幕府イギリス留学生(下)
著者 宮永 孝
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会労働研究
巻 36
号 4
ページ 43‑110
発行年 1990‑03
URL http://doi.org/10.15002/00006810
十二月十九日(一・二四)、晴。午前五時半ごろ、タンジョー号は、地中海で最初の寄港地マルタ(筥釦一日)島に到着した。アレクサンドリアからマルタ島まで約三日の行程であったが、航海の初めは好天気にめぐまれ、あとから強い向かい風と遭い、船は動揺した。そのため船に酔う者も大勢出たようである。
、、、午前九時ごろ、一行は上陸した。このときはしけを川いたものか、船賃として四シリング支出している。海岸に城門があり、そこに衛兵が二名ばかりいて、通行人を見張っていた。この門を通らねば市内に入れなかったという。道路は石が敷き詰められており、狭く、それをはさんで家が立っている。日当りは必ずしもよくなく、昼なお暗いとい 十二月十六日(一・二一)この日、刑学生一同と松井源水ら旅芸人の一行は、P&O汽船会社の新型汽船「タンジョー」(弓口己・月)号に塔乗しイギリスへ向かった。同船は長さ四十間、幅六間のスクリュー船であった。当時、アレクサンドリアからイギリスへ行くには、マルセイユへ行き、そこから鉄路フランスを横切り、北仏のカレーに出てドーバー海峡を渡る方法と、海路サザンプトンまで行く方法とがあったが、諸経費を節約する上から外海経由で行くことにした。
った印象を受けた。
幕府イギリス留学生[下]
幕府イギリス刑学生〔下〕
宮永孝
四三
要塞司令官の官舎を訪問したのち武器庫に赴き、イギリスがトルコと戦った際に分捕った叩問や鉄砲などを見学した。
それより「鎖台某に面会す」ということだが、これは当時マルタ島の総督であったヘンリー・ストークス卿(将軍)と会ったということであろう。同人は年六十余の老大夫であったという。ロイドのメモの「横浜からロンドンまでの船旅における学生の個人的支出」勺のHm・ロロ]のxbの。⑪⑦の。{⑪斤且の貝の【『○日『・丙・ggp8田・己・ロによれば、伊東昌之肋に対する靴の代金として十九シリング支出されている。また「マルタ史」に三シリング、「要塞の図」に二シリング、写真に十二シリング使われているが、これらの出費はすべて伊東が
幕府イギリス留学生〔下〕四四一同はロイドとともに砲台を見学に訪れるのだが、川路の言葉によると、江戸を発して以来、いちばん驚いたのは当地の砲台であったという。常備の大砲は八百門もあったと日記に記している。「此島には港ニッありて、一つは軍艦を入れる港、一つは商船を入れる港にて、いづれも港内の周囲みな砲台なり」(「英航日録」)といっているものは、マルタの首都で港湾都市バレッタぐ巴,」の日を取り囲んでいるの日且四日ワ・日と更[口『’の口日pHの再○国日す。貝である。午後一時、ロイドと川路ほか何人かの留学生は、
デリマラ岬
ク■
歓ひ一力な鼻
のであろう。 「タイムズ」紙(s官国冒困一八六七・二・四付)によると、タンジョー号はマルタ島からジブラルタルまで好天にめぐまれたが、変風に苦しめられ、フェニステレ岬(スペイン領)までは強い向かい風と高波に翻ろうされた。難所ビスケー湾(フランス西岸とスペイン北岸に囲まれた湾)を経て英仏海峡に差しかかるころには、南方の軽風が吹き、濃霧につつまれ、北西の大波のために船は動揺した。が、同海峡に入ったころは、日がささず、小雨が降り、(幻)穏やかな風が吹いていたという。
十二月二十八日(二・一一)、崎。この日の午前七時ごろ、目ざすイギリスの陸地が見えた。川路の日記に「満船の歓ひ一方ならす」とあるように、乗客一同は長く苦しい航海のすえ、ようやく目的地イギリスを望見して歓喜したも マルタ島に滞在したのは数日のことか、タンジョー号は、十二月二十二日(一・二七)にアフリカの陸地を望見し、翌二十三日の午後一時ごろジブラルタルに寄港した。が、出帆の時刻が差し迫っていたので上陸せず、甲板の上からイギリスの海軍基地をながめ見るにとどめた。十二月二十四日(一・二九)の朝、ポルトガルの沖を航行し、翌二十五日(一・一一一○)の夜、リスボンを望見する海上に出、二十六H(一・三一)の夜は穏やかに過ぎ、二十七日(二・一)午前一時ごろには英仏海峡に差しかかつ 散財したものであろう。た。
午前八時ごるワイト島(目…三1英仏臘峡に位置)を望み、約一時術後には同鳥を闘ってソレント海峡(ワイト島とイギリス本土との間の海峡)に入った。
締府イギリス慨学生〔下〕四五
ンドン中央郵便局のギルピン氏に託された支那からの郵便物をどっさり積んで士曜日にサザンプトンに着いた。同船は九十四
橘の乗襟を遡んで来た.l一等船糯三十五渦.二等船群二十九識及び刊仙子供二十四緒.叩板船客六名.
、、、、、、、、、、、、、、、、、℃、、、、、、、、、、、、、乗客の中にはヘア博士、ライアン少佐、ロイド師と十四名のⅢ本士官、それに日本の奇術師の一行(男性七名、女性二名、 幕府イギリス研学生〔下〕四六
美しい景色と温暖な気候と海岸保養地で知られているワイト島について、
ふうしょくよるし9川路は「此島は風色(けしき)最も宜敷よりて英人数多の別荘ありといふ」と日記に記している。ソレント海峡は、日本でいえば「房州(千葉)の洲崎衛沖より浦賀・横浜に向ひ入る海峡に均しく」ということで、両岸の景色を一時川ほど凡ているうちに船はついにサザンプトン港(の。底…。§lイギリス南部、ロンドンの南西一二六キロ)に到蒋した。日本を立ってから実に六十四日目のことである。
留学生一行が上陸して初めてイギリスの士を踏んだのは、同日の午後三時
ごろのことである。日本人冊学生と旅芸人がイギリスにやって来たことは、「タイムズ」紙
(一八六七・二・四付)の「地中海」といったコラムに川ている。それには
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P&o汽船会社のスクリュー船、タンジョー号は(船長はT・ピアズリー)、ロ
、、、、、、、子供一一一名)がいた。
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・可幕府イギリス留学生〔下〕
ノーサノ・の町 D・望
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サザンプトン港
(0.s・ノック「イギリスの鉄道」l949lIf刊より)
四七
ターミナ入サザンプトンに上陸した一行は、終満駅(ドッグ駅)に行き、そ》」の待合室で汽車の出発まで紅茶など飲みながらしばらく休んだものか。ロイドのメモによると、別の沖ののぼ日の日の(軽い飲食物)の代金として十七シリング六ペンス支払われている。一行は同日の午後五時半、サウス・ウェスタン鉄道の汽取に乗り、英都ロンドンに向った。一行のサザンプトン滞在は二時間ほどにすぎなかったが、それでもこの港町を瞥見するのに十分であった。サザンプトンについて、川路は次のように点描している。
