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(1)

起家の制について |南朝を中心として|

第一章 起家の音心味の再検討目次

第一章一家の意味の再検討

第二章 漁家の制の検討

 第一節

 第二節

 第三節

 第四節

 第五節

結語

別 一初任必ずしも起家を意味しないこと寒心を限定する条件について西晋︑東能間の起家を限定する条件について︵以上本輯︶家格一家の範囲と政治的社会的地位1の変動︵以下次輯︶再び起家を限定する条件について娘邪王氏三家・初任三

蓋は嘗て︑﹁魏暑中正制の籍についての一藁﹂︿職擁誌︶な

る小論において︑中正制の性格について論じた時︑起家の意味につ

いての私見をのべた︒ところがその後︑この小論での意見に修正す

べき点が見出されるに至ったので︑ その点について再論すると共

に︑更に︑主として南朝における︑起家を限定する条件について考

え︑門閥社会の実態の一端を明らかにしてみたいと思う︒ ︑さて︑前掲の拙稿において︑私は︑一且官を去った者が再び任官した再任起家は︑魏代中期ごろまでで姿を消したと思われ︑その後は︑起家といえば初めて任官する︑いわば初任起家の場合に限られることを主張した︒ということは︑所謂起家の制なるものは︑州中正制の創設−即ち︑中正制の変質に相応じて起ったものであろうと考えたのであった︒然るに︑この点については︑全く私の誤りであ

ったようである︒

 すなわち︑いま梁書︵15︶謝深酒をみるに︑

 ﹁起家撫軍法曹行参軍︒遷太子舎人︒⁝⁝既而武帝言於高帝請謙 脳︒帝日︒殺之則遂成其名正︒三三三度外耳︒遂廃三家︒永明元

 年起家拝通直散騎常侍︒﹂︵斉朝︶

とみえる︒これによれば︑明らかに斉朝において再任起家があった

わけである︒このように南朝においても亦再任難壁があった以上︑

私が前論文において︑再任起家はなくなったとした西晋︑寵臣など

においても︑再任起家がなかったとは断じ切れないことになろう︒

そこで︑今一度︑前論文であげた起家資料のうち︑二︑三を引用し

て︑再検討を加えてみたい︒

一︑明年春︒遣使者持節︒拝︵朱︶儒右車騎将軍︒振旅愁京師︒第

(2)

長崎大学教育学部社会科学論叢第二四号

 為光禄大夫︒以母喪尉官︒起家門為重作大匠︒ ︵後漢書列伝61朱儒

 伝︑後漢末︒︶

二︑ ︵杜︶恕出為弘農太守︒数歳議長相︒面面二面︒皇家為河東太

 守︒ ︵魏志16杜評伝︑斉王芳代︶

三︑大将車曹爽請︵王基︶為従事中郎︒出為安豊太守︒⁝⁝時曹爽

 専柄︒風化陵遅︒基著時要論︒輪切世事︒以疾徴還︒起家為河南

 歩︒未拝︒爽伏諌︒基嘗為爽官属︒随例罷︒ ︵魏志27王墓伝︒膨面

 芳代︒︶

四︑司空陳書辟︵傅暇︶為橡︒⁝⁝正始三層尚書郎︒ 遷黄門郎︒ ︵何︶曼等遂与椴不平︒隠微情趣免蝦官︒起家三栄陽太守︒不

 行︒太傳司馬天王停学従事中郎︒ ︵玉葱21田螺伝︑斉王芳代︒︶

 この四例についてみるに︑共通する点として︒官を去っていた時

に再任起慣したということがある︒従ってこの場合の起源は︑現在

無官の人が任官した時に用いられているのであって︑所謂初任の時

の起家が︑無官から始めて任官する場合と︑形式的にいえば全く同じであるといえよう︒ということは︑後漢から極量にかけて︑無官

の者が任官する場合は︑初任であろうと︑再任であろうと︑共に権家という表現が用いられたことになる︒この限りにおいては︑前掲

拙稿で︑﹁再任起倒には特別任用の感がある﹂との主張をしたのは

当らないようである︒

 このように考えて荷引謝端書をみるに︑脳も亦︑再任起家の前に

は官を離れていたと思われるから︑全く後漢末︑魏代の諸例と同じ

ケースであったといえよう︒いま︑宋朝以降において︑八家を明記

するものの中で︑初任起家とは考え難いものを︑正史の中からひろってみるに︑例えば梁書︵47︶翠蔓伝に︑﹁父法起︑斉中興末為安

復令Q卒於官︒⁝⁝服未関︒ 兄斐起家為欝林太守︒﹂とみえるが︑

この時斐は弟匠と共に父の喪に服していて︑恐らくは官を去ったま まであったであろう︒従って︑ この場合の起家は再任立家であって︑前引後漢代の朱儒の場合の如きである︒ 更に︑隷書︵66︶何尚之伝をみるに︑﹁孟顕字彦重︒本昌安人︒兄飛貴盛︒頻不就徴辟︒飛死後︒起家蝿東陽太守︒﹂とみえる︒この場合顎は任官していなかったのであるから︑初任の如くにも思われるが︑徴辟をうけていたことからみて︑就馨しなくても︑したと同様に見倣された当時の例からみれば︑これも再任起家の例と考えてよかろう︒ 以上の如くみてくれば︑謝島伝のように︑明らかに再任書家とわかるものの外にも︑再任賎家の例は可なりあるのではないか︑と考えられる︒ただ問題は︑明らかにそれと記してないものを︑どうして見出すか︑ということになろう︒ この場合︑その目安となるのは︑前述で明らかな如く︵任を去っていた者が︑再び任官するという場合︑即ち︑無官状態からの任官を見つければよいのではなかろうか︒そのような考えから︑逸書︑宋書以下南朝史書をみると︑誠に数多くの再任起家の例が見出せる︒それらを一々例示することは煩にたえないので︑各時代の代表的な例をあげるに止める︒ 晋書︵西晋の場合︶

︒︵何遵︶少華南能︒ 墨家散漫黄門郎︒⁝⁝為司隷捷軍所奏︒ 免

 官︒太康初︒起為魏郡太守︒ ︵晋書33何曽伝遵の条︶

o︵頁模︶住家為郡歪曲︒⁝⁝尚書滝部郎︒以公事免︒言為車騎司

 馬︒ ︵晋書40頁充伝模の条︶

︒︵韓譲︶三位古池常侍︑後軍将軍︒広城年忌︒去職︒喪未終︒起

 為秘書監︒ ︵伝書40頁充伝霞継の条︶

o︵王済︶皇家拝中書郎︒以母憂去官︒起事理騎将軍︒ ︵晋書42王

 渾伝済の条︶

O晋書︵東晋の場合︶

(3)

oぐ下壷︶遭継母憂︒既葬︒起復旧職︒累辞不二︒元帝遣中使敦

逼︒⁝⁝帝以遠辞苦︒不適其志︒服関︒為世子師︒

       ︵晋書70下壺伝︶o︵桓雲︶遭母憂︒去職︒葬畢︒起為江州刺史︒称疾︒廉子墓次︒

詔書敦逼︒固辞不行︒服関︒然後追職︒  ︵辿書74桓葬伝話の条︶

・︵謝万︶夏引軍還︒衆遂潰散︒狼狽単帰︒廃為庶人︒後復為散騎

常侍︒      ︵晋書79謝詳伝万の条︶

︒有司正︵羊︶駿斬刑︒元帝詔︑以竪太妃外属︒特免死除名︒久之

為国府︒      ︵晋書81羊四丁︶

宋書

・及義宣敗書意山︒ ︵張︶暢為軍人所掠︒衣服都尽︒⁝⁝執送都︒

 付廷尉︒見原︒製麺都官尚月日︒       ︵宋書46張郡伝暢の条︶

︒︵大明︶七年︵垣護之︶坐下獄免官︒明年朝起為太中大夫︒

      ︵宋書50垣護誤伝︶

︒︵孔季恭︶遭母憂︒隆安五年︑於喪中︒被卸量威将軍︑山陰令︒

 不就︒      ︵選書54孔緊緊伝︶

・身障七年︑ ︵沈仮之︶配管憂︒葬畢︒起呼龍駿将軍︑武断令︒

      ︵宋書74沈依之伝︶○︵顧︶珠尋丁母憂︒服関︒起為員外常呂︒   ︵副書81顧深伝︶

南事書︒︵薫赤斧︶祖母喪︒去職︒起為冠軍将軍︒  ︵南斉書38薫赤斧伝︶

︒永明元年⁝⁝︵劉係宗︶母喪自解︒面皮濡荷将軍︒復本職︒

       ︵南言書56贈号愛弟︶

梁書

・︵天監︶十三年︑ ︵章叡︶遷智武将軍︑函迫サ︒以公事免︒頃

之︒起中護軍︒       ︵好書12章剥製︶

︒天馬二年︑ ︵沈約︶遭母憂︒⁝⁝遣中書舎人断客節突︒起愈愈軍

 起家の制について ︵矢野︶  将軍︑丹碧サ︒⁝⁝服関︒遷侍中︒      ︵営門13誓約伝︶・︵王陳︶復濃闘士射︒以幽晦尉官︒起立雲鷹将軍︑呉郡太守︒       ︵梁書21王陳伝︶ 陳書・天嘉元年︑ へ劉師知︶坐事免︒⁝⁝起為中書舎人︒復選鼻詰︒      ︵陳書16劉師知伝︶

