はじめに 二〇一九年から徐々に世界的に蔓延し︑猖獗を極めた新型コロナウイルス感染症の流行について︑個人的には既
視感と驚きとがないまぜになった複雑な思いで受け止めてきた︒既視感とは︑幕末明治期のコレラの流行現象を修
士論文のテーマにした者にとって︑社会的・組織的な対応における混乱や人々の不安・恐怖の有り様が︑一世紀半
から二世紀前の状況の再演であるかのように思われたということである︒その上でなぜ驚いたかと言えば︑新型イ
ンフルエンザやデング熱等々︑それまでも身近なところで引き続き感染症流行が起こっていたのも確かであるもの 論文要旨 本稿は︑近代の衛生政策に大きな影響を与えたコレラについて︑明治一〇年代の流行に焦点を当てて取り上げる︒
まず︑幕末以降の流行と人々の宗教的・民俗的対応を概観した上で︑一八七九年のコレラ流行以降に焦点を当てる理由を述べ
る︒とりわけ︑内務省によって教導職がコレラ予防の啓発活動に動員されたことに注目している︒後半では︑それに関連するテ
クストとして
︑ ﹃
虎列刺豫防諭解
﹄ ︑﹃
コレラ豫防心得草
﹄ ︑岸上恢嶺﹃説教帷中策﹄第三五席︑干河岸貫一﹁虎列刺病豫防並に消
毒法に注意すべき事﹂について検討する︒それらの検討から︑神仏の加護を全面否定しないかたちで︑政府の方針に沿った衛生
の徹底に向けた自助努力を促す言説の特徴を確認した︒
キーワード コレラ︑衛生︑内務省︑教導職
『宗教研究』95巻2輯(2021年)
近代日本におけるコレラの流行と宗教
西 村 明
の︑そうした流行も公衆衛生上はある程度﹁飼い馴らされた﹂状況と言えるものであり
︑ ﹁
まさか二一世紀に入っ
てこれほどまでに人類が感染症に振り回わされることになるとは
﹂ ︑
という困惑が生じたからであった︒二〇世紀
前半までは感染症への対応が医療や公衆衛生を進歩させたが︑それ以降は生活習慣病への対応が主なものとなって
いたはずであった︒ひょっとすると︑今後も新種のウイルスへの対応を迫られる新たな感染症の時代に突入したの
かもしれない︒
修士論文でコレラについて論じたものの︑それ以降はコレラの防疫活動で殉職した巡査の神格化をめぐる問題 1を
除いては︑二〇年以上個人的な関心から離れていた︒しかし︑現状に後押しされるかたちで今回改めてこの問題と
向き合うこととなった︒本稿では︑明治一〇年代前半のコレラの流行に焦点を当て︑そこに見られる政府の衛生政
策ならびに宗教政策と︑人々の信仰実践との関わりについて︑先行研究と当時の史料を参照することで明らかにし
てみたい 2︒百数十年を経た現在の新型コロナ感染症流行に直面するわれわれの状況を照射するものとなるのではな
いかという期待からである︒
一 幕末明治のコレラパンデミック
まず︑本稿で取り上げるコレラという感染症について説明しておく必要がある︒コレラという通称で呼ばれる感
染症はいわゆるコレラ菌によって引き起こされる細菌感染症である︒その病原菌は大きく三種類が認められている
が︑そのうち一九六〇年代以降に時々流行したものはエルトール型やO一三九であり︑症状は軽く治療によってほ
ぼ完治できる︒それに対して︑一九世紀に猖獗を極めたコレラは古典型あるいはアジア型︵アジアコレラ︶と呼ば
近代日本におけるコレラの流行と宗教
れるもので劇症をもたらすものであった︒発症者には下痢や嘔吐︑痙攣や皮膚の硬直がみられ︑激痛や頭痛・めま
い・耳鳴りが認められることもある︒症状の悪化で興奮状態や錯乱状態に陥り︑皮膚の変色︑手足の収縮︑心臓付
近の圧迫感と耐え難い痛みが見られ︑一両日中に死に至ることも多かった︒
コレラは︑元はインド・ベンガル地方ガンジス・デルタの風土病であった︒ガンジス河流域のヒンドゥー教の聖 地への巡礼者の移動によって︑コレラが流行病となるにいたったと見なされている 3︒しかし︑コレラの流行化はそ
うした国内的な宗教事情にだけ起因したのではなく︑複数の要因があった︒外発的なものとしては︑イギリスによ
る植民地化過程の影響が大きく︑とりわけ交通システムの発達がコレラの流行を加速化したと言える 4︒歴史的には
一九世紀にわたって︑五回の世界的流行が認められるが︑一九世紀後半にはコッホらによるコレラ菌の発見によっ
て細菌病原体説が立証され︑生化学的対応が可能となった 5︒ 日本における最初の流行は︑第一次の世界的流行の最中で︑一八二二年︵文政五︶に始まった︒西南地方に上陸 して東海道にまで及んだが︑箱根を越えることはなかった 6︒コレラという未知の病が与えた衝撃は︑当時の呼称に
表れており﹁見急
﹂ ︵
対馬
︶ ︑ ﹁
鉄砲
﹂ ︵
豊後
︶ ︑ ﹁
三日コロリ
﹂ ︵
大坂︶などと呼ばれた︒二度目は一八五八年︵安政
五︶から三年間続き︑江戸だけでも死者が十万余とも︑二六万余とも言われるほど︑多数の死者を出した︒三度目
の流行は︑一八六二年︵文久二︶であり︑この夏患者五六万余︑江戸だけで死者が七万三千人出たという︒
明治に入って最初の流行は︑一八七七年︵明治一〇︶であり︑その後一八七九年︑八二年︑一八八六年︑九〇年︑
九一年︑九五年︵明治二八︶と︑数年おきに大流行を繰り返した︒それ以降は大流行には至らなくなったが︑たび
たびコレラ流行が発生している︒明治最初の大流行となった一八七七年は︑英米の外国艦船が横浜と長崎という二
か所の開港場にもたらしたもので︑それが西南戦争終結と重なり︑その帰還兵によって全国に蔓延した︒また︑罹
