︵ 2 ︶

筑紫で謀反した藤原 ︵ 4 ︶ 円 3 ︶

同十七年九月二十日 ︵ ニリ ︶

ら 重んじられる よう になったのである。

9 度いと考えて、 ︵ 6 ︶

拾 いて容易なことで

ば 到底完成の見込み

ことであった。橋詰 ︵ 今ソ ︶

あった。已に伊勢に

﹂のことは正史に記録

儀礼が好まれていな 29@ (381)

(31)

ぅ肯

しか

大 と の 翌 た べ 女 に っ 力 国 宣 夫 を は る そ と

節 も

地棟

の 想 懇 て を 一 " 如 神 だ 蒙 っ " 口 砥 出 を あ 方 さ 田 こ

幾年

こ 何 社 曽 の た 杜 に を の 内 二 の に 丈 て 総 、 の か ょ あ ら ぅ る く に か は の レ 朝 廷

らこ

" の 播 仰 る ( の

援た

御 た の の 原 を で @ 氏 得 あ な る る

奉侍

奉 を て で 宇 つ 見 つ

の た ら た 功 補 ら 非 ど あ っ 逐 っ 遂 が 時 の れ こ

拘 ろ 首 関 C3 ㏄ ) 30

(32)

八話神と仏教 ほ の い 於 漁 し い 代 め

神 の 原 に 何 宮 仏 か で 教 ・を は

儀奉僧

申し じ 日日 さ て 十 捧

い人

げ た に て に 七 お 連 日

間悔

り、しえ、よ

合 い 過 度 か せ

大 に は 仏 対 を し 明 拝 て ら す 仏 か る 教 に た

儀仏

め 礼 に で を 対 あ 挿 す つ げ ろ た た 態 か の 度

のがた

ょ、 。

う こ 禰 な の 宜 儀 こ や 礼 と 神 を は 主 捧 已 は げ に 八 た 手 幡 と 佐 神 31 ( ㌍ 3)

せしめた︵

9

O

生を禁じ、従者に酒肉を用

って一層朝廷の崇敬

入京というので、 そ

神使と定め、路次の

供給には酒、宍を用

、舎人各二十人を出 こュ を神宮とし、 こ 、この賜姓によってもうかがうことができる。

、八幡大神が京に

幡 神の禰宜、主神津

仏教儀礼を捧げて ぃ

二十四日、大仏は成 ︵㏄ 膝 ︶ 金の出土を喜び歌っ

授け、その他諸臣に

(33)

︶、太后︵光明︶も 行

舞 、久米舞を奏せし めた大法要であった。 援助を謝した。 ま この位階は親王に授

ものでもないし、 ま

いたのならば、ど う

ような尊厳な宣命を 北 洋神に 封 六百戸、

のである。従って こ

、 決して神を人間と 同列と見て位階を贈ったのではなかった。

、人間と同列 と解

その ょ 3 な考えで 拝

輿は朝廷から丁重に

仏を拝したのであっ

拝したと解すべ き で

ではない。しかし 杜 ﹂とを 以 って、八幡神 ( 鍵 4) 32

(34)

八幡神と仏教との 習合 田 ( 叢 ) に た 仰 示 。 を 聖 す 奉 文

の仏

盧舎 宇 は たの 那 由 は 教 仏 の 、 信 ( あ 大 御 修 ら 陸 は 四 行 ゆ か 中 る ら 主

の 存 渡 と

のと度の

小い)正

宮 仰 釈 ぅ 、 場 迦 重 鑑 か が 々 真 ら 田 無 ( で

ん尺

の)

唐 あ " 法 " て 」 界 審

致縁 祥華

調 起 ( 巌 和 を 新 経 し と 羅 の て い ) 所 い て や 説 る い 義 に

姿る

でが、

滞塞

い あ 、 行 て

っこ塞

ての、

い た 、 説 良 こ を 弁 天 れ 具 で 皇 が 体 あ の 蓮 拘 っ 信 と は が 註 で こ 大

2

)(Ⅰ)ー 2

)(

0 (

7

( 十 Ⅰ ) l 4 へⅠ) エ ( へ ) ( Ⅰ エ ( ) ハ Ⅱ ノ ( ) り

71

( ) 4 ( ムノ ア 1 めこはな 地 博

そ の 解 記衆

二前五字

こ 仙 す

月評四元

で 教 る

か 男

の六二

武 の き ら、 博 条 天 関 な Ⅰ 皇 孫 い 人 0 @, こ こ 間 仏 つ と ) え

))