o後主即位︒転︵蒲︶引為中庶子︒以疾去官︒明年京師多盗︒法門

 起為貞威将軍︑建康令︒         ︵陳書21薫允掃引の条︶

︒︵周確︶丁母憂︒去職︒及欧陽紀平︒起為中書舎人︒命於広州慰 労︒服関︒為太常卿︒⁝⁝⁝以父憂︒去職︒尋起為貞威将軍︑呉

 令︒      ︵陳書24周弘正評語の条︶

 以上僅か数例ずつにすぎないが︑これらを通読して明らかにでき

ることは︑ ﹁去官︵或は免官︶⁝⁝起為人官﹂という形の記述が共

通していることである︒勿論︑中には多少記述の仕方が違っている

ものもあるが︑内容的には殆ど異るところはない︒何れにしても︑

これらの嘉例を前引の諸例と比較すれば︑その表現形式及び内容に

おいて異るところはない︒異るところといえば︑福引諸例には﹁直

家﹂とあったものが︑ここでは︑単に﹁起﹂或はそれに準ずる表現

となっていることにすぎない︒

 ではこの場合の﹁起﹂は起家と同意と考えられるか否か︑という

ことになるが︑前引謝硬骨の︑ ﹁廃干家︒永明元年起家︒﹂という

場合の起立は︑蛮書何遵伝の起などと比べて︑全く異らないという

べきであろう︒更に︑単に起とあっても︑起家の意であること明ら

かな例がある︒ 例えば︑ 宋書︵66︶何尚之伝の︑

 ﹁尚之少時頗軽薄︒⁝⁝既長折節踏道︒以操立見称︒為陳郡謝混

 所知︒与之遊処︒家貧︒起為臨津会︒﹂

とあるものをあげることができよう︒これは明らかに何尚之が臨津

      三

(4)

長崎大学教育学部社会科学論叢第二四号

会に初任した時のことであるから︑その場合﹁起﹂という以上︑初

任起家を意味すると考うべきであること︑疑をいれぬといえよう︒

 このように考えてみると︑何等かの理由を以て官を去り︑無官と

なっていた時に︑改めて任官した場合は︑﹁起家﹂とか﹁起﹂とか

の表現がとられたと考えてよいであろう︒然るに︑龍門や後漢書で

は﹁起家﹂と記し︑臨書以下では殆ど﹁起﹂と記しているのは何故

か︑ということになるが︑それは別に特別の理由があるわけではな

く︑単に史官の表現の仕方が異っていたということにすぎない︒と

いうのは︑たとえ時代的には魏代に起った事件であっても︑蒔直で

は﹁起﹂としか記していないので︑例えば︑晋書︵39︶王遍歴に︑

﹁及︵曹︶爽諌︒ 以重餅免︒ 後起為治書侍御史︒﹂とあり︑ 血書

︵90︶魯芝伝に︑ ﹁︵魯︶芝坐︵曹︶爽︒下獄当死︒而口不訟直︒

志不筍免︒宣帝嘉之︒赦而不諌︒俄再起為使持節領護飼奴中郎将︒﹂

とみえる如くであるが︑これは︑初めに引用した魏代の二障に徴す

れば︑魏志であれば︑必ずや﹁三家﹂と記されたであろうと思われ

るからである︒すなわち︑起家と記し︑起と記すのは︑単に表現の

相違にすぎなかったであろう︒

 このように考えてくると︑再任起家の例は︑西嶺以降においても

亦多かったことになるが︑それらは大体︑二つに分けて考えること

ができるようである︒喪によって去漏した場合と︑他の理由によっ

て免官或は去序した場合とである︒喪以外による免官︑去官の場合

は︑ ﹁去官︵免官︶⁝起﹂という単純な形で記され︑又実際にもそ

ういう再任画家であったようである︒

 ところが︑喪によって去即した場合は︑上引墨例にみる如く︑服

喪が終ってから起面する場合と︑服喪が終らないのに起面する場合

とがあった︒服喪が終ってからの起家は︑ ﹁去官i服関一起﹂とい

う形をとっており︑これは基本的には︑喪以外による仁心︑藁家の 場合と異るところはない︒ところが︑服喪が終らないで就官を命ぜられる時の﹁起﹂は︑必ずしも起家の起と全く同様であるとはいい切れない意味を含んでいるようである︒ 服喪が終らないのに起家した例は︑前述の中︑韓寿︑†壷︑浮雲︑孔季恭︑沈仮説︑魚町︑周品等の場合がそうである︒或は農書

︵74︶減質伝に︑質の兄煮について︑ ﹁徴拝音響常侍︒母憂去職︒

就褥討劉毅︒畑島寧朔将軍︒ 従征事︒﹂とみえるのも︑服喪が終っ

たのか否かを明記しないけれども︑豪毅を討伐する必要上誤審せし

められたものであろうから︑服喪終了以前の起家で︑韓寿等の場合

と同様であったであろう︒このような︑不確実ながら︑服喪がおわ

らないうちの起家と思われるものは︑可なり史書に散見するのであ

る︒ さて︑このような服喪終了以前の起は︑必ずしも起首と全く同じ

ではない︑といったのは何故であろうか︒そのことを明らかにする

為に︑いま服喪と官職との関係についてみるに︑罫書︵44︶鄭皆伝

によれば︑次の如き記事がみえる︒

 ﹁後以父喪去官︒尋起為廷尉︒⁝⁝尋拝大荒臆︒遭転々︒旧制既

 葬還職︒黙自黒鼠至︒久器量許︒遂改法定令︒聴大臣置花︒自黙

 始也︒服関︒為大司農︒感光禄勲︒太康元年徳︒﹂

 これによれば︑恐らく西晋初頭ごろまでは︑父母が死んで一旦去

職しても︑葬が終ったら︑服は終らずとも復職するよう定められて

いたが︑黙の時から服喪を完全に終ることを認められるようになっ

たという︒それが法令として定められたというから︑親の喪に服する場合は完全に三年間去配することが︑制度として認められること

になったのであろう︒前引後漢書朱僑伝にみえる︑ ﹁孟母喪去官︒

起家復為手作大匠︒﹂とあるのは︑所謂旧制で︑母の葬が終った後

は︑当然のこととして再任起家が行われたのであろう︒

(5)

