「知識基盤社会論」批判(5) 「知識基盤社会論」批 判と学力(2016‑12‑16最終講義)
著者 佐貫 浩
出版者 法政大学キャリアデザイン学部
雑誌名 法政大学キャリアデザイン学部紀要
巻 14
ページ 15‑48
発行年 2017‑03
URL http://doi.org/10.15002/00013634
「知識基盤社会論」批判5
「知識基盤社会論」批判と学力
(2016-12-16最終講義)
法政大学キャリアデザイン学部 教授
佐貫 浩
すでに4回の「知識基盤社会論」批判を執筆・掲載してきた(法政大学キャ リアデザイン学会紀要)。今回はそれら全体のまとめとして、すでに記述・展 開してきた論理をたどりつつ、問題の基本性格をより一層明確に提出すること を試みたい。またその点で、文献に即した検討については、今までの「知識基 盤社会論批判」(1)〜(4)(2014年〜2016年度の法政大学キャリアデザイン学 会紀要『生涯学習とキャリアデザイン』)と重複する部分は省略してある。な お、この内容は、2016年12月16日の私の最終講義において報告した原稿を元に、
それに加筆したものであることをお断りしておきたい。
(一)知識基盤社会論(知識社会論)の「はやり」
(1)枕詞としての「知識基盤社会」到来論
今、教育政策や人材育成政策が、「知識基盤社会」の到来という枕詞を伴っ て推進されようとしている。すでに、2006年度の『文部科学白書』は、次のよ うな知識基盤社会概念を紹介し、それがこれからの日本社会の特徴だとしてあ げていた。
「知識基盤社会─英語のknowledge-based…societyに相当する語。論者によって定義 付けは異なるが、一般的に、知識が社会・経済の発展を駆動する基本的な要素となる社 会を指す。類義語として、知識社会、知識重視社会、知識主導社会などがある。」(「文 部科学白書」157頁)
また、中央教育審議会答申「我が国の高等教育の将来像」(2005年)では
「知識基盤社会」の特質として次の4点を挙げている。
ⅰ.知識に国境がなく、グローバル化が一層進む。
ⅱ.知識は日進月歩であり、競争と技術革新が絶え間なく生まれる。
ⅲ.…知識の進展は旧来のパラダイムの転換を伴うことが多く、幅広い知識と柔軟な思考 力に基づく判断が一層重要になる。
ⅳ.…性別や年令を問わず参画することが促進をされる。
さらに、2016年12月に出された中教審答申には、「子供たちの65%は将来、
今は存在していない職業に就く(キャシー ・デビッドソン氏(ニューヨーク 市立大学大学院センター教授)」との予測や、「今後10年〜20年程度で、半数近 くの仕事が自動化される可能性が高い(マイケル・オズボーン氏、オックス フォード大学准教授)」などの予測が紹介されている。また、「2045年には人工 知能が人類を越える『シンギュラリティ』に到達するという指摘もある」とい う注記が付されていた。すでに個別の学校目標に、「人権尊重の精神を基調と し、グローバル化する社会の中で知識基盤社会に主体的に対応できる知性と感 性に富み、健康で人間性や国際感覚豊かな○○中学校の生徒を育てる。」など と書かれたものも出現している。
しかし、はたして、「知識基盤社会」という概念は、どこまで吟味された科 学的なものとして提起されているのだろうか。
(2)「知識基盤社会」論、「知識社会」論が潜在的に提起するもの≒イデオロギー 考えてみるに、知識基盤社会論は根本的ないくつかの「命題」をその背後に 含みつつ、あるいは隠されて、展開している。しかしその「命題」は検証、論 証されていない。にも関わらず、その「命題」は、人びとの価値判断に影響を 与え、その意味ではかなりのイデオロギーとして人びとの意識において働きつ つある。その「命題」とは何か。
1)価値を知識が作り出す──労働価値説批判
労働価値説とは、経済学でいうところの価値は労働が生み出すものという説 であり、アダム・スミス、デイビッド・リカード、そしてマルクスによって完 成されたものである。確かに知識が資本により多くの利潤(剰余価値)をもた3 3
らす3 3ことは事実であるとしても、それは労働力以外のものが価値を生み出した3 3 3 3 3 のかどうか、その点はほとんど曖昧なままに、「労働」ではなく「知識」が価 値を生み出す3 3 3 3という言説が広がっている。その結果、労働者はその労働力の知 的能力の高さに比例して賃金を受け取るとでもいうような観念が広がってい る。だからまた、知的能力の低い労働では、自分が生きていくのに必要な価値 すら作り出せず、低賃金でも仕方がないというというような風潮も広がってい るように思われる。しかし、はたしてそれは本当か?
2)知識の発展が知識社会をつくり出す?
知識の発展が新たな社会構造を生み出す?それは本当か。知識の発展が生産 力の増大をもたらす故に、社会構造が「知識社会」という独自の構造をもつと いうのは本当か?中教審も、近い未来には今日の労働の半分がロボット労働に 置き換えられ、高い知的労働力を獲得しないと雇用にはありつけないという説 があるという恫喝を使っている。社会構造を決めてきた最も基本の要因は、生 産関係であり、したがって現代は資本主義という経済的社会構造が基本となっ ている。知識社会なるものはこれを何らかの形で変え、雇用問題は階級的性格 とは異なった様相をもって展開していくのか?
3)ロボットと人間が雇用をめぐって競争するのか?
巨大な資本が高度の科学技術体系と化した工場においてロボットを使用して 商品を作り出し、市場で価値を回収し、資本の増殖を達成していくというイ メージがその背後に潜んでいる。もはや労働は、価値の増殖に不要であるとで もいえるようなユートピアが描かれる。そして必要な人間労働はそのような機 械の設計を行う高度の知的労働だけとなる。人間労働はロボットに勝る力を持 つ部分だけが意味があるような時代が来るのだろうか。しかし資本主義的生産 とは人間労働が生み出す交換価値の搾取によって資本が増殖するというふうに 説明されてきた。人間労働のないところにはそもそも剰余価値の集積は成り立 たない。今までの経済学が根本から改変されるということか。
4)労働価値説に立つ社会構成原理が廃棄されるのか?
価値(交換価値)概念は、労働によって生み出された価値を労働者に配分し ていくという社会的な価値循環を媒介していく概念として機能してきた。だか ら日本国憲法は労働価値説に立っているといってもよい。価値をつくり出す労
働が社会の経済的基盤を形成しているゆえにその労働の再生産は人間社会の持 続にとって基底的な要素であり、その労働力の再生産の費用が労働力の価値と して、給与として労働者に支払われるという論理が成立してきた。憲法第25条 の生存権保障の第一の基盤は27条の労働権の実現によっており、日本の労働法 は八時間労働を基本として、それで生存可能なように、最低賃金制などを定め てきたのである。この権利論的な生存保障の秩序は、労働が価値を生み出し、
歴史的には8時間の労働(将来はもっと短い労働時間)が社会を成り立たせる としている。この権利論体系の土台が崩れ、労働の知的な質の高さがなければ その権利性が失われるとでもいうのだろうか。労働価値説に変わる新たな論理 が必要になっているというのか?