数倍

2 に与( 2 ( 工 9 ( Ⅰ 6 記 - ハ

Ⅰ ) l 0 ( ) リ Ⅹ け ( ⅡⅤ) 允 ( )

M

同る 同同

丈司何回

一 "- "- " と

仰に

天 (Ⅰ ) つろ 五回 ( 至

三三三

皇朝

頁じ い や 延 位

二勝

て 貴 の 階を 一 族 側 言 の で 贈 紀

@

,局主

Ⅱ 刀 - 一 触 者 は 六 - し ね え こ

て に の 平 ) 一 わ 勝 目 お 基 ょ れ こ く う ムこ ぅ も に

。 の 考 ( 一 四 で え 記 月 あ て 七 る い 四 か た 三万 の セ

らか

も 頁 ) そ 知 れ れ 程 な お

い ろ そ < う べ と ぎ す こ れ

(35)

(a86) 綴

総国分寺︵東大寺︶が

華厳世界の象徴とし

願の仏教儀礼を捧げ

っ たから、単に唐の

一年二八七五︶に造っ

上の威力とを唐にま

困難を克服して成就 されたのであった。

除去、国家泰平を ︵ I ︶

また大仏建立の発願

を 奉告した詔に﹁ 種 ︵ 3 ︶

は 、仏法の助げによるよ

な 信仰の立場から、

、仏説の和、平等、

家 的に盛んにしょう

将来しょうとせられ

つこ ヰハ 。

したことも度々 記

平を将来できるとい

(36)

%

神と仏教との 習合

れた。神道は大宝 元

一 されていたのであ

って、なお原始宗教

は 元来排他主義を強

な 教義的根拠をもた ほこら

な謂経 儀礼と素朴 簡

と 一片の祝詞 文 とは

度 にすぎなかった 主

教義、祭司者に 於い

司 でありながら熱心

宗教的態度をもって

いていたが、唐の文

ホ教として対立してい

の 宗教的態度を非難

てこれを解釈したか ︵ 4 ︶ ︵ 5 ︶

は 対立的態度のあっ

、全般的には仏教が

経典にある護法の善

っ づいていた。 35 (387)

(37)

建立することになっ ︵ 騰 ︶

ると、神社に附属し

できた。即ち東大寺

を 造らなかった我が

かもこのことは大仏

また寛平年代の作 と

あったけれども、 朝

朝廷の崇敬は変らず、

年 四月には八幡大神宮と称していた。︵ 9 ︶

は、 神が仏法を守 た笛 詩味 女 、田 であったこ 麻呂は除名 ︵ 7 ︶ とが露顕して、 されて、社友 は 遂に大仏開眼式の翌々天平勝宝六年十一 ︵ 8 ︶ 日向 国 、田麻呂は多せっ島に配せられた。

ま児

行信は下野国の薬師寺 た翌 天平勝宝 セ 年三

に 配せら 一十八日、 - ね 、 杜 八幡神

を貢 るために企て

びであったに違いな 天平年中に封戸一千

百セ 十六戸の三分の

なった。

が 神の代理者として大仏

(38)

八幡神 仏教 合

思われる。

五八幡神の菩薩

号 ( 鞭 )

仏 建立賛助によっ 窩 ︵ 5 ︶続紀天平神護元年十一月十三口 ︵ 6 ︶新砂 格 勅符 抄

心を不安ならしめ

姓を煽動 し

称して陰謀

禰宜宮司等

前後国司天 加札正 、 宰牧 Z 務 、豊如此 乎 ﹂とあるを 見ても、八幡

たことが推察できる。 ︵ 8 ︶続紀一九 ︵ 9 ︶ 同

儲宮の条には﹁ 婁

- 玄妙工御座

る 0 しかし

当のように の 論もあるから 別稿 に譲ることとする。

東大寺要録番一 ︵ 2 ︶続紀天平十五年十月十五日の条 ︵ 3 ︶同天平二十一年四月一日の条 ︵ 4 ︶文武二年十二月、宝亀三年八月、同十一年二月

(39)

るに際して

臣 Ⅰ フた も Ⅱりであ ハ が、こュ に護国思想が強く現われているのは、 朝廷との関係を密接にするためであった。

の後、和気精 麻

太政官符によると 清 麻呂が宇佐八幡神の神託を伺った時に 大神歌二目 威之難 で当、伸二仏力芝奇譚︵︵中略︶ 日工 固 , 社稜 万代 ハ 汝承二此 青 - 真。有坂遺失︵ 合本 レ錯 ,押手主日 -