すべしきよく「ソオザンプトンは人家も多く総て美麗を極め、縦横の鉄道縦横の一アレガラフ(電報)実に文明至極(この上ない ロイドが英政府から日本人研学生の総監督に就いたということは、他の研学生にとって二童に監督されることを意味したことであろう。この時点でロイドの人柄の一面しか解かっていなかった川路などは、まだかれに全幅の信頼をわびⅢいあいしじこん寄せており、「「此人性質直実温厚にして我誰(われわれ)を愛子(愛児)の如くなしくれる故目くう(これより)亦そ
うの世話を享くる》」と一段の歓ひなり」(「英航日録」)と記している。けれどロイドはその後、徐々に馬脚をあらわすようになり、またその総取締的な地位は、留学生たちとの操めどと 名は、日本を立つ前』に立つことになった。 幕府イギリス剛学生〔下〕四八
とある。タンジョー号は乗客や郵便物以外に、香料・生糸・ゾウのきば・オレンジ等も獄んでいた。サザンプトン到若後、ロイドはイギリス外務省の使者から、n本人掛となった旨の連絡を受け、そのことを一同に(泌)報止口した。ロイドの職掌は、日本人研学生の世話ということだが、監将をさすものである。川路太郎、中村敬輔ら二名は、日本を立つ前に幕府から研学生の取締(生徒朧)を命ぜられていたが、ロイドは総監督として一行十四名の上
けれどロイドはその後、
の原因ともなるのである。
一行が到若した駅は明らかでないが、おそらく、テムズ河畔の、「ウォータルー駅」(ゴロ〔の「一・・m[目・口)であったろう。ロンドンの町はすでに夜であったが、街路にはすでにガス灯がともっており、白昼のように明るかった。午
キャップ後九時》」ろ、一行は辻馬車に分乗し、対岸のチャーリング・クロスの旅宿へと向かった。このとき辻馬車と
ブリッヂ・トウル橋の使用料として十一一ポンド使った、とロイドのメモにある。留学生一行がロンドンでの第一夜を過ごしたチャーリング・クロス界わいの賑わいについては、川路の日記に、
「第九時馬車に乗り移り、繁華を極めたる市街を過きテームス河に添ひ砒輌剛噸酩唖騒州“吐江五六丁も行きチャーリン
グクロオースと云ふ町にある大惚耶舎(大ホテル)にいたり、此夜こ塾に宿す。チャーリングクロオスは江戸なれは日6りとう本橋通という様なる所にて西傍の町家玻璃燈(ともしび)を点し夜見世(夜店)の景色その繁華実に一一二口語にも紙筆にも尽し難く嘆息せり」(「英航日録」)
とある。 しかゆえこと)ないソ。然し此地は造船局其他諸器械の製造等を主になせるよし。故に存外繁華にはあらす」(「英航日録」)日本人一行を乗せた汽車は時速約五十キロで南イングランドの緑地を西に向けてひた走り、午後八時半ごろロンドンに着いた.途巾ハンプシャー、サリ州などを通過し、六回ほど駅で停車した.汽車はサザンプトンーロンドン間約百三十キロを三時間ほどで走った勘定になる。
四英都ロンドンにおける留学生
幕府イギリス剛学生〔下〕四九
|行がこのホテルでいちばん驚いたのは、食堂のそばにあるエレベーターであった。それについて川路は、「四隣の上に登るに数多の階子もあれと、又奇なるは食室の傍小室ありて此室中に三四人入りて人の奴隷(ボーイ)に命すれは其小室自らせりあかりて知らすしらす四階の上に達す。此には実に驚きたり」(「英航日録」)
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⑪目
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五○
江一戸の夜の暗さに比して、天と地ほども違うロンドン市の不夜城に、一同目をみはったということであろう。川路によると、ロンドンの夜の賑わいを見て誰もが祖国にいる家クJ
・ル、族や友人に一日H見せてやりたい、と思ったという。 幟市嘩
また旅宿については、一ド地「此辺の人家は皆三階四階にして殊に我旅館は大層高楼なり。旅ヤン絵輝脂し人の為め設けたる室(部屋)三百もあり、廊道(ろうか)縦横にあ 》“》リに舳雌畦識座嘩Ⅶ礼法阯岬峠諏ⅦⅦ江“抑匠朴魁詐イドのメモか
ドープ年呵鮴叩ら、ノーサンパーランド街に面した「チャーリング・クロス・ホテ 蝦醒0ル」(n日『}□ぬDCの、四・斤①一)であったことが判かる。このホーアルは
E・M・ベアリの設計に基づいて一八六一一一年から翌六四年にかけて造られ、表面を人工石で仕上げたロンドン最初の建物でもあった。(”)客室は一一百十、食堂はぜいを尽したものであった。のは、食堂のそばにあるエレベーターであった。それについて川路は、ロンドンは一週間ほど前まで雪がちらつく空模様であった。が、日本人一行が入京した日は、晴朗で暖かかった。その夜、一同は長途の旅をおえ、無事ロンドンに着いたことを祝い、かつ日本の開化は自分たちの使命であると感じ、 と日記に記している。
ロンドンは一週間症
幕府イギリス留学生〔下〕
チャーリング・クロスの広場付近の図 (W・グレー「ロンドン史」1860年代刊より)
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イギリス(W学生一行が宿iI91した チャーリング・クロス・ホテルの図祖国日本の前途を祝して乾杯した。翌朝、窓に陽光が射し込んで来るのにも気づかず、快眠を得たのである。……
やがて一行は腿応三年の正月
をチャーリング・クロス・ホテルで迎え、祖国に向って礼拝し、大君の健康を祝って祝杯をあげた。が、ホテル住いは何かと費用がかさむので、川路らはロイドとともに陰暦の大晦から適当な借家を見つけることに努める。が、うまくゆかず慶応三年一月二日(一八六七・二・六)の夜
五一
ロイドの住居はロンドンから三十キロ位の所にあったが、こんど夫婦で日本人の世話をすることになったので、この日の午後四時ごろ馬車にダンスや荷物類を積んでヴッズ・ホテルに引き移って来た。一月四日(二・八)曇。時々雨が降った。午前十時ごろ、川路らは「為替会所」(銀行)に赴き、横浜において発行した為替手形の件を説明した。それより書店に行き、小栗上野介より来た英書購入代金二千ドルを支払った。書籍の安いことは横浜並みで、江戸の三分の一ほどで求めることができた。この日、川路は英字新聞を読んだが、語学力不足のため、よく理解できなかった。けれど大意だけはつかめた、といっている。 ありこの日の朝、薩摩藩士沢井鉄馬と名乗るJUのが、ホテルに訪ねて来た。沢井というのは変名で、実は若き日の森有のり礼(一八四七tj八九)その人であった。慶応元年一月、かれは、新納刑部以下十八名の薩摩イギリス留学生の一員として、秘かに渡英し、ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジの法文学部に籍を置いていた。森はおそらく新聞か何かで幕府派遣のイギリス留学生のことを知り、この日、思い切って訪ねたものであろう。訪ねられた方も、異郷で同胞に会えたうれしさのあまり大いに歓迎したものか、川路はこの薩州人との出会いを「万里外に船いて邦人に会遇する其の歓ひ格別のものにて其の情妙なり」と日記に記している。一月三日(二・七)晴。一行十四名が移ったホテルは、小部屋が一一一十余りもあり、その主人は外に出ておるが、妻女らが切り盛りしていた。小ホテルながら、部屋には暖炉・ダンス・机・椅子などをちゃんと備え、日本人らを親切 七時、とうとうチャー(釦)‐--4不詳)に移った。に扱ってくれたという。 幕府イギリス留学生〔下〕五二
