徳富蘇峰宛て「外国人名士書翰」 : 書翰にみる徳 富蘇峰の欧米漫遊 : 同志社社史資料センター所蔵
著者 齋藤 洋子
雑誌名 同志社談叢
号 31
ページ 149‑171
発行年 2011‑03‑01
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013060
[資料紹介]
同志社社史資料センター所蔵 徳富蘇峰宛て「外国人名士書翰」
─ 書翰にみる徳富蘇峰の欧米漫遊 ─
齋 藤 洋 子 はじめに
1896(明治29)年 5 月19日、徳富蘇峰は深井英五1を伴い横浜港を出帆、
欧米漫遊の途についた。数日前から知人、社員、そして家族や親戚らによ る壮行会が続いた上、横浜で社員、家族の見送りを受けた蘇峰は、旅に思 いを馳せながらも一抹の寂しさを感じていた。翌20日、悪天候のため、未 だ横浜港に碇泊中の船室から発した第一信には、見送りの人々が万歳を唱 えつつ甲板を降りた際は、「何となく淋しき心地」がしたとして、
雲海茫々寄此身。五洲風月眼中新。問君何意催暗涙。為有高堂白髪親。
と詠っている。しかしその一方で、
此行何の恃む所なし。但だ交友涙あり、知己情あり。江湖の君子は、
我等が今回の思ひ立ちを是認し、身辺の朋友は、我等が今回の思ひ立 ちを翼成し、而して慇懃なる友情に擁せられて行くの一事を黙想すれ ば、祝福は必らず吾人の上にあらん。否な此の一事既に祝福ぞかし と、胸をよぎる不安をかき消すかのように綴る蘇峰の言葉は、これから一 年以上にわたる旅への悲壮な決意とも見ることが出来る2。
そもそも蘇峰は、日本が世界から隔離しているように感じ、それを解決 するためには「世界をして日本を知らしむると同時に、併せて日本が世界
を知る」ことが必要であると考え、1896(明治29)年 2 月に英文雑誌『極 東』“TheFarEast” の刊行を開始した。しかしそれだけでは不十分であ るとして、自ら外国に赴き世界の現況を見聞しようと決意し、同年 4 月14 日の国民新聞紙上に「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」を発表した3。こ の中で蘇峰は、日清戦争により世界における日本の位置は一変したのであ り、世界に日本が知られると同時に日本も世界を知る必要がある、そして このように国勢が一転した以上、国勢を利導する新聞記者が視野を広げな ければならないのは当然のことだとした。また、蘇峰をして「これを聞き ほとんど別人になった4」と言わしめた三国干渉については、「而して我が 朝野に於ける世界時務的知識の欠乏は、果して苦がき経験を与へたりき」
と、国際的知識の欠乏をその一要因として挙げ、
されば我が大日本国民の正當なる志望と意気とを世界に知らしめ我が 大日本国が文明世界の列国中に介立して、其の一座を占むるに於て、
正当なる要求ある事。又た極東の平和を維持するに於ては、是非大日 本国の主力を要する事等に就て、世界の公論に訴へ度事も尠からず5 と、自ら世界に赴き世界を観察し、自身の主張を世界の公論に訴えたいと している。紙上には、極東の平和維持のため何を世界に訴えたいのか、そ の具体的な内容は語られていない。しかし後年蘇峰は、欧米漫遊の目的は
「一つは日英同盟、若しくは反ロシア同盟締結の運動であり、も一つは大 隈の対外宣伝であった」と語っている6。
さて、 5 月20日に日本郵船のアガパンサス号に乗船した蘇峰らは、翌21 日横浜を出港、神戸、門司に寄港した後、香港、シンガポール、ペナン
(マレーシア)、コロンボ(スリランカ)、スエズ、ポートサイド(エジプ ト)、マルセーユ(フランス)を経て、 8 月11日にロンドンに到着した。
貨物船であり速度が遅い上に7、寄港地で積荷の揚げ降ろしに時間を要した ため、イギリス到着までに約 2 ヶ月間を要している。しかしアジア各地へ の寄港は、蘇峰にとって極東における列強の支配を観察する良い機会とな
った8。ロンドンで約20日間を過ごした後、オランダ経由でベルリンに入り 知己である駐独日本公使青木周蔵に面会し様々な便宜を受ける。そしてポ ーランド経由でロシアに入った蘇峰らは、ヤスヤナポリスに世界の文豪ト ルストイを訪ねている。その後、トルコ、ルーマニア、ハンガリー、オー ストリア、イタリア、スイスを巡り、パリで新年を迎え、1897(明治30)
年 2 月 1 日にイギリスへ戻った。イギリスでは、精力的に各所を訪れるが、
3 月にイギリス北部を約 2 週間旅行した後、寒気と疲労から腎臓炎を患い 1 ヶ月以上の闘病生活を強いられる。そして、どうにか病状が快復した5 月5日、アメリカに向けロンドンを後にする。アメリカでは、ニューヨー ク、ボストン、シカゴを経て、サンフランシスコより出港、ハワイを経由 して 6 月28日に無事帰国した9。
蘇峰の欧米漫遊をテーマとした先駆的研究としては、杉井六郎氏の『徳 富蘇峰の研究』「第六章 蘇峰の欧米旅行」が挙げられる10。杉井氏は、蘇 峰が大隈重信、自社社員、父一敬に宛てた書翰を中心に、旅行全体にわた る詳細な行動の再現を試み、漫遊の目的が政府の政策に対抗する日英同盟 の下地づくりであったことを指摘した。但し、杉井論文では一部の書翰が 所在不明であったため、漫遊後期の行動についての詳細把握はなされてい ない。しかし近年、漫遊後期の書翰が発見された。これらの書翰を中心と して論じたものに、蘇峰がヨーロッパから日本への帰途に訪問したアメリ カでの言動を考察した、澤田次郎「徳富蘇峰のアメリカ旅行11」、「変節」問 題と欧米漫遊の関係を、漫遊時の蘇峰の言説から考察した拙論、「日清戦 争後の徳富蘇峰─『変節』問題と欧米漫遊─」などがある12。また、澤田次 郎「徳富蘇峰とアメリカ人の交流─書簡を手がかりに─」は13、アメリカで 面会したチャールズ・E・ノートンと蘇峰が帰国後往復した書翰を、阿部 軍治「徳富蘇峰とトルストイの交渉」は14、帰国後蘇峰がトルストイに宛て た書翰を紹介している。なお、蘇峰が欧米漫遊の目的の一つとして挙げた