 このような旧制があったことは︑ 善書︵44︶華表伝虞の条に︑

﹁父疾輯還︒傍遭喪︒旧例葬詑復任︒虞固辞恩讐︒⁝⁝遂於喪服

中︒免塵官︒削爵土︒﹂とみえるところでも明らかである︒虞の黒表

は︑肇元年八月に死んでいるから︵縦書44華表伝︶︑太康元年に先立つ

こと五年である︒旧制から新制への転換は︑この五年の間にあった

ものと考えられる︒

 従って︑この時期以降は︑新制によって服喪が終ってから再任起

卜するのが原則であった︑といってよい筈である︒そのことは例え

ば︑晋書︵46︶三目伝に︑ ﹁尋以母憂去職︒一関︒除准南相︒﹂と

あり︑一書︵47︶傳紀伝に︑ ﹁母憂目職︒⁝⁝服関︒為榮陽太守︒し

とある如きで明らかであろう︒

 然るに︑前に指摘した東晋・下龍︑桓雲以下の人々の場合は︑葬は

終っても服喪はまだ終らぬうちに︑任官せしめられようとし︑それ

を固辞して結局服喪が終ってから再任起慰しているわけである︒この場合は︑固辞しても華虞の場合とは異って︑処罰の対象となるこ

とはなかったようで︑そのことは︑新制が威寧某年頃以降行われて

いたことを証するもので︑ ﹁去官−服関一里家﹂ということが︑法

として確立していたことを示すものである︒

しかるにこの新制にもかかわらず︑前に指摘したように︑服喪が終

らぬうちに再任せしめられようとした例が極めて多い︒ このこと

は︑一体どういうことであろうか︒

 さて前引記事に明らかな如く︑晋書︵70︶・下身伝によれば︑ ﹁起

復旧職︒正身不就︒元正遣中使敦逼︒﹂とあり︑晋書︵74︶桓舞暗雲

の条には︑ ﹁称疾盧干墓次︒詔書敦逼︒固辞不行︒﹂とみえ︑梁書

︵13︶体量伝には︑ ﹁遣中書舎人︒断調節突︒﹂とみえ︑更に事書

︵76︶海幕伝によれば︑ ﹁以母去転職︒既葬︒元帝強起之︒閣固辞

起家の制について ︵矢野︶ 疾篤︒ 電命敦逼︒ 遂起墨黒︒しとみえ︑ 愛書︵83︶顧和上には︑

﹁母憂去職︒居鼻許孝聞︒⁝⁝起為尚書令︒遣散騎侍郎機翼︒和州

見逼促︒輯号眺働絶︒⁝⁝和表疏十余上︒遂不起︒﹂とみえ︑宋書

︵89︶衰藥伝には︑ ﹁元徽元年丁母野︒葬寛︒摂令親里︒ 加衛将

軍︒不受︒敦逼備至︒中使野望︒乙姫不受︒﹂とみえ︑南回書︵23︶

楮渕伝には︑ ﹁遭庶母郭氏喪︒⁝⁝詔断突禁弔客︒葬畢︒起一中軍

将軍︒﹂とみえ︑陳書︵27︶挑察伝には︑ ﹁察志終喪︒頻回陳譲︒

並抑一三許︒﹂とみえている︒

 これらの例によれば︑新制で喪を終ることが認められていたにか

かわらず︑服がおわる前に︑強制的に再任せしめようとの態度がと

られていたことが︑しばしばであったことを示している︒

 このような強制的再任起家は︑恐らく天子の除服命令を伴って行

なわれたもので︑そのことは︑宋書︵001︶自序に︑ ﹁︵沈林子︶遭

母憂︒還東葬︒乗輿躬幸︒信使相承︒葬畢︒薄日︒軍国多務︒内外

須才︒前鎮西諮議︑建威将軍︑河東太守沈林子︒不得等閑情事︒可

起輔国将軍︒林子固辞︒不許︒﹂とか︑気書︵47︶葡匠伝に︑ ﹁居父

憂井兄服︒歴四年不出鷹戸︒⁝⁝郡県客気言︒高祖雨曝中書舎人︒

為其除服︒擢公船章王国左常侍︒﹂とか︑陳書︵23︶沈君理伝に︑

﹁天康元年以父憂去職︒⁝⁝式年起君違憲信威将軍︑中書令︒前後

奪情趣三︒拉不就︒太建元年服関︒除太子領事︒﹂などと見えると

ころで明らかであろう︒

 勿論︑このような勅命による旧情は︑事書︵001︶自序の記事によ

っても察せられるが如く︑特殊の事情がある場合が多かったであろ

うと考えられ︑ 一般には︑ 宋書︵77︶柳樽本伝に︑ ﹁遠景時相父

憂︒未得加平︒﹂とある如くであったであろう︒

 とはいえ︑西晋以来︑新制によって服喪が終るまでは再任せしめ

ない規定がありながら︑ 服喪中に再任せしめられた者が可なり見

(6)

長崎大学教育学部社会科学論叢第二四号

え︑而も時にそれが強制的ですらあったということは︑どういうこ

となのであろうか︒それは︑沈林子の場合にもみた如く︑その人物

をどうしても再任せしめねばならぬ特別の事情があったものと︑考

えるの外はなかろう︒それには沈林子の場合の如く︑軍事的な意味

をもつ場合︑ 例えば宋書︵52︶王誕伝に︑ ﹁母憂去職︒ 高祖征劉

毅︒起為輔国将軍︒﹂とみえ︑ 南洗歪︵25︶張敬言伝に︑ ﹁遭母喪還家︒朝廷疑桂陽山導範︒密為之備︒乃起敬児為寧朔将軍︑越騎校

尉︒﹂とみえ︑ 或は思置︵28︶斐遼伝元高の条に︑ ﹁父憂還京︒起

為光遠将軍︒ 合討陰陵盗賊︒﹂などと見えている如き場合もあった

であろうし︑或は又︑古書︵63︶般景仁伝に︑ ﹁丁併置︒葬寛︑起

為領軍将軍︒固辞︒上使綱紀代拝︒遣中書舎入江赴輿忍野府︒九年

服關︒遷尚書僕射︒太子讐事劉湛代為領軍︒与至仁素量︒皆労遇於

高祖︒置去宰相許之︒﹂とみえる如く恐らく政治的理由によって再

任起家を早めようとした場合や︑宋書︵89︶蓑粂伝にみえる︑ コ兀

徽元年潜思憂︒葬寛︒摂令親職︒加衛将軍︒不受︒敦降路至︒中使

相望︒粂黒雲受︒しというのも︑当時守尚書令として太守の顧命をう

けて政治の中心にあった衰藥のことを考えれば︑政治的理由による

再任強制の場合もあったと考えられよう︒兎に角︑何等かの必要に

せまられての再任起家強制であって︑制度そのものすら破らざるを

得ない事情にせまられたが故のものであろう︒

 こう考えてくると︑この場合の﹁起﹂は︑なるほど﹁再任起家﹂

の意には違いないとはいえ︑単なる再任怨讐︑即ち︑服喪が終って

からの再任ではなく︑どうしても再任せしめねばならぬ理由をひか

えての︑強制的意味をもちながらの︑特命起家とでもいうべきもの

であったようである◎そう考えると︑晋書︵47︶傳成伝に︑

 ﹁遭継母憂︒賎官︒頃之︒起附議郎︑長兼司隷校尉︒成前後固

 辞︒不聴︒勅使者就拝︒成型送還印綬︒公事不通︒催青摂職︒成

 以身無兄弟︒喪祭無主︒重自認乞︒乃使於官舎設霊坐︒し

という如き︑再任起家を強制すると共に︑その代償としての優遇措

置が充分考慮された態度も了解されるのではなかろうか︒

 以上の如く考えてくれば︑﹁去官︵免官︶1寺家﹂という形の再

任荘家は︑後漢︑魏晋︑南朝を通じて行われたこと明らかである︒

ただ︑西晋福長の頃から︑服喪中は再任せしめない規定が定められ

たので︑服喪去官の場合に限って︑ ﹁去官一服関一起家﹂の形をと

ったわけであるが︑それにもかかわらず︑特殊の理由によって服喪

中において養家せしめられることが︑しばしばであった︒勿論それ

は︑旧制における服喪儒官の場合の︑﹁去官1︵葬畢︶一起家﹂と

いう形と︑形式的には何等異るところはないわけであるが︑新制と

なっての服喪中の不起家が法として定められていたことを考えるならば︑新制の服喪中の起家と旧制の服喪中起家とを同一のものと考

えるわけにはいかぬ︒すなわち︑新制以後における服喪中起家は︑

広く考えれば再任起家であること間違いないとしても︑政治的或は

忍事的などの理由による︑特命起家とでもいうべきであろう︒

 さて以上によって︑魏晋以降においても︑青年が初めて任官する

場合の初任起家と︑ 何等かの理由によって去些した者が再任され

る︑再任起業があった︑ということになろう︒

 ところが私は前述のように︑再任三家は魏朝中期以降見えなくな

り︑それ以後︑虚器といえば初任を意味するものとし︑起家を初任

と限定するようになった政治的理由として︑斉王芳代における中正

制の変質を考えた︒ところが︑いまみてきたように︑再任起家はな

くなったわけではなく︑晋︑南朝と続いたことが明らかであるとすれば︑起家︵或は起︶という表現があっても︑必ずしも初任とのみ

考えるわけにはいかぬ︒ 而も︑前掲拙稿末にかかげた魏代替零丁

︵実はこの表は訂正を要するのではあるが︶によっても明らかな如

(7)