とうとうチャーリング・クロスの旅宿を引き払って、もっと宿代の安い「ウッズ・ホテル」(三。。□の函・〔の一
その夜三千名近い観客があった。和服姿の日本人はたちまち大勢の観客の視線を集め、しきりにわが力を見たという。はなはだしいのは芝居をそっちのけにし、オペラグラスで日本人をじっと観ていた。一月十日(二・一四)曇。この日は、ホテルの支払い日につき、勘定書を見たら、一週間十四人で八十四ポンド請求されていた。毎日、特別美食をしているわけではなく、イギリス人と同じものを食べ、倹約して暮らしているっも
幕府イギリス留学生〔下〕五三 一月五日(二・九)、曇。この日川路はオリエンタル銀行に預金口座を設け、六千八百八十九ポンド七シリング二(狐〉ペンス託けた。また同日の午後六時ごろ、一同羽織袴を着し、ロイドとともに「ローヤル・スィァタ」(幻・『ロー旦司ゴのロ可の叉は、”○百」の・ず。Bゴ8[『ののことか?)に芝居を観に出かけた。川路はこの劇場について、たいじん「此ロャールセャタといふは訳すれは公儀の芝居という儀なり、女王始め王公大人(高位高官)来り見る処なるよし。即ち此夜も女王来れるよし」(「英航日録」)と述べている。劇場の造りは大きく、入口の内と外に警官と歩兵が警備についていた。
鼠ツクスー行十五人は仕切り席を貸し切ったのだが、座席料は一ハポンドであった。川路によると、当時英貸一ポンドは約一一一両三分に相当したという。だから「なかノー以て容易に劇場見物は成りかたし」と嘆息せざるを得なかった。桟敷はどれも紫色のビロードで包まれ、柱は大理石であった。やがて教十人の楽士が演奏を始めるや、たちまち幕が上がり芝居が始まった。だが役者の言葉は聞き取れないし、物語もわからないので、少しくおもしろくない。「眼を生し候位なり」というから、留学生らは退屈を覚えたに違いない。ただ感心した点がある。役者の踊りや勅作が目まぐるしく変わり、舞台背景、日の出没、月の出、波とうなどがすべて機械をもって演出される装置の巧みさであっ
た◎
購入したので、それを留学生の共同住宅とし、家族共々いっしょに引っ越すことがこの日決まった。一同は十日ほどすれば、右の家に移れると知ると、大歓びであった。引っ越した上は、外相や女王にも会えるだろうし、めいめい学校へも通える、と川路の夢はどんどん膨らんでゆく。また、川路はロシアから来た書簡により、幕府のロシア留学生
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ハイドパーク付近の図 (1860年代の絵地図より)
五四
リであったが、それにしてもこれは大きな散財である。一月十三日(二・一七)蛾、新附によって、松井派水の一鵬がセント・マーチンヒルという所の劇場(不詳)で興行していることを知った川路らは、このⅡその劇場に出向いた。源水らは大いに喜び、船中での礼などを述べた。興業は六、七日前から始め、夜八時から十時まで独楽廻し・手品・軽業などをやっていると諮った。征晩、蝿況を呈
しているとのことであった。一月十九日(二・二三)、川路はこの日、カラフト境界画定交渉のため箱館奉行小出大和守の一行に随ってロシアに赴いた箕作秋坪(反訳力)より瞥簡を受けとり、駐英公使に任じられていた合原義砲が病気により辞職したことを知る。川路はこの合原の着任を心持ちに待つ(蛇)ていたのだが、剖学生の取締としていっそうの責任を術感した。一月二十日(二・一一四)曇。寒気甚し。ロイドはハイドパークの北lランカスッ1ゲイトP…蔦『の繊鳳z・息)に大きな家を
二月一日(三・六)、小雪が降った。この日の午後三時ごろ、一同は荷物を整え、雪を踏みながら、ランカスター・ゲイト十六番地の家に引っ越した。家は石造りの五階建てで、間数も多い。--寝室が十二のほか、客間、食堂、書斉、調理場、化粧室なども備えている。ほかに下僕の住居、馬屋などもある。ロイドの話だと、この家を人に貸せば、一ヵ年一千ポンドの家賃が取れる、ということであった。しかし、家具調度が不足しており、不自由な而もあったが、諸経費を節約する上からも耐えねばならなかった。二月七日(三・一二)、鉦。朝、雪降る。この日の川路の日記を見ると、勉学の様子などがよくわかる。まず共同住宅に移った時点で学則が定められたようである。11起床は午前七時。三十分で身繕いをおえ、午前七時半には朝食のテーブルにつく。午前九時より勉強を始め、それは午後一時半ごろまでつづく。午後は運動のため、散歩をするが、午後五時までには必ず帰宅せねばならぬ。この規則を破った者は、罪の軽重により、禁足や削金が課せられた。
幕府イギリス耐学生〔下〕五五 市川文吉がプチャーチンの家に下橘していることを知り、他日学校が休みになったら、その寄宿先を訪ねたい、と述
一月二十三日(二・二七)、曇のち晴。寒気甚し。この日、川路らはロイドが求めた家を下見分し、帰途ハイドパも人か人Iクの「一方にある門関」(二「の}一{ご凪。□シ『、ゴのことか?)の近くに大勢の人だかりを見たので、何事かと思えば、ヴィクトリア女王がお通りになるという。そこでわれわれも見よう、ということになり、三十分ほど待つと誰衛兵らに守られた馬車が一合、目の前を通って行った。女王が通行のときは往来を止め、また人は脱帆して敬意を表するのである。 べている。
一同、羽織袴を着し、午前十一時ごろ四両の馬車に分乗し、外務省に赴いた。スタンレーは一同を厚くもてなし、洲英中、砲台・耶艦・工廠等を見学したければ、十分便宜を与える、といった。帰途、一行は議事堂に寄り、海服提督の案内で蛍内を見学した。
「堂屋高大数百の室あり。公卿百官頭にあり、また一つの大室佃舞壮”皿ありて、ここに百官会集して種々評議をなし 居りたり。正面に高き処ありて鋳型鉢”砿酢bここには女王来るよしなり。衿釧”越王此席即ち彼の公会議醜聰ンの席な
jつりごとり。(中略)此議事堂即ち江戸大城の如くして女王の宅にては政は識せさるよしなり」(「英航日録」) 緋府イギリス翻学生〔下〕五六散歩のときは、イドや助救螂(氏潴不詳)などが同行し、午後六時には夕飯を食べる。l午後七時から九時砿で再び教師について授業を受ける。午後九時から十時まで、日本の歴史などを英訳する課題が出された。
りげんいつし川路と中村は、中井履軒(名は積徳、一七一二一一~一八一七、江戸後期の儒学者)の「逸史」(史書)を英文に訳し
したしらべたりした。-1小‐後十時、めいめい自分の部屋に戻り、明日の下調(下読み)などを行ない、十一一時ごろようやく