「大隈の対外宣伝」について考察したものに、拙論「徳富蘇峰と大隈重信
の交流─日清戦争前後を中心として─」がある15。
以上のように蘇峰の欧米漫遊については、主として蘇峰が旅先から「国 民新聞」や「国民之友」へ投稿した記事、社員や家族に宛てた書翰などを 中心に論じられてきた。ジャーナリストであった蘇峰は実に筆忠実であり、
1 年 2 ヶ月の旅行中家族宛に90余通の書翰を送っている。恐らく、各国で 訪問した人々との間でも漫遊中、そして帰国後も書翰を往復していたこと であろう。しかし、蘇峰が漫遊時に交流した人々からの来翰については、
前述の澤田氏や阿部氏の研究を除いてはほとんど紹介されてこなかった。
恐らくその所在が明らかとなっていなかったためであろう。
今回筆者は、同志社社史資料センターの御厚意により、蘇峰自身が「洋 行中外人名士手紙可保存也」と記した封筒(写真1)に包まれた書翰の束 を閲覧する機会を得た(以下本稿では便宜上、「外国人名士書翰」とする)。
総数は82通に及び16、その大半は漫遊中に蘇峰と外国人名士の間で交わされ た書翰であった17。書翰の半数
以上は、面会日時の約束や贈 答品へのお礼を述べた簡潔な 内容であるが、中には便箋数 枚にわたる書翰もある。これ らの書翰を詳細に検証するこ とにより、蘇峰の欧米漫遊の 全体像がまた一歩明らかとな ることは間違いないが、それ については別稿に譲ることと し、本稿では、これら従来未 発表であった、「外国人名士 書翰」の目録を掲げ、その解
題を付すこととする。 (写真1)書翰を包んでいた封筒
<解題>
「外国人名士書翰」には、明らかな外面的特徴が二つある。一つはほぼ 全ての書翰の切手が切り取られていることであり、もう一つは朱書きで差 出人名が記されていることである。各封筒に朱書きされた差出人名は蘇峰 の文字である。前述したように、蘇峰は自ら「洋行中外人名士手紙可保存 也」と封筒に記しているから、一度全ての書翰を整理し、差出人名を記し ておいたのであろう。だとすれば、切手を切り取ったのも蘇峰であった可 能性が高いと言えよう。
蘇峰は洋行前に体調を崩していたため18、療養を兼ねた漫遊と称していた が19、のんびりと過ごしたのは船中のみであった。各訪問地では、名所旧跡 観光、新聞社訪問、駐在日本人との面会、そして著名人訪問等忙しい日々 を送っている20。往路寄港した各地や、復路訪問したアメリカでも多くの人 物に面会したであろうが、今回紹介する「外国人名士書翰」は、二通を除 いてはヨーロッパで交流した人物の書翰である。そして半数以上は、ロン ドンそしてヨーロッパ各地に駐在するタイムズ(TheTimes)社の記者か らのものであり、その他は文化人、政治家などの書翰である。以下、それ ぞれ項目を分け簡単な概要を付したが、文中の括弧で示した数字は、別掲
「徳富蘇峰宛て外国人名士書翰」目録中の、No 欄の数字である。適宜参 照されたい。
一.紹介状
先に「二通を除いて」と記したが、その二通とは、出発前に蘇峰の依頼 により作成された紹介状である。一通はロイド(Lloyd,Arthur)が FortnightlyReview 編集長コートニー(Courtney,WilliamLeonard)へ
宛てた紹介状である(21)。ロイドは、イギリス人聖職者で、立教学院、
東京大学、慶應義塾大学などで英語・英文学を教授する傍ら、日本文学を 翻訳し海外に伝えた。蘇峰が刊行し深井が編集長を務めていた TheFar East にもしばしば寄稿している21。こうした関係から蘇峰らに依頼を受け 認ためたのであろう。ロイドは蘇峰を、最も有名な著述家の一人であり、
日本の知的進歩のために雑誌や書籍を出版していると紹介している。
も う 一 通 は、 駐 日 英 国 公 使 ア ー ネ ス ト・ サ ト ウ(Satow,Ernest Mason)の紹介状である。蘇峰らは、 5 月 7 日に大隈の紹介状を持ってサ トウを訪ねた。サトウは求めに応じ旧知であるディキンズ(Dickins, FredericVictor)と、タイムズ社のキャッパー(Capper,JohnBrainerd)
宛ての紹介状を書いている22。そのうちディキンズに宛てたものが「外国人 名士書翰」に残っている(24)。冒頭に、旧友である大隈の依頼を受け紹 介状を書いていることをわざわざ記しているから、蘇峰とはそれまでほと んど付き合いがなかったのであろう。サトウは蘇峰を、日英関係のサポー ターであると記しているが、これも恐らく、大隈の紹介状にそのように記 されているのではないだろうか。そして、可能であれば著名人を彼等に紹 介してあげて欲しいと記している。
上記二通の紹介状が「外国人名士書翰」に残存しているということは、
恐らく蘇峰らはコートニーとディキンズに面会する機会がなかったと推測 される。
二.新聞記者との交流
(1)キャッパーとの交流
蘇峰は漫遊中努めて新聞社を訪ね、新聞記者と交流した。中でもタイム ズ社のキャッパーとは意気投合したようで、「外国人名士書翰」中にも、
8 通の書翰が残っている。さらに、キャッパー夫人(Capper,EmillyS.)