以上のような根本的な命題の吟味という課題がこの土台にあることだけをこ こでは確認しておこう。「知識基盤社会」論に依拠しようとする論者には、こ れらの点について説明する責任があるだろう。
(二)「知識社会」、「知識基盤社会」とは何か
──その(1)ハーグリーブスの「知識社会」概念批判
「知識社会」という概念に依拠して、現在および近未来の教育の変容を解明 した労作として、アンディ ・ハーグリーブス『知識社会の学校と教師』金子 書房、木村優・篠原岳司・秋田喜代美訳、2015年)をあげることができる。こ の著書は、確かに現代の先進国において共通に展開している新自由主義的な教 育の変容をかなり説得的に説明しているし、教育の専門的自由の回復を強調し ている点においては共感できるものである。しかし率直に言って、そこで使用 されている「知識社会」概念は、曖昧であり、科学的吟味を経たものとは言い がたい。そのため、彼の描く教育の未来構想は、観念的な性格を帯びている。
まず、ハーグリーブスの「知識社会」概念批判から始めよう。なお、ここでは 知識基盤社会と知識社会とは同一概念として扱う。
(1)「知識社会」とは何か
1)……知識の高度化自体が、「知識経済」なるものを生み出したのか。そうでは ない。資本主義において、企業間競争に勝ち抜くために、他者よりも高い
知的技術の獲得と独占、情報の管理と操作が不可欠になったということが 基本であろう。そのために、企業の利潤獲得と競争に生き残るためには、
知を獲得し、独占することの有利性、不可欠性がますます大きくなり、他 者を超える新しい技術、情報の集積や操作技術が不可欠になり、従ってま たそれに対応する知的労働の獲得が、企業の死活を決する意味を持つよう になったということが基本である。「知識経済」の最も基本は、そこにあ る。
2)……ハーグリーブスは、「知識経済」自体が、一つの固有の性格を持って、社 会や経済のありようを構造化していくと捉える。しかしなぜ、知識の高度 化が、そのような特有の社会構造を形成するに至ったのか、そのメカニズ ムについての理解が決定的に重要である。知識それ自体や知識の高度化 が、そういう社会構造や経済構造を導き出すのではない。「知識社会」は、
知識の高度化というものによって規定されるものではなく、資本主義的生 産のある発展段階の特性を示す概念というべきだろう。したがって、知識 社会とは資本主義的生産とその競争のシステムにおいて、知識という要素3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 が決定的な意味を持つようになった段階の特徴3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3として把握されるべきもの である。
3)……資本主義的生産のある段階において、そこに適用される知と技術や知的操 作能力、あるいは技術開発や経営における創造的な能力が、競争のため に、決定的な重要性をもつに至る。そして他企業に勝る知的に高い技術を 獲得し、それを生産過程に具体化した企業こそが資本主義の競争市場にお いて決定的な勝利を獲得するようになる。そのため、労働力市場において も、労働者の知的な質の高さの獲得が死活的な意味を持つようになる。そ れは同時に、知識の獲得度によって人間の労働力の価値を格差化し、さら には人間の価値自体をその知的な労働力の質によって評価する力学を生み 出す。「知識経済」は、かくして、人間の知的な能力の差に従って人間が 評価され、社会的待遇や価値配分が大きく規定される傾向、社会的価値意 識を拡大する。
4)……知的な優越性の獲得が決定的に競争における有利さを生み出すゆえに、個 別資本は優越的な知識や技術を独占的に私有し、それを自己の利潤獲得と
競争戦略のために、私的に使用することを当然の戦略とする。そのため、
知の獲得と創出は、自己の膨大な資本を投入すべきものとなる。しかしそ の知の獲得は、投資した資本に見合うものでなければならない。そしてま た当然、そのような私的投資によって獲得された知は、資本の私的所有物 として独占されることになる。その結果、知は、その開発のために巨額の 資本を投資すべきものとなり、その投資に見合った利潤を生み出すものと なり、膨大な利潤を獲得した巨大企業はその相当部分を知の開発に投資す る。すなわち知の開発事業自体が資本の価値増殖のための一つの投資部門 となる。そのことは本来人類的な共有財産としての知の開発が、私的資本 の目的、また資本の競争戦略に先導されて方向付けられ、競争というイン センティブと巨大資本の投資という要件によって人類史上最も急速な、
しかし跛行的な知の開発が進行する時代となる。それは、知が資本に占有 されつつ急速に蓄積されていくという資本主義的生産の一つの発展段階を 意味するものである。それは歴史的にはグローバル化とともに急速に展開 する。
5)……そのことは人類の共有財産という本質をもつ知が、私的資本の僕しもべになると いうことを意味する。知は本来真理探究という人類の知的探究心の具体化 であり、共同的存在である人類の発展を支えるものである。また個々の人 間の労働の知的な質を向上させ、労働において人間が使用する機械(固定 資本に組み込まれた技術体系)の質を高め、そのことによってまた個人の 労働能力をも高めるものでもある。知の人類的共有財産性を保障するため にこそ、学問の自由や知の権力からの独立が憲法的規範として確立されて きた。またその知をみんなに普及3 3 3 3 3 3・獲得させることも権利として保障され3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 るべきもの3 3 3 3 3とされてきた(教育を受ける権利)。しかし今や知の開発と探 求には、膨大な経済的富を注ぎ込まなければ達成できない段階となった。
そのような段階の知の開発を強力に推進することができる社会的な力は、
ひとつは公共的な教育と研究システムであり、もうひとつは企業である。
それに軍事開発などの国家プロジェクトを加えるべきかもしれない。そし て知識社会においては、ますます企業がその強力な開発主体となる。加え て、国家は、企業の戦略を国家予算を動員して手厚く支援する新自由主義
国家となった。それは、国家自体が、人類の生存と幸福のために知の開発 を国民主権の立場からコントロールする仕組みを放棄(「規制緩和」)し、
企業利潤、企業戦略のために公共的研究システム、公共的研究・教育資産 を動員し、逆に企業利潤や「国家目的」に直結しない、あるいは時として それに逆らう真理と正義の探求の営みを抑圧していく、人類の知の危機を 孕んだ知の発展の時代をもたらす。
…… 今私たちの前に展開し始めている「知識社会」とは、このような性格を 持つものとして規定される必要があるのではないか。したがって、「知識 基盤社会」とは、あくまで、グローバル資本がイニシャティブをもって世 界経済を支配する段階におけるグローバル資本の世界的競争戦略によって つくり出された様相、そこでの知のありようについての規定として把握し なければならないということができる。
(2)知識はどうやって資本に利潤をもたらすか
しかしこのように展開する前提を捉えておかなければならない。それは価値 を労働が生み出すにもかかわらず、なぜ知は資本に膨大な利潤をもたらすのか という点である。その点を検討しよう。
1)相対的剰余価値の獲得と知識
剰余価値の獲得において採用される相対的剰余価値獲得戦略は、生産の技術 体系にその時代の一般的生産力水準を上回る技術を導入することによって実現 される。したがって、他者を上回る知の体系、技術体系を導入することによっ て、その資本により多くの剰余価値がもたらされることになる。この点の説明 は、単純なので、ここではこれ以上の説明を省く。このような知を「開発知3 3 3」 と仮に呼んでおく。
2)労働力として求められる「知的理解力」「知的操作力」としての「知」
