丸山眞男と吉本隆明 : 文学研究が学ばなければな らないこと
著者 綾目 広治
雑誌名 同志社法學
巻 59
号 2
ページ 739‑761
発行年 2007‑07‑31
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011205
丸山眞男と吉本隆明
七三九同志社法学 五九巻二号丸山眞男と吉本隆明
―
文学研究が学ばなければならないこと―
綾 目 広 治
(一三〇九) 一
﹁超国家主義の論理と心理﹂(一九四六・五)で、日本軍国主義への先鋭的で強烈な批判を行なって論壇に登場した丸山眞男は、一九六〇年代前半に至るまで日本ファシズム批判の論考や平和と民主主義をめぐるアクチュアルな問題に関
する発言などによって、戦後の言論界、思想界を牽引する有力な進歩派知識人として大きな影響力を発揮した。しかし、その後の六〇年代後半、とりわけ六〇年代末に全国の大学を席巻した学園闘争以後は、その学園闘争が戦後民主主義批
判を内に持った運動であったこともあって、戦後民主主義の旗手であった丸山眞男の権威と影響力は、とくに若い世代
の間で急速に失墜していった。また六〇年代後半から、近代の価値観や近代思想のあり方に対しての懐疑や批判の声が言論界で段々と大きくなってくるにつれて、丸山眞男の言説はまさに近代主義の典型であったということになって、批
丸山眞男と吉本隆明
七四〇同志社法学 五九巻二号 (一三一〇)判の矛先の一つが丸山眞男に集中していったことはよく知られている。
文学の世界での丸山眞男批判は、もう少し早く、六〇年代前半に一橋大学の大学新聞﹁一橋新聞﹂に一九六二年一月から翌一九六三年二月までに断続的に掲載された吉本隆明の﹁丸山眞男論﹂がその嚆矢であった。もっとも、文学の世
界での丸山眞男批判がその後も陸続と出たわけではないが、この吉本論文の影響は大きかったと考えられ、若い世代の中でも先進的で意識的であることを自負する若者の間では、丸山眞男はもはや︿終わった思想家﹀として、あるいは吉
本隆明によって完膚無きまでに批判し尽くされた古い思想家として受けとめられたのである。彼ら若者の中で、丸山眞男に替わって新たな偶像となっていったのは、その丸山眞男を批判した吉本隆明であった。
以後、高等学校の国語教科書などで丸山眞男の文章に触れることはあっても、それ以外の著述は若い世代の間ではあまり省みられなくなる。おそらく、このような傾向は文学研究の世界においても同様であったと言えよう。とりわけ欧
米の︿進んだ﹀理論や思想を取り入れることに忙しい文学研究の世界では、丸山眞男の残した研究は最近に至るまでほとんど一顧だにされていないと言ってもいいかも知れない。実は、思想のそういう受容のされ方自体を痛烈に批判した
のが丸山眞男であったのだが、残念ながらその︿病弊﹀は今なお克服されていないと思われる。 たとえば、丸山眞男は﹁ある感想 (
兆。う語っている明ら治三四年に中江こがでな九五七・四)中﹂(江兆民に託し一 1)
民は、民権論が時代遅れで﹁陳腐﹂な思想であるとするような風潮を嘆いているが、﹁陳腐﹂な思想の実行を執拗に追究すること自体が﹁野暮﹂とされ、﹁その代りにただ肌ざわりとか口あたりとかいうような感覚的な次元で言論が受け
とめられ批判される日本の伝統的傾向は、(略)今日彼の時代より幾層倍も甚だしくなっている﹂、と。この丸山眞男の指摘は、今日の文学研究の世界においても当てはまるのではないだろうか。文学研究者は丸山眞男を卒業したつもりに
なるのではなく、もう一度彼の研究を読み直す必要があるのではないかと考えられる。そのためにも、まずは吉本隆明
丸山眞男と吉本隆明
七四一同志社法学 五九巻二号 の﹁丸山眞男論﹂の再検討から始めたい。 単行本となった﹃丸山眞男論 (﹁)は述論、はで四・三六九一﹄( 2)
1
序論﹂﹁2
﹁日本政治思想史研究﹂﹂﹁3
総論﹂の三部構成に整理されているが、その批判のモチーフが直截に語られているのが﹁
のっ及ながら、そこには﹁生活によてに﹂()文原・点傍の大もたっあで衆言し﹂卒本隆明は、田山花袋の小説﹁一兵 000000
1
序論論﹂における述で吉ある。そこで 戦争体験が書かれているが、丸山眞男の戦争体験に関する文章からは﹁思想によって 000000知識人であったもの﹂(同)が窺われるだけで、﹁ほとんどその思想が大衆の生活思想に、ひと鍬も打ち入れる働きをもっていなかった﹂と述べている。戦争に生活のすべてを振り回され、その意味では戦争に没入して生きざるを得なかった大衆と異なって、﹁戦争期において抑圧をくわえた当体と膚をけばだたせるほどの距離で、対決もしなかったし、触れあうほどの近くで視ることもせ
ずに、ただはなれた位置で想像するだけだった﹂のが﹁日本知識人﹂であったのであり、丸山眞男はまさにその典型的な一人であったと、吉本隆明は言うのである。
つまり丸山眞男は、﹁戦争そのものにのめりみもしないが、それに抵抗することもしない﹂で、いわば戦争を浅瀬で通り過ぎただけだというわけである。吉本隆明によれば、田山花袋﹁一兵卒﹂に見られる﹁大衆の存在様式﹂を思想の
問題として捉えることが﹁思想における真の課題﹂なのであるが、丸山眞男はそれを逸したのである。しかしそうなる
と、﹁日本型知識人の眼鏡からみられた体制や、階級や、大衆のもんだいなどは、すでにそれ自体が﹁擬制﹂的なものにすぎないといえる﹂。
この批判には、﹁大衆の原像﹂を思想に繰り込むことが思想の真の課題であるという、後の︿自立の思想﹀の原型的な発想が表れているとともに、吉本隆明の感情的とも言える批判からは、たとえば小熊英二が指摘するようなことも推
察されるかも知れない。すなわち丸山眞男は、生活に没入するのではなく、その生活の次元から距離を取って政治や社
(一三一一)
丸山眞男と吉本隆明
七四二同志社法学 五九巻二号会の動きを批判的に見るあり方を、戦後の日本人に求めたのだが、そのように生活あるいは私生活への没入を批判する
