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諫 早 女 児 殺 害 事 件 か ら 七 年 ― 被 害 者 遺 族 ・ 川 原 冨 由 紀 さ ん の 現 在

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諫 早 女 児 殺 害 事 件 か ら 七 年

― 被 害 者 遺 族 ・ 川 原 冨 由 紀 さ ん の 現 在

― 福 田 三 希

目次

はじめに―問題提起―第一章 犯罪被害者および遺族を取り巻く諸問題 第二章 我が子を殺された犯罪被害者遺族の現在 ―川原冨由紀さんの場合― 第三章 犯罪被害者等対策の在りかたについての考察

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はじめに━問題提起━

『この国では犯罪被害者は棄民なんです』━これは全国犯罪被害者の会・あすの会代表幹事の岡村勲さんの言葉である。日本では加害者が法体制で手厚く保護される一方で、被害者は何の落ち度もなく身体的・精神的ダメージを負わされたうえに国から理不尽な扱いを受けてきた。国に弁護、食事、医療を「保障」されている加害者に対して、事件による精神的・身体的苦痛に加えて捜査機関や裁判による二次被害、噂、事件によって負った傷の治療費や後遺症による経済的困窮に苦しむ犯罪被害者という関係図が長く続き、犯罪被害者は想像以上の苦痛を味わってきた。

『犯罪白書』によると、二〇〇七年の刑法犯の認知件数は二百六十九万八百八十三件で、戦後を通じてみると依然として高い水準にある。秋葉原の通り魔事件や東京江東区女性殺害事件、タクシー運転手襲撃事件等といった怨恨によらない無差別的な犯罪が相次いで発生しており、誰もがいつ犯罪に巻き込まれるのかわからない時代といえる。他人事ではなく、いつ犯罪被害者になるかもわからない「予備軍」の立場で犯罪被害者支援の問題を考えていく必要があると考えられる。また、このような犯罪は被害者だけではなく、遺族にもPTSD(心的外傷後ストレス障害)や家庭崩壊、経済的困窮といった長期的な被害をも与え続けている。二〇〇四年十二月に多くの人の努力によって「犯罪被害者等基本法」が成立し、犯罪被害者を取り巻く環境は大きく変化している。被害者の刑事裁判参加や裁判所へ刑事裁判のなかで付随的に加害者に対する損害賠償命令を請求することができるようになった。このように「被害者の権利」にようやく目が向けられるようになったが、被害者や遺族の一人一人によって被害の受け方は異なり、その一つ一つに柔軟に対応できる対策が必要とされている。

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本稿では二〇〇一年十月に起きた、いわゆる「諌早女児殺害事件」をとりあげたい。この事件は私が住む長崎県内という身近で起きた事件である。しかし、その事件の凶悪性に関わらず被害者遺族の事件後の報道が極めて少ない。そこで事件が遺族にどのような影響を与え、そして現在どのような環境に家族が置かれて、

現在の犯罪被害者支援をどのように感じ考えているのかを被害者・川原和 未子 ちゃんの父・川原冨 由紀 さん

へのインタビューによって明らかにしたい。この論文は以下のように構成される。第一章で犯罪被害者支援の歴史を振り返りながら「犯罪被害者およ

び遺族を取り巻く諸問題」,第二章では川原さんへの取材を元に「我が子を殺された犯罪被害者遺族の現在

川原冨由紀さんの場合―」,第三章では取材を通しての「犯罪被害者支援の在りかたについての考察」をしたい。

第一章犯罪被害者および遺族を取り巻く諸問題

まず、犯罪被害者支援の歴史を振り返りたい。

『今の日本は大きな声で泣きたくても泣けないのです。ただじっと自分で我慢しなければならないのです。日本では被害者を救う道が何もありません。それを作ってほしいのです』━━これは一九九一年に開催された犯罪被害給付制度発足十周年記念シンポジウムでの大久保恵美子さんの発言である。大久保さんは一九九〇年に長男・亨さんを飲酒運転事故で奪われていた。当時の日本では犯罪被害者の相談窓口や十分な経済的支援がないばかりか、捜査機関からの配慮のない対応、裁判での疎外感等の多くの二次被害や三次被害を受

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けていた。大久保さんのこの発言をきっかけとして、遅れていた日本の犯罪被害者支援は大きく動き出した。

大久保さんの訴えにより、一九九三年に東京医科歯科大学内に日本で初めての犯罪被害者のための相談機関である「犯罪被害者相談室」が設置された。これ以降、全国各地に民間の支援組織ができ始める。また、一九九二年から一九九四年にかけて全国規模で被害者を対象に「犯罪被害者実態調査」が行われ、被害者が事件後に必要とする支援の多様さが明らかになった。一九九四年六月の松本サリン事件、一九九五年三月の地下鉄サリン事件では被害者のPTSD(心的外傷後ストレス障害)やマスコミの過熱報道が問題となった。一九九六年には警察庁で被害者対策に関する基本方針をまとめた「被害者対策要綱」を策定、警察庁長官官房給与厚生課に「犯罪被害者対策室」が設置された。「被害者対策要綱」を受け、各都道府県警察では組織をあげて被害者対策に取り組み、被害者への情報提供、相談窓口の設置、二次被害の防止に取り組んできた。一九九八年には全国の民間支援組織が「全国被害者支援ネットワーク」を設立、翌年には「犯罪被害者の権利宣言」を発表した。民間の支援組織では電話による被害者への必要な情報の提供、被害者援助に関係する諸機関への紹介、専門家による電話相談などを主に行っているが、専門家による面接、法廷付き添いサービス、ボランティア相談員の養成、サポート・グループ(被害者の会)に対する支援などを行うところもあ

る。(注1)

これまで裁判において被害者は蚊帳の外だった。少し前までは被害者に傍聴席も用意されず、被害者の遺影を持ち込むことも許されなかったり、加害者の弁護士や裁判官から心無い言葉を言われたりした例も少なくない。一九九九年、検察庁が事件の処理結果や公判期日、刑事裁判の結果、有罪裁判確定後の加害者に関する事項等を通知する「被害者等通知制度」を導入した。二〇〇〇年には「犯罪被害者等の保護を図るための刑事手続きに付随する措置に関する法律」、「刑事訴訟法及び検察審査法の一部を改正する法律」が成立し

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た。以下がこの結果実現した被害者の権利である。訴訟法の一部改正・証人の付き添い・被告人と証人の間および傍聴人と証人の間の、相手の状況を認識できないようにするための措置・ビデオリンク・意見の陳述・書面による陳述または陳述の不許可犯罪被害者等の保護を図るための刑事手続きに付随する措置に関する法律・公判手続きの傍聴・公判記録の閲覧および謄写・和解記録

その他に「ストーカー行為等の規制に関する法律」と「児童虐待の防止等に関する法律」が制定され、同年十一月には十六歳以上の少年の死亡事件での原則刑事処分、検察官の立会い、三人の裁判官による合議制などを盛り込んだ改正少年法も成立した。(注2)

二〇〇三年七月八日には全国犯罪被害者の会(あすの会)の幹事らが小泉首相と直接対談し、犯罪被害者の権利確立と支援を要請した。これを受けて、小泉首相は犯罪被害者対策の検討を指示したことを契機として自由民主党政務調査会・司法制度調査会・経済活動を支える刑事・民事の基本法制に関する小委員会において犯罪被害者支援に関する議論が始まった。小委員会は犯罪被害者の参加を積極的に認め、毎回多くの被害者が出席し、被害者の視点からさまざまな要望や意見を出した。そして、犯罪被害者の要望や意見に関し、関係省庁に調査、報告を求める、というような形で委員会は進行した。小委員会は一連のヒヤリング、検討