書翰 6 通と彼等の娘(Capper,A.MargeryKent;Capper,Drothy)の書 翰 2 通があり、キャッパー夫妻との親密な交流を窺わせる。
キャッパーから最初に書翰が届いたのは 8 月18日である(8─1)。冒頭 に、サトウが自分を紹介してくれたことによって、あなたがたとお会いで きるのはとてもうれしいと記しているから、蘇峰は 8 月11日にロンドン到 着後ほどなく、キャッパー宛てにサトウの紹介状を添えて面会を申し込ん だのであろう。蘇峰らのロンドン着は 8 月中旬で、夏季長期休暇中の人々 も多かった。キャッパーもまた、生憎自分の家族が休暇で地方に行ってい るため家に招待することができないので、木曜日( 8 月20日)16:30に TheSainteClub を訪ねて欲しいと告げた。そして21日には、タイムズ社 への入場許可書を送付した(8─2)。その後蘇峰らはキャッパーに贈り物 を郵送したようで、23日にはお礼を述べた書翰が届いている(8─3)。
(写真2)1897年3月6日付、Capper, JohnBrainerd 書翰(「外国人名士書翰」
目録№8 - 7)
8 月末蘇峰らは、ヨーロッパ諸国訪問のためロンドンを離れたが、旅先 からもしばしばキャッパーに書翰を送った。キャッパーは返信に、旅の土 産話を楽しみに待っていると綴っている(8─4)。そして 2 月に蘇峰らが ロンドンに戻ると、無事の帰国を喜び夕食に招待している(8─6)。その 後もたびたび食事に招いたり(7─4,7─6)、友人を通じて RoyalMint
(王立鋳貨局)入場券を手配するなど様々な便宜を図っている(6,7─3)。
蘇峰らは、 3 月下旬イギリス北部を 2 週間旅行したが、あまりの寒さと 疲労の蓄積から、ロンドンに戻った翌日から床に臥した。一時期は、日本 から家族を呼び寄せたほうが良いと医者が勧めるほどの重病であった。ど うにか病が癒えアメリカに向けイギリスを出港したのは 5 月 5 日であった が、 4 月19日にキャッパー夫妻は書翰を寄せ、出発前にもう一度面会し蘇 峰の体調回復を確認したかったが、仕事の都合でかなわなくなったことを 詫びた。そして惜別の情を述べ、旅の無事とイギリスでの再会を祈ると綴 っている(7─5)。
蘇峰は後年、
キャッパー氏は当時『タイムス』に於て、サブエデター(Sub-Editor)
即ち副編輯長の役を勤めてゐたが、今日の日本の新聞の組織から云へ ば、先づ編輯局長と整理部長との混血児位の処であらう。キャッパー 氏の仕事は午後の九時頃から始り、午前の三四時頃に終るものにて、
一年の中日光を見て暮すのは、唯だその休暇時間に過ぎなく、その他 は全く夜の勤務であつた。氏は英国流の紳士で、当時その夫人と共に クイン・アンス・マンションと云ふ先づ高等下宿屋とも云ふべき所に 住してゐた。その同宿の中には有名なるサー・ドナルド・マッケンジ ー・ウオレス及び有名なるチロル、又た少壮記者としては他日ヂズレ リー伝の作者として有名なるモンプニー氏─該書は未了の侭氏が死去 したる為、其後は嘗つて『タイムス』主筆であつたバックル氏に依り 完成した─等にも紹介せられた
と語っている23。キャッパーは、サトウに紹介を受けた蘇峰らを歓待し、出 来うる限り助力をしてくれたのである。
ところで、キャッパーと蘇峰らの関係には後日談がある。蘇峰の欧米漫 遊に随行した深井は、その後民友社を退社し、明治33年蘇峰の推薦により 第2次山縣有朋内閣の蔵相であった松方正義の秘書官となる。その後松方 の推挙で日銀に入行し、日露戦争中高橋是清に随行し外債募集に当たった。
深井は、蘇峰と共に欧米を漫遊した際に親交を深めたキャッパーが、イギ リスでの外債募集で大きな役割を果たしたと記している24。漫遊中、「若し 他日彼等ヲ利用セネハナラヌ機会あらは何時ニても出来可申候。私儀ハ国 家ノ為メと存し何レモ懇親ニ相成申候」と25、蘇峰が漫遊時に国家のためと して新聞記者と親交を深めたことが、約10年後に一つの成果を生んだので ある。その後も深井は、大正 7 年パリ講和会議の全権委員に随行した折に 旧交を温め、昭和 8 年、ロンドン国際会議の全権委員の一人として渡英し た際にも、老衰したキャッパーのもとを訪ねている26。
(2)その他の新聞記者との交流
前述したとおり、蘇峰らは 8 月末にロンドンを出て、ヨーロッパ諸国を 歴訪したが、「大概『タイムス』の系統を辿つて歩いた」という27。 ベルリンでは、支局長サンダース(Sanders,George)が不在のため、
そ の 助 手 で あ る ス テ ィ ー ド(Steed,HenryWickham) と ベ ル(Bell, MontagueH.T)に面会した。ウォレス(Wallace,DonaldMackenzie)
書翰に同封された蘇峰書翰を受け取ったスティードは、明日会いたいと書 翰を寄せた(26─1)。そして蘇峰がサンクトペテルスブルグから送った書 翰への返信の中で、自分は今年の12月にローマに移る予定であり、是非再 会してロシア旅行の感想を聞くことを楽しみにしていると報じている(26
─2)。スティードはその後、ローマ支局長、ウィーン支局長を経てタイム ズの主筆となった。深井がパリ講和会議で再会した時、彼はタイムズの外
報部長を務め、「ロイド・ジョージ氏と肝胆相照の社長ノルスクリッフ卿 を背景として巴里に駐在し、単に言論界に於けるのみならず、国際政局裏 面 の 一 有 力 者 と 称 せ ら れ て 居 た28」。 そ し て1923年 に は、Reviewof Reviews の社長兼主筆となった。1929年に蘇峰は、「彼は現在英国に於い て、押しも押されもせぬ記者の一人である」と語っている29。「外国人名士 書翰」所収のスティード書翰の封筒に、蘇峰は「スチード大記者」記して いる。このことは、蘇峰が「外国人名士書翰」を整理したのは、帰国直後 ではなく、スティードの記者としての名声が高まった後であることを示し ている。
また、スティードと共にベルリンで働いていたベルは、タイムズ支配人 モーベル・ベル(Bell,CharlesFresericMobery)の姪で、後に上海発行 の NorthChinaDailyNews の主筆となり、帰国途上日本へ立ち寄り東京 で蘇峰と再会した30。1897年 2 月23日付書翰中でベルは、クレタ島での事件 のために返信が遅れたことを詫びている。当時の緊迫したヨーロッパ事情 が伝わる文面である(2─2)。
ロシア、サンクトペテルスブルグの通信員ドブソン(Dobson,George)
は、 後 に イ ギ リ ス の 外 務 大 臣 と な る カ ー ゾ ン(Curzon,George Nathaniel)と中央アジア旅行をした経歴の持ち主であった。しかし蘇峰 によれば、通信員としての技量は夫人の方が優っているという評判であり、