丸山眞男の思想は、戦争期の吉本隆明の学生仲間でやがて特攻機で死ぬことになった一人が入営の前の送別会の後、入営しない吉本隆明に向かって﹁ああ、吉本か。お前は自分の好きな道をゆくんだな﹂と語ったその言葉を思い起させる
ものであったのではないか、と小熊英二は述べている。つまり、私生活への没入を批判する丸山眞男は、吉本隆明にとって﹁﹁自分の好きな道をゆく﹂ことに罪責感をかきたてる存在 (
山し丸、﹁とるえ考うそにかた。るあでけわたっあで﹂ 3)
眞男論﹂が批判論文としても少々パセティックすぎると言える文章となっていることに納得がいくと言えよう。 丸山眞男に対する吉本隆明の批判は、ほぼ同時期に彼が戦後派文学者たちに対しても厳しい批判の言葉を投げ付けた
のと同様の動機から来るものであったと考えられる。吉本隆明にとって、野間宏などの戦後派文学者たちは、左翼体験などがあったために戦争と真正面から向き合うことがなかったのであり、したがって彼らの文学は﹁転向者または戦争
傍観者の文学 (
聖暴わがとこたっあで言がる判批の明隆本吉、でけか。る験、︿はのたいつ傷も最に体おの戦敗と争戦、くらそだべか浮 ﹂、にどな戦作ンータバかしし。るあでのたっだ従陸い持い思を例の宏間野つも軍を験体の所入に所務刑 4)
戦﹀を信じていた自分たちの世代であり、戦後派文学者たちの世代は傷つかなかったという思いが吉本隆明にあって、このような発言となって現われたと考えられる。吉本隆明の、戦争体験に関わっての丸山眞男批判は、この戦後派文学
者批判と共通する動機から出たものであった。 もちろん、戦後派文学者たちも丸山眞男も、ともに無傷であったはずはない。彼らも十分に傷ついたのであって、た
だ吉本隆明のように︿聖戦﹀を信じていなかっただけである。彼らは、吉本隆明のような銃後の国民ではなく、まさに兵役世代であったのであり、戦争に対して﹁傍観者﹂であることを許されない世代だったのである。彼らも傷ついたこ
とは、たとえば野間宏が﹃真空地帯﹄を書かなければならなかったことから、あるいは丸山眞男が戦後に執拗にと言っ (一三一二)
丸山眞男と吉本隆明
七四三同志社法学 五九巻二号 ていいほどに日本軍国主義批判を展開していることからも窺われるだろう。吉本隆明よりも年長の世代である彼らは、戦争に対して批判的な眼を持つことができ、したがって戦争に対して距離を取ってその体験をくぐることができたのであるが、吉本隆明のように戦争時に少年であった世代には、戦争に対してそういう批判や距離を取ることなど思いもよらなかったわけである。だからこそ、吉本隆明の世代は戦争に没入することができたとも言える。
しかし、少し考えただけでもわかることだと思われるが、︿聖戦﹀を信じきってそれに没入するという体験のなかった者が、すなわち戦争﹁傍観者﹂である、ということにはならない。単純に言って勤労動員の体験よりも兵役の体験の
方が、没入か否かに関わりなく、より深刻な戦争体験を強いられたであろう。また、吉本隆明は自分の戦争体験と大衆の戦争体験を同質のもののように捉えていたようだが、しかし、たしかに大衆の中には同質の体験を持つ者もいたであ
ろうが、案外に多くの大衆は醒めた眼で戦争を見ていたと考えられる。だからこそ、大衆たちは戦後の社会に驚くばかりの適応をすることができたのである。
思想は自己の体験に固執することから形成されると言えよう。吉本隆明の思想形成はその典型である。しかしながら、自己の体験のみに固執するならば、その思想は往々にして意固地で偏狭なものとなり独善的となる。吉本隆明の思想に
は、その独善性が如何ともしがたく付き纏ってはいないだろうか。
さて、﹁
﹁本るのであるが、ここでも吉隆て明の批判の視角は今見てきたい
2
しで年青の男眞山丸、は﹂﹂の究研史想思治政本日期代て検の、やはり批﹁的な討表がなされ対に作著的判1
。うよの次は明隆本吉る序あでじ同ぼほと﹂論に述べている。
わたしたちが丸山の考察に不満をもつとすれば、それが﹁思惟構造の内部から﹂いわば自発性のようにかんがえ
(一三一三)
丸山眞男と吉本隆明
七四四同志社法学 五九巻二号られながら、思想的主体の内部構造として考察されず、また一方で社会構成のうごきと類比されながらその世界の
諸階層のうごきと連関されないことである。
そして、丸山眞男の﹃日本政治思想史研究﹄は、思想の論理カテゴリーの整理とその思想の﹁政治的実用性の観点﹂から江戸の古学が論じられているだけで、たとえば徂徠学にある、﹁アモルフな﹁民﹂の生活実感と密着している契機﹂
が見逃されてしまって、結局、﹁﹁民﹂の生活感、いいかえれば﹁社会﹂から無限に遠ざかろう﹂としている、と吉本隆明は述べる(﹁アモルフ﹂という言葉は、﹁無定形の﹂という意味のドイツ語だと考えられる)。﹁﹁民﹂の生活実感﹂へ
の眼が欠落していることが、﹃日本政治思想史研究﹄においても致命的な限界となっていることが批判されているわけである。吉本隆明が考える、このような丸山眞男の思考、発想のあり方について、吉本隆明は次のような想像までして
いる。すなわち、﹁かれは、青春の日に、すでにある局限された世界に自らをとじこめ、ひとびとが大衆的な規模で呼吸する空気よりも上層の、澄んではいるがどのような当為も予定できない空気を呼吸するように宿命づけられているこ
とを意味している﹂、と。この文には﹁意味している﹂の主語が欠落しているなど、例によって吉本隆明らしい不精確な表現であるが、言わんとしていることの文意は了解できなくはないであろう。要するに、大衆の﹁生活実感﹂から遊
離したところの、﹁空気﹂の﹁澄んだ﹂﹁上層﹂の世界での知的操作が、丸山眞男の学問であるというのである。 このような吉本隆明の批判の姿勢が、﹁
1
ここそ、りあでり通たし述前はとる序に論﹂での批判連あ続したものでにはいわば下町知識人であった吉本隆明の、まさに知的選良の代表のように見えた丸山眞男に対する反感という要素もあったであろう。もちろんその反感は、吉本隆明にとっては単に個人的なレベルでの反感という問題に終始するのではな