く︑初任を起家と明記するものは︑魏明帝以降にみえるのみであっ

て︑後帯代の起家は全部﹁再任起家﹂と考えられるQ ということ

は︑起家とは︑元来﹁再任起動﹂︑即ち︑官僚たる者が何等かの理

由によって官を去った場合︑再び任用せられる場面を指した︑とい

うことを示すものであろう︒ところがそれが魏以降︑初任にも適用

されるように■なったことは︑初任郷家の制は︑塾代と共に︑換言す

れば中正制と去に起ったものと考えられる︒若し以上のように言え

るとすれば︑初任起家が生じたのは︑前掲拙稿の如き意味によって

ではなく︑中正制の成立により︑任官する場合に︑一つの制度とし

ての︑詩家の制が採用されたことによるものではなかろうかと推察

できる︒ さて︑この起家が初任に適用されるようになった事情は︑元来起

立という言葉が︑去心すなわち無官から︑就官即起家というもので

あった以上︑無官から就官へということ︑無官の青年が任官すると

いうことによるものであろう︒ところが中正制が設置されるや︑青

年に対して郷品が与えられ︑その四品に応じて一定の範囲の官に任

ずるということになった︒そこで三家の制は︑ ﹁官吏として出発し

ようとするその人の任官を︑どう限定するかという制度﹂として︑

新しく設けられたものであるといえるのではなかろうか︒

 というのは︑後述する如く︑史書を読んでみると︑起家の官は必

ずしも初任官ではないので︑或る人々とっては初任官であり且つ起

家の官であっても︑他の人々にとっては︑初任官ではあっても起家

の家ではない︑ということがしばしば起っているからである︒する

と︑起呼の官は必ずしも初任ではなく︑その人︑その人に応じた起

家の仕方があったことになるようである︒

 では︑そのような各人に応じた起家の仕方というもの︑ すなわ

ち︑その人の︑ ﹁翁島﹂を限定する条件とは一体何であったろう か︒そのような条件を明らかにすることによって︑各人各様の起家を説明することができるのであって︑そこで始めて﹁起座の制﹂は具体的にとらえられたことになるであろう︒以下︑主として南朝起家の制を明らかにする事に重点をおいて検討してみよう︒

第二章 起家の制の検討

  第一節 初任必ずしも起家を意味しないこと︒

 制度としての三家について考える為には︑起家という言葉が初任

に関連してどう使用されているかを︑綿密に調査してみる必要があ

る︒けれども︑その調査内容を一々ここに引用するのは煩にすぎる

ので︑私の調査した結果の要領だけを述べることとする︒

 さて前述のように︑雨下の官はその人︑その人によって或る限定

条件があったと思われることと︑すなわち︑ある人にとっては初任

であり且つ藁家の官であっても︑他の人にとっては︑初任ではあっ

ても貴家の官ではない︑ということがあった︒

 第一の例として︑鮒馬都尉について考えてみよう︒いま︑南斉書

︵23︶王高溶によれば︑ ﹁丹陽サ野々聞属名︒福豆南明帝︒尚玉壷

公主︒拝竜馬都尉︒遷太子舎人︒⁝⁝解発秘書郎︒﹂︵宋朝︶とみ

え︑梁書︵27︶股釣伝によれば︑ ﹁高祖与︵父︶叡少旧故︒以女妻

釣︒即永興公主也︒石落初拝酎馬都尉︒起家秘書郎太子舎人︒﹂︵梁

朝︶とみえ︑南斉書︵32︶何賊伝によれば︑ ﹁剛域尚山陰公主︒拝

鮒馬都尉︒二心秘書郎︑太子舎人︒﹂︵宋朝︶とみえ︑密書︵34︶張

面起績の条によれば︑ ﹁享年十一︒尚高祖第四女富谷公主︒拝駒馬

都尉︑封利亭侯︒召補国子生︒起家秘書郎︒⁝⁝遷太子舎人︒﹂︵梁

朝︶などとみえる︒これらによれば︑以上の人々にとっては鮒馬都

尉は初任ではあっても︑起家の官ではなかったわけである︒これは

起家の制について ︵矢野︶

(8)

 長崎大学教育学部社会科学論叢第二四号

なにも南朝に限ったことではなく︑例えば晋書︵42︶王渾伝済の条

に︑﹁尚常山公主︒年譜+塗家拝中書郎︒﹂とみえ︵雅定客楚Y

中書郎が王済の初任であり且つ一家の官であった如くに思われる

が︑実はこれが彼の初任でなかったことは︑北堂書論︵52︶所引晋

起居注に︑﹁武帝詔日︒ 鮒馬都尉下畑︒⁝⁝其以済為中書侍郎︒﹂

とあるところで明らかで︑彼は常山公主に蔵した為に︑駅馬都尉に

初任していたと考えられる︒とすれば︑西晋以降南朝に及んで︑調

馬都尉に初任しながら︑それは起家の官ではなかった人々があった

ことを示すものであろう︒

 ところが一方︑選書︵66︶葡伯子伝によるに︑ ﹁伯子少好学︒博

覧経伝︒而通三好為雑戯︒趣遊闘里︒故旧此失清塗︒解三三騎馬都

尉奉朝請︑員外散田侍郎︒﹂︵東晋︶とみえ︑萄伯子は深雪都尉に一

家している︒ということは︑鮒馬都尉が常に起家の官とならなかっ

たわけではなく︑ある人々には初任ではあっても起家の官とはならず︑ある人々にとっては初任で一家の官となった︑ということにな

ろう︒ 第二の例として︑著作佐郎についてみよう︒例えば︑郵書︵16︶

張稜伝には︑ ﹁起家著作佐郎︒不拝︒頻居父母憂︒⁝⁝服郵貯蘇騎

法曹行動軍︒﹂︵斉朝︶とみえ︑梁書︵21︶王今旦には︑ ﹁評家著作

︵佐︶郎︒不拝︒改除秘書郎︒遷前軍将軍法曹行貯溜︒﹂︵斉朝︶と

みえ︑梁書︵21︶王峻伝には︑ ﹁起家著作佐郎︒不乙︒累遷中軍雇

陵王法曹行参軍︒﹂︵斉朝︶とみえるのに対し︑宋書︵71︶徐湛之伝

によれば︑﹁元嘉二年除著作二郎︑員外散騎侍郎︒蛇不就︒六年東

宮野鼠︒起家補太子洗馬︒﹂︵早朝︶とみえる︒

 これらの例によれば︑同じく著作佐郎に初任せられ︑何れも任官

していないのに︑前三者については起家の官とせられ︑後者は起家       八の官とされていない︒これによれば︑初任必ずしも藁家の官ではなかったこと︑それと共に︑任官しなくても起家の官とせられた場合のあったこと明らかである︒勿論︑就宣せずとも一応就等したと見倣された当時の考え方からすれば︑前三者は現実には兎も角︑形式的には著作佐野に任官したものとして︑起家の官とされたものであろう︒しかし︑そう考えてみても︑徐湛之にとって︑何故著作佐郎が起家の官でなかったのか︑の説明にはならない︒こう考えると︑前三者については︑就冷しようが︑すまいが︑それを彼等の起家の官として規定する限定条件があった筈であるし︑徐湛之の場合は︑それを出家の官とはしない限定条件があったと考える外はなかろう︒ 第三の例として︑州属僚についての例をみよう︒先ず州主簿に関して︑晋書︵74︶桓舞伝によれば︑﹁起家州主簿︒赴三王間義︒拝騎都尉︒﹂︵西一朝︶とみえ︑ 自書︵80︶王義之伝献之の条によれば︑ ﹁起三州主簿︑秘書郎︒転丞︒以選尚新安公主︒﹂︵東一朝︶とあり︑回書︵9︶三三遠回によれば︑﹁起家三州主簿︒斉初口尚書都官郎︒﹂︵宋朝︶とあり︑梁書︵47︶庚贈婁伝によれば︑ ﹁起家本州主簿︒遷平西行参軍︒﹂︵斉朝︶などと見えている︒これらは初任の州主簿に起回しているわけであるが︑他方そうでない人人々もあった︒例えば魯魚︵33︶張率伝によれば︑ ﹁一落魔王薫遙為揚州︒召迎主簿︒不届︒下家著作佐郎︒建武三年挙秀才︒除太子舎人︒﹂