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を経て、二〇〇四年提言をまとめた。(注3)この提言の下に二〇〇四(平成十六)年に「犯罪被害者等基本法」が成立した。基本法は犯罪被害者等のための施策に関する基本理念を定め、国および地方公共団体等の責務を明らかにするとともに、捜査や裁判での二次被害の防止、カウンセリングの充実、経済的支援、国民の理解推進等の事項を定めることによって犯罪被害者等の権利利益の保護を図ることを目指している。また犯罪被害者のための施策の推進を図るために基本計画が作成された。さらに基本法の成立が二〇〇四年十二月一日だったことから毎年十一月二十五日から十二月一日を「犯罪被害者週間」とし、犯罪被害者に関する啓蒙活動を実施している。二〇〇七年六月には被害者の訴訟参加と損害賠償命令等の導入を内容とする刑事訴訟法等を改正する法律が成立し、被害者の裁判参加が実現した。これまで傍聴席で裁判を傍聴することしかできなかった被害者が裁判に参加できるようになり、また膨大な費用と時間、労力をかけて民事裁判を起こして損害賠償を請求する必要がなくなった。二〇〇九年には遺族が刑事裁判に参加する制度が適用された交通死亡事故の公判が東京地裁で開かれた。二〇〇八年には法改正によって犯罪被害者保護法に被害者参加人に関する国費での弁護士支援に関して規定された。またこの選定等の手続きは日本司法支援センター(法テラス)が行う。

二〇〇一年と二〇〇八年には犯罪被害者等給付金が改正され、療養費の被害者負担額の支給、給付金の引き上げ等の内容が拡充された。しかし、経済的支援の不十分さ、給付制度の性格等の課題が多く残っている。

また少年法も二〇〇〇年と二〇〇八年に改正された。二〇〇〇年の改正により被害者配慮規定等が盛り込まれ、二〇〇八年の改正で一定の重大事件の被害者が裁判を傍聴できる制度の創設、被害者による記録の閲覧・謄写の要件の規制緩和を行う等の内容が改正された。

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このように犯罪被害者支援は大きく進歩している。しかし、経済的支援、刑法三十九条の触法精神障害者の問題や二次被害、少年審判の情報非公開、性犯罪者の出所後の情報開示問題、危機介入等残された課題も多いのが現状である。

次章では、実際に川原さんがどのような犯罪被害、二次被害を受けたのかをみてみる。

第二章わが子を殺された犯罪被害者遺族の現在 ―川原冨由紀さんの場合―

本稿で取り上げるのは、二〇〇一年十月に起きたいわゆる「諌早女児殺害事件」である。この事件の概要

は以下のとおりである。同十月十二日に諌早市福田町中山の工務店経営の川原 かわはら由紀 さん(当時四十六歳) の長女・北諌早小学校一年生の川原和 未子 ちゃん(当時七歳)が下校途中に長崎市本原町の無職・吉岡達夫

(当時二十三歳)現受刑者によってわいせつ目的で誘拐され、殺害、近くの山中(諫早市富川町)に遺棄された事件である。

それでは具体的に吉岡達夫受刑者の殺人行為が川原家にどのような影響を与え、そして現在どのような環境に家族が置かれて、どのように感じ考えているのか、を川原和未子ちゃんの父・川原冨由紀さんへのインタビューによって明らかにしたい。(注4)

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川原さん一家が暮らしていた諫早市は総面積三万千二百十七平方メートル、人口十四万千八百二十五人の地方都市である。北高南低の地形に加え、東は有明海、西は大村湾、南は橘湾と三つの海に囲まれている。川原さん一家が住む福田町は諌早市の北東部に位置し、諫早干拓地を望み、北方にはみかんなどを栽培する小高い丘陵地となっている。JR九州の長崎本線がこの地区を東西に貫通し、北諌早駅が、長崎市や諌早市に職場を持つ住民に利用されている。通勤のための立地条件が優れているために住居を求める人が多く人口急増地区である。「新住民」が増え、開発が進み、人口四千六百四十五人と諫早市の中でも最も人口が多い。(諫早市町別人口推計平成十九年四月一日)川原さん一家は交通が便利な発展していく街で生活していた。

小中学校時代川原冨由紀さんは一九五五年二月七日に諫早市福田町の中山地区で生まれ育った。三人兄妹の次男で、“冨由紀”をいう名は叔母がつけた。その由来は叔母が三島由紀夫のファンだったためである。川原家は代々農家で、父と母が中心になって兼業で、主に米やみかんを作っていた。田んぼは一町、みかん山は二町ほどの規模で、田植えやかき入れときには大変であった。川原さんは、北諫早小学校と北諫早中学校に通った。当時は小学校は六クラス、中学校は九クラスあった。脱脂粉乳がある給食だけが楽しみで通っていたという。

工務店の経営川原さんは大工に憧れを抱いていた。その背景には、中学生の夏休みのときに友人の父の大工仕事を遊びに行き、手伝うなかで木材が形を変えて新たなものが作られることに興味を持った。両親からは高校に進学するように何度も言われたが、「いや、俺は大工職人になる」と拒否した。中学卒業後に弟子入りし、五年間

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様々なところで修行を積んだ。二十歳頃から自分に来た仕事の依頼をするようになり、二十四、二十五歳になるとその依頼が増えてきた。二十八歳で二級建築士の免許を取得し、一九八九年に有限会社の工務店を興した。川原さんは図面を書く以外にも土木施工管理技師という資格を取り、土木工事の管理を行っていた。実際には営業をして仕事を取ってくることが川原さんの役割で、現場は職人に任せていた。

結婚・和未子ちゃん誕生妻の芳香さんとは一九九二年一月十四日に結婚。川原さんがAコープに勤める芳香さんに「一目ぼれ」して交際が始まった。芳香さんには結婚歴があり、子どもが二人いたが、芳香さんの両親を説得し、結婚に至った。結婚後、芳香さんは仕事を辞め、専業主婦になった。川原さんの実家近くに四人で暮らし始めた。芳香さんの子どもは小学三年生の男の子と小学二年生の女の子で、川原さんにもよく懐いてくれた。結婚してしばらくは子供に恵まれなかった。子供を授かる神社に祈願に行き、やっとできた子供だった。遅くに帰宅して、芳香さんから子供ができているかもしれないと聞かされた川原さんは嬉しくて仕方がなく、夜中の十二時を過ぎていたが実家まで行き、寝ている両親を起して、「子供ができとるごたる」と報告した。父からは「何時て思っとるとか」と叱られた。望んで、望んで授かった子供だった。芳香さんの妊娠中は帰ってきてから芳香さんのお腹に「元気か?」「無事に出て来いよ」と話しかけていた。お腹が大きくなってくると足でお腹を蹴って川原さんの話しかけに応えてくれた。

一九九四年六月二十三日に和 未子 ちゃんが誕生した。夜中の三時ごろに陣痛が始まった芳香さんを川原さ

んが車で病院まで連れて行き、朝方に生まれた。生まれたときに外で聞いた産声が忘れられないという。看護婦さんが「かわいか女の子が生まれたですよ」と言って、すぐに抱かせてくれた。最初は生まれてきたばかりで紫色のような感じだったが、川原さんが抱いているうちに肌色に変わった。「感激したとば忘れきらんですね」と川原さんは語った。最初は男の子が欲しかったが、無事に生まれてきてくれればどっちでもよく

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なり、かわいくて、かわいくて仕方なかった。標準体重で顔は川原さん似であった。“和 未子 ”という名前は