く、思想のレベルまでに引き上げられて問題にされなければならなかったのである。それが、やはり先に触れた、︿大 (一三一四)
丸山眞男と吉本隆明
七四五同志社法学 五九巻二号 衆の原像﹀を思想に繰り込むことが真の思想の課題であるとする、吉本理論にとっての緊要な問題であったのである。よく知られているように、やがてそれは︿自立の思想﹀と呼ばれるものになっていった。その︿自立の思想﹀の問題については後ほど論及してみたいが、その前に﹁
。もるきでがとこる見
3
そ理論﹂を見ていこう。質特の論のこ明隆本吉総ん含を乱混、はにだ二
吉本隆明は﹁丸山眞男の方法の特徴﹂について次のように述べている。すなわち、﹁論理を完璧に対象に適用するよりも、論理の整序への嗜好が支配する。丸山が、しばしば︿これから論ずることは何々と何々に限定して⋮⋮﹀という
ような言葉で、論文をはじめるのはこの嗜好と関係している﹂、と。この吉本隆明の言説には首を捻らざるを得ないのではなかろうか。まず、﹁論理を完璧に対象に適用する﹂ということ自体がそもそも不可能であろう。論理はどんなに
精密なものであろうと、論理である以上、そこに抽象化の契機を含まざるを得ないのであって、もしも﹁完璧に対象に適用する﹂ことができるような︿論理﹀があるならば、それは論理ではなく、﹁対象﹂そのものになってしまうのである。
つまり、﹁完璧に対象に適用﹂された︿論理﹀があったとしたならば、そこでの論述は対象そのものと同じレベルで語られる、それこそ﹁アモルフ﹂な混沌とした叙述となるであろう。読むものには、何のことかわからないものになるの
である。それは論理ではない。
吉本隆明の文章が︿難解﹀でわかりにくいのは、あるいはこういう︿論理﹀観があるためであるとも思われる。そのことと関係して、物事を論じるにあたって﹁限定﹂することは必須であるが、吉本隆明はそれを﹁論理の整序への嗜好﹂
(一三一五)
丸山眞男と吉本隆明
七四六同志社法学 五九巻二号というふうに言うのである。しかし、﹁限定﹂することは﹁嗜好﹂の問題ではなく、論理を語るときの絶対条件なので
ある。そうでなければ、論理を語ることはできないのである。吉本隆明の︿論理﹀も言葉で語られたものであるが、そもそも言葉自体がすでに抽象化を経たものなのだから、言葉で語られた吉本隆明の︿論理﹀も、実は﹁完璧に対象に適
用﹂されたものではない。そこに﹁整序﹂があり﹁限定﹂があるのは当然であって、そのことに無自覚なまま、自身の語る︿論理﹀には﹁整序﹂も﹁限定﹂もなく、それは対象を﹁完璧﹂に捉えていると考えているとするならば、その方
が問題なのである。 このような論理をめぐっての、吉本隆明の丸山眞男批判からは、明快な文章を書く丸山眞男と不精確 00で混乱した文章
を書きがちな吉本隆明という対比が浮かび上がってきそうだが、吉本隆明の批判はさらに次のようなものになってくる。﹁わたしたちの思考が、抽象化と総合化へむかって運動をはじめる直前の対象が、あるがままに存在する瞬間こそ、
丸山にとってたえがたいことであ﹂り、丸山眞男の方法は﹁生活史へ還元する過程が不足している﹂、﹁現実の空気が不足しているのだ﹂、と。﹁アモルフ﹂なもの、﹁生活史﹂、﹁あるがままに存在する瞬間﹂、﹁現実の空気﹂が丸山眞男に欠
けていて、あるのは﹁限定﹂され﹁整序﹂された﹁論理﹂だけであるというのである。したがって、丸山眞男の政治思想についての論述とは、﹁﹁箱﹂模型をつくる﹂ことであり、﹁丸山の空想された﹁箱﹂のイメージは、現実社会そのも
のの動き、現実的存在としての人間の実態からは無限に遠ざかる性質をもっている﹂というように、吉本隆明は論を展開していく。
ここでもやはり、論理や学問に対しての吉本隆明の認識不足(?)を指摘しなければならないだろう。﹁﹁箱﹂模型﹂という言い方で吉本隆明は丸山眞男の方法を批判しているのだが、たとえばマックス・ウェーバーが現実の対象に迫っ
ていくために︿理念型﹀という概念を設定したのは、﹁﹁箱﹂模型﹂を作ってそれを一種の物差しにして現実に向かうと (一三一六)
丸山眞男と吉本隆明
七四七同志社法学 五九巻二号 いう方法によってしか、現実の対象を認識することができないというある種の諦念から出てきた方法意識に基づいていたからであって、その方法論は社会科学を学問として成立させるためのいわば苦肉の策でもあったのである。そういう学問上の格闘の歴史から、丸山眞男の﹁限定﹂や﹁整序﹂の方法意識も生じてきたものと言える。吉本隆明の言う、丸山眞男における﹁﹁箱﹂模型﹂とは、ウェーバーの︿理念型﹀概念と通じるものである。そういう概念装置無しで、し
たがって自らの方法に対しての反省意識が欠落したまま、現実の対象に迫ることができると考えている者ほど、語られている︿論理﹀が恣意的なものになってくるのである。そして多くの場合、その当人は現実の対象に即いていると錯覚
しがちなのである。吉本隆明の語る︿論理﹀にその種の傾向がありはしないだろうか。 もちろん、﹁整序﹂できないもの、﹁箱﹂に納まりきらないものを何とか掬い上げて、それを自らの思想に組み込もう
としていた吉本隆明の志向自体は、評価しなければならないであろう。そのことは大いに認めるとしても、しかしながら、それでは丸山眞男にその問題についての自覚が無かったかと言えば、そんなことはないのである。明快な論述を行
なう丸山眞男であったが、論文の叙述が論理的に﹁整序﹂されていればそれでいい、と思っていたわけでは決してなかった。﹁日本の思想﹂(一九五七・一一)で丸山眞男は、﹁理論家の任務は現実と一挙に融合することではなくて、一定
の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整序するところにあ﹂るが、その﹁整序された認識﹂は﹁複雑多様な
