筑紫文学圏論 第一山上憶良・第二大伴旅人、筑紫 文学圏
著者 大久保 廣行
学位授与大学 東洋大学
取得学位 博士
学位の分野 文学
報告番号 乙第111号
学位授与年月日 1999‑03‑15
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00004059/
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白 緋 じ) 心‑ill;
J4 1
第 三 章 憶 良 と 旅 人 ・ 家 持
一
老 病 死 の 意 識
ト け じ め に
神厄元年こり二川︑佐為工・伊部トらと具に山に憶良が進講を務めていた東宣⁚=俘自E子は即位して︑聖武夕︲.E
の時代となった︒回三年秋行命は六︲ごろ︶に憶良は︑おそらくは初代の筑前守として爪μ︑第︒ぴ︒トー遠く筑紫に赴
任した︒かつての伯井守の休験を活かし︑この名誉ある職貞を全うして官僚としての成ちを図るべき⁚収後の機会で
あった︑だから︑いかにフ人ざかる鄙に︵5八八じ の地とはいえ︑やる気に燃えた晴れがましいものであったに違い
ない︑しかし︑それはまた︑肉休的には六トじ歳という年齢と︑浸潤する宿病に鞭打っての西ドでもあった︒
ばばこ年近く遅れて神厄斤年の存のころ︑人什旅人が大字帥として人字府に着任したが︑旅人とても六ト川歳︑
この僻遠の地は憶良以卜に心身に応えたようだ︑都の人姉︒⁚多治比池守の北去に伴って︑旅人が後任として忽濾祁
233
忙 良 と旅A. ・弧 い・
I
第 ` V
へ︲還されることになったのが人平〜年に︒レニ列であるから︑およそぺ年近くにわたってI人はし川とド僚と
いう関係のもとに共に筑紫に在・つたことになる︑忙良の筑前守解任の時期は明らかではないが︑タ人平ぺ年の冬か
四〜の︒町ごろには帰京していたらしい爪︒⁚︑弟︒︒・yブ
このニつの異なる個性の雅兄こそ︑筑紫文学圈を形成してその独自な丈学創造を可能にした要となったものであ
る︒仮にもしこの一八が矢けたとしたら︑これほど多彩な歌詠の問花は望むべくもなく︑新しい時代の新しい歌作
の地磨は切り拓かれなかったに違いない︒精々個別的な佃人詠に終始して︑仙〜に映発する集団的な高揚に達する
ことはなかったろう︒とすれば︑この二人の︒出会いは文学的にきわめて穴車なものと言わなくてはならない︑
やがてベナ
︒逝同斤年には憶良もっうて︑' I二に一つの時によ年他こ・ノじ川に旅人が児の作し︑それを追うか代
は終わりか爪⁚げた︒いわゆる万集第〜期の終焉である︑
さて︑この際︑二人が深く老境にあったy一とはに九落とすことのできない事実であって︑二人の丈学の根底に据え
て号えねばならぬ課題である︑老齢であるというyy︶は︑不町避的に病魔に襲われ︑自にの死を問近で確実なもの
として︲感する万石あり︑また情容赦もなく多くの身近な死と対面させられることを意味する︑憶良・旅人とて
例外ではなく︑むしろその故にこそ新史学の開拓が町能となったのであった︒
だから︑筑紫見9 ㈲の作⁚川俳を集中的に収めた万葉染谷五の劈頭が﹁犬宰帥人伴卿の︑凶問に報へたる歌﹂
︵足しに発して︑憶良の悼にえ・悼に詩・
1︲
本挽歌︶がそれに於いて展問していることは極めて象徴的である︒
それは二人の見9 的交流の緊張したスタートを示すものであり︑死が久しく途切れていた二人の歌心を呼び醒ま
し︑心び山社の文学的開限を促寸ものとなったからである︒
2り
意 識 七病 叱 力
: ' , 1
