― 39 ― 1. 研究の背景と目的
(1)スラムツーリズムの背景と研究の目的 観光倫理における問題として,裕福な先進国の 観光開発者や観光客が貧しい途上国の観光資源を 搾取するという南北の構図が繰り返し問題視され ている.その一方で,ボランティアや文化交流を 目的とした物見遊山以外の動機で途上国へ訪れる 先進国の観光客も増えている.そして近年,その 典型としてスラムツーリズムが注目されている.
一部の研究者やメディアは,スラムツーリズム が「貧困」を商品化し搾取するものだとして,倫 理的に問題があるとしている.それに対し,ツアー オペレーターは,スラムツアーは参加者のステレ オタイプ的な心象や偏見を改め,地域のイメージ 改善に貢献していると主張している.このような スラムツアーに対する批判や肯定は,主に研究者,
ツアーオペレーター,観光客の視点から議論され ており,住民ホストからの視点が欠けている.
したがって本研究では,今までのスラムツーリ ズム研究において欠落していた住民の政治的・経 済的背景や,住民と仲介者,住民と観光客との関 係性に焦点を当て,住民の視点から見たスラム ツーリズムを分析した.
(2)フィリピン,パヤタス地区のスラムツアー 東南アジア最大のスラム地域とされるフィリピ ン・マニラ首都圏に位置するケソン市パヤタス地 区のダンプサイトでは,現在 2 つの日本人 NPO
団体がスラムツアーを催行している.
パヤタス地区のツアーでは,ホスト住民と観光 客が直接接触する機会が多い.このことから,パ ヤタス地区のツアーでは,インタビュー形式では 見られない住民の反応を見ることが可能である.
さらに,パヤタス地区のスラムツアーでは,ツ アー参加の見返りとして住民に対する金銭的な報 酬を与えることが少ない.そのため,住民の観光 客への対応も「金銭的な利益があるから観光客を 歓迎する」というものだけではなく,さまざまな 理由から観光客を受入れている.パヤタス地区の ツアーでは,住民の観光客やツアーに対する多様 な言動を観察することができる.
したがって本研究は,フィリピン・パヤタス地 区のスラムツアーを対象とし,フィールドワーク を行った.現地でのインタビューや参与観察で得 られた質的なデータを分析し,住民がツアー運営 団体や観光客とどのように関わっているのか具体 的な事例を提示した.
2. 研究の方法と手続き
①文献調査:日本とマニラにおける文献資料を保 有する研究機関にて資料収集を行い,スラム地 域の経済・政治・社会問題について分析した.
②インタビュー調査:パヤタス地区スラムツアー 運営 NPO 団体 A,B スタッフ,ツアー参加者,
パヤタス地区住民にインタビューを行い,ツ アーに対するそれぞれの考えを分析した.
住民の視点から見るスラムツーリズム
̶フィリピン・パヤタス地区を事例として̶
The Dwellers Perceptions of Slum Tourism
-In the Case of Payatas, Philippines-
矢野 響子 YANO Kyoko
キーワード:スラムツーリズム,住民の視点,観光倫理,ポストコロニアリズム,フィリピン・パヤタス Keywords: slum tourism, dwellers perceptions, tourism ethics, postcolonialism, Payatas, Philippines
立教観光学研究紀要 第 17 号 2015 年 3 月 St. Paul’s Annals of Tourism Research No.16 March ’14 pp.39-40.
修士論文
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St. Paul’s Annals of Tourism Research (SAT) No.17
③参与観察調査(2013 年 8 月 23 日,2014 年 8 月 6 日〜 2014 年 8 月 10 日):パヤタス地区で催 行されているスラムツアーの参与観察を行い,
住民のツアーへの関わり方を調査した.
3. 研究の概要
本論文は 5 章で構成されている.
第 1 章は序論となり,本研究の背景と目的,研 究の方法,論文の構成について記述した.
第 2 章では,先行研究を踏まえながら,スラム ツーリズム一般の概念と形態について整理した.