神託に

護し 奉ること影の如 ︵Ⅰ 乙 ︶ し @ 引 逆 に

牢人

な れ 件 っ て 妹 た 口 目 々 等 例

えま

守 陰謀に | 護 を 天 し 発 平 奉 て 神

ば 十

押 入 三 目 二 日 ね め 木 記 誓 宣 V= と

依稀

っ す て る 遷 も 座 の て に 天 朝 の 御

@

叩を 守 @ 助 げ 奉 れ @ 今 も 又 五 が , 御 子 達 を (3 ㏄ )

朝 守護を強調する ょ 38

(40)

なった。何故菩薩

いは神

寺に拠って

、仏教全盛の時代

であるが、仏のもっ

きる。そこで別当や

﹂とによって一層仏教全盛

同調したのだろう。

にある次の文である。

衆生﹁各日,大自在三苦

願 寺と称した︵後に

月廿

八日の条に

の奇

護を頼んだとあ

る 通り、仏の加護を得て国を守ることを約し、

である。当時盛んに

、護国ということ

を仏教的行為によって宣言したのである。

39 (391)

(41)

新砂 格 勅符砂中の延 暦十セ年 十二月什一日の官符がある。即ち 太政官符太宰府

、 ︵以下略︶ 延暦十七年十二月十一日

る 。さらに大同三年 ハ 5 ︶ セ月 十六日の官符にも大菩薩の称が見える。 太政官符 府令国司出納八幡大菩薩 宮 雑物事、︵以下略︶ また水鏡下、桓武天皇の条に

を 導く 、 名をぱ太 き

と 、延暦二年五月四

どには八幡大菩薩、 八幡大菩薩 宮と 称したのである。

波 羅門教の一派で

した作用のことで、 ︵ ム u ︶

自在、法自在を得 (392) 40

(42)

八幡神と 仏教との習合 菩薩経の如く 直ち 我が国に伝わって い 別当や社僧がこれら からその名をとって 鰻 ている箇処がある。Ⅱ

、 三には 智 自在、四には 慧 自在なり

き 自在と名づく とある。 ︵ 00 ︶

ことを得しむ、 足して 所欲無瞬 法無擬智等 の 四 ても、 旧 華厳経 ︵ 7 ︶ また自在 王 菩薩経巻上には 十 自在をのべている。即ち

す 。所謂衆生自在、 刹 自在、法自在、身自在、

足 れを菩薩摩 詞 薩の十種の自在と為す。 説いて、全て百種の自在を出している。 願 自在、境界自在、

(43)

は 仏、菩薩に祈祷 し

あって、奈良朝に流

何れも仏、菩薩のも

めに、この力を仏、

菩薩と称したのであ

八幡神の神威が 奔 れ 、

が 即ち菩薩であると

あった。従ってこの

徳 をもち、護国の威 あった。

てその供養を ぅげ

自在 王

菩薩と桁

府令大神宇佐二瓦 口為 八幡大菩薩宮司口車、

E 、 吾 無量幼虫、

荘王菩薩者 ハ如レ此 左験不可 憐計 とある。

十五日の官符には

載 弘仁十二年八月 佗

(44)

博士も同様な意見を

︵のに︶

格付けておこうと

︵も︶

する意図で、神の地位を軽視するものである、

誤解しておられ

。菩薩は無上菩提を

のではない。また

﹂のような衆生に対し

間を越えた存在の観

経典を読んで国家

のではなかった。

人間の行

儀礼によって神が昇格するならば、

低級なる神はな

をもっていたとは思われないのである。

功徳に

いては

﹂とさえある。従って

八幡神の菩薩

に用いた﹁自在﹂とか﹁神通﹂

よって示現する

無凝

区別を認めているのではない。

っているとか、神が衆生

八幡神を仏の下位に

(45)

国 霊験威力神通大昔

を 強調することがで きたのである。 件 大菩薩、 是 太上天皇御霊地

一年の文書に

の役が北九州にお け

たので、両社の祭神

神 帝の御霊と吹聴す ︵Ⅳ︶ の 宇佐神主 清 麻呂の解に

る 神の菩薩 肯 は 殆ん ︵ 騰 ︶

されたところから 始 菩薩 青な以 って神仏 とができるのである。

理由づけるために

% 仁 六年十二月十日

をつけたのである。

(46)