患者数五万人を越えた最後の大流行となった一八九五年についても︑日清戦争の帰還兵によって広まったとされて
いる︒戦争による人の移動が流行の触媒となったという点も︑近代的性格を刻印された感染症として興味深い特徴
である︒
二 コレラに対する宗教的反応
近世末の日本において︑この未知の病が人々に衝撃を与えたことは
︑ ﹁
三日コロリ﹂などの呼称からもうかがえ
るが︑では具体的にどのような行動を起こして︑コレラに対応したのだろうか︒
朴炳道は︑一八世紀後半から疱瘡︵天然痘︶流行のたびに登場した﹁疱瘡絵﹂や安政地震における﹁鯰絵﹂のよ
うに︑一八五八年︵安政五︶の二度目のコレラ流行以降明治の流行時まで﹁コレラ絵﹂が描かれたことを指摘して
いる︒そこにはコレラを起こす存在として鬼が︑それを防ぐ存在として加藤清正・大井大明神・少彦名命などが登
場している︒加藤清正については
︑ ﹁ 虎列刺﹂の表記に見られる虎のイメージから朝鮮出兵における虎退治にちな コレラ
んだものだろう︒一八六二年︵文久二︶のコレラと麻疹の同時流行の際には︑疱瘡や麻疹封じに登場する鍾馗や源
為朝がコレラを防ぐ神としても描かれたという 7︒ そのほかにも様々な庶民的・民俗的な反応が見られたが︑阿部安成によって多くの事例が紹介されているので 8︑
それを踏まえて整理しておきたい︒
近代日本におけるコレラの流行と宗教
1 予言︑流行正月︑豆まき 一八二二年︵文政五︶秋︑兵庫の赤穂城下では︑往来市中の家ごとに門松やしめ縄が飾られ︑年始のような様相
がみられた︒地元の人によれば
︑ ﹁ 国君より歳 とし改 がえを仰付けられ
﹂ ︑ 正月年始のような状況であったという 9︒ここに見
られるのは︑流行正月であり︑門松やしめ縄飾り︑年始の挨拶など正月行事を模倣することによって︑災厄に充ち
た年を追い払おうとする民俗的態度で︑そうした姿勢を藩からも求められていたということがこの引用よりうかが
える︒人為的に年替を行うことで︑災厄に充ちた旧年をリセットし︑新たに到来する時間に期待を寄せる時間刷新
の意識が認められる︒一八五八年︵安政五︶秋のコレラ流行についての記述によれば
︑ ﹁ かかる年の疾過ぬべしと思 はやすぎ
ふより歟 か︑門辺に松竹を餝 かざり立︑七五三縄を引巡らし︑煎豆を蒔くもあれバ︑厄払ふとて外 そとも面に来るあり﹂と流行 正月とともに︑節分の豆まきも登場している A︒節分の豆まきには時間の刷新ばかりではなく
︑ ﹁
鬼は外︑福は内﹂
と言われるように︑空間的認識も含まれる︒災厄をもたらす他なる存在を﹁鬼﹂に仮託し︑それを外に追い払い︑
それに代わって
︑ ﹁
富﹂や﹁仕合わせ﹂を象徴する﹁福﹂を︑招き入れようとする︒
2 呪符︑守礼 そうした内/外の空間的認識に基づいた︑呪術的対応は他にも認められる︒家の戸口に﹁八つ手の葉一枚︑杉の
青葉少々︑赤唐がらし二︑三本︑赤紙一枚の四つ﹂をつるすとコレラに患わないとのまじないも見られた︒阿部
は
︑ ﹁
八つ手の葉には天狗の力が仮託され
︑ ﹁
杉﹂は災厄はもはやすぎたとの語呂あわせであろうし︑またとうがら
し・赤紙はその色が疱瘡除けに用いられていたため︑その転用であろう﹂と解説している B︒戸口が内と外の境界線
として認識され︑コレラという異物の侵入に対する前線と見なされていたことがうかがえる︒
3 疫神送り︑百万遍念仏 しかし︑そのように境界線︑あるいは前線とされたのは︑家の戸口ばかりではなく共同体レベルにも存在した︒
江戸におけるまじないや加持祈禱では︑人々が集まって
︑ ﹁ 鉦︑太鼓︑螺︑其外鉄棒︑割竹にて町送りいたし候﹂
と音響による疫神送りの様相もあらわれている C︒同じ一八五八年︵安政五︶の流行時における山梨甲府の事例では︑ 龍泉寺で毎日﹁大念仏﹂が行われ︑村民全員による﹁百万遍﹂が行われた D︒こうした疫神送り・百万遍念仏といっ
た対応は︑害虫封じの虫送り同様︑中世からの御霊信仰の名残として行われたものである︒
安丸良夫によれば︑中世では亡霊が疫病・凶作の原因として疫神送りによって村境や川海などに送り捨てられて
いたという︒しかし︑近世になると政治的君主や祖先の霊が体制的秩序を保護する存在として神格化され︑亡霊た
ちの地位は零落して容易に成仏もしうるようになる︒ただし
︑ ﹁
なにか大きな不幸があると︑それは遺執を残して
死んだ人の亡霊の祟りだとする心意は︑近世になおつよく存続し
﹂ ︑ ﹁
飢饉や疫病という絶対的な否定性に直面した
とき︑人びとが亡霊を怖れて︑それを祭る盛大な民俗行事へとはしる﹂と安丸は論じている E︒ コレラはまた
︑ ﹁
狐﹂としても表象されており︑狐に憑かれたとされるコレラ患者の体内から︑暴力的にそれを
追放しようとした事例もある F︒日本における第二次流行が起こった一八五八年︵安政五︶は︑いわゆる安政の五ヵ
国条約締結の年であったが︑神奈川の根岸では米・露・英・蘭・仏の五か国の異国人が悪狐八万匹を日本に放して
﹁人民を取殺す﹂という噂も流れた G︒一八六三年︵文久三︶刊の柴田花守﹃虎狼痢祅教毒予防方﹄では︑清国での太 平天国軍の状況を伝えながら︑コレラとの対比でキリスト教の侵入を脅威として説いている H︒ コレラの流行に際して︑既存の民俗的認識枠組みの中で処理が試みられていた一方で︑コレラの境界内への侵入
近代日本におけるコレラの流行と宗教
が︑疫神・亡霊のみならず狐や外国勢力︑キリスト教の脅威としてもとらえられていたことがうかがえる︒