“将来、大和撫子で日本の心を忘れない女性になってほしい”という願いを込めて付けられた。芳香さんと和未子ちゃんが退院後、川原さんが和未子ちゃんをお風呂に入れることにした。両親から赤ちゃんのお風呂の入れ方を習った川原さんは「俺が入れてやるけんか、連れて来い」と言ったものの、まだ首もすわらず、「ぐにゃぐにゃ」としていることに戸惑い、動けなかった。川原さん自身が汗をたくさんかいて、結局、芳香さんに「どげんかしてくれろ」と助けを求めた。その後はお風呂に入れることに次第に慣れていった。ミルクをいっぱい飲んで、和未子ちゃんはすくすく育った。和未子ちゃんが一歳くらいのときにタバコを誤飲したことがあった。テレビを観ていた兄と姉に和未子ちゃんを見ておくように言って、川原さんはお風呂に入った。いつもは和未子ちゃんの手の届かないところにタバコを置いていたが、そのときはうっかりして忘れていた。芳香さんに「お父さん、タバコ食べとるよ」と言われ、テレビを観ていた二人に「何しよったとか」と言うと黙っていたという。「二人ともテレビに夢中ですから頼む方が間違っているとですけどね」と川原さんは振り返る。病院に連れて行き、胃を洗浄して、吐き出させた。川原さんは医師から「よく見とかんば。これ死ぬとぞ」とひどく怒られた。苦しくて泣く和未子ちゃんを押さえつけながら、「頑張れよ、なーちゃん。頑張れよ、なーちゃん」と一生懸命励ました。

和未子ちゃんの成長性格も川原さんに似て大人しかった。一九九六年三月には妹が生まれ、和未子ちゃんは車で五分くらいの近くの保育園に通い始めた。お姉ちゃんという意識も出てきて、川原さん夫妻は、その成長が楽しみで仕方なかった。その当時の人気テレビドラマ「ナースのお仕事」が好きで、将来の夢は看護婦さんだった。また「困っている人に優しくしなさい」という川原さんの言いつけの影響もあったのかもしれない。幼稚園にダウン症の女の子がいて、着替えに時間がかかるので和未子ちゃんはいつもその子の着替えを手伝い、先生か

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ら褒められていた。素直で優しい子だった。川原さんが仕事から帰ってくると和未子ちゃんは飛びついてきていた。休みの日には海や山など色んなところに連れて行っていた。お父さんっ子だった。寒いときには懐に抱き、風邪をひけば、移せば治るからと自分に移すように言っていた。「かわゆうして、かわゆうしてたまらんかった。初めての子供ってこんなにかわいいものかなって。本当にかわいかったですよ。」川原さんにとって和未子ちゃんは「生きがい」だった。和未子ちゃんの写真は山のように残っている。しかし、川原さんには現在でもそれらを見つめることができないままである。兄も姉も年の離れた和未子ちゃんをよくかわいがってくれていた。兄は和未子ちゃんが六歳のときに就職で、長崎に行ってしまった。妹とはけんかしながらも毎日一緒に遊んでいた。工務店は忙しいときには年間数億の仕事を受けていた。職人も専属と臨時で雇った人数は二十人のときもあった。個人から依頼を受けたり、川原さんが営業に行って、住宅メーカーから基礎工事をもらってきたりしていた。夕方に事務所に帰り、帰宅するのはいつも八時くらいだった。「結構やりがいがあって、おもしろかったですね」と川原さんは振り返る。和未子ちゃんはお父さんが帰ってくるまで寝ないと言い、よく川原さんの帰りを待っていた。いつも川原さんと一緒にお風呂に入っていた。しかし、「バブル」がはじけ、一九九八年頃からは仕事が落ち込み、厳しい時期に入っていた。

引っ越し・和未子ちゃん小学校入学二〇〇一年、川原さんの父が一九九八年に他界したため実家には母と兄が住んでいた。しかし、兄に実家にいられない事情ができ、母が一人で実家に住むことになった。実家の近くに住んでいた川原さんは一人でいるのが怖いと言う母に「夕方から朝までうちに来い」と言っていつも川原さんの家に泊まらせていたが、母は田んぼの心配をしていた。大きな実家に母を一人で住まわせるわけにもいかないので、芳香さんと相談して実家に移ることにした。川原さんが三月に、家族は五月に実家に移った。

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四月に和未子ちゃんは自宅から二キロほど離れた小学校に入学した。子供の足では三十分ほどかかる通学路をいつも途中まで友達と一緒に帰ってきていた。通学路沿いは民家が建っていた。一人で早く何でもできるようにしたいと考え、迎えなどには行かなかった。「あんな人間がおるとはおるとは考えもつかんし、夢にも思っとらんかったです」。川原さんも芳香さんも事件のあった日に迎えに行かなかったことを今でも後悔している。事件発生後に福田地区で不審者が出没していたことが明らかになったが、川原さんは耳にしたことはなかった。和未子ちゃんは学校であったことをよく川原さんに話してくれたという。川原さんにとっても娘の成長は楽しみだった。勉強も一生懸命頑張り、友人もたくさんできたようだった。友達の家に泊まりに行きたいと言ったこともあった。川原さんはまだ早いのではないかと思ったが、友達のお母さんがぜひと言われたので泊まりに行かせた。事件がおきる前のころは十月十四日に運動会を控え、和未子ちゃんは練習で疲れて帰ってきていた。川原さんが帰宅すると和未子ちゃんの姿がなかったので、どこに行ったのかなと思っているとテーブルの下で寝ていた。疲れて、いつの間にか眠ってしまっていたのだ。自分が生まれ育った土地で、同じように育っていくのだと思っていた。成人して、どんな人と一緒になるのだろうか、息子が増えて一緒にお酒を飲んだりできるかなと考えていた。

行方不明事件当日の十月十二日、いつもは三時ごろに帰宅する和未子ちゃんが夕方になっても帰って来なかった。午後三時ごろ、自宅から四百メートル離れた路上で友人と別れた後の行方がわからなくなった。両親は和未子ちゃんの友人などにも電話をかけたが見つからず、午後七時半ごろ諫早警察署に通報した。すぐに警察官が駆けつけた。自宅には脅迫電話等のために五、六人の警察官が待機した。北諫早小では、十二日夜、教職員が総出で通学路や水路を中心に捜索した。佐世保の芳香さんの父もその日のうちに駆けつけてくれた。一

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晩中捜しながら川原さんは絶対に帰ってくると信じていた。「嫁さんにもそんな心配せんでよかけん。誰か子供のおらん人とか(和未子ちゃんが)かわいかけん、連れて回って絶対どこかで降ろしてくれるけんって言いよったとですけどね。」脅迫電話がなかったため、警察から「公開捜査」に踏みきると言われ、「(情報を)流して、捜して下さい」とお願いした。長崎県警と諫早署は十三日の夜、顔写真を公開し、事件、事故の両面から捜査を始めた。川原さんも行方がわからなくなった時間帯の行動を警察から尋ねられた。十三日には捜索活動に学校の父母や友人、近所の人、消防団が加わった。また、川原さんの甥が勤める新聞販売店でチラシを作り、配ってくれた。北諫早小学校では十四日に予定していた運動会の中止を決めた。

遺体発見十四日午前十時四十分ごろ、諫早市富川町の林道の道路端から約三メートル下の杉林の中でうつぶせに倒れていた和未子ちゃんの遺体を、捜査活動に参加していた市内の男性が見つけた。遺体が発見された場所は自宅から三、四キロ離れた山の中で、人が滅多に行かないような場所だった。知人から和未子ちゃんが見つかったという連絡を受けた川原さんは喜んだという。車で捜し回ってくれていた近所の人も喜んでくれた。しかし、正午の過ぎのテレビニュースで家族は和未子ちゃんが遺体で発見されたことを知った。芳香さんは「和未子だめやった」と泣き崩れた。川原さんは訳がわからなかった。迎えにきた刑事に長崎大学医学部付属病院まで連れて行ってもらい、川原さんと芳香さんが身元確認を行った後に司法解剖された。大切に育ててきたかわいい我が子の死に顔は衝撃的だった。芳香さんは立っていられなくなり、川原さんは芳香さんを支えるので精一杯だった。その顔は今でも脳裏に焼きついて忘れられない。身元確認の際に和未子ちゃんに触れようとしたが、遺体は証拠の一つになるので医師から止められた。解剖は長時間かかるので一旦、帰宅してもいいと言われたが、芳香さんは「(和未子ちゃんを)一人にはしておかれん」と拒否した。大学側が部屋を一室用意してくれたのでそこで待っていた。「もう泣くことしかなか