︵斉朝︶とみえ︑梁書︵41︶劉信士によれば︑ ﹁本州受壷主簿︒起

家中軍法曹行参差︒﹂︵梁朝︶とみえている︒

 次に州従事についてみるに︑ 高書︵28︶斐導出零墨の条による

に︑﹁起家州従事︑新都令︑奉下請︒遷参軍︒﹂︵梁朝︶とみえ宋

書︵81︶顧探伝には︑﹁起家州従事︑騎馬都尉奉朝出︒﹂︵宋朝︶と

みえているのに︑梁書︵27︶明山塗筆には︑ ﹁州辟従事史︒起家奉

(9)

朝請︒L︵前朝︶とみえている︒

 これら州主簿︑従事何れの場合も︑初任必ずしも起家の官ではな

かった人々があったようであるが︑更に筋書佐についてみよう︒蘭

書︵13︶萢島伝によれば︑ ﹁起家能州西言書佐︒ 転法曹行参軍︒﹂

︵宋朝︶と見えるのに︑南戯書︵52︶王智深伝には︑ ﹁右翼平王心

素為南筑州︒⁝⁝辟芸西落書佐︒貧無衣︒未到職︒而景素膚︒後解

褐賀州祭酒︒﹂︵宋朝︶とみえている︒

 以上の州属僚の諸士についてみるに︑初任必ずしも起家の官であ

ったわけではない︒やはり︑その人︑その人によって起訴を限定す

る条件が異っていたと考えねばなるまい︒ただ以上の例には宋朝以

降の例が多いのであるが︑州主簿において︑西土︑東晋の例がみえ

ることは︑他の場合にも︑西晋︑東晋以降行われていたと考えてさ

しつかえないであろう︒

 第四例として国子生起家についてみるに︑梁書︵25︶徐勉伝によ

れば︑ ﹁並家国子生︒太尉文憲公王倹︒時為祭酒︒毎称軽減宰輔之

量︒射策挙高言︒補西陽王国侍郎︒﹂︵三朝︶とあり︑陳書︵17︶王

通伝にも︑ ﹁梁世心家国子生︒挙明経︒為秘書郎︑太子舎人︒﹂︵皇

朝︶とみえる︒更に︑南斉書︵53︶虞 伝に︑ ﹁元嘉末為国子生︒

再議湘東王国常侍︒﹂︵宋朝︶とあるのも︑その書き方からみて︑恐

らく国子生起家とせられたものであろうか︒すると︑宋朝以降︑国

子生起家なるものがあったことになるが︑これに対して︑例えば梁

書︵34︶張緬伝には︑ ﹁召補国子生︒起家学三郎︒前腎准南太守︒

雨竜十八︒﹂︵梁朝︶とあり︑ 瓦書︵21︶江危座には︑ ﹁選為国子

生︒通尚書︒挙高第︒訳詩秘書郎︒﹂︵斉朝︶などとも見える︒この

場合も国子生を起家の官としてあつかっている場合と︑そうでない

場合があったようである︒

 ただしかし︑一般的には史書には︑ ﹁為国子生﹂とか︑ ﹁補国子 生しなどと記されているのであって︑ ﹁起家国子生﹂というものは上述の二例にすぎない︒而も︑国子生なるものは︑いうまでもなく国子学の学生であって︑前述江蕎伝にみる如く︑対策を経て始めて任官できるものであったろう︒従って︑本来は﹁起家国子生﹂というようなことは考え難いのであるが︑恐らくは秀才や孝廉の如く︑

一種の官或は資格として考えられることもあったのであろうか︒例

えば︑晋書︵66︶陶侃伝に︑ ﹁侃旱孤貧為県吏︒鄙陽孝廉萢新嘗過

侃︒﹂とみえ︑宋書︵72︶建平王宮簡王伝に︑ ﹁斉受禅︒建元初故景

素秀才民選︑又上書日︒云々︒﹂とみえ︑南斉書︵28︶崔祖思伝に︑

﹁曲筆宋翼州刺史︑父僧護州秀才︑祖思少有志気︒﹂とみえ︑或は

又︑南風書︵32︶王延之伝に︑ ﹁延之出継伯父秀才藥之︒﹂とある

如きをみても︑秀才や孝廉が一種の官或は資格とみられていたこと

が考えられる︒

 更に又︑宋書︵62︶王詳伝に︑﹁年十六州挙秀才︒衡陽王義秀右

歯軸軍︒拉不就︒起家司徒祭酒︒﹂とか︑宋書︵93︶郭希林伝に︑

﹁雲州主簿︑秀才︑衛参軍︒拉不敏︒﹂とみえるところによれば︑

秀才は参軍や主簿と同様に官として取扱われていることを知る︒こ

れも亦上述の推測を支えるものであろう︒このような見方が生まれ

るのは︑恐らくそれらにあげられることが︑直接的に任官にりなが

るものであったからに相違ない︒この秀才︑孝廉を一種の任官と見

る考は︑ 例えば通典︵16︶選挙典︑ 雑議論上に︑ ﹁武毎天儒書︒

︵沈︶約底上疏日︒⁝⁝秀才自別是一種任官︒非漢代取人平例也︒﹂

とある如くで︑漢代にみた秀才などと︑南朝においてはその性格が

変化したものとして考えられているのである︒

 立代以降の国子生の場合も︑国子生となればやがて形式的な対策

を経て︑直ちに任官するという実状に応じて︑一種の官或は資格と

考えられたのではなかろうか︒そう考えなければ︑ ﹁起家国子生﹂

起家の制9ついて ︵矢野︶

(10)

長崎大学教育学部社会科学論⁝叢第二四号

という如き︑思いもよらぬ表現は理解し難いであろう︒㊨

 ところでこの場合においても︑同じく国子生ながら︑ある人々は

国子生に塗家し︑或る人々1というよりも多数の人々はそうではな

かった︒ということは︑ある条件の人々にとってのみ︑国子生は起

家の官であり得た︑ということであろうか︒

   第二節 起家を限定する条件について︒

 では︑ある人々を駒下都尉︑著作佐郎︑州属僚︑国子生に起家せ

しめ︑他の人々をそれらで起家せしめなかったところの︑起家を限

定する条件とは︑一体何であろうか︒それをたしかめる為に︑上述

した例について︑具体的な検討をしてみたい︒ただし︑起家を限定

する条件のうち︑南朝において最も重要な役割を演じたと考えられ

るのは︑恐らくはその家の政治的︑社会的地位であったであろう︒

例えば宮崎市定氏は﹁九品官人法の研究﹂︵新編︶の中で︑﹁北方

流寓貴族の中で特に傑出したのは一徳の王氏である︒ついで謝氏が

著われ︑ 王謝と併称された︒ 第一︑第二の貴族の格付けが定まる

と︑続いて各家の大体の相場が︑そこから自然に判定されるので︑

ここに南方における貴族社会は安定し固定する傾向が強く現われて

きた︒これを九品官人法についてみるに︑非常特別の人才はいざ知らず︑郷品は先ず家格によって決定され︑個人の才能は若干これを

修正するのみである﹂と︑ 南朝貴族社会について述べられている

が︑この意見は私達の論を進めてゆく上の︑一つの手掛りとなると

考えられる︒しかし︑家格は必ずしも固定的ではなく︑又榔邪王氏

とか陳郡謝氏という如き︑ 一族を一括して捉える考え方もおかし

いので︑貴族社会そのものをもっと流動的にとらえねばならぬと

思うが︑それはこれからの論議の中で明らかにしてゆきたい︒ 一〇

一︑馳馬都尉の場合

 上述した王倹︑股釣︑何戴︑張特等についての記事で明らかなよ

うに︑ 鮒馬都尉は公主に弔した人々の初任せられる官ではあった

が︑ しかし葡伯子伝についてみた如く︑ 鮒馬都尉に初任せられた

者︑必ずしも公主に尚したわけではない︒先ず︑王室と婚せずして

鮒馬都尉に初任したこと明らかな人々についてみることとしよう︒

表1 人名一時生

出 典 及 個 人 許=門の起家或は初任官

事伯子

劉 鞍

沈 換

沈 郡劉 休

劉秀之 東晋末東晋初

﹁少好学︒博覧経伝︒而通三好為雑戯︒遜遊間里︒故以正直清覧︒門内為鮒馬都尉奉朝請︒﹂         ︵宋書60︶

﹁初挙秀才︒除騎馬都尉奉朝影﹂         ︵四書69︶

﹁少為貸馬都尉奉朝請﹂

         ︵宋書落︶

﹁美風姿︒渉猟文史︒襲爵︵漢寿県伯︶︑酎馬都尉奉極星﹂         ︵宋書㎜︶

﹁初回鮒馬都尉奉朝請︒⁝好学諸憶︒不為帝所知﹂  ︵南史書34︶

﹁少孤塁︒有志操︒⁝景平二年除騎馬都尉奉朝請︒三下求為広陵郡丞﹂        ︵宋書81︶ 不明無産︑秘書郎︵生家︶叔父林子 揚州従事︵初任︶︑ 従兄正揚州従事︵初任︶︑従弟亮揚州従事︵初任︶︑従弟伯玉 回国侍郎︵初任︶︑ 従弟郡 鮒馬都尉︵初任︶︑