外務省などでは夫人の方が受けが良かったという31。新年をフランスで迎え ようとしていた蘇峰らの下へ届いたドブソン夫妻からの葉書には、“best wishesfortheNewYearandforAngloJapanesecooperationintheFar East”と記されている(13─2)。蘇峰は面会した人々に極東におけるロシ アの台頭を語り、日本とイギリスが協力する必要性を主張していたのであ ろう。
ウィーン支局長ラビーノとの面会に際し蘇峰は、キャッパーに紹介状を 依頼している(8─5)。ラビーノは欧州政治に精通していたが、自尊心も
人一倍高かった。食事に招待された蘇峰らもラビーノの講釈を長々と拝聴 する羽目になった32。ラビーノの書翰は面会可能時間を告げるもの、旅の無 事を祈るもの、贈答品のお礼を述べたものと文章も短く簡潔である。また、
上段に“TripleAlliance”と題し、独・墺・伊三国同盟の締結年月日と改 訂年が、下段に“Austro-GermanEntente”と題し独墺同盟の締結年月日 と公表年月日が記された紙 1 枚のみが封入されたものがある(20─3)。面 会時に交わした内容と関係があると推定されるが、詳細は不明である。
ローマ支局長であったスティルマン(Stillman,WilliamJames)は、蘇 峰が大陸漫遊中出会った記者の中で最も興味を抱いた人物であった。ステ ィルマンはアメリカ人記者であると同時に画家でもあり、美術評論の分野 でも活躍した。彼の夫人もまた画家である。蘇峰はスティルマンを「今日 の米国人には殆ど種切れとも言ふべきエマースン時代のニューイングラン ド風の米国人にて、実に面白き人であった」と記している33。ローマ着後、
是非面会したいと書翰を送るとスティルマンは自ら蘇峰らの下宿へやって 来て、留守とわかると明日近郊にピクニックに行くので同行したいならば、
明朝自分の家を訪ねて欲しいというメッセージを残した。翌日参加したピ クニックは、一年に一度開催される各国新聞記者の集会で蘇峰らは大歓迎 を受ける。スティルマンの「徳冨氏は日本国ヲ代表せられたれハ、深井氏 ハ日本新聞記者ヲ代表せられよ」との言葉を受け、蘇峰は、
思ひきや、文の林ニたとり来て、言葉の花の咲くを見んとは 東西、空はかわれと道の為め、尽す誠の二やはある
と朗詠し英訳すると、その英訳をスティルマンがイタリア語に訳して披露 し人々の喝采を得た。一方、深井は君が代を吟じた34。後年蘇峰が、「一見 旧の如く」と記したのも肯けよう。その後もスティルマンは、議会、政党 員が集まるカフェなどへも蘇峰らを同伴した。書翰には、蘇峰らと過した 時間を懐かしむように、あなた方がローマを訪ねたことを私はいつも思い 起こすことでしょうと記されている(27─1)。また杉井氏は、ロンドンに
戻った蘇峰らにスティルマンが森祖仙の画に関する問い合わせをしてきた ことを紹介しているが35、「外国人名士書翰」所収の書翰中でも、日本美術 へ深い関心を示している(27─2)。また、スティルマンの娘リサ・スティ ルマン(Stillman,Lisa)は彫刻家で当時ロンドンに在住していたため、蘇 峰は彼女の作業室へも訪問している。リサは、ロンドン在住の両親の知己 を紹介する書翰(28─1)と、贈答品へのお礼を述べる書翰を寄せている
(28─2)。
パリ支局長であったブロウィッツ(Blowitz,HenriStefanOpperde)は、
ベルリン会議の際、条約文をタイムズ紙上に素破抜いた人物であり、世界 中にその名を馳せていた。タイムズの通信網はパリを本部とし、ヨーロッ パにおける主たる通信はパリに集められ、パリからロンドンに送られてい たため、それなりの人物を配していた。
兎に角伯林ではでは国際的仲買の成功者がビスマーク、外交の成功者 がヂズレリーで、新聞の成功者がブロウィッズである事程左様に有名 であつた
というが、蘇峰は面会したブロウィッツの印象を、老齢により往時の元気 はなかった36と記している。蘇峰はブロウィッツと日本に関し色々と話しを したが、その知識は25年前のもので、当今の事情には全く通じていなかっ た。日清戦争終結にむけ講和全権として来日した李鴻章を小山豊太郎が狙 撃した事件についても、「日本ニハ大君党ありて天皇党ノ自由進歩主義ニ 反対スルナラン。李氏ヲ打撃したるも、その仲間の一人ナラン」と問い、
「彼ハ、尊王攘夷ノ昔話ヲ今日ノ事ニ混合致居り候」と蘇峰を嘆息させて いる37。しかし、彼の卓見は決して衰えてはいなかった。1902年、深井は松 方の欧米周遊に随行し、既に80歳近くなっていたブロウィッツとパリで面 会した。ブロウィッツは松方に「あなたは今度の旅行中に、日本の驚くべ き進歩と云ふことを方々で聞かされたらう」と問い、松方が然りと答える と、
それを喜んではいけない、それは真の賛辞ではない、実はまだ日本を 小供扱ひにして居るのだ。ほんとうにえらくなつたものに直面してえ らいとは云はない、誰れが今英国の海軍、独逸の陸軍を驚くべしと云 ひますか、国も人も驚くべしと云はれないやうにならなければ駄目だ、
然しそう云はれて小供扱ひにされて居る内は寧ろ楽だが、ほんとうに えらくなると益々六かしくなりますぞ
と語った。松方はブロウィッツの言葉を「今度の旅行中に聞いた話の内で 最も凱切なるものゝ一だ」と語った。後年深井は当時を思い起こし、「其 後日露戦争、世界戦争、講和会議、ワシントン会議、国際連盟脱退等を経 た今日に於てブロウヰッツの言に大に味ふべきものがあると思ふ」と語っ ている38。
残念ながら「外国人名士書翰」中にブロウィッツの書翰は残っていない が、 彼 の も と で 通 信 員 を し て い た フ ラ ー ト ン(Fullerton,William Morton)の書翰 3 通が残っている。そして 1 通には、新聞の切り抜き 2 点“The Greman Minister to Japan”、“The Extension of Japanese Industries”が同封されている(15─1)。
その他、タイムズ以外の新聞記者では、ReviewandRevies の創刊者で あるステッド(Stead,WilliamThomas)、Daily News の支配人ロビン ソン(Robinson,John)、同社主筆クック(Cook,EdwardTyas)らの書 翰が残っている。
蘇峰は、新聞事業には、経営、作者、記者の三つの分業があるが、その 三者を兼ね備えた人物としてステッドを挙げている39。国民新聞創刊にあた りイギリスのあらゆる新聞を取り寄せて研究した際も、ステッドの Pall MallGazette が最も自分の意を得ていたというから40、どうしても面会した い人物であったことであろう。しかし、「予は英国に於て遂に彼と相見る の機会を失つた」と語っているように41、一度は約束を取り付けるも(25─