この時期、翻学生らが主として学んだものは語学であったろうか。いずれにせよ、かれらの学習は一日六、七時間にも及ぶ猛勉強であった。そしてそういう状態がしばらくつづいた。二月十六日(三・二一)、晴。この日、一同は外務大臣スタンレー卿(目ゴロa、の。qの目smBp]の己呂の1局田)に面会した。イギリス政府も日本人研学生に留意し、スタンレーの方から日本人に会いたい、と申し込んだものらし
い
◎
ベッドに入る。
この時期、、
川路はその見聞記を、
あさたりその口川の夜、川路は遣露使節小出大和守の随員(氏名不詳)よ、ソ、大君(慶喜)の弟徳川民部大輔昭武がパリ万国博覧会に将軍の名代として派遣されることになった旨を伝える書簡を受け取った。川路はこの と記している。
lliiillilliiiiiliiil1lliililllliillilllil
幕府イギリス留学生〔下〕
国会譲りi堂の図
(W、グレー「ロンドン」1860年代刊より)
貝(氏名不詳)より、大君(慶喜)の弟徳川民部大輔昭武(十四歳)ることになった旨を伝える書簡を受け取った。川路はこの知らせにこおんきざしおどりして喜び、「欽喜無限。皇国の天下に冠たる御兆とも見え歓ひて寝られす」と、その夜興溌のあまり寝つきが悪かったことを日記に書きとめている。
留学生の教育は、ロイドと助教師が担当していたが、後者の学力は十分ではなかったので新たに学力のすぐれた教師が雇われ、新教師は
二月十九日(一一一・一一四)から教鞭をとった。こんど来た先生は「年三ならび十有余にしてラテン語・ギリシャ井にフランス之学等に通せる人物也、
はなは魔甚丁寧親切に教へられ、一段之歓ひ」というから、まずまずの教養人であったのだろう。
この新教師はロンドンから四十キロ余も隔たる田舎に住んでいたが、
朝九時に来て午後一時ごろいったん帰宅し、また夜七時に来て九時には家に帰る、といった人であった。ロンドンとの往復には汽車を用い
ていた。
た鱈寸林簸三郎(のちの遊)の「後は昔の記l林砿回震」に、
五七
三月九日(四・一三)、晴。午前三時ごろ、パリの向山隼人正(抑勘定奉行格・外国奉行)より、学生取締の川路もしくは中村のいずれか一名「御川召の為め」(じっさいは御機嫌伺い)パリまで出張せよ、との主旨の電報が来た。昭武一行は二日前の三月七日(四・二)パリに到着し、キャプシーヌ街の「グラントテル」に旅装を解いていた。川路は早速、外務省に赴き、大対の弟がパリに来たことを伝え、ロイドとともにパリに出向く旨報告した。三月十日(四・一四)晴。昨日の電報につづいて御用状がパリから届いた。この日、川路か中村がパリに赴くつもりであったが、川事がまだ済んでおらず、かつ今日はH暇日につき、役所(外務省)も閉まっているので、明後日フランスに向けて立つ旨、電報をもってパリに知らせた。 たものであろう。
三月九日(四 幕府イギリス剛学生〔下〕五ハ
エドワードモールトピイマーゲート「囲言ロagm][耳という人を教師として英語・算術等を学ぶ。此人は後に巨口『ぬ口[の(ケント州北東部の町、ロンドしいんンの束一○○キロ)の市尹(市中の隠者)となり、子が公使として来英したる時来見せり」とある。が、このエドワ(弧)Iド・モールトビィという人こそ新教師と考えられる。外務大臣スタンレー卿は、かねてより見学したい所があれば申し出るように、といってくれていたが、留学生らは同年二月から三月にかけて次のような場所を訪れた。陸海双の武器庫(陰隅二月二十七川)造船所・製鉄所(同月二十九日)
ロンドン塔(三月八日)武器庫はウーリッジの「王立兵器工場」、造船所・製鉄場はテムズ河の左右両岸にある「ドッグ」の施設を見学し
三月十二日(四・一六)、晴。午前七時、川路は旅装を躯え、旅行カバン一つをもち、チャーリング・クロス駅をロイドとともに七時半に発して、ドーバーへ向かった。ドーパーには、午前十時半ごろ到軒した。それより戒ちに小さな蒸気船に乗り、対岸のカレーへ向った。当日は寒さ厳しく、時々耐が降った。英仏海峡は波浪が高く、船は激しく動揺した。乗客の目の前には、〃吐っぽ〃が置かれてあった。乗客の大半は船に酔ったが、川路は「いかなる感し
もうさfなき歌にや更旋Lよい不巾」ということで、平生の通りであった。お昼ごろカレーに到着し、ロイドと一緒に昼食を摂ったのち、汽車にて更にパリへ向かった。夜七時ごろ
ガール・アユ・ノール北駅に着き、通関手続をすませたのち、馬車でグラントーアルに赴いた、川路らは、向山と山高石見守(御作事奉行格・御小姓頭取)らに町会したのち、昭武に拝謁した。その夜、川路は向山と深夜まで川談し、床についたときは午前二時をだいぶ回っていた。イギリス留学生がパリにやって来、その晩グラントテルで止宿したことについて、「此
▼マロンドンの日朝七時(午後七時の誤り)本邦の生徒倫敦府より来り旅館へ候す」(「航西日記」)とある。三月十三Ⅱ(叫・一七)、昭。この日、川路は再び昭武に拝謁し、昼食をロイドとともに州件したが、イギリスでの懲らし向きなどについていろいろ尋ねられた。食卓の正面に昭武がつき、それと向かい合わせに仏領事フロリ・エ
ラールがすわり、右手には山高・川路・ロイドらが、左手には向山・保科俊太郎(歩兵頭並)・アレキサンダー(イギリス公使館付通訳)の順で席についた。
幕府イギリス研学生〔下〕五九 三月十一日(四・一五)、曇。朝、雷が鳴った。雷声を聞くのはイギリスに来て初めてのことである。川路は、中村の力が年長なのでフランスに行って欲しい、といったが、当人は数Ⅲ前から病気のため、代わって川路が明日出発することに決した。
陰暦の五月以後、留学牛
の特別訓義を受けた。「今、験)をなす」(「英航日録」 幕府イギリス研学生〔下〕六○
川路らは食事中、日本の様子などについて説明を受けた。
川路とロイドはパリで六油したのち、三月十八日(四・二二)にロンドンへ帰った。一方、ランカスター・ゲイトのロイド宅に住む剛学生らは、日々学業の研讃に励んでいたことと想像されるが、かf8な〃れらの刻苦勉励ぶりの一端を細介してみよう。林泣一二郎の部屈の真下にいたのは、中村敬輔(のちの正面)である。ばつかぷんかんゆそしょくそてつそSよう毎朝、五時蓉」ろになると林は八家文(唐の韓愈・柳宗元、末の欧陽修・蘇洵・蘇轍・曾譲・王安石などの文意)をはじめ、「左伝」(券秋左氏伝の略)「史記」(中国の正史)などを朗読する声を聞いた。林は、中村が日本から持ってきた漢籍の数が多くないことを知っており、どこでそれらを入手したものか不思議に思っていた。一日このことを尋ねると、「読書に非ずして暗諭したるなり」
ざこ人(別)林はこの漢学者の記憶力ばかりか「気根(根気)の強きこと」に驚き、敬服せざるを得なかった。英書を習うにしても、発宵その他で岡学生中、いちばん物覚えが良かったのは最年少の大六であった。中村は覚え
ることはおそかったが、いったん覚え込むと決して忘れない。他の仲間も覚えることは早いが、忘れることもまた早 とのことであった。
(調)かつた。
留学生の語学力は進歩したのであろうか、五月八日(六・一○)には普通学に加えて物理・化学ならび。「くう日午後第五時トクトルナシ(未詳)と云人、我等の閥居に来り、舎密之誠釈井に経験(実