スラムツアーは作家・政治家・科学者などが個 別に訪問した 1700 年代から組織的な活動になり,
その後,国内ツアーから国外ツアーへ変容して いった.初期のスラムツアー参加者の目的が慈善 活動,物見遊山的な娯楽だったのに対し,近年の 観光客は文化交流型や体験学習型のツアーを求め ている.
観光客の傾向としては貧しさや悲惨さ以外に,
地域の歴史や文化などの観光資源を求めスラムを 訪れ「非日常性」「オーセンティシティ」「知識や 経験の習得」「自分探し」「住民との交流」などを 目的とする者も多い.
スラムツアーを運営する旅行会社は「ツアーに よる利益」と「スラムのイメージ改善」を目的と し, NGO や NPO 団体は「活動資金の調達」と「地 域問題の情報発信」を目的としてツアーを運営す ることが多いことが明らかになった.
第 3 章では,住民の置かれている社会的背景と 日本人 NPO 団体が運営するフィリピン・パヤタ ス地区のスラムツアーの事例をもとに,スラム ツーリズムを分析した.
パヤタス地区のスラム住民は,過去に政府の都 市政策のため幾度と無く住居を追われた者が多 い.住民の主張は軽んじられ,フィリピン国内で も無視や差別を受けてきた.パヤタス地区のスラ ムツアーは,そのような人権を無視されてきたス ラム住民の抱えている問題について学ぶ教育型ツ アーである.
スラム地区では観光客の収容人数に限界があ り,地域への経済波及効果は限定的である.この ことから,貧困地域全体がツーリズムの恩恵を 享受することは難しいと言える.したがって,
NPO 団体の運営の目的は団体の活動資金の増加 であり,貧困を改善するような経済効果を目的と
はしていない.NPO 団体は,住民の感情を損な うと住民スタッフの協力が得られなくなり団体の 他の活動にも支障が生じるため,住民感情に配慮 したツアーを心がけている.
パヤタス地区のスラムツアーは高額であるた め,漠然と物見遊山的感覚で参加するというより はむしろ,スラム地域の現状やフェアトレード活 動について学ぶという意識を持った観光客が多い.
第 4 章の考察では,第 3 章で述べたスラム住民 の背景に基づきスラムツーリズムの倫理性と住民 にとってのスラムツーリズムについて議論した.
従来のスラムツーリズム批判の焦点となる「ホ スト住民の見世物化」「ポストコロニアルな構造」
「物見遊山的な観光目的」について,パヤタス地 区でのフィールドワークから得た実証的なデータ を元に分析した.
これらの批判は「弱者のホスト」「強者のゲスト」
という単純な構図でホスト・ゲストの関係を捉え 議論されてきたが,実際のパヤタス地区スラムツ アーではスラム住民を見世物にするようなことは なく,住民とゲストの関係は「指導する者」と「さ れる者」というものであった.
住民は観光客を,共に地域の問題について考え る「共感者」と見なし歓迎する一方で,すぐに日 本に帰る「一時的なお客さん」とも認識しており,
冷静なまなざしを向けている.
参加者は,実際に現地で体験することにより,
既存の価値観やイメージが現地での経験により塗 り替えられることを期待していた.したがって,
観光客は単なるイメージの確認作業や物見遊山以 上のものを求めているといえる.
4. 結論
従来の研究やメディアによるスラムツアーをめ ぐる議論は,政治的・経済的力関係に基づく表面 的な構造に大きく焦点を当て,ツアーに対する住 民の考えを検証しないまま議論を重ねてきた.
一方,ツアーオペレーター側はスラム住民のポジ ティブな部分を強調して観光客に見せてきた.そ れらは住民の姿の一部ではあるが,実際の住民は
「合理的でしたたか」な部分もあり,人間関係も 複雑である.問題とすべきなのは,ツーリズムの 形態そのものではなく,メディアや研究者の乏し い実証的なデータに基づく議論であるということ を捉える必要がある.■