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ったですね」。三時ごろに始まり、終わったのは夜の十一時ごろだった。一番お気に入りだった服を着せて、棺に入れて家に連れて帰った。解剖の結果によると、死因は首を圧迫されたことによる窒息死だった。死後二日くらい経過しており、行方不明になった十二日のうちに殺害されたとみられた。着衣の乱れは少なく、目立った外傷はなかった。死因や犯人を特定する為だと理解していても、小さいからだを切り刻まれるというのはたまらなかったという。吉岡容疑者の逮捕後に、その頃、医学部近くの本原町で犯人が何食わぬ顔で生活をしていたのかと思うと、怒りがこみ上げてきた。一方、北諫早小では午後五時から内野安夫校長が記者会見し、「深く考えたら学校の落ち度としかいいようがない。通学路の人通りのないところの安全について、地域の人と話し合っていれば、防げたかもしれない…」と泣き崩れた。山中で発見された遺体が和未子ちゃんと確認されると、内野校長が川原さんに「死を無駄にしないよう、今後、対策を尽くします」と電話した。北諫早小学校ではボランティアの臨床心理士が児童や教師の「心のケア」にあたった。しかし、肝心な川原さんら遺族の「心のケア」にあたってくれる人はいなかった。十五日の夜に自宅で和未子ちゃんの通夜が営まれ、十六日に葬儀が営まれた。川原さんは「宝物のように大切に育ててきた子だった。このような反社会的なことが二度とないことを望みます。」とあいさつしたが、川原さんは葬儀のことはほとんど覚えておらず、あいさつをした記憶も残っていない。しかし、クラスの友人が全員来て、代表の子が別れの言葉を述べたことはよく覚えている。なぜ和未子だけがこんなことになったのかと思った。頭は真っ白で「俺は何しよるとやろうか」と思いながらただ座り、香典返しのことも考える余裕はなかった。葬儀には誰にも来てもらわなくてよかったし、来てほしくなかった。それほど「現実」が受け入れられなかった。火葬場では市職員が和未子ちゃんの遺骨を見て、「年寄りやったら骨がぼろぼろしとるとけど、まだ小さいけんかこんな硬かとですよ」と平気で言ってきた。子を亡くした親の気持ちを全く考えない発言に川原さん

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は激しい怒りを覚えた。諫早署は事件が発生した十二日にちなみ、毎月十二日を「子どもの安全を守る日」として管内の警戒態勢を強化するなどの再発防止策をとった。管内一市四町の小学校に啓発用の「のぼり」を配った。川原さんには一切相談はなかったという。このような再発防止策をとる一方で、川原さんら遺族に対する援助や気遣いの言葉は全くなかった。「どんな生活をされていますか」━そんな言葉をかけてほしかった。表向きの再発防止策が「晒し者」にされたようで不愉快だった。

「苦しみ」の「始まり」この事件を境に川原さんの生活は一変した。悲しいということを通り越して「現実」を受け止めることができなかった。元々好きだったお酒を気を紛らわすためにさらに飲むようになり、タバコの本数も増えた。昼と夜にラーメンを食べるだけで、ご飯を食べる気にもなれず、一ヶ月で十キロも体重が落ち、四十九日前には家で倒れて救急車で病院へ搬送されたこともあった。芳香さんの父は「もっとしっかりせろ。食べるものは食べて、ちゃんと自分の健康ば管理せんと大ごとするぞ」と心配し、わざわざ佐世保から来てくれた。しかし、それ以降、倒れるようになってしまったという。入浴や洗顔などもしない日々が続いた。夜もぴったり一時間毎に目が覚めて眠れなかった。逆に昼には一時間くらい気づかない間に寝てしまうこともあった。四十九日まで一日中祭壇の前に座って過ごした。頭が真っ白で何も考える余裕がなかった。初七日も四十九日もしたくなかったが、しないわけにはいかず、辛かった。また、現実の世界と自分の世界のギャップに戸惑った。「こんだけ苦しかというか、悲しみよるとに世の中は何にも変わらんとですよ。みんなね。いつものごとみんな学校に行って、仕事に行って」「矛盾というか、不思議かねって。なんで世の中変らんとやろうかって思ったですね」。そのギャップは家族間の事件の受け止め方にも当てはまるものだった。一週間、警察から事情聴取を受けていた川原さんの兄の「無実」が晴れると、泣いていた母はすぐに元気になった。これから葬儀をしなくて

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はならないというときに妹が新興宗教の信者と二人で川原さんの元に来て、教祖が大分にいるから今から一緒に話を聴きに行こうと誘ってきた。「わいは何ば言いよるとな。和未子が死んでしまって、葬式ばせんばごとなっとるとばい。今日はお通夜で、明日は葬式ばせんといかんとばい。なんで俺が今から大分に行かんといけんとな。お前ら馬鹿な」と断ったが、妹は「洗脳」されてしまっていたようだった。葬儀の日には「和未子は、ぼさっとしとったけん」と親族は平気で言ったり、葬儀の二、三日後には妹が子供を連れて母の元に遊びに来て、笑いながら話をしていた。和未子ちゃんが殺されて、いなくなっても周囲は何も変わらなかった。「自分の愛娘はそれだけの存在でしかなかったのか。」また、事件当時にいくつかの小さな仕事があったものの、事件後には仕事の依頼も来なくなり、代表の川原さん自身も仕事ができる状態ではなかった。そんな心情を母は理解できず、初七日頃には仕事に行かないことを怒った。「本当これが俺の親やろうかって正直思いましたね」。川原さんは普段と変わらない母や兄妹の前で気丈に振る舞う芳香さんが不憫でならなかった。近所の川原さんの同級生からの連絡や声かけもなく、誰も気持ちに寄り添ってくれる人がいなかった。さらには心無い人による噂が広まり、川原さんの耳にも入ってきた。こうして川原さんは和未子ちゃんだけでなく、かけがえのない周囲の人との繋がりも奪われた。「自分がそれだけしかなかった」「こんだけのもんかな」。悲しみと苦しみは一層深くなっていった。事件以降、テレビも新聞も一切見なかった。似たような事件の報道や殺人事件が起きるドラマなど見たくなかった。

犯人逮捕警察は自宅のすぐそばで白いヘッドライトが四つあるスポーツタイプの乗用車が赤いランドセルの女児に声をかけていたとの目撃情報から車の特定を進めていく。この間に事件から約二週間後の十月二十六日に長崎市本原町に住む吉岡達夫容疑者(二十三歳)から任意で事情を聴取し、二十七日に未成年者誘拐の容疑で緊急逮捕、同日夕方に送検した。「かわいかったので、車に乗るように誘った。面識はなかった」と供述した。