このようにロイド宅での学習はっつがなく進んでいた感があるが、やがて留学生らは学術修業に関していろいろ不満を覚えるようになる。既述のごとく、かれらの留学の第一目的は、イギリスの政治や兵制についての知識を得ることであった。しかし、それらについて学ぶにしても語学が十分にできなければ成果が上らぬ。だから英語の修得こそ第一の急務である。日本人同士が同じ屋根の下で懲らしておると、英語を用いること少なく、つい日本語ばかり話し
幕府イギリス留学生〔下〕一ハ一 綴り教師に提出した。 このナシという博士は、初めに火が燃える理由を説明し、水素ガス・酸素ガス等の実験をしたという。本来なら英文を二、三十ページ読んでも理解できるかどうかも分らぬものを、実験を交えて説明してくれたので、よくわかったといっている。この日の特別講義は物理・化学とはいかなる学問か、また英語を聴き取る勉強のためのものであった。講義終了後、この日聴いたことを英文に綴り、講師に差し出した。教師は学生のレポートを添削して返してくれたけいこが、「誠によき稽古也」と、川路は日記に記している。留学生らは勉学の合い間に諸処方々に出かけ見学を行なっている。
クリスタル●パレス水晶宮(陰暦四月十四日)
ダービー競馬(四月十八日)
新聞社(タイムズ紙社)(六月八日)
ポーッマスの軍港・造船所(六月十五日)五月二十ハ日(六・三○)晴。この日、午後五時より天文学の講義が一時間ほどあり、あとで聴いた内容を英文に ダービー競馬(四m植物園(六月二日)
川路と中村は、一同が分散して雛らすことをロイドにはかったところ、かれはこの考えに賛同しなかった。なぜなら、留学生の見る所では、分散すればかれの収入が大いに減るからである。ロイドがあからさまに反対を表明したことで、一同ひじょうに横慨したらしい。六月二日(七・三)の午後、友人宅を訪ねるため外出した安井真八郎と福沢英之肋は、刻限におくれて帰宅した所、ロィドからきびしく叱寅された。ロイドの不遜なる態度に腹をたてた学生らは、「結束して超ち、各自議論状を認め(妬)て、ロイドを詰問し、遂に彼を屈服せしめ、分宿の許可を得るに成功した」。川路らは、かねてよりロイドが利をむさぼっていることを知ってはいたが、相手の利欲を論破するだけの語学力に欠けていたし、また英人の談判は虚喝(こけおどし)が多く、怒りをもって人を嚇すような所があったから、つい泣き渡入りせざるを得なかったようだ。当時、川路の手許には千二百七十ポンドほどの現金があったので、まずこれを各留学生に分け、分宿の費用とした。蛾年少の大六と病弱の市川盛三郎、学生取締の川脇・中村ら四名だけは、これまで通りロイド宅にとどまることにし、他の十名は六月二十日(陰暦)ごろまで順次下宿に移って行った(原平三「徳川幕府の英国留学生」)。毎日の授業と時々行なわれる特別講義は、従前通りロイドの家で受けた。各留学生の下宿先については、今後の調査を待たねばならない。が、現在判かっているのは、 力をつけさせようと図った。 絲府イギリス慨学生〔下〕一ハー―
てしまう。これでは単彩術の進歩は望めない。川脇は、功罪相なかばする同居についていろいろ考えた末、学生ひとりひとりをイギリス人の家に分宿させ、英語
鑓鯛鬮I
箕作奎吾………ケント州冨、伺臼のの図夛「囚agm-S】方(?) 林董三郎………Z。.』一FQ耳◎丙の幻・目z・菖口、円]]の]・盲○鳥々ロロ『【の方。 外山捨八………z○・円三○氏。m四]](すなわちzoRケ【のロ凶ロ日。。)の函日ぐの『方。幕府イギリス留学生〔下〕
議鯛蝋麟
鰍WIN『
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剛…鼬
クリスタル・パレスの内部
(「タリスのさし絵入りロンドン」1851年刊より)
9富国岸ご方(?)ら三名の住所と家主名だけである。六月二十四日(七・二五)、この日の夜、川路はロンドンを立ちパリへ向かった。再び渡仏したのは民部大輔昭武の来たるべき渡英について打ち合わせをするためである。翌二十五日の早朝パリに着いた川
こうし路は、向山らと協議した。一一十六日は公子の馬車を借り、向山・山高・田辺(太二らと博覧会場に赴き、日本館などを見学した。同年八月(陰暦)に至り、幕府は駐日公使パークスを介して川路・中村らに次のような訓令を与えた。IIL子生の監督はすべてロイドにひとゆだね、その方らは費途(〈云計)だけの任務に服せ、といったものである。ここにおいてロイドの復権はなり、かれは職権をもって再び留学生を自分の家に住まわせようと謀ったのである。陰暦の八月から九月にかけて、留学生らは次のような所を見学に訪れている。
ウィンザー城(陰暦八月七日)
一ハーーー
本状の末尾に署名いたしました私たち日本人解学生は、次のような事柄で閣下をわずらわせることを大変申し訳なく思って
おります。問題を閣下のもとに持ち川しました所以は、御注意を引くものと信じたからです。イギリス政府が私たちに示された御親切に対して、心より感謝を献げます。が、W・V・ロイド師に対する不満を閣下にお
伝えすることを大変巡憾に思います。ロイド師は掛国政府によって私たちの監将に任じられた者です。事情を説明するために、拙い英語で認めました。
W・V・ロイド師が監粁であることに対する私たちの不満と不備の主な理由は、こういうことなのです。ほとんど企ての点
でロイド師の意見は、私たちの意見僅畑容れないばかりか、他のイギリス人のものとも異なっております。第一の例は、私た 幕府イギリス冊学生〔下〕六四
ウーリッジの兵器工場(八月十三日)
陸躯の調練(八月十五N)陸海耶の武器展示会(九月二十七日)施設の見学等を行なう場合には、ロイドが関係各省に要諦を出し、許可が下りると引率者となっている。いったんは希望通りに分宿することができた留学生らは、再びロイド宅に合宿せねばならぬ雲行きとなったので、ロイドに強く抗議すると同時に、外相スタンレー卿に対して、これまでのうっ枇したロイドに対する不満その他についての意見具陳を書簡に認め、提出した。所々判読できぬが、全文訳を次に揚げてみよう。
スタンレー卿に呈す
ちが初めてロンドンに到着したときのことです。そのとき分宿させて欲しいと頼みました。なぜなら他の国々(フランス・オランダ・ロシァー‐Ⅲ稀)にいるⅢ本人剛学生の例やイギリス人から識を附いて知っていたからです.lつまり、合術だ
と学ぶつもりの英語を用いず、いつも日本語ばかりを話してしまうので、ためにならぬというのです。
しかしロイド師は分宿に賛成しませんでした。一緒に募らすのが最善の方法であり、仲間同士で英語を話すよう努めよ、と云いました。結局、私たちはかれの意志に従わざる得なくなりました。しかし半年ほど一緒に慾らしてみて分かったのです。私たちの扣憂通りになったことを。
だからもう一度、分宿させてくれるように頼みました。それぞれ皆が言い分を認めましたが、そのときも反対し、ランカスター・ゲイト十六番地で一緒に暮らすことがスタンレー卿の命令だというのです。長い激論のすえ、ロイド師もようやく私た