では︑彼らに年々収くのしかかってきた九・病・死はどのようなものとして意識され︑どのように文学創造と結
びついていったのであろうか︒以下個々に考察を加えて比較してみることにしよう︒
門 憶 良 の 場 合
I 死生観
筑前の固守の任を解かれ︑懐かしい都に戻って一年余か二年も経ないうちに︑静かな死を迎えることになる天平
斤不二⁝⁝・︑憶良は死力を振り絞って﹁沈病自哀の文﹂哀汗なる長文を完成させた︒今試みにこの文脈に筆者なり
の整理を加えてみると︑次のような思考の道筋が見えてくる︒
この不は﹁y一の時に年は七ト有四にして︑鬘髪斑白け筋力心嵐れたり﹂とあり︑し十四歳の今︑製も髪も自髪交
りで筋肉の力もすっかり衰弱してしまったという︒いや単に老いが深まったばかりではない︒加うるに宿痢ともに
うべき厄介な持病を抱えていたニ﹁四支動かずで白節皆疼み︑身休太だ重く︑楢釣イを負へるが如し﹂とあるよう
に︒もはや1足は思うように動かず︑関節という関節はことごとくうずき︑体はだるくてたまらないといった状態
に達していて︑その感覚はまるでおちりを背負つだようだという︒布にすがって立ち上がるうとすると︑翼の折れ
た鳥みたいだし︑杖にすがって歩こうとすると︑足のなえたロバみたいだとその異様な姿を嘆く︒しかして﹁介五⁚
病の為に悩まされ︑臥座するを得ずへ つまり寝起きもままならぬところまできてしまった︒それも昨︲今︲のこ
やまひ 二のかた︒ やや 瓦︑・とではない︒﹁初め痢に沈みしよリピ米︑年月侑に多し︒いりふ二Iとあって︑六ト代に入ってからずっとこの関節
2i5
億 良 と 旅 人 ・ 家 持
, " .
弟
リウマチにも似た疾病に⁚︲され続け︑感化の一途をたどってきたものらしい︑もしこれがリウマチならば︑その進
行は容昂に出められず︑次第に関節が破壊され変形をきたしていく︑深刻きわまりない業病ということになる︒ま
さに艮わずらいの重病0沈廟であっかこ老いの身に服い病を加えるこの心酷さは︑紛うかたなく﹁痛き愉に臨を濯
き︑短き材の端を截る﹂という諺通りのものであった︒いわゆる﹁老身重病欣﹂︵5八七︶でもこの諺を繰り返し川
いていることは︑その深刻度が拒大抵のものではなかったことを物語っている︒
そこで憶良は考える︒︱狩猟を事とし漁労に携わる青たちでさえ︑生き物を殺生し危険な目にも追っているの
に︑災害もなく慶福を得て一生暮らすことができる︑対して自分は︑この匪に心を受けてから今︲まで﹁みづから
修庇⁚のよあり︒曽て作忠の心無し﹂︒仏典の﹁諸怒気作︑諸萍奉行・・一心岑亡なIことなく︑沢尾火付え﹂という教えを守っ
てきたのだ︒だから﹁三宝を礼拝して︑︲として勤めざる無く︲毎︲誦経し︑懺悔しこ︑︒︲神を敬弔して︑夜として
聞きたるは鮮しう毎晩人地の諸神を敬拝した﹃身を慎んで神仏を0 んできたのに何ゆえに重病に苫しめられねばなら
ないの勺 心付麟ゾきかも︑我何の非を︲してか︑此の巾右 聯に遭言レド叫I行付 仁一対比首足
九に﹂と思い当たる︒つまり病気は尨去・現在に罪過を犯したことの報いではないかという反省である︒そこで憶
良は︑ 9 禍の伏す所︑嶼の隠るる所を知らむと欲りして︑亀卜の門と巫祝の室とを往きて問はざる無し︑若しは
︲二と いっはり ぬき まっ いの実︑若しは安︑輿の教ふる所に随ひ︑幣帛を本り︑祈祷らざる無し﹂と︑その原閥の究明と除去を厚ら呪術的方法
と加持祈祷に頼るが︑﹁然れども弥よ沁を増す有り︑巾⁚て減差ゆる無し﹂と︑何の効果もないばかりかかえって片
痛を増す結果に終わってしまう︒
宗教的な八法では解決の叶わぬことを知った憶良が次に求めたのは︑占代中円の﹁良き医﹂たちの教示であっ