個人の労働力の生産力は、その労働者が働きかけ操作する生産の技術体系
(固定資本において実現された工場の生産システム)の高さと結合されて、実 現される。そしてそのためには、それを理解し、操作する知的技術力が労働者 の労働能力の側に求められる。それをここでは「操作知3 3 3」と呼んでおく。その ため、より高い教育を必要とするその労働力の再生産費用は高くなりその分労
働力の価値も高くなるが、同時に固定資本に組み込まれた生産技術体系によっ て高まった生産力水準が実現されるならば、そういう高度で高価な知的労働を 雇用しても、全体としての剰余価値の増加が見込まれるとき、「知」は資本の 価値増殖に貢献するものとなる。生産技術体系が高度化するにつれて、その高 度な生産技術体系を操作可能な労働力の知的水準(操作知)は不可欠な要因と なる。そのため、労働者の労働能力は、その操作知のレベルにしたがって、賃 金が差別化されていく。同時に労働力市場の競争の論理によって、高度な操作 知を持った労働力が供給不足となり、底辺は供給過剰となるため、労働力市場 の論理を介して、操作知のレベルの差による賃金格差はさらに拡大する。
3)価値の生産と価値の「実現」の違い
今までの検討で展開してきたことだが、資本の競争は、同一レベルの商品を より安く生産するということだけではなく、より使用価値の高い商品を生み出 すことをも不可欠とする。そうしなければ市場における販売競争において勝て なくなる。販売とは商品に価値を付与することではなく、すでに付与された価 値を市場で販売して貨幣(資本)として回収すること(「価値の実現過程3 3 3 3 3 3 3」)で ある。市場に商品が出されるという時点では、価値は商品の中にすでに付加さ れて存在している。その際、その商品に他社商品を超える使用価値やブランド を付加できれば、その「実現」競争において圧倒的に勝利し、そのために膨大 な利潤を手にできる。その「実現」に失敗すれば商品は、廃棄される。とすれ ばそういう技術やアイデアを提供した知(開発知)に対しては、その実現競争 で得られた超過利潤の幾分かを支払うことは、資本の側からすれば妥当(経済 合理性)と捉えられる。かくしてそういう知(知的労働者)の獲得競争では、
価値の生産の論理3 3 3 3 3 3 3 3ではなく、価値の実現の論理3 3 3 3 3 3 3 3に依拠して、その開発知を提供 した労働者に高額の賃金が支払われ、それがいわば知の値段という形を取る。
それは企業会計という視点から見れば経営合理性を持つ。しかしそれは、厳密 にみれば、「知」が価値を生み出したわけではないことに注意しなければなら ない。価値を生み出したのはあくまで商品を生産した労働である。すなわち知 が価値を生産したわけではないのである。
4) 「商品」生産における「知識(技術)」の決定的な意義─商品開発競争と知 の役割
いうまでもなく、グローバルな商品販売競争においては、商品開発競争に勝 利しなければ、市場で生き残れなくなる。そのための知と技術の開発競争が激 化する。その開発で成功したことによる膨大な利潤の獲得は、ある意味で、そ の知(開発知)の貢献によって得られたものとして、企業会計に組み込まれ る。そこでは知の値段が帳簿上成立する。そこでは開発知が価値を生み出す
(もたらす)という現象が、生まれる。しかしここでも、その商品を生産する のは――したがってまた商品に付加された交換価値を生み出すのは――労働で あって、知識ではない。しかし開発知の獲得なしにそもそも市場競争に参加で きなくなる。当然、膨大な資金を投球して開発知の獲得が行われる。それは開 発知の値段として計上され、その分の賃金がそういう知的労働者に支払われる ことを経済的合理性があることとする。知を提供、生産する労働力に対する労 働の論理とは異なった賃金支払いの基準が誕生する。
5)知の開発が資本の増殖のための投資対象になる事態が出現する
それらの複合的な結果として、知の開発への投資が、その投資額を上回って 利潤を企業にもたらすようになるならば、知の開発自体が、資本の利潤獲得の 投資対象としての産業部門となる。そのメカニズムが普遍的、一般的なものと なり、資本が巨大な価値を投入して技術開発を競うようになり、そこで勝利し たものが市場競争を支配する循環が生まれ、知の開発が資本の競争の重要不可 欠な舞台となって急速な知の開発が展開していくようになる。そして知が私的 資本の利益追求のために占有され、利潤の「源泉」として管理され、人類的利 益の追求と知の開発との矛盾が拡大していく。そしてその中で、知が価値を生 み出してくるような意識の上での転倒が生まれる。
(3)補足──知の二つの働き方の区別
ここでは、知が資本に剰余価値をもたらすメカニズムを検討したが、その作 用において、知が労働過程に働く回路は、二つの種類があることを区分して把 握する必要がある。
第一の回路は、中心的には、資本の保有する生産技術体系を直接に向上させ
るケースである。そしてそれこそが、知の開発を資本の投資対象とするような 変化を生み出す。それを「開発知」と呼んでおく。今日の知的労働者の獲得 は、このために激化している。
第二の回路は、商品の生産過程に直接に携わる個別労働者の労働能力を高め るという回路である。第一の回路によって企業の生産体系の中に組み込まれた 技術体系を操作するに必要な個別労働者の労働力に内在化されて発揮される知 の水準として求められる知である。それを労働過程で発揮される技術的力量と いう意味で「操作知」と呼んでおく。
開発知と操作知は、資本に利潤をもたらす方法(回路)において異なって働 く。操作知の場合は個々人の労働能力に内在して直接働き、開発知は、商品開 発や技術開発を通して、あるいはその成果が操作知のレベルを上げることを通 して、企業の利潤を高める。知がどのような回路を通して資本に利潤をもたら すかという検討において、この区分は、意味あるものとなる。
知識基盤社会論においては、この開発知と操作知の二つが、異なった仕方 で、扱われる。操作知は、労働力市場競争にさらされ、グローバルな労働力競 争にさらされ、場合によってはコンピュータなどによる処理に置き換えられ、
全体としては低賃金競争にさらされていく。そして最も大きな特徴は、そうい う労働能力の形成自体は、ますます資本それ自体の関与、すなわち資本の投資 対象から外され――いわゆる日本的雇用は、それを企業内教育として資本を注 ぎ込んだものであった――、公教育や、自己責任化されて私的な教育サービス
(商品)の購入によって遂行されるプロセスとなり、資本の負担を免除するよ うに組織される。
一方、開発知については、ますます企業の競争戦略の一環に組み込まれ、膨 大な資本が投入されることとなる。そこではポランニーのいう「暗黙知」が重 視されることになる。なぜならば、それはまだ言語化(意識化)されていない 新しい知であり、企業の開発過程において、企業が私的に、独占的に占有可能 な知であるからである。そのような暗黙知が、資本の戦略によって、資本の私 的な知の開発の場へと摂取され、言語化され、客観的な知識として創出され管 理されていくような動きが強まっていく。産学協同が進められ、また企業の技 術開発の場が研究者養成の場ともなっていく。その結果、大学の自治、学問研
究の自由の場が、企業の提供する膨大な資金に依拠する私的な開発戦略が展開 する場へと組み替えられていくこととなる。それらの結果として、本来的には 社会の共有物である知が、ますます資本によって占有されていく過程が進行す る。学問の自由や大学の自治を空洞化する力が強まる。
(三)「知識社会」、「知識基盤社会」とは何か
──その(2)グローバル資本の労働力要求の変化
知識基盤社会論は、労働の知的な質が高められる必要を強調し、またそうい う知的に高い労働でなければもはや社会的な労働としては役に立たなくなると いう「恫喝」すら行うイデオロギー的な概念としても機能しつつある。しかし それは本当か?