ちの願いを聞き入れてくれました。閣下の御高配にあずかりたいのは、今後の私たちの学習方法についてなのです。ロイド師が私たち全員に対して凧ってくれた教師はたった一名といった有様ですから、私たちはほんのちょっとしか学べな
いのです。ただ時間の無駄としか思われません。なぜならロイド師は少しも教えてくれず、ごくまれにしか姿を見かけません。だから二、三週間前かれに会って、学習についてのいろいろな希望を伝えようと致しましたが、会ってくれませんでした。それゆえ私たちはまた手紙を樽き、各自の希望を述べました。
かれの返馴はこうでした。君たちはユニバーシティ・カレッヂ・スクールに通い、英語を学ばねばならぬ、というのです。そうすることがスタンレー卿の命令だ、というのです。私たちばかりか他のイギリス人の意見では、この学校で学ぶことになると時間を非常に食うので、人によっては家庭教師を雇った方がよいのです。そうするだけの十分な財力があっての話ですが
◎
締府イギリス秘学生〔下〕 。、。Lユノ市工
私たちはロイド師に対して多少疑念を抱いております。
私たちの願いをぜひ附き届けていただけるようお願いする次弟です。末尾に署椚した学生の中には、四名の学生の渦が見え
ません。すなわち、取締二名と年若の学生二名の名前です。取締についていえば、かれらは私たちと同じ考えを持っておりま
すが、このような手段に訴えることに反対しております。また年端の学生のことですが、かれらは浩すぎますから、私たちの
考えに合わさせる必要があると考えております。だからこれら両名の名前も除外いたしました。
私たちの意見具陳がいかにn分らにとって取大な耶柄か、閣下にお分りいただけるものと傭じております。閣下がいつも私
たちに格別翻意して下されたことに鑑みて、あえて一筆啓上いたした次第です。 家庭教師を届い入る件ですが、W・V・ロイド師の話では、日本政府(幕府)から支給されている額では足らぬ、というのです。しかし、イギリス人に側いてみた所、このことを肯定する者はおりませんでした。
私たちの仲間には、〃教養人“と呼ばれたいと思っている者は一人もおりません。またわが国の政府も、私たちがイギリス
人と同じ教育を受けるものとは思ってはおりません。しかし、私たちは特殊技術や科学的知識を十分に修めたいと思っております。上記の理由から、私たち十四名の留学生の中には、ロイド師に満足し、その監督下にいたいと願っている者は一人もいます。上記(
ないのです。 実用的な科目、たL強することでしょう。 孫府イギリス慨学生〔下〕{ハーハ
片目、たとえば実用工学などを学びたいと思っている学生のことですが、かれらはもし可能なら今日明日にでも勉
恐憾諏言
学生らが連名で外相スタンレーに陳悩の手紙を出したことをロイドから聞いた学生取締の川路と中村は、二日後外務次官エドモンドハモンドニハ○二~|ハ九○)に対して陳謝の手紙を出した.それを次にひいてみようl、
八六七年十一月十三日
幕府イギリス留学生〔下〕 岩杉福安憶伊林筑外成
佐沢井111束作山瀬 徳英真昌並錠 源次之八一之三奎捨五 二郎肋郎郎助郎吾八郎
ハ六七年十一月十一日
‐ユー ノ、
七
ロイド氏から聞いたところによれば、外務大臣閣下に手紙を書き送った学生がいるとのことでした。監督激任を負っている私たちにこれっぽっちも知らせず、かれらがかかる行為をなしたことに脳いておる次第です。
前もってこうなることが分かっていたら、手紙を出すことを許さなかったでしょう。
学生たちが採った行動に対して閣下のお許しを論うつもりです。そして[……以下判読不能] 拝呈
エドモンド・ハモンド閣下 幕府イギリス留学生〔下〕
ランカスター・ゲイト十六番地
学生 中111取 村路締敬太 輔郎
恐怪謹言 六八
しかし、学生らの行動は、川路・中村らの説得慰撫により未遂に終わり、十一月に至って一同は再びロイド宅に戻(幻)り、共同生活を始めるのである。几いようロイドが分宿を許さなかったのは、留学生の学費をむさぼり、自分の栄耀(ぜいたく)を謀らんものとの考えから出ており、そのため留学生らと朝夕言い合いが絶えなかったようだ。林董の「後は昔の記」によれば、日本人留学生の学費は一ヵ年一千両、小遣は毎月三十両、学校の月謝・書籍代・旅費等はこの中に含まれず実費供給であった。当時の英貨一ポンドはメキシコドル約五枚、一メキシコドルは邦貨にして約二分二朱位。一ヵ月の学費は毎月三十 幕府イギリス留学生〔下〕六九
翻学''1に撮った 中村敬輔の写真
1.2錐←
留学中に撮った 111路太郎の写真
四ポンドほどであったという。当時
の下宿代は、教師・医師・牧師の家に間貸りしても、せいぜい二ポンド
位であったというから、日本人の留学費の総額約六千ポンドはいかに大金であったかが判かる。ロイドは牧師ながら「身分不相応
に宴会を催おし、二人の娘に乗馬を学ばす等種々の賛沢を為した」言後は昔の記ごというから、一同の疑心がとみにっのって行ったのは無理
ハモンドは、「若い大君(昭武)ができるだけ冬に訪英すること」を望んだ。なぜならヴィクトリア女王が十二月中旬ごろまでウィンザー城で過ごす予定であったからである。ともあれイギリス側は、昭武一行のイギリス滞在を極(犯)力快適なものにし、見学したいものがあれば何でも見させるよう配慮した。 パリ万博の主要行馴が済んだので、昭武一行は八月六日(九・三)の朝、パリを汽耶で立ち、各国巡歴の途に上り、スイス・オランダ・ベルギー・イタリア・マルタ島を経て再びパリに帰り、次いでイギリス訪問の用意を整えた。イギリス訪問のためにパリを出発するのは十一月六日(一二・一)と決った。その訪問の時期についてイギリス政府との調整が行なわれ、昭武の通訳アレキサンダー・フォン・シーボルトと外務次官ハモンドとの間で何度か連絡が取られた。 幕府イギリス繭学生〔下〕七○
からいことであった。そのこともあってあえて外相スタンレー卿へ陳情書を書く仕儀に立ち至ったのである。日本政府(幕府)を食い物にし、私利を図ったロイドには後日談がある。明治五年二八七二)七月、イギリスを訪れた岩倉使節団は一日、ポーッマス軍港を見学に訪れた。そのときロイドは使節のホテルを訪ね、昔緋府の冊学生を預かった縁故をもって、日本政府に凧って欲しい、といった。刷使伊藤博文より意見を徴された林萱(当時、外務省七等出仕、岩倉使節団の随員)は、往年の留学のてん末を語った結果、
ロイドの猟官迦動は不首尾に終わり、その狙いもはずれた。
五徳川昭武のイギリス訪問
アレキサンダーは民部公子一行の渡英に先立って、昭武の希望をイギリス政府に伝えている。lできれば今回の訪
問を非公式なものにしたいこと。舞踏会やパーティや晩さん会は好まぬので遠慮したいこと等々。次いで昭武の現在の心境を次のように伝えている。
幕府イギリス留学生〔下〕
徳川11N武とその随11,左端の人物はアレキサンダー
(マルセイユ11杵後に撮ったもの)