2 弘
I り 厨 口) 意 廠
j
た︒現在では望みうべくちないが︑もし聖医や言薬に巡り介えたら︑に几臓を切開してに日病を探り求め︑膏行の奥底
まで尋ね入って病気の逃げ潜む所を突き止めたい︑と彼は強く願う︒やがて憶良が捜し当てたのは﹁病は目より入
る︒故︑君介はその飲食を節す﹂という任徴君の教えで︑﹁人の疾病に遇へるは︑必に妖鬼ならず﹂と先の呪術的
原囚を否定し︑介理的な考え方に立とうとする︒が︑その挙句田心い至ったのは︑﹁我が病は蓋しこれ飲食の招く所
にして︑みづから治むる能はぬものか﹂という嘆息交じりの諦めであった︒自分のこの不治の重病は︑不摂生・不
養生の必然的な紡果てあって︑どんなに優れた医師によってどんなに優れた医療を施されようとも︑もはや根治不
能なのだと田心い知らされるに至るのである︒それは最も回避したかった結論ではあったが︑憶良はさらに田心考を進
める︒
川心えば維摩人Lも方丈の居室で疾病のみしみに喘いだし︑釈迦如来も沙積双樹の林二北滅の⁝⁚⁚しみから免れるこ
とはできなかった︑この無しにのや人ですら病・死の魔 ︲からは逃れえない︒況んや凡愚の一般人であればなおさら
の一とだ︒かくて憶良は悟る︒﹁生まるれば必ず北あるを︒妃をもし欲はずは生まれぬに如かず﹂こ尚の道の︒仮に介
ひ川ら解れ︑より糾く留り難きふ元ヤーび嘆ける 1 二目し9 祉ゲーと︒生まれた以卜は必ず死ぬ︑死がいやなら生まれてこない
に限る ' ]の決然とした思想はおそらくは観念的な結論であって︑人悟徹底にまで達したものではあるまい︒そ
のあとの詐でも﹁空しく浮雲と人虚・を行き︑心力具に尽きて寄る所なし﹂と吐息のように本ぶ目をもらし︑また︑
柚協Iこ一とのヤリて仙だしき︑すべて我に集まる﹂と慨嘆してやまず︑⁚取後の⁚以後までっ頓にこの病亡除き︑
頓に乍の如くなる今得む﹂ と願い続けたとI Iろからすれば︑死心から逃れようとして自分に強くそうIい聞かせ
たかいたちのであろう︒しかし︑刻々と碩実に死期が切迫してくることを斤感しての友明であるには違い4 い す
2 ろフ
水 行 忙 良 と 旅 八 第 QT
でに︑冲亀斤年ごべに
常磐なすかくしちがちと田心へども世の㈲なれば留みかねつもつ几言︶
と詠んで︑人は年老いて死ぬのが定めで︑土︿叩の永遠はいくら希求しても批の川として不可能であることを断じ︑
生命の有限は丁︒⁝⁝たまきはる 命惜しけど せむ術も無し﹂︵5八⁚四︶と︑すべなきことつまり人知では如何と
も及びがたく不町避なことをり兄迦してはいるのだが⁝⁝⁝︒
さて︑土あれば即ち死ありというこの理は︑憶良の文学を考える上で庫要な鍵となると思われる︒生か有限であ
る限り︑死を前提としてこの生はいかにあるべきかという命題に当然突き当たるからである︒
﹃遊仙廠﹄を引川して憶良はいう︒﹁九泉の下の人は︑一銭にだに府せじ〜死人は︒丈の値打ちもない二と︒富も権
勢も死の前にはもはや何の力も発押しえない︒しかも土たるや︑孔fの言うように﹁命に受けて︑請益すべから
ぬ汗運命として受け収って︑川してもヽり?一とのでうないこものである︒ゆえに﹁生の極めて几く︑命の至りて重き﹂こと
に田心い至る︒土入叩貴収のこの認識は︑自分の死から︲をそむけることなく︑老身重病の喘ぎの中から発せられたも
のであるだけに︑はなはだ亜みを増す︒人からソえられた生命がきわめて社収である限り︑それは充実して生きら
れるものであらねばならない︒充実して生きるとは︑匪を捨てて自分の充足のみを図ることではなくて︑この大地