現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものでない﹂と述べて、さらに次のように語っている。吉本隆明に再読を勧めたいところである。
従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の曠野をなし、その
涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみ 00000が
(一三一七)
丸山眞男と吉本隆明
七四八同志社法学 五九巻二号そこに耐えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、
さらにエネルギッシュに理論化を押し進めてゆこうとする衝動を喚び起こすのである。(傍点・原文)
こうして見てくると、丸山眞男に対する吉本隆明の反発が世代的な問題などと絡まって出てきたのであろうことは了解できるにしても、丸山眞男の学問ととりわけその方法に対しての批判は、何とも的外れのものであったとしか言いよ
うがないであろう。そのことを考えると、吉本隆明の﹁丸山眞男論﹂が当時の若い世代に衝撃を与えたということ自体が、今日から振り返ってみれば不思議な現象であったように思われる。風貌からしていかにも知的選良のイメージの強
い丸山眞男という権威に、下町知識人吉本隆明が果敢に噛み付いたところが、すでに大学が大衆化しつつあった時代の、もはや選良とは言えなくなった大学生たちにとって、吉本隆明に対して好感を齎らす衝撃だったのかも知れない。
しかしながら、そのことはともかくとしても、これまで見てきたように、その批判の論理は、論として取り上げるべき内実のあるものではなかった。ついでに言えば、論文中の引用は正確でなければならず、とりわけ批判の対象となっ
ている人物の文章から引用する場合はそうであるが、﹁丸山眞男論﹂における引用には不正確な箇所がかなりあるのである。他の吉本隆明の文章にも誤植が多く、この場合もその一例とも考えられるが、あるいは反発のあまり冷静さを失
っていたのかも知れない。ともあれ、批判から伝わってくるのは、世代的な反発と、やがて︿自立の思想﹀として語られるようになる、吉本隆明の思想の方向性の、その可能性の示唆だけであったと言えようか。そして、先の引用のよう
に、丸山眞男の研究は吉本隆明が誤解とともに反発したようなものではなかったのだが、それだけでなく、吉本隆明が後に語りだす理論を先取りもしていたところや、あるいは共通するところもあったのである。おそらく吉本隆明自身は、
自分は丸山眞男とは異なった方向に進んでいると思っていたであろうが、必ずしもそうではなかった。 (一三一八)
丸山眞男と吉本隆明
七四九同志社法学 五九巻二号 三ところで竹内洋は、﹁吉本の批判は丸山の言明をデフォルメして俎上にあげて攻撃しているきらいがある。吉本流論
争術である (
﹂て想理﹁が男眞山丸、しし定規と﹂者義主代近﹁とて男たジーメイの想思や治政れ描さ﹂化代近﹁るいていを眞山丸 も、そずま。るあで例のそ﹂の批の、次がるいてべ述と判とこは、で﹂論男眞山丸﹁明か隆本吉。うこいて見ら 5)
についてこう述べている。すなわち﹁すべての近代主義者とおなじように、﹁西欧﹂近代の文物がこの極限のイメージにかなうものとして無意識のうちに根拠となっている﹂、と。あるいは、丸山眞男の﹁近代主義的に描かれた西欧像﹂
というふうにも言われている。﹁丸山眞男論﹂は、このように丸山眞男=近代主義者という断定で一貫しているのだが、また一般にもこのイメージがその後も流通していったのでもあるが、果たして丸山眞男は﹁﹁西欧﹂近代の文物﹂を﹁近
代化﹂の﹁極限のイメージ﹂として考えていたであろうか。 この問題について冨田宏治は、丸山眞男の思考方法は理念としての﹁近代﹂の高みから現実(この場合は日本の現実
と考えられる)批判したのではなかったとして、さらに﹁ましてや、具体的な歴史的近代(西欧近代)の高みから前近代や非西欧を裁断するものではありえなかった (
を考代近欧西は男眞山丸。るれらえと﹂だうそにかした。るいてべ述と 6)
是として、それによる価値尺度で遅れた日本の半近代を批判したのではなかったのである。丸山眞男にとって、近代と民主主義とはほぼ同義の意味合を持っていたが、たとえば民主主義について丸山眞男は増補版﹃現代政治の思想と行動﹄
(一九六四・五)の﹁追記・附記﹂で次のように述べている。
(略)およそ民主主義を完全に体現したような制度というものは嘗ても将来もないのであって、ひとはたかだかヨ
(一三一九)
丸山眞男と吉本隆明
七五〇同志社法学 五九巻二号リ多い、あるいはヨリ少ない民主主義を語りうるにすぎない。その意味で﹁永久革命﹂とはまさに民主主義にこそ
ふさわしい名辞である。
吉本隆明が語っているように、丸山眞男は民主主義が日本より﹁たかだかヨリ多い﹂﹁﹁西欧﹂近代﹂を﹁極限のイメージ﹂として、そこから民主主義が﹁ヨリ少ない﹂日本を批判していたであろうか。もしそうならば、﹁﹁である﹂こと
と﹁する﹂こと﹂(一九五九・一)で語られた、あの﹁である﹂立場に丸山眞男自身が立っていたことになってしまうだろう。もちろん、それは考えられないことである。吉本隆明は丸山眞男のテクストを精密に読み解こうとはせずに、
彼も一般に流布していた近代主義者=丸山眞男という先入観で丸山眞男イメージを形成していたのではないだろうかと疑われる。まずそのことを押さえたうえで、次に日本社会を丸山眞男と吉本隆明はどう捉えていたかについて見ていこう。
丸山眞男は﹃丸山眞男 回顧談﹄上・下(二〇〇六・八)で往時を振り返って、いわゆる講座派の理論について、﹁半封建的な土地所有関係を基礎にして初めて非常に早期に独占資本主義ができたというのは、ぼくにとっては、他にない
斬新な見解に思え﹂、﹁講座派の分析﹂が﹁ピン﹂ときたと述べているが (