「とくに奉行やお付がいないときのことですが、私は何度も公子と親しく話をいたしました。そのような時に公子は、フランスに身売りになったのだ、と愚痴をこぼされました。先日もこう申されました。パリでの人質疎らしにはもううんざりしている。イギリスへ逃亡するか、日本へ帰りたい。そんな考えからか、私に打ち明け話をなさいました。自由な身となって好きな所に行くために、大君殿(調)下にもう一人の弟を遣わしてもらうつもりだと。」被害妄想的な昭武の梢抑状態まで、アレキサンダーは秘密情報としてイギリス政府に伝えている。十一月五日(一一・三○)、この日、外務次官ハモンドはポーモント・ホウルサム領事(カレー駐在の英領事)に、昭武一行を迎え
るに当っての書簡を送りイギリス側の配慮について伝えている。--山風下の部屋はクラリッジ・ホテルに確保したこと。昭武一行の
重立った者には個室が用意されているので、ホテルに着いたら部屋
七一
ドーバーに着けば、工兵隊のエドワーズ少佐が出迎える予定であること。同人は、一行がイギリス滞在中の日本人掛となっていること。支那や日本へも行ったことがあり、ロイドの知己でもあること。監督下の日本人留学生とともにチャーリング・クロス駅に昭武一行を迎えに出る、とロイドから連絡があったこと。ドーパーでは、貴下の判断で、(㈹)一行のために昼食を差し上げて欲しいこと等々。十一月六日(一二・一)、昭武一行はこの日の午前十一時半、ペルゴレイズの旅宿を出発し、馬車にて北駅に赴き、
十二時発の汽車に搭乗しカレーへ向かった。昭武に従う人々は次の面々である。 こと。貴下L達したこと。 幕府イギリス秘学生〔下〕七二
割りを行なって欲しいこと。チャーリング,クロス駅には一行と荷物を迦ぷために四輪馬車と荷馬車が待機していること。貴下は月咽日の午前十一時ごろカレーから乗船せねばならぬこと。鉄道関係者には特別列車を用意するよう令
御御奥勘儒詰 定者医格次師 陸席軍翻 調力附訳 役頭取
御勘定奉行格外国奉行
御作耶奉行格御小姓頭取歩兵奉行 向山隼人正(佃歳)山高石見守(汀歳)保科俊太郎(妬歳)三川伊右衛門(年齢不詳)
!;ん高松凌雲(蛇歳)
箕作貞一郎(加歳)渋沢篤太夫(犯歳)
この日、空は曇り、風は凍るように冷たく、昭武一行を乗せた閑散とした汽車は、一路北フランスの平野をひた走せつせつり、夜七時ごろカレーに到潜した。直ちに「オテル・デ・デッサン」(不詳)に行き、同夜そこで一泊した。「折節
より(そのとき)英国方在留せるコンシュール罷出、御機嫌を伺う」(「英国御巡行日誌」)とあるのは、ボーモント。ホウルサム領事がホテルへ挨拶に訪れたことを意味している。同領事は、明日の航海の手続および蒸気船の用意などについて説明したのち帰って行ったが、早速、この日外務次官ハモンドに、公子一行の到着を書簡をもって知らせた。 イギリス公使館通訳向山・山高の従者‐小遣 奥詰 小姓頭取
幕府イギリス留学生〔下〕 都合一行十七名 各一名綱吉 菊池平八郎(水戸藩士)井坂泉太郎(同右)加治梅三郎(同右)三輪端蔵(同右)アレキサンダー・フォン・シーボルト(n歳)アンリー
七=
 ̄
十一月七日(一二・二)、蛇のち雪。このHは、ロンドン、カレーとも同じような空模様であり、寒さはいつになく厳しかった。朝、ドーバーより迎船(郵便船)「メイド・オブ・ケント」号とともにやって来た日本人掛のエドワーズ少佐は、昭武に拝謁した。その折、英仏海峡は昨夜より風が強く、逆風なので渡航はむずかしい旨伝えた。が、午前十一時ごろより風は少し締まったので出航することになった。早めに昼食をすませた昭武一行は、馬車にてホテルを出発し、北辺の港口に停泊中の迎船に搭乗した。船は荒天をついて対岸のドーパーを指して進むのだが、港口の白浪は防波堤に激しくぶつかると、そのしぶきは天高く舞った。やがて船は沖に出るにつれて激しく動揺するようになり、激浪風雪の中で一同船室でじっとしているしかなかった。しかし、昭武は船に強かったので、荒天にひるむことなく、時々甲板の上を遊歩したり、周囲の景色を眺めたりした。 日本の大君の弟は今夕七時にカレーに到着いたしました。フォン・シーポルト氏の要請により、今晩ドーパーのサウスⅡイースターン鉄道の駅長に手紙を出し、公子をチャーリング・クロス駅まで運ぶために、MHの午後二時に特別列車を出してくれるよう依頼いたしました。
公子とその随員は、明日正午にカレーを立つことになっております。 拝啓
エドモンド・ハモンド閣下 締府イギリス籾学生〔下〕
八六七年十二月一日カレーにて
敬具 七u
昭武一着した。
公子とその鮒仙は、郵峻船「メイド・オブ・ケント」暇-1船災はピィトックーに勝鞭し昨日午後十二崎十分にカレー
を出帆した。荒天をついての航海のあと、午後三時にドーバー彬橘に到粁した。荒天のためアドミラルティー桟橘に上陸でき
なかったので、同船は避泊所に入った。 冬期の北海、ドーバー海峡(英仏海峡)は荒れることで有名だが、この日は珍しいほどの荒天で、難波船も四隻ほど目にした。どの船も乗組員の姿は見えず、命を落としたものと思われた。昭武一行がカレーを出帆するや、ホウルサム領事は、外務次官ハモンドに宛てて電報を打った。電報はこの日の午後十二時二十二分に打たれている。電文には、「日本ノプリンス午後十二時七分一一特別ナ船デカレーヲ出帆セリ」「日本ノ(Ⅲ)とあった。
ドーパーに到着するや、文官武官らが大勢はしけに乗って昭武のもとに表敬に訪れた。海軍監督官R・N・ブルース大尉、陸軍少将エリス、副官C・B・クレイトン大尉、顛務局長0.B・コックス大佐、ドーパー市長J・G・チ
郁府イギリス別学生〔下〕七五 昭武一行のドーパー到着の模様は、翌三日(陽暦)の「タイムズ」紙に報じられている。 行を乗せた迎船はカレーⅡドーパー間三十二キロを約三時間ほどで渡り、同日の午後三時すぎドーパーに到
ギリス政府差し回しの特別列車に乗り、ドーパーをあとにしロンドンへ向かった。この日、ロンドンは曇天である。昼過ぎ、どんよりした空から雪が降って来た。外は寒く、寒さがしんしんと身に
しみる。 幕府イギリス留学生〔下〕七六
ヤーチウォード、サウスⅡイースタン鉄道の支配人J・P・ナイトらがメイド・オブ・ケント号の舷梯を昇って行き、公子に拝謁した。やがて昭武一行と出迎えの者は二十一発の祝砲を聞きながら上陸
まちすると、馬車に分乗し、市の入口あたりにあるウォードゥン卿宅に行き、そこでしばらく休息した。ここではドーパー市長・司令督臼ら
図の歓迎の辞を受けたのち、コーヒーや紅茶などの接待を受けた。
の「タイムズ」紙によると、当日のロンドンの気温は摂氏五度から十㎡ノ度というし、一行は船酔いと厳しい寒さのために生気なく、梢然と
ドしていたことであろう。日本人掛のエドワーズ少佐は、一行がドーパー到着後、外務次官ハモンドに次のような第一報を送っている。「日本ノプリンスハ午後十二時十分ニカレーヲ出帆シォソ(他)―フク四時ゴロロンドンニ到着ノ予定ナリ」市長その他から丁寧な祝詞を受けた昭武一行は、午後四時ごろィ