同語

不明

不明

公主に尚せずして駒馬都尉に初任した人々の明らかなものは︑私

(11)

の知る限りでは以上の如くである︒他の人々は前述のように公主に

籍した人々であったが︑そのことについて陳書︵17︶衰敬弔枢の条

には︑﹁枢忌日︒⁝⁝斉職二日︒凡尚公主︒必拝鮒馬都尉︒魏晋以

来因為謄準︒蓋以王姫之重︑庶落盤軽︒若不切図等級︒詩書琵琶而

醐︒所以仮鮒馬都尉之位︒乃崇於皇女也︒﹂と述べている︒このこと

をもう少し確めてみると︑乱書︵24︶職官志に︑﹁︵晋︶武帝亦以宗

室外戚為軽車︑法馬︑騎三都尉︒而奉朝曇焉︒元帝為晋王︒以町回

為奉車都尉︒橡属為野馬都尉︒行参軍︑舎人為騎都尉︒皆奉朝請︒

後聞奉車︑騎二都尉︒唯留鞍馬都尉終朝請︒諸尚公主者︒前腎︑桓

温皆為之︒﹂とみえ︑乱書︵04︶百官志では以上につけ加えて︑﹁永初

以来︒以嫉妬請選考︒其尚主者︒唯拝鮒馬都尉︒﹂とみえる︒これら

によれば︑鮒馬都尉は奉朝請の中の一つの官であったが︑東前に入

って奉朝請には鮒馬都尉のみが置かれるようになり︑更に宋では︑

その初頭以来三朝請の選が雑になったので︑公主に賦した人々は︑

駒馬都尉のみを拝することとし︑奉朝臣を省いたという︒というこ

とは︑単に弓馬都尉を拝する公主に回した人々と︑弓馬都尉奉朝請

を拝する人々とが区別された︑ということであろう︒このことに関

して︑宋書︵40︶百官志においては︑ ﹁奉朝請無員︒亦不為官︒﹂

とあるのに︑南斉書︵16︶百官志には︑給事中︑鮒馬都尉などと並

べて記してあるから︑このことは︑鮒馬都尉奉朝請と公主に肥した

鮒馬都尉とが区別されると共に︑ついで酎馬都尉奉朝鳶の︑その奉

唱請が独立した官となったことを示すものであろう︒すると︑恐ら

くは宋末頃に奉朝鳶は独立の官となったと見るべきであろうか︒こ

れら奉朝請について︑南斉書︵16︶百官志に︑ ﹁永明中奉朝請至六

百余人﹂︒というところによるも︑ 華美以来の雑選の状態が推測さ

れるようである︒

 この奉朝請が独立の官となったことは︑ 宋朝以降︑ ﹁起家奉野 生﹂なる記述がでてくることからも脅せられる︒ 例えば︑ 梁書

︵9︶王茂伝に︑ ﹁宋昇明中︑起家奉朝請﹂ ︵宋末︶とみえるのを

はじめ︑斉代におけるものは︑ ﹁梁書︵27︶明山賓伝︑梁書︵28︶

夏侯璽伝︑ 梁書︵04︶司馬聚伝等にみえ︑ 梁代のものは︑ 墨書

︵46︶陰子春望︑陳書︵33︶至恩糖蜜にみえる︒

 さて公主に多した人々は︑先述の如く二歳都尉に初任した︒しか

し彼等の伝によっても明らかな如く︑彼等は初任の三嘆都尉に越年

したわけではなかった︒公主に零した人々は恐らくは皆そうであっ

たであろう︒ところがこれに対して︑初任の山雪都尉奉朝請に起遺

した葡伯子の如きもあった︒ この場合は勿論公主に心してはいな

い︒これからみれば︑第−表の︑公主に遇していないで零露都尉奉

朝堂に初任した人々は︑恐らくこの初任官が起家の官であったと推

定して誤りあるまい︒

 では第−表にみる人々は︑どのような条件をもつ人々であり︑ど

のような理由で鮒馬都尉奉朝請に三家することになったのであろう

か︒ その手掛りを苞伯子伝に求めてみよう︒葡伯子伝には︑次の如く

のべている︒

 ﹁伯子少好学︒博覧経伝︒而通率好為雑戯︒趣些些里︒故年此失

 清塗︒解福野副馬都尉奉朝請︒﹂

と︒これによれば︑﹁伯子は教養はあったが操行に難があった︒従って︑元来彫塗につくべきであったのにそれを失って︑鮒馬都尉奉

遷請に起業したのだ﹂ということになろう︒ ここで注目されるの

は︑ω苛氏そのものは甲門と考えられていたこと︑②門閥社会内に

おける人物評が起家を左右したこと︑⑧酎馬都尉奉朝里は清塗では

なかった︑ということであろう︒

起家の制について ︵矢野︶

(12)

長崎大学教育学部社会科学論叢第二四号

葡伯子はいうまでもなく頴川莫の主流派に属k︵謝聴講鞘

辮︶彼自身が榔邪王氏にいった曇・葉に︑昊下足梁︒唯町君与下

官耳︒宣明之徒︒不足数也︒﹂︵壁書60筍伯子伝︶とある如く︑宣明すなわち

陳郡謝晦の如きは問題とするに足らぬので︑天下最高の家格は王氏

と萄氏の主流のみ︑という自信をもっていたようである︒従って︑

家格からいえば︑自他ともに黒塗につくべき人物と考えられていた

であろうことは︑﹁故旧此三三塗﹂︵胴︶という表現からも伺われ

る︒ ところが︑その人物評︑門閥社会内における評判が芳しくない為

に清和につけなかったわけで︑このことは当時︵東晋末︶起家が家

柄中心であったとはいえ︑やはり門閥社会内の人物評︑個人の評価

が可なり大きく影響したことを否定できない︒

 最後に︑ 一一都尉奉朝姿は清塗ではなかったことについである

が︑これについては次のように考えてみることができる︒前引晋書

百官志の記事にもみた如く︑元帝の百六の橡と呼ばれた多くの橡属

尉︑ 騎都尉奉朝請となったとすれば︑ 東回初頭の政情からみて (拙キ崎大学学芸学部社会科学論叢14号︶参昭崩︶が︑皆鮒馬都尉︑奉車都

︵胴︶︑奉朝請者の謹の傾向は免れなかったであろう︒その故にこ

そ︑後に奉車︑騎都尉奉朝霞が省かれ︑奉朝請の整理が行われたも

のと考えられる︒しかし︑それにもかかわらず三朝請の酔気がつづ

いたので︑宋書百官志にいう如く︑公主に訂する者をつける鮒馬都

尉と︑従来の浜弓都尉奉告尉とを分離し︑更に恐らくは宋末に︑鮒

馬都尉奉朝請から奉朝露を独立の官として分離した︑ということに

なろう︒従って︑騨馬都尉奉寺請は東晋の初めから宋末近くまで続

いたことになり︑東晋時代は必ずしも雑選と考えられていたわけで =一

はなかったであろう︒

 こう考えると︑第−表の場合︑東回初頭罰馬都尉奉朝請となった

一章は一応別として︑他の東遷末の葡伯子︑宋代に入ってからの︑

沈換︑沈郡︑劉休︑劉秀之等の鮒馬都尉奉朝露は︑雑選の奉朝請と

してのものであったという外はない︒

 以上のように考えながら︑第−表をながめてみよう︒先ず家柄に

ついてみるに奉書は萱興の豪富に属していた︵回書0自序−o参照︶.