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吉岡容疑者は小・中学校時代を諫早市で過ごした。長崎市内の専門学校を卒業後、コンピューター関係の仕事をしていたが、二〇〇〇年に辞め、逮捕当時は無職。三人きょうだいの長男で、両親らと同居していた。自宅倉庫には紐でくくられた数年分のアニメ月刊誌やパソコン書籍、少女が主人公のアニメビデオが無造作に積み重ねられていた。近所の書店で幼女が登場するコミック雑誌を購入したこともあった。吉岡容疑者の父は報道陣に逮捕を知らされ、絶句。「何も話すことはありません」と自宅に引きこもった。その後、さらに殺人と死体遺棄の疑いで再逮捕した。自宅に逮捕の報告に来た刑事に対して川原さんは「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べた。諫早署長も川原さん宅を訪れ、犯人逮捕の報告をした。被害者担当の警部を始め、警察には色々と気遣いをしてもらった。ただ後に述べるように、マスコミに関するアドバイスについては本当のことを教えてもらいたかった。吉岡容疑者が逮捕された夜、川原さんは吉岡容疑者に「復讐」するために諫早署に行った。三階に吉岡容疑者がいるだろうと推測し、気づかれないように警察署の中に入り、階段を上った。階段を上ると警察官が駆けつけて来て、「なんしよっとか、お前は」と押さえつけられた。押さえつけられたまま川原さんは「吉岡、出て来い」と叫んだ。そのことで警察官は和未子ちゃんの父の川原さんだとわかり、解放した。肩だけを押さえられたまま五分間ほど川原さんは吉岡容疑者に向けて叫び続けた。警察は川原さんの心情を察し、「ちゃんと証拠固めして、重か刑にするけんか」と約束し、家まで送ってくれた。その後、容疑者の供述の報告という形で刑事から何度か説明があったが、正直聞きたくはなかった。

報道関係者の存在事件発生後、急に詰めかけたマスコミには戸惑った。川原さんは刑事から、マスコミはでたらめなことを書くので何にも話してはいけないし、写真も撮られてはいけないとアドバイスされており、それを信じていた。最初はマスコミに接触する気も気力もなかったので、芳香さんの父に対応してもらった。

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そんな状況を変えたのは地元紙の長崎新聞報道部の高比良由紀記者だった。事件から三、四週間経ったころに取材抜きで、ただ和未子ちゃんの霊前に参らせてほしいと刑事を通じて言われ、川原さんらは「それならば」ということで高比良記者の願いを受け入れた。そのときに川原さん、芳香さん、高比良記者、刑事の四人で一時間ほど話し、高比良記者の優しい人柄や和未子ちゃんに対する想いを感じ、この人になら色々と話してもいいなと思った。それから徐々に報道関係者と接するようになった。実際に会ってみると自分の気持ちを理解してくれる人ばっかりだった。月日が経つにつれて相手にとって仕事ではあるが、報道関係者が一番話を聞いてくれて、自分のことを理解してくれるということがわかり、自分でも話して、打ち解けていくようになった。そうなるまでに約一年の時間が必要だった。NCC長崎文化放送の志久弘樹キャスターやNBC長崎放送の古川恵子記者は本当に事件のことを考えてくれていることが伝わってきたので、色々と本音で話すようになった。本当に事件のことを考え、自分のことを心配してくれた人が周りにいなかった川原さんにとって報道関係者が一番頼りになった存在だった。一度、川原さんが加害者の両親を「脅迫」し、金銭を要求しているという記事が朝日新聞に載ったことがあった。記事を書いた記者の名前を耳にした川原さんは朝日新聞社に抗議の電話をした。朝日新聞社以外の報道関係者には悪い印象は持っていないという。しかし、報道されたことで得たものは何もなかったと川原さんは言う。色々と報道されたが慰めの言葉や手紙など視聴者や読者からの具体的な反応はなかった。

引っ越し・生活苦和未子ちゃんとの思い出がつまった諫早にいることは辛かった。さらに工務店の仕事もできず、家族とも溝を感じ、どこに行っても噂をされ、諫早にいることができなくなった。引っ越しを母に報告したときも「行ってしまえ」というような態度だった。一番身近な人間で、今まで産み育ててもらった恩は忘れないが、和未子ちゃんの事件後の親兄妹の対応は、川原さんにとって悲しいものだった。

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四十九日を済ませると十二月一日に佐世保の芳香さんの実家の隣町にアパートを借りて引っ越した。幼稚園に通っていた妹は急な環境の変化に戸惑い、泣きだした。いつも川原さんの膝に座ってご飯を食べていたが川原さんの変化を感じ取り、寄り付くこともなくなった。障子を少し開けて、そこから川原さんの顔をじっと見ていた。当時の川原さんには妹のことを考えてあげる余裕がなかった。半年ほど経ったころ、はっとその状況に気づいた。まだ五歳で姉の死を理解できない妹にとって自分の変わり様は「かなり心の傷になったっちゃなかとかな。下の子には申し訳なかことばしたと思ってます」と川原さんは振り返える。それからはできるだけ公園に連れて行ってみたり、一緒に遊んだりした。事件から一年後、川原さんの母が倒れた。和未子ちゃんの遺骨はかわいがってくれた祖父と一緒に諫早のお墓に納骨したのだが、倒れたのは和未子ちゃんの霊が寂しがっているのが原因だと母が言っているとお寺の住職を通じて川原さんに伝えられた。川原さんは住職にお願いしてお経を読んでもらい、和未子ちゃんのお骨を佐世保に連れて帰った。この出来事で川原さんと母の溝は決定的なものとなり、それ以降は一切連絡を取らなくなった。川原さんには「ふるさと」と呼べる場所がなくなった。働かないと食べていけないので、川原さんはある住宅関係の会社に就職し、営業を始めた。一生懸命明るく振舞っているつもりだったが、事情を何も知らない上司から「川原君はなんでそがん暗かとか」「もっと明るくして。今日でもお客さん、おかしかって思ったっちゃなか」と言われ、営業から帰って、夜の十二時過ぎまで会社の鏡の前でこんにちわの挨拶の練習をさせられたこともあった。人と話しているときも突然、涙が出てくることや車で走っているとフロントガラスに和未子ちゃんの顔が出てきて、体がガタガタ震えることもあった。道の端に車を止めると涙がボロボロ出てきて、うずくまって三十分ほど動くことができなかった。それからも何回か仕事をしたが続けることはできなかった。芳香さんは一人で働いていたが、婦人科の大病を患い、二回手術を受けて入退院を繰り返した。子供は欲しかったが、芳香さんの命には代えられなかった。治療により芳香さんは子供ができなくなったが、今は回復して元気になった。

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その後、川原さんは外に出ることができずに三年ほど引きこもりになってしまった。芳香さんが一人で働いたが、アパートの家賃が払えなくなった。そんなときに芳香さんの両親が前に弟夫婦と同居していた実家の部屋が空いていたので、よかったら来いと誘ってくれた。川原さんとしては妻の実家に仕事もせずにいるのは正直言うと針の筵だった。仕事を探しにハローワークに行っても、不景気に加えて年齢などの条件で仕事がなかった。国民健康保険税も払えなくなり、佐世保市役所に行って何度も払えない理由を説明したり、国民健康保険課の課長宛に手紙も書いたが、事情は酌んでもらえず、ただ払えの一点張りだった。働けない状況に陥ったにも関わらず、行政から経済的な支援は全くなかった。唯一、下校中の事件ということで学校の保険が千二百万払われたが、民事訴訟で賠償金の支払いを受けたら返金するという条件つきであった。事件を境に川原さんは顔つきも性格も変わってしまった。以前は家族のために精力的に仕事をこなし、仕事のことばかりが頭にあったが、仕事ができなくなった。用心深くなり、鍵の確認や少し変わった人物に対して注意するようになった。被告人に似た人物を見かけると後ろから殴りかかりたくなる衝動に駆られたことも何度かあった。バスでは人のいない場所に好んで座り、後ろに人が座ると席を立ってしまうようになった。人目を避け、帽子を深くかぶるようにもなった。カウンセリングにも何度か勧められて行ったが,しっくりこなかった。ただ話を聴いてくれる存在はほしかった。