三 一八七九年のコレラ流行の歴史的意義
明治に入り︑元号が変わったからといって︑こうした民俗的対応が消滅してしまったわけではなかったが︑いさ さか状況の変化が見られる I︒例えば︑一八七九年︵明治一二︶七月一八日付﹃朝野新聞﹄の記事において︑小豆島
で起こった次のような事件が伝えられている︒
讃州小豆郡土庄村にては︑コレラ病退治の祈禱に百万遍の祈念を致したいと郡役所並びに警察分署等へ出願
せしにより︑郡役所︑警察署にてはこの節柄︑多人数集合してはかえって有害なることを懇々説諭がありたれ
ども︑なにぶん聴き入れず︑︵中略︶大勢船網を引きて村内をしきりに巡回するゆえ︑郡吏︑巡査はあちこちに
駆け廻り説諭に尽力せられたれども︑なかなか止める気色もなく︑夕刻に至り同村医員某の宅へ押しかけ悪
口︑暴言を吐き散らすのみか︑無暗に某を打 ちょう擲 ちゃくし︑内儀の面部へ泥を塗りつけるなどはなはだしき乱暴を働き
しにより︑いよいよ捨て置きがたしとして︑巨魁の者両三名を捕縛せられたのでようやく鎮定せしと南海新聞
に見ゆ︒白 たわけ痴をするも程が有るもの︒ 郡吏︑巡査による説諭や介入といった行政的対応や
︑ ﹁ 白 たわけ痴をするも程が有る﹂という新聞記者の啓蒙的まなざ
しは︑近世には見られなかった新たな事態である︒
先述の通り︑明治の流行は︑一八七七年︵明治一〇︶に始まり︑一八七九年︑八二年︑八六年︑九〇年︑九一年︑
九五年︵明治二八︶と続いたが︑本稿では一連の流行のうち︑一八七九年︵明治一二︶のそれとその直後の動向に焦
点を当ててみたい︒その理由を列記すれば以下のとおりである︒ ︵一︶この年は三月から九月にわたってコレラが流行し︑罹患者数約一六万人︑死者数一〇万人を超える国内最
大の被害をもたらしたことがまず挙げられる︒単純に死者数のみで比較することは困難であるが︑一つの目安とし
て先述の戦争のそれを引き合いに出しておきたい︒西南戦争の戦死者は官軍・西郷軍合わせて約一万二千人︑日清
戦争の日本軍戦死者はそれよりやや多い程度だがその九割近くを病死者が占めた︒日露戦争では戦死者数は約八万
四千人とされる J︒単年度で日清日露の戦死者数に匹敵する被害を出しただけではなく︑遠い戦地ではなく身近なと
ころで短期間に人が亡くなっていく状況は不安と恐怖を煽ったことは想像に難くない︒
︵二
︶ ﹁
コレラは衛生の母なり﹂という言葉があるように︑近代日本の衛生行政確立の上で明治初年代のコレラの
大流行は大きな契機となった︒一八七五年︵明治八年︶に医療行政のほとんどが文部省医務局から内務省衛生局に
移管されたが︑hygiene に﹁衛生﹂の訳語を当てた医師の長与専斎︵一八三八︱一九〇二︶がその局長として指揮を
取った︒一八七七年の明治最初の流行の際は︑長与も狼狽した様子であったが
︑ ﹁
虎列刺予防心得﹂を達し海港検
疫や各家予防に医師・衛生係・警察官 Kを動員して対応した︒一八七九年の流行に際して︑衛生施策の予算化をめぐ
る諮問機関として中央衛生会と地方衛生会を創設し
︑ ﹁
コレラ予防仮規則﹂を発布し︑翌年には﹁伝染病予防規則﹂
も成立する︒一連の法制度の整備を通して︑検疫・消毒等の予防政策や感染患者の避病院への強制隔離・遺体処理
の方針等︑トップダウンの体制が敷かれた L︒ ︵三︶しかし︑こうした急速な中央集権的で︑かつ警察も動員しての強権発動に対しては︑一般の人々からの大
きな反発も招いた︒官民の衝突にいたる事例も多くみられ
︑ ﹁
コレラ騒動﹂や﹁コレラ一揆﹂と呼ばれている︒先
近代日本におけるコレラの流行と宗教
述の小豆島の事件もそうした動きに棹さしたものである︒それらは︑明治政府の開化政策に対して明治初年代に起
こった一連の新政反対一揆の延長上で理解することもできる︒ただし︑新政反対一揆が西日本に集中したのに対
し︑コレラ騒動についてはほぼ全国的な現象であった︒その発生時期も一八七九年︵明治一二︶に集中しており︑
未知の衛生施策が人々の生活に直接的に介入してきたことに対する反発は大きかったと言える︒
︵四︶明治期においてコレラが流行しはじめた明治一〇年前後は︑明治政府の宗教政策が次々と打ち出され︑国
民教化の推進と近世的信仰世界の大幅な再編が試みられた変革期でもあった︒神仏分離やキリスト教の黙許︑民間
宗教者の活動制限などがまずは挙げられようが︑本稿と関連するものについて触れると︑一八七二年︵明治五︶の教
導職設置を始め︑七四年の﹁禁厭祈禱を以て医薬を妨ぐる者取締の件
﹂ ︵
教部省第二二号達︶や︑一九七七年宗教
行政の教部省から内務省社寺局への移管などが進められた時期であった︒神官僧侶を中心に編成された教導職は︑
三条教則や十一兼題︑十七兼題を通して敬神愛国をはじめとした国民教化や啓蒙の担い手となったが︑一八八二年
には神官の教導職兼務が廃止され︑一八八四年には教導職そのものも廃止される︒一八七七年︑七九年︑八二年と
いう明治期の最初の三回のコレラ流行はこの教導職が存在していた期間の出来事であり︑とりわけ内務省社寺局が
掌管していた時期として︑警察と共に内務省行政の中でどのように衛生政策と関わったのかが問われるべきだろ
う︒その直接的な関与を示す二つの法令が存在している︒一つは︑一八八〇年︵明治一三︶四月一七日の内務省達
﹁虎列刺病豫防諭解書を各教導職へ頒布す﹂であり︑もう一つは一八八二年七月一日の内務省達﹁虎列刺病蔓衍の