川路以下の留学生たちは、駅で公子一行の到着を待っていた時、またドーパーから電報が来て、一行の到着予定は午後六時ごろと知らされる。その電文は今ひいたものがそれであろう。午後六時、連絡どおり英国王室のお召し列車が到藩した。ここに冊学生一同は公子に拝謁したが、渋沢の「英国御巡行日誌」に「御国留学生川路太郎・中村敬輔其他生徒一同御出迎巾上る」とある。それより一行は、かねて用意の馬車に乗り、プルック街、8.戸の[,の「クラリッジ。ホテル」Q目□ぬの四・[の一(文久遺欧使節団l竹内下野守一行も逗留した所、現存)へ向かい、三十分後そこに到着した。夜八時ごろ、一行を出迎えた留学生一同は、相伴にあずかった。
同夜、アレキサンダーは外務次官ハモンドに宛てて、大君の親弟がロンドンに安着し、旅宿に入ったこと等を知ら
幕府イギリス蘭学生〔下〕七七 「悪天候ノタメ到(綱)到着ハ午後六時ナリ」 赴いた。 川路は部屋の窓から外を見ながら、公子一行が無事海峡を渡ったかどうか案じていた。「公子今日御渡海はいかうあらん。此の天気にては御渡難相成や」(「英航日録」)川路は午後一時ごろ、日本の公子が昼すぎカレーを発し、ドーパーに着いたことを、チャーリング・クロス駅からの連絡で知った。午後四時、川路・中村らは学生一同を連れ、昭武一行を出迎えるためにチャーリング・クロス駅に
一方、エドワーズ少佐は、一行のロンドン到着がおくれると思われたためか、ドーパーを発する間ぎわに外務次官ハモンド宛に次のような第二報を送っている。「悪天候ノタメ到着ガオクレ三時十五分到若ス。三時四十五分チャーリング・クロスニ向ケテ発スロンドン
幕府イギリス蘭学生〔下〕七ハ
せる手紙を書いた。その要旨は次のようなものである。lエドワーズ少佐から報告があったかと思われるが、公子は鑿ドーパーに着いたこと.今晩クラリッジ・ホテルに旅装を解いたこと。部屋は大変快適に整えられていて、一同満足している模様であること。悪天候にかかわらず、ドーパー上陸はうまく運んだこと。明日の午前十一時に、閣下が公子を表敬訪問なさることをエドワーズ少佐から聞いたこと。公子は見学するもののプランを立てているので、いずれそれを提出したいこと。公子には、〃国律〃(国の法規)による大君の地位をイギリス側に再認識させるための、士官が随行していること。十五名の若い日本人(柵)留学生(栗本貞次郎以下のフーフンス留学生)がパリに到着し、メルメ・ド・カション神父に託されていること等々。十一月八日(一二・三)、曇。ロンドンは朝から寒気厳しく、おまけに霧が深い。川路は午前中の授業が終わると、直ちにクラリッジ・ホテルに赴き、公子に拝謁した。午前十一時にはすでに外務次官ハモンドが公子の御機嫌伺いに訪れ、次いで午後二時に、こんどは外務大臣スタンレーが訪れ、安着を祝した。その折、明九日、ヴィクトリア女王がウィンザー城においてお会いになるから、平服でお越し願いたいと伝えた。夕刻、川路・中村・ロイドらが腿り出、公子に拝謁した。夜七時、昭武は向山・山高・保科・高松・渋沢らの外、川路らを伴い、エドワーズ少佐の案内で国会議事堂を訪れた。先に述べたように、この日、「タイムズ」紙(一八六七・十二・一一一付)は、「日本公子ドーパーに到着」(し両国くしF・〔Bの]し勺レヱロの同勺囚ごO向日ロ・『の『)の記事やJ・G・チャーチウォード市長の歓迎の辞などを掲載した。十一月九日(一二・四)、曇。この日は女王謁見である。午後二時ごろ、公子と陪従の者五名、およびエドワーズ少佐・外相スタンレーらは汽車に乗り、ロンドン西郊のウィンザー城に住むヴィクトリア女王を訪ねた。昭武主従の
服装は、羽織小袴といった平服である。午後六時帰館。夜は観劇に招待された。川路はこの日、渋沢・箕作貞一郎らと為替請取のためオリエンタル銀行を訪れた。十一月十日二二・五)、曇。この日、昭武は調練を見る予定であったが、悪天侭
聯川口Ⅲ緬蜘
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幕府イギリス留学生〔下〕
のち、午後三時半帰館した。
IlM1IiiI1M1lilll くたん帰館。午後一一時、外相スタンレーを訪問し、帰途海軍省に寄った
rタ武一行は〃典籍貯所〃(大英博物館か?)を訪れ、十一時半》」ろいつ リ麺十一月十一一日(一一一・七)、曇・雪が少し降った。午前十時半、昭 ゥ乱も相伴した・ や蝿午後五時半、冊学生監督のロイドを夕食に招いたが、川脇・中村ら ト卯砲及び各種砲猟の製造等を実見し、午後五時すぎ帰館・ 蝿圷武一行はロンドン郊外ウーリッジの兵器廠を訪れ、アームストロング 図刻十一月十一日(一一一。一ハ)、曇天。霧雨降る。この日の午前中、昭
(需輝繩8別一見し、午後五時半帰館。夜、川路が陥り出た。 L畷ード刊出。こんどは武器肱を訪れ、帰途銃砲商の店に立寄って新式銃などを|灘iii!
よ、機の椚妙さに感嘆した。お昼にいったん必雌循に戻り、午後一時再び外 露
一日四十名の職人を使って、二時間で十四万枚刷っており、一同印刷 時ごろ、お付の者たちと「タイムズ」紙本社を見学に訪れた。同社は 且昭武は調練を見る予定であったが、悪天候のため中止となった。午前十一七九
十一月十九日(一二・一四)、雨。午前十時ごろ、昭武一行はテームズ河を川蒸気船で下り河口の造船所を訪れ、叩鉄艦を造る施設などを見学した。この日、川路は両替えのために、渋沢とともにオリエンタル銀行に赴いた。翌二十日は休息し、二十一日(一二・一六)の朝、滞英中世話になった留学生川路太郎・中村敬輔らへ慰労の品々が下げ渡された。午後四時、昭武一行は留学生一同の見送りを受けながら、チャーリング・クロス駅より汽車に乗りドーパーへ向かい、夜七時ごろ同地に着いた。一行は同夜、ドーパーで一泊し、翌二十二日(一二・一七)の午前十時半すぎ、同地司令官以下の盛大な見送りを受けたのち、乗船し、カレーへ向かった。帰路も風強く、海もしけ模様であったが、来たときほどの荒天ではなかった。昭武はカレー到蒲まで甲板の上を遊歩した。…… 緋府イギリス研学生〔下〕八○
十一月十三日(一二・八)、雪。昭武はエドワーズ少佐の案内で、山高・保科・高松・アレキサンダーらと伴って、
クリスタル・パレスロンドン郊外シドナムにある「水晶宮」(一八五一年万国博覧〈五用に造られ、一八五四年シドナムに移築された鉄骨ガラス張りの建物)を訪れた。午後四時半、帰館。十一月十四日(一二・九)、曇。午前十一時半ごろ、シーアネス(未詳)の大砲試射場を訪れ、実弾射撃を実見したのち、砲塔式の砲台を見学し、午後五時半帰航。十一月十五日(一二・一○)、錘。昭武一行は、午前十時半に造幣局を訪れ、各部門を一覧した。十一月十六日(一二・一一)、崎。午後一時四十分すぎ、エドワーズ少佐の案内でポーッマス耶港(ロンドン南西二九キロ)を訪れ、軍隊輸送船,砲術練習艦・装甲艦等を見学したのち、造船場・製鉄所などを視察し大歓迎を受け、帰途、オルダーショットの練兵場に寄り、三兵の調練などを見学したのち、翌十七日(一二・一二)の夕刻、ロ 一一九キロ)を》け、帰途、オル岸ンドンに帰った。