八幡神と仏教 上 述 べ ホ, Ⅰ 通 @ 宇佐

八幡 神 は 平 安 朝 初 期 ま で ンブ し 神 宮 寺、 鎮 守 の 社、 放 生

会、

竺巨 薩 " テ 等 の ヤプ Ⅰ 於 い て 仏 教 化 を 率 先 45 Ⅰ 3 打 )

十五日官符所司一八、︵㎎︶記録十三

8

︶同一

春木

セ一

9

三一巻一六

0

一八

浅葉経、一二一二顕揚聖教論とある。

五︶前記八四頁

︶前記一八四頁

︶八幡神と仏教︵無尽灯

0

の一一︶

、菩薩

をつけた

当初に

いてはこのような思想は見られない。

八幡

菩薩宮司⋮⋮:、同、弘仁十四年四月十四日の条

八幡

大菩薩

0

号があった。︵多産神宮寺伽藍縁起資財帳︶

大類統司同人

幡 正蔵 衆目 三木 宇

縫代役

佐 大楢 紀 宮 春巻 二 託古 且 セ 集 九

(47)

なり、これに別当、

よさに単に仏僧だ

善之助博士は云われ、

斯様な思想が朝廷の

思わない。

業 に価値を与える

あった。この神が集

国家の統一にっ

れて

神には国家が五穀

を守るものとして

儀礼が成り立たない

のである。

らゆる存在のこと

ということが屡々

むしろ神を経典にあ

両 宗教の関係を

んで国家安穏を祈る

(48)

なかった。神を菩薩

と 同格と見るためであった。

尊厳性を附加しょ

である。神の来歴 や

を 高揚 し 、神社を著

地方で重きをなした

仏教化していた。仏教 と相侯 って各地に広

と 社僧との間には 対

たから、神仏の習合

を 率先進展させる 結

、神道と仏教とに 於

十分に理解できないのではなかろうか。

の 報告の一部であ

胎る

︶。 の 教 仏 ( 飴 神 播 八

(49)

Ⅰ存在と時間と自己

これ 有 なり、有は

間 論の性格を基本的

り 、存在は時間であ

はあり得ず、存在と

楽山の 言 ︵有時の巻

るあり方﹂であり﹁ そ

一体に把握されるべ

と時間とを相即的に

い て如何なる意義を

ものであろうか。 わ

思 う のである。

ではなくして、

高橋

賢陳

( 劫 0) 48

(50)

住持的とのがるがの

の 元

ま々

るあ 格る

策 想

と時きを伎のさ

動在

がる誠司「

一あ

本性

個 わ の い く か 在 の 離 げ 持 る 、 な

味存

の な 態 の か に な 侍 立 て 」と日 あ 相 い 法 る の

でが

ら よ も 間 性 丁 と 時 も る 即 の

でな

( べ

であ

そ成

っ な の と

解す

を の 。 性 で は の 存 ぎ あ る れ り て い

住持

さ る 計 を こ か あ な で 在 は る か

で立

物 が 格 間 れ 如 9 把 の ら る く な そ は る

存在

の と の 性 い

の そ の 在 と が す は 格 ぅ

法れでとい、

そち

は ぅ

やば

れ元に

来ょ

こと し れ る 如 こ は 、 が っ で て の 。 何 と り

物不

て あ

っ て 在 お 柄 を 一 で こ よ て 、 が い を 占 部 と っ 前 拝 不 て 意 め と 空 と て 後

在連

も 味 て し 間 な 時 か と 続 他

す一

て の る 間 ら 共 で と る つ の 一 が ) 断 に あ 区 と の 学 部 そ ち 絶 あ る 別 し 単 元 を こ ろ し る が せ て 元 か 占 で の て の ら も も で も 有 時 で い で ば れ 、 も

成す

間 あ

道に自

柄ゐて 的に間

住所学

の 個 れ で

性あ

思、 が の

存在れ意

に 道元の時間論とその 意義 49 ( Ⅰ 0 ⅠⅠ

(51)

時間が区切 ある。それ その﹁ 時 ﹂ はこの ょぅ るべき永遠 それは時の 仏性の巻に な位置性と 5 な永遠の とで存在の 第四は 、 れなければ それは無我