刑事裁判二〇〇二年二月八日、長崎地方裁判所で吉岡達夫被告の刑事裁判が始まった。しかし、川原さんにとって、この刑事裁判は被害者は蚊帳の外の、加害者のための裁判でしかなかった。裁判の流れもわからないままで検察官からの説明を受けることもなかった。また加害者のプライバシーは守られ、和未子ちゃんだけが「晒し者」にされたような気分だった。証人尋問の詳細は当日まで川原さんに知らされることはなかった。裁判所に呼ばれ、当日知らされて、頭

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の整理もできないまま、証言台に立った。大勢の傍聴人にドラマの世界のような法廷に戸惑い、何と答えたのかもあまり覚えていない。何も知らされなかったことが馬鹿にされているように感じ、「あのときは本当頭にきたですね」。事前にどんな質問をするかなど文書でもいいので説明がほしかった。三月で担当の検察官が変わった。その後の意見陳述の際には事前に連絡があり、どういったものなのかを詳しく説明してくれた。事前に考える余裕があったので自分の素直な気持ちを書き記し、意見陳述の際に読み上げた。意見陳述が終わった後に川原さんは隙をついて吉岡被告を殴ろうとしたが、刑務官に止められた。「こらぁ、吉岡。俺の顔ば見れ、俺の顔を覚えとけ」と言うと、吉岡被告は俯いたままだった。裁判官も加害者側の国選弁護人である川端弁護士も黙って見ていた。求刑に関しても遺族には何の相談もなかった。証人尋問、意見陳述で極刑を訴えたが、それでも検察の求刑は無期懲役だった。担当の検察官になぜ無期懲役なのか理由を尋ねたが、福岡の検察庁で決まって指示が出るので自分は決められないのだという回答だった。川原さんはひどく落胆し、それからは担当の検察官の顔も見たくなくなり、判決も聴きに行かなかった。山本恵三裁判長は無期懲役を言い渡した。川原さんが裁判所に足を運んだのは証人尋問と意見陳述と求刑の三回だけだった。「七歳の女の子の手をかけるような人間を生かしておいて日本の何になるのか」━人一人を殺しても死刑にならないという理不尽な現実を目の当たりにして、死んだ人間は帰ってこないのだから諦めろと言われているような気分だった。大切な命を奪っておきながら死刑にもならずに、早ければ十五年程度で出所でき、無料で三食の食事と寝る場所、医療が保障されている加害者と、大切な人を奪われ、働くことができず、食に困り、家賃も払えず、医療も満足に受けられず、かけがえのない故郷、家族、友人を奪われた被害者という状況に法の無力さを感じた。吉岡容疑者から刑事裁判中に謝罪の手紙が届いたことがあった。しかし、裁判長の心証を良くするためのアリバイ工作に思えて受け取らなかった。加害者側の国選弁護人である川端弁護士からは国選弁護人になったと連絡を受けた。川原さんが「くれぐれも和未子のことば、七歳の俺の愛娘って、それがこがん目に遭ってる。そこらへんば頭に入れて弁護ばし

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てくれ」と言うと、川端弁護士は「わかりました」と答えた。さらに「親はどがんしとると?なんで謝罪に来んとね?」と尋ねると「伝えておきます」と答えた。しかし、加害者の両親からはあまり謝罪に来たくないような返事がきた。三回ほど謝罪に来るように言ったが、それでも来なかったので、「写真ば見たら大体わかるけん、自分が行くけん。待っとくように言っとって。何日の何時ごろに行くけん」と川端弁護士に伝えてもらうとよくやく両親と川端弁護士が謝罪に訪れた。和未子ちゃんの霊前で加害者の両親は涙を流しながら謝り、「一生かけて償わせてもらいます」と言った。川端弁護士も同席していたのできちんと誠意を見せてくれるだろうと信じていた。最後には「今から和未子のことば少しでも粗末にしたら俺が許さんけん、覚えとけよ」と念を押した。数日後、川端弁護士から「償いの示談は刑事裁判が終わるまで待ってほしい、その間、娘さんの霊前には時間を見て焼香させていただきます」との手紙をもらった。しかし、その内容は守られないままで、刑事裁判が終わると連絡が取れなくなった。川端弁護士に連絡を取ったが、刑事裁判が終わったので国選弁護人の自分は関係ないという返事だった。川原さんは加害者の父親が勤める会社を調べて、会社に行った。外で待っていると、ちょうど父親が出てきて、以下の会話が交わされた。

川原さん:なんや。何しよっとや。(謝罪は)どがんなっとると。加害者の父:すみません。川原さん・・すみませんじゃなかって。あんた、あのときなんて言った?二人でなんて言ってきた?ちゃんとせんね。俺が言わんでもわかっとるやろう。なんで俺がここまで来んばいけんと。加害者の父:ちゃんとします。川原さん:いや、しますじゃわからんって。あんたの弁護士に電話しんしゃい。民事は関係なかって言うたけんね。弁護士のおった方がよかろう。そいけん、電話せんね。

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父親はその場で川端弁護士に電話し、加害者側の民事の法廷代理人も川端弁護士になった。一度、長崎の検事正に加害者の矯正状況や刑務所生活などの情報を教えてほしいと手紙を書いて持って行ったが、会わせてもらえなかった。対応した職員に手渡したが、その後は何の反応もなかった。犯人が一体どんな生活を送っているのか、年に一度でも通知する制度がほしいと川原さんは心から思っている。

民事裁判の提起民事訴訟を起こすための準備は二〇〇二年十一月から始まった。成人の親に責任は問えないと民法で決まっていることは知っていたが、それでも少しは事情を酌んだ判決が出るのではないかという想いで、長崎や佐世保の弁護士を電話帳で探し、お金がかかるからと高速道を使わずに下道で二、三時間かけて長崎まで通った。五、六人の弁護士を回ったが“負ける裁判でする価値がない”という反応だった。長崎新聞社の関係者からも弁護士を一人紹介されたが、川原さんを目の前にして、あの事件の判決はどがんなったとかなという程度の投げやりな態度をされ、悔しい思いをした。福岡なら弁護士の人数が多いので自分たちの想いをわかってくれる人がいるかもしれないと話している矢先に、人から東京の全国犯罪被害者の会・あすの会の存在を教えてもらった。電話してみると相手は川原さんのことを知っていた。民事で訴えたいと思っていることを話すと、長崎市の河井耕治弁護士を紹介してくれた。河井弁護士は「大変だったですね」と涙を流しながら川原さんの気持ちをわかってくれて、裁判をやりましょうと言ってくれた。二〇〇三年九月三日、川原さんら遺族五人は加害者とその両親を相手に、総額一億八千万円の損害賠償を求める訴えを長崎地裁大村支部に起こした。裁判費用は法律扶助協会の訴訟費用の立替制度を利用することができ、分割で支払った。吉岡受刑者はかつて小学生と高校時代に女児に対する二件のわいせつ事案を起こしており、また自室には少女コミック、幼女が登場するわいせつな漫画、週刊誌、ビデオがあった。両親は吉岡受刑者が異常な性癖を持ち、このような事件を起すことを予見できたであろうにも関わらずカウンセリングなどの適切な処置を