兆候あるに付教導職をして豫防諭解書の旨趣に據り人民へ説諭せしむ﹂である︒この二つの達に登場する
﹁ ︵ 虎列
刺病︶豫防諭解書﹂への注目が一つの手がかりとなるだろう︒
こうしたことを踏まえ︑本稿では︑当時の行政文書や教導職の活動に関わるテクストを取り上げながら︑神官や
僧侶たちがこうしたコレラの流行に対してどのように対応したのかを確認していくことにしたい︒
1 ﹃虎列刺豫防諭解﹄ 一八八〇年︵明治一三︶四月一二日︑内務省社寺局と衛生局の編集で﹃虎 コ列 レ刺 ラ豫 よ
ぼ う の さ と し
防諭解
﹄ ︵
以下﹃諭解
﹄ ︶ が︑内務
省社寺局の出版で公刊された︒現在︑国立国会図書館デジタルコレクションには︑同年に翻刻された一四の異本が
オンライン公開されており︑その書誌情報から全国各地で翻刻・販売されていたことや︑そうした翻刻者の一つと
して﹁浄土宗大教院﹂の名も上がっていることなどがうかがえる︒
内務省名による﹁緒言﹂は︑本書の趣旨を次のように説明している︒一八七九年︵明治一二︶のコレラ流行によ
って約一六万人の患者のうち十万人が亡くなったことを受け︑政府が予防規則を設けて地方官吏が尽力したが︑
﹁細民﹂が趣旨を解せずに病気への無理解や患者の隠蔽・忌避︑規則不履行によって予防の効果が上がらなかった︒
そのため︑まず﹁開諭啓導﹂して﹁蒙を発 あばく﹂ことが必要である
︒ ﹁
緒言﹂はそうした点を踏まえた上で︑啓蒙活
動によって人々を﹁至惨の毒害﹂から脱するようにするために
︑ ﹁
特に教導職の説諭に頼﹂ることの必要性を強調
する︒教導職による指導は︑各自が予防法を実践し︑養生自衛の仕方を身につける﹁己が一身の健康を保護するの
良心﹂の啓発につながり︑引いてはそれが﹁日本全国の健康即ち富強を他日に企望するを得べし﹂という富国につ
ながるということにも言及している︒
﹃諭解﹄の本論部分は三章構成で︑第一章﹁虎列刺其他伝染諸病の予防及び制伏の事
﹂ ︑
第二章﹁虎列刺其他の伝
染病を予防する各人の心得の事
﹂ ︑
第三章﹁虎列刺其他の伝染諸病を制伏する人民各自の心得の事﹂となっている︒
近代日本におけるコレラの流行と宗教
第二章・第三章において具体的に説かれている﹁心得﹂については︑当時の政府の把握していた衛生観に基づく具
体的な行動規範が示されている以上に︑とりたてて注目すべきことはない M︒例えば︑伝染病の原因には︵甲︶空気︑
︵乙︶飲 のみ水 みず
︑ ︵ 丙︶飲食物
︑ ︵ 丁︶他人との交通の四つがあることを挙げ︑それぞれについて問答形式で留意点が示され まじわり
るほか︑罹患者の隠蔽によってかえって感染が家族や町村内全体に拡がる懸念の指摘や︑避病院の趣旨と実態につ
いての解説が加えられている︒
本稿で注目したい点はむしろ
︑ ﹃
諭解﹄の第一章を中心に︑コレラそのものの理解と神仏との関係が説かれてい
ることである︒その点を少し詳しく紹介しておくことにしたい︒第一章の冒頭で
︑ ﹁
人の生活を妨げ身の健康を害
し甚しきは貴とき命を奪ひ去りて之を絶やさんとするに至る﹂敵として︑大きく二種類があることが触れられる︒
一つは
︑ ﹁
戦争洪水飢饉大風火事地震等﹂の﹁形ある敵﹂であり︑もう一つが﹁形なき敵﹂で︑コレラその他の伝
染病がそれに当たるという︒後者は知覚不能で隠れて迫ってくる性格から
︑ ﹁
人間に害をなすこと形ある敵よりは
るかまさりて畏るべき大敵﹂であるとしている︒
しかし︑こうした﹁形なき敵﹂も︑自然災害等の﹁形ある敵﹂と同様に﹁天然の理﹂によってやってくるもので
あり
︑ ﹁ 決して神仏の冥 ば罰 ち﹂でも﹁悪魔の所 しわざ為﹂でもないと論じる︒その理由は︑神仏の怒りであれば善を助ける
神仏が悪人とともに﹁慈悲善根の人﹂まで同じように命を奪うわけはなく︑悪魔のしわざであれば人力で防げるわ
けがないからだという︒地震・暴風・長雨の類は人力での対処を越えていても︑伝染病については戦争・飢饉・火
災などとともに︑各自が適切な予防法を施せば︑その災害は免れることができるとする︒その上で
︑ ﹁ 徒らに神仏
のみを祈請するとも決して免るべきものにあらず﹂と述べ︑伝染病は神仏の影響によるものでないため︑神仏だけ
に頼っても避けられないということを強調している︒ ただし︑神仏への祈願を完全に否定しているわけでもない︒先の説明に続いて﹁さて災害を免るるに神仏の助 たすけ力
を仰ぐは勿論よきことなれど﹂と留保をつけ
︑ ﹁ 己も力を尽して﹂災害の発生原因への対策をしなければ﹁神仏と
ても加護する能はず﹂と述べる︒仕事における勤勉さや病気における適切な療養の例を挙げながら
︑ ﹁ すべて信心
をする事は実に殊勝なる事なれども其信心をなす前に充分一身の手を尽さねば信心も利益あるとなし﹂と︑信仰を
否定しない形でまずは自助努力が必要であるという論理展開で説明している︒
こうした神仏への言及はたびたび登場するが︑第三章においては︑各自が心得を無視し怠ったり︑注意しなけれ
ば﹁神仏も加護し給はざるべし﹂あるいは﹁たとい政府の力にも又神仏の力にも決して保護すること能はず﹂と︑
やはり自助努力の必要性を説く文脈で登場している︒
2 ﹃コレラ豫防心得草﹄ 先に取り上げた内務省の﹃諭解﹄刊行の翌月には︑食事や就寝の際の留意点をより平易に説いた﹃コレラ豫 よぼうこころ防心 得 えぐさ草
﹄ ︵
以下﹃心得草
﹄ ︶ が出されている︒鬼のような形相の﹁コロリ﹂の兄弟が︑人々の隙を見計らって﹁とつ付
