国 府 の 地 域 的 集 団 安 全 保 障 組 織 創 設 の 模 索
︱︱ ケネ ディ 政権 の登 場と
﹁太 平案
﹂の
( )
提出
︱︱
石 川 誠 人
は じ め に 一 国府 の国 際的 地位 の動 揺と ケネ ディ 政権 の登 場 二 東ア ジア 反共 四ヶ 国外 相会 談の 開催 三 地域 的集 団安 全保 障組 織創 設案 の具 体化 四
﹁太 平案
﹂の 提出 とそ の不 採用 の決 定 お わ り に
は じ め に 東ア ジア 冷戦 の前 哨国 家は アメ リカ を主 軸と した 二国 間同 盟に よる
、い わゆ るハ ブ・ アン ド・ スポ ーク 型の 安全 保障 体系 に組 み込 まれ て
( )
いた
。し かし
、前 哨国 家に よる 地域 的連 携の 試み がな かっ たわ けで はな い。 例え ば一 九四
九年 二月 にフ ィリ ピン のキ リノ 大統 領︵ El pi di oQ ui ri no
︶が 提唱 した
﹁太 平洋 条約
︵P ac if ic Ac t︶
﹂に 対し ては
、国 府 の蔣 介石 総統 や韓 国の 李承 晩大 統領 が呼 応し
、三 ヶ国 は連 携を 深め ると とも にア ジア 地域 での 集団 安全 保障 組織 の
創設 を模 索
( )
した
。ま た五 四年 には 国府 と韓 国が 中心 とな り、 アジ ア諸 国の 半官 半民 の会 議で ある
﹁ア ジア 民族 反共
連盟
︵A si an Pe op le s’ An ti -C om mu ni st Co nf er en ce
﹂︶ を結 成
( )
した
。こ うし た東 アジ ア冷 戦の 前哨 国家 によ る域 内連 携
の模 索に 関す る既 存の 研究 は、 五〇 年代 にお ける フィ リピ ンと 韓国 の試 みに 集中 して
( )
いる
。
だが
、一 九六 一年 にも 東ア ジア では 域内 連携 の試 みが 活発 にな って いた
。一 月に はフ ィリ ピン
、国 府、 韓国
、ベ トナ ム共 和国
﹇以 下﹁ 南ベ トナ ム﹂ と記 す: 筆者 注、 以下 同﹈ によ る初 の反 共四 ヶ国 外相 会談 が開 催さ
( )
れた
。東 南ア
!
ジア にお いて は七 月に
、マ ラヤ 連邦
、フ ィリ ピン およ びタ イの 三ヶ 国が
、東 南ア ジア 連合
︵A ss oc ia ti on of So ut h- Ea st As ia
=A SA を︶ 結成 した
。こ れは
、東 アジ ア地 域初 の域 内諸 国の みか ら構 成さ れる 地域 協力 機構 であ った
。さ らに
、八 月に は国 府が アメ リカ に対 して
﹁太 平案
﹂と いう 太平 洋・ 東ア ジア 地域 の集 団安 全保 障組 織の 構想 を提 起 した 一 。 九六 一年 に東 アジ アで 域内 連携 の模 索が 活発 化し た背 景に は、 ラオ スで の共 産主 義勢 力の 拡大 に対 して 東南 ア ジア 条約 機構
︵S ou th ea st As ia Tr ea ty Or ga ni za ti on
=S EA TO が︶ 有効 な対 策を 取れ なか った こと と、 ケネ ディ
︵J oh n F. Ke nn ed y︶ 新政 権が 反共 主義 政策 を後 退さ せる ので はな いか とい う猜 疑心 が前 哨国 家に 広ま った こと があ った
。 つま り、 共産 主義 へ対 抗し 同盟 国を 支援 する とい うア メリ カの
﹁信 頼性
︵c re di bi li ty
︶﹂ が揺 らい だの であ る。 こう した 中で
、東 アジ ア冷 戦の 前哨 国家 は域 内連 携を 強化 する こと で共 産主 義勢 力の 拡大 に対 抗す ると とも に、 交渉 力 を高 めて アメ リカ に対 し毅 然と した 反共 姿勢 を貫 かせ よう とし た。 殊に
、後 述す る国 連中 国代 表権 問題 にお いて 優位 を失 った 国府 にと って は、 アメ リカ の決 然た る反 共主 義政 策 は、 自身 の国 際的 地位 を守 る上 で不 可欠 であ った
。そ こで 国府 は、
﹁太 平案
﹂と いう アメ リカ を中 心と する 地域 的 集団 安全 保障 組織 の構 想を 提出 する こと で、 東ア ジア 地域 にお ける アメ リカ の共 産主 義に 対す る軍 事的 対抗 姿勢 を 確保 し、 さら に東 アジ アの 反共 主義 諸国 の結 束を 強め るこ とで その 国際 的地 位を 守ろ うと した ので