説直おに前戦、も部て苅。うろだいいいはっ間関機皇天はでの、人識知の歴学高て言一石研究のつの礎を成していると 座日の派、講のこ資本眞本主義分析が丸山男の 7)
に見られるような近代国家の制度観と、一般大衆に対して強調された神話に基づく︿國體﹀観念との、思想の二重構造についての丸山眞男の分析に言及しながら、﹁このような丸山の分析は、講座派が提起した理解枠組みの、政治思想へ
の応用と言ってよい (
の動)五・八四九一﹂(運丸と想思のムズシァフで山日発門部業農始終が展の眞義主本資本日、﹁は男本、﹁えとた ば ﹂実的派座講、際る、が見いてし摘指とな山解う。るきでがとこ窺をらか説学の男眞丸 8)
犠牲においてなされ、又国権と結びついた特恵資本を枢軸として伸びて行ったために、工業の発展もいちじるしく跛行 (一三二〇)
丸山眞男と吉本隆明
七五一同志社法学 五九巻二号 的とな﹂ったことを指摘した後、中央の急激な発展に取り残された地方の利害を代表した思想が、やがてファシズム思想に流れこむことになったと述べている。この分析は、まさに講座派理論の思想史への応用であったと言えよう。では、吉本隆明はどうであったかと言えば、実は彼も講座派理論に依拠した日本社会論を展開していたのである。﹁﹁四季﹂派の本質﹂(一九五五・一一)で吉本隆明は、日本が高度な資本主義的要素とともに﹁極度のアジア的後進性﹂を
持っていたとして、﹁極端にまでおしすすめられた近代的要素と、封建的要素との奇妙な併存ということをぬきにして、戦争下の社会的特質をかんがえることは不可能である (
列性同をと﹂素要的建封﹁と﹂進後的アジア。﹁るいてべ述と﹂ 9)
に並べるところが吉本隆明らしく厳密ではないが、それはともかくも、このような吉本隆明の日本社会論は、丸山眞男と同様に講座派理論に依拠したものであったのである。
吉本隆明の代表的な業績の一つとして﹁転向論﹂(一九五八・一一 (
﹂日展の論会社本のに、そは﹂論向転﹁開主ろな素要的代近、﹁くは眼で文論たっあがんちにも理論拠ったものであった。 、がる論れらげ挙こそもでの日本社会)講座派が 10)
と﹁封建的要素﹂とが﹁併存﹂した日本社会の中で生きた左翼知識人たちの、転向現象に露呈した思考パターンについての分析に力点が置かれた論文であった。簡単に述べると、近代性と封建性との二つを併存させていた日本の社会構造
を反映するかたちで、左翼革命派の知識人、文学者の意識構造の中で両者は併置されていて、危機的な状況において、
それまで彼らが無視してきた内部の封建性に足をすくわれたのが、すなわち大量転向という現象の大きな要因であった、というのが吉本隆明の﹁転向論﹂であった。
この﹁転向論﹂の延長線上に︿自立の思想﹀が築かれることになるのは、見やすい道理であろう。﹁転向論﹂(一九五八・一二)で中野重治の転向小説﹁村の家﹂に論及しながら、吉本隆明は、主人公の勉次をたしなめる﹁平凡な庶民た
る父親孫蔵は、このとき日本封建性の土壌と化して﹂いると述べているが、その﹁庶民﹂に体現されていると言える﹁封
(一三二一)
丸山眞男と吉本隆明
七五二同志社法学 五九巻二号建的土壌と対峙すること﹂が、言わば二度と転向しないための重要な課題であることを語ったのである。注意すべきは、
﹁転向論﹂では明示的には語られてはいないが、吉本隆明にとって大衆とは一種の無意識的な存在であったことである。もっとも、大衆自体が無意識的に生きているというのではない。そうではなく、知識人にとって自身の内部に存在する
無意識がすなわち大衆的なあり方であるということである。知識人も大衆的部分を持っているのだが、それを無意識の底に沈めているというわけである。そして、それは日本近代においては封建的なものとも重なっていることになる。
つまり吉本隆明にとって大衆は封建性の代名詞であったわけだが、それはまた無意識的存在としても捉えられていたのである。無意識的存在というのは、繰り返して言えば、大衆自体がそういう存在であるというのではなく、知識人の
内部に、当の知識人が意識的に自覚できない形で、近代的部分とともに併存させている無意識的要素のこと、すなわち大衆的要素のことである。それが危機的状況のときに噴出するわけである。そうであるならば、大切なことはその無意
識的部分を十分に意識化することであろう。講演録﹁自立の思想的拠点﹂(一九六六・一〇)では知識人の役割ということに触れながらこう述べられている、すなわち﹁それは(略)知的に上昇したというようなところから、大衆の原イ
メージというものをたえず意識的にじぶんの思考のなかにとりこむ 000000000000000000ことが、知識人のべつの片面の課題として存在するわけです (
﹂(傍点・引用者)、と。 11)
これが、︿大衆の原像﹀(﹁大衆の原イメージ﹂)を思想に繰り込むという︿自立の思想﹀なのであった。別言すれば︿自立の思想﹀とは、大衆的=無意識的部分の意識化を通して、言わば強い自我を作ることだったのである。︿自立の思想﹀
について吉本隆明は、イメージ喚起的な言葉によって、しかしながら論理的説明としては曖昧な言葉によってあれこれと語っているが、︿自立の思想﹀とは詰まるところ今述べたような思想だったのである。それを真の近代的主体の確立
と言ったとしても、それほど間違った説明ではないだろう。それは、単に上から啓蒙されて、すなわち吉本隆明の言葉 (一三二二)
丸山眞男と吉本隆明
七五三同志社法学 五九巻二号 で言えば﹁知的に上昇﹂しただけで、あたかも︿近代人﹀になったかのように思ってしまうあり方とは異なって、まさに知的にも政治的にも自立した主体のことである。そういう主体こそ、国家権力の有形無形の操作や抑圧、そして弾圧に対して真に抗していけるのではなかろうか、と吉本隆明は考えていたのである。同じ講演録でこう述べている。
大衆が、自分の食うこと、日々暮らしていくこと、それから日々じぶんを貯えていくというような、そういう過程自体を意識化し 0000、深化していくこと自体の思想的な意味をとりだす過程をつかんでいかなければ、国家というもの