くべし﹂と悪さを試みるが︑人々が用心をはじめたために仕事にならず
︑ ﹁
イツソのこと天竺へでも高飛してでか
けようよナア﹂と退散するさまをイラスト入りで描いている︒ここから︑教導職を対象に説諭マニュアルといった
性格の強い﹃諭解﹄よりも広い読者を対象としていることがわかる
︒ ﹃
心得草﹄の奥付には﹁口述者小田耕作﹂と
あるが︑一八八四年︵明治一七︶に﹁頑癬専門医﹂として﹃頑癬毒之弁﹄も著した医者であったようだ︒
それ以上に興味深いのが翻刻者である︒国立国会図書館デジタルコレクションに出ているものは
︑ ﹁ 翻刻施本者
近代日本におけるコレラの流行と宗教
本多正國﹂となっており︑東京府荏原郡南品川︵現在は東京都品川区北品川︶の荏原神社祠官となっている︒他方︑
京都大学富士川文庫所蔵のものは︑裏表紙に﹁東京神道事務分局翻刻﹂とあり︑奥付には翻刻者として﹁東京神道
事務分局長権大教正本居豊穎﹂と出ている︒いずれの版にも﹁施本不許売買﹂とあることから︑教導職によって翻
刻されて︑配布されたものであろうと推察される︒
﹃諭解﹄や﹃心得草﹄といったテクストの存在は︑一八八〇年代初頭に教導職が二つの内務省達を踏まえたコレ
ラの防疫活動への関与を示していると言えるが︑こうしたテクストがどのように活用されたのかについてのコンテ
クストについての手がかりはほとんどない︒そこで︑教導職を務めた僧侶による説教本に︑その具体例を見つける
ことにしたい︒
3 岸上恢嶺﹃説教帷中策﹄第三五席 ここでは︑岸上恢嶺︵一八三九︱一八八五︶による﹃説教帷中策﹄を取り上げる︒同書は﹃明治仏教思想資料集成﹄
第六巻に収められているが︑伊藤唯眞の解説によれば︑浄土宗の宗学者・布教家として著名であった岸上による浄
土宗宗学校西部本校教授時代の説教講本であり︑浄土宗説教本の傑作として明治期の布教界に画期的な影響を与え
たものであるという︒知恩院における別事念仏会や仏教講演会の講説を︑岸上の門下生たちが分担執筆したものと
なっている︒一八七九年︵明治一二︶発行の初編から一八八三年の第八編まで毎年一〜三冊が知恩院南門前の豊田
熊太郎から出版され︑京都・東京・大阪・名古屋で発売されている︒各編には四〜六席の説教が収められている N︒ 伊藤曰く
︑ ﹁
布教家としての恢嶺の本領は︑とかく難解になる教義を平易に︑しかも時代と大衆の感覚にマッチ
させて説き︑聖教の文言に今日的意義を見出しつつ︑萬古不易の仏教真理を伝えたところにある﹂という O︒一八八
二年︵明治一五︶七月刊の第七編所収の第三五席の説教は︑同年施行の新刑法に触れつつ﹃無量寿経﹄に説かれる
悪行とその報い︵五悪︑五痛・五焼︶が主題であったが︑その話のまくらとして︑書名への言及こそないものの先
述の内務省﹃諭解﹄の内容に触れつつ︑同年のコレラ流行の兆しを踏まえて聴衆に釘をさすものとなっている︒
﹃説教帷中策﹄第七編冒頭に﹁少教正岸上恢嶺講説﹂とあるように︑当時岸上は一四階級に分かれた教導職の五番
目に位置しており︑そうした教導職が﹃諭解﹄を踏まえてコレラをめぐる具体的な説教を行っていたことを示す数
少ない事例と言える︒したがって︑適宜補足を加えながら︑当該箇所を概観しておくことにしたい︒
説教ではまず︑五悪・五痛・五焼に関する﹃無量寿経﹄の一説が引かれた後︑次のように話が始まる︒ さて何れも早々能く御参詣︒最早当月は新暦の六月なれば漸 そろそろ々の時候に向ひ︑別して農家などは追々苗代の 時節なれば繁 いそかし忙かろうに︑能こそ繰り合せ参詣さられました︒毎年此夏分に向ふと︑彼恐ろしい虎と云字を頭 に冠た病気が処々に流行するのには殆ど困 こまる却ことぢや P︒ この説教が行われていた場の様子や時期︑参詣した聴衆の日常生活を垣間見せる挨拶程度の語り起こしに続き︑
コレラを話題にしていることがうかがえる︒これに続き︑前年のコレラ患者数・犠牲者数に言及し
︑ ﹁ 人間世界で
此病気ほど毒害を逞 たくましうするものはない
︒ ﹂
と述べる︒ここは
︑ ﹃
諭解﹄の緒言冒頭の﹁人世の毒害を逞うするもの虎
列刺より甚しきはなし﹂という表現を踏まえて言い換えたものであることが分かる︒それに続く箇所からも若干引
用してみたいが︑先に検討した﹃諭解﹄における神仏への姿勢をそのまま踏襲していることがはっきりとうかがえ
る︒
何分にも中
ち ゅ う か ら し も
等以下の者は︑其病毒の畏るべきを知らず︵中略︶一人の過 あやまち誤より千萬人の迷惑に及ぶ事ぢや︒
近代日本におけるコレラの流行と宗教
︵中略︶総じて災 わざわい害を免るヽに神仏の助 たすけ力を仰くことは勿論よきことなれども自己も十分に力を尽して其病患の 由て来る道理に対して撲 うちけ消す方法をなさざれば神仏とても加護をなさるることはできず Q︒ この後︑岸上は農民の耕作や商売における勘定を例に挙げ︑それらの自助努力を怠れば︑神仏は福利を与えない
ということ︑さらに医薬治療を求めずに神仏に祈るだけでは道理に当たらないために快復することはできないとい
うことを述べるが︑これらについても
︑ ﹃
諭解﹄第一章の記述をほぼ踏襲している︒
その上で
︑ ﹁ 其予防方法は去る十三年の四月︑内務省より教導職へ委 くわしく曲御達しに成てある事 ことゆえ故に︑席を重ねて
追々に詳細に説き明しまする﹂と続ける︒これは﹃諭解﹄のテクストそのものへの言及ではなく︑一八八〇年四月