この問題を検討するために、「知識基盤社会」の労働力の変容のイメージを 取り上げて検討してみよう。そのために、以下の検討を行おう。
①…社会的に必要な労働力構成が、知識基盤社会論に依拠すると、なぜ知的に 高度な質をもった労働の側へと偏った構図になるのか。
②…そのこととグローバル資本の利潤獲得戦略によって求められる労働力獲得 戦略とが、どのように関連しているのか。
③…はたして、私たちは、どのような未来社会像に依拠して、労働力の構成を 把握し、労働力の育成を構想していけばよいのか。
(1)グローバル資本の利潤獲得のための人材戦略
第一に、グローバル資本の人材戦略は二つの性格を併せもつものとなる。一 つには、世界的に調達できる低賃金に依拠できる労働部分を発展途上国の低賃 金労働に求める戦略である。そのため、工場の海外移転、海外へのアウト・
ソーシング、あるいは国内の雇用についても、安い海外からの労働者(外国人 労働者)に置き換えるなどの方策が採用される。もう一つは、国内の企業活動 を経営の中枢的業務と知的開発部門に集中させ、それに見合った高度の知的労 働に対する需要を増加させる。したがって、国内の一般的な労働においては、
海外からの労働ともフラットな平面で競争に曝し、非正規労働化や派遣労働化 が進む。他方、高度の知的労働については、人材獲得競争が激化し、その最先
端的な知の担い手に対しては、高額の給与支払い(人材確保のための投資)も 行われるようになる。
第二に、グローバル資本の産業配置戦略からして、国内における労働と産業 部門の一面的な再編が進行する。高額な利潤が獲得可能な領域に大量の投資が 行われ、そうでない部門は可能な限り縮小されていく。たとえば日本の農業は 全体としては産業としては競争力を欠いたものとなり、それに対する投資は縮 小され、代わりに世界から食料を輸入し販売する流通ルートの掌握(流通資 本)に膨大な資本が投下され、食料確保という国民の死活を制する営みが巨大 流通資本の利潤獲得の戦略によって管理されるようになる。それらの戦略に よって、世界戦略的意味を持たない地域の産業が衰退し、労働の場が縮小され ていく。知的に高度な労働への需要が拡大する一方、平均的以下の労働では、
失業や雇用破壊が進行する。
第三に、それらの結果として、図表(29頁)に示した様に、一国の経済が成 り立つ全体的な労働力構成(グラフP)に比して、右にずれた知識基盤社会モ デルにそった労働力構成(グラフQ)にしたがった労働力に対するグローバル 資本の労働力需要が生まれ、国内の労働力養成の戦略がこのグラフに沿ったも のとして設定されるようになる。その労働力需要は、グローバル資本が知を独 占することによって、莫大な利潤を確保するための競争戦略、世界戦略の意図 の下に提起されたものと見ることができる。
第四に、それらの結果として、「知識基盤社会」が求める学力は、まさにグ ローバル資本の世界戦略と直接結びついた能力規定を受けることとなる。それ は確かに「ハイパー ・メリトクラシー」型の学力(本田由紀)と、あるいは ロバート・ライシュのいうような「シンボリック・アナリスト」的な性格をも つものであろう(「知識基盤社会論批判(1)」参照)。それは、グローバル資 本に不可欠な技術開発、企業経営、知的資産の創造に従事する知的上層階層の 労働者に焦点化した人材規定であり、そしてそのような学力探究が、今日の教 育改革を貫く中心的な目的と化している。しかしそれは資本の意図からして、
一部の知的人材養成(エリートの養成)として実現されれば目的を果たすこと ができるものであり、すべての人間に対する労働力要求、学力要求として政策 化されているものではないといわざるをえない。例えばそういう学力形成に必
要な条件整備は、エリート養成コースにしか適用されないような教育費配分と セットになっているといわざるをえない。そのため、結果としては、一層大き な学力格差を生み出すものとして作用せざるをえない。また、同時にその規定 が先進国での「正規労働」基準として設定されることで、その基準から脱落す るものは、教育投資価値が低い労働力として評価されることになる。そのため この基準「以下」の労働力を価値の低いものとして位置づけ、専門性を剥奪さ れた機械的労働、ルーティーン・ワーク労働者、多くのサービス労働者に、低 賃金で非正規な差別的な待遇を受け入れさせる論理として機能する。
第五にそれは、グローバル資本の世界戦略に基づく労働能力要求であり、社 会が必要とする全体的な労働や生活の課題に向けられたものではないものとな る。持続可能な地域をいかに作り出すかという今こそ求められる地域循環型社 会、すべての住民の労働参加と生存権保障を可能とする地域社会を創造する構 想への関心をもたない。そのため社会の存続と維持にとって欠かせない第一次 産業、第二次産業、そして各種のサービス労働(公務労働を含む)を担う大量 の労働に対する積極的な位置づけや関心を欠いた規定とならざるをえない。そ れはそもそも、今まで見てきたようなグローバル資本の利潤戦略からして、も はや国家という単位の地域が、そこで生活する人々すべてに、生存権を保障す るための価値の循環と配分を保障する生産の場、労働の場を維持することに関 心をもたなくなることと不可分な関係にある。それは、第一次産業や、ますま す拡大する福祉労働やケアサービス、環境保持のための労働、地域循環型経 済、伝統的地場産業の維持、不可欠な工場現場労働、地域生活を維持していく ための各種の公務労働をどう持続可能な社会の創造に向けて豊かに作り出して いくか、その担い手に求められる専門性や地域理解、人間理解をどう高めるの か、そういう連帯型、協同型社会を担える共感力や表現力、道徳性をいかに育 てるかという課題意識を欠いている。
第六に、このようなグローバル資本とそれを推進する新自由主義国家の人材 要求を反映して、全ての人間の労働、政治、生活への社会参加を推進する社会 像がオミットされており、現代社会の主体、社会を創造し変革していく主体と しての知的能力、人格形成の全体性を欠いている。そのことは、このような
「知識基盤社会」の具体的な「能力」ハードルが、国家的基準として強力に教
育政策を支配しつつあり、その基準に基づく激しい学力競争が組織され、また 同時に激しい就職競争として労働参入する労働者に課せられている中で、現実 化されてきている。