劉休籍郡司県の八同じく下郡相県出身の両三陽覇淡︵晋書75︶の

一門か︑とも考えられるが︑たとえそうであっても恐らくは傍系で

あって︑湖心一門とどうつながるかは明らかにし難い︒劉秀之は東

零雨穆之の従兄の子である︒従って︑この一家は東莞の地方士大夫

の家であったであろう︵宋書42劉特製伝同書81劉秀之伝︶︒以上の如くであれば︑これ

らの家々は中央においては殆ど問題にされる家柄ではなかったとい

えよう︒ では︑ その個人的資質︑ 評価についてはどうか之いうに︑換︑郡︑休︑秀之それぞれ特色ある︑有能な人物のようであるが︑特に

その間に甲乙はつけ難い︒

 以上によってみれば︑家柄の上からも︑人物の上からも︑これら

の人々を区別できるほどの目立つ点はなさそうである︒ということ

は︑大体においてこれら各人の人物並にその背景︵家柄︶共に相似

た状態にあり︑且つその状態が︑鮒馬都尉争心請に起家するにふさ

わしい人々であった︑ということになろう︒

 ここで除外していた劉緩について考えてみよう︒この轟轟は前漢

楚元仁の後といわれているが︑ 滑子頃は衰えていたようである

ふるったことは有名である︒緩が鮒馬都尉直覧請に任官した頃は︑ (晋@伝︶︒しかし︑緩の父暴評晋元帝の腹心として中央に権勢を

(13)

恐らく院は鎮北将軍︵三品︶であったであろう︒緩の人物について

は明らかにし難いが︑先述の如く罰馬都尉等が東晋の初頭既に濫置

の傾向にあったとはいえ︑緩の任官が東晋初頭であり︑且つ父の政

治的地位から考えれば︑この罰馬都尉奉朝請は所謂雑選時代のそれ

とは異ったものと考えべきであろう︒

 さて︑以上みてきたところによって︑これらの人々の起家を限定した条件についてみるに︑基本的にはその家格︑即ち︑伝統的なそ

の政治的︑社会的地位が起臥の官を決定するが︑その人物の門閥社

会内における評価も亦軽視できないものがあった︑といえるようで

ある︒二︑著作佐郎の場合

 著作佐郎に初任した人々は極めて多いのであるが︑ それらのう

ち︑ある人々は自家の官とせられ︑ある人々には起家の官とはせら

れなかった︒それは一体何故であろうか︑その起家を限定する条件

はどういうものであったか︒これらを考える為に︑前述した人々に

ついての表をつくってみよう︒

表 亜

人名雷序

出典及 個 人 許 一門の起家或は初任 そ の 他

徐湛之

張穫

﹁誤長頗渉大義︒⁝以孝謹聞︒元嘉二年除著作佐郎︒員外散騎侍郎並野臥︒六年東宮始部︒起家補太子洗馬︒﹂         ︵宋書71︶

﹁性疎率朗悟︑有方略︑与族兄充融︑ 巻等倶知名︒ ⁝起家著作佐郎︒不拝︒⁝除腰騎法曹行参事︒         ︵誓書16︶

起家の制について ︵矢野︶ 母︑宋高祖長女会稽公主父永 州従事︵初任

数属従霜葉蓋

行参軍︵三家︶︑ 叔 )、@引導江夏王太尉

明︶︑ 王 泰王 峻

﹁幼敏悟︒⁝既長︑通和温雅︒人不見其喜幌紅色︒三家為著作︵佐︶郎︒不拝︒改除秘書郎︒         ︵梁書21︶

﹁峻少美風姿︒善挙止︒起旧著一佐郎︒不拝︒累心中軍気二王法曹行三軍︒﹂      ︵回書21︶ 父慈秘書郎︵初任︶︑叔父志 弓馬都尉︑秘書郎︵尚孝武女安固公主︶︑叔父寂秘書郎︵初任︶︑ 従一弟箔 中軍臨川王行⁝参軍︵起家︶︑   ⁝父秀之著作月月︵評家︶︑従弟延州主簿︵初任︶︑

 まず︑忍刀之の家についてみるに︑彼の祖欽之の兄弟には︑宋初

の功臣徐羨望があった︒勿論︑宋初の頃は下級中央官僚ともいうべ

きものにすぎなかった︵宋書43徐羨之伝︶が︑羨之が宋高祖と共霜修の府

にあって相親しんでから︑高祖をたすけて建国佐野の功臣となった

︵同上︶︒湛之の釜之が東晋朝の末︑高祖の長女会稽宣公立に回した

のもその因縁によるのであろう︒この姻戚関係で湛之は高祖の特に

鍾愛するところであり︑ 常に江夏王義恭と寝食を共にしたという

引回の域を出なかったとしても︑以上のような外戚関係その他は︑ (蔵X之伝︶︒従って︑この家は当時の一流の門閥からみれば︑なお

その起家の官に特別の考慮がはらわれたとしても不思議ではないこ

とを示すものであろう︒

 張稜は呉郡張氏の主流に属する◎いうまでもなく江南門閥の名門

である︒祖父裕は早くから宋高祖に仕えて軍事的活動をしたが︑後

には五兵尚書︑都官尚書等も歴任した︵灘饗︒零永も宋太祖

以下に仕えて武功をたてたが︑吏部尚書の要職の外︑呉興︑呉郡等

要郡の太守を歴任した︒

 王泰︑王峻は何れも榔邪王氏に属するが︑両者の直接の祖先には

多少の相違がある︒それは表亜における︑これら二門流の高家或は

初任についみれば明らかである︒何れかといえば︑王泰の門流は主

一三

(14)

長崎大学教育学部社会科学論叢第二四号

流派的地位にあったに比し︑王峻の門流は傍系的立場にあったよう

である︒いま︑この両門流の起家︵或は初任︶の官を比較するに︑

・書都響解鍵蘇漏任意蘇難−泰講罐

・裕講編幣婁不明−秀之潜鑛裏盆鑛

となる︒泰の祖先について︑初任とするものが果して一家の官であ

ったか否かは明記はないけれども︑秘書郎は最有力門閥の起家の官

であったし︑著作下郎はそれにつぐものであったから︑壇家の官と

してまず間違いはない︒而も表皿にみる如く︑叔父志の場合も秘書

郎が君家の官であったろうし︑叔父寂も亦秘書郎起家と考えてよか

ろう︒従ってこの家は︑泰の時代までに︑秘書郎起家の伝統をもっ

ていたと考えてもよい︒王泰が著作佐野に任ぜられても拝せず︑改

めて秘書郎となっているのは︑恐らく著作藁薦を不服として拒否し

たものであろう︒

 ところが王峻の門流はせいぜい著作佐郎︑乃至はそれより低い起

家や初任であったのをみれば︑泰の門流に比すれば︑一段ほどおち

る門流であったというべきであろう︒

 次に︑門閥社会内における人物の評価はどうかというに︑何れも

立派な人物であって︑甲乙ありとは考え難い︒では︑これらの人々

の起家の官を限定する条件は︑どんなものであったろうか︒

 その手掛りとして︑これらの人々が何故著作佐郎につかなかった

か︑について考えてみよう︒先ず徐湛之についてであるが︑彼は著

作佐郎︵六品官︶のみならず︑員外散騎侍郎︵五品官︶にも就いて

いないのをみれば︑別に官戸に不服があってきらったというわけで

はあるまい︒而も︑宋代ではなお七品官にすぎなかった太子洗馬に

ついている︒これは恐らく︑形式的に高い志望より︑実質的に有力 一四

な官を欲したと︑いうことであろうか︒蓋し︑太子洗馬は梁書︵49︶

庚詳言伝に︑ ﹁旧事東宮隷属通影面選︒洗馬掌文翰︒尤其清者︒近

世用人︒皆取甲族有才望︒﹂とある如く︑清官選の清官であって︑た

とえ当時の官品は低くとも︑実際には最上の起家の官であったので

あろう︒そのことは︑太子洗馬の地位は漸次高くなり︑梁官品表

︵通曲ハ37職官曲バー9︶には六班筆頭にあげられ︑李舎人︵三班︶秘書郎三

班︶著作佐郎︵二班︶などをはるかに抜いていることからも推察で

きる︒それのみならず︑太子舎人と比較するに︑宋代では太子舎人

の方が李洗馬よりも地位が高かったと思われるが︵宋書40百官志参照︶︑

斉代では既に李洗馬の方が上となっている︵南卜書16百官等︶︒これは事

実上は宋代以来のことであったらしく︑南学書︵23︶楮渕伝によれ

ば︑宋代のこととして︑﹁論評馬都尉︒除著作佐郎︑太子舎人︑太

宰参軍︑太子洗馬︑秘書丞︒﹂とその任官の順序を記している︒これ

は太子洗馬の地位が︑宋代において既に︑その官品とはかかわりな

く︑高くなりつつあったことを示すものであろう︒

 張櫻︑王峻の場合は︑その一門の起家の官からみても明らかな如

く︑決して著作佐郎を拒むべき理由はなさそうである︒にもかかわらず︑両者がこれを拒んだのは︑恐らく形式的な官をきらって︑実

質的な活動の場を求め︑法曹行書軍で事実上の起家をしたものであ

ろう︒ 王泰の場合は︑ 前述の如く︑ 著作佐郎を不服としたものであろ

う︒ このようにみてくると︑徐湛之の場合は︑王室との特別の関係の

故に︑家格から云えば榔邪王氏は勿論︑呉郡張氏にも劣るものと思

われるにかかわらず︑特別な起家が認められたと考える外はない︒

一方︑張穰︑王泰︑王峻の場合は︑それぞれの家格に多少の軽重は

(15)