一七日の内務省達﹁虎列刺病豫防諭解書ヲ各教導職ヘ頒布ス﹂を指しているようだ︒もちろん︑この達を受けて︑
浄土宗大教院でも翻刻を行い︑岸上ら教導職に﹃諭解﹄が配布されたということだろう︒先の引用の末尾で﹁追々
に詳細に説き明しまする﹂と述べていたが︑残念ながら以後の編の説教中にコレラ予防法についての具体的な言及
は認められない︒もし仮に︑記録に留められていない場でそれを説教していたとすれば︑やはり﹃諭解﹄の第二
章・第三章に示された具体的な対処法が紹介されていたことだろう︒
説教の冒頭の内容から判断するに︑岸上がこの説教を行ったのは一八八二年六月のことだと思われるが︑その直
後の七月一日には先述した通り︑内務省からコレラ蔓延の兆候に備えて教導職に対し﹃諭解﹄の趣旨による説諭を
行うよう達が出された︒その動きを知ってか知らずか︑岸上はコレラ流行の兆しを捉え︑三年前の流行を踏まえて
二年前の﹃諭解﹄を紐解き︑その趣旨を再確認すべく説教で触れたのだろうと考えられる︒
4 干河岸貫一﹁虎列刺病豫防並に消毒法に注意すべき事﹂ 続いて︑教導職の視点を相対化して捉えるために︑同時代の別の仏教者のテクストに目を移してみることにした
い︒一八七五年︵明治八︶に︑浄土真宗本願寺派の僧俗有志によって﹁本山の布教伝道を助くる﹂ことを目的に結
成された興隆社︵興隆教社とも︶によって︑一八七九年︵明治一二︶四月に﹃興隆雑誌﹄が創刊された︒当初は毎
週刊行であったが︑第一一号から毎月三号の刊行となり︑翌八〇年一二月の第六四号で廃刊となったものである R︒
同誌の第三七号から第四三号まで︑僧侶でジャーナリストであった干河岸貫一︵一八四七︱一九三〇︶が
︑ ﹁
虎列刺病
豫防並に消毒法に注意すべき事﹂を七回に渡って連載している︒その内容の多くは衛生学的視点からの啓蒙的論調
で
︑ ﹃
諭解﹄や﹃心得草﹄のそれと大きく異なることはない︒
しかし︑第四〇号に寄せた其四は︑神仏の利益や耶蘇基督の信仰と衛生観を論じており
︑ ﹃
諭解﹄や岸上の議論
を検討してきた本稿の主題から見て興味深い S︒干河岸はまず︑神仏の利益への信仰から︑護符や称名・題目の功力
にのみ頼ろうとし︑予防・消毒や医師・薬剤を不要とする見方を﹁大なる誤り﹂として批判する︒そうした姿勢は
神仏の加護によって︑戸締りや火元の用心をせずとも盗難や火難をまぬがれると考えるようなものであるとする︒
その上で
︑ ﹁
神官僧侶の無学無識なる輩﹂が悪疫流行に乗じて﹁財を貪らんと﹂してそうした神仏の利益を主張す
ることで︑彼らを普段から﹁生神﹂や﹁活仏﹂のように尊信している
︑ ﹁
種々の流伝浮説を信ずる頑愚の人民﹂が︑
予防消毒を怠って﹁徒に霊符と加持祈禱とのみを﹂頼ることとなり
︑ ﹁
病毒の流行これより一層の劇烈を加﹂えて
計り知れない禍をもたらすと主張する︒
他方で干河岸は︑大坂のキリスト教会における予防の実践をある種のグッドプラクティスとして紹介している︒
近代日本におけるコレラの流行と宗教
﹁本田町の耶蘇教会﹂で﹁外教︵この場合︑仏教の視点から見たキリスト教の意︱西村注︶の説教を聞く者のみは諭
さるゝを待たずして予防に怠らざりしと
﹂ ︒
その教会の信徒の多くは貧民であったが
︑ ﹁ 外教師﹂が本年は天候不順
のためコレラ流行の兆しがあるとして食事の摂生や衣服・身体の清潔さなどの衛生指導を施していた︒実際に夏に
コレラが流行すると
︑ ﹁ 預 ママ言のたがはざるに驚﹂いたが︑さらに説教で注意喚起したところ
︑ ﹁
本田教会の信徒のみ
は千人ばかりもある中︵信徒の感染者は︱西村注︶二三人に過ぎ﹂なかったため
︑ ﹁ 夫よりして該教会に加入する者
稍 やや多きに至れりと聞及べり﹂としている︒ 干河岸は本田教会の事例を紹介したのち
︑ ﹁
我國民﹂と西洋人を比較し︑前者の神仏への信仰と後者の﹁耶蘇﹂
へのそれとは﹁厚薄はあるまじ﹂としながら
︑ ﹁
我邦の巫僧は動もすれば神功仏徳を衒ふて利を貪らんとして道理
の如何を問はず︑外教師は真 まさか逆に文明の国に生まれし者なれば流行病には予防を怠るべからずという事位は疎外せ
ず﹂と両者の近代的衛生観の違いを強調している︒
とは言え
︑ ﹁ 神仏の功徳利益﹂を完全に否定・誹謗しているわけではない
︒ ﹁
神に霊感あり仏に利益あることは疑
うべきにあらねど人の尽くすべきだけの力を竭 つくさずして唯神仏に托せんとするは甚以て横着の至ならずや﹂と自助 努力の必要性を問うている︒ここで思い起こされるのは︑先述の﹁神仏の助 たすけ力を仰くことは勿論よきことなれども 自己も十分に力を尽して其病患の由て来る道理に対して撲 うちけ消す方法をなさざれば神仏とても加護をなさるることは
できず﹂という岸上の説教における神仏の加護と自助努力の関係についての箇所であり︑さらにはその種本となっ
た﹃諭解﹄第一章の該当部分である︒干河岸も︑おそらく﹃諭解﹄の記述を念頭におきながら先述の論を展開して
いたのだろうと考えられる︒
おわりに 本稿の前半で紹介した通り︑幕末から明治初期においてコレラという未知の感染症に遭遇した人々は︑既存の宗
教的・民俗的対応によって︑何とかこの災厄から逃れようとしていたことがうかがえる︒しかし明治に入り︑その
ような庶民的対応が︑西洋近代的な衛生観念や医療の移入とそれに基づく防疫政策と相容れない場合には︑コレラ
騒動という形で衝突が生じた︒一八七七年に教部省が廃止され︑社寺局において教導職をはじめとする宗教行政を