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とらなかった。その加害者の両親の責任を追及し、また無期懲役で刑務所に服役し、賠償能力のない吉岡受刑者に代わって両親に誠意ある謝罪と賠償を求めることが目的だった。加害者の家族は加害者と同居していた長崎市本原町のアパートを離れ、福岡市博多区に移り住んでいた。子供の名義で博多区にマンションを買い、父親は長崎に会社があるため単身でホテル住まいをしていることや当時、高校生だった加害者の弟を大学に通わせていることもわかった。そういったことをする前に人として自分の長男が犯した罪を謝罪するべきではないのかと思った。民事裁判のなかで原告側は事実解明のために吉岡受刑者の精神鑑定を請求し、証拠採用された。精神鑑定の結果、吉岡受刑者は小児性愛で、回避性人格障害であると診断された。家庭環境に関しては母親が中心的な存在で、父親は影が薄い存在。(同受刑者は)母親の目を気にして育っており…」とされた。本人尋問では吉岡受刑者と会うために大分の刑務所まで行った。尋問が行われた部屋は広い会議室のような部屋で、原告側と吉岡受刑者の間には簡単な仕切りがあるだけだった。川原さんも被告に質問できると三十分前になって弁護士から知らされた。頭が真っ白になり、わずか三十分では言いたいことを整理できなかった。吉岡受刑者は裁判官の質問にきちんと答え、「一生償う」と答えた。川原さんが「どう思っとるとか」と尋ねると吉岡受刑者は黙っていた。憎い仇を前に川原さんは途中で感情的になってしまい、裁判官から席をはずすように言われた。言いたいことの半分も言えなかった。その後、清野正彦裁判官の「このまま判決を出すよりも和解を」という勧めで裁判は和解協議に入った。裁判所が示した和解案は一時金一千万円と、和未子ちゃんの月命日に毎月七万五千円を四十年間支払うように促すものだった。川原さんらが要求したものとは違ったが、とにかく和未子ちゃんの霊前と遺体を置き去りにした山で心から謝ってほしいという想いがあったので受け入れた。しかし、「完済できる金額ではない」と被告は示談案を拒否した。川原さんは判決で自分たちの責任が問われることはないと確信したのではないかと考えている。「悔しゅうして、悔しゅうしてたまらんかったです」、「筆舌に尽くしがたい想いですたいね、私からしたら」。

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裁判官が齋藤充洋裁判官に代わり、二〇〇五年十二月十五日に判決が出た。判決はたったの二、三分、「あとは弁護士に聞いて下さい」というものだった。齋藤裁判官は両親の責任を認めず、吉岡受刑者のみに総額約七千万円の賠償を命じた。両親の監督責任については「犯行を予見することは困難であり、監督行為をする注意義務があったというのは、成人した同居の子に対する監督義務としては重すぎる」として認めなかった。吉岡受刑者の過去のわいせつ事案や性癖、賠償能力のなさなどの特殊な事情は酌んでもらえず、「教科書どおり」の判決だった。自分たちの気持ちを理解してもっと深い、想いのある判決を出してほしかった。この裁判官は自分たちの陳述書を読んでくれたのだろうかと疑問に思った。判決を出した齋藤裁判官については「はっきり言って怨んどります」という。福岡高裁に控訴することも考えたが、経済的な問題などであきらめた。河井弁護士からも控訴はしない方がいいと言われた。それでもこれだけのことをすれば加害者の両親も何らかの「誠意」は示してくれるだろうと思っていたが、示談がはっきり決まるまで支払われていた月五万の支払いは途絶え、謝罪の手紙の一つもない。裁判で決まったことだからという解釈なのだろう。判決が加害者の両親の「不作為」にお墨付きを与えたようなものだった。二年の歳月と労力、訴訟費用を費やし、毎回傍聴した民事裁判でも川原さんは何も得られなかった。

現在福岡市であれば不況に地盤低下した佐世保市より仕事があるのではないかと思い、川原さんは福岡市のハローワークにも行った。そこである会社に採用になり、二〇〇七年十二月に単身で福岡に移った。工務店の仕事で、そこの現場監督として雇われた。会社の社長が所有するアパートを安く借りることもできた。しかし、事情を知らない会社から「暗い」という理由で二ヵ月後に解雇された。なぜ自分を解雇して、何も知らないような若者を雇うのか。川原さんは夢も希望も失くしてしまった。国民健康保険や川原さんの会社の負債処理のために芳香さんとは戸籍上「離婚」し、和未子ちゃんの妹は

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芳香さんが引き取ったという形になっている。離婚したことで芳香さんたちは国民健康保険証をもらうことができ、川原さんの破産に巻き込まれることもない。悪く言えば「偽装」のようなものだが、それしか家族を守る方法がなかった。河井弁護士からは前から破産するように言われていたが、破産すると周囲に迷惑がかかるので六年間銀行と話し合い、所有していた重機などを売ってなんとかつないでいた。しかし、それも解雇されたことによって切れていまい、破産を決意した。河井弁護士に福岡の弁護士を紹介してもらい、二〇〇八年に破産の手続きをとった。佐世保で国民健康保険税が納められず、滞納した状態だった為、まとめて払うようにという通知が佐世保市役所から来た。誰も頼る人もおらず、一度訪れたことのあった博多駅近くの福岡被害者支援センターに相談に行った。そこで職員のソーシャルワーカーが川原さんの表情を見て、あるチェックシートをするようにお願いしてきた。結果は帰らせられないほどひどく悪かったが、今日は無理だろうからということで、医師に連絡を取り、翌日ソーシャルワーカーと一緒に久留米大学病院に行くこととなった。翌日に久留米大学病院に行くとPTSDの専門家である前田正治医師ら四、五人に診察され、川原さんは考えていることを医師らに言い当てられた。「そがん心配せんでよかけん、何しろ入院」ということで即入院となった。芳香さんに連絡すると、次の日には駆けつけて色々と身支度をしてくれた。三ヶ月の入院生活が始まった。精神科ということもあり、患者同士が自分の身の上話をしていて退屈することはなかった。そんな話を聞きながら、なぜそんなことで悩まないといけないのか、「その人にとっては大きかことでしょうけど、この人たちは幸せね」と思ったという。自分の話は適当にはぐらかして話さなかった。そのため「川原さんは、どがんもなかごとしとるとになんでここにおると」とよく言われた。また病院では三食しっかり出てくるので、入院してから六キロ太った。「入院するまであと二、三ヶ月あったら、言い方悪かですけどホームレスになっとるか、この世におらんかどっちかやった。前田先生に助けてもらったです」と振り返る。

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生活保護の手続きも前田医師が仕切って、福岡被害者支援センターのソーシャルワーカーが行ってくれた。川原さんは二回ほど面接を受けただけだった。「今は生活保護で食うとる状態ですよ。恥ずかしかですけど」と川原さんは話すが、まだ仕事をしてはいけないと言われている状態の川原さんが受けて当然の社会保障である。また、退院後も被害者支援センターに川原さんの担当のソーシャルワーカーがいてくれて、相談にのってくれるという。入院してから生活保護の申請をするまでの二週間は佐世保に川原さんの住民票があった。ソーシャルワーカーが国民健康保険証を発行してもらおうと連絡を取った。しかし、一部の未納期間があるということで、佐世保市は諫早の川原さんの物件を差し押さえ、さらに払えない理由を再三説明したにも関わらず、国民健康保険証は発行してくれなかった。二週間分の治療費は川原さんの全額負担になった。

現在は前田医師から薬を薦められて飲んでいる。以前、佐世保で倒れた際に搬送された病院でうつ病の薬を薦められても飲まなかったが、今度ばかりは医師に従って飲んでいる。薬の効果なのか夜、眠れるようになったが、二時か三時には目が覚める。事件以降、熟睡できたことはない。今まで炊事をしたことのない川原さんにとって一人暮らしのなかで食べることが一番大変だという。今はできるだけ自分で料理を作っている。朝はトーストと牛乳、昼は食べないようにし、夜はきちんと食べるようにしている。夜ご飯は数日持つようなカレーやシチューを作り、ご飯は二日に一度炊くようにして、白ご飯だけは多めに食べている。最近はだいぶん手際がよくなり、豚汁の作り方も覚えた。最初のころはコンビニ弁当をずっと食べていたが、飽きてしまったうえにお金が続かなかった。退院後、久しぶりにお酒を飲んだら調子が悪くなったので、それ以降はお酒はやめた。しかし、お酒をやめると夜が長く、和未子ちゃんのことばかりを考えてしまって眠れない夜がある。“困っている人に優しくしなさい“と言うのではなく、“人を信用するな“と教えるべきだったのか。実家に移らなければ事件に遭うこともなかったのではないか。あの日迎えに行っていれば。後悔の念ばかりが押し寄せる。歳月が流れても辛