2)、ステッドの体調不良により面会は叶わなかった(25─3)。ステッドは
後年タイタニック号沈没事件で歿している。
三.知識人との交流
欧米漫遊の目的が「一つは日英同盟、若しくは反ロシア同盟締結の運 動」であった蘇峰にとって、ルーマニア、ハンガリー両国への訪問は有意 義であった。ルーマニアは露土戦争でロシア側に参戦したが、勝利の見返 りはほとんどなく、ロシアに敵愾心を抱いていた。ルーマニアの敵愾心な どロシアにとっては「ごまめの歯ぎしり」に過ぎなかったが、三国干渉で 屈辱を味わった蘇峰は、「一寸の虫にも五分の魂と言ふ通り、何となく快 心の情に堪えなかった42」。たまたまセルビア王の来訪と重なったため、蘇 峰らもシナイヤにある離宮での晩餐会に招待され、ルーマニア国王カール にも謁見した。その他、総理大臣スツルザや、ルーマニアの名門であるギ カ(Ghica,Domitrie)とも面会した43。その後もギカは、国際情勢を綴った 長文の書翰を寄せている(16─1~4)。
ハンガリーではロシア嫌いで有名なウァンベリー(Vámbéry,Armin)
と対談した。彼は嘗て回教徒の巡礼者に扮して、中央アジアを遊歴し、露 国計略の陰謀を探索し、これをロンドンで発表した44。ウァンベリーが、ロ シアの台頭を警戒する蘇峰の意見に共鳴したことは想像に難くない。アン グロサクソンは西洋文明を日本に最初に伝えたので、日本人が英国に親愛 の情を抱くように、英国人も日本の進歩を誇りとしているであろうから、
英国をじっくり観察すべきであると助言している(33─3)。また、近く蘇 峰らについて短い論評を書くつもりであり、後日日本へ直接送付するとも 記しているが、その後の経過は不明である。
ヨーロッパ諸国訪問から戻った蘇峰は、休む間もなくロンドン各所を見 物し、ブライス(Bryce,James)や、ディロン(Dillon,John)など、著 名人と面会した。
1888年に刊行されたブライスの“TheAmericancommonwealth”は、
現在でもアメリカ研究の古典としてよく知られている。民友社社員人見一 太郎はすぐにこれを翻訳し、刊行から 2 年足らずで『平民政治』と題して 出版した45。ブライスは、日本文化に興味があったのか蘇峰が贈った掛け軸 をとても気に入り、重ねてお礼を述べている(3─2)。当時ブライスは自 由党の下院議員であったが、その後アメリカ大使に就任した。
3 月 4 日は、自由党首領ハーコート(Harcourt,WilliamVernon)の演 説会に出席したが、その切符の手配などをしてくれたのはハドソン
(Hudson,RobertA)である(18─1)。そして 7 日には、アイルランド 党(IrishNationalFederation)の首領であるディロンと面会している(12
─146)。その後ディロンは、 3 月29日月曜日に興味深い“IrishDebate”が 行われるので、聴きに来てはどうかと報じたが(12─2)、 3 月22日から1 ヶ月以上床に臥していた蘇峰が、この招待に応じることが出来なかったこ とは明白である。なお、エリザベス(Dillon,Elizabeth)は、ディロン夫 人である(11─1、11─2)。
3 月 9 日から21日にかけて蘇峰らは、「英国富強の根本を探らんカ為め47」 にイギリス北部の都市を訪ねた。その際交流した人物で「外国人名士書 翰」名前が見えるのはアンソン(Anson,WilliamReynell)、ホーランド
(Holland,ThomasErskine)、マダン(Madan,Falconer)である。
9 日、蘇峰らは汽車でオックスフォードに向かった。そして到着後、ホ ーランドとアンソンを訪ねた。ホーランドは、高陞号事件に対して日本を 非難するイギリスの世論が覚めやらない中で、国際法学者の立場から日本 に違法性がないと発表した48。当時の外相陸奥宗光は、ホーランドの解釈を、
「さすがは国際法学者の巨擘なり」と称している49。ホーランドは蘇峰らを 歓待し、10日には邸宅に招き午餐を供した50。そして書翰では、「金子堅太 郎が紹介してくれたおかげであなた方にお会いできてとてもうれしかっ た」と記している(1751)。
ア ン ソ ン も 法 律 学 者 で、1879年 の 彼 の 著 作“ThePrinciplesofthe EnglishLawofContract”は、日本でも『安遜氏契約法』と題して邦訳 が出版されていた52。 9 日蘇峰らが訪ねた際、アンソンは留守であったが、
同日書翰を寄せ、翌日の昼食に誘っている(1)。しかし前述したように、
蘇峰らはホーランドの招きに応じているので、アンソンと面会する時間が あったか否かは不明である。
マダンは、当時、オックスフォード大学のボドレアン図書館(Bodleian Library)で古文書目録作成に従事していた。蘇峰はボドレアン図書館に 国民之友、国民新聞をはじめ自社の出版物を中心とした書籍の寄贈を申し 出た53。これに感謝したマダンは、もし 5 月までイギリスに滞在しているな ら、是非ともボートレースを見に来るようにと書き送っている(22)。
その他、「外国人名士書翰」所収で著名な人物としては、イギリスの外 交官で当時トルコに駐在していたエリオット(Eliot,CharlesNorton Edgecumbe)や54、第13代南オーストリア総督を務めたバックストン
(Buxton,ThomasFowell)などが挙げられる。
以上、書翰内容を詳細に紹介することは出来なったが、全体の概要を述 べた。
同志社社史資料センター所蔵徳富蘇峰宛て「外国人名士書翰」目録
No 年月日 差出人 蘇峰の書き込み 備 考
1 1897.3.9 Anson,WilliamReynell アンソン 2-1 1897.2.17 Bell,MontagueH.T. ベル 2-2 1897.2.23 Bell,MontagueH.T. ベル 3-1 1897.2.18 Bryce,James ブライス 3-2 1897.2.25 Bryce,James ブライス卿
4 1897.2.9 Buttler,Ellen バットラー 5-1 1896.8.18 Buxton,ThomasFowell バックストン 5-2 1896.8.24 Buxton,ThomasFowell 名士 5-3 1897.3.3 Buxton,ThomasFowell バックストン 5-4 1897.3.6 Buxton,ThomasFowell バックストン
6 1897.3.2 Capper,A.Margrey
Kent キャッパー Mrs.Capper(Capper,Emilly