あったにせよ︑上流門閥としての地位が認められ︑著作佐郎起家と

定められたものであろう︒ただ王泰自らは︑恐らく三四︑王峻より

一段上の家柄と考えたであろうから︑一旦著作佐郎養家と限定しな

がらも︑直ちに秘書郎に転ずることが許されたのであろう︒これら

三人が︑就官の意志の有無にかかわらず︑著作佐郎三家と指定され.

たことは︑以上のように考えてみる外はないであろう︒一方︑徐湛

之の場合は︑恐らく本人の意志に応じて起家の官が定められたと推

定できるが︑それは前述のような特殊事情を考える外はない︒

 以上によってみるに︑起家を限定する条件は︑その門流のもつ家

格であったといえるであろうが︑しかし︑王室との特殊関係は︑そ

のような家格による拘束を破りうる力をもっていたことを注目すべ

きである︒

三︑州属僚の場合

 いま︑ 州属僚に起話したこと明らかな人々と︑ 州属僚を経た後

に︑他官に起家したこと明らかな人.々の表をつくってみよう︒但

し︑これらの例は可なり多いので︑煩をさける為に一部の引用にと

どめたい︒

ω州主簿の場合

柳慶遠︵梁書9︶︵宋朝︶

何燗︵梁書47︶︵熊蝉︶

孔象螺日︶︵梁朝︶

庚婁︵郵書47︶︵覇︶ 起家郵州主簿︒斉初為尚書都官郎︒年十九︒薄遇揚州主簿︒挙秀オ︒累遷王府行三軍︒挙秀才︒射策高第︒酒家揚州主簿︒重書周東予行参軍︒拉不就︒又除鎮軍湘東酷似兵参軍︒

起家本州︵荊州︶主簿︒遷平西行参軍︒

起家の制について ︵矢野︶ 馬舞︵梁書17︶︵覇二墨書留主簿甕騎常備② 州従事の場合顧協︵気書30︶︵梁朝︶何隻︵梁書48︶︵斉朝︶沈璃︵上書3︶︵斉朝︶ 起家揚州議曹従事史兼太学課士︒西王国左回侍︒起家揚州従事︒傍為総平館学士︒起家︵揚︶州従事︒奉朝請︒ 挙秀才︒⁝遷安

     5

③ 寸書佐の場合

三雲︵風潮13︶︵宋朝二起蚕州西薯焦転法曹行参冥

 以上の人々は︑全部初任であって而も三家した例であるが︑以下

はそれと反対に︑初任の州属僚に起家しなかった例である︒

①州主簿の場合

張率︵肇︵斉朝︶底意論難講罫襯難群矯起家

       本州︵南瓦州︶召迎主簿︒起家中軍法曹行参軍︒劉典蝿日︶︵梁朝︶       受書軍沈約⁝引為主簿︒

② 州従事の場合

明岩︵梁書飾︶︵斉朝二欝讐聖起家謡請⁝斉強盛薫遙光引為

⑧ 州書佐の場合

王道深︵南噸.

      ︶︵宋朝と拳蟹蕪熱還幸幕雑織手貧舞

 以上の諸例についてみるに︑州主簿︑州従事︑州二佐で初任にし

て起家した人もあれば︑同じくそれらに初任しながらも起家しなか

った人々もある︒ということは︑前者をそれぞれの官で起屈せしめ

る限定条件都︑前者の人々にはあったのであり︑後者の場合には︑

一五

(16)

長崎大学教育学部社会科学論叢第二四号

彼等を初任ではない他官で起家せしめる限定条件があった筈であ

る︒ 先ずはじめに︑孔奥の場合から考えてみよう︒豊強は揚州主簿に

起直したことになっているが︑実際は就任していない︒すると彼の

場合︑就任すると否とにかかわらず︑州主簿を起家の官とする条件

があったことになる︒では︑孔奥はどのような家系に属するかとい

うに︑ 所謂会稽孔氏一会稽郡の有力な名門の而も主流派に属する

︵難嘉節簗伝参照︶︒この孔奥と同じく揚州主簿に起臥就官した

何燗は︑名門盧江何氏の主流派に属し︑何尚之の孫である︒いま︑

この両者を比較する為に表をつくってみよう︒

表 皿

人名一時代

何 燗一葦奥 梁 朝

梁朝

出 典 及 個 人 評

三白暫美容貌︒従兄求︑点旧称之⁝燗常磁陥落︒不乱進仕︒⁝年十九︑解褐揚州主簿︒ ︵梁書47︶

好学善属文︒経史百家莫不通渉︒⁝州挙秀才︒射策高第︒愚慮揚州主簿︑宣恵湘東王行参軍並不就︒         ︵陳書21︶ 一門細雪或は初任

伯父羽州従事︵初任︶従兄賎秘書郎︵起家︶従兄求著作佐郎︵三家︶︑従兄胤 秘書郎︵三家︶

曾祖誘之 衛軍行三軍︵初任︶

 この両者を比べた場合︑家格という点では孔氏は遠く謹厚に及ば

なかったであろう︒勿論孔孟も江南系統の名門には違いないが︑奥

の近い直接の祖先にはそれほど高官に至った人もなく︑ 一方書写

は︑何尚之︑何践︑何昌寓︑何遍容などと︑政治の中枢にあった人

々を相ついで輩出した当壁流の名門に属した︵馨闘逆換諮舗

難銅製欝参照︶︒然るに二人は同じく揚州毒に劃している︒ 一六

揚州主簿は︑梁全品表︵通典37︑職官典19︶によれば︑秘書郎︑著作運送

につぐ二班の官として低いものではない︒しかし︑越智重明氏の研究︵バ雛蕨霞網と次門層L︶によれば︑揚州主簿は次門派の袈

の官にすぎぬとされている︒若しそうであれば︑何氏主流派の如き

甲族の起家の官としてはおかしいことになる︒しかも︑表皿にみる

如く︑燗の周辺の人々が秘書郎︑著作佐郎に起家しているのに比ぶ

れば︑燗の揚州主簿は一段おちることは疑いない︒

 一方孔奥一家については︑起求心は初任の明らかな近親をみない

が︑同志南の名門蕩州主簿初任した例は︑呉郡の張沖︵南斉書 49︶

会稽の襟︵南斉書 37︶の如きがみ柔恐らくこれらの人にとっての起

家の官でもあったであろう︒すると︑江南名門に属する人々にとっ

て︑揚州主簿を起家の官とすることは︑いわば家格に対応するもの

であったのかも知れない︒若しそうであるならば︑孔奥が揚州主簿

につかなかったのは︑それを不服としたが故ではなく︑別に何かの

理由があったのであろうか︒

 さて︑では何回は何故に揚州主簿にしか起回しなかったのであろ

うか︒前述のように︑その従兄求は著作佐郎起家︑同じく胤は秘書

郎起家である︒ということは︑その家格から言えば当然著作佐郎以

上に上家すべきであったのであるから︑これは彼自身の個人的事情

によると見るの外はあるまい︒即ち︑表皿にみる如く︑﹁慕引退︒

不楽進仕︒﹂とあって︑彼は必ずしも仕官を望んでいたわけではない

ようであるから︑恐らくは彼の希望によって︑中央の華やかな舞台

よりも︑揚州の主簿が選まれたと推測して誤りあるまい︒

 若し以上の如く考えうるとすれば︑孔奥の場合は起家を限定する

条件は家格であったようであるし︑何燗の場合は本人の個人的事情であったと考えることができる︒そういえるならば︑揚州主簿が次

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