管轄していた内務省は︑すでに防疫活動に動員していた警察とともに教導職もコレラ予防の啓発要員に指定した︒
そこでは︑神仏の加護を全面否定しないかたちで︑政府の方針に沿った衛生の徹底に向けた自助努力を促すような
物言いがなされていたことをいくつかのテクストを通して確認した︒
本稿で論じた範囲からのみでは︑そうした政府の方針や教導職たちの取り組みがどの程度成功し︑また近代的衛
生観念の全国的な浸透にどの程度影響を及ぼしたのかについてはわからない︒また︑教導職ばかりではなく他の宗
教者たちも含めて︑こうしたトップダウンの政府方針に対しては︑さまざまな考え方があったはずだが︑そうした
ヴァリエーションを把握できるような史料にまでたどり着くことができなかった︒今後の課題としたい︒
今回の新型コロナ感染症をめぐっては︑宗教界でも世界的にさまざまな温度差の異なる対応が見られた T︒個人・
共同体・国家・世界などさまざまな位相で信仰実践をも含めた日常生活に制約をもたらす感染症と宗教をめぐる主
題は︑戦争などに比べればそこまで大きくは論じられてこなかった︒しかし︑それを考慮に入れることで︑宗教史
の見え方も従来とは大きく変わる可能性があるだろう︒
近代日本におけるコレラの流行と宗教
注︵
1︶これについては︑いくつかの場で論じているので参照されたい︒西村明﹁彼の死││増田巡査の神格化
﹂ ︵﹃
東京大学宗教学年
報﹄一七号︑一九九九年
︶ ︑同﹁殉職警官の慰霊と顕彰││﹁巡査大明神﹂増田敬太郎の場合
﹂ ︵村上興匡・西村明編﹃慰霊の系
譜││死者を記憶する共同体﹄森話社︑二〇一三年
︶ ︑﹁
疫病で検出される信仰世界││近代日本のコレラ流行を中心に
﹂ ︵﹃
宗教
学論集﹄四〇輯︑二〇二一年
︶ ︒
︵
2︶史料の引用に当たっては︑読者の読みやすさを優先し︑元の意味を変えない範囲で漢字や仮名表記に変更を加えている︒
︵
3︶見市雅俊﹃コレラの世界史﹄晶文社︑一九九四年︑一九頁︒
︵
4︶インド在住のイギリス人医学者は︑一八二七年の著作で次のように指摘する
︒ ﹁
この四〇年の間にインド半島全体が一つの帝
国にまとまった︒それまでコミュニケーションは隣接する地域の間でも遅くて︑まったく当てにならなかった︒ところが国内が
統一されることで商業活動が盛んになり︑コミュニケーションが間断なく︑活発におこなわれるようになった︒それだけではな
い︒インドの端から端まで軍隊が移動できるようになった︒忘れてならないのは︑現在みられるような規模での間断ない交通
は︑一八一七年の最初のコレラの大流行のときにまさしく始まったことである
era, 1827︵見市同右書︑二二頁所収 R. H. Kennedy, Note on the Epidemic Chol-︒ ﹂
︶ ︒
︵
5︶見市による﹁パンデミック・コレラ年表
﹂ ︵
同右書︑一四頁︶をもとに五回の世界的流行を一覧化すれば次の通りとなる︒
第一次︵一八一七︱一八二四
︶
インド︑中国︑日本
第二次︵一八二九︱一八三七
︶
コレラが文字通りの意味で世界的流行病となる
第三次︵一八四〇︱一八六〇
︶
第一波は一八四〇︱一八五〇︑第二波は一八四九︱一八六〇年
第四次︵一八六三︱一八七五
︶
地理的には最大の流行となる
第五次︵一八八一︱一八九六
︶
コッホによるコレラ菌の発見
︵
6︶立川昭二﹃病気の社会史││文明に探る病因﹄日本放送出版協会︑一九七一年︑一七七頁︒
︵
7︶朴炳道﹃近世日本の災害と宗教││呪術・終末・慰霊・象徴﹄吉川弘文館︑二〇二一年︒同
﹁ ﹁
災害﹂としての近世日本の﹁疫
病﹂と宗教的対処││疱瘡・麻疹・コレラからコロナまで
﹂ ︵
国際宗教研究所編﹃現代宗教二〇二一﹄二〇二一年
︶ ︒
︵
8︶阿部安成﹁病へのフォークロアと秩序
﹂ ︵岩田浩太郎編﹃新しい近世史⑤民衆世界と正統﹄新人物往来社︑一九九六年
︶ ︒
︵
9︶富士川游﹃日本疾病史
﹄ ︑二一八︱二一九頁︵阿部前掲︑四〇九頁所収
︶ ︒
︵
10 ︶金屯道人﹁安政箇労痢流行期概略
﹂ ︵
阿部前掲︑三九五頁所収
︶ ︒
︵ 11 ︶﹃東京市史稿﹄市外編・第四五巻︑五〇四頁︵阿部前掲︑四〇二頁所収
︶ ︒
︵
12 ︶同右︑同頁︒
︵
13 ︶市川喜左衛門﹁安政五午年八月暴瀉病流行日記
﹂ ︵阿部前掲︑四〇二︱四〇四頁所収
︶ ︒
また︑喜左衛門はコレラ流行の前年暮
れに﹁熊野七社大権現御神武の鳥﹂が加賀白山に現れ
︑ ﹁此世の人九分通死る難有︑依て我等が姿を朝夕共に仰信心者は必ず其 あおぎしんじんするもの
難逃るべし﹂との予言を告げたという噂が流れ︑その鳥の﹁御姿を家に神棚に祭りて神武御鳥と信心﹂したことが記されている
︵阿部前掲︑四〇二︱四〇三頁所収
︶ ︒
二〇二〇年の新型コロナ感染症流行に際し︑この故事にあやかって本文中で触れた龍泉
寺に五月三〇日に集い
﹁ ﹁
ヨゲンノトリ﹂疫病退散祈願法要﹂が行われている
︒ ﹁アマビエに続くか﹁ヨゲンノトリ﹂祈願法要﹂
﹃読売新聞﹄オンライン二〇二〇年五月三一日付
https://www.yomiuri.co.jp/national/20200531-OYT1T50121/︒ ︵二〇二一
年五月二六日閲覧︶
︵
14 ︶安丸良夫
﹁ ﹁近代化﹂の思想と民俗
﹂ ︵
日本民俗文化大系第一巻﹃風土と文化││日本列島の諸相﹄小学館︑一九八六年
︶ ︒
︵
15 ︶紀おろか﹃安政午秋頃痢流行記