を超えられないとおもいます。(傍点・引用者)
︿自立の思想﹀をめぐって吉本隆明が考えていたことは、ほぼ以上のようなことであった。丸山眞男も日本社会に対して講座派的な認識を持っていたことはすでに見たが、それでは転向の問題について、丸山眞男はどのように捉えてい
たのであろうか。﹁近代日本の思想と文学﹂(一九五九・八)で丸山眞男は、転向そのものの問題ではないが、昭和一〇年代初頭において左翼的あるいは同伴者的知識人たちの間で政治に対する﹁アパシーを増大させた﹂要因として、単に
運動に対する弾圧や運動内部からの指導者たちの転向だけがきっかけとなったのでなかったとして、次のように述べて
いる。
そこにはトータルな﹁理論﹂によって裁断され、余り切れとして下意識の世界に埋積した非合理的な情動が、運動の下降によって急激に意識化され、それが﹁理論﹂と等式に置かれた 0000000﹁政治﹂にさまざまの形で復讐したという要
因があった。(傍点・原文)
(一三二三)
丸山眞男と吉本隆明
七五四同志社法学 五九巻二号このように丸山眞男と吉本隆明とは、ほぼ同時期にほぼ同様のことを言っていたのである。ずっと後になるが、丸山
眞男は、﹁日本思想史における﹁古層﹂の問題﹂(一九七九・一〇)でも同じ論理でこの問題を語り、さらには、ではどうすればいいかも語っている。すなわち、﹁つまり"自分は何であるか"ということを自分を対象化して認識すれば、
それだけ自分の中の無意識的なものを意識のレヴェルに昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が復讐されることがより少なくなる﹂、と語っているのである。﹁自分の中の無意識的なものを
意識のレヴェルに昇らせ﹂るというのは、吉本隆明の言葉で言うなら︿自立の思想﹀のことである。﹁下意識の世界﹂の ﹁非合理的な情動﹂、﹁無意識的なもの﹂によって﹁復讐﹂されたのが転向であったというのも、吉本隆明と共通す
る認識であった。 もちろん、ここで両者の論の先後関係は問題ではないだろう。ただ、丸山眞男の方が吉本隆明よりも一〇歳年長であ
ること、また丸山眞男が戦後の早い時期から今見てきたような論を展開していたことを考えれば、丸山眞男が広げた枠組みの中で論を展開したのが吉本隆明であったとも言える。そう言えるほどに、理論の本質的部分において両者には共
通するところがあった。にもかかわらず、丸山眞男は吉本隆明によって完膚無きまでに批判されたことになったのである。その後はすでに述べたように、吉本隆明以後の若い世代の多くの人たちに、丸山眞男の研究はあまり省みられなく
なってしまう。文学研究の世界においてもそうである。 やはり、このことは残念なことだったのではないだろうか。たとえば、二〇世紀の終わりにポストモダニズムの流行
があったが、そこで語られたことの多くは、すでに丸山眞男が語っていたことでもあった。もちろん、丸山眞男はポストモダニズムのような浮ついた言説は語らなかった。何が本質的に重要な問題であるのかを語る冷静な言説であった
し、たとえばそれは、本当の民主主義社会を実現するためには何が思想の上で大切なことかを語る、真の意味で実効性 (一三二四)
丸山眞男と吉本隆明
七五五同志社法学 五九巻二号 のある指針を含む提言でもあったのである。次にそのことについて少し見ておきたい。四
ポストモダニズムが流行していた頃、盛んに言われていたのが多様性ということであった。それは多元性と言っても
いいだろうが、要するに単一的で一元的なあり方に対する反発であった。それは、たとえば文学研究の場では︿多様な読み﹀を大いに推奨する主張となって現われた。テクストは一義的に読まれるものではなく、色んな読みがあっていい
のだという主張である。もちろん、多様であること自体に異論はないだろう。というよりも、異論は成り立たないであろう。認識論的に言って、認識対象はそれが置かれた文脈と、認識主体が立つ位置すなわち認識主体が置かれた文脈と
によって、色々な相貌を示すものであるため、テクストにしろ事物にしろ、物事は一義的に解されなければならないという考え方自体が原理的に成り立たないからである。だから、多様性は自明とも言えるのである。しかしながら、往々
にしてそのことは認識されない場合が多く、単一性や一元性、そして絶対性が支配的となってしまう傾向になりがちである。さらに近代においては、それら単一性や一元性が支配的であるのがいいのだ、とする政治が出現することもあっ
た。その端的な例がファシズムであった。もっとも、ポストモダニズムはファシズムよりもむしろスターリニズムの方を仮想敵としていたのであるが、どちらにせよ、それは全体主義的なあり方に対する反発であった。
そして、日本軍国主義を徹底的に批判していた丸山眞男も、一元性や単一性ではなく多様性を評価すべきだと考えて
いたのである。この多様性の尊重はまた相対性を重視する考え方と結びつくものであるが、たとえば、戦後早い時期に書かれた﹁福沢諭吉の哲学﹂(位置九四七・九)で、丸山眞男は福沢諭吉を評価しながら、﹁かくして福沢の場合、価値
(一三二五)
丸山眞男と吉本隆明
七五六同志社法学 五九巻二号判断の相対性の強調は、人間精神の主体的能動性の尊重とコロラリーをなしている﹂として、﹁価値基準の固定性が失
われてパースペクティヴがますます多元的となり、従ってそれら多元的価値の間に善悪軽重の判断を下すことがますます困難となり、知性の試行錯誤による活動が積極的に要求され﹂る、と述べている。
しかし、ここで大切なことは、﹁多元的﹂であればそれでいいと丸山眞男が言っているのではなく、﹁多元的﹂であるからこそ﹁知性﹂の﹁積極的﹂な﹁活動﹂、﹁人間精神の主体的能動性﹂が﹁尊重﹂﹁要求﹂されると言っていることで
ある。多様性の尊重は、必然的に自立した主体の確立を要求するというのが丸山眞男の主張であった。主体や個人を語ること自体が、すなわち︿反動的﹀であるかのような主張をしていたポストモダニズムとは違っているのである。丸山