にしっかりと足を踏ん張って生き抜くことである︑しハ休的には︑嘉摩三部作に示されている通り︑父けに孝養を尽
くして友子を顧みること︵5つつ・八□︶であり︑あるいは子らへの愛に生きること︵﹇九I・八言﹈ であり︑またそ
れは老醜にまみれても貫かれなくてはならないもの︵5八︶四・八I︶であった︒それは時に放棄したいはどの苫を伴
うものではあるけれど︑人問として許されることではない︒のちの 1貧窮問答の歌﹂の反歌に︑
238
:バ 七病 叱 の 意 識
世問を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねツ昌にしあらねば︵5八九⊃
とあるように︑人問が鳥でありえぬ限り︑いや鳥という霊魂に化さぬ現世に生ある限り︑﹁世問﹂の﹁憂さ﹂と
﹁やさしさ﹂に耐え続けて生きていかねばならないのである︒この世は八人や片に満ちてはいるか︑人問が人間で
ありきるためには︑その中で呻吟することは避けてはならないのであって︑また避けるわけにはいかないのが現実
の生の姿でもある︒家族という人問的な恩愛の絆を核として︑あくまでも現実に執して生きることを説くこの態度
には︑固守=律八口官僚の立場から発せられた教化的姿勢が色濃く感じられはするが︑一方では︑民衆の大部分は好
むと好まざるとに拘らずそんな生き方を余儀なくされていたのである︒その意味では︑それは現実的な実態に根ざ
した理恋論・往前論とI︒一⁚うべきかもしれないが︑憶良の信条でもあったよう﹃
2 自己の死
しかし︑それが観念論・抽象論を脱して文学的にも光彩を放つものとなるのは︑具休的な生の姿が死によって一
川の輝きを増した時である︒死にかかかる憶良の作品群は以下の通りである︑
A C H
D E
持統四年? 見
神紅斤年〜・
人瀬ご︑年 し.
人巾斤年に.... 肌歳 山卜臣憶良︑迫ひて和へたる歌
い﹇に︵2同五︶
69次72
歳74
歳 悼ご文・悼に詩︵誉︶
︲不挽歌︵5七几四〜足几︶
敬みて熊凝の為に僕のぷを述べたる歌に和へたる六首︵﹇几八六y八万序
沈和自良の丈こ瞥﹈
2 39
第'.'if 忙J'i と脹 久 一家 持
F 人〜.血年ト 74歳 俗の道の︑仮に八⁚ひ即ち離れ︑去り砧く留り難きを悲しび嘆ける詩一匹.
序こ賃牡
G ″︵九大.駆︲︶ ″ 老いたる身に病を服ね︑年を経てIに片み︑及︑児等を田心へる歌し匹こI
八能〜〜上
H μ μ 山上臣憶良の痢に沈みし時の歌
首︵6七八︶
1 年代不明︵バ.に廿 ・男子の︑タ⁚はト目︲に恋ひだる歌三俘︵5︷四〜九ソハ︸
χメ.︑・. しか あ まよ ″︵いいI ︶ 筑前国の..官只の白水郎の歌ト佇︵巧.八六︶〜人六九︶
これを見ると︑まず死をテーマとする作⁚皿数の多さに驚かされる.それもI廷歌人の職掌として作歌献⁚エする場
介とは違って︑自己の意ぶに突き動かされた内発性の高いものである点がとりわけ沁︲される︑歌は長歌と反歌
・それも作目以万から成る長大な検成のものが多くごC・D・G・I︽大ペニVjらには単独詩史あるいは序文を伴うもの
もあり6・D・K・じ︑憶良がいかにこれらの作品に心血を注いだかを窺い知ることができる.
内容的には︑自己の病・死を扱ったもの云・F・G・リと他者の死をテーマとするものÅ・B・C・D・I・J.・片一
に人別される.
敗者が死も問近に辿った大平五年に集中するのは当然で︑それだけ晩年の憶良は自己の死と鋭く対決しながら生
きていたことを意味する.憶良が死をどのように捉えていたかは既述の通りだが︑それを歌として作品化したのは
いわゆる﹁老身屯病歌﹂︷リであった.