S.)宛、EdwardRigg 書翰同封。
7-1 1897.2.5 Capper,EmillyS. キャッパー
7-2 1897.2.21 Capper,EmillyS. キャッパー Capper,Drothy 書翰同封。
7-3 (1897).2.22 Capper,EmillyS. キャッパー 2月25日11:30の RoyalMint
(王立鋳貨局)入場券同封 7-4 1897.3.19 Capper,EmillyS. キャッパー
7-5 (1897).4.19 Capper,EmillyS. キャッパー Capper,JohnBrainerd 書 翰 同封。
7-6 Capper,EmillyS. キャッパー “at home Friday March 12thfrometill7.”と記され た M r s . J o h n B r a i n e r d Capper の名刺のみ封入。
8-1 1896.8.18 Capper,JohnBrainerd キャッパー 8-2 1896.8.21 Capper,JohnBrainerd キャッパー 8-3 1896.8.23 Capper,JohnBrainerd キャッパー 8-4 1896.9.4 Capper,JohnBrainerd キヤッパー 8-5 1896.10.6 Capper,JohnBrainerd キャッパー 8-6 1897.2.4 Capper,JohnBrainerd キャッパー 8-7 1897.3.6 Capper,JohnBrainerd キャッパー 9-1 1896.8.18 Chomondeley,C.?F. チャモネー 9-2 (1897).2.17 Chomondeley,C.?F. チャモネー 9-3 (1897).3.3 Chomondeley,C.?F. チャモネー
10 1897.2.26 Cook,EdwardTyas クック
No 年月日 差出人 蘇峰の書き込み 備 考 11-1 1897.3.9 Dillon,Elizabeth ヂロン
11-2 (消)1897.3.25 Dillon,Elizabeth ヂロン嬢 12-1 (1897).3.5 Dillon,John ヂロン 12-2 1897.3.22 Dillon,John ヂロン 13-1 1896.9.23 Dobson,George ドブソン
13-2 1896.12 Dobson,George Dobson 絵葉書を封入 13-3 1897.3.30 Dobson,George ドフソン
14-1 1896.10.24 Eliot,CharlesNorton Edgecumbe
エリオット 14-2 1896.10.27 Eliot,CharlesNorton
Edgecumbe
名士 15-1 1897.1.13 Fullerton,William
Morton
フルラルトン 新聞記事の切抜き(2点)同
封 15-2 Fullerton,William
Morton
フルラルトン 日付無、但し Monday の記載 有。
15-3 Fullerton,William Morton
フルラルトン 日 付 無、 但 し Tuesday の 記 載有。
16-1 1896.11.17 Ghica,Domitrie Ghica
16-2 1896.12.5 Ghica,Domitrie ギカ 16-3 1896.12.29 Ghica,Domitrie ギカ
16-4 1897.2.13 Ghica,Domitrie ギカ 17 1897.3.10 Holland,Thomas
Erskine
ホルラント
18-1 1897.2.25 Hudson,RobertA. ボトソン 18-2 1897.3.4 Hudson,RobertA. ボトソン
19-1 1897.2.22 Hunter,Arthur ハンター 便箋に ReformClub の刻印有。
19-2 1897.3.10 Hunter,Arthur ハンター 20-1 1896.11.6 Lavino,William ウライノ
20-2 Lavino,William Lavino
20-3 Lavino,William ラウイノ
20-4 Lavino,William 名士
20-5 1897.2.12 Lavino,William ラウイノ
21 1896.5.2 Lloyd,Arthur ロイド WilliamLeonardCourtney 宛。
22 1897.3.24 Madan,Falconer マタン
23 1897.3.10 Robinson,John 英国新聞記者
No 年月日 差出人 蘇峰の書き込み 備 考
24 1896.5.7 Satow,ErnestMason サトウ大使 FrederickVictorDickins 宛。
25-1 1897.2.19 Stead,WilliamThomas ステット 25-2 1897.2.27 Stead,WilliamThomas ステット 25-3 1897.3.1 Stead,WilliamThomas ステット 26-1 1896.9.8 Steed,HenryWickham スチード
26-2 1896.10.19 Steed,HenryWickham スチード大記者 封筒なし 27-1 1897.2.11 Stillman,WilliamJames スチルマン
27-2 1897.2.23 Stillman,WilliamJames スチルマン 28-1 (1897).3.6 Stillman,Lisa スチルマン 28-2 1897.3.12 Stillman,Lisa スチルマン 29 1897.2.12 Suefs?,Edw スウイス 30 1896.12.8 Taylor,Maria テーラ 31 1896.12.26 Thurler,Edward.G. フルラルツ 32 1897.1.22 Valfray,J. ワルフレー 33-1 1896.10.30 Vámbéry,Armin ウァンベレー 33-2 1896.12.23 Vámbéry,Armin ウァンベレー 33-3 1897.2.14 Vámbéry,Armin ウァンベレー
34 Westcott,CharlesK. 名刺(CharlesK.Westcott)
のみ。但し、裏にメッセージ 有。
35-1 1897.1.13 判読不能 パリノ記者
35-1 1897.1.20 判読不能 パリノ記者
36 1897.3.3 判読不能 土耳古中将
37 1897.1.24 判読不能 記者
*タイムズ記者の氏名については、Morison,Stanley,The History of The Times, vol.