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さは増すばかりで、今でも和未子ちゃんの写真は辛くて見ることができない。また、前田医師からできるだけ打ち込めるものをみつけるように言われたが、まだ抜け殻のような状態でなにかに打ち込むことができない。それでもできるだけ外出はするようにしている。天神や博多に行って、散歩したりしている。今まで深くかぶっていた帽子も最近はしていないという。

命日と誕生日は本当に苦しくて苦しくて地獄のようだという。「いつまでこがん思いばせんといかんとかなって、苦しゅうして、悔しゅうしてたまらんとですよ」。命日には毎年、諫早のお寺で供養をしている。お寺は事件現場からだいぶん離れているが、川原さんにとっては諫早に行くこと自体も苦痛である。「生まれ育って、野山で遊んで、本当に思い出の深か、きれいなふるさとやっとですけどね。きれいに変わってしまったですね、考えというか。二度と行きたくなかですね。二度と景色を見たくなかですね。諫早の人と二度と話したくなかです。それくらい気持ちが離れてしまったですね。本当は盆、正月帰ってみんなでわいわいするとが当たり前ばってんか。自分にはそういうところは全くなくなったですね。正月も帰ることもなかし、お盆にも墓参りに行くわけでもなかし。ふるさとはなくなってしまいました」という。命日の供養には川原さんと芳香さん、妹、芳香さんの両親、それと担任の先生が毎年来てくれるが、川原さんの親や兄妹は全く来ない。母は今は入院しており、兄や妹はずっと諫早にいることは知っているが今でも全く連絡を取っていない。事件当時は幼稚園児だった妹は昨年の春、中学校に入学した。中学校の入学式には川原さんも出席したが、それ以降は佐世保に帰っていない。今は家族とは電話で話すだけである。最近は川原さんの気分が沈んでいたので和未子ちゃんの妹とはしばらく電話していない。前に一度「お父さん、佐世保でお仕事はされんと」と言われた。初めてだった。「ごめんな。寂しか思いさせてごめんな」と川原さんが言うと、「いや、寂しくなかよ」と答えた。「もうちょっと我慢したら、今は離れとるけど佐世保に来てまた一緒に暮らされるけん」と言うことしかできなかった。

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芳香さんは愚痴も言わず、家事をこなし、昼にはパートして、夜には飲食店で働いている。「病気やけん、早く治さんといけん。絶対、無理はせんで。何も心配せんでよかけん」と言ってくれて感謝しているが、仕事ができずに芳香さんたちを養えていないことに川原さんは罪悪感がある。「やっぱり子供と嫁さんば養うっていうのは男の使命というか当たり前のことですよね。そればしいきらんっていうのが一番辛かですね」。芳香さんとも下の妹とも和未子ちゃんのことについては話さない。早く家族でまた以前のように暮らしたいと思っているが、その前にどうしても加害者の両親に謝罪をさせて区切りをつけなくてはならないと考えている。なぜ誰も謝罪に来ないのだろうか。大事に大事に、宝物のように育ててきた愛娘をこんな形で奪われて、加害者側からは十分な謝罪もない。悔しくて悔しくて仕方ないという。このままでは和未子ちゃんの「生きた証」がなく、会わせる顔がない。加害者の両親に自分の子どもがどれだけのことをしたのかわかってもらい、誠意のある謝罪をしてもらえないと前には進めないし、区切りもつけられないという。川原さんは、区切りがついたら被害者の会に入って、他の被害者と交流し、色々と活動するような気持ちに早くなりたいと考えている。

第三章 犯罪被害者支援の在りかたについての考察

まず川原さんへの取材のなかで感じたことについて以下の四点述べたい。

第一に、犯罪が遺族にあたえる被害の大きさである。取材のなかで何度も「和未子を亡くしただけじゃなかとですよ。すべてば失ったとです」と川原さんはおっしゃった。実際に川原さんは事件後、平穏な生活も、経営していた工務店も、家族も、友人も、ふるさともすべてを失った。人生が文字通り一変したのである。

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芳香さんや妹についても同じで諫早での生活や友人等も奪われ,現在でも家族三人での平穏な暮らしは実現していない。犯人は和未子ちゃんの尊い命のみならずあらゆるものを川原さん一家から奪った。

第二に、司法関係者の対応の問題である。裁判の勝敗を重視し、「負けるから」という理由で弁護を引き受けない弁護士の対応は川原さんを深く傷つけた。被害者の気持ちをきちんと理解し,裁判を共に闘ってくれる弁護士が求められている。また一九九九年に被害者等通知制度が設立されていたにもかかわらず,川原さんにきちんと証人尋問や裁判の流れについて説明しなかった検察官の対応も問題である。さらに納得出来ない求刑,被害者に配慮しない判決の言い渡しなどの判例主義の裁判を通して川原さんが受けた二次被害は深刻なもので,司法関係者への不信感は大きい。

第三に、犯罪報道のあり方である。川原さんが警察のアドバイスによって当初は報道関係者を避けていたこともあり、この事件では遺族である川原さんの継続取材はNCCの志久弘樹キャスター以外は行っていない。事件が地域に与えた衝撃の大きさから考えても、各報道機関は川原さんが事件後どのような状況に置かれたのか継続して取材していくべきであった。特に川原さんが報道関係者と接するきっかけをつくった長崎新聞には、最も多くの県民が目を通す地元の新聞社として継続取材を行う責任があると思われる。また、朝日新聞のような「誤報」は被害者を深く傷つける。情報が少なくとも、各方向にきちんとした裏づけ取材を行い、真実を報道すべきである。

第四に、犯罪被害者支援の不十分さである。犯罪被害に遭いながら、川原さんは十分な精神的なケアも経済的支援も受けていない。

ところで、犯罪被害者・遺族は、次のような二次被害を受けることが指摘されている。

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●事件後、被害者がさらに傷つくこと(注5) 司法制度の不備・公正でかつ個人の尊厳に配慮した処遇を受ける権利等がない・被害を受けた事件に関する刑事手続きや保護手続きに関する情報を受ける権利等がない・迅速に被害回復を受ける権利等がない・支援を受ける権利や意見を述べる権利等がない司法関係者の言動・検事:被害者の心情や置かれている状況の認識不足・弁護士:弁護手段として、被害者を傷つけて加害者を弁護する・裁判官:人として感情表出がない・司法関係職場の職員:対応反応捜査関係者の対応・事件の連絡方法・被害者への接し方・事情聴取不適切なカウンセリング・PTSD(心的外傷後ストレス障害)への理解不足・価値観の押し付けや感情の受け止め方が不十分・相談や面接時間が不十分家族の不和・虐待・極限状態の中、互いに支えあえない

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・自責の念や苦しみで感情コントロール不可能・家族間でも立ち直りが異なる・残された子の養育放棄や心理的虐待メディアの姿勢・事実と異なる内容・プライバシーを侵害する内容等・強引な取材・商品価値的判断友人・知人の行動・頑張れ、早く忘れなさい、泣かないで等の間違った声かけや態度近隣の人の中傷・哀れみの視線やいわれなき偏見・興味本位の話しかけ・無責任な噂の流布職場関係と人間関係・被害者心情の理解不足・仕事上での配慮不足

川原さん一家は、右に挙げた二次被害の多くから、逃れることはできなかった。

本稿を閉じるに当たり、私が「諫早女児殺害事件」の遺族・川原さんからインタビュー取材し、いくらかの書物を読み、犯罪被害者および遺族の支援等についての提案を四点述べたい。

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