二の世に生を受けたからには安穏で無事息災でありたいのに︑最もいやでつらいことには年老いた身に永年にわ
240
g 病 化 の 心 廠 3 I
たる病まで加わっているので︑悲嘆のあまりいっそのこと北んでしまいたいとさえ憶良は思う︒病沁を過去の罪業
の応報と考えれば︑自ら死を選んだのでは水劫にその業は消滅することがないから︑仏教的にはそれは許されるこ
とはないはずである︒しかし︑死の願望の前に立ちはだかったのは︑そうした仏教的理ではなくて︑意外にもあま
りにも現実的なT1 月蝿なす騒く児ども﹂であった︒子は最後まで捨て切れぬものとしておのれの死の願望を翻さ
せる︒﹁打棄てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひわづらひ 哭のみし泣かゆ﹂
というのが実際の相であった︑当時憶良にこのような幼ドがいたかどうかは問題であるが︑憶良はここで追い詰め
られた自分の姿と︑幼児を残して北なねばならない世の親の姿を重ね介わせて︑その片痛の度を強調しかつ一般化
しようと試みているものと考えられる︒ともあれ︑冷評に死を見据えて死と対峙し人悟を得るかに9 えても︑自に
の願望と現実への執着という背反した力の引っ張り介いの薗には︑そんなものはもろくも⁝朋れ去ってしまう︒あと
に残るのは﹁かにかくに 思ひわづらひ 哭のみし泣かゆ﹂とい犬不徹底な自分とそれゆえの癒やされぬ悲しみで
あった︒しかし︑理で割り切り通寸ことのできない>Jの急旋回ぶりこそ︑まさに匪の一般の大問のあり方を示すも
のではないのか︑彼は死をド期するところまで至って︑賢しらよって泰然として死を受け入れるヽ﹄との不可能なy一
とを知り︑むしろそれを放棄して︑一般人の迷いと揺れの中にわが身を置くことのみに安らぎを覚え︑それこそが
人問の輿実の姿であると認識し直したのではなかったか︑最後の反歌で
水沫なす微しき命も拷縄の八尋にもがと願ひ休しつ ︵5几〜︶
倭文ト纏数にもあらぬ身にはあれど万年にもがと思はゆるかも元三
と何の憚るところもなく長生を願ってやま4 いのもそのためであろう︒命のもろさはすべなきものレ﹂理のトでは卜
241
か 分承知しながら︑その期限が切れんとする時にヤれば︑なおもその無限をこいねがわずにはいられないのか人の情
入 というものであろう︒理と情︑諦念と煩悩の問を人きく振帽し続けて生きる姿こそ︑匪の人問のあまりにも人問的
﹂ な実相である︒建て前として現実の牛を収税しか憶良は︑自分ちまた降りかかる現実沁の中にもがきあがいて死ん
白〜 でいこうとしたのである︒白⁚﹈﹂の死を美化したり特殊化したりせずに︑皿⁚通の人川川と同列に埋没させ凡愚の死に徹
べIJ しきるごとによって︑人問の死を 般化・悍石化しようと図ったのではあるまいか︑それは︑自 1 ﹂の不徹底さを曝り
け出す呪気と醍めた︲を備えていなければなしえないことであった 本︷︑弔︒ぐじ﹁
3 他者の死
さて︑その憶良が他者の死に出会った時はどう反応したであろうか︒
A D B
J I
︿死者﹀
有問白E子C
人伴郎女
大伴熊凝
白目 ︿単齢﹀ へ北に時期﹀19
歳 斉明四年二九・
不明 神服斤年Iド18
歳 人平三年こノ
︵幼少︶ 不明
ぶ賀の荒雄 ︵壮年︶ 神亀年中・ソフ︶ ︿作歌時期﹀
持統四年 パ 几 ? ︵計牝牡I付︶
神亀斤年
人平三年
人平五年こ⁝⁝・以前
人平ニ ト︶︑三年ごろ?