﹂なので あいな

あるのは

る 。道元

着目され

のである。

﹂とか、

の よ う

はこのよ

というこ 決定が完成されるわけでもある。

が 考え ろ

もので、

尽 十方 界 ︵ 3 ︶

い う 空なるものの中に

白菜である。かくて 存

が 知られるのである。 黙考えられることで ある。存在は空間の中に位置するものであり、 時間もまた無限なるべ 後際 ︵現在より以後︶ (4 ㏄ )

(52)

道元の時間論とその 意義

それかくのごとし﹂

51 (4 ㏄ )

、直接的には自己と しているが、それは 要

である。それは存在

界は成立せず、個々

、しかしそ う 考える

のを意味するならば

り ﹂︵仏性の巻︶とか

わ げである。もし

が 濃厚であることは

存在が自己と一体で

てはならない。すな

融 即して自己意識 内

界の頭頭物物を時時

(53)

頭人甘も、すなは ち わが 有

彼処にあるににたれ

去も未来も共に即今の意

れ目覚されることによって﹁ある﹂のであり、 従って過去未来といえども を ﹁期待﹂ということ

でなくてはならな

げることが出来る。

のがそれで、これ

はずの時を包蔵︵ 呑

六 %. 丈六八尺の﹄

において過去を現在 時に見出そうとする見解とも考えられるから、

られるであろう。 か

ものとも見られるが、

後述する実践的自由

道元の時間思想が現

的に認めざるを得な

想 性格は、しばしば 駿

未来現在,

、︵

6

︶いく千万な㈹

-

(54)

そのうち特に重点

間の位置性とは、

不連続性へ含めて

らである。のみなら

るから︶ことからし

に更に立ち入った

考察を試みようとする者である。

的な叙述としては

い のである。

存在は必ずその時

り 立ち、そのゆえに

ることを知り得たのである。 二

、時間の断絶性とその意義

53 W 何 6 Ⅰ

(55)

との見解が 、ょ 9 強

らなりながら﹂と 前

よりもむしろより 多

た ﹁有時の経歴﹂ な

り 明日に経歴 す 、今 目ょ り 昨日に経歴 す 、昨日より今日に経歴 す、

というのがそれであ

識の自在的性格に基

た ﹁経歴﹂というこ において経歴を説く 従って経歴とは時間

に 応じようとする 概

て 再び経歴の意味を

に 経歴すると参学す ︵ 47 ︶ 所以がそこに見られるのである。

の 連続性を無視するわけではないのであるが、 より以上に断絶を

はこれで終った ねげ

意義があるか、また

なくてはならないか

論 である。そこ (4C6)@ 54

(56)

( 田打 )

断絶の意味を虚実の

時の存在としてその することはやがて実践

もまず 繊 悔の意味を

、道元もその重要性 を 説くことは特に難声山色の巻で有名である︶

﹂となくしては成り 丈

実に立 卸 しなければ

て 、ごまかしも利か

あるとするのが有時

知られるのである。

も 断絶であって断滅

るのではなくして、

ある。有時の本来の

くものではあるが、 それを成り立たせているも

的な超越・解脱の原理と

(57)

すべてが虎ではあるが、論理的分析に従っ であって、その 各 時において存在をそれぞ はない。ある時は三頭入費ある時は丈六八 も 認め得ないことを意味する。それが 有 ︵ のもそれと同様で、そこに有時が現成公案 徳川、明治は明治と、それぞれその時にお にして滅する、みんな一時一時で、これが 意味される所以の大要は、お ょそ 伺 い 得 ろ しかしなお入念に見れば、右の如き考え ろん前後 際断 ・刹那生滅で宗教的主意は尽 説明を経なくては落ち付かないものがある 法位に住するのではあるが、実際としては がその実を断って 虎 となるには維新という なく直ちに断絶の意義が説かれているので の 宗教的特質を開示すべき所以の論理が潜 の場合がある。それは自然現象としての そ れば自然界における断絶は因果必然の自然 9 人為的努力がこれにあずかって創造的な ぅ のはなぜであろうか。それは一応不合理 間は不連続であり刹那生滅 れらは当然実在するもので をその前後において必ずし あって 灰ネ しなⅠ リと 舌口われる ︵ 00 ︶