第七に、したがって「知識基盤社会」理念は、特別優れたスーパー ・マン パワーによってこそ強い社会が到来すると思わせ、衰退する地域を「離脱す る」学力──かつての「村を捨てる学力」の現代版──こそ必要だと強調す る。競争で富の獲得競争に勝利しないと豊かさは獲得できないというまさにグ ローバル資本の競争戦略に即して未来像を描く。普通の能力3 3 3 3 3をもった人々が新 しい協同を作り出すことで豊かさと安心のもとに生きていける地域社会が作り 出せるという展望を隠す。それは今、「限界集落」が広がりつつある地域に、
それとは異なった生存権を保障する新しい生活と労働の場としての可能性があ ること、一人ひとりがそういう労働や社会課題を担う能力を獲得していくこと で生きる希望を自分のものにしていくことができるという見通しを押し隠す。
知的競争で他者を打ち負かさなくても、普通の能力で人間的な労働生活を送 り、社会の建設に共に参加できることを子どもや若者に示すことができず、文 字どおりすべての3 3 3 3子どもや若者が持っている知的力や社会への貢献の可能性に 対して、社会の側からの熱い期待を向けることができない。格差・貧困社会を 招いた大人の失敗と無責任を放置して、競争に勝てる能力のないものは社会の 厄介者だというメッセージを送り、子どもの希望を奪うものである。
第八に、総括的に述べるならば、「知識基盤社会」とは、本来生存権保障と 労働力の再生産という論理から、労働者の給与や社会的富の配分が決定される べき──労働者に対する富の配分の社会的正義──ものを、「知財」の独占が もたらす独占的利潤の獲得戦略を基準にして、「シンボリック・アナリスト」
にのみ「豊かな」配分を行い、「競争力」のない「労働(者)」に対しては徹底 的に搾取する資本のグローバルなサバイバル戦略と一体の社会認識というべき ものであろう。そして、個々人を不安定な格差社会に放り込み、その帰結は個 人の所有する知の格差に拠るものであり、したがって自己責任として甘受すべ きだという論理を深く伴うものであるといわなければならない。
(2)その構図(イメージ)
以上の展開を前提にして、知識基盤社会型の労働力戦略を構図化すると以下 のようなものとなる。参考として、北村氏による労働力構成図を付しておく。
(「知識基盤社会論批判(2)」を参照)。
労働者の量
労働の知的な質
◇情報資本主義においては、労働力の価値からみると、半熟練労働と研究開発に従事 する科学者の二つの労働階層に社会的平均労働(労働の最も主要な階層をなす)が分 離し、左側に単純・不熟練労働、そして右側に構想・管理等のいわゆるシンボリック・
アナリストの高度な労働が位置づく。北村洋基『情報資本主義論』2003年、大月書店 318頁
(3)補足―「ロボットピア」(ディストピア=ブラックトピア3 3 3 3 3 3 3)と労働の未来 一つの補足――検討課題の提出――をしておこう。それは、「知識基盤社会 論」がしばしば行うロボット・ユートピア(ディストピア=ブラックトピア)
の恫喝についてである。
近い未来に通常のサービス労働、工場労働の相当割合が、ロボットによって 代替され、したがって、知的な労働力を持たない人間は、お払い箱になり、だ から知的な能力を身につけなければ生きていけないぞという恫喝がなされてい る。しかし果たしてそれは本当か。
第一に、ロボットもまた固定資本である。いわば生産手段としての工場設備 である。ロボットといわれると何か人間に置き換えられるというイメージが強 まるが、ロボットは機械そのものである。機械が高度化すれば、人間労働の生 産性は高まり、より短い時間で必要なものを生産し、自由時間が増加するので ある。必要労働時間が縮小すれば、その労働時間をみんなでシェアすれば、よ り短い労働時間で、より豊かな富を配分する(受け取る)ことができるように なるはずである。それこそまっとうな意味での未来への希望である。そういう 全体としての労働時間の縮小を、みんなの労働時間の一定の縮減として配分す れば、労働時間の短縮という未来に結びつく。ところが全体としての労働量の 縮小を労働者の労働時間を縮小しないままで労働者の数が少なくてすむように して対応しようとする――それは資本にとっては労賃の縮小に繋がる方策であ る――から、ロボット労働に雇用が奪われ、競争に勝てない労働者は失業する というふうに機能するのである。長時間労働――しかもその多くが不払いであ る――を廃すれば数百万人の雇用が生み出されるという今日の日本の現実と同 じ問題である。
第二に、はたして、それほど知的に高くない労働は、本当にいらなくなるの か。もちろんそこでいう知的な質とは何かが問題になる。たとえば、ケア労働 において、他者に寄り添う共感力や職業倫理は知的認識とは少し異なるもので あろう。しかしそういうものこそ、対人関係力として大きな効果を持つもので あろう。そう考えれば、直接の商品生産のための労働が縮小できれば、人間労 働のより多くをケアなどの対人関係労働に費やせるという「労働の構成」の変 化が可能になる。そういう人間性それ自体が大きな労働能力の質として求めら
れるような領域が拡大し、多くの人間がその分野で働けるようになるだろう。
それは知識基盤社会のいうような「知」の高さとは異なるものであろう。人間 的な環境の中で人が育つことができれば、そういう能力は、みんなの中で高ま るだろう。今日、保育や教育や介護労働、自治体職員の住民サービスが低賃金 化され、非人間的雇用、その結果としての労働破壊が進行していることを考え れば、本来であればロボットの進化はこの矛盾の克服に大きな可能性をもたら すだろう。
第三に、また、別な意味で、人間労働の知的な質とは何かが問題となる。た とえば今日ではほとんどの人間がコンピュータを使用することで格段にその労 働の知的な質を高めている。そのための労働能力の知的な質は、労働者個人の 頭脳にだけあるのではなく、知的な機械を操作する技術(それほど複雑ではな い――技術が進歩すればそれ自体がみんなが使えるように改善されていく)に よって高度な知的機械の能力との合体として存在しているのである。コン ピュータに応用されている詳細な技術体系の理解ができる人間など、ごく少数 であるにもかかわらず、コンピュータのもつ知的操作能力を私たちは自分の力 へと統合して、労働能力を高めているのである。コンピュータは人間の労働能 力を役に立たないものとして廃棄するのではなく、人間の労働能力を高めてく れるのである。ロボットもまた一つのコンピュータ(知的操作部分と作業を行 う機械的操作部分との結合体)であり、それは人間の能力を高めてくれるので ある。ロボットと人間とをどちらが役に立つかという対立関係として把握する 思考様式自体が間違いであり、それは、どちらが儲かるかという視点で両者を 天秤にかける資本の視点なのである。