III The Twentieth Century Test 1884-1912,London:TheTimes,1947を参照した。
注
1 深井英五(1871-1945)は、明治24年同志社普通学校卒業後、国民新聞に入社し、
明治29年創刊の英文雑誌『極東(TheFarEast)』の編集長を務めた。明治33年 には民友社を退社し、蘇峰の紹介により松方正義蔵相の秘書官となった。翌34年 に日本銀行に入行、昭和10年には日本銀行総裁を務めた。13年、枢密顧問官に就 任している。深井の経歴については、深井英五『回顧七十年』(岩波書店、1941 年11月)、深井英五「当年の珍客者」和田守・有山輝雄編『民友社思想文学叢書
第1巻 徳富蘇峰、民友社関係資料集』(三一書房、1986年12月)397-398頁、徳 富猪一郎『蘇峰自伝(復刻版)』(同志社社史料室、平成7年)を参照した。
2 蘇峰生「雲海茫々記」『国民新聞』明治29年5月22日号。
3 蘇峰生「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」『国民新聞』明治29年 4 月14日号。
4 『蘇峰自伝』314頁。
5 蘇峰生「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」『国民新聞』明治29年 4 月14日号。
6 徳富蘇峰 質問渡邊幾次郎、筆記中村尚美「対談 政治家としての大隈重信」
『大隈研究』第一輯(早稻田大學大隈研究室、1951年)85頁。
7 『蘇峰自伝』324頁には、「速力は十哩以下にて、やがて予はこれを鈍牛丸と名 付けたが、鈍牛の名空しからず、凡そ如何なる船にても、予等の船を追越さない ものは無く」と記している。
8 例えば、蘇峰生「香港に關する管見一二 欧米漫遊途上に於て」(『国民之友』
明治29年7月11日号)、深井英五「英国の殖民政畧」(『国民新聞』明治29年9月11 日、12日、13日号)。
9 欧米漫遊の行程については、主として故徳冨敬太郎氏所蔵の漫遊時の日記(明 治29年5月20日から同年10月24日)、蘇峰在欧書翰及び『国民新聞』を参考とした。
10 杉井六郎『徳富蘇峰の研究』(法政大学出版局、1977年)250-384頁。
11 澤田次郎「徳富蘇峰のアメリカ旅行」慶應義塾大学法学研究会編『法学研究』
第77巻第 6 号(慶應大学法学研究会、平成16年 6 月)35-85頁。
12 齋藤洋子「日清戦争後の徳富蘇峰─「変節」問題と欧米漫遊─」『ソシオサイ エンス』第11号(早稲田大学大学院社会科学研究科、2005年)145-160頁。
13 澤田次郎「徳富蘇峰とアメリカ人の交流─書簡を手がかりに─」『尚美学園大 学総合政策研究紀要』第 3 ・ 4 号合併号(尚美学園大学、2002年11月)61-71頁 14 阿部軍治「徳富蘇峰とトルストイの交渉」『言語文化論集』第37集(筑波大学、
1993年3月)47-71頁。
15 齋藤洋子「徳富蘇峰と大隈重信の交流─日清戦争前後を中心として─」『吉備 の歴史と文化』(早稲田大学日本地域文化研究所編、2009年)279-310頁。
16 一通の書翰中に複数の書翰が同封されている場合はそれぞれを一通と換算した。
17 残念ながら現時点では、同志社社史資料センターへの入手経路は不明とのこと であるが、同志社と蘇峰の関係を考慮すれば、徳富家から直接寄贈された可能性 も高いであろう。
18 明治29年4月1日付、徳富猪一郎書翰 大隈重信宛(早稲田大学図書館所蔵『大 隈文書』B2256)には「小生去る二日逗子ニアル老親ニ洋行ノ相談ヲナシ帰来熱 発三週間餘ニ渉り今以て困臥罷在候」と記されている。
19 蘇峯生「欧米周遊に就て江湖の諸友に告く」『国民新聞』明治29年4月14日号
国民新聞社。
20 蘇峰が面会した著名人は多岐に渡っている。コロンボでは、1882年エジプトで 民族主義運動を蜂起し、イギリス軍に捕らえられ同地に幽閉されていたアラビパ シャと面会している。(蘇峯生「錫崙の二日」『国民新聞』明治29年 8 月29日号)
ロシアでトルストイと面会したことはつとに有名である。(蘇峰生「トルストイ 翁を訪ふ」『国民之友』明治29年11月28日号)そして、ハンガリーでは世界的反 露主義者ウァンベリー教授(蘇峯生「露帝巡遊後の大勢」『国民新聞』明治30年 1 月 3 日号)、フランスではクレマンソー(蘇峯生「クレマンソー氏との談話」
『国民新聞』明治30年 2 月26日号)、イギリスではジェームスブライス等、そし てアメリカではノートン教授やウィリアム・ジェームスと面会しているのである
(『蘇峰自伝』327頁)。
21 Lloyd,Arthur の TheFarEast への寄稿は、“ThePresentationofChristiani- tytoJapan”(日本に対する基督教の顕示)(1897年 6 月20日、Vol. Ⅱ No 6 )が あり、また坪内逍遥著『桐一葉』の英訳を数巻にわけて掲載している(1897年 7 月、 8 月、1898年 2 月、Vol. Ⅱ No 7 、 8 、Vol. Ⅲ No25*)。