趣きを例示して、徳川は ゆえ を﹁虚にして現われ 虚 われわれは、その 虚 として れるわけである。 すわげには行かない。もち

としては、その間に媒介的

は灰 としてそれぞれその を 媒介するのであり、徳川

だは

何等触れられること

﹂ そ 超越・解脱・脱落など しては質を異にする二 つ 考える必要がある。何とな 界 には自由意志の介入があ 為 世界とを区別なく取り扱 に 考えれば真意を誤り恵壬 (408)@ 56

(58)

道元の時間論とそ に す ( 居 る こ ま ら も こ た

ので に注 決 な 意 川 断 い な 明 し と 要 治 て い す ) 決 ぅ る な 断 こ こ ろ な と と 人 忘 で は 事 れ あ 、 界 る る そ と の 。 れ を 趣 む が 同 ぎ し 自 尊

に説

を言 大 る 法 然 う い 爾 く の に と 所 で 決 し 以 あ 断 て が っ を 目 あ

な 力 味

然 現象ではないが、 義

﹂に薪炭なる自然界と生死

において見出すべきものと思

のである。

和合であるが、その

必然︵後述する如く

合しさえすれば必然

断絶には、上述のよ

しば抵抗が感ぜられ

したものしⅠは号目え

が交錯

、先覚

ある。人間世界の現実

しその決断や努力に

決断も努力も最初か

57 [ 仰 )

(59)

尽有

はっらなりながら時時であ

ものなることに注意しなければな

、道元の時間論が意識的性格に

可能なのであり、心理的自由が

もできないのであるが、因果は

現在性とその意義

- る 。換言すれば存在は連続しっ っ その因果とは実は因果が在るので らない。因果をもって認識のため おいて説かれる所以もまた是認 せ 実現される所以でもある。存在は 認識の型であり形式であるから、

て 、ここにおいても思い合わ 衝動・欲望・感情等︶に委せるのでなくして、 あくまで習 う のであり習練 りも、むしろ自然の如くで

じないはずのものである 進 という内容的実質がなく 。換言すれば、実の実たる れは実践的自由として次に あるので︶ によ るものと称すべ き ものである。 ただその実践なるものが、 せる趣きのものであって 、 すべては一如の世界と言 い得 べきものである。 換言すれば、実にして 虚な 結局そこにあると思われる されるべぎである。自己を自然性︵本能・ するのではあるが、ただそれに抵抗を感じ あり自然と一如の世界に悟入した境地であ 。そして、そこにまた実にして 虚 なる所以 ては、勝義において超然たるを得ず、その に 基づいてこそ虎が成り立っのであり、 ま 論考する所であるが、実際は不離の関係に 抵抗から脱落していること︵その点が心理 そこに至っては実践も脱落も同時であり、 るゆえに 畢克 空であり、差別に即して平等 のである。 穏 (41

(60)

道元の時間論とその 意義

それによって把握し

要する限りは因果を

違約如意識を言 う ので

でもある。かくて 意

可能である。因果の必

特性に生きる所に自

根拠なることが知ら れたのである。

在 に集約して考え

ることに着目したい

理 的なるのゆえに 意 識 性の範囲を出ないから当然言い得ることで、

には相違ないのである

ぇ 断絶にもまたがって

特色付げられる二方

自由なるものは、どの

は 自然界においても

いてであり、自然界

味 における自由︵ 過 去 的な必然に対しては超越が自由を可能にし、

にそ実践的自由であ 59 (4 Ⅰ ]1 )

(61)

(412) 60 性

べの

と と

末次れい意か

言 し き の が な っ

い と の ら よ に 対 っ 得 お が れ る 方

で一

明 煮 に

は 保 え る て そ よ 一 の い 侍 る 所 そ

兄 山 も と わ 果 も 絶 が こ と サナ し ン ァ Ⅰ ま は

(62)

道元の時間論とその 意義

ることは出来ず

、ま

る 。人間も自然的存

を 必然的に受ける

しろその因果律のゆ

性 に意義が生じてくる

れるべ

き ものと言っ

61@ (413)

(63)

の 原因に よ るもので

あり、しかも偶然が 逆 方向の流れの会合す

であり、場合によっ

えに超越に よ る心理 的 自由の意義と価値とがあるのでもある。否、

然と 偶然︶ に 対処し

遊離となるから︶ 人 実践的自由の根拠たる 思わざるを得ないのである。 の 二つを挙げること 証 一等とは 証 得を未来

新しく 仏 因を選ぶ 所

己を実現するのが 修

釆への連続性を即今

ぎ 思想でなくてはな

完全に否定し尽した り、 X はそれを無視しょうというのではない。

から、やはり道元 と

超える所以があるこ

あるが︶。﹁大乗実教 (414)@ 62

(64)