( )
ある
。
/
本稿 では
、ケ ネデ ィ政 権の 登場 に対 する 国府 の認 識を 明ら かに した 上で
、国 府が
﹁太 平案
﹂を 提出 する に至 るま での 過程 を追 い、 これ を提 出し た背 景と 目的 につ いて 考察 する
。さ らに
、ケ ネデ ィ政 権の
﹁太 平案
﹂不 採用 の決 定 がそ の後 の国 府お よび 米華 関係 の動 向に 与え た影 響を 検討
( )
する
。資 料は 主に 米台 双方 の公 開政 府文 書お よび オー ラ
0
ル・ ヒス トリ ーに 基づ く。
︵
︶ 本稿 では 便宜 的に
、台 湾移 転以 降の 国民 党一 党支 配下 の﹁ 中華 民国
﹂政 府を
﹁国 府﹂ と記 して その 略称 を﹁ 華﹂ とし
、﹁ 中華 人民 共和 国﹂ 政府 を﹁ 中国
﹂と 記し てそ の略 称を
﹁中
﹂と する
。国 府と 中国 との 関係 は﹁ 国共 関係
﹂と 記す
。た だし
、国 府の 唯一 の正 統政 府と して の主 張 とし て﹁ 中国
﹂に 言及 する 場合 には 括弧 付き で﹁ 中国
﹂と 表記 する
。ま た﹁ 沿岸 諸島
﹂は
、国 府が 実効 支配 する 中国 大陸 沿岸 の金 門・ 馬祖 諸 島の 総称 とす る。
︵
︶ 本稿 にお ける
﹁東 アジ ア﹂ とは
、東 西は 日本 から 中国
・ミ ャン マー
︵ビ ルマ
︶に 至り
、南 北は モン ゴル から イン ドネ シア に至 る間 の国 と地 域を 指す
。ま た、
﹁前 哨国 家﹂ につ いて は以 下の 文献 を参 照。 藤原 帰一
﹁ア ジア 冷戦 の国 際政 治構 造︱ 中心
・前 哨・ 周辺
﹂東 京大 学社 会科 学研 究所 編﹃ 現代 日本 社会 / 国際 化﹄ 東京 大学 出版 会、 一九 九二 年。 藤原 も指 摘し てい るが
、﹁ 前哨
﹂と いう 位置 づけ は政 策決 定者 の主 観に 基づ いて おり
、固 定的 なも ので はな い。 本稿 では 便宜 的に
、藤 原の 定義 とは 異な るが
、東 西陣 営の 軍事 対立 の前 線に 位置 づけ られ た、 国府
、韓 国、 ベト ナム 共和 国、 フィ リピ ン、 タイ 等の 西側 諸国 を東 アジ アの 前哨 国家 とす る。 これ は、 上記 の国 々と 日本 を区 別す るた めで ある
。
︵
︶ キリ ノ大 統領 によ る﹁ 太平 洋条 約﹂ 構想 の提 案と 構想 のそ の後 の展 開に つい ての 研究 とし て、 以下 の論 稿が ある
。C ha rl es M. Do bb s,
“T he Pa ct Ne ve rW as :T he Pa ci fi cP ac to f1 94 9,
”J ou rn al of No rt he as tA si an St ud ie s, no .3
︵W in te r1 98 4︶ 伊藤 裕子
﹁﹃ 太平 洋条 約
パシ フィ ック
・ア クト
﹄構 想の 変容
︱ア ジ
;
ア太 平洋 地域 安保 統合 への 動き とフ ィリ ピン
・イ ニシ アテ ィブ
一九 四九 -一 九五 一﹂
﹃国 際関 係紀 要﹄
︵亜 細亜 大学 国際 関係 学会
︶第 一〇 巻第 三号
︵二
〇〇 一年 三月
︶。
︵
︶﹁ 太平 洋条 約﹂ の発 案か ら挫 折に 至る まで の過 程と
、そ の後
﹁ア ジア 民族 反共 連盟
﹂結 成に 至る 経緯 に対 する 韓国 外交 の関 与と 主導 につ い ては
、以 下を 参照
。崔 泳鎬
﹁李 承晩 政権 によ る反 共外 交の 展開
︱韓 国の 対東 南ア ジア 外交 の始 まり
﹂﹃ アジ ア経 済﹄ 第三 二巻 第二 号︵ 一九 九一 年五 月︶ およ び松 田春 香﹁ 東ア ジア
﹃前 哨国 家﹄ によ る集 団安 全保 障体 制構 想と アメ リカ の対 応︱
﹃太 平洋 同盟
﹄と
﹃ア ジア 民族 反共 連盟
﹄ を中 心に
﹂﹃ 東京 大学 アメ リカ 太平 洋研 究﹄
︵東 京大 学ア メリ カ太 平洋 地域 研究 セン ター
︶第 五号
︵二
〇〇 五年 三月
︶。
︵
︶ 一九 五〇 年代 にお ける 国府 の反 共同 盟設 立の 模索 を考 察し たも のと して
、呉 瑞雲
﹃戦 後中 華民 国の 反共 連合 政策
﹄台 北、 中央 研究 院東 北ア ジア 地域 研究
、二
〇〇 一年
、が ある
。
︵!