* TheFarEast は、1896年に発行されたものにを Vol. Ⅰとして通し No をつけ、
1897年を Vol. Ⅱ、1898年を Vol. Ⅲとしたが、No については、Vol. Ⅰ、Ⅱ No8 までは当年の通し番号のみを付していたが、No9以降には WholeNo として刊 行以来の通し番号が付され、1898年 Vol. Ⅲ以降は WholeNo のみの記載とな った。そのため、1898年 2 月刊行の Vol. Ⅲは No25となっている。
22 徳富猪一郎『老記者叢話』(民友社、1930年)14-15頁、アーネスト・サトウ 訳長岡祥三『アーネスト・サトウ公使日記Ⅰ』(新人物往来社、1989年)137頁、
明治29年 5 月 7 日条には「徳富猪一郎とファー・イーストの深井[英五]が、大 隈からと思われる手紙を持って、英国への紹介状を頼みにきた。そこでディキン ズと J・B キャッパーへの手紙を書いてかれらに渡した」と記されている。
23 『老記者叢話』15頁。
24 深井英五『回顧七十年』(岩波書店、1941年)43頁には以下のように記されて いる。
タイムス新聞の編輯次長を数十年間勤続して特異の経歴を作つたキャッパー
(Capper)と云う人は徳富先生と一見して意気投合し、私も共通の接遇を受けた。
而して私は其の後数回英国へ行つたので、手紙にも談話にも敬称なしに名を呼び 合ふやうな親しき間柄となつた。後年日露戦争中の外債募集に当り、私は其の事 務に参加して、主たる担当者高橋是清氏に此人を引き合はせた。タイムスが率先 して我国に好意を表したのは其の配慮による所が多い。高橋氏も之を認め、先方 は格別社会上の地位もない人だのに、或る時小村大使と共に其の私宅晩餐への招
待を快諾し、同氏が日本に来遊したときに厚く歓迎した。徳富先生と一英人との 友誼が十年後に我国の為めに或る役に立つたのである。
25 明治29年12月 1 日付、徳富猪一郎書翰、大隈重信宛(『大隈文書』B2266)。
26 『回顧七十年』159、315頁。深井は、昭和 8 年キャッパーと面会した印象を
「子供のやうに思つて居た私が国際大会議の全権委員だと云ふことを驚喜し、徳 富、高橋両氏の旧事を語つて尽くる所を知らないが、時勢に対する感興は見られ ない程に老衰した。」と記している。
27 『老記者叢話』22頁。
28 『回顧七十年』159頁。
29 『老記者叢話』25頁。
30 『老記者叢話』24-25頁。
31 『老記者叢話』27-28頁。
32 『老記者叢話』26-27頁。
33 『蘇峰自伝』328頁。
34 明治29年11月30日付、徳富猪一郎書翰、徳富一敬宛(故徳冨敬太郎氏所蔵)。
35 1897年 3 月18日付、スティルマン書翰、徳富猪一郎・深井英五宛(『徳富蘇峰 の研究』358頁)。
36 『老記者叢話』22-23頁。
37 明治29年12月25日付、徳富猪一郎書翰、徳富一敬宛(故徳冨敬太郎氏所蔵)。
38 深井英五『人物と思想』(日本評論社、1939年)365-366頁。
39 『老記者叢話』41-43頁。
40 梶田明宏「新聞人徳富蘇峰の水平線」『近代日本と徳富兄弟』(財団法人蘇峰会、
2003年)148-149頁。
41 『老記者叢話』45-46頁。
42 『蘇峰自伝』326-327頁。
43 「ルーマニアの国都」(『国民新聞』1896年11月 1 日号)。
44 『蘇峰自伝』327頁。この旅行記“TravelsinCentralAsia”と彼の自伝“Life andadventuresofAlminiusVambéry”はそれぞれ邦訳が出版されている。岩 村忍 訳『中央アジアの冒険』(やしま書房、1962年)、小林高四郎、杉本正年訳
『ペルシア放浪記:托鉢僧に身をやつして』(平凡社、1965年)。
45 人見一太郎訳述『平民政治』(民友社、1890年─1891年)。
46 明治30年 3 月 6 日付、徳富猪一郎書翰、徳富一敬宛(故徳冨敬太郎氏所蔵)。
47 同上。
48 “TheSinkingofTheKowshing”The Times1894年 8 月 7 日。
49 陸奥宗光『蹇々録』(岩波書店、1983年)147頁。
50 明治30年 3 月10日付、徳富猪一郎書翰、徳富一敬宛(故徳冨敬太郎氏所蔵)。
51 金子は、1889(明治22)年、議院制度視察のため洋行を命じられ、欧州諸国を 巡回した。その際、オックスフォード大学にホーランドを訪ねている。ホーラン ドは金子の説明を聞き、ベルギーのローラン教授と計って彼を国際公法学会の会 員に推挙している(高瀬暢彦『金子堅太郎研究』第二集、日本大学精神文化研究 所、2002年、251頁)。
52 渡辺安積(上巻)、伊藤悌治(下巻)講義『安遜氏契約法』(三省堂,1888年)。
53 「ボドレアン書籍館への寄付書目」『民友社思想文学叢書別巻』((財)徳富蘇 峰記念塩崎財団、1985年)331-332頁。
54 エリオットは1919年駐日英国公使を命じられ来日した。