これらの死に共通するのは︑まず第一に︑それがいずれも人灯を全うせざる死︑夭逝であることである︒そして
突然その生を奪ったものは︑謀略か病気か浙故かであって︑何人も1 前にそれを食い止めることのできない不可抗
242
1 七病 死の 拓 哉
j
力のものであった︒得休の知れぬ﹁黒闇天女﹂がある目いきなり有無をに⁚わせず﹁九泉︵し答尽︶世界へとその大
を連れ去ってしまう︒これほど残酷なことが外にあろうか︑憶良はしI⁚う︒﹁その犬年を終るすら︑尚哀しと為
す︒楸I勁牝牡にレ・何ぞ況むや︑生録〜々争いま0
⊇
らずして︑鬼のぬ ﹂目I殺さえ︑顔色壮年にして︑
病の為に横に困めらゆる者をや︒世に在る犬忠の︑いづれか此より甚だしからむプ浸畑自良のえじと︒
第二に︑この痛恨の極みというべき若い不慮の妃を︑憶良はごく身近に休験または見聞していることである︒と
りわけ筑紫へ赴いてからこの最も厭うべきものに立て続けに遭遇した︒自分よりもはるかに若年の者の死との出会
いもまた︑生き永らえる者に突きつけられたよしみである︒それは勢い憶良の心を揺さぶり︑その創作意欲を激し
くかき立てることとなった︒
第三に︑有問皇ヰを除けば︑いずれも無名に近い者たちの死を対象としていることである︒それは︑死という冷
厳な︲n実の前にはもはや敗賎の別はなしとする︑憶良の思想の反映であろう︒死の前には身分も家柄も財力もすべ
て無力であるから︑何人も平1 であるはずである︑あるのは一人の人問の死という厳粛な事実だけである︒だか
らで北にまつわるドラマは︑民衆のぢが良人以卜に人の心を打つ揚合が少なくない︒鳥名な人︲の死はその大だけ
に限られたものであるけれど︑﹁凡愚の微しきれソDのげ・の死は︑おしなべて世問蒼生に通ずる一般性を持っても
いか≒
さて︑Aの有問白Ef自傷歌への迫和の作は︑後のちの憶良的特質をさまざまに胚胎した服要な処反作であるが
︒ ヤ⁚︑弔べ〜筑前守以前のもので作歌状況も毀なると考えられるので︑一応除外し︑筑紫時代とかかわる作品
を中心に通観してみるゝ﹄とにする︒
2 お
第 二 ぴ 億 良,と旅 八・木持
B・C まず悼亡えで︑﹁丈遊﹂の誄や良策丈の形を借りて 忖山出氏−︲本條歌|憎・L−ツー力川威力而かに/犬山ト忙八の仙究に︒
ああ旅人の妻人伴郎女の﹁紅顔 リつるわしい穴貌﹂とっ素質 う色自の肌が永遠に消滅したことを 1 嗚呼痛ましき
かもLつ嗚呼良しきかも﹂と嘆き︑﹁腸を断つ良しび﹂に供えず﹁染均の以﹂にくれる︒続く悼に詩では 11 1 牛願
をもちて心を彼の浄刹に託せむ﹂と極楽浄ヒヘの生まれ変かりを祈願する︒
右の漢詩文に対して︑ゝこれとセットにした︲本の悼ご詩である﹁︲腔に挽歌﹂では︑かに先況たれた人=旅人
の立場を一川明確にして︑果てなる僻遠の地での愛妻の急逝を慨嘆してやまない︒憶良は旅人そのものになり
きって︑旅人の哀しみはかくあらんと︑その万々に乱れた心情を几ハ休的に掬い卜げて見せる︑
D この作は︑先立つ︑犬宰人肌ハ麻田陽春の代作﹁人伴君熊凝の歌二俘に︵5八八川人八五︶に追和したものである︑
まず序文において︑肥後団益城郡の若片人伴熊凝が椙撲使の従人に徴発されて郡へ赴く途中︑不運にも病を得
て︑安芸田佐伯郡高庭の駅家で客死したI実を前脂で叙し︑後乍では自分の死よりも後に残才老父けの身をひ
たすら案ずる心を熊凝自身の臨終のI箭として詳細に伝える︒この繊々謡られた親思いの孝fのヤ情は︑すで
に憶良の思想の開陳以外の何ものでもない︑その高まりを受け︑歌では熊凝になりきって︑遠く父けと離れた
異境の地で行跡病者さながら孤独な死を遂げんとする八間を︑繰り返し吐息のように吐き出寸︑こうして︑漢
文の序と長歌・反歌を結介させて︑
め︑⁚に本フたっあでのたっ綴て込人のの若行の非業妃をの物語を熱気第I
この一連の作は︑長歌では占︲という幼い愛児を喪った親の激情的な慟災ぶりを活回し︑反歌では死児の霊
魂が滞りなく鼓泉へあるいは人トヘ行き着けるよう祈願している︒ところが題詞〜に作者の明記がなく︑﹁栽
24/1