眞男によれば、主体は、多様性の中から﹁能動的﹂に﹁積極的﹂に物事の﹁善悪軽重の判断を下す﹂ことが求められることになる。そうなると、それは自己の責任において﹁判断を下す﹂わけであるから、﹁多様性﹂﹁多元的価値﹂に対し
てまさに﹁主体的﹂に関わっていかなければならなくなるだろう。それはまた、ある立場に立ってコミットする姿勢が求められることである。それはポストモダニズムのようないわば︿無立場﹀とは対極のあり方なのである。丸山眞男は
﹁思想と政治﹂(一九五七・八)でこう語っている。
自分の思想に対して責任を持つということは、一定の立場に積極的にコミットするということである。(略)このコミットすることをさけ、もしくは恐れて、思想を紹介し、あるいは解説するという風習があまり長く続いたから、
思想がアクセサリーになったのではないでしょうか。つまり具体的な問題に対して、自分が自分の思想を賭けるということをさけ、あれももっともだ、これももっともだ、あるいはあれもかたよっているが、これもかたよってい
るといった、外見的に﹁公平﹂な考え方を正しいとする風習というものが、われわれを思想的に無責任にしてきた。 (一三二六)
丸山眞男と吉本隆明
七五七同志社法学 五九巻二号 この丸山眞男の言葉はポストモダニズムは言うまでもなく、今日までの日本の言論界にもそのまま適用できるのではないだろうか。この、﹁多様性﹂と﹁コミット﹂との関わりの問題を、丸山眞男は認識論一般の観点から﹁現代における態度決定﹂(一九六〇・七)では次のようにも言っている、﹁認識というものはできるだけ多面的でなければならないが、決断はいわばそれを一面的に切りとることです﹂、と。さらに﹁認識することと決断することとの矛盾を生きるこ
とが﹂﹁人間の宿命﹂であるが、﹁私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的 000に引き受け、その結果の責任をとることだと思います﹂(傍点・原文)、とも語っている。
これらは四〇年以上も前に語られた言葉なのであるが、今日おいてもそのまま通用する言葉と言っていいだろう。そして、この四〇年以上の間、日本の思想は一体何をしてきたのか、という思いにも捉われるが、このことは、丸山眞男
が﹁日本の思想﹂などで嘆いた、たとえば思想と思想の間で真の葛藤が行なわれ、その結果として思想が継承されていくということの無かった日本の思想風土が、今なお続いているということであろうか。戦後における日本の思想史とい
うのも、様々な思想が単にあれこれと入れ替わっただけの歴史なのかも知れない。そうであるならば、ますます丸山眞男を読み返さなければならないと思われてくるが、見てきたような問題を学問論に限って見てみると、たとえば実証主
義に対して丸山眞男はこう述べている。これも五〇年近くも前の発言で、﹁科学としての政治学﹂(一九四七・六)の中
の言葉である。すなわち、﹁価値決定を嫌い、﹁客観的﹂立場を標榜する傲岸な実証主義者は価値に対する無欲 00をてらいながら実は彼の﹁実証的﹂認識のなかに、小出しに価値判断を潜入させる結果に陥り易い﹂(傍点・原文)。
文学研究においても実証性を過度に強調する研究者、しかも実証的であるとはどういうことかという問題については往々にして反省意識が欠如した実証主義的な研究者は、この丸山眞男の言葉に耳を傾けなければならないのではないか
と思われる。丸山眞男の発言は今日においても、何の留保も付けずに有益で有効なのである。さらには、現代の社会と
(一三二七)
丸山眞男と吉本隆明
七五八同志社法学 五九巻二号政治においてよく言われるようになった︿寛容の問題﹀に対しても丸山眞男は示唆深いことを述べている。︿寛容の問題﹀
を別の言葉で言うなら、それは他者を如何に受け容れるかという問題でもあるが、それらについて丸山眞男はすでに﹁開国﹂(一九五九・一)で次のように述べている。すなわち、﹁個人関係の次元において(略)﹁他者﹂への寛容と﹁われ﹂
の自主性という相関的な自覚が大量に生ずるためには、他の条件は別として、少なくとも社会的底辺 00において異質なものとの交渉がある程度まで行なわれなければならないだろう﹂(傍点・原文)、と。﹁異質なものとの交渉﹂という表現を、
今日風に異種混淆と言ってもいいだろう。 このように丸山眞男の発言を見てくると、学問論だけでなく、ファシズム論やナショナリズム論、さらには福沢諭吉
論などで語られた言葉を次々と引用したくなってくるが、おそらくそれらの中から窺われる事柄で、今日において最も緊要な一つは、丸山眞男が言わば普遍への志向を手放さなかったことであろう。丸山眞男は、先に言及した﹃丸山眞男
回顧談﹄で戦前の軍国主義の時代を振り返りながら、﹁ぼくが経験として学んだのは、経験的な科学を超えた、なにものかへのコミットメントがないと、時代に対する抵抗もできない﹂と述べ、さらに﹁トータルな真理をつかむのだと
自称したら、それは嘘になる。問題は、全体的真理と部分的真理との関係にある。部分的真理も、その部分に関する限りは絶対である。絶対的真理に参与している。そうでないと、単なる相対主義になってしまう﹂と語っている。相対主
義を超えて﹁絶対的真理に参与﹂しようとするこの姿勢を普遍への志向と言っていいだろう。 丸山眞男は政治上の全体主義に対して断固として反対し、多様性を尊重する立場を貫いたのだが、すでに見たように、
﹁あれももっともだ、これももっともだ﹂という、つまるところは一切のコミットを避けようとする無責任なあり方に対しても、断固たる反対の姿勢を堅持していたのである。多様性や﹁異質なものとの交渉﹂ということを大いに評価し
ながらも、そうだったのである。丸山眞男は、そのことを﹃﹁文明論の概略﹂を読む﹄第一五講の中でギゾーに論及し (一三二八)
丸山眞男と吉本隆明