第四に、さらに付け加えれば、今日の個人の労働能力は、後でも述べるよう に、現代的な協同労働の一環へと組み込まれることで高度な生産力を獲得す る。労働の場から排除され、この協同から排除される時、個人の労働能力は低 いレベルへと押し下げられる。また、例えばコンピュータをもつことができな いとき、今日の個人の事務能力は役に立たないほどの低いものとなる。ロボッ トと人間が競争するのではなく、人間を支えるロボット(機械)が、みんなに 与えられるならば、みんなの能力が高まるのである。しかしそういう機械(ロ ボット)が資本の専有物になり、個人では所有できないとき、そこから排除さ
れた人間の労働能力は、「低い」ものとなる。そういう点では、現代的な協同 労働への参加は個人の労働能力を高いレベルで実現するために不可欠であり、
権利であるというべきだろう。今日の生産システムや科学技術が達成している 高い水準で仕事ができる条件を保障することは、現代の労働者の労働権の実現 にとって、また個人の労働能力の発揮にとって、不可欠な条件となっているの である。
ロボット問題(ロボットによって人間労働が駆逐されるという脅し)は、科 学技術の発展がもたらす不可避な現象なのではなく、ロボットの開発という技 術の発展を、労働者の雇用を削減して資本の利潤の拡大に結びつけようとする 資本の戦略によって生みだされ、また描き出される現象なのである。
(四)新自由主義と「知識基盤社会」論
(1)国民主権権力と経済世界の関係の変化――その構図
ここで、知識基盤社会論と新自由主義との関係を検討しておきたい。もちろ んその関係のスジはいくつかあるだろう。しかしここで検討してみたいのは、
資本主義が生み出した富の配分と再配分における国家のかかわりの問題であ る。そもそも新自由主義国家は、その点における大改変をもたらすものなので ある。それまでの国民国家は、人権や福祉の権利を保障するそのレベルの高さ に応じて、その国民に対し、生存権保障を行ってきた。しかし、国家の力をも 上回るほどの経済力を獲得したグローバル資本が、自らの世界経済戦略のため にこのような国家の機能を後退させ、達成されてきた人権や労働権の水準の切 り下げを行う国家を出現させたのである。それが新自由主義国家の本質である と言わなければならない。その点に関わっては、フーコーの新自由主義把握
(ミシェル・フーコー『生政治の誕生』慎改康之訳、筑摩書房、2008年)が大 きな枠組みを提供してくれる。この点に関わっては、「知識基盤社会論批判3」
で提示した国民主権権力と経済世界との関連構図に少し付け加えた以下の構図 を最初に示しておきたい。ここで書き込んでいる「生政治」、「経済法則の認識 不可能性」等の概念については、佐貫「M・フーコーの新自由主義把握の検 討」(法政大学キャリアデザイン学会紀要2015年no1)で検討したので、参照
いただきたい。
① 「見えざる手」 の論理における政治権力と経済の関係構図
②経済世界へ権力統制が展開する構図
③グローバル資本の支配力による権力の新自由主義化時代の構図
(2)構図の意味
①「見えざる手」の論理における政治権力と経済の関係構図
18世紀の市民革命期には、二つの新しいシステムが生み出された。一つは国
民主権政治の仕組みであり、もう一つは資本主義の経済システムである。しか し、アダム・スミス以来の経済的自由主義の考えは、国民主権政治が経済の世 界に介入することを拒否し、経済は市場の論理、すなわち資本の競争が生みだ す経済世界の自律的な論理(アダム・スミスのいう市場の「見えざる手」の論 理)に任せるべきだという主張をもっていた。その意味では国民主権政治が決 定した規範は、経済世界へ自動的に及ぼされるものとは考えられていなかった のである。
②経済世界へ権力統制が展開する構図
しかし粗暴な資本の自由が展開した結果、労働者は激しく搾取され、貧困や 人権侵害が深刻化した。そのような危機に直面して、やがて、国民主権政治の 権力は、経済世界へその統治を及ぼし、各種の「規制」――児童労働の禁止、
八時間労働制、不当な解雇の禁止、各種の保険制度の確立、失業などへの福祉 の実現、企業からの法人税等の徴収、等々――をかけるようになった。その意 味では、資本主義社会における人権と生存権を実現できる社会的正義の水準 は、国民主権政治による経済世界、すなわち資本=企業への強力な規制によっ て維持、発展させられてきたのである。
③グローバル資本の支配力による権力の新自由主義化時代の構図
ところが、いま世界に展開している新自由主義国家とは、このような国民主 権政治による経済世界への規制を「緩和」することを中心的な課題とするよう になった国家、いままでの政治によって達成されてきた社会的正義の水準を切 り下げることをその本質的な課題とする権力として、出現している。グローバ ルな競争を有利に進めるためには、特に先進国における高い人権や労働権の水 準が邪魔になり、そういう高い賃金労働に依拠せずとも海外の低賃金労働に依 拠して生産工場を海外移転し、あわせて国内の賃金切り下げを激しく求めるよ うになった。だから、新自由主義化した安倍内閣は、グローバル資本の利潤を 最大化するために、雇用規制を大幅に緩和し、労働者の賃金や待遇を切り下 げ、これでは生きられないと声を上げようとする国民の民主主義的政治参加を 阻止しようとする政策を立て続けに打ち出している。いままでは国民主権の上 に立つ国民国家の権力は、他に並び立つものがないほどに強力であったが、今 日では国家の財政規模とグローバル企業の財政規模とを一緒にしてならべる
と、上位100の内、企業が70を占め、国家は30だけになったという驚くべき実 態をNHKスペシャル「マ… ネーワールド・資本主義の未来」(3回シリーズ、
2016-11月放送)が報じていた。国家権力を上回るほどの経済力を持ち、その 経済力を背景に、国家権力をも自己の世界競争に有利な施策を実施させる権力 へと組み替える政治の変化、国家権力の質的変化が進行しているのであり、そ こに出現したのが新自由主義国家に他ならない。人類は、資本という自らが呼 び出したこの力の巨大化に対して、それをコントロールする力を、もはや単独 の国家権力、国民主権権力としては、保持できない段階に入ろうとしている。
しかしそのコントロール力を回復しなければ、格差や貧困、地球環境の維持、
世界各地の紛争の解決は出来ない段階に到達しつつある。国民主権の政治力の バージョンアップなしには、人類はサバイバル出来ないという全く新しい歴史 段階がいま展開しつつある。そのためにいかなる政治を生み出していくのか、