道元の時間 諦 とその森 券

6 5

檜牡 義年

ふ暴昌鷺怯字

くはずの思想性格で あることを知り得るのである。

を 邪見として退け、

@O

春 と知り、 茂盛

のごとし、

得しやすい であろう。

ののありなしを そ

﹂とによって超えるの

話 の 巻 ︶で、 修証一

てほ ならない。かく ㏄

(65)

明言している。

紀要﹂

第セ集

︶参照。

冗の時間思想にお

ならない。何

ることが意図

主体的な現在としては

ずるものの

(66)

先づ 、その 祀二 0 之 六一神女桐の項に 、

ぎ ぬいたものである

要と 、 白湖廟碑を 宋会要に見える 嫡祖 の記事

て 忽ち金箆 的 航海

が 進んだのにも よる

ぬ ることを見逃がす

料 として 嫡祖 信仰の 消長を解明して見たいと思ふ。

仰の発達

(416)@ 64

(67)

宋廷 の 封 賜から見た な 白 女 例

い有廟

こ 封 へ は と 」 」 最 ュ の の 後

推注

前 の

祭文

へ 「

せに 末乾

よ て き 年 5

8

名人戸

を・ ニ 略 れ 加

しち

たが

討 の っ 普 で た 佑 あ も 眞 っ

てと

0

人 ピ 、 思 、 記 は の

事ね

のる

」 句

作 。 は

と「

大本酒

順 差 廟 神 @65 く 4 Ⅰ 77) 篆祖 信仰の発達 廟 年 な 神 に い 宋 卒 業 。 会 に

福す要

入 を な に れ 加 わ 載 ら 討 ち せ れ さ 、 ら た れ 神 れ

、 に と

して ぬ るのが見えるが、次にそれ を 批判する。 加封霊恵 ・ 昭血 人 。 また、 祀二 0 之 五一張太師桐の項に 、 在 福州 福清煉 。::一往蒲田螺 岩 浸出征八 % ︶

加封妙蕪 二字。 ︵ 甫 ︶ 三十年十二月謝 威 宗 乾道三年二月 加 封 侯禧 ・ 妙底 ・ 普佑 真人。 それから 禧 三一之三一順 済 廟の項に 、 恵 ・昭恵・集福天 ・ 顕 忠衛 妃 。

(68)

して賜ったことを 示 げ ﹁ 賜額順潜 ﹂の件を

はじめて﹁

順済 ﹂前額

を賜 p た経緯

これだけの問題が指摘できるのである。

諸資料と対比し、

明 練思に引く程 端学

を 抜かしたものとす べく、 嘉 宗元年の﹁ 顧 忠衛 妃 ﹂といふ対抗 も、 もう 。ざっと見ても

に 合はぬ し 、 検鋪の

とすべぎであらう。 、紹興四年に霊 恵 ㏄ 助順妃 、 嘉

宗元年に紺

癩 忠衛 妃 に加 封 されたところまで書いてゐる。 封が 紹興四年十二月

参照

Outline

関連したドキュメント

The edges terminating in a correspond to the generators, i.e., the south-west cor- ners of the respective Ferrers diagram, whereas the edges originating in a correspond to the

H ernández , Positive and free boundary solutions to singular nonlinear elliptic problems with absorption; An overview and open problems, in: Proceedings of the Variational

Keywords: Convex order ; Fréchet distribution ; Median ; Mittag-Leffler distribution ; Mittag- Leffler function ; Stable distribution ; Stochastic order.. AMS MSC 2010: Primary 60E05

In Section 3, we show that the clique- width is unbounded in any superfactorial class of graphs, and in Section 4, we prove that the clique-width is bounded in any hereditary

Inside this class, we identify a new subclass of Liouvillian integrable systems, under suitable conditions such Liouvillian integrable systems can have at most one limit cycle, and

Greenberg and G.Stevens, p-adic L-functions and p-adic periods of modular forms, Invent.. Greenberg and G.Stevens, On the conjecture of Mazur, Tate and

The proof uses a set up of Seiberg Witten theory that replaces generic metrics by the construction of a localised Euler class of an infinite dimensional bundle with a Fredholm

Using the batch Markovian arrival process, the formulas for the average number of losses in a finite time interval and the stationary loss ratio are shown.. In addition,