﹄ ︵
安政五年︑著者は後の仮名垣魯文︶には︑次のような記述がある
︒ ﹁
当八月中旬佃島漁師
何某なる者に野 や狐 と取りつきけるにぞ︒近隣の者駆あつまり︑神官修験の祈りを乞ふてさまざまと攻めける故にや︑狐彼者の躰
を抜出外の方へ逃去を在あふ人々追かけて是を捕へ︑即時に打殺してければ︑長たる者のはからひにて彼狐の死骸を焼捨て煙
りとなし︑其辺に三尺四方の祠を建て霊を祭り︑すなはち尾崎大明神と崇けるとぞ
︒ ﹂︵
京都大学附属図書館所蔵﹃富士川文庫﹄
https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00000814 二〇二一年五月二六日閲覧︶
︵
16 ︶阿部前掲︑四〇六頁︒
︵
17 ︶阿部前掲︑四一五︱四一七頁︒
︵
18 ︶ここに挙げたものの他に︑荻野夏木が明治一二年のコレラ流行時のまじない・民間信仰を整理している︒荻野
﹁ ﹁
俗信﹂と文
明開化
﹂ ︵﹃
国立歴史民俗博物館研究報告﹄第一七四集︑二〇一二年
︶ ︒
︵
19 ︶﹃国史大辞典
﹄ ︵
吉川弘文館︑一九九〇年︶の﹁西南戦争
﹂ ﹁
日清戦争
﹂ ﹁日露戦争﹂の記述に基づく︒
︵
20 ︶警察行政も内務省管轄で︑一八七七年当時は警視局であったが︑一八八一年︵明治一四︶以降警保局となった︒
︵
21 ︶笠原英彦﹁伝染病予防法までの道のり││医療・衛生行政の変転
﹂ ︵﹃
法學研究法律・政治・社会﹄八〇巻一二号︑二〇〇七
年︑一一三︱一二一頁
︶ ︒
︵
22 ︶本稿の本筋とは若干ずれるが︑第三章第十で屍体の処理等埋葬に関する心得において︑火葬の忌避観に配慮している点につい
ても︑現代的関心から注目しておくべきだろう
︒ ﹁
汚れたる身体を浄め荼毘の烟となすことは往古の天皇后妃を始め皆行はせ給
近代日本におけるコレラの流行と宗教
へる法にて決して賤むべきものならず高 ママ間の原も蓮の台 うていも皆正常と聞くならい悪しき病の屍を持たば神も仏も嫌い給はん殊更埋
葬を望む時は勝手の所へ葬り難く又改葬することも決して成らざる規則なれど焼きたる後の遺骨なれば先祖の墓地に持ち来り夫
婦同穴に葬ることもすべて望のままなるべし﹂と述べている︒また︑続けて罹患者の隠蔽や対応の怠慢が家族への感染をもたら
すことを述べる際にも﹁先祖の血統をも絶やすこと﹂と表現している点にも注目しておきたい︒
︵
23 ︶伊藤唯眞﹁解題﹃説教帷中策
﹄ ﹂︵ ﹃
明治仏教思想資料集成﹄第六巻︑同朋舎出版︑一九八二年︑四五三︱四五五頁
︶ ︒
︵
24 ︶同右︑四五四頁︒
︵
25 ︶同右書所収﹃説教帷中策
﹄ ︑四〇九頁︒
︵
26 ︶同右︑四〇九︱四一〇頁︒
︵
27 ︶池田英俊の指摘を踏まえつつ大谷栄一はこの時期の仏教界における結社や雑誌発刊の動向を整理している︒それによれば︑一
八七五年︵明治八︶の大教院廃止と一八七七年の教部省廃止を境に結社運動が開始され︑一八八四年︵明治一七︶の教導職制の
廃止前後に最盛期を迎える︒そうした中︑大内青巒によって一八七九年に結成された和敬会が︑諸宗派共同の仏教結社運動のロ
ールモデルとなった︒本稿で取り上げる干河岸貫一も和敬会の中心的なメンバーであったようだ︒
︵
28 ︶干河岸貫一﹁虎列刺病豫防並に消毒法に注意すべき事︵其四
︶ ﹂︵ ﹃
興隆雑誌﹄第四〇号
︶ ︵﹃
興隆雑誌││明治仏教思想資料集
成別巻﹄同朋舎出版︑一九八六年︑二〇八︱二一〇頁
︶ ︒
︵
29 ︶国際宗教研究所編﹃現代宗教二〇二一﹄では
︑ ﹁
宗教と感染症﹂について特集が組まれ︑現代における各地の宗教動向が紹介
されている︒
Cholera Epidemics and Religion in Modern Japan NISHIMURA Akira
This paper focuses on the cholera epidemics of the 1870s, which had a major impact on modern sanitation policy in Japan. First, I review the epidemics since the end of the Tokugawa era and popular religious responses to them, and then I explain why I dealt with the cholera epidemic of 1879 and beyond. It is noteworthy that the Ministry of the Interior mobilized official instructors ( ) to raise awareness of cholera prevention. I examine several texts of the time on this topic. In so doing, I confirmed the characteristics of discourses that promoted self-help efforts for hygiene in accordance with the government’s policy, yet without denying the protection by Shinto and Buddhist deities.