それが歴史的課題として問われているのである。このような現代認識を共有で きるかどうか、そのことが問われている。
(3)「搾取」概念――補足説明
あわせて参照願いたいのは、「搾取」という概念についてである。「知識基盤 社会論批判(3)」では次のように注記した。その注記を再掲して補足説明と しておく。
ここで「搾取」という概念を用いた。ともするとそれは悪徳なこと3 3 3 3 3というニュアンス を強くもつ。しかしここではもう少し異なった意味をもつ概念として使用する。人類は 労働によって生み出された価値を全部消費してしまい新たな生産活動の拡大ができない 状態、すなわち単純再生産状態を、農業の発明によって超えた。その時から労働が生み 出した価値のうちの剰余を拡大再生産へと投資し、社会の発展を実現してきた。その意 味ではその時から、人類は、自らの労働で生み出した価値のうち、労働力の価値を超え る部分を個人的に消費せず、何らかの形で社会的に蓄積してきた。その価値の収奪者、
すなわち蓄積者は、歴史的には長期にわたり支配者であり、王、貴族、地主であったり した。したがって彼等は搾取者であったが、同時に社会に蓄積された価値の剰余を生産 や文化や社会資本の発展のために投資する主体でもあった。しかし資本主義社会は、資 本が剰余価値生産それ自身を目的として機能する社会となった。労働力市場を介して労
働者を雇用し、賃金を支払い、商品を生産し、それを売って利潤を回収するシステム、
資本それ自身の増加として社会的な価値の剰余を蓄積する仕組みが出現したのである。
このメカニズムにより、歴史上初めて、資本(家)は直接には政治の支配者としての地 位につかないままで、社会的富を自分のものとして蓄積することができるようになっ た。しかしこの資本主義メカニズムは労働者を徹底的に搾取して、その生存権をも剥奪 するほどの事態をも招いた。この事態に対し、市民革命が生み出した議会制民主主義に 依拠して、労働者は国家権力による資本への「規制」を生み出し、資本の横暴を押さえ ようとした。同時に国家は、国民と企業から税金を徴収し、膨大な国家財政を管理・支 配し、社会の発展に向けて社会的な富の剰余を管理し、再投資していく主体ともなっ た。すなわち資本主義社会は、企業と国家の二種類の主体が、社会的に蓄積された価値 の剰余を管理し再投資していく社会であるということができる。そして、国民主権が強 まる程度に応じて、社会的に蓄積された富の多くが、資本の剰余価値獲得の恣意的な意 図ではなく、国民の生存権や人権の向上や生産活動のバランスを実現する方向で再投資 される可能性が高まる。そのように考えるならば、そのような「搾取」は、労働力の価 値を超える価値の剰余部分を社会的に集積する機能の一環を担う側面をももっているこ とがわかる。もちろん、このメカニズムは同時に、資本による人権や労働権の横暴な侵 害を生み出し、その富を国民の利益に反して投資するなどの性格に繋がってもいる。問 題は、その蓄積された富を如何に社会全体と国民の生活の向上に再投資していくことが できるか、そのメカニズムが問題なのである。資本主義をどうコントロールするか、あ るいは資本主義に変わる経済メカニズムは可能かという問題はこのことに関わってい る。ここでは、そのような視点から、搾取という概念をとらえておきたい。
(4)新自由主義国家と知識基盤社会の権力構造の関連
今日の困難は単独の個別国民国家の国民主権権力によっては、もはやグロー バル資本に蓄積されつつある巨大な社会的富を国民の、世界の民衆の公共的利 益として管理できなくなるという点にある。
新自由主義国家は、この国民の生み出した富の配分を、大きくグローバル資 本の側に有利なものへと傾斜させる政権である。そのことは近年の企業の獲得 した利益に対する「労働分配率」、「企業配分率」の変化にも現れてきている。
そしてそれは、単に企業の取り分が増加しているということにとどまらず、本
来国民主権権力の下で国民の人権保障、生存権実現、より平等な社会に向けて の富の再配分等々のために支出されるべき国家財政の支出管理もまた、企業支 援へと振り向けられ、社会格差の拡大、貧困の増大が進行している。全体とし て、社会的に蓄積された富の使用について、そのより多くの部分を資本の側が 自己利益の追求のために再投資する事態が展開しており、その結果として、労 働者に対する支払いが削減され、国民や世界の民衆の安全と平和、地球の持続 可能性を高める方向への投資がその課題にふさわしい量と質をもつことが妨げ られていること、そういう意思を国民主権の声として資本に対する規制を行使 すべき国民国家の政治権力の機能が低下させられていると思うのである。安倍 首相の所信表明演説「日本を企業が最も活動しやすい国にする」は、そういう 政治への転換を宣言したものと言えよう。
当然、その先に、ではこの地球上に出現しているいわば国家の規制をも越え る経済的な支配力(ウルリッヒ・ベックのいうメタ政治の出現と世界政治の支 配者としてのグローバル資本)をどうやって民衆の意思に服させることができ るのかが問題となる。しかし今回はその問題については課題として確認してお くにとどめる。
今回の知識基盤社会論批判の文脈の中で重要なことは、知識基盤社会として 描かれる社会の権力構造が、グローバル資本の世界戦略の広がりとそれを支え る新自由主義国家権力として展開しているという歴史的事実をしっかりと見て おかなければならないということである。それを忘れるならば、あたかも、知 識の高度化が「知識社会」(「知識基盤社会」)を生み出し、その社会変化に対 応する人間の力が求められているとして、結果としては、グローバル資本の利 潤獲得戦略に沿って、人間が無限に競争させられ、搾取され、浪費され、排除 される事態を、いわば不可避の自然史的過程として受容させるイデオロギーと して「知識基盤社会論」が機能させられてしまうということである。
(五)知識基盤社会論と学力論
知識基盤社会論批判の重要な課題は、人間の労働能力が、したがってまた人 間の学力が、どのような価値をもつものとして位置付けられるのかを検討する ことにある。先にも述べたように、「知識基盤社会論」においては、労働能力、
したがってまた学力における知的な質によって、その価値が大きく格差化され ることになる。そのため、知的な質の「低い」労働能力や学力は価値のないも のとされ、そしてそういう「低い」労働力や学力所有者は市場において供給過 剰となり、失業や低賃金が避けられなくなるというような「運命」を引きうけ なければならないかのイメージが流布されつつある。しかしそれは本当か。い かなる根拠でもってそういう主張が成り立つのか。