七五九同志社法学 五九巻二号 ながら、﹁多様性と多元性だけでは社会はアナーキーに陥ります﹂として、単に多様で相対的なだけの次元を超えるものを、﹁多様性の統一﹂という言葉で表現しているが、おそらく今日の私たちに必要な姿勢の一つは、多様性だけでなく、この﹁多様性の統一﹂をも求めようとすることであろう。いささか大仰に言えば、二一世紀の社会の未来は﹁多様性の統一﹂を実現できるか否かにあると言えるのではなかろうか。もちろん、この志向は文学研究などの学問のあり方にも
大いに関わってくることである。 さて、以上のように、丸山眞男から学ばなければならないことは今なお多いのである。たとえば﹁近代日本の思想と
文学﹂(一九六一・一一)は、近代日本の文学者たちの言わば発想のあり方について、﹁理論信仰﹂と﹁実感信仰﹂との対比で見事に特質づけたが、その他にも、最晩年に本居宣長の世界へと入っていく小林秀雄を予見もしていて、文学研
究の側から見ても示唆的な論述になっている。丸山眞男はその論考の終わりの方で小林秀雄についてこう述べている、﹁普遍者のいない国で、普遍の﹁意匠﹂を次々とはがしおわったとき、彼の前に姿をあらわしたのは﹁解釈﹂や﹁意見﹂
でびくともしない事実 00の絶対性であった(そはただ物に行く道こそありけれ
―
宣長)﹂(傍点・原文)、と。これは、小林秀雄が本居宣長論に着手する以前の指摘である。丸山眞男と小林秀雄の両者を対比して見てみると、福沢諭吉に対しての解釈の相違や、また政治の捉え方の相違など
興味深い問題がその対比を通して浮かび上がってくる。おそらくそれは、吉本隆明の丸山眞男批判を当の丸山眞男の学問から検証したときに見えきたこととほぼ同質の性質の発見ではないかと考えられる。その発見を簡単に言うなら、小
林秀雄にしろ吉本隆明にしろ、やはり文学の世界でともに権威になっていることは間違いないが、その権威が一挙に相対化されてしまうような発見なのである。たとえば、政治というものに対しての小林秀雄の致命的な誤解や、福沢諭吉
の思想についての根本的な誤解などを、私たちは丸山眞男に導かれて知ることができるであろう。その誤解については
(一三二九)
丸山眞男と吉本隆明
七六〇同志社法学 五九巻二号ここでは指摘だけに止めるが、その誤解に気付くならば、小林秀雄に対しての高い評価自体は変わらないにしても、文
学研究の側はもっと多角的に小林秀雄の文学を見ることができるようになるはずである。変に持ち上げることが少なくなるであろう。そして文学研究は、より高い段階へと進んでいくはずである。
しかしながら、日本の近代文学の研究は、隣接領域としては最も近いと言える日本思想史研究の学問成果さえ十分に生かしきれていないのが現状である。丸山眞男は﹁思想のあり方について﹂(一九五七・九)で、﹁各社会科学相互間、
たとえば法律学、政治学、経済学というような本来密接な関連をもつ学問分野の間でさえコミュニケーションがあまりないという状態です。いわんやたとえば文学畑と社会科学畑ということになると、疎隔がもっとはなはだしいわけです﹂
と述べ、その﹁疎隔﹂した現状を批判している。丸山眞男は、自身の有名になった﹁タコツボ﹂という表現を用いて、そのような学問間の対話の無さを憂えているが、残念ながらこの指摘も今なお当てはまるのではなかろうか。
こうして見てくると、ますます文学研究の側は日本政治思想史研究者の丸山眞男から大いに学ばなければならないということが実感されてくるが、もちろんそれは丸山眞男を絶対化してその学説を拝聴することではない。たとえば、中
野敏男が指摘しているような、丸山眞男には﹁植民地主義への感度のあまりの低さ (
リ題、がるあもで問らういとたっださにが健ナョシナな全ははくらばし後戦ちけた争欠ジアへの戦ア責という意識が任 問あったというそ題や、れはま﹂が 12)
ズムの建設を語っていた丸山眞男が、苅部直の指摘しているように (
と問っあもどな題う、いとるなくならて丸はもな解可不と々色に山究研問学の男眞語生ナリ後はショ再ナズムの健全な ョシナる一けおに本リナ・ズム﹂(一九五﹁一)以日 13)
ころがあると言えよう。もちろん、その問題をどう考えるかは政治学や政治思想研究の課題であろうが、日本近代文学研究の側はそれらのことも視野に置きながら、丸山眞男から学び、その学問研究から摂取していかなければならないだ
ろう。 (一三三〇)
丸山眞男と吉本隆明
七六一同志社法学 五九巻二号 ︹注︺((
1
丸六全一七巻(岩波書店、一九九・集四~一九九七・三)による。﹄男山に眞男の文章からの引用は、特注) 記しないかぎり、すべて﹃丸山眞2
用作著全明隆本吉﹃てべす、は引) のらか﹂論男眞山丸﹁明隆本吉集(
12
勁一。るよに)○・草﹄(六九一、房書九(
3
小二公共性﹄(新曜社、○ム○二・一○)参照。とズ熊国英二﹃︿民主﹀と︿愛﹀ ) 戦後日本のナショナリ(
4
吉一Ⅰ 第四巻﹄︿勁草書房、九学六九・四﹀所収)参照。論文本行隆明﹁戦後文学は何処へっ) たか﹂(﹃吉本隆明全著作集(
5
竹○ム﹄(中公新書、二○リ五・一一)参照。ズナ内代 洋﹃丸山眞男の時大) 学・知識人・ジャー(
― 6
田○大学出版会、二○学一・一一)参照。院西宏﹁治﹃丸山眞男冨近) 代主義﹂の射程﹄(関(
7
﹃○、岩波書店、二○有六・八)参照。編通丸上山眞男 回顧談﹄・) 下(松沢弘陽・植手(
8
苅○波新書、二○六﹄(・五)参照。岩像部、直﹃丸山眞男リ) ベラリストの肖9
質作著全明隆本吉﹃﹂(本) の派﹂季四﹁﹁明隆本吉集(
5
勁六。照参)収所﹀・草﹄︿七九一、房書○10
﹃作著全明隆本吉﹂() 論向転﹁明隆本吉集(
13
勁七。照参)収所﹀・草﹄︿六九一、房書九11
拠作著全明隆本吉﹃﹂(点的) 想思の立自﹁明隆本吉集(
14
勁七。照参)収所﹀・草﹄︿七九一、房書二(
12
中○任﹄(青土社、二○争一・一二)参照。責戦野と敏男﹃大塚久雄丸) 山眞男 動員、主体、13
) (8
)参照。(一三三一)