︶ 管見 の限 り、 この アジ ア反 共四 ヶ国 外相 会談 に触 れて いる 先行 研究 は、 崔喜 植﹁ 一九 六〇 年代 序盤 の韓 国の アジ ア外 相会 議構 想と それ をめ
ぐる 日韓 関係
﹂﹃ 法学 政治 学論 究﹄
︵慶 應義 塾大 学大 学院 法学 研究 科︶ 第六 九号
︵二
〇〇 六年 六月
︶の みで ある
。
︵/
︶ 冷戦 の前 哨に 位置 して いな い日 本が
﹁東 アジ アの 反共 主義 諸国
﹂に 含ま れる か否 かは 政策 決定 者の 主観 によ る。 例え ば一 九五
〇年 代の 東ア ジア 反共 同盟 の対 象に つい ては
、後 述す るよ うに 国府 は日 本を 含め てい たも のの
、韓 国は 一貫 して 日本 を排 除し てい た。 また
、﹁ 太平 案﹂ にお いて も日 本を 含む か否 かに は国 府内 部で 議論 があ った
。注
︵
︶を 参照 され たい
。 81
︵0
︶ 先行 研究 では コチ ャビ が﹁ 太平 案﹂ に言 及し てい るが
、国 府が
﹁太 平案
﹂を 提出 する に至 った 背景 につ いて は考 察し てい ない
。N oa m Ko ch av i, AC on fl ic tP er pe tu at ed :C hi na Po li cy Du ri ng th eK en ne dy Ye ar s︵ We st po rt :P ra eg er Pu bl ic at io n, 20 02
︶, p. 13 8.
一 国府 の国 際的 地位 の動 揺と ケネ ディ 政権 の登 場
ઃ 国府 の国 際的 地位 の低 落の 危機 一九 六〇 年三 月に 国府 の国 民代 表大 会は 三期 連続 で蔣 介石 を総 統に 選出 した
。中 華民 国憲 法に は総 統連 続三 選禁 止規 定が あっ たが
、蔣 介石 は戒 厳令 と大 陸選 出の
﹁万 年議 員﹂ が占 める 国民 代表 大会 を利 用し て超 法規 的措 置に よ り総 統職 に留 まっ たの で
( )
ある
。だ が、 蔣介 石が 終身 的な 独裁 体制 の構 築に 乗り 出し たこ の時 期に
、国 府の 国際 的地
f
位は 不安 定に なっ てき てい た。 一九 五〇 年代 末期 に、 アメ リカ では 中国 問題 を﹁ 二つ の中 国﹂ ある いは
﹁一 つの 中国
、一 つの 台湾
﹂の 方策 によ り解 決す る期 待が 高ま って いた
。そ の代 表的 な議 論は
、ア メリ カ上 院外 交委 員会 より 対ア ジア 外交 につ いて の研 究 を委 託さ れた コン ロン
・ア ソシ エー ショ ン︵ Co nl on As so ci at es ,L td
︶が 五九 年一 一月 に提 出し た﹁ コン ロン 報告
﹂ であ る。
﹁コ ンロ ン報 告﹂ は、 中国 の共 産党 政権 の統 治が 磐石 であ るこ とを 認め
、ア メリ カの 対中 政策 の最 終的 な 目標 とし て、 中国 の国 連加 盟の 容認
、住 民投 票に よる
﹁台 湾共 和国
﹂の 樹立 およ びそ の国 連加 盟の 支持
、さ らに 中 国の 外交 承認 を掲
( )
げた
。
10
﹁コ ンロ ン報 告﹂ は政 府の 見解 では なく
、ア イゼ ンハ ワー
︵D wi gh tD .E is en ho we r︶ 政権 の対 外政 策を 左右 する こ