(1)労働力の価値と「学力の関係」――労働力の価値と賃金との乖離 最初に断っておくことがある。学力と労働能力を同一視することは、教育の 目的とすべき人間の人格の発達という価値を、労働能力の形成に矮小化し、ひ いては資本の労働能力要求に矮小化するものとして批判の対象になる。しかし 私は、そのことを承知した上で、いったんは、経済的価値の世界において、人 間労働の意味、一人ひとりのもっている労働能力の価値、その人間の尊厳を支 える価値に注目し、すべての人間の労働能力が――その知的な質の差にかかわ らず――かけがえのないものとして、経済的にも意味を持ちうるものと把握す ることができないか、そう把握するべきだという考えを展開してみたいと考え ている。それができるならば、経済と労働の論理からも、すべての人間の労働 能力=学力の価値の承認が求められるという新しい地平が拓かれるであろう。
その探求が、どこまで行けるか、検討課題としてみたい。
1)「能力主義」と「労働力の価値」の関係のずれ
科学的な意味で吟味された限定的な能力主義を私自身は否定するものではな い。またその能力主義を補完するロールズの「正義の原則」も考慮すべきとこ ろがある。しかし現実の資本の戦略からするところの労働力の価値づけは、そ3 こからすらも3 3 3 3 3 3大きく乖離しつつある。その背景にはいくつもの要因がある。以 下のような点である。
(注)ここで使用する「能力主義」は「その個人の労働能力の差が、その労働の生産性 の差となって現れ、その労働が生み出す価値の差として現れる、その差において、能力 の差が正当に評価され、賃金の差にも反映される労働能力評価の方法を能力主義とす る」という狭義の意味における能力主義として使用している(「知識基盤社会論4」の 展開を参照)。能力主義という場合、労働力の能力によって生み出す価値(交換価値)
の差があり、それは計測可能だという前提の上で、その価値をどう配分するかという土
俵で議論が組み立てられている面が強い。しかし果たして能力の差によって、どれだけ の生産する価値の差が生まれるのかは、実は曖昧であり、その場面でごまかしやイデオ ロギーが強く働いている。ここではその基盤の問題を検討するということに趣旨があ る。以下この意味での能力主義概念については「能力主義」と括弧好きで表記する。
1)……労働力市場における需要と供給の論理は、労働に支払われる賃金につい て、「能力主義」からの乖離を広げる。市場は、商品の価値の「実現」に 失敗することで、「見えざる手」を機能させる。しかし労働力商品は、そ の価値の「実現」を「失敗」すれば、失業となり、生きていけなくなる。
それはゆるされない。したがって、労働力市場の需要と供給の論理、労働 力市場での賃金決定メカニズムは、ここでいうような「能力主義」で賃金 額を決める仕組みではない。
2)……「株主資本主義」は、株価上昇のために可変資本を意図的に削減する。企 業の実体経済による経常的利益の持続的成長でなく「株主資本利益率」が 企業活動の目標とされ、それを上げるために低賃金化、リストラ、非正規 化が進められている。それもまた「能力主義」とは異なる論理による賃金 決定要因となる。
3)……正規と非正規などの雇用形態の格差化は、「能力」の差ではなく、賃金格 差をつけるための方策として多用されている。この賃金差は、「能力主義」
では説明できない。
4)……国による労働力の価値の差(労働力の再生産の費用としての労働力の価値 の国別の大きな差異)を利用したグローバル労働力市場の圧力で先進国で も低賃金化が進む。グローバル労働力市場は、個別国家間で差がある「最 低限度の文化的生活」水準を保障する装置をもたず、先進国でワーキング プアを生み出す圧力を生み出している。この賃金決定に働く圧力もまた
「能力主義」とは異なるものである。
5)……商品への価値の付加という労働の価値生産力と、その商品の市場における 価値の「実現」に対して優位性を与える商品への付加価値を加える知的能 力の「力」とが混同され、それが「能力主義的」な差としてカウントさ れ、賃金格差が拡大される。しかしそれは能力主義という基準で生まれる ものではない。労働ではなくその知自体に与えられる価格は、その労働が
商品に付加する交換価値とは異なる論理によって「計算(算出)」される ものであり、労働力の価値とは異なるものである。
6)……労働は協同労働(横の労働の協同労働3 3 3 3 3 3 3 3 3 )としての性格を強く帯びている が、個人の個別能力が孤立的に把握され、その労働(者)の知的水準を理 由に、労働力の価値の差が不当に拡大される。多様なレベルの知的な質を 持つ諸労働の協同で成り立つ一つの協同作業の結果生み出された価値(そ の賃金部分)を、その個々の労働にどのように配分するかは、はたして数 値的に自明なことか?例えば、ビル建設場の交通整理労働は、非正規派遣 労働という低賃金に相当する価値をつくり出した労働だと「計算」するこ とは自明か?多くが、労働力市場の需要と供給関係で賃金が決まっている が、それは決して「能力主義」に応じた賃金を実現していない。
7)……現代の労働力の生産力は高度の質をもった固定資本(過去の労働の成果と しての富=資本に組み込まれた高度の知的生産技術体系)との合体で達成 されるものであるという認識が拒否されている(縦の労働の協同3 3 3 3 3 3 3)。高度 な生産技術体系と結合された個人の労働能力は、高度な生産性を実現す る。それは個人の能力の結果として「能力主義」的に判定されるのか。逆 にそういう生産技術体系から排除されるとき、その個人の労働能力は、低 いものに押しとどめられる。この差は単純に個人の「能力主義」的評価に 帰せられないものである。
補足すれば、そもそも、賃金決定については、歴史的にみれば、労働者の権 利を守り実現するたたかい――具体的には労働運動や議会における労働者の権 利実現闘争、等々――によって、その社会的、歴史的水準が決定されてきたと いう歴史的事実がある。たとえ「能力主義」という評価基準が、賃金の格差を 考える一つの基準として適用されてきたとしても、そもそも、一定の生産力を 持った労働に、どれほどの賃金を支払うべきかが、「能力主義」そのものに よって科学的に決定されうるものではない。企業の獲得した利潤のどれだけを 企業と労働とに配分するかという「企業分配率」や「労働配分率」の決定自体 が、高度の政治的なものであるという事実を否定することはできない。しかし そういうことを押し隠して、賃金はあたかも「能力主義」によって決定された 客観性と正当性をもつかに描き出されることが多いのである。